プロローグ

 空は野晒しの車軸から剥がれ落ちた鉄錆の色だった。
 谷間の砦からドース百連丘陵へは、普段の足なら三日、馬を乗り継げば一日というところだ。だが街道は敵の布陣によってズタズタに分断され、ヴィッシュたちは険しい山越えを余儀なくされている。鎧を脱ぎ捨て、武器は軽いナイフ一本きりに絞り、可能な限り身軽になったのもヴィッシュの考えだ。にもかかわらず激しい戦闘で疲労困憊した仲間達は行程の半ばを待たず一人また一人と脱落していった。ヴィッシュは脱落者に何も残さなかった。食糧も水も言葉も。どうせ死に往く者に貴重な財産を置いていく余裕はなかった。彼らも何も言わなかった。
 言うべき言葉も、言うだけの体力も、とうに失われていたからだ。
 そして敗残兵の一団は、ついにヴィッシュとナダムを残すのみとなった――
 今、ヴィッシュはナダムに肩を貸し、二人で一個の生物のように進んでいる。昨日、ナダムが足を痛めた。今朝、食糧が尽きた。数時間前の休息で、水が尽きた。そして無限にも思える上り坂は、足にまとわりつく無数の岩石と砂礫に覆われ、無情に聳え立つ城壁のように行く手を阻んでいる。
 太陽が二人を焼き殺そうと、炎の息を吹きかける。
 道の脇に木が一本生えているのが見えた。ちょうど人間二人分ほどの狭い木陰があった。どちらからともなく休息を提案した。他方がそれに応えた。言葉でも身振りでもない不可思議な方法で。言った通り、言葉を発する体力は互いに残っていなかった。
 二人は、倒れるように木陰に座り込んだ。
 休息の頻度は、今日に入ってというもの、目に見えて増えていた。自分たちでもそれは分かっていたが、だからといってどうしようもなかったのだ。
 どれほどの時間、地面に転がっていただろうか。ナダムが笑った。驚いてヴィッシュが見ると、ナダムは本当に笑っていた。
「提案があるんだ、ヴィッシュ」
 喋るな、とヴィッシュが目配せで言ったが、相棒は聞き入れなかった。
「おれを置いていけ」
 沈黙。
「お前にはまだ体力がある。怪我もしていない。頭も切れる。お前なら生き残れる」
 沈黙。
「だが、このままおれを担いでいけば、お前は力尽きるだろう。そしておれも死ぬだろう」
 沈黙。
「なに、おれのことは気にするな。ここでのんびり待っているさ。お前が駐屯地についたら、迎えをよこしてくれりゃいい」
 沈黙。
 沈黙。
 沈黙。
 ヴィッシュは――
「言いたいことはそれだけか」
 沈黙。
「何のために――俺が仲間を見捨ててきたと思ってるんだ」
 沈黙。
「水も、食糧も、倒れたヤツらの分を剥ぎ取って、ここまできたのは何故なんだ」
 沈黙。
「俺がお前を見捨てるってのか」
 沈黙。
 そして、理解の微笑みがあった。ヴィッシュにはこの笑顔が気に入らない。こいつはいつもそうだった。したり顔をして、人の頭の中を覗き見たかのように言い当てて、一番腹の立つところを針の穴を通す正確さで突いてきて、そしていつも――
 そしていつも――
「お前は誰も見捨てちゃいないよ」
 いつも――
「生け。お前ならできるさ」

 空は、燻りながら煙を吐き出す、焼け跡の炭の色に変わっていた。
「これで正真正銘の一対一か」
 自分の周りの全てが、肌のすぐそばにあるのが感じられた。空気。土。湿気と、熱気。闇と夜、木々と星。生と死とその狭間にあるものたち。月がヴィッシュを見下ろしている。彼の目指す先、山道の頂点から青白い光が降りてくる。
 これは、希望の光?
 それとも――
「随分機嫌がいいじゃねえか。もう勝ったつもりかよ。いつまで俺を見下してやがる」
 ヴィッシュは壮絶な笑みを浮かべた。自分以外のこの世の全て、世界そのものを相手取る男の笑みを。
「――まあ見てな」
 小さく。
 しかし確かな、それは意志。
「勝つのは俺だ!」