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2015年08月08日

 ■ 「毒虫」

お題:生きている抜け毛 必須要素:ゲロ 制限時間:30分


毒虫


「5%」
 その女は言った。愚かにもこのぼくが慰めを求めようとした女だ。ちょっとした辛いことに出くわしたぼくは、彼女の部屋に逃げ込んだ。愚かで弱弱しい自分を曝け出し、母親が息子にするような甘やかしを要求した。それで彼女は嫌な笑みを浮かべた――嘲りと侮りがいっぱいに籠められた笑みだ。
「ひとの体は原子からできている。C、H、O、N、その他諸々。生命を形作る四つの元素。それらは摂食によって体内に入り、私たちを構成する部品となる。でも有機物は脆い。時間経過によって常に劣化し、それゆえ人体は自分自身の替えパーツを片時も休むことなく製造しつづける……」
「何を言っているんだ」
「今、あなたを構成している原子のうち、3年後にあなたの体に残っているものの割合は、5%らしいよ。残り95%は消えてしまう。二酸化炭素となって吐き出され、アンモニアを経由して尿素となって排出され、あるいは垢が――」
「そんなことはどうでもいい!」
 ぼくは絶叫した。テレビ台の上にのぼり、大きなプラズマディスプレイにしがみついて。
 ぼくの周りを囲んでいたのは、無数の毒虫どもだ。抜け毛の一本一本が百足にかわり、汗の一滴一滴が蛙に変わり、吐息のひとはきが虻になる。彼女はキッチンでそれを冷ややかに見つめ、いつものようにたとえようもなく魅力的な立ち姿を押し出している。
「これは一体どういうことなんだ!」
 彼女は何も言わない。

 ぼくが彼女に泣きついた、その言葉のどれかが癇に障ったということらしい。ぼくはただ、こう言っただけだ。上司は何も分かってない、と。ぼくを歯車のように切り捨てようとしているのだ、と。すると彼女はこう言った。あなたが何も切り捨てていないとでも?
 次の瞬間だ。ぼくの体から、どうしようもない生理的作用というものによって、切り捨てられたものどもが、いっせいに毒虫へと姿を変えて蠢き始めたのは。今や、フローリングには数十匹の黒い40本脚が這いずり回り、赤い背中にブルージーンズを履いたみたいないかにもヤバい色合いの蛙がゲロゲロ言っている。虻はぶんぶんと飛びまわり、すきあらばぼくを突き刺そうと狙っている。
「ぼくが何をしたっていうんだ」
「しいて言えば、何もしなかった」
 彼女は玄関で煙草に火をつけている。
「主に思いやりなどをね」
「でも、どうすればよかったんだ? 髪の毛が抜けるのだって、汗をかくのだって、ぼくにどうこうできる話じゃない。体が勝手にすることなんだ。ぼくという意識は無関係だ。それなのにぼくが罰を受けなきゃいけないのか」
「じゃなくて」
 少し考え込み、単語を選んで、
「復讐」
「なんの……」
「あなたであり続けられなかったことへの」
 そんなの無茶だ。
 いま、彼女自身が言ったことではないか。有機物は脆い。体は、細胞は、自分自身のコピーを四六時中つくりつづけ、それで過去の自分を置き換え続けることによって、生物というシステムを維持している。そうでなければぼくという人間は死ぬ。なのに、ぼくを生かすために切り捨てられた細胞たちが、そのことをうらんで復讐するというのなら、どのみち誰もしあわせになんてなれはしないじゃないか。
「そうよ」
 ぼくの考えを読み取ったかのように、彼女は答えた。
「そういうこと。悲しいよね。でも、わかる? あなたは息を吐く。大量の二酸化炭素が呼気には含まれている。あなたの体細胞だった炭素の成れの果てよ。それはもちろん植物に吸われ、光合成によって、再び有機物にかわる。考えてもごらんなさい、そのとき、あなたはどこにいるの?」

「あなたがいるのは、あなたが立っているそこ?」
「緑の葉を持つ、みずみずしい植物の懐?」
「でなければ……この星を覆う、遍く大気に?」
 ぼくは答えた。
「少なくとも、此処でないどこかがいい」
 彼女は言った。
「それは、無理なことだよ」

THE END.

投稿者 darkcrow : 2015年08月08日 01:19

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