"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A02/The Sword of Wish


 石畳の上に、蝉が一匹転がっていた。
 てっきり死んでいるのかと思ったら――やおら、黒い羽根をばたつかせて暴れ出す。瓦礫の上で闇雲に靴底を滑らせるかのような泣き声をけたたましく撒き散らしながら、飛び跳ね、墜落、跳ね返る。もう終わりなのだ、こいつは。小さな虫のもがきは、哀れを誘う死の舞踏。
「蝉は十年土に埋もれる、て」
 ガーラン爺は蝉のような声で言った。
「やっとこ這い出てくると、あとは交尾して死ぬだけ、て。
 そんなら、飛び回るより、這い回るほうがずっと長い、つうて」
 どうにも爺の表情は読みづらいのだが、彼の手許で火花は飛んでいる。それが綺麗な放物線を描き、途中で黒ずんで、空気に溶けたように見えなくなった。
「そんなことは知ってるよ。それがどうかしたのか」
 ヴィッシュは言いながらも、爺の手許から目を放さない。火花が飛んでいる。ヴィッシュの愛剣の白い刃から。
「蝉は本懐遂げたかや。いい女を捕まえたかや。そんで何かが残るかや」
 ヴィッシュは何も言えない。
「そこにおったんで、聞いてみただや」
「なんて?」
「どんな気分だ、つうて」


勇者の後始末人

“蝉の亡骸”



 ヴィッシュが鍛冶屋のガーラン爺と出会ったのは、もう七年も前のことだ。有名な爺さんだった。偏屈で、どこのものとも知れない方言を話すと。そしてさらに有名だった。鍛冶の腕では右に出るものはないと。
 こっちからかけた言葉は一言、「頼む」とだけ。返答は火花と、打ち直された剣が一振り。それ以来、付き合いは絶えない。
 何しろ鉄と火花を心から愛しているような爺だ。剣だろうが槍だろうが槌だろうが鎧だろうが、武具に限らず包丁、鍬、鋤、果ては鍋の鋳掛けから髪飾りまで、鉄と名の付くものなら見境なしに引き受けてくれる。そして、鋲一本にいたるまで納得のいく出来になるまで決して品物を返そうとしない。おかげさまで、ヴィッシュの家の台所は、さながら爺さんの作品展示会のごときありさまだ。
「いい鍋には味がある。鍋の味が料理に染みつくのさ」
 ヴィッシュが得意気に振る鍋もまた、爺の作である。
「仕事上がりにこいつで肴の一つもこしらえて、夜風でも浴びながら孤独に一杯いくのが、俺の唯一の楽しみなんだが――」
 彼の眉がぴくりと震えた。
「――なんでそこにお前らがいるんだよッ!!」
「いい匂いがしたから」
「夕焼けに誘われたから。」
 背後のリヴィングに居座る女とガキは、既にフォークをかまえて臨戦態勢であった。
 女は力強い艶のある黒髪で、年の頃なら17、8。顔つきは幼いが目は猛禽のそれ。体は細身だが痩せているわけではない。雪のような肌の下には肉食獣のしなやかな筋肉が包まれ、引き締まった股と腕が根本ちかくまで、ラフな一張羅の下から覗いている。それが寝椅子の上にあぐらをかいているものだから、ヴィッシュは目のやり場に困る。見るけど。
 名前は緋女(ヒメ)とかいったはずだが、たぶんウソだ。姫なんて上等なもんではない。断じてない。
 ガキの方は長い金髪を自由放埒な髪型に編み込んだチビで、人を斜め上から見下ろすような、いやな目つきをしている。いかにこのチビが美人で魔法使いでも、この目を好きになるのは不可能だ。まったく、最近のガキというやつは。
 名前はカジュ。ちょっと可愛い感じなのが腹が立つ。
「まったく、毎日毎晩タカりに来やがって……」
 言いながら、ヴィッシュは完成した男の手料理をリヴィングに運んでいく。今日のメニューは、夏野菜と豚肉のナッツ炒め。甘辛く濃いめの味付けに、コリコリと歯ごたえのある砕きナッツのアクセントがポイントだ。酒は泡酒(エール)か、麦の蒸留酒(スピリッツ)。
 かぐわしい香りに、緋女がヒクヒクと鼻をふるわせる。
「うんまそー♪ いっただっきまー……」
 がっ。と音を立て、振り下ろしたフォークがテーブルを貫いた。すんでのところでヴィッシュが皿を引っ込め、緋女の向かいに座り込んだ自分の膝の上に乗せる。
「やらん。俺のだ」
「あンだよ! ケチ!」
「金銭感覚に優れていると言ってもらいたいね」
「腹をすかしたイタイケな少女をほっといて、自分だけ食う気かよっ」
「誰がイタイケだ、筋金入りのすれっからしが! そんなに食いたきゃ自分で作れ。キッチンくらい貸してやる」
「ひょっとすると台所が爆発しちゃうけどいい?」
「なんでだよ!? どーゆー料理してんだ!?」
 いいかげん間の抜けたやりとりにも疲れて、ヴィッシュは大きく溜息を吐いた。こいつらが来るといつもこうだ。ヴィッシュはクールにいきたいのだ。いつも調子が狂わされる。これ以上はまっぴらだ。
「いいか? 俺とお前らは、仕事で一回関わっただけだ。仲間でもなけりゃ、友達でもねえ! つきまとわれちゃ迷惑なん……」
 と、言いかけて。
 ヴィッシュは気づいた。
 さっきから沈黙を保っていると思ったら――ガキのほう、カジュが静かに、俯いている。
 ソファの隅に縮こまって。小さな細い肩を、もっと小さく震わせて。
「……おい?」
「……っく……」
 泣いてる!?
 ヴィッシュは慌てた。泣かせたのか? 俺が? 泣かれたって困るのだが。こっちは理屈を言ってるだけだ。女子供だからといって泣けば何でも解決すると思われては教育によろしくない。だが――涙がこぼれた! 今、こぼれた! 表情こそ見えないが、カジュの膝の上、握りしめた拳の上に、ふたしずくの涙が落ちて、小さな透明の円を描き出す。ヴィッシュは思わず膝の上の皿をテーブルに戻し、腰を浮かせて立ち上がる。
「おい、何を……」
「ごぇっ……ごめん……そんっ……」
「あのな、泣かれたって……」
「あーあ。泣ーかした」
 緋女が茶々を入れる。
「うるっせえな!」
 ヴィッシュは声を裏返す。
 だが大声に反応してカジュの肩が一際大きく震えたのを見て取ると、それどころではないと思い直した。まずはとにかく、このガキを鎮火させるのが第一だ。柄にもなく床に膝を突いて身を屈め、座っているカジュの頭よりさらに下に自分の頭を持ってくる。上から目線じゃダメだ、こんなときは。
「おい、あのな、泣いてたって分からねえよ。言いたいことがあるなら言ってみな。別に怒りゃしねえから」
「……ぅ……ボク……この街で、知ってる人、いなくて……甘えちゃって……ごぇんなひゃい、友達じゃらいのに……!」
「いや、あのな、俺は別に、そういう意味で言ったんじゃないんだ」
「ないのか?」
 緋女が茶々を
「うるせえって! ああクソッ、大声出して悪かったって。泣くなよ……しょうがねえな……あーわかった、わかったよ。メシくらい食って行きゃいいだろ。その代わり、仕事ン時にはお前らにも手伝ってもらうからな!」
「……じゃあ……」
 ヴィッシュは溜息を吐いて、そっぽを向いた。多分それは、照れ隠しだったのだが。
「ほら。さっさと取ってこい。そこの鍋にお前らの分もあるからよ」
「わーい♪」
「いっただっきまーす。」
 ……………。
「……おいチビ」
 ヴィッシュが唸るような低い声をあげると、さっそく鍋にたかりにいったカジュが、涙の「な」の字も見えない目で、冷徹にこっちに視線を向けてくる。
「カジュですが何か。」
「『何か。』じゃねーだろ! 嘘泣きか!」
「失敬だね……優れた一時的疑似感情表現と言ってもらいたいよ……。」
「嘘泣きじゃねーか! ……あれ? 俺の分は?」
「いやーウマかったー♪ お腹いっぱい! あたしゃこの時のために生きてるのよー♪」
 と、ぽっこり出っ張ったお腹をさすっている緋女の前に、どさくさ紛れに食い尽くされたヴィッシュの分の皿。
「おまえらああああああああああああああああっ!!」
 そういうわけで――
 このところヴィッシュの所が見違えて賑やかになったと、近所ではもっぱらの評判である。

 第2ベンズバレンは復興計画の一環として建造された新しい港町で、街の中央を真っ直ぐ貫く背骨のような大通りが特徴的だ。石畳に覆われた清潔な道は、馬車十台が一列横並びになって走ってもまだ余裕があるほどの幅を持っている。この道が巨大な城門を抜けてそのまま街道になっており、その果ては王都ベンズバレンの大広場にまで繋がっているという。まさに、王国の大動脈である。
 数日後には着工10周年の記念パレードがここで開催される。パレードには国王陛下も参列するという。その準備もあってか、大動脈は休むことなく脈打ち続けている。
 港を目指す人の波は絶えることなく、さながら悠然たる大河のようであった。頭に荷物を載せた女が、どこかの商家の丁稚小僧が、馬が、馬車が、観光客が、玩具を手にしたガキどもが、怪しげなごろつきやヤクザ者までもが、大河に身を浸し、共に流れ、時に支流へ別れ、混ざり合い、ぶつかり合いながら、今日という日を生きている。
「女子供は気楽でいいぜ、まったく」
 と、ぼやくヴィッシュもまた、その中の一人。どっちかというと、ゴロツキの一種。いつもの細葉巻を口にくわえ、背中を丸めて、難しい顔して歩いている。ざわめき蠢く大通りから脇道にそれ、複雑に折れ曲がる通りを進むうち、周囲の街並みはだんだんいかがわしく変化していった。旅人を迎え入れる石造りの大手ホテルは、下級船員御用達の木賃宿に。輸入の絹織物を扱う商店は、商品の出所も怪しい古着屋に。落ち着いた雰囲気の洒落たデュイル料理店は、湯気を立てる油麺が評判のボロ屋台に。お供を引き連れ馬車で行く令嬢は、肌も露わに男の手を引く美しい女達に。
 薄汚い裏通りだが、まあ、こっちのほうが落ち着くというのがヴィッシュの正直な感想であった。
 ところが、ガーラン爺の工房は、ここから更に奥まった、貧民街の一角にある。石畳もなく土剥き出しの小道を行けば、打ち捨てられた廃屋のような建物が目につき始め、徘徊する乞食やいかにもな傭兵くずれがイヤな目で睨んでくる。人を見たら盗人と思え、というのはここのことだ。油断なく周囲に気を配りながら、ようやくヴィッシュは工房のある路地までたどり着いた。浮浪者の姿もないうらぶれた路地の向こうに、目指す工房の姿が見える。
 と。
 ヴィッシュは足を止め、反射的に物陰に身を潜めた。ガーラン爺の工房から、出てくる男が一人。ボロ布のフードを目深にかぶり、顔を隠した見るからに怪しげな男。一瞬だけ見えた口許に思い当たるものがあって、ヴィッシュは眉をひそめる。
 ――あの顔、どっかで……
 ひとしきり悩むが、僅かな情報におぼろげな記憶ときては、思い出せようはずもない。
 その間に男はどこかへ姿を消した。
「……ま、いいか。必要なことなら、そのうち思い出すだろ」

 虫食い穴だらけの木製のあばら屋。軋むドアを開けば、そこは鍛冶道具で埋め尽くされた爺さんの仕事場だ。金てこ、槌、竈、火バサミ、炭の袋に、古い鉄釘、その他用途の知れない様々な何か。その中心で、自分も鍛冶道具の一つであるかのように胡座を掻き、爺さんは一心に砥石をいじっている。
「爺さん、俺だよ。頼んでたの、仕上がってるか」
 返事はない。ただ、爺さんが白髪の奥の目を、ちらりとこちらに向けただけだ。よく見れば、爺さんが研いでいる剣は、昨日ヴィッシュが刃こぼれ直しを頼んでおいた愛剣であった。なるほど、今、最後の仕上げ中というわけだ。相変わらず愛想のない爺さん。ヴィッシュは思わず笑みをこぼす。
「分かった。しばらく中で待たせてもらうぜ」
 返事はない。なら、いいということだ。
 待っている間の手持ち無沙汰に、ヴィッシュは工房の中をあれこれ見て回る。ヴィッシュは道具が好きだ。金物屋で主の手に渡るのを待つ新品を見るのも好きだが、使い込まれた骨董品を眺めるのは格別である。何の変哲もない金槌一つとっても、使い手の好みによって柄の太さ、長さ、槌の形、重み、留め具の形状まで、全てが異なっている。その微妙な変化も、染みついた手垢の色も、爺さんの仕事ぶりを空想するには充分すぎた。ふと、自分がその槌を振るっている姿を想像する。ずっしりと手に来る重み。持ちあげ、振り下ろし、飛び散る火花。鉄の硬さが跳ね返ってくるような、槌越しの手の感触を思い浮かべるだけでワクワクしてくる。つい、槌を触りたくなってくる。
 ……という具合に、以前、道具に触れてしまって、めっぽう爺さんに怒られたので、やらないが。
 ふと、鍛冶道具の中に場違いな髪飾りが一つ、飾られているのに気が付く。おそらく素材は銀だろう。見る影もなく色はくすんでしまっているが、元々は、貴族の令嬢の黒髪にも、花嫁の白いヴェイルにも、鮮やかに映えたに違いない。
「へえ。爺さん、銀細工もやるのか?」
 剣を研ぐ音が止まった。
 珍しい反応に、ヴィッシュは驚いて振り返る。爺さんが手を止め、何事かじっと考えるように、刃に映った自分の顔を見つめている。
「売り物じゃねえだや」
「大事なもんか」
「かみさんの」
 再び、爺さんの手が動き出した。砥石の上を刃が滑る、鋭い音が聞こえてきた。
「女神さんにお呼ばれして。もう30年もどらねえ。
 みんなみんな、もどらねえ」
 ヴィッシュは頭を掻いた。悪いところに突っこんでしまっただろうか。話題を変えようと考えを巡らし、浮かんできたのは、さきほど見かけたうさんくさい男のことだった。
「なあ爺さん、さっき誰か来てただろ。客かい?」
 返事はない。
 沈黙が工房を支配した。
 しばらくして、爺さんはヴィッシュの剣を水で清めると、汚れた布でさっと一拭きし、虫食い穴から差し込む陽光に刃を照らした。芯鉄が生き生きと伸び、刃金が線を引いたような繊細さで澄ましている。ヴィッシュは息を飲んだ。これだから、この爺さん以外に剣を預ける気が起きない。
 爺さんは無言で、だが完全な自信を湛えた目で、ヴィッシュに剣を差し出した。
「お疲れさん。毎度ながら、いい仕事してくれるぜ」
 受けとった刃をじっくりと見つめ、惚れ惚れする愛剣を鞘に収める。
 ――と。
 そのとき、小さな音がした。初めは、立てかけておいた鞘か工具が、はずみで倒れたのかと思ったのだ。とても小さく軽い音だったから。だからヴィッシュは初め、何気なく視線を愛剣から持ちあげただけだった。
 事態を見て、声を挙げるまでには、思いのほか長い時間を要した。
「……爺さん!」
 呻き声一つすら挙げることなく、ガーラン爺は工房の中に倒れていた。

 ヴィッシュにできることは限られていた。周辺住人に声をかけ、小遣いをやって医者を呼びに走らせる。その間に爺を工房の奥の、寝室だか居間だか分からないようなボロ部屋に運び込む。楽な姿勢を作って爺を寝かせた後、熱があることに気が付くと、汲んだばかりの冷たい井戸水に布を湿らせ、額を冷やしてやる。
 医学の知識などこれっぽっちもないのが恨めしい。そこから先は、医者をただ待つしかできない。
 旧知のモンド先生は、馬で駆けつけてくれた。そんなに呑気でいいのかとやきもきするほど冷静に、だが確実に、モンド先生は処置を施した。脈を取り、呼吸を計り、持参した薬を飲ませ、患者が落ち着いたのを見て取ると、自慢の口ひげを撫でながら、そそくさと出ていった。その間、言葉はたった一言、
「安静にな」
 とだけ。
 ガーラン爺が意識を取り戻したのは、モンド先生が出ていったその直後のことだった。
「わし、どうかや……」
 消え入りそうな声で爺は言う。
「医者、なんだ、つうて……」
 ヴィッシュは可能な限りいつも通りの笑顔を作り、
「俺は何も聞いてねえよ。ま、モンド先生は名医なんだ。言うこと聞いて大人しく寝てな」
 爺は何も言わない。表情からも、何も見えない。
 いたたまれなくなって、ヴィッシュは立ち上がった。
「俺、先生を送ってくるよ」

 モンド先生を乗せた馬の手綱を引き、ヴィッシュは日の暮れ始めた貧民街を、足を引きずるように歩いていた。西に向かって歩けば、眩しさに眼を細めるしかない。自分の後ろに伸びた影が、どこまで続いているか分からない。
 暗く、暗く、深く、深く、伸びて、広がって――
「どうですかね」
 やっとヴィッシュは一言発した。
「いかんなあ……」
 少し、無言。ややあって、
「いかん……ですか」
「ああ……いかん」
 モンド先生は、鞍の後ろにくくりつけた道具箱から、パイプと刻み煙草の袋を取り出し、硫黄燧火(マッチ)で火を付ける。白い煙が、ほとんど見えないほどの細さで空に立ち上り、風に溶けて消えていく。
「血に毒気が回っとるし、内臓もあちこちやられとる。命があるのが不思議なくらいだわ」
「どのくらい保ちます」
 冷静な自分に腹が立つ。
「そうなあ、まず5日……いや、10日は保たせよう。痛みも薬で散らせるよ」
「……よろしくお願いします、先生」
「そりゃいいが、あの爺さん、金は持っとるのかね? 薬代、10日分で金貨で6枚にはなるぞ。
 わし、人情でただ働きはせんよ」
 ヴィッシュは懐を探り、財布にしている小さな革袋の口を開くと、中身にちらりと視線を落とす。金貨が3枚。手を伸ばし、それを先生の小さな皺だらけの手に握らせる。
「とりあえず、これで5日分。残りは後日」
「まいどあり。確かに10日分」
「え?」
 なっはっは、とモンド先生は軽く笑う。
「お前さんは運がいい。わし、今ちょうど半額セール中なんだわ」
 不器用な老人のウィンクに、ヴィッシュも思わず笑いを零したのだった。

 夜は来る。人が落ち込んでいようが、楽しんでいようが、構うことなしに。
 日が沈み、第2ベンズバレンを夜のとばりが包み込み、丸い月が上天にかかり、それでも街は眠らない。歓楽街は煌々と灯りをともし、油の無駄遣いをしながら夜の営みに余念がない。ヴィッシュもまた、眠れずにいた。ただし明るい夜の街と違って、灯りもつけず、リヴィングの寝椅子に仰向けになり、暗い天井をじっと見つめながら、であったが。
 夜は来た。いずれ朝も来る。夜と朝が過ぎ去れば、一日が手の届かぬ場所へ流れていく。簡単なものだ。寝ていても、歩いていても、笑っていても泣いていても、時間は滝のように落ちていく。
 1日。100日。10000日。繰り返し、繰り返し、飽くまで繰り返し、それでも飽くことすらできないその果てに――
「一体何かが残るかや……か」
「びっくりした。そんな暗いとこで何してるの。」
 呟いたヴィッシュの頭上から、子供っぽいが冷めた声が聞こえてくる。寝椅子に転がったまま首を上に向ければ、そこには逆さまにひっくりかえったカジュの顔が見えてくる。珍しいパジャマ姿のカジュだ。こいつめ、2階の部屋で寝ていたらしい。
「いたのかよ。家主に断りもなく泊まり込みか? もう完全に我が物顔だな、おい」
「駄目なら出てくけど。」
 ストレートなやつだ。そう真っ直ぐに言われると、嫌味を言ったこっちが情けなくなってくる。
「いーよ、もう……ガキを路頭に放り出せるか」
 ところがカジュは、その答えに不満そうであった。小さな腕を薄い胸の前に組み、例の蔑んだ目でヴィッシュを見下ろしてくる。
「勘違いしないでよね。別に養ってもらおうってわけじゃないよ。」
「あん?」
「必要な時にはこき使ってくれていーよ。ボクも、緋女ちゃんもね。」
 ドライなヤツ。思わずヴィッシュは笑いを零した。子供らしくないガキだが、こういうところは好ましい。
「いいのか。相棒に内緒で、そんなこと決めて」
「だいじょーぶ。ボク、緋女ちゃんのマネージャーだから。」
「頼もしいマネージャーがいていいなあ……で、緋女は?」
「おさんぽ。」
「呑気な犬だぜ……人生楽しいんだろーなあ」
「そうとは限らないと思うけど。まあ、今は楽しそうだね。」
 会話は一度、そこで途切れた。
 ヴィッシュは口を開きかけ、やめる。何が言いたいんだ、俺は? 頭がぐるぐる回っている。何か聞きたいことがある。それが何なのか分からない。あるいはとっくに分かっていて……口に出すのを躊躇っている。思考は、言葉は、ヴィッシュ自身にすら制御できないブラックボックスだ。
「なに。」
 向こうから背中を押されると、言いやすくもある。
「お前はどうなんだ? 人生楽しいのか……不安とか、寂しいこととか、ないのか」
 カジュはしばらく無表情で黙っていた。それが考えているのだと気づくには、少々時間がかかった。やがて言葉が聞こえてきたのは、窓の外の月が隣の屋根の影に完全に隠れた後だった。
「ボク、前は企業(コープス)にいたんだよね……。あそこだと、生活って保障されてるから……。」
「不安なし、か」
「逆だね。生きてて何の意味があるんだろう、ってずっと思ってた。」
 言いながら、カジュは奥のキッチンに引っ込んだ。やがて、木のカップに水を汲み、両手で後生大事に抱えて、リヴィングに持ってくる。ヴィッシュが寝ているのとは向かい側の寝椅子に、ちょこん、と腰を下ろして水を一口。
「緋女ちゃんと出会って、企業を飛び出して。保障が全部なくなって……。
 それからかな。楽しくなったの。」
 無表情なガキが、珍しく微笑んでいる。ヴィッシュはそれを目に焼き付けるように見つめた後、ふっと視線を逸らして、天井の闇に目を向ける。
「忙しけりゃ、暗いことを考えてる暇もねえ。ただがむしゃらに生きていられる」
「うん。毎日バタバタ。楽しいね。」
「だがそれだけじゃないだろ。不意に立ち止まっちまう時もあるだろ」
「そのときは緋女ちゃんと一緒に寝る。」
 ヴィッシュは爆発のような勢いで笑い出した。おかげで、カジュは元の無表情に――いや、なお悪いムッツリ顔になってしまった。水を二口、三口、全部飲み干す。カップをテーブルに叩きつける音が、不機嫌に響いた。
「真面目に言ってるんだけど。」
「いや、悪い。ずいぶん子供っぽいことを言うからさ」
「子供なんだけど。」
「全然そんな気がせん」
 カジュは目を閉じ、肩をすくめる。
「不思議な人だね。ボクを子供扱いしないの、緋女ちゃんの他にはキミだけだよ。」
「大人も子供もあるか。言葉が喋れりゃ、誰にだって考えはあるんだ」
 ふと、頭の中に浮かんだのは、ガーラン爺の物静かな横顔。
「いや。言葉が喋れなくたってな……」
 またしても沈黙。待ちくたびれたカジュが呆れ気味に言う。
「で、キミは。」
「ん?」
「ボクにだけ喋らせといて、自分は腹の内を見せないつもり。」
「俺か……」
 結局問題は、最初の疑問に立ち返ってくるのだ。
「なあ……俺は一体、何にこんなに打ちのめされてるんだ?」

 言葉にならない。
 ヴィッシュは居ても立ってもいられず、その夜のうちに再びガーラン爺の工房へ向かった。看病には近所の女が交代でついているはずだ。そのために幾ばくかの銀貨を掴ませもした。しかしどうにも不安が消えなかった。胸の中に、灰色の何かがモヤモヤとわだかまっていた。
 なのにそれが、言葉にならない。
 こういうときは、動くに如くはなし。
 考えていても駄目なことが、歩き回っていて答えが見えることもある。伊達に30年も生きてない。対処法の心当たりは、色々あるのだ。
 夜道を足早に進み、ガーラン爺の工房にたどり着いた。ひっそりと静まりかえった、冷たい貧民街の夜。穴だらけのドアをノックしかけ、ヴィッシュはそこで異変に気づいた。
 静かだ。
 静かすぎる。
 人の気配が全くない。
 ノックもなしにドアを開け、奥の寝室に上がり込む。相変わらずの散らかった部屋。木と藁で作られた粗末なベッドは空だった。背筋を冷たいものが駆け上がっていく。ベッドのそばには、看病を頼んだ近所の女が一人、倒れ伏して寝息を立てている。
「おい!」
 抱き起こし、肩を揺すり、耳元で声を張り上げても、女が起きる気配はない。
「……魔法か!」
 歯噛みしてヴィッシュは耳を澄ました。聞こえてくる音。数人の気配。車輪が回り、車軸が挙げる軋み声。遠くない。まだ追いつける。
 思うが早いか、ヴィッシュは弾かれたように駆け出していた。

 貧民街の一角、影が色濃く淀むかのような狭い通りに、その一団はいた。
 黒いボロ布で鎧を隠した、見るからに盗賊然とした男達だった。中には荷車が一台。その上には、剣やら槍やら鎧やら、武具の類が山と積まれ、荒縄でしっかりと固定されている。
 そして荷車の横には――足を引きずるようにトボトボと歩く、ガーラン爺の姿。
「待ちな!」
 追いついたヴィッシュが低く声を張り上げると、一団はざわめきながら足を止めた。
「その爺さんは、医者から安静を言い渡されてるんだ。こんな夜更けに、連れ出してもらっちゃ困るんだがな」
「誰も、連れ出してなどいない」
 男達のざわめきが、止まった。
 その声の主が前へ出るにしたがって、一団は水が左右に分かれるかの如く、自然に道を開けた。
 その男、全身がフード付きの黒いマントに覆われ、細い体つきや、やや高い背丈以外には何も読み取れない。ただ一つ、時折マントの下からつき出して見える黒い棒状のものは、長剣の鞘であろうと思われた。見る限り全身黒ずくめの姿が、気味が悪いほど影の中に溶け込んでいる。
 ――あの男だ。
 昼間、ヴィッシュが爺さんを訪れたとき、直前に工房から出てきていた、あの不気味な男。
 あの時は遠目で分からなかった。だが、今こうして近くで目の当たりにすると……この身のこなし。この男、かなりできる。
「この爺は、自らついてきているのだ」
「なに……」
 黒ずくめは、男達の前に出てくると、ヴィッシュと対峙して足を止めた。それを見て取ってから、僅かにヴィッシュも間合いを詰める。距離は4歩あまり。その距離をぴたりと守って、ヴィッシュはそれ以上近づかない。これが、突然仕掛けられても咄嗟に対応できるギリギリの距離だ。
「どういうことだ。おい、爺さん!」
 爺は何も言わない。
 だが、心なしか、その表情に躊躇いが見て取れるような気がした。夜の闇の中では、気のせいだと言われても分からないかも知れないが。
「運の悪い男だ」
 黒ずくめが、言う。
「余計なことに首を突っ込まねば、安穏と生き延びられたものを」
 男が剣の柄に手を――
 瞬間。
 閃光!
 刃交わり、光が散った。
 一瞬の煌めき、狩人の本能、それがヴィッシュを突き動かした。目ではない。頭でもない。ただ嗅覚と反射のみがそれを捉えた。黒ずくめの男が放った抜刀からの一撃。4歩以上もあった間合いを瞬時に詰めての抜き打ち。すんでの所でそれを受け止めたのは、まだ鞘から半分しか抜かれていないヴィッシュの愛剣。
 ――こいつ……
 悪寒が走る。恐怖が膨れあがる。僅かでも反応が遅れていたら――
 ――強い!!
 思うが早いかヴィッシュは動く。男の腹を蹴りつけながら、その反動で飛び退る。流れる動きで剣を抜き、防御重視の中段構えで鋭い切っ先を真っ直ぐに向ける。男は早くも蹴られた蹌踉めきから立ち直り……いや、違う。蹴られる直前に自ら飛び退き、蹴りの威力を殺したのだ。
 対峙する。青く輝く満月の下。吹きすさぶ砂塵の中。
 やがて風は収まり、砂埃がそっと舞い降り――
 男が奔る。肉薄まで一息。地を舐めるかのような下段からのすくい上げがヴィッシュを襲う。それを叩き落としたのもつかの間、返す刀が横から、上から、無尽に迫る。ヴィッシュの捌きは几帳面で精密、だが受ける以上の余力などありはしない。
 舌を巻くような達人だ。息も吐かせず相手を追い込む強烈な攻めの剣術だ。ともすれば見落としそうになる斬撃を辛うじて受け、流し、あるいは避けつつ、ヴィッシュは必死に勝機を探る。攻撃一辺倒のスタイルならば、必ずどこかに――
 ――見えた!
 男が喉狙いの突きを繰り出した瞬間、その足捌きが微かに乱れる。猛攻が生んだ隙。それを見逃すヴィッシュではない。
 身を捻り、突きを受け流し、体勢を崩した男の肩に必殺の一撃を振り下ろす!
 が。
 次の瞬間、流されたはずの男の剣が、横手からヴィッシュの腕を狙った。
「なっ……!?」
 ――返し技だと!?
 驚き一色に意識が埋まり、それでもヴィッシュの脳はめまぐるしく動く。捌く? 無理! 後退? 間に合わない! いっそ前進? 思う壺だ!
 ――ならばこれしか!
 咄嗟にヴィッシュは自ら地面に倒れ込んだ。敵の剣は狙いを逸らされ、ヴィッシュの腕を軽く薙ぐ。そのまま転がり、片膝突いて身を起こす。予想外の対応に驚いたか、黒ずくめの動きが一瞬止まる。またしても隙だ。ヴィッシュは打ち込みをかけ――
 半ば本能的に刃を引いた。
 代わりに地面を蹴って間合いを広げ、荒い息を整えながら仕切り直す。駄目だ。打ち込めない。こいつの隙は罠だ。抜刀術に始まる攻め一辺倒、隙の多い剣術と見せかけて、その実、わざと見せた隙からカウンターで討ち取る。この返し技への対策がない限り、隙への打ち込みはむしろ自殺行為。
 ――どうする? 考えろヴィッシュ!
 だが――
 男の猛攻がその暇を与えない。
 迫る。

 夜の裏通りを一匹の犬が歩いている。
 青白い月の光を浴びて黒々と輝く毛並みは、明るい陽光の元でなら鮮やかな深紅に見えただろう。堂々たる体躯を踊るように揺らし、しなやかで強靱な脚を軽やかに運び、犬は月夜の散歩を満喫していた。
 どことなく、その足取りに美しさすら感じられるのは気のせいだろうか。
 気のせいではあるまい。彼女は緋女だ。
 狼亜人の緋女にとって、夜の散歩は日課のようなものだ。街を闊歩するとき、彼女はもっぱら、犬の姿でいることを好む。魔法の力によって服も剣も一緒に変身してしまえるから不便はないし、人間でいるより身軽。鼻も目も効くこの体なら、見えない物が見えてもくる。
 それが今夜は幸いした。貧民街にさしかかったころ、緋女の鼻を衝く不快な臭い。ご機嫌な月夜の散歩が一瞬にして血生臭い緊迫の下に塗り込められる。良く知っている臭いだ。血の臭い。それもこれは――
 思うのと、四つ足で駆け出すのと、一体どちらが先だったのか。
 緋女は地を蹴り、塀を伝い、長屋の屋根を跳び越えて、矢のように貧民街を駆け抜けた。一直線。目指すはわだかまる不快の源。血の臭い。
 臭いのもとへ辿り着き、野次馬が作った人垣をひとっ飛びに跳び越え、その中心に着地すると同時に人間へと変身する。急に重くなった体重が緋女の勢いを殺してくれる。靴底で砂埃を蹴り上げながら、緋女は覆い被さるように彼のそばに跪いた。
「ヴィッシュ! 起きろこら!」
 ヴィッシュは血だまりの中、月を仰ぎ見るように横たわっていた。緋女が見たところ、腕と腹にかなり深い傷がある。一目で分かる。刀傷だ。緋女の中にあった赤くて熱くて激しいものが爆発のように拡大した。髪が逆立つ。八重歯が血を求めて剥き出しになる。
「誰がやった! ぶっ殺してやるっ!!」
 睨みつけるように周囲を見回し、だが見えるのは罪もなさそうな野次馬達のみ。どいつもこいつも、貧民街の住人達だ。武器を持っているやつなどいない。ヴィッシュをこんなにできるやつなど居ようはずもない。
 歯を食いしばりながら、思わず緋女が彼の胸に手を当てると、ヴィッシュは小さく呻いて意識を取り戻した。
「緋女か……?」
「こんなかわいい子が他にいるかよ。おい、お前、死ぬんじゃないよな!?」
「……ちょっとまずっただけさ……」
 眼を細め、ヴィッシュは青い月を見る。
「死んでたまるか」
 聞こえる。
「死んでたまるかよ」
 夜鳴きする蝉の声。

「魔族ぅ?」
 箸でつまんだ綿のワタを傷薬のビンにペタペタ浸けながら、緋女は思いっきり眉をひそめた。
「なに、お前、そんなもんに負けちゃったわけ?」
 何も言い返せず、ヴィッシュは渋い顔であった。
 黒ずくめの男に敗れたヴィッシュは、危ないところで野次馬たちに助けられた。派手なチャンバラ音を聞きつけた興味本位の観客たちを嫌い、黒ずくめは舌打ちしながら立ち去ったのである。そうでなければ、あるいは人の目が集まるタイミングがもう少し遅ければ、ヴィッシュは止めを刺されていただろう。
 間一髪。薄氷の上を幸運にも渡りきった、というところか。
 その後、緋女に助けられたヴィッシュは、自宅まで運ばれ、手当を受けた。内臓にまで届いていた脇腹の重傷は、カジュの治癒魔法で即座に治され、その他の細々した傷には薬が塗られた。その間ずっとヴィッシュは眠りこけていて、気が付いたら翌朝だったのだ。夜が明けたら、薬を塗り直そうということになって、体中の細かな傷に……
 べちゃっ。と、薬に濡れたワタが擦りつけられた。
「ぬおぁぁあ!? もっと繊細にやれよ!」
「うっせーな、男のクセにピーピー言うなよ。そんなだから魔族とかに負けンだぞ。あんなもん狩りの獲物じゃんか」
「簡単に言ってくれるぜ……」
 ヴィッシュは力なく溜息を吐く。
 緋女の言うことも、乱暴だが正論ではある。言い返せないのが辛いところだ。
 魔族というのは、10年前、全世界相手に戦争をふっかけてきた魔王ケブラーの一族である。人間とよく似ているが、体は細身で、筋力や体力には劣り、代わりに器用な手先と、卓越した魔法の才能を持っている。耳が細長かったり、肌が黒かったりと、人間と異なる外見を持っていることもある。
 ヴィッシュを完膚無きまでに叩きのめした(思い出したくない……)黒ずくめの男は、紛れもなく魔族であった。魔王軍の生き残りを始末するのが、後始末人の仕事。そしてヴィッシュはこの道10年。緋女の言うとおり魔族は獲物の一種に過ぎず、それにこうも簡単に破れたというのは、ヴィッシュの沽券に関わる。沽券は信用に関わり、信用は収入に関わる。
「まあ、いつもいつも上手くいくわけじゃない。こういうこともあるんだ、人生には。うん」
「やーい、負け犬ー」
「犬はお前だろ!」
「じゃ、負け人間ー」
「それならよし」
「いいのか?」
「いいんだ。人間には、潔く認めることも要る」
「ほーお? ……ねねね、ね、おねーさんがカタキとってやろーか」
「……おねーさん?」
「あたしあたし」
「10コ下のくせに」
「いいじゃんか。あたし、強いよ。役に立つよ」
「いらんっ。自分で勝つ!」
「まったまた。怖いクセに。うりうり」
 緋女が人差し指でヴィッシュのほっぺたを突いてくる。突かれるままに、ヴィッシュは腕組みして渋い顔。と、その時、ぼそっと小さな声が響いた。
「《鉄砲風》。」
 ぼうんっ!
 突如室内で巻き起こった魔法の突風に、寝椅子は吹っ飛び、テーブルはひっくり返り、家具調度の類は無惨に散らばる。ヴィッシュと緋女は絡まり合って床に転がって、逆さまに声の主を見上げる。大人にとっては大したサイズでもない水晶玉を、両手一杯に抱えて、仁王立ちする少女の姿。
「ゴキゲンなとこ、悪いんですけどー。」
 カジュの視線が怖い。
「お客さんだよ。」
「……客?」
「いやあ、その節はどうも」
 カジュに促されて玄関のほうに視線を向ければ、そこには、演劇に使う仮面のように不気味な事務的笑顔を浮かべた、身なりのきちんとした男が一人。上に覆い被さった緋女の体をどけながら立ち上がり、ヴィッシュは眉間に皺を寄せる。どうもこいつが来ると、ろくな目に遭わないのだ。
「後始末人協会のコバヤシでございます」
 コバヤシは、定規をあてたように背筋を伸ばして、気さくに会釈を送ったのだった。

 黒海牛の革をなめしたジャケットは、縁取りに金糸のさりげない装飾が入っていて、この男のために存在するかのごとく似合っていた。コバヤシはヴィッシュの向かいの寝椅子に腰掛け、カジュが出してくれた白湯を丁寧に啜っている。
 落ち着き払った礼儀正しい態度であったが、この男の場合、どんな礼節も笑顔も涙も、驚きや恐怖ですら道具に過ぎない。自分の体が放つ情報という情報を、相手を誘導する手段としてのみ用いる男だ。
「いや、私としても嬉しいですよ。あなたがたにチームを組んでいただけて」
「何がチームだ、いけしゃあしゃあと……あんたのおかげで、えらい苦労だぜ」
「しかし、ヴィッシュさんも明るくなりました」
 言われてヴィッシュは、苦虫を噛み潰したような顔してそっぽを向く。多少は自覚していただけに、指摘されると腹が立つ。
「……で? 始末の話か」
「ええ。本部から手配書が回って来ましてね」
 強引に話題を変えるヴィッシュに、コバヤシはにこりと笑って、懐から取り出した巻物を広げてみせる。質の悪い羊皮紙には、共通語で書かれた名前と特徴、それから精密な似顔絵。ヴィッシュは片方の眉を持ちあげた。どこかで見たような顔だ。
「魔族の剣士です。名前はゾンブル・テレフタルアミド」
「おい、その名前……」
「テレフタルアミド王家、由緒正しい魔王の血統です。もっとも、かなり遠縁だそうですが」
 ヴィッシュは大きく深呼吸して、それから盛大に溜息を吐いた。寝椅子の背もたれに体を投げ出す。板張りの天井を仰ぎ見る。ほらみろ、この男が来るとロクな目に遭わない。
 魔族の剣士ゾンブル。昨夜、ヴィッシュを叩きのめした、あの男だ。
「どおりで、取り巻きどもを引き連れてるわけだぜ……」
「は?」
「なんでもねーよ。敗残兵がすがりつくには、もってこいのカリスマってわけだな」
「そうですね。既にこの男、魔族の残党を集めて、十数人規模の野盗団を組織しています。しかも、その組織の活動が最近活発化していまして」
「近所の村でも襲われた、か?」
「ええ。皆殺しにされました」
 ヴィッシュは目を丸くする。
「……マジかよ」
「マジなんです」
「キレてやがるぜ……後先考えてないのか」
「そこがどうにも不気味というわけで。始末人協会としては、これ以上看過できません。ならば、第2ベンズバレン支部きっての優秀なチームにお願いしようと」
 何が嬉しいのやら、上機嫌にコバヤシは小さな革袋を取り出した。テーブルに載せるとき、コインがぶつかり合う素敵な音が、袋の中から聞こえてくる。コバヤシが袋の口を開けると、中には金貨がぎっしりと詰まっている。
「前金で4000。後金でもう4000。いかがでしょう」
 こいつはまた、始末人協会も奮発したものだ。あるいは、国か市長あたりから大口の依頼を取りつけたのか。いずれにせよ、相場の倍は行っている。相手は魔族が十数人以上。ヴィッシュ一人なら絶対に請け合えない仕事だが、今の彼には強力な剣士と術士という手駒がある。この戦力なら充分に対処できる相手だ。
 ――ん?
 ふと頭を過ぎった違和感に、ヴィッシュは軽く首を傾げる。
 傾げながら、ヴィッシュは手を伸ばした。
「ま、そんじゃ引き受け――」
 と、彼の手が止まる。
「合わせて8000か」
「8000です」
 少し考え、
「やっぱやだ。後金を5000にしてほしい」
「……珍しいですね。あなたが報酬を上げにかかるなんて。何か急ぎでご入り用で?」
「別に。危険手当だよ。ヤバい相手だろ」
「……ま、よろしいでしょう。その代わり、今後とも宜しくお願いしますね」
 悪魔の笑みを浮かべるコバヤシに、ヴィッシュは口をへの字に曲げた。ああ、やだやだ。おかげで、次に依頼が来たとき断りづらくなってしまったじゃないか。それというのも、全てはあいつらの――
 そのとき、不意に、さっきの違和感の正体に気が付いた。
「……おい、あんた」
「はい?」
「ひょっとして、緋女たちとケンカになったあの一件……俺たちを組ませるために、あんたが仕組んだんじゃなかろうな?」
 コバヤシはにこりと笑って――これは珍しく、作為のない本物の笑顔のように見えた。
「ご想像にお任せします」

 コバヤシが帰った後、ヴィッシュは背もたれに体重をかけたまま、じっと金貨の詰まった革袋を見つめていた。40枚の金貨。かたぎの人間には一財産だ。とはいえ、それも彼の空しさを埋めてはくれない。金は最も安定な金属で、腐食しにくく、重く、柔らかく、光沢がある。ただそれだけだ。柔らかすぎて、何の実用性もない。ただの金属だ。
 こんなものが欲しいのではないのだ。
 しばらくして、2階にひっこませていた女2人が、階段を軋ませながら下りてきた。獣のように軽やかな足取りと、夜の森のように静かな足取り。いつものように、背もたれの上で体をそらし、背後に立っている2人を逆さまに見上げる。
「コバヤシ、なんだって?」
「仕事さ」
 ヴィッシュはテーブルの革袋をつまみ上げ、重みのある金貨をジャラジャラと得意気に鳴らして聞かせると、子供のように無邪気な笑みを浮かべたのだった。
「1人頭3000。乗るかい?」

 3人で思い思いにテーブルを囲み、作戦会議が始まった。まずはカジュに通信用の水晶玉を準備させ、
「カジュ。お前は魔術師仲間から《遠話》で情報を集めてくれ。30年くらい前、ベンズバレンで何か事件が起きてないか。こう……人が大勢死ぬような」
「なに、それ。関係あるの。」
「まだ分からねえ。とにかく、頼む」
 頷き、水晶玉に手をかざして呪文詠唱にかかるカジュ。その肩に手を乗せて、水晶玉の上に身を乗り出すようにして、緋女が顔を近づけてくる。その目のキラキラしたことと言ったら、お気に入りの玩具を前に、千切れんばかりに尻尾を振りまくる犬そのもの。
「ねねね、あたしは?」
「俺と一緒にガーラン爺の足取りを追う。お前の鼻が頼りだ」
「ガーラン? ゾンブルじゃなくて?」
「協会にも尻尾を掴ませてないなら、ゾンブルの潜伏は完璧だ。俺たちがにわかに動いたからどうなるってもんでもない。
 その点、爺さんは荒事には素人。しかも、最近になって急に動いたふしがある。
 仕事のコツってのはな、いきなり高望みはせず、上手くいきそうなところから手を付けることさ」
 と、ヴィッシュはウィンクなどしてみせた。

 もうすっかり通い慣れてしまった貧民街に、ヴィッシュと、犬に変身した緋女は足を運んだ。犬としての緋女は、世にも珍しい赤毛をしている。長い艶やかな毛は、日頃からカジュにしっかりと櫛を当てられていて、人間の時の髪と同じく、美しい光沢を見せている。微風に赤毛をなびかせながら、緋女は尖った鼻先をひくひくと動かす。
「分かりそうか?」
 上から覗き込みながらヴィッシュが問うと、緋女は睨むような目を返してくる。牙を剥き出し、軽く唸ってすらいる。ずいぶん険悪だが――と、ヴィッシュは彼女の視線が葉巻煙草に向いていることに気づいて、慌てて火をもみ消した。
「そうか。悪い悪い」
 ふんっ、と鼻を鳴らして、再び緋女は臭いを嗅ぎ始める。
 と、いきなり緋女が一方向に歩き出した。貧民街から、裏通りへ向かう方向だ。少し進んだあたりで緋女はぴたりと足を止め、ぼんやりと眺めているヴィッシュに目を遣る。その目が言っている。なにやってんの、早く来いよ、と。
 思わずヴィッシュは口笛を鳴らした。それから、ぼそりと小声で、
「いいなあ、犬って。役に立つし、しとやかだし……ずっとあのままでいてくれねえかな」
 ぴくり。
 綺麗な三角形の耳が動いたかと思うと、赤い犬が猛然とダッシュしてきて、飛びかかるなりヴィッシュの腕に噛みついた。
「のわーっ!? 今のが聞こえるのかよ!?」
「ぐるるるる」
「や、やめろっ! やめて緋女さま! うそです、人間モードもステキ……」
「がおーっ」
「ぎゃーっ!?」

 辿り着いたのは貧民街の隅にある荒ら屋の前だった。
 緋女が足を止め、じっと見上げるその先には、軒先から吊された粗雑な木看板がある。屋号がわりに掘られているのは、吸い付きたくなるような泡を溢れさせたジョッキの絵だ。識字率の低かろう貧民街住人への配慮というところか。木戸の中からは、何とも言えない揚げ油の匂いが漂ってくる。
 場末の酒場であった。
「ここか? 中に入ったのか?」
 半信半疑で、後ろ頭を掻きながらヴィッシュは問う。緋女は、色とりどりの粘土をデタラメに混ぜ合わせたような姿を経由して、人間の姿へと変身した。何度見てもこの変身が気持ち悪い。途中経過さえ気にしなければ、結果はふかふかした犬、ないし、むにむにした女、なのだが。
「そーみたいよ。爺さんの形した臭いが入ってる」
 形した臭い? なんだそれは? 犬の感覚はよく分からない。
「とすると、ここがアジトか……? さて、入るべきか……だが、この界隈で一見客ってのも怪しいよなあ……」
「やっほー♪ おっちゃん、2人ねー」
「おおおい!?」
 景気よく木戸を潜る緋女の肩を、ヴィッシュは慌てて掴んだ。しかし緋女は事も無げに自分の顔を指さし、
「あたし、ここ、なじみ」
「はあ?」
 機嫌良く笑い、跳ねるように緋女は飛び込んでいった。恐る恐るヴィッシュが後に続くと、薄暗い店内には客の姿一つ無く、ただグラスを磨いている仏頂面の店主が一人のみ。早くもカウンターについた緋女は、壁に吊された品書きを物欲しそうな目で見回している。
「今日は何にしよっかなあ……蒸留酒!」
「はいよ。緋女ちゃん、お見限りだったね」
「最近ドタバタしてたんだよ」
 名前まで知られている。こうなっては、入らないほうが不自然というものだろう。ヴィッシュは緋女の隣に腰を下ろし、
「マスターとも知り合いなのか」
「この街の安い飲み屋とかメシ屋は、だいたいトモダチだね」
「ほーお」
 感心してヴィッシュは緋女の横顔を見る。
「お前、意外に顔ひろいんだな」
「ヒロインだけにな……」
 ……………。
「あ、俺、泡酒ね」
「にひひひひ」
 ヴィッシュの反応に満足げな笑い声を挙げる緋女であった。

 ここから先が難しい。ヴィッシュは緋女と他愛のない話をするふりをして、慎重に機会を窺っていた。昨夜ガーラン爺がここにきた以上、店主は何か知っているはずだ。ことによると、敵のメンバーということもありうる。下手な動きは命に関わる。
 好材料は、緋女が本気で飲んでるということだ。一人、心の底から楽しんでいるヤツがいれば、まさか向こうも探りを入れているのだとは思うまい。
 ……まあ、仕事忘れるんじゃねえよ、とは思うが……
 出方をうかがっているうちに、ふと、会話が途切れた。これ幸いとヴィッシュは本題に取りかかる。
「しかし偶然だったな。ガーラン爺から聞いた店が、お前のなじみだったとは」
「ん? 爺から……」
 とっさに、ヴィッシュは緋女の肩を抱き寄せる。
「ひゃんっ!?」
「お前もいい店知ってんじゃねーか! 見直したぜ!」
「え、ちょ……なんだよ、さわんなよぉ……」
 緋女は何やらしどろもどろにいいながら、ヴィッシュの体を引きはがそうと押してくるが、その手に大した力は入っていない。何がやりたいんだこいつは、と怪訝に思いながら彼女の耳元に口を持っていき、かまわず囁く。
「……下手なこと喋るな。カマかけるから話合わせろよな」
 げしっ。
 間髪入れず、緋女の蹴りがヴィッシュのスネに食い込んだ。
「ぬおおっ!?」
「……ころす」
 不機嫌にそっぽを向いて、緋女は蒸留酒をあおりはじめた。涙目でスネを押さえるヴィッシュには、一体何が何やら分からない。その姿を、ちょっかいかけようとして振られた男と見たのか、店主は苦笑しながら注文の料理を運んできた。薄切りにした芋をこんがりと焼いたものに、軽く塩を振っただけの料理だが、焼き加減があまりにも絶妙なために、食べずに見ているのが辛いほどの品だ。
「お客さん、ガーラン爺の知り合いだったのかい?」
「長い付き合いでね」
 芋をがっつく緋女を、頬杖つきながら微笑ましげにヴィッシュは見る。もちろん、演技である。若い女をモノにしようと連れ出した年増男を装う。内心では、俺の分残しとけよこら、と思っている。
「うちの台所は、ガーラン爺の作品展示会ってとこさ」
「ははは! 実を言うと、ここの厨房もなんだ」
「愛好者仲間がいたか。いい味がするんだよな、爺さんの鍋は」
「兄さん、分かってるねえ……」
 店主はカウンターの向こうから身を乗り出してきた。よーし食いついた、とヴィッシュは心の中で小躍りしている。頑固そうな男を籠絡する方法は二つ。若い女の色気を見せること、もしくは、彼のこだわりを理解してやることだ。
「それがな……昨日からいないんだよ、爺さん。仕事、頼まれてたのによ」
 いいながら、ちらりと緋女に視線を送る。緋女は気づかれない程度に小さく頷き、
「ほんとほんとー。とんだ無駄足だったわよー」
 おー。いい棒読みだ。
 ……こいつに腹芸は無理だな。
「あの爺さんから仕事だって?」
 店主が眉をひそめる。ヴィッシュのなりを見れば、まっとうな商売人でないことは分かるだろう。それをふまえて、嘘もそれらしく吐く。
「ああ。荒事を頼みたいって言われてな」
「爺さんなら、ゆうべここに来たよ。船を貸してくれって。裏が運河に繋がってるんだ」
 運河!
 顔をしかめてしまったのを、ヴィッシュは慌ててジョッキを傾けることで誤魔化す。第2ベンズバレンは計画的に建造された港町であり、運河はその生命線と行っても良い。都市全体には大小様々な水路が張り巡らされている。商家も軍も企業(コープス)も、あらゆる階級の個人も、運河を利用している。
 やられた。おそらく、魔族ゾンブルの指示だろう。船で移動されては、臭いで追うことも不可能だ。こちらがこういう手に出ることを見越していたに違いない。
 ここまでか、とヴィッシュが落胆していると、
「そうか……爺さん、まだ諦めてなかったのか」
 店主が寂しげな顔をした。
「何を?」
「復讐さ」
 ヴィッシュは泡酒を飲み干す。思わぬ収穫の予感だ。もう一押し。
「奥さん……大事そうにしてたもんな」
「なんだ、知ってたのか」
 大当たり。
「もう30年になるかな。爺さん、金を貯めちゃあ人を雇ってな。何度となくやらかそうとしてたんだよ。
 だが、後ろ盾もなにもない、鍛冶屋の爺の依頼だ。金だけ持ち逃げされたり、警吏に通報されそうになったり。損ばかりでな……」
「損か……」
 細く長く、ヴィッシュは溜息を吐く。これで聞くべきことは全て聞き終えた。都合良く、酒も料理もなくなったところだ。銀貨をカウンターに置きながら、ヴィッシュは疲れたふうに立ち上がった。無邪気に次を頼もうとしている緋女の脇腹を、人差し指でつつく。
「あぅん」
「損でも良かった……のかもしれねえぜ」
 爺さんの背中が、小さく、遠くに、見える気がする。
「どす黒い気持ちでも、生き延びる気になれるなら」

 ガーラン爺は運河で逃げた。船は徒歩に比べて極めて静かに、そして素早く移動できる。もはや爺の足取りは追えない。これでルートが一つ潰れたわけだが、それなら次の手を打つまでだった。やるべきことは分かっている。まずはカジュと合流して、彼女の調査結果を得ることだ。
 その後の動き方も、いくつか想定がある。迷う余地はない。ないはずだ。
 なら、ヴィッシュの頭を掻き乱しているのは、それとは全く無関係の何か。
「おい! どこ行くんだよ」
 緋女に後ろから呼び止められて……はて、緋女とは並んで歩いていたはずだが……振り向くと、彼女が呆れた顔をしてこっちを睨んでいる。いつのまにか、自宅の前すら通り過ぎていたのだ。
 ヴィッシュは溜息交じりに踵を返す。
 頭の中が考え事でいっぱいで、あたりまえの判断すらできていない。よくねえな、と自省する。このていたらくでは、失敗する余地のない仕事にすら失敗しかねない。深呼吸で気持ちを落ち着けながら自宅のドアを開けると、リヴィングの寝椅子では、あぐらの上に水晶玉をかかえたカジュが何やら甲高い声を挙げていた。
「へーっ、そんなことあったんだぁ。知らなかった!」
〔まっ、オレにかかればこんなもんかな! 参考になった?〕
 少しくぐもった若い男の声が、水晶玉から聞こえてくる。水晶玉の内部には白い炎のようなものが揺らめいていて、それが、声の抑揚に合わせてチカチカと瞬いている。魔術師が遠方の知人と連絡を取るときに使う、《遠話》の魔法だ。ヴィッシュも実際に目にするのは初めてである。
「ありがと、えーちゃん♪ ちょー参考になったよ。
 あのね……お礼、あげる。水晶に耳近づけて♪」
〔ん? なんだ?〕
 カジュは恋人の頭を抱くように水晶を胸に抱え込むと、なるべく卑猥に、しかし愛らしい音を立てるように、乱暴で愛情たっぷりのキスを水晶にしてみせた。彼女の唇が水晶に触れて離れる音は、魔力の波に乗って宙を駆け抜け、遥か彼方の相手へと届いたことだろう。
 沈黙が、二人の間を人肌の温もりで満たしたようだ。
〔や、や、や、やめろよーっ! お、女の子が簡単にそんなこと、しちゃ駄目なんだぞ!〕
「えーちゃんにしか、しないもん……」
〔……ああ……もう……かわいーやつ! そのうちベンズバレン行くからさ! デートしてくれよなっ!〕
「うん。待ってる♪」
〔よっしゃあ! んじゃ、またなっ!〕
 テンションの高い上擦った声が消えると同時に、水晶玉の白い炎も消え失せた。それっきり、カジュは興味を失った玩具を放り出すように、水晶玉を床に転がす。背もたれに大仰に体を預け、貫禄たっぷりに足を組むと、さっきまでの猫なで声とは別人のような低い声で、
「……ざっとこんなとこですが、何か。」
『頼もしいなあ、おい』
 ヴィッシュと緋女の声が見事に唱和した。
「相手の男が気の毒になってくるな……」
 呆れ半分に問いながら、ヴィッシュがカジュの正面に腰を下ろす。緋女はと言えば、疲れただの暑いだのとぼやきつつ、奥のキッチンに水でも飲みに行ったようだ。腹芸の「は」の字もない緋女と、腹芸と魔術だけでできているようなカジュ。よくまあ、この対照的な性格でコンビを組めていたものである。いや、だからこそ、うまくやれているのかもしれないが。
「誰なんだ、今の。お前の歳知ってるのか?」
「エリート術士のエイジくん、23歳。そしてカジュちゃんは永遠の18歳です。」
「怖い女……」
「ミエミエの媚びにダマされる男がわるいのよー」
 戻ってきた緋女はもっともらしいことを言うと、木のカップに汲んだ水を豪快に煽る。さっきの飲み屋でも思ったが、この飲みっぷりときたら、19歳の娘というよりは30前のおっさんだ。
「……お前は、もう少し男に媚び売ることも考えた方がいいんじゃないか?」
「……咬むぞこのやろー」
「う……で、何を掴んだ?」
 さっき咬まれた腕の痛みが蘇る。ヴィッシュは顔を引きつらせながら、強引にカジュに話を促した。
「確かに30年前、事件が起きてるね。
 啓示歴1282年風の月、お隣、ハンザ王国で起こった内戦のアオリで、国を追われた難民が大発生。
 翌月には、万単位の難民がベンズバレン王都に殺到……。」
 歴史書の記述を読み上げるように淡々といいながら、カジュは立ち上がり、本棚の一番上に収められた羊皮紙の巻物を取ろうとつま先立ちになる。届くわけもない。ヴィッシュが腰を浮かせて、ひょいとそれを取ってやる。カジュはふて腐れて寝椅子に胡座を掻いた。
 広げた巻物に記されているのは、ベンズバレン近隣の地図である。比較的新しいもので、着工10周年の第2ベンズバレンもちゃんと描かれている。第2ベンズバレンから街道を北に進めば王都ベンズバレン。そこから街道を西に折れ、俗に言うところの“母無し峠”を越えると、隣国のハンザに辿り着く。
 “母無し峠”は街道の難所として有名で、峠越しのためには母すら見捨てねばならない、というのが名前の由来だ。むろん大げさなネーミングではあるが、戦火から逃げ出した難民たちが、峠越しで疲れ果てていただろうことは想像が付く。
「でも、面倒見切れないと判断したベンズバレンは、難民の受け入れを拒否。
 王都の防衛隊を動員してこれを制圧し、強制的に海岸沿いの僻地に追いやった……。」
 カジュの指が、王都ベンズバレンのあたりから南へ動き――第2ベンズバレンを指し示した。
「なるほどね……当時の僻地が、今や世界に名だたる第2ベンズバレンってわけだ。あの貧民街は、難民集落の名残なんだな」
「制圧するとき、けっこーヤバげな衝突があったみたいだね……。ずいぶん人が死んだって話だよ。」
「えげつないことすんなー……」
 腰に手を当てて仁王立ちした緋女が、難しい顔で地図を睨み降ろしている。口には出さないが、ヴィッシュの意見は多少違っていた。王都ベンズバレンでも、その人口は十数万人というところ。そこに万単位の難民が雪崩れ込めば、治安の悪化程度では収まらない。食糧は不足し、都市システムは機能不全に陥り、最悪の場合、都市そのものが崩壊する危険性すらある。自国民を守るためと見れば、難民受け入れ拒否はやむを得ない判断だったのだろう。
 まあ、慈悲に欠けた判断、ということは否定しないが。
「んで? これが何の関係があんのよ?」
 ヴィッシュは腕を組み、慎重に考えを練りながらぽつぽつと語り出した。
「爺さんは職人気質の人間だ。しかも、おそらく自分の死期を悟ってる。悪党に金目当てで協力するってのは考えにくい。
 だから、金以外の目的があったんだろう、と踏んだんだ」
「飲み屋のおっちゃんが言ってた復讐ってやつ?」
「爺さん、30年前に嫁さんを亡くしてるんだそうだ」
「つまり……ハンザからの難民だったんだね。」
 口をはさんだカジュに、ヴィッシュは確信を持って頷いて見せた。時期から見ても……そして、爺さんのどぎつい古ハンザ訛りから考えても、間違いあるまい。
「そう。つまり爺さんが復讐する相手ってのは」
 3人の視線がかっちりと一点で交わった。
『ベンズバレン王国だ!』
「じゃあなに、爺さん、これから王都に行って城でも襲おうっての?」
「いいやあ。もっと、手っ取り早い方法があるぜ」
 言ってヴィッシュは窓の外を眺め見る。この界隈の端の方には、街道警備の衛兵訓練所がある。その広い敷地内では、今ごろ太鼓とラッパの音が響き渡っていることだろう。しんと耳を澄ませば、大通りの喧噪に混じって、微かに聞こえるマーチのリズム。本番を間近に控えて、訓練も大詰めというところか。
「3日後。第2ベンズバレン着工10周年パレード」
 彼の口の端には、全てを手のひらに載せた男だけが見せうる、完全に満足したほくそ笑みが浮かんでいた。
「狙うは国王陛下その人さ!」

 ここがどこなのか解らない。
 これが何なのか解らない。
 老いたか。耄碌したか。あるいは、初めから解らないことだらけだったのか。一個の鍛冶道具として60余年生きてきて、迷うことなどほとんどなかった。あの時も迷わなかった。悲しみはした。だが悲しみは道を指し示す光明でこそあれ、視界を覆い尽くす闇ではなかった。
 闇の中に、ガーラン爺はいる。
 周囲は鉄に満ちている。剣と、槍と、槌と、盾と、鎧と、兜と、鏃と。ハンマーを振るう。赤熱した刃から、目映い火花が弧を描く。ひとひら、赤い光が闇を切り裂き、やがて潰えて消えていく。
 消えていく。
 もう一度。
 やはり消えていく。
 そう思ったとたん、心臓を手で掴んで左右に抉り分けていくような感覚が、ガーラン爺の体の真ん中を直撃した。手が止まる。火花が止まる。ガーラン爺は呻きながら、体を二つに折って、祈るように床を見つめる。
「痛みで、体が動かないか」
 低い、何とも言えないねっとりとした声が、ガーランの頭の上から投げ降ろされた。労りなど微塵も含まない粗雑な言い回しが、不思議と爺の自尊心に火を付ける。魔族の男ゾンブル。それだけ認識すると、爺は無言でハンマーを拾い、再び無心に降り始める。その手が痛みに震えることも構わず。
 火花が弧を描く。
「そうだ。それでいい」
 定期的に飛び散る赤い光を満足げに見つめ、ゾンブルは邪悪な笑みを浮かべた。
「お前が鍛えた剣は、我々の手足となり、やがて王を討つだろう。お前は王の首を手にするのだ」
 火花が弧を描く。
 ゾンブルは去り際、ふと立ち止まり、肩越しに振り返りながらこう言った。
「お前はまるで、蝉のようだな」
 火花が弧を描く。
「お前の中で30年、期を待ち続けた悪意は、たった一日だけ空に羽ばたき、そして本懐を遂げる」
 火花が弧を描く。
「どんな気分だ、ガーラン」
 問うだけ問うておいて、答えも待たずにゾンブルは去っていった。その姿は闇に溶け、再びガーランは一人になった。闇の中に。鉄に囲まれて。闇が問うた。答えるのは鉄だ。ゆえにガーランはハンマーを振り下ろす。
 火花が、弧を描く。

 3日は矢のように過ぎ去って、記念パレードの日はやってきた。
 あたりでも一際背の高い教会の屋根の上には、ヴィッシュたち3人の他に誰もいない。とはいえそれは、屋根が尖りすぎていて登りにくいのが原因だろう。ぐるりと街を見回せば、文字通り高みの見物を決め込んでいる連中が、あちらこちらの屋根によじ登っている。遠くでは勇ましいファンファーレ。数千人が一斉に挙げる歓声。祝砲が沖合の軍艦からぶっぱなされ、その音がヴィッシュの下っ腹をズンズンと突き上げてくる。
 下の大通りを興奮して駆け回る子供達の気持ちがよく分かる。これが祭りというものだ。街中のねぐらから這いだし、大通りを一方向に流れていく人のうねり。着飾った美しい女たち。それが目当ての軽薄な男たち。酒と怒号と笑い。露店の菓子から漂ってくる、むせ返るような糖蜜の匂い。
 仕事でなけりゃゆっくり祭りを楽しむんだけどなあ、などと羨ましく思っていると、そんな悩みとは無縁にはしゃいでいる脳天気な女が一人。
「うおー! ねねね、なにあれ、リンゴ飴だって! リンゴに飴かけてんの? 意味わかんねーし! 買ってきていい!?」
「いーわけねーだろっ」
 許可を得る前にもう屋根から飛び降りようとしていた緋女を、ヴィッシュは首根っこ引っ掴んでたぐり寄せた。
「仕事だ、仕事! お前が頼りなんだからな」
「えーっ、そう? 頼られちゃ仕方ねーなー」
「ヴィッシュくん、緋女ちゃんの扱い上手だね。」
 屋根の天辺にまたがって、その膝の上に器用に水晶玉を乗せ、カジュは感心したように頷いた。やめろ、このガキ。なんだか微笑ましいものを見るような目でこっちを見るな。好きで上手に扱ってるわけじゃないんだ。仕事だ、これは。
 そう、仕事。手駒は緋女とカジュ、そして自分自身。今までより圧倒的に戦力増強されてるが、圧倒的にやりにくくもある。3つきりの貴重な駒を、どう動かしたものか。この3日、考え詰めに考えてきたのだ。
「カジュ。お前には戦況の把握を頼む。魔法で敵の位置を調べて、俺たちに伝えてくれ。いざって時には援護攻撃も頼む」
「あのねえ……。」
 カジュは不機嫌な顔をして、上目遣いにヴィッシュを見上げた。
「広域《遠見》と《遠話》2人分、おまけに攻撃の術まで同時制御させようっっていうの。」
「無理か?」
「無理だね。そんなのできるわけないよ。」
 しかしカジュは、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべて、
「ボク以外にはね……。」
「よっろしくぅ! 期待してるぜ。で、緋女」
「まかしとけって! ゾンネルをブッ潰しゃいいんだろ?」
「ゾンブル。奴は俺がやる。お前は取り巻きの雑魚を頼む」
「えええええー?」
 緋女は心から不満そうであった。この女には、相手が強いとか数が多いとか、厄介だとか負けそうだとか、そういう考えは一切ないらしい。自分自身に対する絶対の自信とでも言おうか。逆立ちしてもヴィッシュには持てないものだが、それが緋女の持ち味だ。
「なんでよ? あんた、前に負けちゃったんだろ。あたし、勝てるよ」
「そりゃ、お前が勝てない相手なんか、そうそういないだろーけどなぁ……」
 ヴィッシュは憂鬱な顔で頭を掻いた。もちろん、彼だってできることなら緋女に頼みたかったのだ。
「考えても見ろ、取り巻きだけで10人以上いるんだぞ。俺がそっちに勝てると思うか?」
 問われて緋女は即答する。
「無理だな」
「へーへー、どーせ俺ァ弱いですよ……まあそういうわけだから、俺がゾンブルを食い止めるしかねぇんだ」
「勝算は?」
 ごもっとも。そこでヴィッシュは、引きずっていた紐付きの革袋を二人に見せた。ヴィッシュの身長ほどもある細長い袋の口を開けると、その中には金属で要所を補強された木の棒が入っている。もちろん先端には刃。つまり、槍である。今回の得物はこれだ。
「見てのお楽しみ」
 笑ってみせるが、笑っていられるほど自信があるわけではない。怯えていても始まらないから、気を張っているだけだ。
 そんな不安を嗅ぎつけられたのだろうか。カジュが小さく手を挙げた。
「はい。意見。」
「何だ?」
「パレードの護衛兵に連絡して、戦力出してもらったほうが確実じゃないかな。」
 ヴィッシュはそれに即答できなかった。
 どう答えたものか、迷う。ヴィッシュの選択は、確かに任務の成功率を下げるものであり、それはとりもなおさず、緋女とカジュの命を危険にさらすものでもある。それに付き合えというのは、単にヴィッシュの我が儘に過ぎない。
 過ぎないが――
 遠くで歓声が一際大きくなった。パレードが動き始めたようだ。
 と、緋女がヴィッシュの腕を取り、引っ張り上げるように立ち上がらせた。いきなり立たされてヴィッシュはバランスを崩すが、緋女は傾斜のきつい屋根の上でも安定したものだ。
「ほれ、もう時間だろ。行くぜ」
「お、おう」
「カジュ、連絡よろしくな〜」
「はいはい。いってらっさい。」
 どこから取り出したのか、カジュはおおぶりなハンカチをパタパタと振って二人を見送った。

「ま、爺さんは助けてやらねーとな」
 屋根の下に降り、大通りを監視できる脇道の物陰に待機の態勢を作り、いきなり緋女が言ったのがそれだった。ヴィッシュは目を丸くする。
「お前、分かってたのか」
「分かるよ。ずっと気にしてたろ。臭うもん」
 そう……ヴィッシュが護衛兵に連絡しなかったのは、ひとえにガーラン爺の命を助けたい一心であった。もし増援を要求していれば、確かにゾンブルの一味を包囲することさえ可能だったろう。だが、追いつめられたゾンブルたちがどんな行動にでるか。何より、護衛兵たちがガーラン爺だけを特別扱いしてくれるかどうか。
 爺が生き残るのは、糸のように細い可能性に思えた。
 だからヴィッシュは、自分たちだけで全てを解決する道を選んだのだ。それが後始末人のやり方でもあった。
 だが、そんな心情を、まさか緋女に読み取られているとは思いもよらなかったのだ。
「でもなー、優しいだけだと損するぜ」
 そう囁く緋女の声こそが優しい。
「分かってるよ……」
「しっかし、分かんねーな」
「あ?」
「何が楽しくって、30年も前に死んだ嫁さんの復讐なんかするのかね? それで死んだ嫁さんが生き返るわけでもなし」
「……死んだ後に何が残るのか」
「何それ」
 きょとんとしている緋女に、ヴィッシュは顔を背けた。
「爺さんがそう言ってたんだ。どういう気持ちかは分からねえ。だが、多分……嫁さんが死んで、30年の間にそれを覚えてる人間が一人一人減っていって……
 ああ、何も残らねえ。そう考えたんじゃないのかな」
 ――俺は、一体。
「だってよ。自分が死んだら、嫁さんのことを覚えてる人間は、正真正銘だれもいなくなっちまうだろ」
 ――俺は一体、何にこんなに。
 緋女は冷静だった。ひょいと肩をすくめて、冷たいとすら思える声でこう答えただけだ。
「何をどうしたって、死んだらそこで終わりよ」
「それじゃあ寂しすぎる」
「寂しくたってそうじゃん? たとえばよ、あたしが新しく国を作って、女王様になったとしてよ」
「住みたくねえ国だな……」
 げしっ。
 有無を言わさぬ蹴りがスネに食い込み、ヴィッシュは呻きながらうずくまった。
「そんだけビッグなことをやったって、何百年かすりゃ、どーせその国も潰れちゃうのよ」
「まあ、そりゃな……」
「生きてる間に何をやったって、いつか消えちゃうわけじゃん。
 じゃ、何を残したって一緒じゃない。
 今、復讐で大騒ぎして、それで何十年か人の記憶に残って、でもどのみち、どっかで消えちゃうでしょ。
 だったら、復讐なんて意味ないことするより、あたしなら残った時間を思いっきり遊ぶ。これでもかってくらい遊ぶ」
 気が付けば、ヴィッシュは蹴られたスネの痛みも忘れ、緋女の言葉に聞き入っていた。
「……あと、トモダチに会う。全員会う。
 それで、最後は好きな人の所に行く」
 沈黙が辺りを支配した。
 何も言えないまま、少しの時間が過ぎた。出遅れた近所の子供がヴィッシュたちの横をすり抜け、慌てて大通りに駆け込んでいった。徐々にパレードの喧噪が近づいてきていた。熱気が街に渦巻いていた。
 誰かが、笑った。
「お前……」
 やっとのことで、ヴィッシュは声を挙げた。
「頭カラッポじゃなかったんだな……!」
「んだとこらあああああああああ!!」
「ぬおおおおお冗談じょーだんギブギブギブギブ!!」
 ヴィッシュの背後に回り込んだ緋女が、首に二の腕を回して全力で締め上げる。ヴィッシュは即座に腕をバシバシ叩いて降参を宣言した。意識が飛ぶ直前で腕は解かれたものの、呼吸困難に陥ったヴィッシュは咳き込みながらへたり込む。ツッコミで殺す気か、おい。
 すると、緋女もまた、ヴィッシュの後ろに座り込んだ。後ろから抱かれているような気さえする。脇腹に緋女の膝が当たる。背中に手のひらが当たる。
「……そうだよな。お前が正しいよ」
 ヴィッシュは懐から吸い慣れた細葉巻を取りだし、ナイフで先を切り落とすと、高級品の硫黄燐寸で火を付けた。葉巻の先が微かに赤く光ったかと思うと、すぐさまそれは黒くなり、やがて巻かれた葉の奥に隠れて見えなくなる。
「でもな……」
〔2人とも、聞こえる。〕
 耳元で直接響いた声に、2人は弾かれたように立ち上がった。カジュからの《遠話》だ。距離が近いとはいえ、水晶玉の媒介なしに、2人同時に声を伝えてくるとは、すさまじい技量だ。
〔敵発見。そこから大通りはさんで向かい側の裏路地、2ブロック南。大通りに向けて移動中〕
「よし。緋女、ゾンブルと取り巻きどもの間に割り込んで分断する」
「まっかしとけ!」
「行くぞ!」

 慎重と迅速は時として同義である。迅速な行動は相手のつけいる隙を作らず、往々にして最も安全な手法となりうる。慎重な心があればこそ、誰よりも素早く走ることを心がけるものだ。
 魔族の剣士ゾンブル・テレフタルアミドは、視線一つで十人以上もの部下を先行させた。影に塗られた細い裏道を、素早く、風のように、仮に目撃されたとしても誰一人対応できぬ間に、大通りへと急いだ。彼の計算通りであれば、部下達が大通りへ辿り着くまさにその瞬間、国王を乗せた大御輿が正面に現れるはず。
 ゾンブルは、国王の最期を見届けようとついてきたガーランド爺と共に、一行の最後尾をゆったりと進んでいた。自分が出るのは最後でよい。先行する部下達が騒ぎを起こし、混乱を生み出し、道を切り拓き、万を持して自身は王に肉薄する。2人通るのがやっとの細道を移動ルートに選んだのも、それまで身を隠すため。部下の数を10人あまりに絞ったのも、事前察知されぬため。全ては練りに練った理であった。
 だが――思考は、その先を行く思考によって覆される。
 ようやく一行の先頭が大通りに出ようかというその時。
 ゾンブルの少し前を走っていた部下の頭上に、赤い稲妻が襲いかかった。
 あまりの速さに光の閃きとしか見えぬそれは、落ち様に部下の喉笛を咬みきり、着地しながら身を捻って食いちぎり、異変を察知して振り返ったもう一人の部下に飛びかかり――
 変身する!
 目を見張るゾンブルの前で、赤い犬であったそれは、人間の女へと姿を変えた。それと同時に振り抜かれる片手剣。銀色の輝きは鮮やかな弧を描き、たった一太刀で部下の胴を真横に両断する。
「狼亜族だと!?」
 驚きの声を挙げたのもつかの間、横手の物陰から突き出された槍の一撃。ゾンブルはとっさに身を捻り、辛うじて渾身の突きをかわしきる。続く二の槍。躊躇は死。迷うことなく飛び退り、間合いを放して睨め付ける。
 物陰からのっそりと現れた、にやついた男を。
「よう。お久しぶり」
 ――部下達と引き離されたか。してやられたな。
 ゾンブルは小さく舌打ちしながら、腰の剣を抜きはなった。暗殺のために鍛えられた剣は、刀身すらも闇色をしている。軽く反りの入った片刃の剣は、東方異国の品である。後悔がどっと押し寄せた。あの時、少々目立つことを厭うくらいなら、止めを刺しておくべきだった。この剣で。
「生きていたのか。しぶとい男だ」
「それだけが取り柄でね」
「何者だ。ベンズバレンの犬か」
「まさか。もっとやくざな商売だよ」
 男は油断なく両手に槍を構えてにやりと笑う。
「10年前、勇者は魔王を退治した。だが世界中に散らばった魔物たちは、今でもあちこちに生き残っている。
 そういう狩り残しを、きれいに浚うのが俺の生業」
 男の槍が、陽光を浴びて煌めいた。
「――人呼んで、勇者の後始末人」
 その名はヴィッシュ。
 少しの間、困惑と思考と、何より怒りに満ちた目で睨んでいたゾンブルは、やがて重い口を開いた。なぜだろうか。その口を吐いて出た声は、自分の前に現れたこの障害を楽しんでさえいるような。
「お前たち。そっちの女を片付けろ」
 それは壮絶なる笑み。
「こいつは私の獲物だ」

 出会い頭に片付けた2人の亡骸を踏みつけながら、緋女はぼりぼりと頭を掻いた。細い道の向こうには、まだ10人の敵がひしめき合っている。だがそいつらときたら、一人一人が、いてもいなくても同じような没個性的顔立ちをしていて、しかもおあつらえ向きに、「相手は女一人だ!」とか、「さっさと片付けちまえ!」とか、言っているのである。
「あんたらなー……2秒で2人やられといて、よくそーゆーこと言えるよなー」
「なんだとぉー!? 俺たちをなめるなよっ!」
「あーもーめんどくせ。いーからちゃっちゃと来いや」
 緋女は白亜の如く白く、鞭の如くしなやかな腕をすっと差し出し、天を貫くかのように五本の指を立て、力強く手招きした。その口許に浮かんでいるのは、獣の笑み? 剣士の笑み? いや違う。
 小悪魔の笑みだ。
「メロメロにしてやるよ」
 挑発を浴びて――
 先頭の男が斬り掛かる。
 瞬間、緋女の姿は忽然と消え、気が付けば男の背後。
 目視すらできない太刀筋は、男の腕を肩口から切り落とし、流れるように次の男へ。まだろくに剣を構えてすらいないそいつの胸を、手応えすらなく切り払う一瞬の閃光。
 血を吹き出して倒れる2人。返り血浴びて緋女が笑う、ここまで僅かまばたき二つ。
 慌てて残りの男たちが殺到する。だが細い路地のこと、同時に斬りかかれるのは2人のみ。片方の刃を跳躍して交わし、もう一人が繰り出した突きに、緋女は犬へと変身する。突如縮んだ緋女の肉体はやすやすと刃の間をくぐり抜け、着地するなり鋭角を描いて飛び上がり、一人の喉を食い破る。
 白目を剥いてのけぞる敵の喉に食いついたまま、赤い犬は宙返りしてその向こうへ――
 変身。
 人間に戻った黒髪の女は、噛みしめていた口を離して死したる頬に口づけ一つ。その勢いを殺さぬままに、手にした刃で竜巻の如く薙ぎ払う。
 腹、股、背。三者三様に切り裂かれ、悲鳴を挙げて倒れ込む。
「6人」
 つまらなそうに緋女は言う。
「なんだ、もう半分終わったのかよ」
 と、次の犠牲者たるべき先頭の男が、震えた声を挙げた。
「なっ……なんだこいつ!? 化け物だ!」
 むかっ。
「ああん!? 誰が化け物だ! めっちゃかわいいだろーが!」
「そこですか!?」
 有無を言わさず緋女はそいつを殴り倒し、もんどりうって転がる男の胸に馬乗りになる。血の付いた剣をしっかと握った手で、返り血も滴るいい女の顔を指さし、魔王も裸足で逃げ出すような笑顔で見下ろし、
「ほら。どーよ。かわいーだろ」
「は……はひっ! ちょーかわいーですっ!」
「分かりゃいーんだよ」
 言いながらアゴをぶん殴ると男は気絶した。
 そこでふと気づいて、緋女は顔を上げる。残る敵は3人。そいつらが一斉に踵を返し、緋女が気を取られているのを幸いと逃げ出している。大通りに出られたらまずいことになる。
「あ、やべ。カジュ!」

「ほいきた。」
 水晶玉経由で戦場を見ていたカジュは、片手を宙に走らせた。5本の指がそれぞれ全く異なる不規則な軌道を踊り狂い、しかし正確に光の幾何学模様を空中に描き出す。四層最密単位魔法陣。恐るべき早業。
「《石の壁》。」
 ずどん!
 派手な音がして、裏路地から大通りへ出る道に、巨大な壁が出現した。素材は石、厚みは両手を広げたほど、高さは二階建ての建物ほどもある。要するに、敵が緋女から逃げる道は、これで断たれた。
「ほい、しゅーりょー。あー、いい仕事した。」
 ギャーとかワーとか、哀れを誘う悲鳴を聞き流しながら、カジュは、ふわ、と欠伸した。

 一体もう何度目か。
 ヴィッシュが突きを繰り出すと、ゾンブルの体勢が僅かに崩れる。あからさまな隙。そこを狙って穂先で払う。だが当然それはゾンブルの罠で、鮮やかな返し技が蛇の如く速く迫ってくる。
 だがその為の槍だ。ヴィッシュは慌てず返し技の突きを槍の柄で受け流し、軽く後ろに跳躍して踏み込みすぎた間合いを離す。距離を取って戦える槍だからこそ、敵の返し技に対応する時間もある。得物が剣であったなら、とっくにヴィッシュの首は胴と離れていただろう。
 しかし楽な戦いという訳ではない。槍と剣では槍が三倍有利という。にも関わらず、ヴィッシュはろくにまばたきする暇もない。
 脂汗が額から流れ、鼻筋を伝って滴り落ちる。
「無駄なことを。槍を使って護りを固めたところで、死を先延ばしにするだけだ」
 改めてゾンブルは恐るべき達人だ。汗一つかかず、涼しい顔をしている。それは自分の剣技、あるいは戦術に対する自信の為せるわざか。なら――
 ――冷や汗をかかせてやるぜ。
「そうでもねえさ――」
 大きく胸に息を吸い込み――
 吐く!
 吐息と共に繰り出した渾身の突き。ゾンブルは曲刀でこれを受け流し、間合いを詰めようと踏み込んでくる。そうはさせない。槍を翻し、鉄で補強された柄を敵の頭に叩きつける。軽く身を捻ってこれをかわすと、またもやゾンブルに生まれる隙。誘っているのか。それとも。
 いずれにせよ、攻めるしかない!
 いったん腰溜めで引いた槍の刃先を、ゾンブルの首筋目がけて突き出す。瞬間、奴の姿が掻き消えたかに見え、次にはあらぬ方向から曲刀の閃きが迫った。これまでにないパターン。慌ててヴィッシュは身を屈め、横薙ぎの一撃を辛くも避けきると、そのままゾンブルにタックルを喰らわせた。
 魔族は転がり、しかし機敏に体勢を立て直し、二人は飽くほど繰り返した対峙へと戻る。
 ――これも駄目。
 折れそうになる心を必死で支え、ヴィッシュは荒い息を整えていた。
 耐えろ。耐えろ。光明はその先にしかない。
 そんな彼の心を知ってか知らずか、ねっとりとした低い声がヴィッシュを襲う。
「無駄なことはもうよすがいい。お前が何をしたところで世界は変わらん」
「世界だと?」
「私はこの世界を変えようというのだ。なるほど、勇者ソールは魔王を倒し、世界を変えたやもしれぬ。だがお前はどうだ? 所詮は生活に汲々とする労働者。どぶさらいのような甲斐無き仕事。仮に私を食い止めたところで、動き始めた流れは決して止まらぬ。
 よすがいい。無駄なことに命を賭すのは、愚か者のすることだ」
 ヴィッシュはじっと、敵の言葉に耳を傾けていた。ゾンブルの肩の向こうに、じっと戦況を見守るガーラン爺の姿が見えた。その顔が青い。いつ倒れてもおかしくない。もうあまり、時間は残されていなさそうだった。だが――
 胸の奥から笑いが込み上げてきて、ヴィッシュは溜まらずに声を挙げて笑った。
「何がおかしい」
「……いや。ありがとうよ、おかげさんで雲が晴れたぜ」
 晴れ晴れとした気分だ。ずっと闇の中にいた心が、よりにもよって敵の言葉をきっかけにして、こんなにもすっきりと晴れ渡るなんて。
 ヴィッシュの額に浮かんでいた汗は、いつの間にか引いていた。
「確かに俺は英雄じゃねえ。後始末人なんざ、何人でも代わりのいる仕事さ。お前を斬ることだって、できる奴はごまんといるだろう。
 だがね……俺はこう思う」
 再び。
「お前をここでぶった斬る。するとお前を斬ったのは俺だ。
 他の誰もお前を斬らなかった。
 ――だが、俺は斬ったんだ」
 槍の穂先が光を浴びる。
「面白い。だが」
 ゾンブルが柄を握り直した。
「それは斬ってから言うんだな」
 静寂――
 音が消えていく。
 緋女が戦う音も、最高潮を迎えようとするパレードの騒音も、人々の歓声も、笑いも、涙も、怒号も、何もかも、遠い場所へと消えていく。暗闇の中に光が一筋。その中に舞い踊る小さな埃。埃が飛ぶ音が聞こえ、それすらも、しじまの向こうに潰えて消えた。
 吐息。
 鼓動。
 敵と、
 己。
 空気すら凍り付き――
 奔る!
 肉薄まで一瞬。刃交錯して二瞬。白銀、閃き、弧と直線がもつれ合い、咬み合いながら天へと昇る。振り下ろす槍。受け流す剣。渾身の突き。生じた隙に、突いては何も変わらない。ならばヴィッシュは腹を狙って蹴りつける。
 と。
 ゾンブルは身を捻り、ヴィッシュの蹴りを巧みに避けた……
 ――避けた!!

「つまりな」
 と緋女に話したのは、さっき、緋女と2人で敵を待って待機していたときだ。
「奴が見せる隙は罠なんだ。わざと隙を見せて返し技で仕留める。そこに特化した剣術なんだな。だから、下手に隙を突いちゃまずい――」
 とん、と槍の入った革袋で地面の石畳を叩く。
「と、思わせるのが奴の狙いだったんだ」
「……はあ? どゆこと?」
「考えてもみろ。実戦の中でできる隙って、何パターンくらいある?」
「えーと? 1、2……いっぱい」
「だよな。状況次第で無限にある隙、全部に返し技を用意するなんて理論上不可能だ。
 俺の予想が正しければ、返し技に繋がる隙――つまり、罠を張った隙はせいぜい4種類。他のパターンは、本当に体勢を崩してできた、いわば本物の隙だ」
 これは一度戦った経験を、何度も何度も反芻して気づいた結論だ。以前に戦ったとき、かなりの回数打ち合ったはずなのだが、返し技の構成は3つほどしか確認できなかったのである。同じ太刀筋を複数回繰り返してくることもあった。
 とすると、意外にバリエーションは少ないという読みになる。
「最初に華麗に返し技を決められると、どうしても『隙=罠』って印象が焼き付いちまう。すると、罠のない本物の隙にすら攻めにくくなる。そうして手が縮んだところを討ち取る戦術……理詰めだな」
「なんかむつかしーな……じゃあ、どーすりゃいいんだよ?」
 ヴィッシュは微笑んで、槍を抱き寄せた。
「タネが割れりゃあ、やりようはあるんだ。
 ――まぁ見てな」

 そのゾンブルが、今、初めて隙を突く攻撃を避けた。
 ヴィッシュが得物に槍を選び、ひたすら敵の隙を突き続けたのは、これが狙いだったのだ。敵が張った罠と、本物の隙。それを見分けるには、幾度となく攻撃を仕掛けてパターンを読むところから始めるしかない。間合いを取って攻められる槍が相手を観察するには最も適任。
 罠なら返し技が来る。本物の隙なら――
 ゾンブルといえど、避けざるを得ない。
 ――これで……
 一旦距離を開け、敵に体勢を直させる。さっきと同じ対峙。同じ間合い。同じ呼吸で肉薄し、同じように刃を繰り出す。白銀、閃き、弧と直線。振り下ろす槍。受け流す剣。渾身の突き。
 同じ状況を、寸分違わず再現すれば、そこに生まれる本物の隙。
 ――いける!
 瞬間、ヴィッシュは槍を投げつけた。
 思わぬ攻めにゾンブルの隙が拡大される。恐れるな。踏み込め。自分を信じろ! 返し技が来れば命がない間合いまで踏み込んで、ようやくヴィッシュの覚悟が決まる。腰に差しておいたいつもの愛剣。すれ違いざま、ゾンブルの脇腹を狙い、抜き打ちの――
 一閃!
 世界が止まる。
 鮮血が吹き出し、そして再び世界が動く。
 驚きと歓喜に目を見開き――それらがないまぜになった表情を顔に貼り付けたまま、ゾンブルは糸の切れた人形のように倒れ伏した。
 立ち上がったヴィッシュは大きく息を吸い込んで、胸一杯の不安と緊張を、安堵の溜息に変えて吐き出した。
「……あんた大した腕前だったよ。生きた心地がしなかったぜ」
 事切れたゾンブルを見下ろしながら、ヴィッシュは懐から細葉巻を取り出した。これが吸えるのも生きていればこそ。向こうで大暴れしてる緋女の艶姿を眺められるのも。どっかへ消えていたはずのパレードの喧噪が、再び聞こえ始めた。せっかくの祭りだ。まだ日も高い。緋女たちを連れて繰り出すか。
 そんなことを考えていると、背後で小さな音がした。
 カラカラに乾いた枯れ木が、力尽きて倒れるような。
 見れば、ガーラン爺が、建物の壁に寄りかかるようにして倒れていたのだった。

 モンド先生の診療所は、戦いのあった場所からほど近くにあった。これは幸運以外の何ものでもない。意識を失った爺さんは、近所から調達した荷車に乗せられ、即座にここへと運ばれた。モンド先生はいつも通り、白いヒゲをモサモサと動かしながら、爺さんを診察していった。
「あの、先生、爺さんは……」
 後ろで立ち尽くしていたヴィッシュが問うと、モンド先生は事も無げに答えた。
「そうな。あと6日ってとこかなあ」
「え?」
 モンド先生があと10日と診断したのが4日前。10ひく4は……
「え?」
「そんな口あけてぼんやりしとると、埃を食っちまうぞ。
 わしを誰だと思っとる。わしゃ、モンド先生だ」

 診療所のベッドでガーラン爺が目を覚ましたとき、傍らにはヴィッシュが付き添っていた。よう、と彼は気さくに手を挙げて挨拶した。ガーラン爺は顔を背けた。窓の外に木が一本見えた。蝉の声は、もう聞こえない。
「……すまね。迷惑、かけちまって」
「なに。こっちも仕事さ」
 どう声をかけたものだろうか。
 ゾンブルを倒す方法を模索する傍ら、ヴィッシュはずっとそのことも考え続けていたような気がする。戦い方には答えがあった。だがこれには、答えなどありはしないのだろう。仮に答えと呼べる物があったとして……
 果たしてその通りにすることが、正しいと言えるのか。
 全てはガーラン爺の胸の内にしかない。
 ならば自分の胸の内から回答を捻り出すしかないと思えた。
「なあ、爺さん。見てたかい」
 ヴィッシュは愛剣を抜き放ち、刃を窓から差し込む陽光にかざして見せた。ゾンブルを斬ったときの血はすっかり洗い流されていたが、細かな刃こぼれは誤魔化せなかった。刃物の宿命とも言える。使えば使うほど、刃は磨り減り、小さく軽くなっていく。
「あんたが鍛えた剣だ。すげえ切れ味だったろ」
 だから鍛冶師は鋼を吹き付け、叩き、鍛え、剣を蘇らせる。研ぎ澄ますだけではやがて消え去る運命の剣に、鍛冶師は命を吹き込むことができる。
 だから、剣は――
「俺はこの剣を、一生手放せそうにねえよ」
 剣は――
 蝉の声が聞こえなくなれば、夏の祭りももう終わり。
 窓からは涼しい風が吹き込んでくる。ガーラン爺は大きく息を吸い込み、吐いた。やせ細った胸が静かに上下した。長い長い沈黙の末、爺はようやく口を開いた。
「なあ、あんた、分かっとらん」
 ヴィッシュは目を瞬かせる。
「まだまだ、上ぇ、あるだや」
 これだから、この爺さんは。
「そうこなくっちゃ」

 それから8日後の朝のことだった。
 ガーラン爺が、診療所のベッドの上で息を引き取っているのが見つかった。
 ヴィッシュは爺さんの笑顔など、とうとう見ることは無かったが、死に顔は不思議と微笑んでいるようにも見えたという。
 彼が何を考え、何を思っていたのかは分からない。全ては爺の胸の中。
 爺さんの葬儀は、ヴィッシュの知人の神父によって簡単に執り行われた。家族のいない爺さんではあったが、近隣住人の参列は思いの外多く、狭苦しい教会から人が溢れるほどであった。
 それで、おしまい。
 ヴィッシュは家に戻ると、何をする気も起きず、ただ寝椅子に転がって天井を見つめていた。
 最後に爺さんに言った言葉は、単なる気休めに過ぎなかった。緋女の言うとおりだ。生きた証の消滅を、ほんの数十年ばかり先延ばしにしたにすぎない。気休め。ただの気休め。
 だが、分かっていたはずではないか? 気休めのおかげで、人は生きていける。
 なのに何故、今になって迷いが消えない?
「万策のヴィッシュが聞いて呆れるぜ」
 つい、ぼやきが口を吐いて出る。
「本当にあれで良かったのかよ――」
「あんたね。難しく考えすぎなのよ」
 突然頭の上からかかった声にぎょっとして見れば、緋女が腰に手を当てて仁王立ちしている。何を思ったのか、珍しくエプロンなんぞ身につけて、片手には湯気の立ち上る料理の皿を持っている。
「考えなしで渡ってけるほど、甘かねーだろ、世の中は」
「考えだけで渡ってけるほど、甘かぁねーよ、世の中は」
 目をぱちくり。
 時々妙にうまいことを言う奴だ。感心しきりのヴィッシュに、緋女は無愛想に皿を差し出した。またしても、目をぱちくり。厨房が爆発するとかなんとか言っていたわりに、見た目はまともそうではないか。
「生きてるヤツには、死ぬまで生きる権利と義務と本能があんの。
 だからメシ食や幸せなの。
 そーゆーふうにできてんの!」
 言って緋女は、ヴィッシュの鼻先に皿を突き出し、
「ほれ。食え」
 しぶしぶ、ヴィッシュは起きあがって皿を受けとった。野菜炒めのような料理の中に、フォークも突き立っている。それを手に取り、匂いを嗅ぎ、大丈夫そうだと判断すると、恐る恐る口に入れる。
 まゆ毛と顔が一斉にへのじにひん曲がった。
「……不味い。お前が作ったのか?」
「文句あっかよ」
 口をとがらせ、そっぽを向いて、緋女は拗ねて見せた。やれやれ、とヴィッシュは皿を置いて立ち上がる。
「大ありだ。全く、任せちゃおけねえな。
 そこで大人しく座ってろ。職人技を見せてやるよ」
 彼が厨房へ入っていく、その軽い足取りを見送って、緋女はほっと微笑みを見せた。階段の上からは、様子をうかがっていたカジュが降りてくる。二人して顔を見合わせ、親指突き出して、ニヤリと口の端を釣り上げる。
 どちらの立てた策だったのか、それは知るよしもないが。
 生きる糧を得るために、今日もヴィッシュは鉄を振る。

THE END.