ARMORED CORE 2 EXCESS

 ハイラインシティ郊外のオープンカフェは、いつも若者で賑わっている。西海岸特有の暖かく柔らかい日差しのもと、薄いシャツ一枚でその若々しい肉体を包んだ学生たち――妙に大人びた者も幼い者もごたまぜだったが――は、どんな些細なことにでも夢中になり楽しめる幸せな日常を享受する。青春とはアジアの言葉だが、言い得て妙であることを否定する者はいない。彼らの――彼女らの――若さは、まさに爽やかな青、初々しい春にたとえるに相応しいものであった。
 そして若者は同時に、他の誰よりも敬虔な信者でもある。若者はいつも何かを信じ、往々にして盲目になる。信じる相手が既成の宗教であることは希だが、他愛もない噂話、絶対無比の友情、淡い恋心、そういったものにどうしても心を奪われてしまう。そんないわば「信仰症候群」とでも言うべき病に冒された若者の中に、もしも子供のレベルを超越したカリスマ性の持ち主が紛れ込んでいたら――彼が若者の社会の頂点に立つことは決して難しくない。
「そうそう、そうして笑ってるのが綺麗だよ」
 そう言いながら、ケンジは自分もにっこりと微笑んだ。彼はまるでコントラストの塊であった。水晶を思わせる白い肌に、黒真珠のような艶を持つ髪。黒曜石にも似た色の上下はまるで喪服である。彼は常に憂えているのだ。ありとあらゆる者が生まれ、そして滅びる運命にあることを――そのための喪服なのだった。
 すぅっと彼の指が伸びて、金色の髪を撫でる。少女は頬を薄桃色に染めながら、照れくさそうにはにかんだ。何もかもが初めての経験だった――男の子と二人でカフェに来るのも、綺麗だなんて誉められるのも、こうして髪を撫でられるのも。髪を弄ぶ指がちらりと首筋に触れる。その瞬間に少女の中を電流が走った。何気ない僅かな接触が心をかき乱す。もっと触られたいという思いがどこまでも膨らんでいく。
「いけないひと」
 震えそうになる声を必死に抑えながら、少女は言った。
「いけない、だって! 君はハイスクールでそんなことを習ったのかい? だとしたらそれは嘘だよ。先生はたまに嘘を言うからな」
 彼の言い回しは妙に芝居がかっていて、少女は微笑みを禁じ得なかった。それがとあるミュージカルからの――それも少女がとりわけ贔屓にしている劇団の――引用であることを知っていたからである。変に緊張してしまっている彼女を安心させようとしているのは明白だった。そんなあからさまな優しさが、男との付き合いに慣れていない少女にとってはとても嬉しかったのである。
「誰がなんと言ったって、今君の中にある気持ちは本物――そうだろう? それを素直に受け止めることがいけないなんて、そんなことはないさ――」
 彼の指は髪の流れを掻き分け、ぴったりと首筋に触れた。今度は偶然ではなかった。彼の白く細い指は優しくうなじをくすぐって、思わず少女があぁと恍惚の喘ぎ声をあげるほどに刺激した。少女は耳まで紅潮して、その瞳はとろりと融けだしていた。ぐぃと腕に力を込める。抵抗は微塵もない。ケンジは妖しく微笑みながら、力を失った少女の体を抱き寄せ、自分の唇をも彼女のそれへ近づけていく――
 どんっ!
 突然の爆風が辺りを薙ぎ払った。悲鳴、怒号、呻き。カフェの硝子窓は粉々に砕け散り、その近くにいた学生達を血に染める。ある者は地に伏せて微動だにせず、またある者は苦しそうに咳き込む。つい一秒前まで微笑みに溢れていた街の通りは一瞬にして地獄へと姿を変えた。
 チッと舌打ち一つしながらケンジは慎重に目を開いた。砂埃はあらかた収まり、周囲の様子が目に入る。腕に抱いた少女はぐったりとしているが、呼吸も脈もある。衝撃で意識を失っただけである。もしケンジがとっさにテーブルを盾にして隠れなかったら、彼も彼女も神の御許へ召されていたことだろう。
「ルカーヴめ、仕事サボりやがって!」
 悪態を吐きながらケンジはテーブルの向こう――爆風の発生源――を盗み見た。ごそごそと蠢く、人相の悪い男達。浮浪者かテロリストだろう。各々拳銃や短機関銃――あるいは磁気榴弾砲――で武装している。単なるテロでこんな戦略的価値のない場所を襲うはずもない。連中の狙いは――
「もてる男は辛いね、まったく」
 護身用の超小型拳銃をふところから取り出し、ケンジは考えを巡らせる。今顔を出して応戦するのは簡単だが、自分が隠れているこのテーブルは銃弾を受け止められるほど頑丈な遮蔽ではない。銃撃戦をするなら、カフェの中に入って遮蔽物を手に入れる必要がある。とはいえドアまでは5mほど。その間、連中が見逃してくれるとは考えがたい。
 しかし、彼があれこれ考えている内に奇妙な物音が聞こえてきた。バスッ、バスッという空気の抜けるような音。どぅという重い物が落ちるような音。そして苦痛に満ちたうめき声と――最後は低い男の声であった。
「申し訳ありません、遅れました」
 真上から響いてきた声は、ケンジのよく知っている声であった。首だけ上に傾けて、太陽を仰ぎ見る。逆光を浴びた男の顔がそこにあった。身の丈は2mにも届こうかという大男。肩まで伸びた白銀色の乱れ髪と、ハシバミ色の瞳を隠すサングラスが独特の迫力を作り出す。歳はそろそろ40が見えてきたあたりであろう。
「襲撃者は片づけましたので」
 大きく溜息一つ吐いてから、ケンジはうんざりした顔でこう言った。
「……ご苦労さん」
 
「あと少しだったのに!」
 ケンジ・コバヤシ。彼は元老院議長シロウ・コバヤシの孫として生を受け、いずれはコバヤシコーポレーション社長タツヤ・コバヤシの跡を継ぐ存在として将来を嘱望されている。事実彼の天才的なカリスマ性、そして経済分野での才能は、齢17にして既に他企業からの注目を集めているのである。しかし、
「ここまで漕ぎ着けるのにどれだけ手間がかかったと思う。ああっ、こうしている間にも僕の全人類誘惑計画はどんどん達成から遠ざかっていくんだ!」
 こういう男である。
「申し訳ありません。しかし、いずれにせよ即座に戻っていただく予定でした」
 皺一つない完璧な黒のスーツに身を包む男。人は彼のことをルカーヴと呼ぶ。それ以上の名前は誰も知らないし、知ろうともしない。彼はただのルカーヴであり、かつ名前よりも重要なものをたくさん持っていたからだった。若社長の護衛として完璧な仕事をこなす彼にとっては、その功績こそが最大の名前と言えた。
「どうして」
「マクシス社のルーベック夫妻と会見の予定です。ご子息もご一緒に」
「僕じゃなくて親父の仕事だろう」
「社長にもお会いになります。ですがケンジ様にも是非と」
 ケンジはひょいと肩をすくめてみせた。この頑固な護衛ときたら、ちっとも融通が利かないのである。優秀な秘書であれば、風邪を引いたとかなんとか理由をつけて、主の嫌がる仕事は退けるものだ。その点を考えると、ルカーヴに身辺管理を兼任させるのは得策でないかもしれない。
「わかったよ、行けばいいんだろ」
 社内の廊下をとぼとぼと歩きながら、ケンジはやけくそ気味に答えをぶちまけた。こうして見る限りでは彼は一般的な少年と何ら変わらない姿であるのだが――それも今だけのものであろう。一度表舞台に立てば、歳からは想像もできないような妖艶な笑みを浮かべて器用に立ち回る。ある意味では、ルカーヴに――自分の命を預けられるほどに信頼するただ一人の男に――少年が父親に抱くような、あたりまえの甘えをぶつけていたのかもしれない。
 
[いいですか、ユイリェン]
 大きなソファの上にちょこんと腰掛けた少女に向かって、見取れるほどに美しい女はそう言った。女の長い赤毛は短く切りそろえられ、彼女の僅かな身じろぎにも敏感に反応して揺れ回る。落ち着いた色のブランドスーツは、まるで大輪の花を引き立てる霞草のようであった。これを着れば世のほとんどの女が色あせてしまうほどの、見事な仕立ての服だというのに。
 少女の方は抱きしめたくなるほどの愛らしさで女をじっと見上げていた。つやつやと輝く黒髪に、大きくつぶらな黒い瞳。引き締まった眉も、透き通るように白い肌も、しっとりと湿った桃色の唇も、少女の持つ何もかもが世間離れした可愛らしさを印象づける。顔立ちはアジア系ともヨーロッパ系ともつかず、奇妙に妖艶な――少女にはにつかわしくない形容であるが――魅力をそこに湛えている。おそらくは様々な人種の混血であろう。
 女の名はエリィ、少女の名はユイリェンという。
[もっとガードを固くしないと。悪い男に騙されちゃいますよ]
「ガード?」
 10歳の少女は聞き慣れない単語に首を傾けた。
[世界中の男はみんなユイリェンを狙ってます。ユイリェンてば食べちゃいたいくらいカワイイんだからっ]
「……そうなの?」
[そうなの]
 そうらしい。なにやら釈然としないものを感じながらも、ユイリェンは姉の言葉を信じることにした。生まれた頃からずっと一緒に育ってきたエリィの言うことである。この一風変わった姉は決して嘘をついたことがないし、判断もいつも正確であった。無条件に信じてもかまわないと、ユイリェンは常日頃から思っていた。もっとも、ユイリェンを見つめてぼうっと頬を赤らめる姉の姿はいつにも増して変で、本当に信じてよいものやら怪しかったのだが。
[まず、簡単に自分の情報を教えてはいけません。住所に電話番号はもちろん、メールのアドレス、年齢、出身、好み、それから名前だって極秘事項です。男はいつだって女の隙を衝こうと牙を研ぎ澄ましてるんですからね]
「名前を教えてはいけないの?」
 うん、とばかりにエリィは頷いた。
「クラスの男の子にはもう教えたわ」
[そそそ、それはいけませんッ! 電話番号は!?]
「まだ」
[良かった……もうこれから先、気軽に名乗ったりしてはいけませんよ。ユイリェンが愚劣な男どもの毒牙にかかったりしたら大変! わたしが一生護ってあげますからねー]
 ホログラフの体を擦り寄せ、ちいさなユイリェンを抱きしめてみせるエリィに――ユイリェンは思わず顔をしかめた。次の彼女の声には微かな不満の色が混ざっていたのだが、陶酔した姉が気付くはずもなかった。
「……そうなの?」
[そうなの]
 そうなのだ。
 
「お会いできて光栄ですよ、ミスター・コバヤシ」
 デイヴィス・ルーベックは微笑みながら右手を差し出した。今しがた父親――タツヤ・コバヤシ社長――との会見を終えたばかりの彼は、もはや初老と評される年齢に達している。正装に着替えたケンジは、彼の屈託のない笑みと一筋混ざった白髪を見るにつけ、父親とはこうしたものなのだと感じるのだ。これが普通の父親の姿であり、実の息子に向かって殺気にも似た気配を放つあの男は――永久に父親と呼ぶことが出来まい。
 デイヴィスの手に自分のそれを重ね合わせ力強く握りながら、ケンジは彼の後ろにも視線を配った。夫と並ぶと不釣り合いなほど若々しい妻――おそらくはまだ40ほどの――が優しい微笑みを浮かべつつ立っている。長らく一人でマクシス社を支えてきたデイヴィスが、齢50にして初めて娶った妻である。その頃ケンジはまだほんの子供だったが、おぼろげながら披露宴に招待された記憶はある。無論、タツヤの代役としてではあった。
「こちらこそ。まあ、おくつろぎ下さい。社長の相手は疲れたでしょう」
 デイヴィスの豪快な笑い声が響いた。彼の妻もまた苦笑を禁じ得ないようである。実際の話、社長が放つあのビリビリと張りつめた冷気のような雰囲気は、並の人間なら数分と耐えられないものであろう。17年間一緒に暮らしてきた――といっても顔を合わせることは希だったが――ケンジでさえも、数十分もそばにいると胸くそ悪くなってくる。まして社長との会見はこれが二度目のルーベック一家にとっては、たった五分の謁見が永遠にも思えたに違いない。
 その時のことだった。それまで大人しく母親の後ろに佇んでいた13歳ほどの少年――デイヴィスの息子――がにわかにそわそわと動き始め、父親の目を盗んで背後のドアへ擦り寄りだしたのは。無論デイヴィスにはその姿は見えなかったし、その妻も気付いてはいない。しかし賢明な父親は、その姿を見て微かに驚きの表情を表したケンジを見逃さなかったのだ。
「こらっ、ウェイン!」
 威厳ある父の声が応接室に響いた。大きな窓の向こうに広がるビル群さえもがブルブルと震えだしそうなほどの叱咤。息子はびくんと肩を震わせて――思わずケンジもそうしてしまったのだが――その場に凍り付いた。彼の凛々しい瞳には、畏怖の色が浮かんでいる。それは僅かな憧憬をも含む畏怖である。
「大人しくしていないか! 会見の最中だぞ!」
「いえ、かまいませんよ」
 慌ててケンジはぱたぱたと手を振った。
「よかったら、少し社内を見て回るといい。このフロアなら色々と楽しめるようなものもある」
 それを聞くなり、少年は飛ぶように応接室から駆け出して行った。どうやら余程外に出たかったらしい。幼いながら他社の内部構造に興味があるのか、社長との会見で緊張しすぎていたのか――あるいは認めたくないが、ケンジから社長と近い何かを感じ取ったのか。いずれにせよ礼の一つも言わない息子は、甚だ父の機嫌を損ねたことだろう。
「まったく……礼を知らぬ息子で申し訳ない。遅くに産まれた子で、少し甘やかしすぎたかもしれません」
 あなたに限ってそれはないだろう。ケンジは思わず苦笑した。
「彼はただ、慣れていないだけでしょう……さて、ミスター。僕もあなたが来訪した理由を一応は心得ているつもりですよ。ご覧なさい、もう駒まで並べてある」
 ケンジの腕が指し示す先は、応接室のテーブルであった。その机上に備え付けられたホログラフ投影機から、八行八列に区切られた正方形の板と王冠や馬の首をかたどった駒が映し出される。誰もが目にしたことくらいはあるであろう。チェス盤と駒であった。
「チェスはお得意でしたね。もし時間に余裕がおありなら――」
 微笑を浮かべるケンジの後ろに、ふっと現れる一つの影。最初は単なる白光のまとまりであったそれは、次第に渦巻きながら形をとり、細く伸び、柔らかく膨らみ、見慣れた形を取る。女。ただの女ではない。炎のような赤毛、理性に満ちた瞳、この世のどんな芸術作品すらも凌駕する究極の美。その姿はあまりにも美しすぎて、見慣れない人間には異様とすら思えてしまう。貼り付いた屈託のない笑顔さえも、まるでそれが本物であるかのような違和感を引き起こすのである。
「我が社の誇る人工知能、『システムガブリエラ』がお相手致しましょう」
 
「ヤヌアール、フェブルアール、メルツ、アプリル、マイ、ユーニ、ユーリ、アウグスツ、ゼプテンバー、オクトーバー、ノヴェンバー、デツェンバー……」
 見ていたページに人差し指をはさみ、そのまま本を閉じる。目を閉じ、ゆったりと瞑想するかのように首を持ち上げ、小さな唇を震わせる。ユイリェンはさっき憶えたばかりの単語をもう一度復唱した。一月、二月、三月……まだ若い彼女の脳に、最近学び始めたドイツ語が刻まれていく。暗記は完璧だったが、時々ユイリェンは変な気分になる。この姿を――十歳にもなる少女が常識的な単語を繰り返す姿を――ドイツ人が見たらどう思うだろう。ひょっとしたらおそろしく頭が悪くて、未だに母国語すら満足に話せないのだと勘違いされるかもしれない。
 ドイツ語を覚えるのは比較的楽だった。なぜなら彼女が常用している英語と類似しているからである。また、独特の濁音を多用する発音は二番目に憶えた日本語に似ている。あとは複雑な文法と活用形さえ克服すれば、そう時間もかけずにマスターできるはずである。英語、日本語、北京語、ドイツ語。それが終わったらフランス語に入る予定だ。今のままでも世界中の文書の96%を――内容を理解できるかどうかは別として――読めるというのに、この少女はほとんど偏執狂的に言語を勉強していくのである。
「Wolfgang ist auch in mich verliebt.」
 ヴォルフガングもまた私に恋をした。再び開いた本の例文を読み上げ、目で追い、記憶に焼き付ける。さっきと同じように本を閉じて繰り返す。ヴォルフガング・イスツ・アウフ・イン・ミッヒ……
 ふと。ユイリェンは自分のいる部屋の入口を見た。ここは狭苦しい自室ではなく、コバヤシコーポレーション本社ビル最上区画の図書室である。そう広くもない部屋に無駄なく並べられた本棚には、あますところなくぎっしりと難しい本が収めてある。自習用のテーブルが一つと、書籍検索用の端末が一つあるだけで、この部屋に今いるのは彼女だけ――のはずだった。ところがそこには……見慣れない侵入者が一人立っていたのである。赤毛の少年であった。
「フェアリープツ」
 多少驚きながらも、ユイリェンは例文を最後まで暗唱しきった。彼女はきっちりしたのが好きだ。
「やあ」
 少年は――といってもユイリェンより二つか三つ年上であろうが――ぎこちない笑みを浮かべつつ声をかけた。低いような、高いような、微妙な声色。ボーイソプラノであった。ぎらりと宝石のように輝くその瞳や、無駄のない筋肉に覆われた健康そうな肉体を見れば――その筋の人間なら興奮を禁じ得ないかもしれない。ただ彼にとって残念だったのは、目の前の少女はまだ自分より年下であるうえに、成長してもその手の趣味に目覚める見込みはなく、かつ今の段階でも男に興味を持っていないということであった。
「あなたはだれ」
 少女の声は大人のように上品で落ち着いていた。
「俺は、ウェインっていうんだ。君は?」
「私は、ユイ……」
 名乗りかけて、ユイリェンははっと口をつぐんだ。そういえば今しがたエリィに言われたばかりである。簡単に名前を教えてはいけないのだ。名前はとても大切なものだから、大事にしまっておかなくてはならない。ユイリェンはこの見知らぬウェイン少年に、名前を教えないことにした。しかしもう半分言ってしまったのに、いまさら黙りではおかしいだろうか。
「ユイちゃんはここの子?」
 悩むだけ無駄だったかもしれない。
「そう」
「俺、若社長に言われて見学してんだ。でもE3のカイハツブとか見つかんなくて。どこにあるか知らない?」
 E3。エンバディ・エレクトロニクス・エンターテイメント。エンバディはコバヤシコーポレーションの統一ブランド名で、その名を冠するE3は、有り体に言えばゲーム会社である。別の企業が開発したハードに対してソフト開発を行っており、職人集団だったころから培ってきた技術と、今や世界の大企業と呼ばれるまでに膨れあがった潤沢な資金をもって、E3のソフトはなかなかの人気を博している。世の少年達にとっては憧れの的であろう。
 ユイリェンは思わず溜息を吐いた。一体何を勘違いしたかしらないが、ここはコバヤシコーポレーションの本社である。E3は系列会社として半独立しており、そのオフィスも開発部も別の都市にあるのだ。少し考えれば――あるいは調べれば――わかることだが、そこが子供の浅はかさというものだろう。自分の年齢などまるで棚に上げて、ユイリェンはそんなことを思った。
「ここにはないわ」
「えっ?」
「E3のオフィスは地球中央区よ」
「えっ、そうなの?」
 少年はがっくりと肩を落とした。丁度その時であった。彼の背後にすっと現れた人影が、石臼の擦れるような低い声を出したのは。身長が2mの大男。白銀に光る肩までの髪に、視線を覆い隠すサングラス。ユイリェンにとっては見知った顔であった。
「ウェイン様」
「うわっ!?」
 驚いた少年が後ろを振り向く。きっと彼の目には、この大男が壁のように見えたことであろう。辛うじて怯えなかったのは、父親の血がなせる技だろうか。大男は――ルカーヴは――子供にはとにかく怖がられるたちなのだが。
「お父様がお呼びです。もう出発されるそうです」
「うん、わかったよ。んじゃユイちゃん、バイバイ」
 眉一つ動かさない蝋人形のような少女に手を振ると、少年は廊下を駆けていった。不思議な少年である。ユイリェンはなんだか動物園の珍獣を見ているような気分だった。ユイリェンに向かって普通に話しかけてくる子供など、今まで一人もいなかった。それにも増して不思議だったのは、心の何処かにまた彼に出会うかも知れないという不確かな予感があったことである。もっともその予感も、時と共に忘れ去られてしまうだろうが。
「何を話していた?」
 普段滅多に声をかけないルカーヴが、ユイリェンに事務的な口調で問いかけた。ユイリェンの育つ環境には細心の注意を払わねばならないと、ケンジから聞かされている。どんなイレギュラーが少女の精神に影響を与えるかも知れないのである。
「E3のある場所を聞かれたわ」
「どう応えた?」
「地球中央区よ、って」
 短い尋問は終わった。会話の内容からも、少女の様子からも、特別な影響の跡は見られない。問題はないようだった。とはいえ、問題は別の場所にあるのやもしれない。ルカーヴの心の中に嫌な霧がかかったようであった。自分の息子と変わらない歳の少女を、こうして半ば軟禁状態の元で育てる。理屈ではその必要性を知っていながら、心底では納得できないのだった。それが自分の感傷じみた我が儘なのだということも痛いくらい理解している。
「ケンジ様が食事をしようとおっしゃっていた。後で来なさい」
 少女が頷くのを見届けると、ルカーヴは部屋を後にした。
 
 それは、地球歴204年の夏――日差しのきつい、うだるように暑い日のことだった。地下都市から地上への移民が進み、百年前の大破壊で永久に失われたかと思われた太陽の光を人類は再び取り戻した。しかしそれは太陽のもたらす害悪――要するにこの暑さという重責さえも、再び人類の肩にのしかかったということであった。地下都市では換気のために絶えず大規模の空気清浄機が動作しており、結果として気温・湿度の変化をある程度抑制することになったのだが……常時ドアも天窓も開けっ放しの地上都市で、巨大エアコンを働かせることなど不可能である。
 ルカーヴはせっかくの休暇がこんな熱気に見舞われたことを心から悔いていた。これでは待ち合わせの相手は汗でびしょぬれになってしまう。顔を合わせたら、挨拶の次に喫茶店に入ることを考えねばなるまい。あるいは先方のお気に入りであるスノウホワイトのチョコチップかもしれないが。いずれにせよ、偏頭痛が起きるほど冷房を利かせた屋内で、何か冷たい物を食べなければ――彼らがカラカラのミイラになってしまうまでそう長くはない。
 日陰を慎重に選びながら、ルカーヴは目指す公園へ急いだ。それはハイライン市内に百七カ所ある公園の内の一つで、北区第6緑化区域という身も蓋もない名前と、はしばみ公園というこれまた身も蓋もない愛称を同時に持っていた。愛称の通りはしばみの木がたくさん植えられているのであるが、ルカーヴの瞳と同じ色の花は、残念ながら既に時期を過ぎてしまっていた。今の季節は青々と葉が多い茂っていることだろう。
 果たしてはしばみ公園では青葉が涼しげに揺れていた。公園に一歩足を踏み入れた途端、ルカーヴを爽やかな冷たい風が撫でていく。それは視覚からくる幻想などではない。実際に木々に囲まれた公園内は他よりも気温が低いのである。地面が土であることも大いに関係しているであろう。人間流の直角ばかりで構成された蜂の巣は、効率は良いのだが熱が溜まりやすいという欠点がある。それを補うためにこうして一見無駄とも思える公園を配置するのである。
 ゆらゆらと絶え間なく形を変える日陰の中を、ルカーヴは悠然と横切った。公園の遊歩道は人影もまばらである。休日となればもう少し賑わいもするだろうが、いかんせん今日はそうではない。いるのはルカーヴのように予定外の休みを得た果報者と、第一線を退いたベテラン連中、あるいはこれから第一線に立つ予定の子供達くらいであろう。そう――遠くのベンチに腰掛けているあの少年は、三番目の例に違いない。
 風にたなびく金髪が見えたときからよもやと思ったが、その予感は当たっていた。あの少年は間違いなく待ち合わせの相手である。クリスマスの子供のように高鳴る鼓動を抑えつつ、ルカーヴは少年に歩み寄っていった。あと十mといったところで向こうも気付いたらしく、顔一杯に笑みを浮かべて元気良く手を振った。ルカーヴも控えめに右手を持ち上げ、それに応えた。本当なら今すぐ駆け寄って抱きしめたいくらいだったのに。
「待たせて悪かったな。暑かっただろう」
「ううん、そうでもないよ」
 少年とルカーヴは近づくなり言葉を交わした。それは、二人が一緒にいるのが当然の関係だからであった。名前を尋ねる必要はもとより、挨拶の必要すらもないのである。ある意味ではお互いに一つであるとも言える。ルカーヴは少年とは生涯切り離せない関係にあり、逆もまた然りなのだ。なぜならジョニーという名の少年は、血を分けたルカーヴの息子なのだから――たとえ法が二人を分かとうとも。
「汗は嘘をつかないぞ。さあ、喫茶店にでも入ろう」
「それよかチョコチップの方がいいな。むこうにスノウホワイトがあったよ」
「……予習は完璧だな」
 父と子は並んで歩き始めた。こうして顔を合わせるのもどれだけぶりだろうか。裁判官が妻の親権を認めたあの日から、ルカーヴは自由に息子と会うことすら許されなくなった。自分から陳情することさえ禁じられているのである。一年に一度か二度、妻からかかってくる電話を待つだけの毎日。それがどんなに辛いことか、彼女はわかっていまい。犬におあずけを喰らわせたところで、飼い主は痛くも痒くもないのだから。
 この猛暑にもかかわらず、スノウホワイト直売のアイスクリーム・カフェにはいくつか空席があった。あまりに気温が上がりすぎるとアイスの売り上げは落ちるというが、これがその証明かもしれない。ともかく給仕に案内されて、二人は店の一番奥にある対面テーブルに陣取った。近くに窓がないのは幸いかもしれない。外を歩く汗だくの人々を眺めながらでは、おちおち休憩もしていられないだろうから。
 椅子に飛び乗るなり、「チョコチップ!」とジョニーは叫び声をあげた。席まで案内してくれた給仕は少し面食らった様子だったが、すぐに微笑んでポケットから平たい板を取り出し、ボタンを二つ三つ操作した。それから彼女が視線をくれたので、ルカーヴはマネーカードと一緒にアイスコーヒーの注文を口にした。「チョコチップお一つとアイスコーヒーお一つ、以上でよろしいですね」とお定まりの文句を暗唱した後、給仕は平たい板のスロットにカードを通してそれを客に返した。そして「少々お待ち下さい」という脚本通りの台詞が、別れの挨拶となった。
「ママはね、ひどいんだ」ジョニー少年はひょいと肩をすくめた。「チョコチップ食べたいっていうと怒るんだよ」
 それはもっともな話ではある。妻のチョコレートアレルギーはかなりの重症だ。チョコレートを見ただけでヒステリーを起こし、そんな黒くてどろどろして汚らしいものを、と金切り声で叫ぶ姿はそうそう忘れられるものではない。離婚する前、たまたまジョニーと二人だけで街に出てチョコレートを食べたことがあったのだが、それで味を占めたジョニーが未だに母親を困らせているというわけだ。
「今日は食べてもいい」ルカーヴは苦笑しながらそう言った。「ただし、ママの前でチョコの話はなしだ」
 それから二人は届いたアイスとコーヒーにそれぞれ口をつけた。ルカーヴは手の中にあるグラスを見つめた。黒くて香ばしい液体が氷と一緒にゆらゆら揺れている。このアイスコーヒーという飲み物は日本人が発明したという噂があるが、もしそれが本当なら、ルカーヴはカトリックを抜けて仏教に鞍替えしてもいいとさえ思っていた。コーヒーに氷をぶちこむという大胆不敵な飲み方が夏の暑さをどれだけ和らげてくれるか、証明なら大破壊以前に終わっている。
 冷たい間食と冷房ですっかり熱も冷めた二人は、今度は映画館へ向かった。なんでもママが見てはいけないという映画があるらしかったのだが、なんとそれは年齢制限がかかったレイヴン映画で、十歳の子供に見せるのは明らかに父親失格と言えるような代物だったのだ。子供の前でできるだけ寛容な姿勢を見せてやりたいルカーヴでも、さすがにこればかりは駄目だと言わざるを得なかった。
 ハイラインの街を散策しながら、ルカーヴは悲しい考えに心を曇らせていた。息子がレイヴンに憧れているのは明白だった。映画もそうだが、ACの模型や大深度戦争の年鑑をねだる姿も、その事実を如実に物語っている。ジョニーは理解していないのだ。レイヴンが一体何なのか――誇り高い傭兵? それは確かにそうかもしれない。だがレイヴンになるということは、ルカーヴの敵になるということと同値なのである。もし彼が本当にレイヴンになり、いつかルカーヴの前に現れたら……いや、よそう。そんなことはあっても無視できるほど低い可能性だし、何より想像さえしたくない。
 楽しい時間は矢のように過ぎていくものだ。今日とて決して例外ではない。ふと気付けば、もう太陽は西の空に沈みかけていた。約束の――かつての妻との――時間まではあと10分。乾ききった砂漠のオアシスにも似た休暇は、邂逅は、法の定めた絶対神との契約によって終わりを告げるのだ。そして妻という名の神は、どんなに敬虔な信徒に対しても温情を与えてはくれない。
「ぼく、もう行かなきゃ」ジョニーは、にっと屈託のない笑みを浮かべた。「そろそろおじさんが迎えに来るよ」
「おじさん?」
 ルカーヴの背筋を、ぞっとするような冷たい汗が流れていった。ルカーヴにも、そして妻にも、兄弟はいない。以前に聞いたことがある――女は別れた恋人に決して未練を抱かないそうだ。
「うん。すごく優しいおじさんだよ。パパとどっちが優しいかな」
 目に浮かぶようだ。妻の新たな夫となる男の、なんとかして子供を手なずけようとする滑稽な姿が。もっとも、自分も同じ種類のピエロかもしれない。今でもかつての妻を愛していたし、もう一度やり直したいと思うこともある。何よりも息子といつも一緒にいたいという思いを抑えるのは困難だった。
 消えろ、醜いピエロ。お前はここにいてはいけない。所詮過ぎ去った時間を取り戻すことなど不可能なのだ。サングラスの向こうで目を閉じて、ルカーヴは自分に言い聞かせた。
「じゃあね、パパ」
 地下鉄の駅の前で、息子は無邪気に手を振った。
「次はいつ会えるかな」
 チョコチップに、か。ルカーヴは肺から込み上げてくる溜息を必死に抑え込んだ。どこまで行っても自分は人形遊びをしている子供に過ぎないのだろう。ジョニーという人形を大切に握りしめ、砂の城で戯れている子供だ。そして人形の方にしたって、彼のことは優しいおじさんA以上には思いえないのだ。
「さあ」皮肉混じりにルカーヴは言った。「それは母さん次第だな」
 そして、自分の口にした皮肉を痛烈に嫌悪した。

HOP XXX Memories of Magician's whisper

あの日聞こえた術士の声

「つまり」
 ルカーヴの声には確かな溜息が混ざり込んでいた。
「全機撃墜すればいいんだな?」
 通信の相手はしたたかに気分を害したようだった。どこにでもよくいる類の男――情報は、それがどんなものであれ、とにかく量が多いほど良いと考えている男。自分に知りうる限りの情報を相手に伝えることで快感を得、そして相手もそれを望んでいると信じて疑わない男である。そうした男に限って、他人から得る情報は拒絶する。彼は常に教師でなければならず、相手には従順な生徒であることを望みながら自分がそうなることは嫌悪するのだ。だからこそ彼は、相手が押し殺した溜息を吐くことにも気付かない。
『そうです。しかし……』
「話はもういい。作戦にかかる」
『了解』
 相手はしぶしぶながら通信を切断した。
 それは地球歴210年の夏――湿った熱気が肌にまとわりつく、鬱陶しい熱帯夜のことだった。最近になって増長をはじめたテログループ――向こうの言葉を使うなら『労働組合』――の排除に、KC特殊戦術部隊は連日の活動を余儀なくされた。コバヤシコーポレーションの独立へ向けた動きに反対して、政府傘下での安寧を望む者。株主によって構成される組織『元老院』との軋轢を懸念する者。単純に今の待遇に不満のある者。人が生きるということは敵を作るということを同義だが、革新派であるコーウェン社長以下首脳陣にはとりわけ敵が多いのである。
 労働者の微かな不満あるいは不安は確かな疑惑を呼び、それのみでは力を持たぬ疑惑はやがて堅固な反発へと昇華する。結果として彼らの商売道具たる作業器具は改造され武力を持ち、建設途中の建築物や作業所は難攻不落の要塞と化す。わずか数名の反抗者が――その戦力は吹けば飛ぶような、取るに足らないものではあるが――親企業に対して与える経済的損失は、数十億の資産を持つ敵対企業の妨害工作にすら匹敵する。僅か数日工事が中断されるだけでも企業にとっては大きな痛手となるのである。
 したがってコバヤシ社の私兵軍隊とも言えるKC特殊戦術部隊の急務は、一にも二にも可能な限り素早く反抗者を排除することである。テロリスト共の生死は問わない。無論、殺せば世論に責め立てられるが、数名の命など如何様にでもなる。世界は彼らが死んだことはおろか、そもこの世に生きていたことすら気付かぬままに時を過ごすだろう。そう、彼らの友ですらも、家族ですらも、己が腹を痛めた母親ですらもが、ある種の罪悪感に駆られてぴたりと口を閉ざすだろう。金で彼の命を売ったという罪悪感に。
 そして罪悪感を感じぬほど正義感が強い者は、ほどなくして友か家族か息子の後を追うことになる。
 ただ、いかに『生死問わず』とはいえ、各地で日々繰り返される反乱を鎮めるのは容易い仕事ではない。とりわけて難解な作業を要するわけではないが、とにかく数が多いのである。特殊部隊だけでは対処しきれず、他部署から応援を要請せねばならなくなる。そうして本来副社長護衛の任にあるルカーヴまでもが、こうしてMTのコックピットに座る羽目になるのだ。
『そう邪険にしてやるな。みんな自分の仕事を全うしたいだけなんだ』
 声は先ほどとは別のものだった。長年聞き慣れた、男としては高く透き通った声色。聞き間違うはずもない。ルカーヴの主、唯一無二の主、ケンジ・コバヤシ副社長であった。
「やはりお帰りになった方が。ここは危険です」
『護衛のいう台詞じゃないな。君ぬきで帰れと?』
 確かに。相手がケンジでなかったら、苦笑してしまっていただろう。
『それに、僕には僕の仕事がある。ユイリェンの勇姿を拝みたいのでね』
「観察ならば私が行います」
『無理だね。君にはユイリェン――ペンユウを見ることすらできないだろう。見えたと思ったときには全て終わっている。ルカーヴ、君はとても優秀な部下だが……わかっているだろう。あの子は特別だ。君とは住む世界が違う。
 あの子の動きを把握しようと思ったら、戦場の外から眺めるより他ないんだよ』
 そうかもしれない。ルカーヴは今でもはっきりと憶えている。204年の秋、10歳になったユイリェンが初めて操縦桿を握った日のことを。彼は恐怖した。それ以外一切の感情はなかった。僅か10歳の少女が、特別製のシートでなければペダルに足が届かないような少女が、あっさりと、不思議と慣れた手つきで、まるでやりこんだコンピューター・ゲームでもするかのように、無人兵器5機を17秒で撃墜したのである。1機につき3秒と少し。
『しかし、君の気持ちもよくわかる。せいぜい安全なところから観察させてもらうよ』
 この主との付き合いは長いが、この時のこの言葉に関してはどう応えていいものやら見当もつかなかった。
 
 そもそもが奇妙な依頼ではあった。相手は建設途中の建造物を占拠した労働者数名。戦力は作業用MTを改造したものが数機と、敵が雇ったとされるレイヴンのACが一機。特殊部隊だけでも十分対処できるだろうし、わざわざレイヴンを雇う理由も見つからなかった。
 まして、高い金を払ってユイリェンを呼びつける理由など。
「どう思う?」
 通信相手の男――ウェイン・ルーベックは、一瞬の間をおいて応えた。
『一番、相手のレイヴンがやたら強い。二番、ユイリェンの戦闘データが欲しい。三番、任務の合間にユイリェンを口説く。
 ……の、どれかかな』
「あるいは全部」
『かもね』
 いずれにせよ、ケンジ・コバヤシの奇妙な依頼は日常茶飯事であり――それによって引き起こされるトラブルも覚悟の上であった。行く先に罠が確実に待ち受けていることを知りながらなお愛機のコックピットに座るのは、どんな事態でも乗り切るという自信の表れであったかもしれない。そしてそれ以上に、一年近い日々を共に過ごした男への信頼であるのかも。
『連中、息を潜めてるな』
 おそらくは目の前のビルを見据えて、ウェインは淡々と言った。ぞくりという冷たい感覚がユイリェンの背筋を駆け抜ける。いつもの彼とは何となく違うような気がした。憤るでも、苛つくでも、荒ぶるでも、怯えるでもない。徹底した無感情、小さな波紋一つたたぬ水面のような心が伝わってくる。いつから彼はこんなになったのだろうか。ウェインにとって戦いとは、むしろ感情の迸りではなかったか。こぼれる水の映像を逆回しで見ているような違和感を、ユイリェンは感じた。
『どうするよ。突撃?』
「突撃」
『ユイリェンってさ』ウェインはくっくっと勘に障る笑い声をたてた。『意外と結構、力押しが好きだよな』
「力押しで解決できるならそれに越したことはないわ」少し押し殺した声。「何も考えなくていいから簡単。簡単なことは、好きよ」
『同感。面倒ごとはまだるっこしくていけないや』
 ほぅ、と彼女は溜息を吐いた。呆れが三分の一、疲れが三分の一、名前の知らない暖かい気持ちが三分の一。「あなたも」思わずか、思うてか、吐息に乗って言葉が滑り出た。「随分と簡単だわ」
『は? え? あれ、それって』
「誉め言葉に聞こえる?」
 がさり、と通信機が音をたてた。布の擦れる音。きっとウェインは今ごろ、げんなりと顔を青ざめさせて肩をすくめていることだろう。
『いいや』
 
 ううんううんううんううん。ギアが擦れてうなり声を上げる。建設が滞っているはずのビル内で、建築用重機が音を立てる。機械に心があるのなら、それらはどう感じただろうか。本来の仕事たる建設業に携わることなく、自らの体を返り血で濡らすことになろうとは。
 その機械たちは鈍重ながらも速やかな動きで歩みを進めた。中央が膨らんだ円盤上の胴体に、等間隔で付きだした四つの脚。脚は二本の太いパイプに関節を付けて繋げたような単純な構造で、その先端にはこれまた単純な、緩衝材を張り付けた円盤状の足がはりついている。ぴったりと床に密着する足の姿は、まるで蛸の吸盤のようであった。見た目は蟹か蜘蛛に近い。ただモデルとなった動物と違い、前後左右どの方向にでも自由に歩き回ることが出来たが。
 悲しむらくは、本来作業用に備え付けられていたマニュピレータが根こそぎ外され、代わりに機関砲が装着されているということだろう。人の技術は戦争と共に発展を遂げた。それは裏返せば、高度に発展した技術はいつでも兵器に回帰できるということでもある。この機械達についても同じこと。かつてはスパナ一本、盤陀ひとかけと同じ価値であった道具が、今となってはおおよそ拳銃一丁程度の価値にまでのし上がっているのだ。
 機械達の滑らかな動きは止まらない。まるで本物の生物のようにも見える。そう見えるのであれば、それは制作者たちの勝利であろう。なぜならこの機械達はマッスル・トレーサーと呼ばれる類のもの――生物の筋繊維を模して作られた機構を利用した機械なのだから。いつだって最高の先生はすぐそばにいた。今だって、昔だって、この先だって願わくは――。滅多に気付く者はいないが、私たち自身だって最高の先生であるのだった。
『大丈夫なのか、おい、大丈夫なのか』
 密閉されたコックピットの中で、男の恐怖と不安は頂点まで達していた。愚問を何度と無く繰り返す。大丈夫なはずがない。この状況から生き残る算段が無いことは、誰の頭にも明白であった。それでも問わずに居られないのは、やはり恐怖のせいだった。恐怖が熱意を剥ぎ取る。命を捨てても正義の抗議を行うのだというあの誓いさえ、忘れ去らせる。
『大丈夫だ』仲間の誰かが応えた。無責任にも。『用心棒の先生がなんとかしてくれる。俺達はただ耐えればいいんだ。五分耐えれば、レイヴンが外の連中を片づけてくれる』
 それが皮切りだった。
 大丈夫だ。助かる。なんとかなるさ。腹減った。生き残るんだ。息子の顔を最後に見ときたかった。正義を行うには生きなければ。俺達は大儀のために死ぬ。いや死なない。ヒーローはいつだって勝つ。生きる。誰だよ最初に言い出した奴。死んでたまるか。あいつじゃないか、鉄筋加工の。どうせ死ぬならベッドがいいよ。あああいつ、どこへ行ったんだ? 逃げたのか、自分だけ!
 無意味な言葉が延々と続いていく。どこまでも途切れることはない。死への恐怖、生への渇望、未来への不安、現在への不満、過去への固執、徹底した無関心。彼らのリアリティはどこか深い闇の中へと消え去ってしまったのだ。
 五匹の蜘蛛は闇の中で停止した。停滞した、と言った方が正確かもしれない。建設途中の要塞は、資材や放置された重機で満ちている。無数の遮蔽物。これほど防衛戦に適した舞台は滅多に見られない。労働者上がりの急造戦士たちがそれを活用できるかどうかは別の話ではあったが。
 軽い混乱と恐慌状態にある彼らの中を、一陣の風が吹き抜けた。質量を持った風であった。黒くて丸くて小さくて速いものが風となって吹き抜け、蜘蛛どものそばの壁に食い込んだ。一瞬遅れて耳を劈く破裂音。リアリティが戻ってくる。労働者達は以前に聞いた話を思い起こした。銃弾は音速よりずっと速いから、音は攻撃より後に来る。
『敵だ!』
 誰かが叫ぶ。別の誰かがすぐさま応える。
『どこだ!』
 所詮彼らは戦士の器ではなかった。本質的に彼らは労働者なのだった。誰かの命令に従うことが彼らの得意分野であり、能力であり、素質だった。生と死の崖っぷちで、精神を押しつぶす緊張を一身に受けながら、なおかつ心を冷たく静かに保てる者。それが戦士だ。彼らは戦士とは違う。上も下もない、ただ戦士とは別の種類の人間であったのだ。
 閃光。そして一瞬遅れる爆発音。蜘蛛のうち一匹が赤い炎を上げて崩れ落ちる。炎の輝きが闇を切り裂き、蜘蛛の姿を映しだした。もともと潤滑油で汚れていた蜘蛛ではあるが、今やその装甲は機関砲の砲弾によって見るも無惨に朽ち果てていた。たった一瞬、照準さえも合わせられないこの暗闇の中で、たった一瞬にして仲間が一人落とされたのだった。
『レイヴンだ!』三人目が金切り声をたてる。『レイヴンだ! 本社がレイヴンを雇った!』
「殺しゃしねぇよ」通信を傍受していた誰かが口を挟んだ。若い男の声。死の谷間にロープを張り、その上でタップを踏む男。その圧倒的な存在感はただ一つの能力、慣れであった。戦いへの慣れ、命の取り合いへの慣れ。すなわち彼は戦士であったのだ。「だから動くな。照準が狂う!」
 ずぐん! 突風が駆け抜けた。青い突風。労働者のMTよりも一回り大きく、より大がかりな武装が成された蜘蛛。そしてボディは真っ青であった。どこまでも深く深く無と等しい闇を孕む青。烏合の衆が恐怖を感じるよりも速く、全ては終わっていた。駆け抜けたその一瞬、青白い月光にも似た輝きが閃いていた。高濃度大質量荷電粒子の束、レーザーブレード。筋繊維を模しているゆえ、生物を真似たがゆえ、関節を切り裂かれたMTは無力なのだった。
 爆音を閃光を撒き散らし朽ち果てていく(それでもコックピットだけは辛うじて損害を免れている)敵を背に――ウェインは小さく笑みを浮かべた。
「動かなかったから死んでないだろ?」そしてひょいと肩をすくめる。「うちのお姫様も、このくらい素直ならいいんだけどな」
 
 それとはまた別の区画を、ユイリェンの駆るペンユウは闊歩していた。そこはイベントホールにでもなっているのか、多少手狭ではあるがAC同士の三次元戦闘も可能な広さを持っている。建造物破壊の許可は出ている――久々に、何の気兼ねもなく暴れ回れそうだった。
 ホールには照明の一つもなく、真の闇が視界を覆い尽くす。肉眼での視界はゼロに等しい。モニターに暗視処理をかけてみても、未だ薄暗さは払拭されない。この状況では、頼れるのはレーダーの反応と――あとはパイロットの勘だけだ。
 ホールの中央近くでペンユウは足を止めた。レーダーに反応はなし。無論視界にも何も入らない。ただ勘が――脳の奥底で叫ぶ何者かが――告げている。そこに敵がいるということを。すぐそばにいる。あと一回呼吸をするまでの間に息の根を止めることが出来るほど近くに。
 ぶぶぶぶぶ。虫の羽音のような響きが耳を襲った。もう一つだけ頼れるものがあったのだ。それは耳。聴覚が捉えた微かな異変に、ペンユウは素早く横に飛ぶ。一瞬前まで赤い巨人が立ち尽くしていた場所を、青いプラズマが灼き斬った。
『お仲間かい』通信。眼前の敵から。闇色に塗装された、暗殺者からの。『予言するよ。あんたは死ぬ。チョコチップを賭けてもいい』声色は男――おそらくは若い、ユイリェンと同年代の男のようだった。ACという兵器、労働者とは異なる雰囲気。間違いなくこの男はレイヴン――それも、このご時世に傭兵稼業を続ける裏レイヴンであろう。
 応える義理もつもりも毛頭なかった。ユイリェンにとっての関心事はただ一つ、敵がレーダーに反応しなかったということだけ。奴が肩に装着している妙なユニットが、おそらくはレーダージャマーであろう。あれではパッシヴ・レーダーはもとより、アクティヴ・レーダーによるロックオンもままならない。全ては勘が支配する領域。
「予言するわ」通信は開かぬまま、ユイリェンはひとりごちた。「あなたがチョコチップを食べることはない。これから先二度と――生きようとも死のうとも」
 ヴン! ペンユウの左腕が輝き、眼前の黒目がけて振り下ろされる。腕部レーザーシールドのリミッターを局所解放し、下腕全体にプラズマをまとわりつかせての拳。しかしてその拳は、一瞬速く飛び退いた黒の装甲をかすめるに止まった。再び闇にとけ込み、姿が見えなくなる黒。面倒なことになった。あたれば一撃で終わっていたものを。
『なんだいそりゃ。初めて見た』
 黒のレイヴンは呑気に口笛を吹いて聞かせた。その瞬間だけパッシヴ・レーダーが反応するが、それもまた消える。初めて見るのも当然である。パイロットはリミッター解放のプログラムなど組めないし、整備士や設計士は腕部のみの局所解放などという危険な真似は認めない。パイロットにして整備士にして設計士たるユイリェンだからこそ可能な攻撃である。
 ひたり。闇の中、再びペンユウは静止する。敵はステルス能力で身を隠し、気付かれずに接近して格闘戦を挑む戦術らしい。ならばかならず死角から襲ってくるはず。ホールの外壁に背中をつけるか――いや、外壁までは約100m。悠長にその距離を移動している暇はない。それに上から攻撃されたときの逃げ場が限定されることにもなる。
 じっと、ユイリェンは待った。ただ一つの情報が彼女の肌に染み込んでくるのを。
 ――そしてそれは来た。
 どず。
 音は果てしなく鈍かった。一撃、たったの一撃であった。右後方から迫ってきた黒ACの腰部接続部を、ペンユウの拳が貫き通した。一撃で支えを失い、ACの上半身と下半身が分離する。今や金属の塊と化した黒ACが地面に落ちる。
 ――何故!? 黒のレイヴンは今ごろこう思っている筈だった。何故、場所がわかった?
「音」聞こえもしない相手の問いに、ユイリェンは答えを送った。「微かな駆動音――それで十分」
 
 紅い鬼は去った。黒のレイヴンはのそりのそりとコックピットを這いだした。生きている。まだ死んではいない。圧倒的パワーで黒いACを屠ったあの紅鬼が彼を生かしたのは、故意にだったのか――黒のレイヴンにはわからなかった。ただ今しなければならぬことは一つ。この場から逃げ、生き延びることであった。
 優秀なレイヴンとは、任務を遂行できる者ではない。強い戦士でもない。決して死なぬ者のことだ。
「食べたい」黒のレイヴンはぼそりと呟いた。「エナジーが足りねェ……チョコチップだ」
「お前はもう二度と食べることはない」
 ぞくりっ。悪寒がレイヴンの背筋を駆け抜けた。男の声。否、魔術師の声。これはいつか聞いた声。決して妥協せぬ、不可思議な術に生け贄を捧げる、あの日聞こえた魔術師の声であった。
 黒のレイヴンは立ち上がり、後ずさり、闇の中に潜む魔術師を睨み付けた。白銀の髪とハシバミ色の瞳を持つ魔術師。
 ルカーヴ。
「レイヴン、ジョニー・B・グッドだな。ここ数件の我が社に対するテロ行為をお前が主導していることは明白だ。従って然るべき制裁――」
 魔術師は――ルカーヴは目を見張った。目の前にいる男――これまで闇に隠れていたレイヴンは、年端もいかない少年であった。おおよそ14、5。そして何より、その顔には見覚えがあった。母親と同じ金色の髪。父親と同じハシバミ色の瞳。五年間会うことのなかった、もっとも彼に近しい者。
「ジョニー……」
 それは、彼の息子であった。
「そうとも」黒のレイヴンは嗤った。にたりと。驚きの色を讃えた父を愉しむように。嘲るように。「俺はあんたの息子だ。だが実に奇妙なことに、俺はお前を父だと思っていない」
「何故だ」ルカーヴは問わずにいられなかった。
「死線をくぐり抜けたからさ。母さんもあのおじさんも殺した」笑いは微動だにせず、顔に貼り付いていた。「でなければ俺が殺されていた。子供のことも考えず、あんたと別れた女さ。まともな男が寄りつくはずもない――暴力的なんてなまっちょろいものでもないな。あれは子供が蟻を潰すような遊びだった。もちろん子供とはあのおじさんで、蟻とは俺だ。そのうち母さんも子供の仲間入りをした。愉しそうに――嬉しそうに」
「何故だ」再びルカーヴは問うた。
「殺さねば生きられなかった。だから俺はレイヴンになったのさ。憎まなければ生きられなかった。だから俺は仕事を始めたのさ。話を持ちかけてきたのは灰色の男だった。あんたと同じような灰色の髪をしていて、あんたよりもずっと恐ろしい灰色の瞳を持っていた。そいつはこう言った。憎いなら復讐すればいい。復讐だけが良薬だと。力も与えてくれた。方法も教えてくれた。あんたに復讐するためには――あんたの命である企業を、若社長を、この世から消せばいいんだ」
 ルカーヴは顔をしかめた。ぼぐり、と、ジョニーの体内で何かが動いたように見えた。それは薄布の下で虫が蠢いているように、ジョニーの皮膚の下を動いていた。確かに動いていた。何かがいる。息子の体を何かが蝕んでいる!
「急げよ」ジョニーは爆笑した。喋りながら爆笑していた。首の辺りに穴が空いていた。歯が並んでいた。もう一つの口がそこに生まれようとしていた。爆笑以外何もしない奇怪な口が。「細胞の癌化が始まる。そうなればもう止まらない。俺も死ぬ。あんたも死ぬ。若社長も。知っているか、ギアという兵器を。俺はそれになった。だからさあ」
 ジョニーの体が内側から弾けようとしていた。もこもこと膨れあがった皮膚が裂け、中からおぞましいものが這い出ようとしていた。今やらねば。ルカーヴは拳銃を握りながら、引き金を引けずにいた。目の前に広がる悪夢のような光景を信じられなかった。自分が息子を殺せるということも信じられなかった。しかし今やらねば。
「俺を殺せェェェェェッ!」
 ずぐん! 血流が彼の脳髄を駆け抜けた。
 
「じゃあね、パパ」
 息子は無邪気に手を振った。ルカーヴははっと気付くと、微笑んで手を振り返した。
「次はいつ会えるかな」
 さて。それは随分と先のことになりそうだ。今ルカーヴが息子と共に行くことは容易い。しかしそれで何になる? 彼には仕事がある。成さねばならぬ事が――護らねばならぬ事がある。家族よりも、息子よりも、自分自身よりも、常に優先させてきた責任が。それでも、これから息子の行く場所に不安がないわけではなかった。チョコチップはあるだろうか。
「わからない。ただ」ルカーヴの答えはあの日聞こえた魔術師の声とは異なっていた。「いつかまた、必ず会えるよ」


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