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2006年06月15日

 ■ ネイビーラビット

 俺の名はネイビーラビット。戦場のプロフェッショナルだ。
 今でこそ、家の庭先に置かれたカゴの中でドライフードをかじっている俺だが、これは仮の姿。本来の俺は栄誉ある米国海軍少佐、敵国人の間では「合衆国の白いウサギ」と恐れられた最強の戦士である。
 しかし俺の真の姿を知るものはいない。なにぶん敵の多い身の上だ。東(コミー)のスパイ、イスラム・テラー、あるいは合衆国内部の害虫ども……何時誰に襲われるか知れない日常。それに疲れた俺は平和の国日本へ亡命した。
 この国はまるで楽園のようだった。爽やかな風、暖かな太陽、穏やかな隣人たち。全てが争いに荒んだ俺の心を癒してくれる。しかし一方で、怠惰に緩みきった自分が許せなくもあった。本当にそれでいいのか。今の貴様はただのラビット。海軍将校の誇りを忘れたか? 狩人の本能を取り戻せ!
 自分の中に沸々と沸き上がる感情。そう、俺はネイビー……ネイビーラビットなのだ!
「わぁー! 見て見て、うさぎだ! かっわいぃ~!」
 学校帰りだろうか。制服を着た無垢な少女たちが、歓声を挙げながら俺のカゴに寄ってくる。カゴの隙間から突っ込まれた人差し指を、俺は鼻先でつついてやった。すっかり油断しきって、くすぐったがる女ども。
 ふ……無邪気なものだ。偽りの姿に騙されているとも知らず。だがそれでいい。女に戦場は似合わない。女は何も知らず、ただ無邪気であれ。女を無邪気でいさせることが、戦士の誇り。女に何も知らせぬことが、男の勤め。しかし……
「やーん、もーかわいー……この子連れて帰りた~い」
 すまないな、嬢ちゃん。俺は「女」を作らないことにしているのさ。
 護るべき者はウサギを強くする。だが同時に、護らねばならないものがウサギを弱くもするのだ。そう、奴のように――

 あれは身の凍えるような雪の戦場だった。
 タタタ……タタタタ……と、マシーン・ガンの放つタップ音が遠く響いていた。
 塹壕の壁に背を付け、俺はつかの間の休息を味わっていた。こちらの戦線は見るも無惨に分断され、他の部隊との連絡もままならぬ。敵はじわり、じわりと周辺を掃討しながらこちらに押し寄せてくる。加えて、止む気配も見せないこの雪。隊員の疲労は極限に達しつつあった。いつ敵が姿を見せるともしれない重圧の中で、普段通りの休息を取れるのは、実戦経験の豊富な人間だけ……新人に毛が生えた程度の隊員たちには、酷な注文と言えた。
 交代で見張りを立てて休息を取れと、部隊長の俺が命じたにもかかわらず、誰一人銃を降ろそうとしなかった。ぴんと神経を研ぎ澄まして、マシーン・ガンのタップ音が聞こえる度に、身をびくりと痙攣させる。
「……みんな、休めるときに休んでおけ。それも仕事のうちだ」
 俺の低い声に、部隊でもっとも若いジェリィが反論した。
「無理です、休むなんてできません……サー! なぜならオレの体は、強ばって言うことを聞かないんです。寝転がっても、敵が近づいてくるような気がして、起きあがってしまうんです!」
「なら体を縛り上げてでも休め。死にたくないならな……」
 ふっ、と俺の隣でマイケルが笑った。
「隊長の言うとおりにしようぜ。それが一番いい。僕は……生きて帰らなきゃいけないからな」
 見張りの二人を除く全員の視線がマイケルに向いた。マイケルは懐から取り出した、一枚の写真を見つめ、うっとりと目をとろけさせていた。
 何の写真だ、なんて尋ねるものはいなかった。というのも、この作戦中、耳にタコができるほど、マイケル本人の口から聞かされ続けてきたことだからだ。マイケルには恋人がいた。ほとんどの誇りあるネイビーの恋人がそうであるように、彼女もまた可愛らしく、美人で、優しい娘だった。そしてほとんどの誇りあるネイビーがそうであるように、マイケルもまた、彼女にぞっこんだった。
「この作戦が終わって本国に帰ったら……僕、結婚するんだ」
 マイケルがそう言うと、アーノルドが肩をすくめる。
「ヘイ、マイク。お前がその台詞を何回言ったか、知ってるか?」
「さあ。百万回くらいかい?」
「37回さ!」
 アーノルドは理科系の、バツグンに頭が切れる男で、数字にうるさかった。
 マイケルはにやりと笑う。
「意外に少なかったな。こりゃ、ますます死ねなくなった。結婚式当日までに、この三倍は聞かせてやらなきゃならないからな……」
「へえ。俺たちも結婚式に呼んでくれるんだろうな?」
「来ない奴は首に縄かけて引きずってくさ! もちろん、それが隊長でもね!」
 黙って部下たちの話を聞いていた俺は、ぎゅっ、とライフルを抱きしめるようにしながら、慣れない笑顔を浮かべた。鼻の横で、ヒゲがひくひくと動いていたに違いない。
「ふ……引きずられてはかなわんから、出席しよう。ただし」
 俺の赤い目が、マイケルを横目に捉える。
「パーティで出す料理、ウサギのローストだけは勘弁してくれよ」
 どっ、と雪の中に笑い声が響いた。
 誰もが思い出さされていた、マイケルの写真によって――誰もが故郷に護るべき人を持ち、護らねばならないという思いに駆られているのだった。そのことを思い出した隊員たちは、死ぬわけにはいかない、生き残る、という強い決意を抱いた。
 マイケルは俺にとって最も有能な部下といえた。彼は、写真を見るというたった一つの行動だけで、隊員全ての心を和ませ、緊張を解きほぐしたのだ。
 だがそれも……結局は、無駄なあがきに過ぎなかったのか。
「敵だ!」
 見張りの兵が声を張り上げる。
 次の瞬間、雪原の白が朱に染まった。

 マイケル、アーノルド、ジェリィ、みんな……
 結局俺だけが生き残ってしまった……
「うーん、この子抱いてみたいなあ……でもカゴから出したらまずいかな?」
「まずいよ、逃がしちゃったらどーすんの?」
「そうだよねー……」
 俺は悲しげに空を見上げた。あの雪の日の、白く濁った空はどこにもない。青々とした爽やかな空がそこにあるだけだ。それがせめてもの救いか。マイケル、お前達は今ごろ、あの真っ青な空の中にいるんだろうか。俺はそう信じている……
 と、俺の背後で音を立ててドアが開いた。俺はすぐさま警戒し、背後に油断なく視線を送る。ドアから出てきたのは、ぼさぼさ髪の、若いが冴えない男だった。
「シロ~、そろそろ家ん中に入るかぁ~?」
 俺はシロではない。ネイビーラビットだ。
「あ、あのォー……」
 制服姿の女が、おずおずと男に申し出た。
「この子、抱いてみてもいいですかっ?」
「ああ、いーよ。でも、暴れるから気ィつけてね」
「やったぁー!」
 許可されたとなると女の行動は早かった。プロフェッショナルの俺の隙を突き、さっとカゴの扉をあけて手を突っ込むと、両手で俺を持ち上げ、柔らかな胸の中に抱きしめた。俺は僅かにもがき、苦悶の声を挙げた……
「わあ……シロちゃん、かわいー! やわらかーい!」
「ねーねーあたしにも貸して?」
「やーんふかふかー!」
 よせ! 俺は愛玩動物などではない……戦場のプロフェッショナル、合衆国の白いウサギ、最強の戦士ネイビーラビットだ! 俺に触れるんじゃない。俺と親しくした者は、必ず奴らに狙われることになる。俺は、あんな思いをするのはもうたくさんなのさ……
「やだ、ほんとかわいー! あのォ、明日も来ていーですか?」
 聞け。ウサギの話を。
「うん、いつでもおいで。あ、でも……今、毛が生え替わる季節だから……」
「え? あっ!」
 女は俺をカゴの中に戻すと、制服の胸元を見て悲鳴を挙げた。俺の白い毛が、濃紺の制服にまばらな模様を作っていた。
「あちゃー。家帰ってキレイにしなきゃ……じゃ、明日また来ますね~。シロちゃん、ばいばーい」
 去っていく女達を見送っていると、男がひょいとカゴのそばにしゃがみ込む。
「いいねえシロ。お前、モテモテじゃねーか」
 だから俺はネイビーラビットだっつの。

投稿者 darkcrow : 2006年06月15日 01:45

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