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2006年06月12日

 ■ 相矢倉

『あんた、暇してるでしょ?』
 暇じゃないやい。
 授業ノートを作っているところだったのだ。暇というわけではない。俺は受話器片手に、ノートの上に転がしたシャーペンを、指でぴんと弾いた。電話越しの母の声色からして、やっかいごとを頼んでくるのは目に見えていたのだ。
『将棋の得意なおじいさんがいてね。あんたちょっと、来て相手してもらえないかなあ』
 俺は沈黙した。
 母が勤めているのは、デイサービス・センターというやつである。爺さん婆さんを街中から集めてきて、朝から夕方までの間、介護や看護の資格を持った者の手で世話をする。そういう、福祉施設の一種だ。
 そこに来ている爺さんの一人が、将棋の相手を探しているというわけだった。しかし……
「将棋ねえ」
 はっきりいって、めんどくさい。正直、気は進まない。
 まあ、ただ、しかし。
 俺はぼうっと、俺にしては破格にカラフルなノートを見下ろした。
 少々、疲れ気味ではある。慣れない色遣いなんてものに気を遣うのは。
「分かった、今から行くよ」
 気分転換にはなるだろう。そう考えて、俺は受話器を置いたのだった。

 どことなく保育園を彷彿とさせる広い部屋の隅に、その爺さんは座っていた。紫色のポロシャツを着て、せわしなく新聞をめくり、目当てのページを見つけてはハサミを入れていく。竜王戦の棋譜を切り取っているらしい。そういえば、今は羽生の棋譜が載ってるんだっけ……
 他のじいさんばあさんたちが、なんだかよく分からないボール遊びを楽しそうにしているのを尻目に、ただ一人輪から外れて新聞を切り抜き続ける、紫爺さん。どこにでもいる、偏屈な爺といったところか。
 偏屈ではあるが、少なくとも俺は、あっちでボール遊びをしている人たちよりは、この爺さんのほうが理解できるような気がした。介護士が放つ、NHK教育の体操のおねえさんみたいな、気持ち悪い猫なで声。ルールさえ存在しない謎のボール遊び。突如響き始める、ハッピーバースデーという歌声。
 よしてくれ、体が痒くなる。悪いとは思いつつも、そう感じてしまう。
 たぶん紫爺も、同じ気持ちだろう。
 俺は音もなく紫爺に寄っていくと、彼の少し手前で、急に顔をくしゃくしゃにした。ぎゅっ、と顔面に力を込めて、ふいに放つ。縮められたバネが跳ね上がるように、俺の顔は弾け飛び、その跡に一瞬にして笑顔を作り出す。
 必殺の先生スマイルだ。どんな腹の立つ子供や親を相手にしても、笑顔を絶やしてはならないことがある塾稼業。そもそも笑顔が苦手な俺だから、笑顔の作り方も練習済みというわけである。
「こんにちは!」
 俺は、広げっぱなしの将棋盤を覗き込みながら、紫爺に出来るだけ明るい声をかけた。
 紫爺は老眼鏡の奥で、ぬっ、と冷たい視線を俺に向けてくる。それは警戒の現れでもあり、自分の作業を邪魔されたことへの軽い怒りでもあり、戸惑いでもあり、普段と様子の違う男に声を掛けられたことによる、微かな期待の現れでもあっただろう。俺はそう読んだ。
「おじさん、将棋強いんですって? 噂聞いたんですよ」
「ん」
 紫爺は微かに返事をした。興味を持っている。
「俺、てんで弱くってねえ。良かったら、ちょっと教えて貰えませんか。一局指しながら」
 俺の視線が、物欲しそうに将棋盤に落ちた。半分は演技、半分は本音。正直に言ってゲームは好きだ。「カタン」「ラ・チッタ」「デア・ヘル・デア・リンゲ」「スコットランドヤード」「レス・パブリカ」「マンマミーヤ」「キル・ドクター・ラッキー」、おお、我が愛しの「チャオ・チャオ」! もちろん、「麻雀」も「チェス」も、「将棋」も。
 一局指してみたいという気持ちは、少なからずある。
 そんな気持ちが通じたか、否か。
「やろか」
 紫爺は吐き捨てるように言うと、ぱちん、ぱちん、と音を立てながら駒を並べ始めたのだった。

「片方落としてやるわ」
 独り言のように言うと、紫爺はせっかく並べた飛車を余り駒の箱に放り込んだ。将棋の場合、ハンデを付けるには飛車や角を落とす(=盤上から取り除く)ことが多い。将棋のルールを知る人なら誰でも想像がつくように、飛車角は攻防の要である。それを片方落とすということが、一体どれほど重大なハンデであるか。
 なめやがって。
 ちょっとカチンと来た。若造と思ってナメて貰っては困る。俺は勢いよく角道を開け、戦いの火ぶたを切って落とした。
 十五分後。
「……………」
「どしたんなら」
 にやにやしながら岡山弁でせっつく紫爺に、俺は汗だくの顔を晒していた。
 打つ手がない。
 組み上げた金矢倉の陣は見るも無惨に崩壊し、逆に敵の矢倉は堅牢な姿を保っている。俺は攻め手にも欠け、守りの面でも飛車(中盤で取られた。)に横っ腹をつつかれ、正面からは桂馬と銀の攻撃を受け、もはや瀕死の状態だった。
 くっそお。
 汗をだらだら流しながら、俺は7八玉。
 紫爺は間髪入れずに6九龍。
 詰みだった。
「ま、負けましたぁ……」
 俺は椅子の背もたれに背を投げ出し、悲鳴を挙げた。紫爺は声もなく笑っている。紫爺は想像を遥かに超えて強かった。まあ、俺自身が大して強いわけでもないし、相手も自信があるらしいから、簡単に勝てるとは思っていなかったが……飛車を落として貰ってこのボロ負けはさすがに堪える。
 と。
 紫爺は、何も言わず駒を並べ直し始めた。本当に一言も喋らない。目配せすらしない。ただ、黙々と飛車が欠けた初期配置に駒を並べていく。ぱちん、ぱちん、という音だけが響く。
 それが言葉みたいなもんだった。
 もう一局。
 よかろう。次は一矢報いてくれる。
 俺は鼻息も荒く、手早に駒を並べたのだった。

 二局。三局。
 何度指しても差は縮まらなかった。紫爺はとことん強い。途中、
「おじさん、強いですねえ」
 頭を掻きながら俺は言った。ここまでほとんど言葉を発しなかった紫爺は、やっと盤面から顔を上げ、
「棋譜をよう見て、打ち筋を覚えていったら、強うなるんじゃ」
 昔風の、コテコテの岡山弁で答えた。
「昔はそれで初段も取ったんじゃけえど」
 有段者!
 俺は目を丸くした。将棋の有段者なんていうのは、そうおうお目に掛かるものではない。だいたい地方のプロ・トーナメントにだって、一級の棋士が出場するような世界だ。初段ともなれば、文句なしにプロのレベルである。
 強いはずである。
「頭が半分削れて、打ち筋もみな忘れてしもうた」
 頭が半分削れて?
 俺は手を進めながら、その妙な言い回しに首を傾げた。歳で腕が鈍ってきた、とでもいう意味だろうか。
「じゃあ、ここの人らを相手にして、カンを戻してるんすね」
「あかんわ。相手にならん。両方落としても相手にならんのじゃけえ……」
 寂しそうに、紫爺は言う。
 それもそうか。いかに腕を落としても元が初段の腕前。そのへんの爺さんたちが相手なら、ほとんど無敵だったはずだ。無敵すぎて孤高、か。俺には、ずいぶん贅沢な悩みのようにも思える。
 ぱちん。
 一際高く、紫爺の打った駒が叫ぶ。
 その一手で、俺の手がすくむ。
 盤面のどこを睨んでも、敵の防御は完璧だ。どう切り込んでも、よくて引き分け程度のビジョンしか浮かばない。攻めるに攻められず、かといって敵が攻めてくるのを手をこまねいて待つのも下策……
 俺はすくんだ手で、もっとも安全そうな一手を打っていく。

 三局目が終わり、俺はトイレへと抜け出していた。風景が違って見える。床、壁、戸棚、直線という直線が全て鋭い。指しながら飲んだコーヒーが聞いてきたらしく、頭が異様な速度で回転を始めていたのだった。
 トイレから出た俺は母とばったり出くわした。
「どう?」
「ダメ、全然勝てないね。あの爺さん強いよ」
「そうでしょ。だからいつもつまんなそうで……すぐに、帰る! とか言い出すんだけどね。今日は落ち着いてるわ」
 ふと、俺はさっきから頭をかすめていた疑問を口にした。ここに勤めている母なら、何か知っているだろうと思ったのだ。
「あの人、頭が半分削れて、とか言ってたけど。なんかあったん?」
「ああ、前に事故してね。頭に後遺症が残ってて、しばらくはワケ分かんなくなってたんだけど……だいぶ治ってきてる」
「……それで将棋が弱くなったって?」
「そうなん? そうかもしれんね」
 すうっ、と鼻で息を吸うと、俺は溜息を吐いた。
 そうか、爺さん。

 俺が紫爺の前に戻ったとき、もう盤面には駒が綺麗に並べられていた。四局目。
 俺の陣立ては、相変わらずバカの一つ覚えの金矢倉、居飛車。紫爺もまた、飛車がいないなりに堅固な矢倉。相矢倉相居飛車戦。将棋の基本形であり……力と力の真っ向勝負になる型だ。
 この局に限り、俺の意識は今までと違っていた。
 紫爺の求めていたものが、俺には何となく分かった。
 それは……好敵手、というわけではない。まして、自分にばったばったと薙ぎ倒される雑魚でもない。そんなものに、おそらく紫爺は興味がない。あのプライドの高い紫爺は、そんなもので満足できやしない。
 序盤、互いに陣地を固め、いよいよ攻め手を模索する段階に入ってきた。この段階では双方ともに陣が固く、攻めても甲斐がないのが普通である。今までの俺はそこで手を縮め、自分の駒を失うことを恐れて防戦に回っていた。
 だが。
 角道を開く。角単騎で敵陣に飛び込み、敵の角を奪い取る。当然、俺の角はあっさり敵の銀の餌食となる。
 基本的に、角の交換は先に手を出した方が不利だと言われている。だが俺は敢えて自分から交換に走った。いわばこれは決意表明だった。俺は今回に限り手を縮めない。防御が完璧なのは百も承知。だから、引き分けで上等。こちらの体を切らせる覚悟で敵陣に飛び込み、陣を崩す!
 紫爺の気配が、変わった。
 姿勢が前屈みになり、じっと、盤面に目をこらしている。
 そうだろう。あなたが求めているもの。それは……
 それは、自分自身だ。
 賞賛や勝利も、所詮は二次的なものに過ぎない。紫爺にとっては、ただ過去の自分……段位を取るほどの腕前を持っていた自分自身が、一番の誇りであり、一番のコンプレックスだったのだ。
 年老いた。脳に障害を持ってしまった。そんな理由で、霞が掛かるような高みに見上げるしかなくなった、過去の自分。
 自分がもう昔の自分を追い越せないと感じた時の、あの空しさ……悔しさ。
 半ば無駄とは知りつつも、それでも求めざるを得ない。強烈なコンプレックス――
 そう、無駄だ。
 過去の自分は、もう二度と今の自分には戻ってこない。なぜなら、それは過去のもの……幻想の中にしか存在しないものだから。人がどれほど褒めてくれようと、決して満足はできない。ただ、こう思うだけだ。違う……はずだ。もっと俺は凄かったはずだ。過去の自分はこの程度ではなかったはずだ!
 ただ、僅かなりとも幻想の境地に近づく方法があるとすれば、それは一つしかあるまい。
「王手です」
 真剣勝負だ。
 軽快に手を進めていた紫爺の手が止まる。
 初めて見せた長考。俺は不器用ながらも敵陣を攻め続け、紫爺の矢倉に大きなほころびを作っていた。正面、3三に穴が一つ。そして矢倉の弱点、側面を狙う龍。この二つに手元の銀と桂馬を合わせ、王を狙っていく。
 だが、こちらの状況も決して良くはない。紫爺の尖兵たちに攻め入られ、既に俺の矢倉はズタズタに分断されている。いわゆる「必至」という状況である。俺の王手が途切れたら、次の一手で詰みをかけられる。
 こっちも、もう後がない。
 数ある候補の中から、紫爺は逃げを選択。
 すかさず追いすがる俺。
「王手です」
 そして沈黙。
 相手が考え込む間、俺も脳をぐるぐると巡らせていた。俺の脳内には、まだ詰めまで至るビジョンが無かった。この手駒とこの配置で、詰めにできるものなのか。額に浮かぶ汗。無数の選択肢をシミュレートしては、崩していく。そんな思考を繰り返す。
 だが俺に十分な時間は与えられなかった。
 紫爺、角取り。
 俺の手は……3三銀打か、同じく桂成……
 思考の末、桂成。
「王手です」
 三度。
 紫爺、同金。
 4二銀打。王手。
 1二王。
 ……。
 だはっ。
 俺は胸に詰まった息を吐き出した。
「負けました!」
 俺は一局目と同じように、椅子の背もたれに背を投げ出した。
 紫爺は疲れた様子で、細く長く息を吐いた。その瞬間を見計らっていたのだろうか。介護士が風のように歩み寄り、紫爺の頭の横で大きな声を張り上げた。
「もうそろそろ帰る時間ですからー、行きましょうかあー」
「ん。もうそんな時間か」
 紫爺は腕時計を見下ろすと、いそいそと駒を片付け始めた。俺もそれを手伝いながら、紫爺を正面から見つめ、
「ありがとうございました。また今度お願いします」
「ん」
 相変わらず、紫爺はそっけない。
 最後のはもう少しだったんだが、やっぱりダメだった。結局、四戦四敗。しかも、飛車を落として貰って、だ。情けないことこの上ない。
 しかし、勝負らしいものの息吹は感じられた気がする。
 床を踏み割りそうな勢いで去っていく紫爺を見送りながら、俺は、切り抜きが中途半端なまま放置された新聞の束を、そっと棚に片付けた。

(終)

か……書き上がったと思ったら4時かよ……

投稿者 darkcrow : 2006年06月12日 04:09

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