ARMORED CORE 2 EXCESS

 闇が啼いていた。
 奇妙な表現ではあったが、そうとしか言いようがないこともまた確かな事実であった。どこまでも真っ暗で、伸ばした手の爪すら見ることはできない。そんな闇がおぉんおぉんと啼いていた。悲しそうな、苦しそうな呪詛が、前から、横から、後ろから、上から、下から、耳の奥に擦り寄ってくるのである。自分を包み込む闇が啼いているとしか考えられなかった。
『野に放たれた鴉は、もはや《我等》に仇なす存在でしかない』
 低い男の声が闇を切り裂いた。どこから聞こえてくるわけでもない。ただ周囲から肌に染み込んでくるのだ。あの湿っぽい啼き声は、もはや聞こえてこなかった。闇の主たるこの男に、闇までもが恐怖しているのだ。
『金色の鈴よ』
「はい」
 金色の鈴は押し殺した声で応えた。金色の鈴はこの空間で、ただ一つだけ闇ではない存在だった。何処までも黒だけが支配するその場所にぽつんと立ち尽くし、闇の主の声を聞く。金色の鈴もまた、この主が属する闇の一部なのだから。
『抹消せよ。《我等》を阻むもの、呪われし紅き華の血脈を』
 ぴくり、と金色の鈴の眉が動いた。ついにこの時はやってきたのだ。《我等》が動く時、一つの物語が収束へ向かう時が。全ての事件、全ての人物、全ての組織がただ一つの方向に向かって流れていくのである。
「了解いたしました」
 覚悟はできていた。表の顔も、誇りも、内に秘めた愛すらも捨てる覚悟は。ただこの時のためだけに、金色の鈴の存在はあったのだ。
 そして金色の鈴は朗々と謡った。何度となく口にした、おさだまりの文句であった。それは忠誠の証であり、同時に目的そのものでもある――いや、ある意味ではこの言葉自体が《我等》の本質とも言えるのである。
「――人類の道行きに、《我等》が導きのあらんことを」

HOP 7 Untern Rad

輪の下

 プリントアウトしたばかりの夕刊を片手に、老人はこつこつと靴音を響かせた。ぼさぼさと多い繁る白髪。顔の半分以上を覆い隠す髭。作業に使う偏光眼鏡を高い鼻に掛け、よれよれになった作業着に身を包む。もはや70は越えているであろうこの老人は、名をハーディという。見た目に違わぬ頑固さ加減から、若造共に「堅物ハーディ」と恐れられているのである。
 今は若造二人の専属メカニックとしてその腕を振るっている彼は、その余生の大半を油臭いガレージの中で過ごしている。ただ一日に三回だけ、食事をしにこうして若造共の住居へと足を運ぶのである。テーブルの彼の席にはすでに夕食が並べられ、湯気と鼻を衝く香りを辺りに振りまいている。
 ハーディは椅子を引くと、どっこいしょと気合いを入れながらそこに腰掛けた。さすがに歳のせいか、最近は体中が軋むようになった。行動の一つ一つがおっくうでしかたないのである。お迎えが来るのもそう遠い日ではないかもしれない。漠然とそんなことを考えながら、彼は新聞をテーブルの上に放り、スプーンを手に取る。
 ずずっ。
 クリームシチューのスープを一口。舌の上で踊り回る暖かい感触。それは喉を通り抜け、心地よい広がりとなって胃に落ちていく。今度はテーブルの真ん中に山盛りになったジャガイモを手に取り、丁寧に皮をむく。バターのかけらをその上に乗せ、大きな口で一気にかぶりつく。程良い堅さを残しながらも芯までほくほくと茹で上がっている。そしてボウルのサラダを小皿にとりわけ、レタスとキュウリとボイルド・ブロッコリーと海草を一緒くたにして口へ放り込む。
「それで」
 そいつを全部飲み下してから、ハーディはかねてからの疑問を口にした。
「何しとるんじゃ、おまえら」
 ぴくっ。
 二人の眉が同時に震えた。
「なんでもないわ!」
「なんでもねぇよ!」
 異口同音。全く同時に、二人の口から同じ台詞が飛び出した。長方形のテーブルの両端、向かい合う位置に腰掛ける二人。しかしそれぞれの顔は明後日の方向を向き、決して視線が合わさることはない。いずれも不機嫌を絵に描いたようなふくれっ面をした彼女と彼は、言わずと知れたユイリェンとウェインである。
 ずずっ、とハーディはもう一口スープをすすった。その手は何事もなかったかのように淀みなく動き、暖かい夕食を次々と口へ運んでいく。しばらくの間、あたりを食器の触れ合う音だけが満たした。
「……追求しないの?」
「なんとかは犬も喰わんと言ってな」
 一瞬、ほんの一瞬だけハーディの腕がひたりと止まった。偏光グラスの向こうにある瞳をシチューのニンジンに降ろし、食事をしているんだか喋っているんだかわからない口をもさもさと動かす。そのたびに髭が擦れてかさかさと音を立てた。
「冷めるぞ」
 低い声でそう言いながら、老人は再び手を動かしはじめた。一体何が原因だかしらないが、夫婦喧嘩には干渉しないのが一番である。どうせそのうち元に戻るのだろうし。その辺りの対処に関しては、老いたなりの心得はあった。
 ハーディの忠言を聞いてか聞かずか、二人は同時に腕を伸ばした。ウェインの逞しい腕はジャガイモを握り、ユイリェンの白い腕はサラダを掬い取る。その時すこしだけ視線が絡まり合って――
 二人は、あからさまに不快そうに憎々しげにお互いに、思いっきり顔を背けたのであった。
 
 
[それはユイリェンが悪いと思いますね]
 一瞬、ほんの一瞬だけユイリェンの腕がひたりと止まった。愛機ペンユウの調整作業。余程のことがないかぎり、毎日欠かさず行ってきた仕事。その意味では食事と同じようなものであった。ただ先ほどの爺と一つだけ違うのは、ユイリェンにはかさかさ擦れる髭もなければ口をもさもさ動かしもしないということである。
 やがて動き始めた彼女の腕が、コックピットの床からのぞく緑の基盤を操作する。いくつかスイッチを手動で切り替え、膝の上の箱形ユニットから伸びるコードをそこに直結し、機体とユニットの間で情報を交換する。ユニットに吸い上げられる戦闘データ。反応速度や操縦桿感度をそれに基づき微調整していく。これだけはメカニックにはできない仕事なのである。必要とされるのは、何よりもパイロットの操縦感覚。
 ペンユウの操縦レスポンスは、普通では考えられないほど敏感にセッティングされている。ほんの少し操縦桿に触れただけで、あるいはペダルに足を乗せただけで、ペンユウはそれに感じて、悦びの喘ぎ声を撒き散らしながら動き回る。どんな加速度の元でも操縦桿を握る手をぴくりとも動かさない体力と、針の穴を通すほどの正確さ。それらを兼ね備えたユイリェンだからこそ扱える機体なのである。
[彼だって男の子なんですから、色々とあるんですよ。女にはわからないような難しい]
「どうして彼の肩を持つの」
 目を細め、無言の怒りを湛えた瞳でユイリェンは彼女を見つめた。その視線の先は、ペンユウのメインモニターである。本来なら外部カメラの映像が映し出されるべきそこに佇んでいたのは、ユイリェンの長年の友、エリィである。
 今日のエリィは、スウィートメイデンのスーツに身を包んだキャリアウーマン風。僅かに灰色がかった紺のジャケットとタイトスカートは、古代の裸婦彫刻を思わせる彼女の柔らかな曲線美を見事になぞっていた。滑らかに細くくびれた腰、ふわりと形良く膨らんだ双丘、スカートの切れ目から見え隠れする大理石のように白く繊細な脚線。男ばかりでなく女のユイリェンすらも、その美しさに時折目を捕らわれるのであった。
[どうしてっつーても。諦めてください、男ってのはそういうものです]
「信じないわ」
[もー、こういうとこばっかりうぶなんだから……]
 ユイリェンの手は先ほどよりも素早く正確に動き始めた。手際よく作業を進めていく。いつもの彼女よりもはるかに手慣れた様子で。心の中はぐらぐらと煮えたぎった鍋のようにざわめいているのに、それが体に出ないのであった。心が揺らげば揺らぐほど、逆に体は平静に収束していくのである。
 長い付き合いである。あまりにも冷静すぎる彼女の様子から、エリィは逆にその心を感じ取った。ユイリェンの中に渦巻いているのは、怒り、悲しみ、いやそれよりもっとどろどろとして汚らしい感情――
[まあ、ウェイン君のことですし。そのうち床に手をついて謝ってくれますよ。たとえ自分に非がなくってもね]
 それはそれで嫌だ。ユイリェンは脳裏に浮かんだ相棒の情けない姿に――そして何より自分自身の我が儘さ加減に――そっと溜息をついたのだった。
 
 
 ことん、と彼女はテーブルの上に箱を乗せた。ごくごく小さな箱である。手のひらに載せるには多少余るが、うまくバランスを取れば載せられないこともない。そのくらいの大きさの黒い箱。多少のことでは壊れそうもない頑丈な箱には、これまた用心深くデータキースロットと指紋照合パネルがへばりついていた。
「これを、今から72時間の間護っていただきます」
 言いながら、スーツ姿の女性は眼鏡のずれを整えた。さらりと首筋を流れる金色の髪。深みのある灰色がかった青の瞳。肌は白く透き通り、指の先端に至るまで完璧な均整が支配する。繊細なラインが売りのライムライトのスーツは、まるで彼女のためだけに存在するかのようだった。
 レイチェル・カーソン。コバヤシコーポレーション副社長の秘書としてその腕を振るう女である。
「その間、決して箱の中は見ないように。もし一度でも覗いたら契約は破棄します」
 もうすぐ、若社長の秘書がそっちへ行く。エリィにそう連絡されてまもなく、彼女はユイリェン達の住処へやってきたのだった。今までもケンジがまともな依頼を持ってきた試しがないが、今回のそれは一層奇妙だ。正体不明の箱を渡されて、とにかくこれを護れ、とそれだけである。敵勢力も不明。箱の中身も不明。それでいて依頼料は高額。怪しむなという方が無理な話であった。
「なお、監視役としてわたくしが三日間ここに滞在します。こちらから提示する条件は以上です」
「以上ったってねぇ」
 恐る恐る箱を指先でつつきながら、ウェインは溜息をついた。この中に入っているのは、何かの機密情報だろうか。あるいは表に出せない細菌兵器? 蓋を開けたとたんに吹き出して、周囲にいる生物をことごとく駆逐してしまう……まさか。
「内容に見合う報酬は提示しているつもりです」
「受けるわ」
 ユイリェンは立ち上がった。誰を見るでもなく視線が宙を泳ぐ。ウェインの抗議の視線とレイチェルの驚きの視線。二つを鬱陶しそうに払いのけ、彼女はつぃと歩いてドアへ向かった。何の言葉も持たない背中は、まるで一切の興味を失ったとでも言わんばかりである。
「おいっ、どういうつもりだよ。俺の意見は」
 ばたん。彼の言葉が終わるより早く、ドアは大きな音と共に閉ざされた。こいつはかなり重症である。さっきから一言も口をきこうとしない。すぐそばにいても誰もいないかのように振る舞う。徹底してウェインの存在を無視しているのであった。
「畜生、いつまですねてんだよ、あいつ」
「何かあったのですか?」
 冷ややかに問うのはレイチェルである。ウェインはもう一度溜息をついた。相棒がああ言ってしまった以上、この仕事は受けざるを得ない。勝手なことしやがって。次の悪態は喉を抜け出なかった。
「部屋なら空いてる。適当に使ってくれよ」
 肩をすくめてぼそっと呟いた彼に、レイチェルは優しく微笑んだ。それは究極まで美化された営業スマイルであり、いわば彫刻刀で彫られた能面なのだった。一切の感情を廃し、単に心証をよくするためだけの笑顔である。
「感謝しますよ、レイヴン」
 
 
 二人は互いに顔を見合った。おそらくふたりがたがいの顔を真剣に見たのはこの時がはじめてだった。この少年らしいなめらかな表情の裏に、それぞれ特性をもった独特な人間生活と、それぞれ特徴のある独特な魂が住んでいるのを、互いに心の中に描き出そうとした。
 おもむろにヘルマン・ハイルナーは腕を伸ばして、ハンスの肩をつかまえ、互いの顔が間近になるまで、ハンスを引き寄せた。それからハンスは突然、相手の唇が自分の口に触れるのを感じて、何とも言えず驚いた。
 彼の心臓は、ついぞ感じたことのない胸苦しさに鼓動した。こうして暗い寝室に一緒にいることと、突然キスされたことは、なにか冒険的な、新奇な、またおそらくは危険なことだった。この現場をつかまったら、どんなに恐ろしいことだろうと、彼は気付いた。というのは、さっきハイルナーが泣いたことより、このキスは、他の者達にははるかに滑稽に恥ずべき事に思われるに違いないということが、はっきりと感ぜられたからである。何も言えないで、ただ血が強く頭に上ってきた。彼はできることなら逃げ出したかった。
[何読んでるんです?]
 突然に声をかけられて、ケンジははっと顔を持ち上げた。手元には防水加工を施した中世の小説が一冊。自分は今何をしているのだろう。一糸まとわぬ姿で湯船につかり、白く艶めかしい足を持ち上げたり降ろしたりしながら、火照った頭で文芸に浸っているのだった。それも少年二人が口づけをする場面を熱心に読みふけっていたのである。
「古典さ」
[車輪の下? また随分似合わないのを]
「悪かったね」
 ぱしゃり、と音を立ててケンジは身をひねった。バスタブのすぐ後ろにはすっくと立った一人の女性。着崩れたスーツがやけに官能的に映える彼女は、人工知能エリィの投射したホログラフである。
「風呂にまで入ってくるなよ」
[今更恥ずかしがることもないでしょう?]
 何を言っているんだか、この女は。ケンジはわざとらしく肩をすくめてみせた。その横に歩み寄ったエリィが、バスタブの縁にそっと腰を下ろす。彼女の細い腕がすぅっと伸びた。ケンジの肩を捕まえ、互いの顔が間近になるまで自分の体を押しつける。まるでさっきまで読んでいた小説と同じように。ホログラフゆえにケンジの体を抱き寄せられないのだから、全く同じとは言えなかったが。
[何を企んでるんです]
「うん」
 音もなく目を細め、ケンジは微笑んで見せた。
「何のことだか」
 微笑みも怒りも、眉を動かすそぶりすらもエリィは見せなかった。ただじっと無表情のみを顔面に張り付け、あと一押しで触れ合いそうな唇を静かに震わせる。その言葉はまるで歌のよう。その頬はまるで花びらのよう。その瞳はまるで深い海の底のよう。
[とぼけるあなたは嫌いです]
「そうか、まいったな」
 雫を跳ね上げながらケンジは立ち上がった。柔らかな水は流れとなって、彼の首筋から背中を滑り落ち、腰骨に引っ掛かって止まる。しかしそれすらも、やがては重力の甘い誘惑に身を任せ、下へ底へと落ちていくのであった。やがて最も底、無数の仲間達が集う浴槽の中に落ち込むと、水は水に溶け込んでどこだかわからない場所へと消え去っていった。
 ぴちゃり。浴槽から足を踏み出す。ぴちゃり。もう一歩。ケンジは壁に掛けてあった白いタオルを手にとって、体中をくまなく撫でまわした。ゆったりと、舐めるようにして体にしがみつく水滴を拭っていく。胸を、腹を、ところどころ窪みや出っ張りのある腰を、そして引き締まった腿を、脛を。あらかた拭き終わり、濡れぼそっていた肌がしっとりと湿る程度に乾くと、彼はシルクのガウンを羽織った。
 その薄衣すらも、何一つ隠すことはできなかった。彼の嬌態を形作るものの全て。肌は覆い包まれても、いや覆い包まれているからこそ、彼の肉体が持つ何かしらの引力は消し去れないのであった。
「一つ、わかって欲しいことにはね」
 ケンジはきゅっと腰の帯を結わえた。
「僕はいつも、知りたいというただ一つの欲望のみに支配されている。女に微笑むのも、隠された肌の柔らかさと、針のように鋭い心と、体の内側をのぞき見たいからさ。金と権力を持つ僕に手に入らない物はないが、知識や秘密というものは金で買えるとは限らないのでね」
[では、今回は何を?]
 うん、と小さく喉を鳴らして、彼は後ろを振り向いた。
「意志だよ」
[意志?]
「そう。どこか遠い、天国とかそういった類の場所から、僕らを見下ろしている意志さ。そいつが何なのかは僕にはわからない。ただ、確実にそいつは存在し、僕らに干渉している」
 後ろ手にドアを開き、湯煙の立ちこめる浴室を出る。肌を撫でるひんやりとした空気。ハイライン・シティの中央部にある高層建築、その最上階である。コバヤシコーポレーション本社ビルのこのフロアは、若社長のための私有空間なのであった。強化高分子の窓の向こうにはきらきらと瞬く星空が広がる。天よりも明るい人の創りだした星空が。
 天国と呼ぶべき場所があるなら、それはここだ。悠然と部屋を横切るケンジのそばにホログラフを投影し、エリィは漠然と考えた。
「僕はつい最近まで考えていた。半年前の襲撃、ラウム社のクラウス、フィニール占拠事件、そしてウィリアム・ディケンズの死。全てはナノバーストを狙う何かしらの組織の手に因るものだと。
 でももしかしたら、僕は思い違いをしていたのかもしれない。この間の式典襲撃と、ロッキー線沿いの火事を見てそう思った」
[というと?]
 冷蔵庫を開き、中から一本のボトルを選び出す。以前どこかの優男にすすめられた銘柄のワイン。あれ以来気に入って、たまに呑むようになった。こんな夜は――そう、遠くに思いを馳せる夜は、こいつの甘い香りと、どろっとした舌触りが欲しくなる。
「誰かが何かをしているようには見えないんだ。言い方が悪いか? 裏で誰かが計画を進めているという雰囲気がない。まるでみんながそれぞれに好き勝手をやっているかのようだ」
[それが、意志]
「うん。僕に見えたのは、組織とか、そういう系統立てられたものではなく、もっと――そう、行為の継続によってのみ自己を確認する集合のように――非支配的な、意志」
[あの子もそうだというのですか?]
「そうだと思う。ユイリェン本人の意思ではなく、知らない内に意志の中に取り込まれているんじゃないか。いやあるいは、あの子に近い他の誰かかもしれない。
 まあ、いずれにせよ」
 とぷん。
 赤いどろどろした液体は、グラスの底に触れて音を立てた。ケンジはその右腕を掲げ、ゆらめくワインに夜景を透かす。液体の中で屈折した光線が赤い色を帯びながら彼の瞳に入る。そう、上下が逆さまになった街の灯りは――夜空そのものであった。
「もうすぐわかるよ。真実がね」
 
 
 冷たい夜風が頬を撫でた。季節はもう初夏へと入り、日に日に日差しが鋭くなっていく。数日に一度は寝苦しい熱帯夜が大地を覆うのである。ちょうど今夜のように。
 こんな夜、決まってウェインは屋上に出る。彼らの住処は二階建てで、その上は広い平らな屋根が広がっているのである。ここに座って夜空を眺めていると、こうして夜風が火照った体を冷ましてくれる。もしかしたら体だけではなく、激情で沸騰した心すらも。
 屋根の端に腰を下ろし、脚を投げ出して、ウェインはただぼうっと山の稜線を眺めていた。宵闇にすっかり塗りつぶされて、空と大地の境目すらも見えなくなった山際を。山と空は、ああやって毎晩毎日繰り返す。くっついて、はなれて。暗闇の中に融け混ざり合ったかとおもえば、朝日に照らされまたくっきりと分離する。仲良くなって、そっぽをむいて、まるで誰かさんのように。
「綺麗ね」
 すました女の声が耳に届く。ウェインのすぐ後ろ、下に降りる――視点を変えれば上に上る――ための梯子があるあたりだ。聞き慣れたいつもの声ではない。三日ばかり泊まり込む予定の居候である。
 薄い綿の寝間着姿で、レイチェルは彼の隣に腰を下ろした。二人の影が月光に照らし出され、寄り添う鴉のように屋根に伸びる。彼女はちょこんと可愛らしく座り、美しい顔は普段の凛とした姿を想像もさせない柔らかな表情であった。でもウェインはそのことに気付かなかった。顔を向けようとすらしなかったのだ。
「星?」
「街」
 すっとレイチェルは右腕を持ち上げた。その指が示す先――遥か西の地平線――に、ぼうっと広がる白い輝きがある。街の灯りだ。眠らない街ハイラインの、決して消えることのない常夜灯である。
 とても綺麗だなんて思えなかった。少なくともウェインには。強いてたとえるなら、墓場でゆらめくウィル・オ・ウィスプ――あの不気味な、ゾンビの次に嫌いな奴である。青白くて不健康で、ちっとも好きになれない輝きであった。
「美しいわ。あの灯りの下には幾百万の人々が暮らしていて、それぞれに幸せであったり不幸であったりするの。だからあれは魂の輝き。あたし達の命の光よ」
「昼間は随分猫かぶってたんだな」
「……雰囲気壊すってよく言われない?」
「耳にたこができた」
 ひょいとウェインは肩をすくめて見せた。レイチェルは昼と全く変わってしまっていた。声の抑揚も、言葉遣いも、あの歩くコンピューターのような厳格な代物ではなく、その辺りにいくらでも転がっている少女のようであった。そして似ている。もったいぶった言い回しや、時々ついていけない観念的な話をするあたりは、確実に――彼女に似ている。
「何か悲しいことがあるのね」
 息がつまった。そんな風にぼそぼそ喋るのは止めてくれと、どれだけ言おうと思ったかも知れない。心の奥底まで見通したように話すのは――たとえ実際そうであっても――駄目なのだ、絶対に。せっかく夜風で冷めた心に、また寂しさや怒りや悲しみが湧いて出てしまう。思い出してしまう――彼女を。
「何を」
「そんな顔をしてる。いつものあなたと違う顔」
「いつも?」
 驚いて、彼は横に顔を向けた。そして見た。さらりさらりと金髪が風になびき、細く白いうなじにまとわりつく。両の瞳が月を映し出して、スタールビーのように光り輝く。淡い桃色の唇は、吐息が吹きかかりそうなほど近く見えた。実際どうだったかはわからない。
「若社長はことあるごとにお嬢さんを監視していたわ。その資料には常にあなたの姿があった」
 レイチェルが、目を細める。
「ずっとあなたを見ていたわ」
 ぞくりっ。
 ウェインの背筋を悪寒が駆け抜けた。
 
 もうこれで何度目だろうか。ユイリェンは寝返りを打った。どうにも今夜は眠れなかった。暑さのせいもある。悩み事のせいもある。それでも一番の理由は――
 時計の秒針がたてる、チッ、チッ、という音がやけに大きく感じられた。そしてそれに紛れて小さくしか聞こえないはずの二つの声も。耳の中に会話が反響する。そのエコーが同時に心をかき乱す。あんな風に。まとまらない思考の中でユイリェンはぐるぐると堂々巡りを繰り返した。あんな風に楽しそうに笑って話すなんて、今までそんなことなかったくせに。
 眠れない。屋根の上の二人の声は少しずつ大きくなっていった。それはただの錯覚だったのかもしれない。いずれにせよ、事実は一つであった。聞こえる声の大きさが、そのまま重さとなってユイリェンにのしかかるのである。
 ああ!
 嘆きは声にならず、彼女は頭までシーツをかぶりこんだ。
 
 
「昔のぅ」
 思い出したかのように呟きながら、ハーディはことんとドリルを置いた。真っ黒な防護マスクをはずし、髭もじゃの顔を空気にさらす。指先はくるくると動いて、焦げてしまったあごひげの先端を揉み砕いていく。整備のたびに一体どれほどの髭がこうして朽ちていくのかわからない。ただ一つ確かなのは、そんな減少を意にも介さないほど髭はたくさんあったということである。
 ペンユウの足元で、何をするでもなく木箱に腰掛けていたユイリェンは顔を持ち上げた。レイチェルがやってきてからの三日というもの、ウェインと一緒にいるのが嫌でガレージに入り浸っているのだが、ハーディの方から話しかけてきたのは初めてのことである。
「わしの若い頃、お前さんによく似た女がおった。お前さんと同じ、黒髪で黒い瞳のアジア人の女じゃ」
 ハーディの視線が宙を泳ぐ。その向こうにあるのは、遠い日の記憶か、それとも。
「その女はレイヴンじゃった。わしもその頃レイヴンをしておったが、その女には全く歯が立たなかった。どうしようもなく強かったよ。まあ、今のお前さんには負けるがな」
「恋人?」
 ぐっ、ぐっ。老人の喉の奥で木が軋んだ。彼の笑い声はまるで闇の深淵から響いてくるかのよう。筋肉が収縮するときのぐぐぐという唸りが、そのまま拡大されたような声であった。
「わしは昔から婆さん一筋じゃ。奴には他に男もおったしの」
 ユイリェンは肩をすくめた。
「……それで?」
「奴と奴の男は、毎日喧嘩ばかりしておった。片方が白だと言えばもう一方は黒だと言うし……片方が犬だと言えば、たとえ本当に犬であっても、もう一方は猫だと言った。
 だから、そんなに仲が悪いのにどうして一緒にいるんだと聞いたことがある」
 ごつん、ごつんとユイリェンに歩み寄り、ハーディはぐっと上を見上げた。真紅の巨人がそこにいる。深いワインレッドに彩られた機体。ガレージの中に立ち尽くし、どこか遠くをじっと見つめるペンユウの姿は、まるで強靱な守り神のようだった。そう見えたのだ。物言わぬ機械にすぎないこいつが、足元にこしかけた少女を優しく見守っているように。
「そしたら奴はこう言いおった。
 『近くにいるからぶつかるのよ。全然ぶつからなかったら、それはバラバラってことじゃない』」
 しんと辺りは静まりかえった。誰も口を開こうとはしなかった。しばらくの間部屋を支配した静寂は、何処までも何処までも深かった。ユイリェンが立ち上がろうと思うまでにどれほどの時間が過ぎたかわからない。ただそう思ったときには、もう全ての言葉は無力となっていたのだった。
「持って回った言い方だわ」
 言えたのはそれだけだった。普段の自分をさしおいて。ただ……ただ、少し気が緩んだのは確かだった。もうすぐ昼食の時間だし、レイチェルもいなくなるし、一度彼と話をしてもいいかな、と思ったのだった。まだ許すつもりにはなっていない。ただ、話をしてもいいと思った。それだけである。
 薄暗いガレージから、まぶしい日差しの照らす外へ。ユイリェンは今一歩を踏み出した。
 
 できあがりである。
 歯ごたえを残したまま炒め上がった野菜を皿に盛りつける。皿の数は四つ。いつもより一人多い、それ以外はなんら普段と変わらぬ日常。結局あの箱を狙ってくる者もなく、三日間の任務は平和のまま終わろうとしている。
「あなたの手料理を食べるのも、これが最後かしら」
「多分ね」
 相変わらず澄ました口調のレイチェルに答えつつ、エプロンを脱いで壁の金具に引っかける。両手に二つずつ料理の皿を持ち、ウェインはそれをリビングルームへ運んでいった。いつも使っている大きなテーブル。いつも座っているそれぞれの席に皿を並べる。最後の一枚を丁寧に置いて、ウェインはふっと微笑んだ。
「あんたにゃ世話になったな」
 なんとなく照れくさくて、ウェインは後ろを振り向けなかった。じっとこっちを見つめているであろうレイチェルと視線を合わせる自信がなかった。この三日、子供の我が儘につき合わせてしまったようで、どことなく彼女にひけめを感じていたのである。
「おかげで気が晴れたよ。やっぱユイリェンに謝らないと」
 人差し指で耳の後ろを掻く。
「ほら、ユイリェンって頑固だからさ。俺の方が折れとかないと、いつまでたってもへそ曲げたまんまだろ。それじゃ、よくないからさ」
「よくないわ」
 ウェインは、気付かなかった。女の言葉に微かな憎しみが混ざっていることに。ほんの少しだけ声色が低くなったことに。自分の背中の後ろで女が顔を伏せたことに。
「そんなことをされては困るのよ」
 黒々とわだかまる憎悪。あからさまに膨れあがったどす黒い気配に、ウェインは思わず振り返った。レイチェルが動く。腕を振り上げる。指を蠢かす。力を込め、引き寄せるように、あるいは歩み寄るように、彼女は。
 ――そして。
 
 ユイリェンは、見た。
 
 息もできなかった。桃色をした柔らかな唇が、自分のそれと重なり合っているのを感じた。レイチェルの唇がわずかに震える。その度にウェインの背筋を電撃に貫かれたかのような快感が突き抜ける。彼はよろめいて、すぐ後ろのテーブルに右手を突いた。何もわからなかった。そっと閉ざした両の瞳、首筋を優しく愛撫する指、何もかも。
 やがてレイチェルは彼の中に入った。滑らかな舌は雫を滴らせながら彼の中でざわめいた。舌、歯の裏、上顎をレイチェルは這い回り、ただ激しく彼を求めてくすぐった。悪寒はパルスとなって彼を襲った。びくん、びくんと彼は震えた。脊椎に電流を流された蛙のようだった。彼はもはや彼女の手の内にあった。解剖台の上の実験動物なのだった。為すがままに身を任せ、彼は止まることを知らず押し寄せる快楽の波に溺れた。そして沈んだ。どこまでも。どこまでも。どこまでも。
 視界の隅にユイリェンの姿を捉えるまでは。
「っ!」
 はっと我に返る。海の底に沈みかけていた意識が呼び戻される。ウェインは慌てて女を突き飛ばし、はあはあと荒い息を吐きながら唇を左手で覆い隠した。何が。理解するには時間が必要だった。一体何が起こった。
 ユイリェンもまた同様だった。目の前で起こっていたこと。深い口づけをかわす二人。その光景は洪水のように瞳に押し寄せ、彼女はそれに飲み込まれた。喉はカラカラに乾いて声すら出ない。指先がぴりぴりしてなんだか痛い。目の奥が熱くなって何かがざわめく。
 それは不幸だったのか幸福だったのか。先に状況を理解したのはユイリェンの方だった。もうここにはいられなかった。一瞬だっていたくはなかった。だから彼女は踵を返し、走った。
「ユイリェン!」
 ウェインがそう叫び、彼女を追ったのは数秒後のことだった。
 
「ユイリェン! 待って、ユイリェン!」
 静止の声など耳には届かない。ガレージへ向かって一直線に、ユイリェンは走った。それが何なのかはわからない。ただ心の中が黒かった。見つめたくもないわだかまりがそこにあった。真昼の脳天気な日差しが肌を突き刺す。心までもが光から目をそらして呻いているのだった。
 ウェインが彼女の腕をつかむのに、それほど時間はかからなかった。たとえ人並み外れた能力をもっているとしても、ユイリェンは肉体的にはただの少女にすぎない。鍛えられたウェインにとって、彼女に追いつくのはそれほど困難ではないのだ。
 振り向きもせず、ユイリェンは叫んだ。それは悲鳴にも似た叫びであった。
「放して!」
「放さねぇッ!」
 ひたり。二人の動きが止まる。乱れた前髪の向こうで、ユイリェンは大きく目を見開いた。声も、腕も――こんなにもウェインが力強いなんて、彼女は知らなかったから。もう半年以上も経つというのに、自分は何も知らなかった。何も知らなかったのである。
「放すもんか……絶対に」
 その次の言葉は、何処までも深く優しかった。でもそれが逆に耐えられなくて、ユイリェンは腕に渾身の力を込めた。固く自分をつかむウェインを振り払う。もう言葉も出ない。呆然と見つめるウェインを尻目に、ユイリェンは再び走った。出ていくつもりだった。もう二度と、ここには帰ってこないつもりだった。私は。
 私は、彼のそばにいてはいけないんだ。
 ウェインには何もできなかった。ただ彼女の背を見送ること以外は。
 ユイリェンに振り払われた手のひらが、今ごろになってじんじんと痛み始めていた。
 
 
 夜のとばりが降ろされる。一面の荒野は宵闇にすっかり包まれた。いつも通りの夜の姿。天空にまたたく星々、遥か彼方の地平線にともるウィル・オ・ウィスプ。影の中で解け合った山と空さえも――こちらは完全に分かれてしまったというのに。
 もうウェインには、何をする気力も残されてはいなかった。じっと椅子に――ユイリェンがいつも座っていた椅子に――腰掛け、テーブルに伏せ、微動だにせず時は流れていく。
 喪失感。こんな気持ちを味わったのは二回目だ。そう、あの時も……家族を捨て、地位を捨て、財産も捨て、完全なゼロの線から出発したあの時。薄汚いスラムの片隅で、飢えに苦しみ、明日の命さえ知れず、たった一つ得た自由、その引き替えに失った全てをひたすらに渇望した日々。あの時と同じ――いやそれ以上の喪失感が、今や彼を支配していた。
 かつっ。
 背中の方で、靴音が響いた。
「ご傷心ね」
 レイチェルであった。
「あたしが安らかにしてあげる」
 かちゃん。
 後頭部に押しつけられる固い感触。冷たい金属の感触がそこにある。ウェインははっと両目を見開いた。全身から吹き出した冷や汗がじっとりと肌を濡らしていく。彼の頭を圧迫するもの、それは――
 拳銃。
「どういうことだ」
 自分でも意外なくらい、その問い声は落ち着いていた。
「これがあたしの役目。あなたとお嬢さんを引き離し、あなたを殺す」
「若社長か」
「まさか。あの人がお嬢さんを傷つけるはずないじゃない。
 ――あたしはただ、《我等》の《意志》にしたがったまで」
 レイチェルは――否、金色の鈴はその名通り凛と鳴った。金色の髪を持つ鈴は、コバヤシコーポレーションに対する監視者であり、《意志》を実行するための執行者であるのだった。全ては《意志》の内側。これまで起きた全てのことは、そしてこれから起こる全てのことは、《意志》が定めた運命なのである。
「残念ね。あの娘がもう少し我慢強かったら――あるいはもう少しあなたに無関心だったら」
 冷笑。まるで氷河の頂のごとく、冷たく凍り付いた笑みを彼女は浮かべた。
「一回くらいあたしとやれてたかもよ」
 つう、と汗が額を流れ落ちた。ウェインの神経が――戦士としての感覚が――研ぎ澄まされていく。勝負は一瞬。レイチェルが引き金を引く一瞬で、全てが決まる。心を落ち着け、体の力を抜き、どんな動きにも対応できる柔軟な肉体を保つ。
 そして。
 だんっ!
 銃弾が空を裂く。死の臭いを撒き散らしながら吐き出された鉛の塊は、一瞬前までウェインがいた空間を貫いた。目の前の獲物が姿を消したことに驚くよりも早く、女の手首に衝撃が走る。膝で銃を蹴り飛ばし、そのまま流れる動きで女を押し倒す。
 何故。背中から床に叩き付けられ、肺に鈍い衝撃を感じながら、レイチェルは自問した。一体どうすれば、銃口を頭に押しつけられた者がそこから逃げられるというのだ。レイチェルは瞬き一つしていない。じっと彼を見つめていたのである。それなのに、何故横に回り込まれたのだ。
 床に転がって咳き込むレイチェルを見下ろしながら、ウェインはゆっくりと銃を拾い上げた。撃ったばかりでその銃身は燃えるように熱い。同じだ。この銃は彼と同じ。ウェインという男の心と全く同じなのである。
 彼は金色の鈴に銃口を向けた。
 長い間、二人は見つめ合った。怒りに澱んだ瞳の男と、ただ驚きだけにくすんだ瞳の女。二人はそれぞれに自問し、恐れ、怒り、目の前にいる敵をじっと凝視する。そこには何も見いだせないことを知りながら――
 しばらくしてウェインは舌打ちを一つ吐き捨てた。無造作に銃を放り捨て、踵を返す。こんな女を生かそうが殺そうが、彼には関係のない話であった。それよりもずっと大切な人が待っているのだ。星空の下、たった一人で。だから行かなければ。彼女の元へ。もう一度大切な時を取り戻すために。
 ユイリェン。
 
 
 紅い巨人はじっと街並みを見下ろしていた。もはやただ一人の人間も存在しない街並みを。かつては栄華を誇ったのであろうビルの群は傾き朽ち果て、荒野の砂の中にその半ば以上を埋没させている。死せる都市、百年前の大破壊で滅びた都市である。なまじ大都市が存在したがために、その残骸が障壁となって新たな都市開発が困難となる。正確な記録は残っていないがおそらくは百万都市だったであろうこの場所は、今や辺境の廃墟へと成り果てたのであった。
 ペンユウの見つめる先は、比較的原型が残っている一軒のビルであった。彼女の――あるいは彼の――主がそこにいるのである。
 ビルの一階は広いホールになっていた。夜の闇に覆われていることもあって、一体どれほどの広さがあるのかはわからない。ただ、入口近くの古びたソファに誰かが腰掛けているのははっきりと見て取れる。闇と同じ色の髪を持つ、小柄な少女。ユイリェンはただじっとうつむき、なんでもない床の一点を見つめているのだった。
 わからないことばかりだった。どうしてウェインがあんなことをしたのか、どうしてあの場所から逃げ出したのか、どうしてこんな所にやってきたのか、そして――どうしてこんなに苦しいのか。どことなくACが加速するときの圧力に似ている。全身が強い力で満遍なく押さえつけられ、骨までがぎしぎしと軋むのだ。しかし苦しさはその比ではなかった。過加速走行を発動した瞬間だって、こうまで辛いものじゃない。
 心臓が、破裂しそうだ。
 胸に溜めた息を強く吐き出す。吹き出した風は喉笛を振るわせ、ああ、という喘ぎに変わった。このまま。このまま目を閉じて永遠に眠ってしまえるなら、一体どれほど幸せだろう。
 ユイリェンはふと顔を持ち上げた。夜も更け、灯りもなく、ただ周囲には深い闇が満ちるばかり。どこまで行っても闇……とても純粋で、澄んでいた。どす黒くて忌々しい闇が、彼女の乱れた心よりずっと澄んでいた。あんな風に、どんなことにも動じず揺らがず、常に冷静であれたなら――
 突然に悪寒が背筋を駆け抜けた。嫌な考えが頭をよぎる。昔はそうではなかったか。まだ会社にいたころのユイリェンは、周りにある闇のように物静かで、冷静で、純粋ではなかったか。いつもいつも完全に安定して、完璧に整った時間を過ごしていたのではなかったか。
 変わってしまったのか。私自身が。
 と。ユイリェンは眉をひそめた。今見つめている闇が、微かに揺らいだような気がした。
「誰」
 間違いない。何か――いや誰かがいる。ソファから腰を持ち上げ、懐の銃に右手を伸ばし、物音一つしない闇の中をじっと見つめる。ウェインが追ってきた――のではあるまい。彼にこんな、一嗅ぎで肺が腐りそうなほどの殺気が放てるはずもない。このびりびりと研ぎ澄まされた刃物のような臭いは――
 どん!
 いきなりの衝撃に、ユイリェンは壁に叩き付けられた。目の前から伸びてきた腕が彼女の口と右腕を押さえつける。さながら十字架に張り付けられたイエスの如き姿のまま、ユイリェンは朦朧とする意識を襲撃者に向けた。
 黒い腕。黒い脚。黒い顔。黒い胴。全てが真っ黒の男。一人ではない。目の前のこいつの後ろにもう一人、さらに闇の中に二人ほど隠れている。ユイリェンはよくそいつのことを知っていた。前に何度も見た、おさだまりの制服である。
 ゼナートフォース。
 ようやく全てが一つに繋がった。全ては仕組まれていたのだ。おそらくはユイリェンを殺すために編まれた喜劇。あの奇妙な箱が届けられた瞬間から、喜劇は始まっていたのである。
 ひゅん、と小さな音がした。後ろにいた黒ずくめの腕に、白銀の光が灯る。きっとあのナイフで私の首を掻ききるつもりだろう。やけにユイリェンは冷静だった。きっとあと一秒もすれば、私は死んでいるだろう。怒鳴ってしまったことをウェインに謝っておきたかったけど……きっと無理だろう。
 そして、ユイリェンは目を閉じた。
 ご。
 そして、ユイリェンは目を開けた。
 急に彼女を押さえつけていた力が消えて、ユイリェンはぺたんとその場に座り込んだ。すぐ目の前には黒い顔が――完全にのびて床に倒れた男の顔がある。ついさっきまでユイリェンを押さえていた奴だ。
 ご。
 さらにもう一つ。鈍い音がして、刃物を持っている方の男もユイリェンの目の前に寝ころがる。一体何が。ユイリェンは、ゆっくりと頭を持ち上げた。
「大の男が、情けねぇ」
 彼はそこに立っていた。大きな拳を固く握り、顔には怒りと余裕が混ざり合った表情を貼り付け、いつものように軽快なステップを踏んで――
「徒党組まなきゃナンパもできねぇのかよ」
 ウェインだった。
 
「おいっ! ちょっと待ってよユイリェン!」
 できるかぎり平静を装いながら――それは完全に無駄な努力だったのだが――ユイリェンはビルの外へ出た。荒野の冷たい空気が頬を撫でる。くぐもった月光を浴びて紅く輝くペンユウ。その隣にはワームウッドの姿もある。なるほど、これだけ派手な目印があれば居場所も見つけられたはずである。迂闊だった。
 後を追ってくるウェインの方は、命を狙われているところを助けて前の件は帳消し、というシナリオを想像していたのである。ところが現実は――四人の特殊部隊を一人で片づけたというのに、この有様だ。
「助けてもらっといてその態度はないだろ?」
「助けてなんて頼んでないわ!」
「助けてなきゃ死んでたよ!」
 ユイリェンはにわかに振り返った。
 パン。
 一瞬、彼は何が起こったのかわからなかった。ただあるのは軽い衝撃と、腫れぼったい頬の感触のみ。目の前で、突き刺すような視線でこっちを見つめるユイリェンを見て、気付いたのはその後だった。自分は平手で頬を打たれたのだということに。
「死んだ方がましだった……こんな気持ちで生きるくらいなら」
 呆然と立ち尽くすウェインを尻目に、ユイリェンはペンユウの足元まで駆けた。コックピットから垂らされたワイヤーにつかまり、ゆっくりと持ち上げられていく。コア部分のハッチからコックピットに乗り込み、やがて紅い巨人はゆっくりと動き始めた。
「あ……ちょっ、待ってよ!」
 慌ててウェインが愛機に駆け寄ったのは、その後のことだった。
 
 ピッ。
 計器が小さく啼く。背後の方から追ってくる機影がレーダーに映し出されている。確認するまでもないが、ワームウッドである。ユイリェンは憎々しげにレーダーの画面を指で小突いた。
『ちょっと待ってよ! 話くらい聞いてくれたって』
「聞く耳持たないわ!」
『いつまでむくれてんだよっ! ガキじゃあるまいし!』
 ぶち。
 確かにユイリェンはその音を聞いた気がした。多分他の誰にも聞こえなかっただろうし、通信機のマイクも拾ってはいないだろう。しかしその音は間違いなく大音量で響きわたったのだ。ユイリェンの心の中で――あるいは周囲の空気いっぱいに。
 堪忍袋の緒が切れる音だ。
 ぎりぎりと歯を軋ませながら、ユイリェンは操縦桿をひねり倒した。
「ついてこないでって……」
 青い四脚ACを正面に捉える。黄色のロックオンマーカーが画面を素早く動き、青い機体にへばりつく。距離400、射角、天候、電磁場、砲身歪曲率計算終了。ユイリェンはゆっくりと小さなボタンを押し込んだ。
「言ってるのよッ!」
 
「!」
 ウェインは慌ててペダルを踏んだ。背部のブースターが全力で炎を吹き出し、青い巨体を宙に持ち上げる。その足元を青白い光の砲弾が突き抜けた。空気すらも切り裂くプラズマの塊が、夜の闇をえぐり取っていく。
 ペンユウのエナジーバズーカ! それも単なる威嚇ではない。完全にワームウッドの真芯――コアを狙った砲撃である。とっさに回避していなければ、今ごろ彼は天国のヒトだ。
「おい……ユイリェン」
 こっちの行く手を阻むようにそびえ立つペンユウを睨み付ける。彼のこめかみがぴくぴくと震えた。心の奥底から黒い感情が沸き上がってくる。ぐつぐつと、煮えたぎるように心が脈動する。
 ウェインの指が操縦桿を離れ、キーボードの上を踊った。ジェネレーター出力のリミッターを限定解除、コア背部特殊ブースターに電力を過剰供給する。ばがん、と鈍い音がしてコアの背中が裂け、そこに青白い輝きが灯る。
「いくらなんでも、やっていいことと洒落にならないことがあるんじゃねぇのかッ!」
 どん!
 過加速走行を発動させ、ワームウッドは一気に突っ込む。ペンユウとの距離を瞬時に縮め、右腕のマシンガンから無数の弾丸をばらまく。無論そんなものを喰らうユイリェンではない。肩の追加ブースターで後退しながら、あっさりと全ての弾丸をかわしきる。舌打ち一つ響かせながら、ウェインはそのままペダルを踏み込んだ。さらに加速してペンユウの横を通り抜けるワームウッド。
 
 彼は本気だ。今の一撃は狙いも完璧、並のレイヴンなら一気に致命傷を受けていただろう。
 ブースターで加速しながら旋回し、ペンユウは青い蜘蛛を正面に捉えた。
「手加減はしないわ!」
『こっちの台詞だッ!』
 
 ワームウッドは旋回しながら円を描くように地を滑る。闇夜に浮かぶ真紅の巨人を正面から見つめ、マシンガンの砲身をそちらへ向ける。それと同時にペンユウの背に灯る青白い光。トリガーを軽く引いて弾丸をばらまく。しかしその瞬間吹き出した炎がペンユウを加速し、弾丸は虚しく宙を貫く。
 ユイリェンの戦術だ。わざと動きを鈍らせ、敵の攻撃を誘発し、過加速走行で回避する。初めて会ったときから変わらないやり方。あの頃は全くついていけなかったが、今はペンユウの動きが手に取るようにわかる。
「見え透いてんだよッ!」
 急速に回転し、ワームウッドは左腕のレーザーブレードを突きだした。過加速走行で後ろに回り込んでいたペンユウのコアに、月光にも似た光の刃が襲いかかる。
 
 舌打ち一つ。ペンユウのレーザーシールドが展開され、ブレードをはじき返す。追加ブースターで後退して返す刀をかわし、逆に右腕のエナジーバズーカを数発放つ。大きくブレードを振りかぶったワームウッドに、これを回避する術はない。
 どん!
 突如発動した過加速走行で、ワームウッドの機体が真横に加速する。プラズマの砲弾はコアの装甲ではなく乾いた地面をえぐり取る。
 ――私の十八番を!
 こちらの攻撃を先読みして過加速走行の電力を溜めていたとは。ユイリェンの驚きを知ってか知らずか、ワームウッドはペンユウから遠ざかりつつ五発のミサイルを放つ。微妙に発射のタイミングをずらしているせいで、いかにユイリェンといえども一撃で全弾を迎撃することは不可能である。
「賢しい!」
 機体を右にスライドさせ、ミサイルを敢えて誘導する。十分に速度ベクトルが右向きに傾いたところで一気に左へ方向転換。二発のミサイルがその動きを追尾しきれずペンユウを見失う。続く三発目をエナジーバズーカで撃ち落とし、四発目をシールドで叩き潰す。先ほどから溜めていた電力で過加速走行を発動させ、最後の一発を引き離す。
 ピピッ。けたたましく響くアラーム。レーダーを見遣れば、そこにはぴったり真後ろを追ってくる赤い光点が映し出されている。ミサイルに気を取られている間に後ろへ回り込んだのだ。距離が開かないところを見るとワームウッドも過加速走行中である。
「いつもいつも私の後ばかりついてきて!」
 ヴァシュッ! ペンユウの背で光が弾ける。過加速走行を中止し、後退用ブースターで無理矢理速度を殺して、ペンユウは振り返った。半ば勘でつかんだ位置にシールドを押し当てる。最高速で突っ込んできたワームウッドのブレードがそこに叩き付けられたのは一瞬の後であった。
『ヒトを金魚の糞みたいに言うな!』
 はじき飛ばされたワームウッドを狙ってエナジーバズーカの引き金を引く。ワームウッドは吹き飛ばされるのを逆に利用しながら距離を開き、ブースターを断続的に噴かして移動方向をこまめに変える。完璧に狙ったはずのプラズマ砲弾は、まるで青い蜘蛛を避けるように虚空を貫き去っていく。
『そっちこそ、俺がいなきゃ何にもできないくせにッ!』
 適当に狙いをつけて、ワームウッドがマシンガンを掃射する。左から右へ、基本に則った教科書通りの射撃。しかしそんなありふれた攻撃に対応できないユイリェンではない。とっさに空中へ飛び上がって掃射を回避し、そのままブースターを噴かしてワームウッドに突撃する。左腕にはリミッターを限定解除されたシールドが展開されている。
「何を言ってるの!」
 シールドを纏ったペンユウの拳……回避は不可能。ワームウッドはその場で自分の左腕を突きだした。手の甲についたユニットから吹き出す青白い閃光。シールド・パンチに向かって、レーザーブレードを叩き付ける。
『料理も掃除も洗濯も、みんな俺に押しつけやがって! たまには自分で……』
 ぱん! と風船が破裂したような音が響いた。同時にシールドとブレードの接点から広がる衝撃波。地に足を突いていたワームウッドはなんとか堪えるが、宙に浮いていたペンユウはまともに吹き飛ばされる。そこを狙って突っ込むワームウッド。
『やれってんだッ!』
 ぎぎぎぎぎ!
 骨の中まで響き渡るような嫌な音がユイリェンを貫く。同時に機体を揺らす鈍い衝撃。突然灰色の砂嵐に覆われて何も映らなくなるモニター。子供の泣き声さながらの警報が、自機の損傷を伝える。
 頭部の右半分にレーザーブレードが食い込んでいる。火花が飛び散り、小規模の爆発がさらにコックピットを震わせた。危険信号が出ている。このままでは回路不良でコアまで影響を受けかねない。すぐさまユイリェンは壁の赤いスイッチを押した。
 バシュッ!
 軽い音とともに、ペンユウの頭部が上に跳ね上げられた。その姿は、海賊が入った樽にナイフを刺すゲームのように滑稽な物だっただろう。しかし駄目になったパーツを切り離すのは必要なことだ。一瞬カメラには何も映らなくなるが、すぐさまコアのサブカメラに映像が切り替わる。
「そっちこそッ!」
 ヒステリー気味に叫びながら、ユイリェンは操縦桿をひねり倒した。目の前を覆う青い壁――ワームウッドのコアに、シールドを纏った拳を叩き付ける。べこんと間抜けな音がして、コアの装甲板が大きな陥没を作った。衝撃で吹き飛ばされ、地面に叩き付けられるワームウッド。
「先月貸した六千コーム! 今すぐ全部返してよッ!」
 
「何を……!」
 反射的に声を上げたウェインは、すぐさま口を閉じる羽目になった。爆風と閃光が彼を打ちのめす。ペンユウの放ったプラズマ砲弾に貫かれ、ワームウッドのマシンガンは跡形もなく弾け飛んでいた。ペンユウの頭部が健在なら――その軌道計算機能が完璧なら――ああなっていたのはコアの方だ。
 舌を噛まないように気を付けながら、あわてて距離を離す。
「金なんか借りちゃいねえよ! でたらめ言うなッ!」
『限定モデルの腕時計!』
 はっとウェインは息を飲んだ。一瞬、操縦桿を握る手が止まる。
『売り切れるからって、頭下げて頼んだじゃないッ!』
「あ」
 気付いたときにはもう遅い。いつの間にかペンユウが発射していた八発のミサイルが、白煙をたなびかせながらワームウッドに迫り来る。過加速走行を発動している暇はない。必死に後退しながらコア内蔵のデコイユニットをばらまき、ミサイルの群を囮に引きつける。
 しかし、二発。デコイに惑わされなかったミサイルが二発、まっすぐワームウッドに向かって来る。過加速走行のチャージはまだだ。今からでは素早い方向転換による回避も不可能。命中以外に道はない。
「……こんちくしょおォッ!」
 ヴン! ワームウッドの左腕が突如として輝く。レーザーブレードを発動させ、ミサイルに向かって突っ込みながらその腕を振るう。成功する見込みなど全くない。それでもやらなければむざむざ負けるだけだ。
 そして。
 
 ミサイルの群に巻き上げられた砂埃。サブカメラの映像を見つめながら、ユイリェンは荒い呼吸を整えていた。あの体勢からで全弾を回避できるはずはない。そしてワームウッドの薄い装甲では、一発でも食らえば動けなくなるはずだ。あの砂煙が収まった時には、うずくまる青い蜘蛛の姿が見えてくるはずなのである。
 じっと待つ。ひゅう、と荒野特有の冷たい風が吹き抜ける。心なしか、真っ黒だった空に白が混ざり始めたようだ。じきに夜が明ける。長い夜だった。なんだか色々なことがあった夜だった。つい数時間前を回想しながら、ユイリェンは待った。
 きゅう。
 子犬が鳴いた。
 いや、子犬であるはずはない。犬の悲鳴にそっくりではあったけれども、その音は決して動物の鳴き声などではない。いつも聞き慣れた音。電力を少しずつ蓄えていく音。砂煙の中から聞こえてくる。
 ――まさか!
 どんっ!
 ユイリェンが思うより早く、砂煙を突き抜けて青が姿を現した。青い蜘蛛、ワームウッド。四つ足の機体は過加速走行でペンユウ目がけて突進する。慌ててペンユウが回避するが、それも間に合わず、ワームウッドのどこかと触れ合ってペンユウの肩のレーダーがもぎ取られた。
『返せばいいんだろ、返せばッ!』
 ウェインの軽口を聞き流し、機体を回転させながら、ユイリェンは混乱した頭を整理していく。一体どうやってミサイルを回避したのか。機体操作ではない。デコイでもない。撃ち落とそうにもマシンガンは封じている。それなら――
 ――レーザーブレードでミサイルを切り落とした。
 バカな。そんなことができるはずがない。そんなサーカスみたいな芸当、私にだって――
 思考を遮り、ワームウッドが動きを見せる。過加速走行で遠ざかりながらペンユウをロックオンしていく。今度はケチなことはしない。肩についた連動発射ミサイルのおまけつきだ。
『だいたいエロ本の一冊や二冊でいつまでもふてくされてんじゃねえよッ!』
 爆音が連続する。ワームウッドのミサイルポッドから飛び出したミサイル。その数およそ二十。その全てがまるで蜘蛛の糸のようにペンユウの周囲を取り囲んでいく。
 ユイリェンは操縦桿を握りしめた。冷や汗が額を伝う。しかしそれを拭い去っている余裕はない。過加速走行の発動スイッチを押し、発動までの間ユイリェンはじっとモニターを見つめた。無数の白い糸。針の穴ほどもないその隙間。勝負は一瞬。タイミングが全てだ。
「あなたのその言い草が――」
 子犬の鳴き声が消える。ペンユウの背中がぐんと押され、猛烈な速度でミサイル群に突入していく。
「私を怒らせるのよッ!」
 ぐん!
 ぐるり、とペンユウの機体が回転する。横に錐もみ回転しながらミサイルの群に突っ込み、四方八方から迫るミサイルの全てをかわしきる。ただ単に回転しているわけではない。全て綿密な計算の元、ミサイルの軌道と速度を予測して一発も被弾しない進路と動作を選び取ったのである。
 ミサイルの雨を抜け、ペンユウはそのまま荒野を駆け抜けた。目指す先は青い蜘蛛。左腕のシールドを発動させ、ミサイル発射の反動で未だ動けずにいるワームウッドに拳を叩き込む。
 がきんっ!
 鈍い音がして青い鉄の塊が弾ける。命中した場所は相手の右腕……マシンガンを失って完全な死荷重となっていた部位であった。コアを狙ったはずが、相手の回避で攻撃をそらされたのだ。しかしこれで諦めるユイリェンではない。
「あなたはいつもそう」
 ペンユウがさらに左腕を振るう。今度は確かにコアを狙う。しかしその直前で脇から現れた青い光が拳を阻んだ。ワームウッドのブレード。ぎんぎんという耳障りな音とともに弾かれた拳を、今度は頭部に叩き付ける。べきんと音を立てて砕け、飛び散る頭部。
「近づいたり離れたり怒ったり笑ったり優しくしたり突き放したり!」
 ワームウッドもただ攻撃されただけではない。必死にブレードを振り、ペンユウの肩についたミサイルポッドを切り離す。しかしペンユウは意にも介せず、大きく拳を振り上げた。
「わからないわ! わからないのよ! 私が好きなら今すぐはっきりそう言ってッ!」
 
 べぎんっ!
 
 衝撃が彼を突き動かす。コックピットを染め上げる真紅のランプ。まるで血の海で泳いでいるようだ。ウェインはぐっと顔を持ち上げた。コアにパンチの直撃をくらい、もはや動けることすら不思議なほどだ。それでもウェインは目の前を見つめた。真紅の巨人がそこに立っている。いや、ユイリェンがそこにいる。怒りに身を震わせ、おそらく生まれて初めて感情に身を任せて、彼女が自分を見つめている。紅潮した頬と火照った体は闘いのせいだけではないはずだ。
「ああ……そうだよ……」
 ウェインはペダルを踏み込んだ。操縦桿をひねり倒した。考え得るありとあらゆることをやった。そして叫んだ。腹の底から、二度と出せないほどの大声で、ずっとわだかまっていたものを一気に吐き出した。
「俺はあんたに惚れてんだッ!」
 その瞬間。
 
 ―― ――
「えっ?」
 思わずユイリェンは声を上げていた。予想どおりの彼の答えに対してではない。目の前に広がる異様な光景に対してである。いや、何も広がってはいないのだ。目に見えるところには何もいないのだ。だからこそ異常だった。こんなことは生まれて初めてだった。
 ワームウッドはどこへ消えた!?
 今やあの青い蜘蛛は忽然と姿を消していた。あり得ない。一瞬たりとも目をはなしてなどいない。意識をそらしてなどいない。それでも奴は消えた。ほんのコンマ一秒前までそこにいた蜘蛛が消えた。
『ユイリェン!』
 聞こえた。彼の声が。それは通信機から響いてきただけの声だった。それでもユイリェンは感じた。確かにその声が後ろから聞こえてくるのを。奥歯を食いしばり、ユイリェンは操縦桿をひねり倒した。最高速で旋回するペンユウ。やがて後ろを振り向いたとき、そこにいたのは。
 ブレードを振りかざして突進してくる青い蜘蛛の姿!
「ウェイン!」
 彼女は叫んだ。精一杯の感情を込めて。
 そして――
 
 
 夜が明ける。地平線の向こうから昇る朝日が、荒れ果てた野を明るく照らし出した。まばらな木々も、岩山も、そして二機のACも。全てを等しく照らし出す母なる光、太陽。それが照らすのは無機質ばかりではなかった。今や完全に素直になった二人の幼い心をも、太陽は照らし出していたのである。
『また』
 通信機からは雑音混じりの声が遠慮がちに這いだした。そこには不安も怒りも混ざってはいない。いつもどおり、聞くだけでなぜか安らぐ声だった。
『また負けちまった』
 ペンユウとワームウッドは、互いに互いを支え合うような形で立ち尽くしていた。ワームウッドの左腕はまっすぐペンユウのコアへ向かって突き出され、それをペンユウの左腕が阻んでいる。握りしめたエナジーバズーカの銃口はワームウッドのコアにぴったりとはりついていた。
 青い蜘蛛の刃は真紅の巨人の盾に阻まれ、引き金一つ引けば光の砲弾が青い蜘蛛を撃ち抜く。これはそういう姿勢だったのだ。
 ユイリェンは彼の声をどこか遠くに聞きながら、シートの上で膝を曲げてうずくまっていた。指先がちくちくと痛んだ。口の中ががからからと乾いた。目の奥に熱い何かがあった。男の浮気現場を見てしまった昨夜と同じ感覚。ただ違ったのは、今のユイリェンには悲しみと喜びが同居する不思議な感情があるということだった。
「――わからない」
 思わず言葉は口を吐いて出た。それは唯一の本音だった。
「あなたの心がわかるのに――私の心がわからない――」
 涙は出なかった。こんなにも悲しいのに涙は出なかった。今までも、自分が何も知らないのだということは知っていた。でも、知らないということが――わからないということが、こんなにも悲しいのは初めてだった。ウェインの心を、自分を想う気持ちを、理解できればできるほど、自分の心がわからないことが悲しかった。自分が今何を考えているのか、彼を一体何だと思っているのか、それが全くわからなかった。
 しばらく続いた沈黙は、ウェインの一言で破られた。
『……ごめん』
 その言葉はとても素直だった。
『俺が悪かったよ、いろいろと……あやまる。だから、その……』
 すう。大きく深呼吸する音が通信機越しにも聞こえてきた。落ち着いた途端にこれなのだった。戦っている間、あれほど激しく叫んでいた彼が。ひょっとしたらあれらの言葉は全て、アドレナリンが言わせた幻想なのかもしれない。
『……帰ろう。一緒に』
 ゆっくりと。とてもゆっくりと、ユイリェンは顔を持ち上げた。けだるい脱力感があった。なんだかどうでもよくなってしまいそうだった。なんだか全部、笑い話にしてしまえそうだった。ただ今は、はやく家に帰って眠りたかったのだ。
 だから彼女は答えた。静かに、しっとりとした声で。
「――うん」
 
 
 
 逃げなければ。
 女は思考がまとまるや否や、慌てて立ち上がって駆けだした。一刻も早くここから立ち去らなければ。もう目前まで迫っている。《我等》による粛正。あの灰色の男が来るのか漆黒の特殊部隊が来るのかは知らない。だが必ず来る。殺しに来るのである。
 ユイリェンの住処から飛び出して、レイチェルは宵闇に覆われた荒野を見回した。ここから一体どこへ逃げれば良いのだ。社には戻れない。それどころか街にも入れない。こんな荒野の真ん中で、一体どうすれば――
「やあ」
 どぐん。
 レイチェルは自分の心臓が跳ね上がるのを聞いた。ゆっくりと振り向く。そしてそこに――ドアのすぐ横の壁に背をもたれさせて――予想した通りの顔があるのを見た。黒い髪。黒い瞳。全てを知り尽くし、全てを見下した、その男が。
「今夜はいい月夜だね」
「ケンジ――様」
 ごくりと唾を飲む音が、彼にも聞こえたかもしれない。ともかくケンジは壁から背を離し、ゆっくりとレイチェルに歩み寄った。いつも通り、忠実な秘書に近づいていくのと同じように。
「君に預けたあの箱――あれに何が入っていたか知っているかい?」
 無言で、レイチェルは首を横に振った。
「何も入っていない。ただ一つの物を除いては」
 ケンジの手のひらがレイチェルの頬に触れた。とても暖かい手のひらだった。首筋を指の先が少し擦っただけで、あまりの快感にレイチェルは卒倒しそうだった。状況がこんな風でなかったら実際そうしていたかもしれない。その快感がケンジの指がもたらすものではなく、自分の心から生まれる物であることもしっていた。
 ありきたりに言えば、彼を心から愛していたのである。それも極めて肉欲的に。
「それは未来。だれにも決めることのできない、未来だよ」
 彼の笑みは冷たい刃物のように輝いていた。
「ようやく確信できた。僕の――いや、ユイリェンの敵の存在。タオ・リンファがずっと戦い続けていた存在、タオ・アムシャが知り尽くしていた存在、ガブリエラ女史が僕らに託した存在にね。
 僕はそれを《意志》と呼ぶことにした。君達はそれのことを《我等》と称していたようだけど」
 ああ! 思わずレイチェルは声をあげそうだった。彼はついに気付いたのだ。レイチェルの上にいる存在、自らの敵となる存在に。それならばレイチェルは貴重な捕虜のはずだ。生かしてくれるはずだ。《我等》の手から護ってくれるはずだ。
「ケンジ様――お願い――助け――」
「うん」
 ケンジは無造作に銃を抜いた。

 どん。


Hop into the next!