"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A06/The Sword of Wish


 遠い秋空は澄み渡り、黒も白もない、どこまでも青。
 彼方――太陽の反対側、小さな点としか見えぬ遥か遠方から、飛来する何かがあった。
 初めは滲んだ染みのようであったそれは、見る間に大きく、鮮明になり、その流線型を現す。鮫。悠然と巨体をくねらし、真っ直ぐに泳ぎ来る、何の変哲もない鮫。ただそれが泳いでいるのは暗く淀んだ海の深淵ではない。万物の頭上に横たわる、この広大な青空なのであった。
 鮫がとある森の上空にさしかかった頃、鮫から離れて落下する二つの小さな影があった。下へ、下へ、風に煽られ若干の曲線を描きながら、影は落ちていく。と、不意に落下速度が緩んだ。まるで鳥が翼を広げたかのように、二つの影はふわりと森の中に舞い降りる。
 人。
 ――否。人の如き姿をした、何か。

 全身汗になってようやく運び出した発掘品に、しかし後始末人エリクスは顔をしかめる。近づいてきた壮年の騎士――今回の協力者、国軍の小隊を率いる隊長どのだ――は、口ひげを撫でながら、興味深げにムシロに広げた発掘品を覗き込んだ。
「どうだね?」
「だいぶ古いっすね……帝国初期と見ていいです。この調子じゃ、一体何が眠ってるやら」
 戦々恐々、エリクスは立ち上がった。50人近い国軍の兵たちは、見張りに、人夫代わりに、忙しく働いてくれている。彼らの協力は不可欠だった。森の奥深く、大雨で土砂崩れを起こした山肌から、偶然見つかった遺跡の入口。エリクスたちが知らせを受けて駆けつけたとき、まだ入口は七割がた土に埋まっていた。石とも金属ともコンクリートともつかない謎の素材でできた壁と床。壁一面に描かれた謎の紋様。全てが謎――即ち、どれほどの脅威となるやも知れない遺跡。国軍に協力を仰ぎ、興味本位の一般人やら、盗掘目当ての山師やらを追い払ってもらわなければ、危なっかしくて発掘どころではなかった。
 しかし、年代が古い。古すぎる。危険な遺跡かもしれない――後始末人協会が想定している以上に、だ。
「鬼が出るか蛇が出るか、てか」
「ま、慎重に行きましょう」
 隊長は頷いて、辺りの兵たちに声を張り上げる。
「今日はあがりだ、おつかれさん! 誰か、中のに伝えてこい」

「おれが心配してるのは」
 エリクスは発掘品の片付けを進めながら、声をひそめた。サッフィーが大きな目を瞬かせながら、じっとこっちの顔を覗き込むように見つめてくる。その距離が思いの外近いことにエリクスはどぎまぎする。彼女はどうにも目が悪いものだから。
「情報が漏れてやしないかってことだ」
「どこから?」
「ここ、猟師が見つけたんだろ?」
 ああ、と納得の溜息を吐いて、サッフィーは発掘品の木箱に封をする。
「口止め、してるでしょ」
「口封じはしてない」
「ちょっと、ちょっと」
「いやあ、そういうとこがウチの甘さだとは思うぜ。まあ現実、そんな対応できるわきゃないし、してほしくもないけどさ。裏を返せば、情報は漏れてるもんだと思って動かなきゃならん、ということでもあるわけだ」
「仮に漏れたとして、誰がこんな遺跡狙ってくるっていうの?」
「そうだな、例えば――」
 と。
 思わず、エリクスは言葉を切った。
 異様な何かが冷気と共に辺りを吹き抜けた気がした。屈めていた身を起こし、辺りを見回す。崩れて露わになった山肌。数名の兵士に守られている遺跡の入口。その手前に、木を切り倒して作ったちょっとした広場がある。そこに幾つものテントと篝火が並び、野営の陣を構築している。行き交う兵たち、積まれた木箱と樽。向こうの方では、年の近い兵士と楽しそうに話し込んでるウチの若い衆、ハンス――仕事しろバカ。
 その向こう。
 エリクスは眼を細めた。
 森の木々の中から、ゆっくりと、野営の陣に近寄ってくる二つの人影があった。ちょうどハンスの立っている向こうに――ほどなくして、人影が篝火の光にさらされる。その異様ないでたちに、エリクスの反応が一瞬遅れた。
 一人は、術士ふうのゆったりした法衣を纏った男。ただし、首から上は巨大なネズミの頭部。神経質に髭と耳をぴくつかせ、丸く黒々した目で挙動不審に辺りを見回している。
 もう一人は、剣術遣いだろうか。左右の腰に一本ずつの直剣を差し、黒ずんだ僧服のようなものを着た――おそらく、女。少なくとも体つきは若い女のそれだ。推測しかできない理由は単純。顔は仮面に覆われていたからだ。
 不気味に笑う、道化の仮面に。

「ぶっとばしていい? ねえぶっとばしていい?」
 ネズミ頭がケタケタと笑いながら奇妙に甲高い声で言う。
「退いて居れ」
 道化は、涼やかな女の声で答えた。
「――儂が殺る」

 エリクスが我に返ったのはその時だった。
「逃げろハンス! 敵だ!!」
 ――瞬間。

 滴が落ちる。
 もはや三つを除いて、動く者のなくなった空間に。
 エリクスの血が滴る音が、篝火の揺らめきの中、異様な静けさに波紋を描くように響き渡った。
 おそらくもう、勝ち目はない。
 エリクスは、愛剣を杖にしてようやく立っているのだ。息は荒い。片目は血で塞がれた。脚の感覚がほとんどない。手に力が入らない。それから多分、肋が何本かいっている。
 バカだなあ、とエリクスは冷静に考えた。さっさと逃げればいいのに。なぜ、勝ち目がないと思いながら、こうして遺跡の入口に陣取っているのだろう。何事も命あっての物種だ。命は大事なのだ。
 命は大事なんだよ。
 口で言うより。言葉にするより。ずっと。
 ハンス。サッフィー。名前も知らない50人の兵士たち。
 無造作に――塵のように――切り捨てられた命の残骸を踏みしだいて、ぺちゃくちゃと他愛もないおしゃべりをしながら、無造作に歩み来る2人の敵。
 バカだなあ。バカなことしてる。
「ふざけるな……」
 自覚しながら、それでもエリクスは叫ばずにいられなかった。
「お前たちだけは、絶対にここを通……!」
 エリクスは死んだ。
 どうということもない。道化はただ、おおざっぱに間合いを詰め、すれ違っただけだ。すれ違いざまに抜きはなった剣は、エリクスの胴を半ば以上まで切り裂き、切ったかと思えばもう鞘の中に収まっている。脂や血がついた剣をそのまま鞘に収めてはいけない? 刃が錆び付いてしまう? 心配御無用。充分に剣速があれば、刃には血の一滴さえ付くことはない。
「ねねね、ねーねー。その人今、なんかゆってたよ、シーファちゃん」
「左様か?」
 ネズミ頭に指摘され、道化は――シーファは足を止めた。後ろを振り返り、少しの間考え込むように押し黙って、やがて、不思議そうにこう問うた。
「――して、人とは一体何れだ?」



勇者の後始末人

“邂逅”




 空は桟橋にしがみついて覗き込む海面の色だった。
 曇り気味の天気は5人、赤々と晴れ渡り、風が昼かに吹いていく。50の夜はどこまでも緑で、夕日には夜通し辟易するばかり。1人、じっとそこに立ち尽くす。そして見上げれば、空はそうだった――人々もまたそうだった。
 そこに何故かヴィッシュもいて、空から様子を見下ろしていたのが、自分も人だかりは、人垣に囲まれた中央。黒々と山のようなもの――竜の死骸だ――が転がって、その上にヴィッシュは立った。無数の目。無数の目。無数の目。押し潰されるような気がして、なんか話そう、と思うのだけど、押し潰されるような気がしてそればかりが気がかりだ。無数の目。
「竜といったって対策を練ればこんなもんさ」
 得意気に見せて、ヴィッシュは語る。だが確信があったわけでも、そう言うべきだという確信は初めからあった。
「魔王軍が戦線を広げた今がチャンスだ。街道沿いを一掃するのも不可能じゃない」
 だんだんはっきりしてきた世界は、竜の死骸は、すばらしい即席の壇だ。一個中隊50名余、自分の部隊にして舞台、そのほとんどが若者だ。戦乱がベテランを殺す。若造が繰り上がる。そして戦乱がまた殺す、と。そんな法則のただ中にあって無邪気に戦えるのは、ひとえに自分だけは死なないと思えばこそ。
 子供みたいな皆の視線が一点に集まる。それに応えて声を張り上げるヴィッシュはガキ大将。ガラではないけど。
「やるぞ! 俺たちが新しい“竜殺しの英雄”になるんだ!」
 歓声が沸き起こった。声は一つに絡まりあって。
 前へ。前へ。
 上へ。上へ。
 ヴィッシュは下を見た。相棒が――ズダムがそこにいて、にやりと笑いながら親指を立てている。いつだって2人でやってきた。これからも2人でやっていく。いや、この50人でやっていくんだ。
 勝てないものなどあるものか。
 屈託なくそう信じるヴィッシュに、ズダムは笑顔のまま言った。
「そうやって、お前はおれたちを殺したのさ」

 かはっ。
 ヴィッシュは苦しげに息の塊を吐きながら目覚めた。
 額に浮かぶ脂汗。火照る体。心地よい朝の寒気。木窓の隙間から差し込む朝日が、天井を青白く染めている。その木目をただただ見上げ、徐々に息を整えて、体の火照りを収めていく。ここはどこだ? 問いかけに答えるものはない。俺は誰だ? 何かが答えた――ヴィッシュ、と。
 ――それで、どこへ行こうと言うんだ?
 混濁した意識が覚醒し、体温が下がっていく。汗の感触がたまらなくヴィッシュを悩ませる。べったりと湿った服。訳の分からない不条理な夢の残滓。気色悪い。ベッドは木板と藁とシーツだけで組まれた簡単なものだが、確かに保温効果は良い。秋口のこの季節なら、少々暑いくらいではある。
 とはいっても、この汗は異常だ。
 大きく息を吸い、吐く。
 ――またかよ。
 ヴィッシュは胸の痛みを堪える。
 また、夢を見たのだ。嫌な夢。いつもの夢。10年前の記憶を極めて恣意的に歪めてできた夢。ずっとこれに苦しめられ、内臓をやられ、死んだ方がましだと思う時期もあった。だが時が過ぎ、傷は徐々に癒え――あるいは自らの手で覆い隠すことに成功し、もう何年も、この夢を見ることはなかったのだ。
 なのに、どうして今さら。
 考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、肺を鷲づかみにするような重圧は増すばかり。苦しい――余りにも苦しい。まるで、重い何かが体の上にのしかかり、胸を押し潰してでもいるような――
「すぴょー……ょょ」
「ねむねむ……。」
 ……………。
 寝息を立てる何かが、ヴィッシュの胸に2段重ねで乗っかっていた。
「お前らかぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!!」
 絶叫しながらヴィッシュは2人をはね除けた。シャツ一枚で半裸の緋女と、レースのネグリジェ姿のカジュがころりとベッドから転がり落ちる。それでもカジュは起きる気配すらなく床に大の字。辛うじて緋女だけが目を擦りながらむにゃむにゃと、
「あー、ごめーん……」
「ごめんで済むか! どーして人の上に乗っかってんだよっ!」
「なんかー? ちょと、寝相でー」
「そんな寝相があるかぁっ!」
「そんな寝相はねーぞう、なんつって」

 緋女が部屋から蹴り出されたのは言うまでもない。

「熊?」
 寝椅子にぐったりと座り込んだヴィッシュが、ボンヤリ聞き返すと、
「隈。」
 向かいに腰を下ろしたカジュが、目の下を指しながら答える。
「熊型の魔獣か」
「違うって。目が死んでるよ。」
「お前に言われたくねえ」
 溜息吐いて、ヴィッシュは軽く眉間を揉んだ。早朝の緋女たちの乱入のせいで、ヴィッシュは大変に寝不足である。よくよく話を聞いてみると、トイレに立ち、戻ってきたとき、寝ぼけて部屋を間違えたんだそうだが……迷惑なことこの上ない。若い者と違って、歳を取ると寝不足は堪えるのだ。
 今日はこれといって仕事が入っていない。とはいえ、そんな日もやるべきことは山積みだ。普段なかなかできない鎧やマントの手入れ。煙幕弾や閃光弾等々、各種小道具の準備。冬に向けて保存食作りもしなければならないし、消耗品の補充も必要だ。仕事がないならないなりに忙しいものである。
 まあつまり、欠伸交じりにマントを繕っていれば、そりゃあ指を刺しもする。
 血が玉になった親指を舐めながら見れば、カジュも裁縫仕事に悪戦苦闘している。どうやら冬服の白いローブを引っ張り出してきて、フードの所に何か三角形の布を縫いつけているようだ。
「それ、何を縫ってんだ?」
「ねこみみ。」
「……………」
「実用性に優れる。」
「わかった、わかった」
 欠伸をもう一発。気合いを入れ直して繕い物に集中しようとしたそのタイミングで、バタバタとけたたましい足音が階段を駆け下りてきた。そちらに顔を向けもせず、ヴィッシュはただ顔をしかめる。ひょいと居間に顔を覗かせたのはもちろん、ウチのお緋女さまだ。
「ねーねー、あたしのナイフ知んない?」
「知らねえよ。自分の物くらい自分で管理しろ」
「うっせーな。オカンかオメーは、っつー」
 緋女の足音が台所に消えていき、ひとしきりガチャガチャとやらかして、再び戻ってくる。
「ねー、柄が赤いやつなんだけど」
「だあああああああっ! 裏だよ裏、薪雑把ンとこ! 昨日お前、あのへんで何かやってたろ!? そのまま放置してんだよっ!」
「何だよ知ってんじゃん。最初っから教えろよケチ! ロバ! ハゲ!」
「だ……誰がハゲだあっ!?」
 怒り心頭、繕い物を放って立ち上がったヴィッシュに、しかし緋女は冷静沈着。
「いや、実際けっこうキてるけど?」
 ――なっ……!?
 ヴィッシュの脳髄に走る衝撃。悪寒が体を駆けめぐり、脂汗が吹き出してくる。弾かれたように振り返り、助けを求めてカジュに視線を送る。カジュは素早く両手の指を交差させ、口許に×印を作ると、
「ノーコメ。」
「!?」
「ふっ……あたしの勝ちだな」
「いいやまだだ! いいか緋女、自分じゃ気付いてないだろうが……
 お前、めちゃくちゃイビキがでかいんだぞっ!」
 ずがしゃあああああぁぁああぁっ!
 雷光の如き一撃が緋女の胸を貫いた。あまりのことに、緋女はよろめき、倒れかけ、壁にもたれかかってようやく踏みとどまる。膝が震える。指が戦慄く。唇がカラカラに乾いている。目元に涙を浮かべ、それでも緋女は必死に抵抗する。
「ちがっ……乙女になんつーこと言うんだてめーは! あたしイビキなんかしないもん!! な!?」
 同意を求めてカジュに目を遣るが、しかしカジュは懐から二つの小さな布の塊を取り出して、
「耳栓常備。」
「下の階まで聞こえるんだこれが……」
「ん……んが―――――ッ!!」
「どわあああああっ!? やめろっ、落ち着け緋女! 真剣はまずい!」
「ああっ。緋女ちゃんが、緋女ちゃんが今、ヴィッシュくんを投げ飛ばしました。すごい力です。これは戦いではありません。破壊です。蹂躙です。一方的暴力です。そして今……。あっ、やべ、いやん、これ、ちょと実況できんわー。」
「見てないで助けろおおおおぉぉぉっ!」

「みなさんこんにちは! 毎度おなじみ、コバヤシがやって参り……おや」
 威勢良くドアを開けたコバヤシが目撃したのは、ちょうど、押し倒しされたヴィッシュに緋女が馬乗りになっている場面であった。汗だくでもつれあう2人、それを興味津々に観察しているカジュ。コバヤシは目を瞬かせ、
「これは失礼。お楽しみのところを」
『違ぁ――――うっ!!』
「息ぴったりじゃん。」
 見事に声を合わせた2人に、カジュは氷のように突っこんだのだった。

 緋女はふて腐れて屋根裏部屋に引っ込み、カジュも裁縫道具を抱えてそれに付いていった。ようやく居間は静かになり、ヴィッシュはほっと一息吐く。緋女たちと話してるより、コバヤシと仕事の話をするほうがよっぽど楽というものだ。全く。
「いや、上手くやっておられるようで、安心しましたよ」
 そんなヴィッシュの内心を知ってか知らずか、コバヤシはいつもの営業スマイルで言う。
「……上手いもんか」
「そう見えますけどね」
「めんどくさいわ、煩わしいわ、小うるさいわ、ろくでもねえよ」
「ですが、あの2人はあなたを信頼してるでしょう?」
 信頼。何か胸にチクリと走る痛みがあって、ヴィッシュは思わず視線を逸らした。何気ない言葉が、黒い煙のようにわだかまって、胸の中から溢れようとしているようだ。コバヤシは困り顔で――無論彼のことだ、困っているという印象を与えるべくして与えているのだろうが――頭を掻く。
「この仕事は、あなたがた3人でないと、と思っていたんですがねえ」
「仕事はするさ。今度は何が出た?」
「分かりません。それを調べて欲しいのです」
 コバヤシは持参した地図を机に広げた。第2ベンズバレン周辺を描いた地図。コバヤシの指は、この街から徒歩で半日ほどの距離にある森の中を指す。
「実は先月、森の中に遺跡が見つかりました。恐らくは、古代魔導帝国の」
「初耳だな」
「言ってませんからね」
 古代魔導帝国。それは、今から五千年以上前に建国され、以来四千年余りに渡って世界全てを支配続けた巨大国家である。その支配階級は、類い希なる魔術の才能を持った種族――つまり魔族であった。
 帝国の技術は現代の人間が持ちうるそれを、遥かに上回っていたという。しかし千年ほど前から魔法の力は急速に衰え、それに伴って人間が各地で決起し、数百年に及ぶ戦乱の末、ついに魔導帝国は滅びた。
 その遺跡には、当時の超技術の結晶が眠っていることがある。恐ろしい怪物、何が起きるか分からない道具、その他諸々の全く想像も付かない何か。上手く用いれば素晴らしい利益ももたらしうるのだろうが、いずれにせよ、危険極まりない遺物であることに変わりはない。
「調査隊を送ったんですよ。うちから詳しいのを3名、国軍から兵を50名ばかり。もちろん術士もいましたんで、《遠話》で連絡を取っていたんですが――昨日夕方の定時連絡を最後に音信不通になりました。なにかとんでもないものを掘り出してしまったのか、あるいは――」
「誰かとんでもないのが襲ってきたか」
「――というわけです。いずれにせよ、放置できません。依頼内容は、遺跡の調査、調査隊の安否確認です。お願いできますか?」
「もし、音信不通の原因を解決できそうなら?」
「完全に解決してもらえるなら、ボーナスを出しましょう。しかし無理はしないでくださいね。これ以上戦力を失うわけにはいきません」
 ――戦力、か。
 ヴィッシュの脳裏に、緋女とカジュの顔が浮かんだ。
 戦力。そう。戦力と、割り切ってしまえればどれほど楽か。
「引き受けていただけませんか?」
 ヴィッシュの沈黙を迷いとみたか、コバヤシが不安そうに問う。違う。不安なのはヴィッシュ自身の方だ。もやつく心を振り払うように、敢えてゆっくりと、力を込めて、机に差し出された前金の袋を掴み取る。
「言っただろ。仕事はするさ」
 まるで自分に言い聞かせているかのように。
「仕事はする」

 あれがもう、10年も前の事になるのか――
 その日、ヴィッシュは緊張していた。策は練った。情報も充分に集めた。部下たちの練度も申し分ない。仕掛けは上々、細工は流々、あとは仕上げをご覧じろ、いうところだ。なのに出撃を目前に控え、ヴィッシュは――
 恥ずかしながら、膝の震えが止まらない。
「よう。なにビビってんだよ、大将」
 とっくに誰もいなくなった兵舎の中、一人、椅子に腰掛け居残っていたヴィッシュに、背中から声が掛けられた。びっくりして、振り返る。にやりと笑う奴がいる。いつだって余裕綽々の副長、ナダムが。
「俺は……」
「準備はしたろ? いつもと何が違う? 少々大がかりってだけだ」
「分かってる」
 ナダムには、ヴィッシュにないものがある。度胸だ。
 どんなに恐るべき敵と相対しても、ナダムは決して怯まない。無謀に突っこんでいく訳ではない。とにかく冷静――いや、「いつもどおり」なのだ。ヴィッシュにはそれが羨ましかった。彼には心に芯がある。どれほど状況に振り回されても微動だにしない軸がある。だから恐れがない。怯えもない。少なくとも、ないように見える。
 正直に言って、ヴィッシュより遥かに隊長に向いている、と思う。
 なのになぜか、彼は年下でキャリアも浅いヴィッシュを推した。魔王が襲ってくる少し前、中隊長への抜擢を辞退し、代わりにヴィッシュを推薦したのである。勝手なもんだ、と思った。何しろ推薦するとき、当のヴィッシュには確認ひとつしやがらなかったのだ。おかげで、彼が事態を知ったのは、もう拝命式の日程まで決まって、引くに引けない状態になった後のことだった。そのことについて文句を付けると、ナダムはあっけらかんとこう答えた。「切羽詰まらせないと迷うだろ? お前」と。
 それ以来、ナダムはずっと、副官としてヴィッシュの傍らにいる。
「なあ、ヴィッシュ。自分で言うのもなんだが、おれはこう、いい加減な男でな」
「知ってる」
「コノヤロウ……」
「自分で言っててなんで怒るんだよ!」
「自分で言うのはいいんだよ!」
「なるほど……」
「分かりゃいいんだ。でな、いい加減なもんで、おれは理屈屋なんだよな」
「それのどこがいい加減なんだ? 客観的に分析し、論理的に思考し、合理的に行動する。立派なもんじゃないか」
「おれもそう思う」
「自分で言うか」
「事実だからな! ともかく、合理的ってことは、理屈が退けといえば退くってことだ。おれにはそういう考え方が染みついてるし、それはおれの最大の武器なわけだが――同時に、限界でもある」
 腹の立つ言い回し。何でもかんでも、裏の裏まで見据えてござる、という調子。そしてそれが事実だから余計に腹が立つ。腹が立つが、しかし、いや、だからこそ、ヴィッシュは彼の話につい耳を傾けてしまう。
「ヴィッシュ。お前は、いざというときに理屈を捨てて、自分自身を信じられる男だ」
「何……」
「もちろん、合理や論理を否定してるわけじゃない。お前も基本的には思考を武器にしてる。でも、ここしかない、この瞬間しかない、っていう勝敗の分岐点で、お前は自分の中にある論理以外のなにものかに躊躇なく身を委ねることができる。
 それはひょっとしたら、とんでもなく危険なことなのかもしれない。少なくとも安定性とか安全性には欠ける。だがおれはこう思う。
 魔王が襲ってきて、人間が滅亡するかどうかの瀬戸際にいるこの時代、必要なのは、お前みたいな奴なんじゃないか――てな」
 しばらくの沈黙の後、ヴィッシュは立ち上がった。
 不思議と、膝の震えは止まっていた。
「どうでありますか、隊長どの! 隊長どののココは、なんて言っておられますか!」
 びしっ、と直立不動の姿勢を取り、ナダムがどん、と拳で胸を叩く。
 ヴィッシュの目に、もう迷いはなかった。
「出撃だ!」

「おいこら」
 びくり。
 弾かれたように肩を震わせ、ようやくヴィッシュは我に返った。
 気が付けば、日は南の空にかかっている。強くなってきた海風が頬を撫でていく。ヴィッシュが呆けている間も律儀に走り続けていた馬は、もう随分息を切らしてしまっている。苦しげに喘ぐ馬の首を撫で、速度を緩めてやる。
 大きく胸に息を吸い、肺に溜まった靄を、丸ごと交換するように吐き下す。
 そうだ――コバヤシの依頼を受けたヴィッシュたちは、すぐさま2頭の馬を立て、遺跡に向けて出発したのだった。片方の馬にはヴィッシュ、もう一方には緋女と、その背中にしがみつくカジュ。どうやら移動中、昔のことを思い出していたようだ。
 楽しい記憶。かけがえのないもの。
 なのにその思い出は、いつも体を引き裂かれるような痛みと一緒に蘇ってくる――
 ヴィッシュは、併走する緋女に疲れた無表情を向けた。
「なんだ」
「なんだじゃねーだろ。呼んでも返事しねえしさ」
「すまん、聞こえなかった」
「あのさあ」
 なぜかそっぽを向いて、緋女が問う。
「お前、朝から何を塞ぎ込んでんだよ」
「そうかな……」
「どーでもいいけど、メーワクなんだよ。目の前で暗くされるとさ」
「意訳:様子がおかしいからちょっと心配です。」
 ぶっきらぼうに言い放つ緋女の後ろで、その背にしがみついたカジュがぼそりと補足する。
「……別に悩むのは好きにしたらいいけど、足手まといになられちゃ困るし」
「意訳:悩み事は置いといて目の前のことに集中してみたら。」
「黙ってないでなんとか言えよ」
「意訳:話したいなら愚痴に付き合うくらいするよ。」
「カぁジュっ!!」
「何か。」
「さっきから何のつもりだよっ!」
「緋女ちゃん専用外付け翻訳装置のつもり。」
「あんたってやつは……」
 緋女は気恥ずかしげに頭を掻き、馬の腹を蹴ってスピードを上げる。2人を乗せた馬が前に行ってしまう。追い抜きざまに、カジュが悪戯な笑顔をこちらへ向けた。思わずヴィッシュは苦笑する。笑っている。
 笑えてしまっている。
 あの時と同じように。
 と。
 緋女が唐突に馬を止めた。追突しそうになり、慌ててヴィッシュも手綱を引く。
「なんだ、どうした?」
「臭う……」
「何が?」
 ひらりと馬を降りた緋女の額には、うっすらと、汗が滲んでいた。
「血」

 地獄――と表現するのが、その場所に最も相応しかろう。
 辿り着いた遺跡の入口には、目を背けたくなるほどの惨状が広がっていた。調査隊の野営の後。テントは虚しく風にはためき、いくつかは完全に倒壊している。篝火は燃え尽き、虚しく立ち並ぶのみ。その周辺を、所狭しと埋め尽くす、死体、死体――死体。
 ざっと見たところ、4、50名分はある。コバヤシから聞いていた調査隊の人数とも一致する。何名か辛うじて逃げ延びた者もいるかも知れないが、おそらくは、全滅。季節は秋にさしかかったとはいえ、日中はまだ暑い。死体はすでに腐敗を始めており、辺りには吐き気を催すような腐臭が漂っていた。
 犬に変身した緋女は、入念に匂いを嗅ぎながら、死体を一つ一つ見て回っているようだった。カジュはといえば、猫耳飾りのついた可愛らしいフードの奥で、それに似つかわしくない凍て付くような目をして、辺りを見回すのみ。と、ヴィッシュは死体の中に、見覚えのある顔を見つけた。
「ハンス!」
 名を呼んで駆けよるが、返事などあろうはずもない。何度か顔を合わせたことがある。後始末人仲間、この稼業を始めたばかりの若者であった。即死だ。肩口から腹辺りまでを一撃で切り裂かれ、剣を抜く間もなく息絶えたと見える。
 彼がいるということは、他にも――見つけた。少し離れたところに、身軽な革鎧姿の女術士の亡骸。サッフィー。さらに、崖崩れでできた露頭、その中程にぽっかりと口を開けた遺跡の入口。そこを守るように――おそらくは事実守ろうとして――倒れた、傷だらけの後始末人。エリクスだ。
「くそっ……」
 エリクスの死体の側に、ただ茫然と立ち尽くし、ヴィッシュは悪態を吐くしかなかった。その後をついて回っていたカジュが、恐ろしく平坦な声を挙げる。
「ひどいもんだね。」
 感情の感じられない棒読みはいつものことだが、いつにも増して抑揚のない声であった。あるいはそれが、彼女なりの感情の表れなのかもしれないが。
「大丈夫か?」
「ご心配なく、死体なんて見慣れてるよ。一体何があったのかな。」
「全員刀傷……魔獣の類じゃねえ。軍隊でも襲ってきたってのか?」
「いや、一人だぜ、これ」
 緋女が人間に変身し、顔をしかめながら寄ってきた。彼女の嗅覚は、人間モードでもなお、常人より遥かに優れている。ヴィッシュにも少々辛い腐臭である。彼女にはなおさら耐え難かろう。
「一人?」
「二人だけど、片方は見てただけだな。そんな匂いがする」
 馬鹿な。この人数をたった一人で殺した? そんなことができるわけがない。
 そう思う一方で、緋女の鼻に対する信頼もあった。チームを組んでからというもの、緋女の嗅覚が的はずれだったことは一度たりともない。自分の中のつまらない常識と、仲間が自信を持って断言する調査結果なら、ヴィッシュは迷うことなく後者を信じる。
 そして緋女の言うことが本当だとすると、相手は恐ろしいまでの達人。
 瞬間、コバヤシの言葉が脳裏を過ぎった。これ以上戦力を失うわけには――
 戦力を、失う。
 じっとりとした脂汗が、ヴィッシュの額に浮かんでくる。
「で、どうするの。」
「……このまま帰ったんじゃ仕事にならん」
 それは自分を奮い立たせるための言葉であった。本当は、これ以上踏み込みたくなどなかった。今すぐにも街に引き返して、コバヤシに相談して善後策を練りたかった。無茶苦茶だ。相手が悪すぎる。
 だが、ここで逃げ帰ることは今回の仕事をふいにする以上の悪い影響を後にもたらす。緋女とカジュは、仕事を達成する努力すら放棄して逃げる男など、これから先信用しないだろう。そうなればチームは崩壊だ。
「進むぞ。慎重にな」
 指示は出した。だが、そこに迷いがなかったと言い切れようか。

 暗闇の中、折れて砕けた柱の残骸に腰を下ろし、シーファは携帯食料の紙包みを開く。固く焼いた棒状のビスケットだ。道化の仮面を片手で少し浮かし、その下から携帯食料を差し込み、歯で少しずつ削り取るようにして囓る。これといって味はない。小麦粉を満足に練りもせず固めたような、ぱさついた舌触りを、義務的に喉の奥に押し込むのみ。
 と、シーファの頭がぴくりと動いた。ビスケットの残りを一気に口に放り込み、仮面をかぶり直して、立ち上がる。
「何か来た」
 闇の奥にあぐらを掻いていたネズミ頭が、こちらに顔を向ける。これが、この部屋に入って以来丸1日の間に、初めて2人の間で交わされたコミュニケーションだった。お互い喋る暇もなかったのだ。ネズミ頭は魔導装置をいじって遊ぶのに忙しかったし、シーファの方は暇つぶしの方法を考えるのに手一杯だった。
「敵かなー? 何人?」
「2、3人と云った処だ。其れ以上は判らぬ」
「じゃ、協会の探りかなー? そうかなー? そうだなー」
「位置を調べろよ、魔法遣い」
 シーファが命じると、ネズミ頭ははしゃいで飛び上がった。黒々としたネズミの目を輝かせ、長い髭をひくひく震わせながら、
「あ、殺っちゃう? 殺る?」
「協会が本腰を入れる迄の時間が、少しでも稼げよう」
「ちっちっち。だーめだよシーファちゃん、そんなのどーでもいーって思ってるくせにぃ。本音はー?」
 軽く伸びをすると、シーファは首を回して骨を鳴らした。
「此処は退屈でいかぬ」

 拾った木の枝に《発光》の魔法をかけ、それを頼りに3人は遺跡を進む。
 中は身震いするような寒気に満ちていた。螺旋を描いて徐々に下っていく長い通路。壁、床、天井、全て材質は不明。石でもない、金属でもない、遺跡によく見られるコンクリートでもない。手触りは滑らかだが、光を当てても光沢はない。そんな壁や床に、無数の直線が描かれている。青や緑の線は、時折折れ曲がり、あるいは交差しながら、通路の奥へと流れていくようであった。
「いい仕事してますねー。」
 通路の壁をぺたぺた触りながら、カジュが呟いた。
「なんなんだ、これは?」
「たぶん都市か乗り物。この線は魔力回路の配線。見たところ原理操作系の魔法陣をエギロカーン効果に相当する技術で多層構造にしてるみたいだね。つまり質量場と素粒子の相互作用を情報場による干渉で無理矢理ねじ曲げて、質量自体を指数的に縮小させてるわけ。」
 ……………。
 ヴィッシュと緋女は、2人揃って、黙々と通路を進んでいる。
「なんか、街が丸ごと空を飛んでたみたいだよ。」
「うっそ!? 街が丸ごと!?」
「すげえな!? ンなことが可能なのか!?」
「解説した甲斐があってよかったよ。」
 いささか不機嫌になったカジュであったが、分かれ道にさしかかると、ぐるりと辺りを見回して、
「もし敵が中枢を目指してるとしたら……。こっち。」
 迷わず一方向を指し示したのだった。

 そうこうするうちに、3人は広大なドーム上の空間に出た。
 ヴィッシュは天井を見上げ、思わず息を飲む。これほど巨大な人造の空間を、彼は見たことがない。以前にハンザで見たグールディング大聖堂が、すっぽりと収まってしまいそうなほどの高さと広さがある。それでいて壁面には継ぎ目一つ見当たらず、ただあちこちに梯子、階段、空中通路が張り巡らされているのみ。まるで大きな一枚岩から削りだしたかのようだ。
「なんなんだ、こりゃあ……」
「バラストタンク。」
「何だそれ」
「話すと長くなるけど。」
「よし分かった。中枢とかいうのはどっちだ?」
 カジュが杖の先端で指す先は、ドームの反対側にぽっかりと口を開けた通路であった。そちらに向かって広い空間を横切り、ドームのちょうど中央あたりにさしかかる。
 緋女がふと足を止めた。
「どうした?」
 答えはない。
 張り詰めたその表情で、全てを悟る。
 ――何かいる。
 3人はそれぞれの得物を構え、背中合わせになった。集中。動くもの、物音、空気の流れ、匂い。僅かな異常も見逃さぬため、神経の全てを尖らせていく。
 円形の空間。絡まり合う空中通路の森。
 どこに――
 と。
 カジュの猫耳飾りがぴくりと動いた。
「上っ。」
 瞬間、カジュが跳ぶ。次いで緋女。反応の遅れたヴィッシュを背中から突き飛ばし、団子になってその場を飛び退く。一瞬遅れて頭上から襲いかかった白刃が、縦真っ直ぐに空を割る。
 地面に転がりながらヴィッシュは背筋を走る悪寒に震える。危なかった。緋女が突き倒してくれなければ、今ごろ脳天をかち割られていたところだ。頭上、ちょうど3人の真上の空中通路に身を潜めていた敵――道化の仮面を被った女剣士の初撃によって。
 などとヴィッシュが考えている間に緋女が身軽に体勢を立て直し、地を蹴り矢のように切り返す。抜きはなった曲刀が雷光さながらに道化を襲う。タイミング、速度ともに完璧。落下しながらの攻撃で態勢を崩した敵に、これを避ける術はない――
 はずだった。
 刃交差し、光が奔る。
 不安定な姿勢から無造作に振り上げた道化の剣が、緋女の刀を受け止めた。
「なっ……!?」
「うそっ……。」
 ――緋女の一撃を止めた!?
 思わず声を挙げるはヴィッシュとカジュ。当の緋女は眉間にしわ寄せ歯を食いしばるのみ。すぐさま追撃。鍔迫り合いの交点を中心に、弧を描いて敵の懐に飛びかかる。頭部を狙って、身を翻しての浴びせ蹴り。だが道化は慌てるそぶりすら見せず、左手一本で軽く蹴りを受け流す。
 ――まずい!
 緋女の体は完全に空中にある。この状況で蹴りを流され、一方的に体勢を崩された。今斬撃が来れば、避ける方法が存在しない。果たして道化の剣が空中の緋女目がけて正確無比に振り上げられ――
 直前、緋女は犬に変身する。
 突如として体のサイズが半分以下まで縮小される。さすがにこれは予想外だったか、敵の刃は見当違いの場所を虚しく過ぎた。そのまま緋女は身を捻って着地、一旦距離を取るべく地を蹴るが、そこに道化の追撃が振り下ろされる。滅茶苦茶だ。速すぎる。横で見ているだけのヴィッシュにさえ、一体いつの間に刃を翻したのかすら分からない。避けられない!
「《火の矢》。」
 窮地を救ったのはカジュ。タイミングを見計らっての援護射撃が道化に飛ぶ。このまま緋女を攻撃すれば直撃は必至。やむなく道化は大きく飛び退り、距離を置いてヴィッシュたちと睨み合う。
 緋女は人間に戻ると、仲間を庇うように2人の前で刀を構えた。
「気をつけろよ……」
 低く押し殺した緋女の声。その額には、びっしりと脂汗が浮いている。
「ハンパねーぞ、あいつ」
 言われなくても分かっている。
 緋女は間違いなく当代最強レベルの剣士だ。ヴィッシュだって、緋女の強さが量れる程度の技量はある。だがあの道化女は、確実に緋女と同等かそれ以上。かつてヴィッシュが苦戦したゾンブルが赤子に見える。達人、などという生やさしいレベルではない。
 あれは正真正銘の化け物だ。
 情けない話だが、はっきりと言おう。
 緋女が戦っている間、ヴィッシュは――1歩も動けなかったのである。
「存外悪くない太刀筋だ」
 化け物が、面白がるような声を挙げた。仮面のせいでくぐもってはいるが、声色は確かに女――それも、緋女と大差ない年頃の、若い女のそれであった。無邪気。だが同時に、空気だけでヴィッシュたちを押し潰してしまいそうなほどの、圧倒的重圧。
「其の方、名は何と云う?」
「……緋女」
「緋女?」
 道化は笑う。
「其れにしては髪が赤いではないか?」
「はあ?」
「儂の名はシーファ」
「あ、そう。よろしく」
「其うでもない、事に依るとな。髪が事はお互い様でもあるし」
 と、言いながら道化は仮面の後ろに垂れ下がった青い髪をいじった。奇妙な色合いの髪だ。半透明の青い色水のような、不自然に透明感と光沢のある髪。美しいとも言えるが、それは間違いなく人間とは異質の美。
 狂気だ。話が通じない。
「外の連中は不甲斐なかった。興を削がれること甚だしい。其方らは其うでもあるまい?」
 道化の仮面には、不気味な笑みが貼り付いている。
「いざ。愉しく殺ろう」

 戦いは始まった。ヴィッシュと緋女が2人がかりで斬り掛かる。だが道化は、両手に持った二本の剣でそれらを苦もなくあしらっている。
 考えられないことだ。普通、二刀流は弱い。
 二刀流の戦闘スタイルは、片方の剣で受け、その隙にもう一方で斬るというものだ。だが相手が両手剣なら片手では受けきれず、刃を折られるか剣を弾かれるかするのがオチ。単に防御だけを考えるなら、盾の方が遥かに使い勝手はよい。受けにも斬撃にも使えるのが利点と見ても、利き手でない方で持つ剣の攻撃が、敵に致命傷を与えられるかどうか。
 諸々の理由で二刀流は邪道というのが常識である。事実、実戦の場で見かけることはまずない。
 にもかかわらず、道化は、二刀流で2人を相手に互角――いや、むしろ圧倒しているのだ。準達人級くらいには使えるヴィッシュと、超達人級の腕を持つ緋女を、である。
 それがどれほどの技量を要することか。余裕のない緋女の表情を見れば分かる。
 援護したいのは山々だった。しかし、カジュは動かない。
 斬り合う3人から離れ、じっと神経を研ぎ澄ませる。
 入口で緋女が嗅いだ体臭は2人分。敵はもう1人いるはず。奴らの狙いがこの遺跡の中枢、そこに眠っている制御エネルギーだとすれば、確実にそいつは術士だ。それが今、姿も見せず、表だった援護もしてこない。
 となれば狙いはたった一つ。魔法による奇襲攻撃。
 それを防げるのは術士の自分しかいない。
 左手には身長の倍近い長杖を構え、右手の指一本一本には小さな光が灯っている。唱え置きの呪文ストックである。ある程度の実力を持った術士は、あらかじめ魔法陣・呪文・身振りなどで構築した術を発動しないまま保つことができる。どの術を唱えておくかは先読みに頼ることになるとはいえ、詠唱のタイムロスなしに術を放てるのは魔法戦において圧倒的なアドバンテージになる。
 ストックできる術の数は、並の術士で1つか2つ。達人でもせいぜい4つ。そして、カジュなら5つ。
 敵のストックを枯渇させれば勝ち。こちらが先に枯渇すれば負け。
 つまり読み勝ち、先手を打ち、主導権を握った者が勝つ。
 心、静かに。
 全てを索敵に集中させる。
 と。
 カジュの猫耳が――魔力を感知するセンサーが動いた。
 左手側、距離50、空中通路が交差する死角。そこから《火の矢》が飛んでくる。狙いは――緋女とヴィッシュ。カジュはすぐさま《光の盾》を2枚飛ばして2人を守り、同時に走って敵との距離を詰める。誤差数cmで射程に飛び込んだ瞬間、次の術を発動。
 《爆ぜる空》。
 轟音響かせ敵の周辺空間が丸ごと爆発する。広範囲の空気を可燃性の気体に変化させて着火する、炎を使う術としては最強クラスの大量殺戮魔術。あの道化剣士とコンビなら、術士の方だって相当な腕に違いない。半端な術なら避けるか止めるかされかねない。なら対処は簡単。
 止められないほど強力な術で、避ける場所もないほど広範囲を吹っ飛ばせばいい。
 ――やったかな。だめか。
 猫耳センサーが反応。頭上。
 振り上げ見れば、奇妙な男が一人。術士らしい服装をしているが、頭部が巨大なネズミのそれ。獣人の類――いや、体を改造した人間か。そのネズミ頭が、いつの間にかカジュの頭上を飛んでいた。
 《瞬間移動》、それに《風の翼》だ、厄介な防御術を使ってくれる。さらにネズミ頭の口から炎が溢れ出す……《炎の息》! 広範囲を炎で焼き尽くす術。味方を巻き込んででも、こちら3人をまとめて焼き殺す気だ。しかし。
 ――先読みドンピシャ。
 カジュの《水の衣》が発動。上から降り注いだ炎が、空中に生まれた水のカーテンであっけなく遮られる。同時に放つお返しの一打。一撃必殺の《眠りの雲》。
 ネズミ頭は40m近い高さを飛んでいるのだ。この状況で眠らせてしまえば、敵は術の制御を失い、墜落して終わりである。
 だが敵は一瞬意識を失ったものの、すぐさま目を覚まし、そのまま飛行で少し離れた位置に着地した。カジュはもくろみが外れ、眉をぴくりと跳ね上げる。ネズミ頭は、《療治》を、自分が眠ったり麻痺ったりしたときに自動発動するよう設定しておいたらしい。先読みドンピシャは向こうも同じか。
 そしてカジュとネズミ頭は、僅か数mの距離で対峙する。剣士ならまだ剣を抜く必要もない間合い。だが術士にとっては、とっくみあいにすら等しい距離だ。
 カジュは油断無く杖を構え、右手の指を走らせて魔法陣を描きながら、口を尖らせる。
「ストックは5つ、ボクと同格か……。なかなかやるね。」
 その呟きが聞こえたか、ネズミ頭がケタケタと笑った。
「あっ、あっ、やっだー! それ、なんてゆーか知ってるー?」
「知んない。」
「う・え・か・ら・め・せ・ん!」
「当たり前じゃん。」
 ふんっ、とカジュは鼻息を吹いた。
「ボクの方が上なんだよ。」
 無論、こんなお喋りを無駄にしているわけではない。これは互角魔法戦特有のインターバル。互いに尽きたストックを補充するための時間。カジュの指に、そしてネズミ頭の指に、常人に数倍する速度で、次々に呪文ストックの光が灯っていく。
 さて――次はどう出てくるか。
 壮絶な読み合いが始まった。

 奔る。
 人から犬へ、稲妻の如く間合いを詰めて、飛び上がりざまに人に変身。横手から目にも止まらぬ薙ぎ払いを仕掛ける。剣の軌道を予測されたか、道化は片手の剣で易々とそれを受け流す。
 が、こちらはフェイント。
 刃がぶつかり合う瞬間、緋女は意図的に力を緩める。緋女の剣は過剰に大きく弾き返され、その勢いで逆回転。
 緋女の脚が着地したのはそのときだった。
 竜巻!
 としか言いようのない剣風を纏い、渾身の力を込めた本命の一撃を叩き込む。
 ――これでどうだっ!?
 問を投げつけるような一撃を、しかし道化は逆手の剣で事も無げに受け止めて見せる。舌打ち一つ、緋女は地を蹴り後退する。またしても攻撃は不発。だが、ここにはもう一人いる。
 ヴィッシュ。
 緋女の背後、道化からは完全に死角となる位置をキープしていたヴィッシュが、交代に飛び込んでくる。彼にできる最速の突きが、道化の喉元に襲いかかる。
 ――ダメだ、甘ぇ!
 緋女にすらそれが分かった。踏み込みが8分の1歩浅い。ほんの僅か。距離にして数cmの差しかあるまい。だがその間合いの差が、達人とそれ以外を分ける絶対の壁となる。道化が踏み込む。無造作に。その時、ヴィッシュの背筋に悪寒が走った。
 ――殺される。
 しかし、ヴィッシュは生きていた。
 道化は、何もしなかった。
 突きを避けるでもなく、単にヴィッシュの横をすれ違っただけだ。ただそれだけで渾身の力を籠めた突きは当たらない。そしてヴィッシュは、斬られるでもなく、蹴りや拳を叩き込まれるでもなく、放置された。
 まるでそこには誰もいないかのように。
 ――少なくとも、儂に害為す者は其処には居らぬ。
 道化の声が確かに聞こえる。
 一瞬で永遠の沈黙が、辺りを支配した。
「手前ェッ!!」
 激昂と、怒声と、なにより恐るべき刃と共に、緋女が道化に飛びかかった。

 ストックが完成したのは丁度その時。
 タイミングまで完璧。カジュはすぐさまストックを一つ解き放つ。
 《鉄砲風》。猛烈な突風が一直線に吹き付ける。ネズミ頭に――ではない。たった今、道化に向かって飛びかかった緋女の背中に、である。風が緋女を加速し、同時に道化の動きを鈍らせる。緋女ならこれで体勢を崩したりしない。この風を利用して、最速以上の一撃を確実に叩き込める。
「うっ!?」
 ネズミが一瞬たじろいだ。このタイミングでまさか援護を優先するとは! いかにシーファとはいえ、この慮外の攻撃を避けられるか? 難しいかもしれない。では《光の盾》で防ぐか? だめだ、緋女の剣術なら盾を潜って攻撃するくらいわけはない。ならばこの手。
 《瞬間移動》を発動し、ネズミは道化の背後に出現。その背中に手を触れると、すぐさま二度目の《瞬間移動》で、道化と一緒に遥か後方に移動する。
 だがその動きはカジュの思惑通り。
「王手飛車取り。」
 ずどんっ!!
 道化とネズミ頭の眼前に、巨大な《石の壁》が出現する。さらに《鉄砲風》。再び吹き荒れた突風が、石の壁を突き崩し、無数の石礫となって2人の頭上に降り注ぐ。
 カジュの読みはこうだ。ストック構成のバランスから考えて、《瞬間移動》は多くて2つ。それを使い切らせた上で敵2人を同時に巻き込めば、仮に《光の盾》を1つストックしてたにせよ助けられるのはどちらか片方。上手くすれば2人とも片付く。最悪でも敵の防御はほぼ打ち止めにできる。
 その時、焦り顔のネズミが次の術を発動した。降り注ぐ石礫が、ぴたりと空中で動き止める。
「げっ。」
 カジュが思わず、ほんのちょっぴり顔をしかめた。《凍れる時》。一定範囲の時間を停めるという、とんでもない大技だ。まさかあんなものをストックに入れられるなんて。さすがの技量。だがそれを使わせたのは大きい。
 石礫が停まった瞬間、道化とネズミは素早くその下から抜けだした。道化は再び緋女の方に向かい、切り結ぶ。ネズミの方は一直線にカジュとの距離を詰め、射程に捉えるや否や《鉄槌》を発動。
 一抱えほどもある鋼鉄の塊を生み出し、それを敵目がけて射撃する術である。直撃すれば、竜すら仕留めかねない恐るべき質量兵器。これは攻撃力過剰というものだ。カジュがこんなものを喰らったら、一発で細切れの肉片になる。
 カジュはストックの中から、二つ目の《石の壁》を撃ちだした。敵と自分との丁度中間点あたりに壁が聳え立ち、鉄の砲弾を受け止める。だが、強度不足。壁はあっけなく突き崩される。
 ――ばーか! それじゃ自分がおいらの二の舞じゃなーいの!
 ネズミがほくそ笑む。崩れた壁が礫となって――
 次の瞬間、壁の僅かに手前、ほとんど重なるようにして、2枚目の《石の壁》が出現した。
「なっ……!?」
 ネズミが黒い玉のような目を見開いた。石礫が、そしてネズミ自身が放った鉄塊が、2枚目の壁に弾かれてネズミの方に勢いよく帰ってくる。完全に予想外の防御――いや、攻撃。避ける? 雨あられと降ってくる石礫をか? 1つでも頭に当たればそれで終わりなのだ。最後に残った《光の盾》を使うしかない。
 ネズミは頭上に輝く盾を生み出し、石の雨を防ぎきる。
 これで互いにストック切れ。
 全てはカジュの狙い通り。
 最大5つのストックを、ネズミは《瞬間移動》2つ、《光の盾》《鉄槌》《凍れる刻》に使った。やや防御寄りだが、それでも攻撃と防御にバランスの良い構成。だがこの構成を読み切ることは不可能だった。敵の性格は気まぐれでエキセントリック。その時の思いつき一つで、攻撃的にも防御的にもなる可能性があった。
 だからカジュは自分のストックを極端な構成にした。《鉄砲風》2つに《石の壁》を3つ。本来攻撃用の術は1つもない。敵が攻撃一辺倒で来れば普通にこれを防御に使う。もし相手が防御重視ならば、これらを使い方の工夫で攻撃に利用する。
 その両面作戦で、ネズミが用意しておいた豊富な防御の術を全て使い切らせ――
 最後の最後まで主導権を握ったまま、「お互いストック切れ」の状態を生み出した。
 これこそがカジュの望んだ状況だったのだ。
 小さな体で一生懸命に走り、《石の壁》の死角から飛び出す。《光の盾》で防御に集中するネズミを視界に捉え、走りながら呪文構築。呪文と魔法陣に杖の補助まで注ぎ込んで、全身全霊を込めた高速詠唱。瞬きする間に術は完成する。
「《光の矢》。」
 カジュの前に生み出された矢が、文字通りの光速でネズミに迫る。
 敵に防御ストックはもはやない。なおかついまだ降り注ぐ石礫から身を守っている最中。確実にこっちが速い!
 ――勝った。
 瞬間。
 目映く輝く《光の矢》が、一直線に貫いた。

 勝利を確信していたはずの、カジュを。

「カジュ!!」
 ほとんど泣き叫ぶような悲鳴を挙げたのは、言うまでもなく緋女だった。一体何が起きた? カジュは必殺の一撃を放ったはずだ。なのになぜカジュが倒れた? 疑問が緋女の中で渦を巻き、同時に絶望と不安が心を埋め尽くす。
 その隙を突いて道化の一撃が迫る。慌てて緋女は身を捻る。だが遅い。恐るべき鋭さで迫った剣先が、僅かに緋女の右腕をかすめて過ぎた。ただそれだけで腕は骨近くまで抉られ、爆発のような出血と、猛烈な痛みが緋女を襲った。
 だが痛がってはいられない。
 迷わず緋女は左手に剣を持ち替え、道化の心臓を抉らんと袈裟懸けの一撃。逆手では余りにも力不足。道化はこともなく受け流す。だがそれで充分。緋女は僅かに身を退き、体勢を立て直し、なおも果敢に攻め続ける。これ以上は退けない。
 退くわけにはいかない。
 今、ヴィッシュがカジュを助けに走ったところなのだ。
 ヴィッシュは倒れたカジュに駆けよりながら、抜きはなったナイフをネズミ頭目がけて投げつけた。後退しながらの《光の盾》が容易くそれを防ぐ。元より、カジュの魔法で仕留められないものを、投げナイフ程度でどうにかなるとは思っていない。時間さえ稼げればそれでいい。
 カジュの前に跪き、ぐったりと力を無くした小さな軽い体を抱き上げ、同時に懐から小さな玉を取り出す。鎧の金具に導火線を擦りつけて着火、敵に目がけて投げつける。
 手製の煙幕弾である。小さな玉が破裂するなり、中から黄色い煙が吹き出してくる。煙は爆発のように広がって、道化とネズミ頭の視界を塞いだ。
「退くぞ、緋女!」
 声。そして足音。
 道化は――シーファは、それを聞きながら、興味を無くしたように構えを解いた。剣を鞘に収め、ぼんやりと立ち尽くし、煙にじっと仮面を向けている。
「思いも寄らなんだでのあろう? 自分達に優る遣い手が居ようとは」
 ヴィッシュ達が聞いているかどうかも定かではない。だが道化は語りかけた。煙に向かって。煙の向こうにいる緋女に向かって。
「然し――此れが現実だ」
 しばらくして、煙は拡散し、薄れていった。当たり前の話だが、その向こうにヴィッシュたちの姿はない。その間、シーファはただぼうっとしていただけだ。何をするでもなく。何を考えるでもなく。
 ネズミ頭が、煙幕に咳き込みながら近寄ってくる。
「シーファちゃんシーファちゃん、追っかけてトドメ刺さなくてよかったのー?」
「儂等の仕事は殺戮に非ず」
「だーかーらーさー。本音はー?」
 シーファは肩をすくめ、ただ一言。
「飽いた」

 せっかく目を開いたというのに、そこは全然知らない場所で、それどころか自分が何なのかもよく分からない。ただ天井が、白く連なって視界を覆っているのみだ。
「カジュ! カジュっ! 目ェ覚ましたぞ、おい!」
 賑やかな声、緋女ちゃんの声。それから足音。誰かが体を触ってくる。やだなあ。えっち。
「ふうん。こりゃ運が良かったな、ぼうず。あと一寸ズレとったら肺に穴があいとったとこだ」
「もう大丈夫なんですか、先生」
「意識が戻りゃなんとかなるわい。あとは薬で熱を下げてな……」
 カジュは頭を動かした。あ、みんないる。緋女は涙目でこっちを見つめているし、ヴィッシュはいつもの不機嫌なしかめっ面をしている。なんか知らないおじいさんまでいるけど。ちょっと安心。
 緋女が、カジュの細い腕にすがりついてきた。
「よかった……よかったよ、カジュ……」
「……おにのめにもなみだ。」
 顔をしかめる緋女。笑顔になるヴィッシュ。
「こんにゃろ」
「本領発揮だな。良かったじゃないか」
 ようやく意識がハッキリしてきた。と同時に、腹の辺りに凄まじい痛みが蘇ってくる。そうだった。《光の矢》で腹を貫通されたのだ。あれを生物にかけると、傷口は火傷のようになる。出血こそ少ないものの、たぶん内臓はズタズタにされているはず。まずはこれをなんとかしなければ。
「いちゃついてないでさ……。ボクの杖、とってよ……。」
「おい、何する気だ? 安静にしてなきゃ」
「いーから。」
 ヴィッシュは立てかけておいた杖を取ってきて、握らせてくれた。指先に力が入らないのを見ると、緋女とヴィッシュがベッドの両側に立ち、杖を水平に支える。カジュは回らない舌でたどたどしく呪文を唱えた。杖から光が放たれる。光がカジュの全身を包む。しばらくして光が収まる。
 いきなり、カジュはがばっと起きあがった。
「ふっかーつ。」
「うお!?」
「なんとま」
 ヴィッシュと、知らないおじいさんが目を丸くしている。
「ま、意識が戻りゃ魔法でこんなもんだよ。」
「やだねえ、魔法、魔法か。おいぼうず」
「美少女術士カジュちゃん(10)ですが何か。」
「なんでもいーから、そんな技、おおっぴらにしねぇでくれや。わしの仕事がなくなっちまわ」
 ぼやきながら、おじいさんは病室を出ていった。
「誰、あれ。」
「モンド先生。名医だよ」
「なるほど。」
「お前が敵の術士にやられてな……その後、遺跡から逃げ出して、街に戻ってきたんだ」
「……そう。」
 そんなところだろうと思っていた。
 あの時、カジュは必殺のタイミングで、《光の矢》を放った。敵に魔法のストックは既にない。防御魔法を構築する時間もない。そのはずだった。
 カジュが敗れた理由はごく単純。敵の詠唱速度が異様に速かったのである。
 敵が《光の盾》の詠唱を始めたのは、カジュが既に《光の矢》の詠唱を半分以上終えた時点。そこからのスピード勝負で、術が完成したのは敵の方が先。おおざっぱに計算しても、倍以上の速度差があることになる。
 その後は、もはやカジュに勝ち目はなかった。無論、防がれるはずのない術を防がれたという驚きのせいもある。だがそれ以上に、ネズミ頭の反撃が発動するのが速かった。為す術もなく、カジュはただ一方的に腹を射抜かれた。
 あの速度はもはや人間業ではない。超速詠唱とでも呼ぼうか。
 ふーっ、と長く溜息を吐くと、カジュは大きく背伸びした。ふと見ると、緋女の腕にも包帯が巻かれている。布で腕を吊って固定しているところから見ると、浅傷というわけでもなさそうだ。
「緋女ちゃん、腕だして。」
「おう。頼むわ」
 万全の状態なら、この程度の怪我を治すのに杖の補助など必要ない。ベッドの上にあぐらを掻いて緋女と向き合うと、カジュはその傷の周りに指で魔法陣を描き、軽く呪文を唱え、あっといまに傷を完治させてしまった。緋女が包帯を解くと、もうその後には傷口一つ無い。
「あたしも復活! あんがと、カジュ」
「いーってことよ。」
 ヴィッシュは関心して溜息を吐く。
「モンド先生には、下手すると膿んで腕切断しなきゃならんかも、って言われてたんだぜ。全く便利なもんだな、魔法ってのは」
「魔法には魔法なりの制約もあるけどね。何でもできるわけじゃないよ。」
 カジュは体をベッドに投げ出して、再び横になった。ぽふっ、と寝台が軽い音を立てる。
「誰にでも勝てるわけじゃないしさ――。」
 片腕を目の上にかぶせ、カジュはそれきり、動かなくなった。やがて小さく、いつも通りの棒読みで、声を挙げる。
「悪いけど、ちょっと出てってくれないかなあ。」
 なぜだかそれが、ヴィッシュたちの耳には悲痛に聞こえて――
 2人は何も言わずに出ていった。部屋に残されたのは1人だけ。
 カジュは泣いた。

 診療所から出ると、夜はもうとっぷりと暮れていた。見上げれば、大きく膨らんだ月が上天にかかり、嘲笑うようにこちらを見下ろしている。満月まであと数日。それでも、青白い月の光は、ヴィッシュの目には眩しすぎる。
 秋風が、2人の間に吹き抜ける。
「赦せねえ」
 緋女がぽつりと呟いた。
「あの野郎……次は絶対にぶっ殺す」
「勝算はあるのか?」
「は?」
 ヴィッシュが冷めた調子で問うと、緋女は露骨な怒りを込めて彼を睨んだ。下からの掬い上げるような、喉元を噛み切るような視線。だがヴィッシュは動じない。まるでその場所ではないどこか遠くから、この光景を眺め見ているかのように。
「シーファとかいう仮面女、お前より技量は上だ。カジュも、ネズミ頭の術士には勝てなかった。もう一度戦って、それが覆るわけでもないだろ」
「じゃあどうしろってんだ!!」
 緋女の拳が、ヴィッシュの胸ぐらを引っ掴む。
「このまま逃げてろってのか。ダチをやられて黙ってろってのか! ビビってんなら好きにしろ。手前がやらなくても、あたし一人でやってやらぁ!!」
 ヴィッシュを突き放し、緋女は背中を向ける。
 その背中に満ちているのは、怒り。
 それ以上に――
「……コバヤシんとこに行ってくる」
 ヴィッシュはいつもの細葉巻を取り出すと、ナイフで先端を切り落とそうとして、気付く。そういえばナイフは投げてしまったのだった。切羽詰まって。反射的に。カジュを助ける時間を稼ぐために。
 これじゃあ、煙草を吸うこともできない。煙を吹かすこともできない。
 できないじゃないか。
「カジュについててやってくれ」
 驚くほど優しい声で言い残すと、ヴィッシュは背中を丸め、闇の中に消えていった。

「敵の狙いが分かりましたよ」
 後始末人協会の支部は、こんな時刻でも動いていた。無理もあるまい。たった1日で、後始末人が3人も死に、2人が負傷。ひょっとすると、第2ベンズバレン支部が開設されて以来の非常事態かもしれない。
 ヴィッシュは駆け回る人々――協会の事務組――の合間を縫って、奥の小部屋に入った。しばらくしてコバヤシがやってきて、喋り始めた。だがヴィッシュは、ぼうっと壁を見たまま、座っているだけだ。
「あの遺跡、空を飛ぶ巨大な都市か何かのようだった、ということですが……古代の伝承に符合する物がありました。古代帝国の初期、このあたりには空中都市が栄えていたそうです。それがある時、事故によって墜落し――」
 コバヤシは頭を掻く。
「聞いてます?」
「ああ」
「じゃ、いいですけどね。ともかく、敵の狙いはその都市のエネルギー源であった魔力結晶ではないかと思われます。そこらの魔法屋で売ってるホタル石を、何億倍も凄くしたようなものだと考えてください。
 それを都市のシステムから切り離すには、こちらの見積もりでは……少なくとも3日。もう既に1日は経過してますから、最短で明後日には敵は目的を達成します」
「そうなれば、何が起きる?」
「なんでもかんでも。モノは莫大なエネルギー源です。使いよう次第で何が起きてもおかしくありませんよ。
 街一つ滅ぼすか。恐るべき魔導兵器を創り出すか。魔王の復活、なんて荒技だって可能かも」
 しばらくヴィッシュは沈黙し、やがて姿勢を直した。じっとコバヤシの目を見る。迷い、悩み、考えた末に、唇を動かす。
「はっきり言おう」
「なんでしょう」
「軍隊を動員しても無駄だ。ある程度以上の実力者でなければ、出会い頭に殺されて終わる」
「でしょうね」
「もしやる気なら、少数精鋭のチームを作り、奴らの不意を打つ。それ以外にない」
「ええ。いちいち私も同じ意見ですよ。
 私からも、はっきり申し上げてよろしいですか?」
「なんだ」
「あと2日以内に準備できる少数精鋭なんて、あなたがた以外にいやしませんよ」
 ヴィッシュは完全に言葉を失った。
 大きく息を吸い、吐く。懐から細葉巻を取り出す。硫黄燧火も。救いを求めるような目でコバヤシを見て、
「灰皿とナイフ、貸してくれないかな」
「禁煙です」
「そうだっけ?」
「ですよ」
 やむなく、葉巻と燧火は再び懐にしまわれた。名残惜しげに。そうしながら、ヴィッシュは考える。考える。苦しい理屈とは知りつつ、それでも言葉が溢れ出る。
「他の後始末人たちは?」
「敵にやられた3人のうち、サッフィーとエリクスはうちでも指折りでした。それより上となると、緋女さんとカジュさんくらいのものです」
「首都の支部。《遠話》で連絡して、2日なら馬飛ばせばギリギリ間に合うだろう」
「一人すばらしい腕前の達人がいますが……運悪く彼はハンザに出張中です。そして、ハンザからではとても間に合いません」
「軍に誰かいないのか?」
「今、あなたが無駄だって言ったばかりでしょう? 軍の兵士は大勢で大勢と戦うのが仕事。一対一の戦いはそもそも専門外なんですよ」
 コバヤシはさらに、指折り数えながら付け加える。
「あ、ちなみに、市井の道場やら、商人の私兵やら、果てはそこらでくだ巻いてる自称達人の類にまで既に当たっています。ぜんぜん使えそうなのはいませんけどね」
 分かっていたことだ。
 ヴィッシュ自身が挙げた選択肢も、コバヤシが付け足したダメ元の心当たりも、全部ヴィッシュは既に考えていた。恐らく戦力は手に入らないだろうという分析も済んでいた。理屈で考えて可能性を追っていくと、自分たちでやるしかないという結論に達することは、とうの昔に分かっていたのだ。
「……少し考えさせてくれ」
 ヴィッシュは立ち上がった。苦しみに潰されそうになりながら。

 自分でも、どこをどう歩いたのか分からない。
 なのに足は、勝手に家を目指していたようだった。気が付くとヴィッシュは、自宅の目の前にまで帰っていたのだった。
 窓から光が漏れている。屋根裏部屋と、1階の居間とに。
 ちょうどその時、居間の灯りが消えて、緋女が外に出てきた。入口の手前で2人はばったり顔を合わせる。驚いて、しかしなんだか気まずくて、どちらからともなく、2人は互いに顔を逸らす。
「帰ってたのか」
「うん。モンド先生がさ。治ったんならとっとと出てけ、ってさ」
「そうか……」
 そのまま、緋女は通りに出て、どこかへ行ってしまった。その背を見送りながら、ヴィッシュは――何も声をかけられなかった。どこへ行くんだ、とも聞けなかった。
 聞いた方が良いのは確かだった。仲間なら、この状況で、お互いの位置を把握しておくのは当然のことだった。仲間なら。
 もしも、仲間なら。
 ――俺に、仲間を持つ資格なんてあるんだろうか。

 ヴィッシュはなぜか足音を殺して階段を上った。どうしてこそこそしなければならないのか、自分でも分からない。だが今の彼にとって、この場所にいることすら、もはや罪悪と思えていたのだ。
 カジュはきっと、灯りのついていた屋根裏にいるのだろう。
 そっと階段を上り、頭だけを突き出して、ヴィッシュは屋根裏部屋の様子をうかがった。
 そこではカジュが、小さな蝋燭の光を頼りに、木箱を机代わりにして、紙に何か熱心に書き付けているようだった。ペン先が紙を削る音が、ガリガリとけたたましく響き渡る。時折横手に積んだ本を取り上げ、乱暴に捲る。望みのページを探し当てると、無言で視線を這わせ、またペンを走らせる。繰り返し。繰り返し。その繰り返し。
 ヴィッシュは瞬き一つできなかった。
 カジュの背中が震えている。
 泣いているのだと気付くのには、少し時間がかかった。
 怒濤のように、インクが、ペンが、紙を走る。魔法陣のアイディアがが、メモ書きが、見る間に紙面を埋めていく。時折拳で涙を拭い、突き上げる嗚咽を必死に堪え、それでも零れ落ちる涙がインクを黒く滲ませる。
 だがそれがどうしたというのだ。
 涙に濡れて読めなくなった分を、埋め合わせてなお余りあるほどの文字が、次から次へと書き下ろされる。涙が落ちるのは仕方がない。悔しさに胸が張り裂けるのはどうしようもない。なら、それら全部を消し炭にするほど、心に火を灯せばいい。
 勢いよく振り下ろしたペンの刻む一文字一文字が、まるで黒く灼け付くかのよう。
 ヴィッシュはとうとう、何も言わずに立ち去った。

 夜の通りにただ一人。
 いたたまれなくて、家を飛び出して、逃げるように夜を走って。
 ついにヴィッシュはたまらなくなって、力尽きたように立ち止まると、拳を壁に叩きつけた。
 馬鹿野郎。
 俺はなんて馬鹿なんだ。あの時一体、何を考えていた?
 退くべきだが、それじゃ金にならない――?
 ここで逃げたら、緋女たちがどう思うだろうか――だと?
 安全を重視するなら入口の時点で退却だった。攻める覚悟で行くなら出会い頭の奇襲狙いが当然だった。
 仲間からの信頼とか、今後の仕事に影響がどうとか、そんな理屈で誤魔化して、ビビってることも人の顔色ばかり見てることも覆い隠して、退きもせず、といって最速で攻めもせず、半端な覚悟と速度で戦場に仲間を踏み込ませた。その結果がこれだ!
 俺に仲間を持つ資格なんかあるんだろうか?
 あるわけねえだろ! 馬鹿野郎が!!
 だから――
 俺はもう迷わない。
 もう……こんな失敗は二度と御免だ。
 そしてヴィッシュは走りだした。

 夜の水路は黒々と、潮の匂いのする水を湛えていて、月と緋女とを映している。なんだか無性に腹が立って、緋女は靴を脱ぎ、水路縁に座り込んで、投げ出した素足の踵で水面を蹴っ飛ばす。蹴るたび黒い鏡は揺らめいて、緋女も、月も、ぐにゅぐにゅに歪む。自分の知らない何かみたいに。
 ふと不安になる。あまりに水が波打って、自分の顔も、明るい空の月も見えなくなって。ホントはもう、みんないなくなったんじゃないかと思って。慌てて足を止める。足の裏で少しでも波紋を鎮めようと抑える。くすぐったくて、親指が思わず動いて、また余計な波を起こして。それでも精一杯我慢して、落ち着いてきた水面を恐る恐る覗き込む。心に安堵が広がっていく。自分もいる。月もいる。
 ついでに、どっかで見たような男もいる。
 ヴィッシュは街中駆け回ってでもいたのだろうか、ぜいぜいと肩で息をしていた。
「……なんだよ」
 水面に映った彼の顔だけをじっと見つめて、緋女はぶっきらぼうに言う。
 ヴィッシュは大きく深呼吸して、息を落ち着けると、ぼそっと訊ねた。
「隣、いいか」
「いいよ」
 彼は緋女の隣にあぐらを掻いた。ちゃぷり、と緋女の踵が水を蹴った。
「コバヤシに次の依頼をされたよ。奴らを止めろ、とさ」
「良かったじゃんか。これで金も入るってもんだ」
「返事を保留にしてきた」
 どぼん。
 足首から下が丸ごと水面を叩く音。
「なんでお前はそうなんだよっ! なんでもかんでも、安全第一、慎重にってさ!」
「昔」
 その声は、びっくりするほど静かで。
「俺は、シュヴェーアの軍にいた」
 まるで知らない誰かみたいで。
 緋女は彼の横顔を見る。よく知ってる奴がそこにいる。
「シュヴェーアって……海の向こうの?」
「ああ、でかい国さ。故郷の村を出て、兵隊になって。けっこう順調に出世していったんだ。二十歳になる前には、一部隊を任されるくらいにはなってた。これが当時の最年少記録でな」
 子供みたいだ、と緋女は思った。上機嫌で、自慢げで、無邪気なもんで。なのに一転して彼の顔が暗くなる。緋女もつられて。
「その頃だ。いきなり、魔王軍の侵攻が始まった。
 シュヴェーアは真っ先に滅ぼされた国の一つだ。常識外れの攻撃をしてくる魔物の軍勢に、一晩で首都が陥落し……地方に詰めてた兵力はずたずたに分断され、あとはもう、各個撃破されるのを待つばかりだった。
 そんな中で俺の部隊は、敵の魔物を狩ることに成功した。どんな恐ろしい魔物でも、一定の攻撃パターンがある。それを読んで対策を練れば勝てる、ってことに気づいたんだ。俺は自分の部隊を率いて連戦連勝し、ちょっとした英雄に祭り上げられた」
 彼は笑っているけど。
「勇者になったつもりだったんだ」
 多分嗤っているんだと思う。
「ある時俺たちは、敵の竜を討伐するために出撃した。だがそれは魔王軍の罠だった。竜がいるって偽情報を流し、俺たちは……俺は、まんまとそれに踊らされ――」
 そう、嗤ってきたんだ。
「生きて帰ったのは、俺一人だった」
 ずっと――ずっと――
「それ以来、仲間と呼べる奴を持ったことはない。お前たち以外には」
 いつの間にか、緋女は膝を抱き、背中を丸めて話を聞いていた。水面の波は不思議と収まって、並んで座る2人の姿と、その間で目映く輝く月だけを映している。まるで世界は全部それだけだ、っていうかのように。
 そしてきっと、それは、そのとおりで。
「わかった」
「そうか」
「わかんねえ」
「どっちだよ」
「わかんねえことがわかった」
 緋女は立ち上がった。こうしてみると、ヴィッシュがなんて小さく、弱々しく見えるだろう。
「そりゃ、辛かったんだろ。苦しかったんだろ。痛かったんだろ。10年ずっとさ。
 でも……だからって……ここでビビってグダグダしてて、それが何になるってんだよ!」
「そうさ」
 彼は真っ直ぐな目でこちらを見つめ、深く頷いた。
「その通りだ」
 ヴィッシュは立ち上がる。どうして? さっき小さく見えたばかりなのに、今、確かに緋女は彼を見上げている。首をもたげて。背を弓のように逸らせて。見上げ慣れたはずの彼の顔が、なぜだか今日はどきりとするほど高くにあって。
 緋女にはただ、囁くように言うしかなかった。
「悔しくねーのかよ。あいつは、お前を、ゴミクズとしか思ってねえんだ」
「分かってる。だから俺にも勝ち目があるんだ」
「え……」
「策はある。まあ見てな。だが、俺一人じゃ無理なんだ」
 月が見守るその下で、
「力を貸してくれ」
 望みがいざない、火がいらえる。
「俺にはお前が必要だ」
 確かにヴィッシュはそう言った。
 突然のことで、意味を脳が理解するのに少々の時間を要した。少なくとも緋女は要したような気になった。体が奥の方から加熱されて、全身燃えるように熱くなってくるのが分かった。今どんな顔してるんだろ。たぶん滅茶苦茶だ。バカみたいな顔してるんだ。
 緋女は視線を逸らしたくて、仕方なくて、でも、これだけは真っ正面から言わなきゃと思って、長い長い、躊躇いと、恐れと、期待と希望と覚悟と、全部言葉で、言葉にして、吐き出した。
「わかった……」
 考えすぎて、ついでに耳から煙が出た。
「ふ、ふつつかものですが、よろしく」
「は?」
 ヴィッシュが首を傾げる。もうだめだ。限界だ。目を逸らす。そっぽを向く。その場に立っているのも嫌になって、緋女は大股開きに歩いていく。
「おい、お前、なんか煙吹いてんぞ」
「ぅるせー! やるぞーっ!!」
 もちろん、家に帰る道を。
 ヴィッシュはその背中をみて苦笑する。脱ぎ捨てられた靴を拾い、緋女の後を追っていく。
 月は相変わらず頭上に輝いていたが、ヴィッシュはそんなこと、気づきもしなかった。

「牡蠣に就いて考えてみるが好い」
 遺跡の遥か奥、中枢の闇の中で、シーファは立てかけた2本の剣に、真剣に語りかけていた。彼女が腰を下ろす折れた柱の周囲には、携帯食料の包み紙が6つばかり転がっている。その姿が青白い光に照らされていた。部屋の中心を支える一際大きな柱が、今や不気味な光を放ち始めていたのだ。
 ネズミ頭による切り離し作業が、佳境にさしかかった証拠であろう。
「奴儕は実に能く殖える――1年毎に3割増しに成る。儂は其れが心配なのだ」
 シーファの言葉は噛んで含めるようで、いかに生徒が鉄の塊であろうとも、きっと理解できるに違いないほどだった。事実、剣たちは講義を物も言わず熱心に聞いている。ネズミ頭は、手元の作業を忙しく進めながら嗤っている。
「仮に、最初に牡蠣の貼り付いている海底面積を、1平方粁としよう。年に3割ずつ殖えると仮定すれば、75年後には凡そ3億5135万9275平方粁と成る。海底全てが牡蠣で埋まって仕舞うのだ。心配であろう? 儂は其れが心配だ」
「ヒョー。こえーっす」
 ネズミ頭が震え上がった。と、シーファが唐突に立つ。
「何か来た」
「アルェー? また敵ー? あ、協会の本腰かなー」
 シーファは答えもしない。というより、聞こえてもいない。さっきまで生徒扱いだった2振りの剣を、いそいそと腰に差し、足早に中枢を出ていく。ネズミ頭は髭をひくつかせた。まあ、いい。頭おかしかろうが、なんだろうが。仕事さえしてくれれば。
「しっかり足止めしといてよネー。ぼくちん手一杯だからサ」
 と、投げやりに言って、ネズミ頭は楽しい楽しい作業の仕上げに取りかかった。

 一方その頃、遺跡が埋まった丘の上に、円陣を組む一団があった。法衣姿の術士が十二名。コバヤシが各方面から集めてくれた、サポート要員の術士達である。彼らは直接戦闘に参加するわけではない。仮に参加しても、一瞬で殺されるのがオチだ。
 だがそれでも、本命を送り込むための道を切り開くことならできる。
 彼らは大きな魔法陣の周囲を取り囲み、それぞれに呪文詠唱に集中している。幾つもの異なる呪文が重なって、まるでそれは一つの音楽のよう。彼らの間をカジュはパタパタと駆け回る。ぶかぶかの猫耳ローブを半ば引きずり、お気に入りの長杖を両手で抱え、あっちへ行っては空を見上げ、こっちへ行っては何事か呟き。
「ほい。測量おわり。」
 てててっ、とカジュは魔法陣の中央に駆けていった。そこで精一杯の大声を張り上げる。まあ、それでも、術士たちに聞こえるかどうか、ぎりぎりの大きさではあったが。
「この位置から俯角1.0000対7.4021×10の3乗、誤差1ケタ以内の気合いでいっちゃってくださーい。タイミングはボクが『せーの。』ってゆったら、『せーの。どん。』て感じで。」
 術士たちは神妙に頷いた。中には、その凄まじい要求精度に、冷や汗を浮かべている者もいる。初めはみな、幼いカジュを見て馬鹿にしていた。子供の手伝いなどという仕事に反感を持つ者もいた。だが、彼女の惚れ惚れするような手際、恐るべき知識量、追随を許さない計算速度、何より類い希な集中力を見て、今や、カジュを侮る者はこの場に一人もいない。
 天才だ。
 本物の天才がここにいる。
「さあて。」
 天才が、にやりと悪戯に笑って、
「反撃開始だぜ。」

 再びここに戻ってきた。
 二日前、為す術もなく敗北した、遺跡の奥のドーム。広大なその空間の中央で、ヴィッシュと緋女は待っている。敵のことだ。もうとっくに、こちらが侵入したことは掴んでいるだろう。人数が全開より少ないことに気付けば、そしてヴィッシュたちを侮ってくれれば、おそらく迎撃に出てくるのは――
 張り詰めた静寂の糸。
 断ち斬るように、靴音が響いた。
 中枢へ繋がる通路の奥に、ぼんやりと浮かび上がる白い影。狂気の笑顔を貼り付けたまま、ぴくりとも動かない道化の仮面。靴音が一つ、ゆっくりと重なるごとに。その仮面が一回り大きさを増すごとに。
 心臓まで凍て付く冷風が、2人を押し潰さんと迫ってくるかのよう。
「来たか。緋女」
 氷の声。
 ――シーファ。

「分断完了。続きましてー。」
 カジュは大きく杖を振り上げた。
「せーのっ。」
『《暗き隧道》!』
 どんっ!!
 魔法陣のあった場所に、巨大な縦穴が口を開く。一定範囲の土を消し去り、トンネルを造る魔法である。本来なら人一人がようやく這って通る程度の穴しか開けないし、その長さも知れたものだが、十二人の術士が共同すれば、丘の頂上から遺跡の中枢まで一直線に繋ぐくらいはできる。
「行ってきまあぁぁぁぁ……。」
 魔法陣の上に立っていたカジュは、開いた穴に飲み込まれ、そのまま真っ直ぐに落下した。心配そうに覗き込む術士たちの顔が、頭上の光が、見る見る遠ざかる。だがそんなこと気にも留めない。空中でくるりと反転し、頭を下にして落ちていきながら、荘厳にすら思えるほど、落ち着きに満ちた呪文を唱える。
 相も変わらぬ半開きの目に、しかし凛とした光を湛えて。
 吹けば飛びそうな小さな体に、しかし折れることなき自信を抱いて。
「《風の翼》。」
 術が発動した瞬間、カジュの背中に陽炎のような翼が現れた。身を翻す。翼を羽ばたかせ、穴の底にふわりと舞い降りる。白き衣に身を包んだその姿は、まるで伝承にある天使のよう。
 カジュは長杖の先端を、真っ直ぐ敵に突きつけた。
「おひさ。」
 敵は――ネズミ頭は、突然の闖入者に目を丸くしながら、しかし反射的に立ち上がった。一瞬で事態を把握し、ケラケラと、例の癇に障る笑い声を挙げる。
「わーお! ぼくちゃんびっくりー! まぁーたキミかよ、邪魔してくれちゃってさー」
 ネズミの顔が醜悪に歪む。苛立ちと嘲りと、この世の悪意の全てを込めて。
「雑魚は死んだ方がいい。生きてる価値ねーんだよ」
 カジュは軽く鼻で笑って、
「あ、そ。」

 シーファとヴィッシュたちは、数mの距離を置いて対峙した。普通なら、まだまだ遥か間合いの外。なのに何故だ。ヴィッシュは身動き一つ取れない。動いた瞬間斬られる。その光景が目に浮かぶ。
 と。
 暖かいものが腕に触れて、ヴィッシュははっとする。
 緋女の手のひらが、そっと、彼の腕を撫でていた。
 ――だいじょうぶ。特訓したろ。
 声に出さずとも、彼女の声が聞こえてくるかのよう。
 緋女は一歩前に出た。真正面から敵を睨みつけ、
「待たせたな」
「退屈だった」
「いいじゃねーか。その我慢した分まで――」
 額に汗を浮かべ、それでも緋女は笑っている。胸の奥から込み上げる熱気が、冷気に凍った体を融かしていく。敵は強い。いかに自分の腕に自信があっても、策があっても、勝てるという保証はない。勝機は糸のように細いとさえ言えるかもしれない。それなのに。
 それなのに緋女は――
「愉しもうぜ、シーファ」
「善き哉」
 抜刀。
 三者が、三様に。
 ――落ち着け
 ヴィッシュは己に言い聞かせる。
 失敗も。
 後悔も。
 恐怖でさえも。
 必ず力に替えられる。
 やがて、心が消える。
 音もまた。
 しん、と。
 沈黙が、三人の肩に降り積もり――
 弾ける。
 緋女が走る。一息に肉薄。全力込めた斬撃を有無を言わせず叩き込む。シーファの剣が閃いて、一撃、二撃、受けては流す。利き腕一本で緋女をいなし、その体勢が崩れたと見るや、逆手の剣が牙を剥く。
 ――温い!
 この程度で崩したつもりか。それが攻撃のつもりか。緋女は咄嗟に身を屈め、喉に迫った突きをかわすと地を這うような回し蹴りでシーファの足を払う。シーファが跳ぶ。空中で刃を翻し、真っ直ぐ緋女に振り下ろす。
 ――だから温いっ!
 その瞬間、横手から飛び込んだヴィッシュの刃が空中のシーファに襲いかかった。
「む」
 シーファが呻く。ヴィッシュの剣は彼なりに会心の太刀筋。迷いはない。タイミングも完璧。だが如何せん、まだ遅い。地に足もつかぬまま上体を捻り、シーファは軽くヴィッシュの剣をはたき落とす。所詮は三下の剣と、侮りきった漫然とした動きで。
 その慢心を。
 見逃す緋女ではない!
 地面に手を突き、間欠泉の如く緋女の蹴りが伸び上がる。宙に飛び、無理な体勢から迎撃を放ち、隙を作ったシーファの顎を、緋女の踵が完全に捉える。鋼の棍棒にすら匹敵する衝撃。道化の仮面に亀裂が走る。呻きながらシーファはのけぞり、たたらを踏んでようやく着地、だがその時既に緋女は刃を走らせている。
「く」
 蛇のように素早く飛びかかった緋女の剣を、すんでの所で交差する二刀が受け止める。だが体勢は崩した。すぐさま緋女の追撃が襲う。しかしさすがに状況が悪いと踏んだか、シーファはすぐさま後ろに跳んで、間合いの外に身をかわす。まだだ。まだ赦さない。緋女が走る。さながら閃光。瞬き一つの千分の一で再びシーファの懐に飛び込む。
 竜巻の如き斬撃の応酬が始まった。剣閃が見えない。剣風が渦巻く。だが鋼のぶつかり合う音だけが、豪雨に撃たれる大地のように響き、轟き、空を震わせる。互角――いや、やはりシーファが一歩上。緋女が僅かに足を引く。その分シーファが間合いに押し込む。緋女が不利? 否。このやりとりが、この撃ち合いが、そもそもヴィッシュの策の内。
 今度は背後。
 回り込んだヴィッシュが、一瞬の隙にシーファを突いた。
「!」
 声にならない驚愕の声が、シーファの口を吐いて出る。
 充分にシーファを殺しうる横槍。シーファが反転し、ヴィッシュの剣を受け流す。突風のように放たれる苛立ちの気配がヴィッシュの心を蝕まんと迫ってくる。気配だけで人を殺し得るほどの悪意。
 ――殺される!
 ヴィッシュはそう確信し――
 故に勝利を確信する。
 シーファがヴィッシュに意識を集中したその瞬間。
 生じた巨大な隙に、緋女の大上段が振り下ろされた。
「何!?」
 焦りの一声。シーファは身を捻る。大振りの一撃を何とか交わす。青く透き通った髪がひと束、切り落とされて空を舞う。そのまま緋女は刃を返し掬い上げるように連撃。
「小賢しい!」
 苛つきが頂点に達したシーファは、全力で剣を振り下ろし、緋女の剣を叩き落とした。反撃が来る――かに思えたが、シーファはあっさりと後ろに跳び、大きく距離を離して対峙した。敵も然る者、だ。もう一度緋女に仕掛けてくるなら、同じ戦術を繰り返すまでのことだった。
 ヴィッシュと緋女は立ち並び、息を整え、シーファを睨みつける。
 一分の隙もなく。
 そして恐れもなく。
 シーファがそっと、仮面のひび割れに指を這わせた。
 緊張の中、ヴィッシュは思考を巡らせる。彼の立てた戦術は、つまり、手の込んだ二重フェイントであった。
 まず緋女が全力で斬り掛かる。シーファは間違いなく、その対処に全力を注ぎ込む。なぜなら、シーファはヴィッシュを完全に侮っているからだ。放置していても全く問題ない――というより、恐らく存在すら認識していないのかもしれない。それほどどうでもよいと考えているのである。
 だがそこに、思わぬ横槍が入る。緋女のフェイントが作った隙を突き、ほとんど捨て身と言えるほど深く踏み込んだ、ヴィッシュの一撃。
 確かにヴィッシュの技量は、緋女やシーファに比べれば遥かに劣る。大人と子供ほどの違いがあるだろう。それでも、真っ直ぐに、そして充分に深く踏み込めば、体捌きだけで対処するのが難しい程度の一撃は撃てる。放置すれば致命傷になりうる。剣で対処せざるを得ない。
 ところがこれこそが二段目のフェイント。
 真の狙いは、ヴィッシュの捨て身で体勢を崩したところに斬り込む、緋女の一撃。
 緋女が隙を作り、ヴィッシュがそれを拡げ、緋女が止めを刺す。
 上手く嵌れば、相手がいかなる達人と言えど、必ず隙をつけるはず――こんな風に。
 だが本番はここからだ。
 初撃で倒しきれなかった。必ずシーファは対処を考えてくるはず。
 それが証拠に――道化の仮面のひび割れが、不思議と、口許の笑みを広げているように見えた。
「愉しや」
 シーファが漏らした一言は、飾り一つない本音にしか聞こえなかった。

 《電撃の槍》が空間をひずませ、《鉄槌》がそれを受け止める。
 ネズミ頭が髭をひくつかせる。カジュは眉一つ動かさない。荒れ狂う魔術の嵐の中、壊され、砕かれ、弾けて飛ぶのは遺跡の柱と壁面ばかり。見る影もなく無惨に焼け焦げ、跡形もなく消し飛んだ柱の残骸を挟み、2人は一歩も動かず睨み合う。
 今のでお互いストックは切れた。
 つまり、本番はここから。
 ――唱えるがいいさ。なんだろうが。
 ネズミ頭は邪悪に笑う。ストック切れの隙を狙ってカジュが攻撃してくるのは目に見えている。だがネズミ男には超速詠唱という絶対的優位がある。相手の呪文詠唱を聞き、その狙いを把握してから返し技の詠唱を初めても、充分に間に合うだけの速さがある。
 果たしてカジュの詠唱が始まった。身振り。杖の補助。魔法陣と呪文。全てを注ぎ込んだ最速の呪文構築。もう分かった。《光の矢》だ。
 防御は《光の盾》で事足りる。これで矢を防ぎ、すぐさまこちらも《光の矢》で返せば、これに対抗できる者など居るはずもない。
 ――がっかりだぁ! 前と同じパターン!
 勝利を確信したネズミ頭の、《光の盾》が完成した。あとはいつでも、カジュが魔法を発動したのを見て防御するのみ。
 一瞬遅れて、カジュの呪文も完成し――

 と。
 不意にシーファが奔った。ゆらりと。何の前触れもなく。一直線にヴィッシュに向かって。
 慌てて迎撃態勢を取るヴィッシュ。緋女は2人が打ち合った隙を狙おうと待ち構え――
 突如シーファが、行く先を変えた。
 緋女。
 ――そう来たか!
 ヴィッシュは一瞬で敵の意図を悟った。即ち、ヴィッシュの攻撃は本質的にフェイント。確かに体捌きだけで避けるのは難しいが、不可能というわけではない。少々喰らっても構わないというつもりで致命傷を避けるだけなら確実にできる。
 故にヴィッシュは無視。多少の傷は覚悟の上で、全身全霊を込めて緋女を狙い――まずはそちらを片付ける。
「くそっ」
 悪態吐いて緋女が敵の剣を受け止める。あのシーファが放つ、なりふり構わぬ全力の強打。受けきれるはずもない。緋女は軽く蹌踉めきながら後退し、なんとか体勢を立て直そうとする。シーファは追う。懐に飛び込まんと足を踏み出す。
 しかし危機を救ったのは、ヴィッシュ。
 彼がとっさに放った煙幕弾が、シーファと緋女の間に落ちて、勢いよく黄色い煙を吹き出した。
 視界が煙に覆われる。シーファの苛立った舌打ちが聞こえる。
「下らぬ」
 この程度で止められる訳がない。それはヴィッシュたちだって百も承知。音か、気配か、何を用いてかは知らないが、視力抜きに至近距離の敵を捉える程度わけはあるまい。
 果たして。
 煙幕の中、シーファの気配が動いた。
 道化の仮面が肉薄する。
「終わりだ!」
 瞬間。
 必殺の間合いから強打が繰り出された――
「――何っ!?」
 そしてシーファは驚きの声を漏らした。
 緋女ではない。
 彼女の一撃を受けたのは――ヴィッシュ。
 受けきれない。剣が折れる。シーファの剣が肩口に食い込む。激痛がヴィッシュを打ちのめす。だが――受けた。受け止めた。本来なら緋女が受けるはずだった一撃を、ヴィッシュは力と技と命の全てを賭して、止めたのだ。
 全てはこの瞬間のために積み重ねた布石。
 道化の背後。
 炎が出現する。
「あたしのツレを」
 ――緋女!!
「ナメんじゃねぇ―――――ッ!!」

 魔術の矢が、胸に大穴を穿つ。
 勝利を確信した――ネズミの胸に。
 黒い目を見開き、髭を先端まで痙攣させて、ネズミは信じられない物を見るように自分の胸元を見下ろすと、やがて、倒れた。土埃が舞い上がる。吐血が、何物とも知れない素材の床を汚した。
 とてとて、と。
 愛らしく、上機嫌に、カジュは倒れたネズミに寄っていく。両膝かかえてひょいっとしゃがみ、彼の顔をじっと覗き込む。
「ほい、お仕事終了。おつかれさん。」
 ……あ……たす……へ……
「え。助けないよ。雑魚は死んでた方がいいんでしょ。」
 その声は余りにも冷え切って――ネズミの目に絶望の色が浮かぶ。
「まあ説明くらいしたげるよ。キミの超速詠唱に勝つ方法、色々考えたんだけどさ。
 まず第一に、とにかく威力を上げること。防がれようが何だろうが、防御魔法ごとぶっ飛ばしちゃえばいい。でもそれは、キミが防御魔法の質を上げれば結局同じ事になるだけだよね。
 次に考えたのが、詠唱速度で勝つこと。ギリギリ威力を保ったまま、極端に詠唱が短くて済む術を構築すればなんとかなるかなって。この方法は、キミの限界速度が読めないって危険があった。こっちが速くしたつもりでも、実はそっちがもっと速かったです。てなこともあるわけだしね。
 ――で、辿り着いたのが、これ。」
 指でカジュは魔法陣を描く。空中に描かれた光の陣を、よく見えるようにネズミの目の上にかざしてやる。その顔には自信たっぷり、満面の笑みが浮かんでいて、まるで新しい玩具を自慢する子供のよう。
 というより、そのものであったのか。
「カジュちゃん謹製オリジナル魔法。名付けて、《見えない光の矢》。
 そもそも攻撃が見えなければ防ぎようがない。反応速度も詠唱速度も関係ないでしょ。ま、紫外線には気をつけようって……。」
 と、カジュはようやく気付いた。
 ネズミ男が、もうぴくりとも動かなくなっていることに。
 カジュは指先で、死体をつついた。やはり、反応はない。
「なんだ。死んだなら死んだって言ってよね。」
 カジュは立ち上がった。杖を両手に持って、んーっ、と大きく背伸び。それから、興味を無くしたような虚ろな目を、足下のネズミの死体に向ける。その顔は無表情。いつにも――いつにも増して。
「ボクより凄い術士……。」
 カジュは鼻で笑って、
「いるわけないじゃん。そんなもん。」

 シーファの右腕が、二の腕の半ばから切り落とされた。自分の腕が鮮血を纏いながら宙を舞うのを感じ、シーファはこの戦いに見切りを付けた。迷い無く跳ぶ。間合いを離す。そして敵と対峙する。
 緋女は間合いが離れて安堵したのか、倒れたヴィッシュを抱き起こしていた。シーファの一撃は確かに入った。ヴィッシュの鎖骨まで完全に切断しているだろう。衝撃で意識が朦朧としていようし、凄まじい激痛も走っているだろうが、すぐに治療すれば命が助からないこともない。
 シーファは思わず溜息を吐いた。滅多にないことだが。
 ――してやられたな。
 緋女が牽制してヴィッシュが牽制して、やっぱり緋女が本命。その二重フェイントの先に、さらにもう一ひねりあったのだ。恐らくあの2人は、シーファが負傷覚悟で緋女を狙うというところまで読んでいた。そのタイミングで煙幕を放ち、視界を塞ぐ。緋女を狙った全力の一撃を、代わりにヴィッシュが受ける。
 全ては最後の一瞬、隙だらけになったシーファと、完全フリーとなった緋女、この状況を作るためだけに。
 敗因は単純――甘く見すぎたのだ。ヴィッシュを。少々びっくりはさせられたが、所詮並みの剣士如きに大したことはできない。そう高をくくり、緋女だけに神経を集中し、その集中を逆に利用された。
 ――緋女の考えたことではあるまいな。あの男か……。
 と、その時だった。
〔あー、CQCQ。シーファ君、聞こえてるかなー?〕
 陽気な男の声が、ドームの中に響き渡った。弾かれたように緋女は辺りを見回す。だが誰もいない。声が妙にくぐもっていることも考えると、魔法でどこか遠くから声を届かせているのだろうか。
 シーファは滝のように血を吹き出す腕を、破った服のすそで縛り上げながら、
「邪魔をするな、コープスマン。今良い処だ」
〔ワガママ言わないの。今日はお開きだよ、コバンザメに戻っておいで〕
「魔法遣いは?」
〔君ふうに言えば……已んぬる哉!〕
「ふ……まあ、善かろう」
〔おや、いつになく素直だね〕
「お預けにはお預けなりの愉しみが在る。逢えぬ時間もまた味さ」
〔風流だねえ。んじゃ、また後で〕
 それっきり、奇妙な男の声は聞こえなくなった。
 じっ、と。シーファは緋女を睨み――いや。見つめていた。そして、彼女に抱き起こされたヴィッシュをも。
「其処の男」
 シーファが声を掛けると、ヴィッシュは痛みに顔をひきつらせながら彼女を睨む。
「名は何と申す?」
「……ヴィッシュ」
「左様か」
 まるで優しく微笑んでいるかのように。
「好い男(の)を捉まえたな。緋女」
 それだけ言うと、シーファは走り出した。斬り飛ばされた自分の右腕を拾い上げ、遺跡の外へ出る道の方へ。やがてその背中は闇に溶け――
 緊張の糸の切れたヴィッシュと緋女は、抱き合うようにへたりこんだのだった。

 高い、高いドームの天井を、ヴィッシュは痛みを堪えながら見上げていた。少しの辛抱だ。さっき、シーファの上役らしき男の声が言っていた。魔法遣いは「やんぬるかな」だと。つまりカジュは勝ったということだ。すぐに治療に来てくれる。
 それに、胸のあたりを枕にして、緋女にこうして抱かれているのも、いやな心地ではないし。
「な」
 緋女が、浮かれた声で囁いた。
「ん」
「やったな」
「逃がしちまったけどな……」
「いーじゃんか。あたしら、後始末人だろ。殺さなくたって、始末がつきゃ勝ちだよ」
「そうだな。お前の言うとおりだ」
 緋女の手が、そっと、ヴィッシュの髪を撫でた。
「なあ」
「ん。なーに?」
「お前、結構……胸あるな」
 ごめりいっ。
 緋女の全力パンチがヴィッシュの頭部にめり込んだ。
「んごあああああああああああああっ!?
 てっ……てめっ! 何すんだ! 俺ァ怪我人だぞ!!」
「うっせー! ざけんな! てめ殺す! 絶対殺す! 絶殺す!!」
 かくしてとっくみあいが始まった。とっくみあいというより、一方的殺戮であった。然るに、神経を磨り減らす高レベル魔法戦を終え、ふらふらになりながらカジュがドームに辿り着いたのは、ちょうどその時だった。人が必死に戦って、心配になって駆けつけてみれば。なんかいちゃいちゃしている。
 ぴくぴく。カジュの眉が震えた。
 身振りと魔法陣と杖の補助と、ついでに全力早口の呪文まで使って、最高速度の魔法構築。
「《大爆風》。」
 づどごぉぁぁあああああああああんっ!!
「爆発しろ。」
『させてから言うなあああああああああっ!!』
 吹っ飛び、もつれ合って墜落したヴィッシュと緋女は、見事に声を揃えたのだった。

 遠い秋空は澄み渡り、黒も白もない、どこまでも青。
 その空を、悠然と泳ぎ行く鮫の姿があった。大きさは、大型の帆船ほどもあろうか。その鮫の腹には、船の胴体に似た籠が吊り下げられていて、驚くべきことに、数カ所に空けられた窓の中には人の姿が見える。
 上陸用中型空艇魔獣ヌークホーン。通称『コバンザメ』である。
「また派手にやられたねえ、シーファ君」
 籠の中の一室で、椅子にどっかりと腰を下ろし、腕の治療を受けるシーファ。その姿見ながら、呆れ気味に男が頭を掻く。大変に珍しい視力調整器具――眼鏡というものをかけ、ぱりっとした服に身を包んだ紳士。企業人(コープスマン)の模範とさえ言える男だ。
 シーファは仮面の奥でどんな表情をしているのやら。ただ、その声は浮かれ、上擦ってさえいた。
「中々愉しかった。対等の勝負が出来る相手は貴重だ」
「対等?」
 コープスマンは苦笑する。
「その仮面、のぞき穴(アイホール)もついてないんだろう?」
 そう。
 シーファが身につけ、外そうとしない道化の仮面。
 その目にあたる部分には、穴はおろか、僅かな切れ込み一つ空いてはいない。
 視界を完全に闇に包む。そのためだけに被り続けている仮面。
「見るべき物など在りはせぬ。此の世は闇。全き暗闇。其れが証拠に、仮面を外さねばならぬ相手など、儂の前には存在せぬ」
 道化の仮面は嗤っている。
「――この世に誰一人として」

THE END.