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2012年12月20日

 ■ 「幻炎」

「幻炎」


 早すぎたんだ、サラリーマンになるのが。
 彼は高校を出ていない。初めはちょっとした怠け心。学校を休んだ。数日ばかり。久々に登校する――何も分からない。自分のいない場所でもクラスは数日分確実に前へ進んでいて、自分だけが蚊帳の外。居づらくなった彼は再び欠席した。するたびに周りと自分との隔絶は大きくなっていった。やがて彼は、学校に通うことを辞めた。
 そんないじけ果てた彼がまともに就職できたのは、幸運と、そして多大なる雇用主の寛大あってこそのものだろう。田舎の中小企業でアルバイトからはじめ、働きぶりを認められ、事情を知った社長に声を掛けられ、20の春から正社員に格上げされた。それから10年になる。数知れない躓きを経験しながらも、彼はなんとかここまでやってきた。僅かに自信もついた。まとまったお金もできた。あとは誰かいい人が居れば身を落ち着けて、子供を作って、そして――
 でも、どうしてだろう。
 ようやく順調に進み始めたというのに、あの頃抱いた憧れが、どうして今さら蘇ってくるのだろう。

 彼にとって大学は特別な意味を持つ聖域であった。
 きっとそこでは、みんなが楽しくやっているに違いない。見たこともないもの、味わったこともないものを、煌めく青春の残り火の中で享受していることだろう。でも、彼にはそんなものなかった。燃えさかる炎から逃げ出すように身を隠し、わざわざ寒空に身を晒し、あまりにも早くからサラリーマンをやってきた。苦労した。辛かった。それゆえの楽しみもあった。でも。
 空想の中のキャンパスライフは、いつまでも消えることのない大いなる偶像として、彼の中に居座り続けている。
 悩み抜いた末、彼は決断した。
 大学へ行こう。

 いくつか資料に当たり、彼はかつての大検が今では存在しないことを知った。大学入学資格検定は廃止され、高等学校卒業程度認定試験、高認に移行したのだと。まあ、名前が変わっただけのこと。とにかく8科目、合格すれば大学が受験できる。
 思い立ったのが春。高認は8月と11月の年2回。さほど難しくない試験ではある――高認だけ通っても、大学合格には遠く及ばない程度には。それでも、その高校の勉強についていけず脱落した彼には、途方もない難関であった。そのうえ彼には仕事があった。生きるために、仕事を辞めるわけにもいかなかった。必然、激務の合間を縫っての勉強を続けるしかなかった。
 一日。また一日。買い集めた参考書に、頭を捻り、唸りながら取り組む間に、どんどん自分の体が弱っていくのが分かる。ただでさえ、もう若くはない。かつてのような体力はないのだ。休憩を削り、睡眠を削り、休日を潰して、可能な限り自分を追い込んで――

 8月。夏の暑い盛りに、彼は有給を取った。いよいよ、今日が高認本番なのであった。
 だが――コンディションは最悪だ。
 はっきり言おう。無理のしすぎだ。彼はあまりにも急いで詰め込みすぎた。しかも季節は夏、体力に響く時期であった。まず胃腸がおかしくなった。次に風邪を引いた。最後には原因不明の皮膚病が現れた。それでも彼はバスに乗る。市内の公立高校が試験会場だ。細かいことは、どうでもいい。合否さえこの際なんでもいい。とにかく当たる。そして砕けても、恨み言など決して言わない。そう決意を固め、彼はバスの席に深く身を沈めていた。
「あっきれた。大丈夫?」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、つり革に両手を突っこんで、だらりとぶら下がっているのは、同僚の女性社員であった。なるほど、バスの方向は試験会場と同じだ。同僚と会いもするというもの。
「試験なんだろ、今日」
「ご心配なく。ばっちりだよ」
「ま、この際だから頑張ってこいよ。しかしなんだって、そうまで根詰めるのか、あたしゃ分からんね」
「無くしてしまった――」
 彼は、見つめていた。
 同僚を――ではない。もっとずっと、遥か遠いところを。
「ずっと昔に、無くしてしまった。
 遠くなって、全然思い出せない。一体それが何だったのか、今のぼくには全く見えない。
 なのにそれが存在したことだけは間違いなくて――その、なんだか素敵で大切な物に、ぼくはひどく打ちのめされてる。
 嫌なんだ。やられっぱなしなのは。ぼくが何を得たって届かないものがある。できないことがある。それは分かってる。それでもぼくは――ぼくは嫌なんだ」
 そして彼は、笑う。
「過去に負けたくないんだよ」
 試験の結果がどうだったかは、神のみぞ知る。

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:早すぎたサラリーマン 必須要素:大検 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2012年12月20日 00:29

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