ARMORED CORE 2 EXCESS

 夢を見ていた。ずっと。
 それは真っ白な夢だった。前にも――そう遠くはない、でも思い出せない昔にも――見たことがある夢。どこまでも広がる真っ白な世界がその夢の全てだった。微かな凹凸さえもないすべすべした地面は真っ白で、無限の広さで永遠に続いていく。完全に透明で永久の高さを持つ空は、それでもなぜか白い色に満ちている。二つが触れ合う地平線は、どの方向を見ても完璧に直線。ここは地球のような丸い世界ではなく、真っ平らのピザのような――古代の人々が空想したような――世界なのだ。
 その白の中に、ユイリェンはじっと立ちすくんでいた。自分が夢を見ているということがはっきりとわかる。この夢を見るのが二度目であるということも。不可解で落ち着かないこの夢の世界の中で、なぜだかとても心が安らいでいるということも。風は暖かく、辺りには聞こえるか聞こえないかの重低音が常に響き、どことなく体が重い。まるで――そう、水の中に潜っているような感覚。
 ふと、ユイリェンは目の前に人がいるのに気付いた。ついさっきまで気付かなかったというのに、そこには一人の女性が立ってこちらを見ているのだった。ユイリェンよりずっと背が高い女性で、年の頃は二十歳前後といったところだろう。ジャケットの袖やハーフパンツの裾からのぞく白い肢体は、女のユイリェンが見てもぞくりとするほど艶めかしかった。
 ただ不気味なことに、女性の顔はぐちゃぐちゃと黒い線に塗りつぶされているのだった。子供がでたらめな落書きをしたかのように。
《また、あなたなの》
 ユイリェンは喉を震わせてみた。夢の中でも喋ることはできるのだろうか。果たしてそれは可能だった――ただし、紡いだ言葉は音にならない。真っ白な世界に、漫画の効果音のように書き込まれていくのだった。ああそうだ――ユイリェンは思い出した。前にこの夢を見たときも、音はみんな文字に翻訳されてしまったのだった。
【信じておいて】
 目の前の女性が言った。その言葉も文字として世界に貼り付いた。綺麗な声だ。ユイリェンはそう感じた。音なんて全く聞こえてはいないのに。貼り付いている文字だって、タイプライターみたいに統一された書体なのに。
【もうすぐ運命が動く。でもあたしはあなたのそばにいる。昔も、今も、未来も】
《私を動かすのは、あなたなの?》
 しばらく沈黙が続いた。世界に書き込まれた文字は、次第次第に薄れて消えていった。それが必要なくなったら――ユイリェンがそれを憶えてしまったら――文字は消えるらしかった。なんてきちんと整頓された世界なんだろう。こんな場所では、忘れ物もしないに違いない。
【あたしは図書館。ただ持っているだけのもの。探し、そして読むのは――あなた自身】
 今度の言葉は、すぐには消えなかった。ユイリェンはそれを何度も何度も読み返した。図書館、持っているだけ、探す、読む、自身。気が遠くなるほどたっぷりと読んだ後で、ふぅと小さく溜息を吐く。わかった気がした。ユイリェンが『彼女』と呼んでいた者は、なんのことはない――
 やがて女性はにっこりと微笑んだ。顔が見えないのにそれとわかった。なんて不思議な世界なのだろう。ここでは、目に見えるものだけが現実じゃない。
【信じておいて。あなたは一人じゃない――】
 ユイリェン。

「ユイリェン!」
 ゆっくりとユイリェンは目を開いた。世界がぼやけている。剥き出しの鉄骨、シミの付いた板。視界にかかった霧が少しずつ晴れていく。やがて彼女は、自分が天井を見上げていることに気付いた。自分をふわふわした暖かい感触が包んでいることにも。五秒がすぎ、十秒がすぎ、ようやくユイリェンの意識が鮮明になる。なんとか、自分がベッドで寝ているのだと理解するくらいには。
 体中を蝕むけだるさは、眠気だけではなさそうだった。暑い。それでいて汗も出ない。そこかしこで関節が悲鳴を上げている。指一本動かすのにも、かなりの覚悟と努力が必要だった。
 だるいのを堪え、微かに視線を動かす。横では見慣れた顔が彼女を覗き込んでいた。目の覚めるような赤毛がまず目に入る。どこかまだ幼さを残した男の顔。決して絶世の美男子ではないが、憎めない魅力を持った男。顔面を蒼白にして、心配そうに、彼はユイリェンを見つめていた。馬鹿なひと。ユイリェンは心の中で苦笑する。私を――そう、病人を――余計不安にさせるつもりだろうか。
「よかった……気付いたんだ」
 ここぞとばかりに、ウェインは長い溜息を吐いた。どうやら彼女はしばらく気を失っていたらしい。一体何がどうなったのか知りたいと思っているところへ、おしゃべりウェインが語りかける。
「びっくりしたよ。いきなり熱だして倒れるんだもんな……でも大丈夫、医者に診てもらったから。ただの風邪だって……寝てれば治るってさ」
 そうだ。ようやくユイリェンは思い出した。その日は――今日かどうかは定かでないが――朝から体が重かった。全身が火照り、意識もはっきりとしなかった。そしていつの瞬間だか憶えてはいないが、ついに意識を失い、倒れてしまったのだ。あとは気が付いたのが今だった。倒れる直前に比べれば、今は少し気分がいい。ウェインが言うとおり、一日か二日寝ていればすぐに完治するだろう。
 ふと気付く。ここはユイリェンの部屋、彼女の聖域だ。一緒に暮らし始めたときから絶対に入るなと言い聞かせ、事実一度もウェインを入れたことのない部屋である。しかし今やウェインはこの部屋に――おそらくはユイリェンが寝ている間じゅうずっと――居座っていたのだ。一方的な約束を破って。
 まあいいか。彼女は火照った頭で考えた。非常時だし、看病のために必要なことだし、妙な気を起こすわけでもないし――それに、まんざら悪い気もしない。
 その時、落ち着かないビープが辺りに響いた。玄関で誰かが呼び鈴を鳴らしたのだった。客とは珍しいこともあるものだ。二人(と、偏屈じいさん)の住処は荒野の真ん中にあり、たとえ用がある者でも滅多に足を運んでくることはない。大抵はネットワークを通じての連絡で済ませるのである。
「こんな時に誰だよ」
 ウェインが鬱陶しそうに話すのは珍しいことだった。
「ちょっと見てくるよ。何かあったら」
 彼が指さした先にあるのは、壁に貼り付いた小さなボタンだった。レイヴンという仕事がら、日頃どんな不測の事態があるかわからない。いざというときに助けを呼ぶためのボタンであった。押せば家中に警告音が鳴り響く仕掛けになっている。今まで一度も使ったことのない仕掛けを、こんな平和な時に使おうとは思ってもみなかったが。
「うん」
 消え入りそうな声で応えたユイリェンに微笑みかけ、ウェインは部屋を出ていった。
 部屋に残されたユイリェンは、細く長く息を吐いた。まだ頭がぼうっとする。もう一眠りした方がよさそうだ。シーツを肩まで引き上げて――彼女は気付いた。自分が着ているのは綿の寝間着である。倒れたときはいつものジーンズ姿だったというのに。
 まあいいか。彼女は火照った頭で考えた。非常時だし、風邪引きにデニムを着せておくわけにはいかないし、妙な気を起こしたわけでも(多分)ないし――それに、たまには役得を与えてやるのもいいだろう。
 まあいいか、まあいいかと呪文のように反復しながら、ユイリェンは熱っぽい瞼を閉じた。静寂が辺りを満たし、超音波みたいなきぃんという音が耳に響いてくる――人はこれを耳鳴りと呼ぶのだろうか? 玄関で話す声も微かに伝わってくる。内容までは聞き取れないが、どうやら客は男のようだった。
 玄関の話し声が一瞬途切れた。客が勿体を付けているようだった。そして次の言葉は奇妙なほどはっきりと聞こえ、ユイリェンは閉じたばかりの瞼をかっと見開いた。
「ウェイン・ルーベック――あなたを我が社の専属レイヴンとしてお迎えしたい」

HOP 8 Smile like a Sunlight

陽みたいに笑って

 くしゅんっ。
 少女がよくやる、あの小さなくしゃみを一つしてからユイリェンはハンカチで鼻を拭いた。あれから二日。熱も咳も収まったが、まだ全身のけだるさは消えていなかった。万全の体調ではないが、今日の仕事は海上基地を警備するだけの簡単なものである。少し汗をかいた方が治りも早まるというものだ。
 勝手知ったるペンユウのコックピットの中は、ユイリェンの匂いに満ちている。手に馴染んだ操縦桿のラバー。体型に合わせて設計されたシート。彼女以外には決して扱いきれない遊びのないレスポンス。全てがユイリェンのために調整された、ユイリェンのための空間。それを彼女は「匂い」と表現する。ユイリェンにとって、五感を越えた感覚は全て「匂い」に感じられるのである。
 そしてこの場所は――護衛目標であるセントラルガルフ海上基地は――奇妙なことに何の匂いもしなかった。海底油田との中継地になっているそうだが、その割には油臭さも熱気も感じられないのである。ユイリェンに危険を知らせる超感覚的な「匂い」も。大きな危険のない仕事なのだと彼女は直感した。燦々と照りつける太陽もまぶしく、仕事でなければ観光気分でくつろげただろうに。
『まだ本調子じゃないんだろ? 今日は休んでなよ』
 脳天気なウェインの言葉が勘に障る。ここ数日というもの、彼はまるでいつも通りだった。困惑の欠片も見せなかったのだ。だからこそ逆にわからない。彼が何を考えているのか――あのスカウトを受けるつもりなのかどうか。言い換えるならば、ユイリェンの元を立ち去るつもりなのかどうか。
「大丈夫よ。簡単な仕事だわ」
 いつもと同じ台詞を、いつもと違う調子で呟く。まるで今日のユイリェンは、昔に戻ったかのようだった。あの頃――テストパイロットをしていた頃の、徹底した無関心が蘇ったのか。それとも平静を装うウェインに憤り、反発しているだけなのか。
『油断禁物、はユイリェンの台詞だぜ。それにほら――敵さんのお出ましだ』
 レーダーに反応が入る。海上基地の西と東から挟み込むように、五機ずつの赤い光が迫ってくる。機体が発する電磁波を識別するに、敵は水上用MT「ハープーン」十機である。形状は四脚型に近いが、その脚は通常の四脚型より接地面――接水面?――が広く取られており、背部ブースターで前進すると、脚が浮力を得て浮かび上がる仕組みになっている。仕組みそのものはジェットスキーと大差なく、その構造上、小回りが利きにくいという欠点がある。
 一瞬にしてそんな情報がユイリェンの頭を駆け抜けた。緩やかな曲線を描く形でしか旋回できない相手など、所詮はACの敵ではないのだ。直感の通り、危険のないごく簡単な任務だ。
「東は私が。西は任せるわ」
『了解……あ、そうだ』
 何かを思いついたかのように、わざとらしくウェインが声を上げる。そして沈黙。ユイリェンには手に取るようにわかった。彼は迷っているのだ。おそらくは――どう決断するかではなく、話すべきかどうかを。
「何?」
 ぶっきらぼうな催促に、帰ってきたのは苦笑混じりの言葉だった。
『……やっぱいいや。さっさと済ませて帰ろうぜ!』

 言えなかった。
 本当はすぐにでも相談すべきなのだ。そのことはわかっている。しかし――口に出すのが怖かった。行くなと、そばに居ろと、引き留めてくれることに淡い期待を抱いてはいる。ただそれ以上に、行けと、好きにしろと、理解を示してくれることを恐れていたのだった。行きたいという思いはある――だが一方で引き留めて欲しいという思いも膨れあがっていく。
 全ての発端となったあの訪問者は、E.C.C.の使者だと名乗った。無論用件は一つ。E.C.C.をスポンサーに据えて、再びアリーナに登録しないかという誘いだった。あなたの腕前なら、すぐにでもAランクアリーナに昇格できる。それどころか、全てのレイヴンの頂点であるナインブレイカーの称号すら、手の届かないものではない。
 おそらくスカウト屋の誉め言葉は本心から出たものだろう。そうでなければ、二千万コームなどという莫大な契約金を提示したりはしないはずだ。本当にウェインにそれほどの実力があるのか、スカウト屋が過大評価しているのか、多くとも可能性はこの二つ以外にない。
 行くべきか、行かざるべきか。遥か遠い昔の悲劇においてTo be or not to beが問題であったなら、今の彼にはTo go or not to goがまさに問題なのだった。悩みは何も産まない。決断しなければ――ハムレットの二の轍を踏むだけだ。
 どぉん。何処か遠くで爆発が起こった。ワームウッドが放った銃弾が、MTを貫いたのだった。ウェインはそのことに気付いてさえいなかった。全てが自動的だった。ペダル、操縦桿、トリガー、あらゆる操作を彼は自動的に行っていた。自分の殻に閉じこもり熟考に耽っている片手間に、自分を殺そうと襲いかかってくる敵を粉砕しているのだった。まるで彼でない誰かがそこにいるかのように。
 ふと、ウェインは辺りが静まりかえっていることに気付いた。我に返り周囲を見回す。レーダーを見る。動いている機影はどこにもない――ただあるのは、黒煙を吹き上げながら海に沈みゆく残骸のみ。
 俺が? ウェインは漠然と考えた。これを俺がやったのか? 一体いつの間に?
 MTの残骸がごぽんとあぶくを吹き出す。おそらくはそれが最後の浮上用ガスだったのだろう。黒こげの骸は一気に加速を得て、水面の下へ吸い込まれていった。脚が消え、胴体が消え、最後に残った腕だけが墓標のように海面から突き出す。やがてはそれも暗く深い闇の底へを落ちていく。そして海は静かになった。
 気付かなかった。五人の敵を殺していながら、その亡骸を見るまでウェインは全く気付かなかった。蟻を踏みつぶしても全く気付かないように、彼は小さすぎる相手の死に気付かなかったのである。あるいは彼が大きすぎたのか。
「そうだ……ユイリェン」
 ぶるりと震え――何に対して寒気を感じたのかは自分でもわからない――ウェインは海上基地の東側に向かった。基地中央の施設を迂回し、北側の沿岸通路を伝って東部へ。普段のユイリェンならとっくに片づけていておかしくない頃ではあるが、今日は調子が悪いようだし、ひょっとしたら手間取っているかもしれない。
 果たしてペンユウは手間取っていた。まだ二機の敵を残し、果敢にも海の上に滞空しながらプラズマの雨を降らせている。完璧な自信あってのことだろうが、見ているこっちが冷や冷やする。ブースターの電源は無限ではない。もし何かの間違いがあって海中に落ちでもしたら――水中ではブースターは使えないので――自力で浮き上がることは不可能なのである。
「こっちは終わったよ。手伝おうか?」

「必要ないわ。見学していて」
 いいながらユイリェンはトリガーを引いた。右腕のエナジーバズーカが火を噴き、ウェインがプラズマの雨と形容したもの――プラズマの流星の方がしっくりくる――を真下へ叩き付ける。光の砲弾はMTのすぐ隣に着弾し、海水を蒸発させてもうもうたる水蒸気を立ち上らせる。
 当たらない。なぜだか弾が当たらない。いつもならもう五回は撃墜してしまっているはずなのに、そのことごとく、攻撃が逸れてしまう。原因は明白だ。目が霞む。思考がぼやける。指先が重い。体調が万全でないことがこれほどまでに影響するとは、思ってもみなかった。
 ただ、実際には違うのだった。彼女の活躍を阻害しているものはただ一つ――鼻だった。鼻とはただの形容で、正しくは第六感、超感覚などと呼ぶべきものである。敵の発する匂い。今敵がどこにいるのか、どの瞬間に攻撃しようとしているのか、それを直感的に感じ取る能力。それが――おそらくは風邪のせいで――失われているのだった。
 思い通りに体が動かない苛立ちが焦りを産み、焦りはさらに手元を狂わせる。ヴィシャス・サイクルだった。
『意地張るなよ。本調子じゃないのが見え見えだ』
「要らないと言っているのよ!」
 今度こそ。放った光の砲弾はMT一機を貫いた。一撃で動力炉を破壊したために爆発も起こらず、MTの残骸は単に波間を漂う塵と化す。あれならパイロットは死んではいまい。たとえ調子が悪かろうと、できうる限り敵を殺さない戦い方に関しては変わりがなかった。
『危ない!』
 相棒の悲鳴に、ユイリェンは反射的に操縦桿を捻った。真横にスライドした機体のすぐ脇をロケット弾が突き抜けていく。最後の一機の攻撃――敵弾の発射音さえも聞き逃すとは、調子が悪いにもほどがある。声をかけられていなければ間違いなく撃墜されていた。
『言わんこっちゃない』
「すぐに終わるわ。お願いだから黙って見ていて」
 必殺の一撃を外し、最後のMTは為す術もなく海上をふらついている。これ以上無様な真似を見せられない。ユイリェンは慎重に照準をさだめ、相対速度を暗算し、予測進路をはじき出した。あとはトリガーさえ引けば今日の仕事は終わり――はやく家に帰って、何か暖かいものでも食べて、ゆっくりと眠りたかった。何もかも忘れて、ぐっすりと――
 そのとき。
『上だ! ユイリェンッ!』
 弾かれたように彼女は上を見上げた。モニター越しに見える、そびえ立つ塔のような海上基地。その上部で立ち上っている噴煙。落ちてくる巨大な何か。さっきの流れ弾を受けて剥がれ落ちた基地の外壁!
「くッ!」
 慌てて操縦桿をなぎ倒す。ペダルを踏みしめる。しかしもはや目前まで迫っていた外壁の破片は、ペンユウの頭を激しく殴りつけた。コックピットを揺るがす衝撃。しかし損傷そのものは大したことはない。バランスさえ立て直せば海に落ちる危険も――
 バシュッ。
 間の抜けた音が響いた。
 ユイリェンは目を見張った。出力低下、高度下降。ブースターが動かない。今の衝撃で配電系統に異常が発生したのだ。浮揚感。再びの衝撃。視界が暗転するのがわかる。周囲で水柱が立っているのがわかる。彼女の背筋を悪寒が駆け抜ける。奇妙な平静と、確信だけが心にあった。
 落ちる。
『ユイリェン!』
 叫ぶ彼の目の前で、紅い鬼は海中に消えた。


「助けられねぇってのはどういうことだッ!?」
 ウェインの右腕が男の胸ぐらをひっつかみ、その背を壁に叩き付けた。衝撃にうめき声を上げながらも、蔑んだ瞳でウェインを見つめることを止めない男――ケンジ・コバヤシ。まるで猛獣のようなウェインをじっと見据え、落ち着いた口調で吐き捨てる。
「汚い手を退けろ、下衆が」
「ンだと手前ッ!」
[落ち着いてくださいウェイン君ッ!]
 横手からかかった静止の声に、ウェインは振り上げた握り拳をなんとか止めた。その拳をわなわなと震わせ、奥歯をぎりぎりと噛みしめ、しぶしぶケンジを解放する。一方のケンジはと言えば、すましてスーツの乱れを直すのみである。
 セントラルガルフ海上基地は、テロリスト襲撃前の静けさとは一変して賑やかになっていた。空中では数機のヘリが海底探査用のブイを投下し、沈んだACの行方を探る。海上では紅い色の残骸を探す作業が――縁起でもない!――続けられている。そして基地の上では、数々の専門家達が策を練り、こうして若社長も足を運んできている。メガコンプ制御人工知能『システム・ガブリエラ』の端末も然り。
[状況を説明します。さあウェイン君、とにかく座って。若社長、あなたも]
「僕は落ち着いている」
[体温、脈拍、血圧、いずれも異常値を示しています]
 ふん、と鼻を鳴らすと、ケンジは管制室のシートに腰掛けた。それとはできるだけ離れた位置の席にウェインも腰を下ろす。二人は目を合わせなかった。それどころかお互いをちらりとでも見ようとはしなかったのである。互いに互いの存在を否定する――まるで水と油だった。ユイリェンという乳化剤がなければ決して解け合うことはない。
 キャリアウーマン風のホログラフを投影するエリィが、ペンユウの構造に関する資料を自分と一緒に投影した。設計図、グラフ、説明文。そのどれもがウェインにはちんぷんかんぷんな代物だ。
[まずペンユウの状況から。任務中の事故で海底に沈没したペンユウですが、ウェイン君の話によると、損傷はあっても外部装甲のみのようです。ペンユウは完全な二重装甲になっており、内部装甲は最大300atmの圧力に耐えられる構造になっています。通常の深度ならコックピット浸水の危険性はありません。
 酸素その他の生命維持に関しては、無補給・密閉状態であと372分保ちます。もちろんユイリェンがジェネレーターを再起動して生命維持モードに設定した場合ですが――あの娘ならその点心配はないでしょう]
 タイム・リミットはあと六時間――ウェインはごくりと唾を飲んだ。
[セントラルガルフは大破壊による海面上昇で生じた海。その平均深度は約150mと、かなり浅い海域です。ただ、この基地周辺は旧サクラメント市街直上――]
 絶望がウェインの顔を染め上げた。聞いたことがある。大破壊のおり、サクラメントの街は地殻変動による大地震に見舞われ、地面に巨大な――幅1km、長さ15km!――亀裂が生じたという。その深さを調査するよりもはやく大破壊は終結の日を迎え、南極氷山融解の影響で広大な土地が海底に没した。今ではその亀裂はこう呼ばれている。サクラメント大海淵、と。
[浅海の調査は終了しましたが、ペンユウの姿はありませんでした。サクラメント大海淵に落ちたとみて間違いありません。深度8000mの海底にまで沈んでいる可能性もあります。
 そうなると深海専門の救助サルベージ班が必要になりますが――彼らは現在日本海溝で作業中です。すぐに切り上げてこちらへ向かったとしても]
 エリィは目を閉じた。
[最低10時間はかかります――]
「じゃあどうするんだッ!」
 堪えきれずにウェインは立ち上がった。顔を行き場のない怒りに歪ませ、拳を震わせ、壁や椅子にでたらめに叩き付ける。彼は業火の如く燃えさかっていた。日頃くすぶっている火種が――絶望という焚き付けを得て、炎を上げたのだった。彼は必死に隠していた。自分の中の粗暴を見られたくなかったから、必死に穏やかな青年を演じていた。いつの間にかそれが本当の自分になっていると信じていた。でも!
「見捨てるのか!? 黙って見てろってのか!? ユイリェンが死んでいくのがわかってて、呑気にベッドで寝てろってのかッ!?」
[仕方が無いんです! 動ける潜水艇は一機あります。ペンユウを探して酸素補給するという手もあります――でもこの辺りの海域には今日のテロリストがまだ潜んでいるんです! 降りていく途中で発見されれば、その時点で終わりなんですっ! 一度で救助を成功させない限りは!]
「だからって……だからって!」
 獣のようなうなり声。ウェインはまさしく獣なのだった。もはや彼に理性は、論理的思考は存在しない。あるのはただ感情だけだった。ユイリェンを助けたい。失いたくない。愛している。その感情だけが彼の中で渦巻いていた。自分には何もできないという無力感と一緒になって。
「うるさいぞ、若造め」
 そのとき、岩の擦れるような低い声が辺りに響き渡った。ウェインがはっと顔を上げる。ケンジがぴくりと眉を動かす。ウェインにとっては普段聞き慣れた声。ケンジにとっては初めて聞く声。しわがれた老人の声。
「要は、一度でサルベージすればいいんじゃろう」
 ハーディ。管制室のドアを押し開けて入ってきたのは、ユイリェンとウェインの専属メカニックである、堅物爺さんハーディであった。
 ウェインは思わず泣いてしまうところだった。ユイリェンが落ちてすぐ、慌ててエリィに連絡を取り、その次にハーディにも連絡したのだ。ユイリェンが海底に落ちた。助けてくれ。しかし爺が返した答えは――やかましい。勝手にしょげかえっておれ。
 それが今やここにいる。助けに来てくれたのだ。この爺さんの腕は本物だ。きっと何か、何か策を考えてくれたに違いない。
「大丈夫……なんだよな? 爺さん、なんとかなるんだよな!? ユイリェンは助かるんだよな!?」
 汚れた爺の服にすがりつくウェイン。その瞳は怯えていた。獅子に睨み付けられ、命乞いをする山羊の目だった。彼と山羊の差はたった一つ――失うものが自分の命か、他人の命かということだけだったのだ。彼にとって最も大切なのは自分の命ではなく、ユイリェンだった。
 ハーディはじろりと哀れな山羊を睨んだ。そして次の瞬間。
 ぼぐっ。
 鈍い音とともに山羊は吹き飛んだ。壁に背を叩き付けられ、肺の奥からうめき声を上げる。殴ったのだ。年老いた爺が、渾身の力を込めて。ハーディの瞳には怒りの色が――おそらくはウェインにではなく別のものに対しての怒りが――満ちていた。
「馬鹿もんが」
 唸るように爺は吐き捨てた。
「何故護らなかった――惚れた女を、たった一人の女を、何故お前の手で護ってやらなかった!」
 二の句が継げなかった。何を言っても言い訳になるような気がした。ウェインにできたのは、ただ黙って俯くことだけだったのだ。自分があのとき無理矢理にでもユイリェンに加勢していれば。仕事を全て任せてくれるくらいにユイリェンに信頼されていたら。こんなことは起きなかったのだから。
[何か策があるのですか――ハーディさん]
「インサイドユニットを保ってきた。ペンユウの内部ジョイントは空いとるから、そこにこいつを取り付け、コントロールをS−22、マルチチューブをG−He2に接続する」
 ウェインにもケンジにも、この爺が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。分かるのはただ一人、ACの内部構造に関する知識を持つエリィのみである。一瞬、彼女の顔が蒼白になる。ホログラフのはずの顔が。自分の「驚き」を相手に伝えるための、彼女の「仕草」だった。
[……ヘリウム排気を使うつもりですか?]
「そうじゃ。インサイドには風船が仕込んである。そこにジェネレーターで生じたヘリウム排気をぶちこめば、巨大浮き輪の完成じゃ。大がかりな装置でバルーンを固定する必要もない。微妙な浮力、位置の調整も機内でできる。潜水艇を操縦するだけの腕前さえあれば誰にでもできる救助作戦」
 じろり、と爺さんはもう一度ウェインを睨んだ。髭だか髪だかわからないヴェールの向こうで、ぎらぎらと黒い瞳が輝いている。その目が言っていた。助けられるのはここまでだ、と。
「お前が行け」
 全員の視線がウェインに集まる。床にへたりこんだままの、赤毛の青年に。
「あの娘を助けられるのは――お前だけじゃ」


 ちらり、とユイリェンはモニターの端に目を遣った。点滅する時計が示す時間は、19:32。機内の生命維持システムは、保ってあと二時間半。上が何らかの救助策を立てているなら、そろそろ行動に移るはずだった。もし失敗しても修正の余地があるギリギリの時間――
「馬鹿みたい」
 余計な電力を使わないために、外部カメラは全て電源を落としてある。どうせ外を見たところで、光の届かぬ深海では辺りを包む闇が見えるだけである。しかし周り中真っ暗なモニターに包まれたこの状況ではさすがに精神が圧迫される。極度に圧縮された水が凍り付くように、ユイリェンの心に小さな氷が生まれる。不安という水から生まれた、狂気という名の氷が。
 背筋を走る悪寒に、ユイリェンはぶるりと身を震わせた。シートの上で膝を抱いてうずくまる。寒いような気がする。気温調整は完全に行われているはずなのに。寒いなんて事があるはずはないのに。
 みんな、探しているんだろうか。
 漠然とした不安があった。ひょっとしたら、自分は見捨てられたのかもしれない。色々な困難があって――まだこの辺りに潜んでいるであろうテロリストだけでも十分な脅威だ――救助を諦めてしまったのかもしれない。
 ケンジにとって自分は大事な手駒だ。やすやすと手放すはずがない。ウェインにとって自分は大切な思い人だ。必ず助けに来てくれるはずだ。そう信じたい。日頃、自分でうるさがっている人間関係を――信じたい。でも、ひょっとしたら、自分はたくさんいる手駒の内の一人なのかも、無数にいる女の内の一人なのかもしれなかった。命の危険を冒してまで助ける価値のない人間なのかも。機械の部品みたいに換えの利く存在なのかも!
 死にたくない!
 そう思った。とてもとても強く、そう思った。そう思っている自分に驚きさえした。昔の自分なら考えられなかっただろうに。昔の自分なら甘んじて死を受け入れただろうに。死を恐れはしなかっただろうに。生きていることと死んでいることに、それほど大きな違いが見つからなかっただろうから。
「うぁっ」
 ユイリェンは喘いだ。拳を固く握り、シートの横に叩き付ける。痛みが拳から脳へ突き抜ける。まだ生きているのだ。痛みを感じるのだ。何とかして痛みを、生きているということを実感しなければ、まるで自分が死んでしまったかのようだった。死んでしまうのではない、死んでいるのだった。必死に何度も何度も拳を叩き付け、何度も何度も痛みを抱きしめ、死んでいることを忘れようとしているのだった。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も拳に血が滲みようやく彼女は止めた。
 血。この紅い色すらも、命の証明にはならない。生者は血を流す。だがそれと同様に死者も血を流す。その紅い色には何の違いもない。少なくとも肉体が腐りはてるまでは――
 いや、そもそも「生きている」とは何だ? 命の証明などできるのか? できない。絶望的な考えが彼女の脳裏に浮かんだ。「死んでいる」ことは証明できる。肉体が腐れば、白骨を晒せば、間違いなく「死んでいる」。しかし「生きている」ことの証明とは? 体が腐っていないこと? 死んでもしばらくの間肉体は保たれている。冷凍すればもっと長く。動き回っていること? ロボットだって動く。考え、話すこと? ではエリィは「生きている」のか?
 ああ、この世に「生きている」証明などありはしない。ただあるのは「死んでいる」か否かだけ。たとえ動いていても、喋っていても、糸操り人形でないと誰に言えるだろう。この世の全ての人間は、誰かに操られているだけの人形に過ぎないのだ!
 生きていると確信したかった。自分が本当に生きているということを。一体どうすればそれは証明できるのだ。
 闇が見えた。真っ黒な世界だった。いつのまにかユイリェンの目の前に黒々とした平面が広がっていた。空も黒だった。あの夢の正反対――全てが黒の世界。どこまでも無限に続く時間。その空間を漂いながら、ユイリェンは何も見えず聞こえず、何も感じず、考えず、ただふわりふわりと浮かんでは沈み、どこまでも流れていく。
 これが、死!
「死にたくない」
 ぽつり、とユイリェンは呟いた。そしてその次は、喉を引き裂かんばかりの大声で、絶叫した。
「死にたくない!」

「現在深度1500。依然問題なく潜行中」
 狭いコックピットの中で、ウェインは何度目かの報告を行った。数センチ先が見えない海底で、たった一人の作業――これほど神経がすり減るものだとは思ってもみなかった。灯りがあればまだ話は違ったのかもしれないが、テロリストに発見される危険を冒すわけにはいかない。暗闇に身を隠し、頼りになるのは受動式のソナーとレーダーだけ。
 しかし、この状況の中でユイリェンはじっと耐えているのだ。助けに行く者が負けていては話にならない。
 ペンユウが発したと思われる救難信号を受け取り、発信源を特定してからもう30分。さすがはユイリェンと言おうか、複雑なジャミングをかけたパルス電波を一度だけ放ったのである。電波そのものはテロリストも受け取っただろうが、エリィと同等のコンピューターがなければ発信源の解析は不可能だった。少なくとも一度きりのパルスでは。
 発信源は深度2000。機体圧解の危険性はない深さだ。あとは爺さんが作ってくれた装置を取り付け、機体を浮上させれば全ては終わる。ただ一つの心配の種は、降りていくウェインの潜水艇がテロリストに発見されてはいないかということだった。もし見つかっていた場合、敵はおそらく浮上の途中で襲ってくる。勝負はその時だ。
 やがて返事が返ってくる。もちろん暗号化・圧縮したパルス波という形で。
[了解。軌道修正データを送信します]
 下に降りるまでのウェインの仕事は、こうして送られてきたデータを入力するだけである。あとは潜水艇のコンピューターが勝手に進路を決めてくれる。彼の一番大切な仕事はコンピューター制御にできない海底作業、すなわちユイリェンの救出なのである。
 海の深みへ突き進み、深度は2000へ。救難信号の発信源まで、あと100m。平たい海底を這うように進み、赤外線ライトで照らしながら周囲を捜索する。岩肌。小魚。海藻の類。どこにいる? ウェインの頭を焦りが満たした。一刻も早く助けたい。いや、一刻も早く会いたい。
「ユイリェン!」
 彼は思わず叫び声を上げていた。赤外線を浴びて太陽のように光り輝く、真紅の巨人の姿を見つけて。

 すぅ、とユイリェンは息を吐いた。朦朧とする意識の中で、彼女は海の中を泳いでいた。体がふわふわと浮いていた。波が揺らめけば、彼女の体はバラバラに砕けて海水に溶け込んでいった。砕けた体の一つ一つがもぞもぞと動き、成長して、また人の形を取る。そうしてユイリェンはたくさんに分裂した。分裂したユイリェンは海をふわふわ流れ、波が揺らめき、分解されて、増殖する。ユイリェンはどんどん増えていった。やがて海はユイリェンだけになった。世界中の海という海はユイリェンで溢れ、浜辺という浜辺にはマネキンのような白い腕や脚が散乱する。太陽の光に晒されてユイリェンは蒸発し、巨大な雲となる。雲の中でユイリェンの濃度が上昇すると、ユイリェンはまた固体となって大地に降り注ぐ。ぼたぼたと降り注いだユイリェンは地面を流れ、河に集まり、河を流れて海へ注がれていく。そしてまた蒸発。雲となる。
 永遠に続くリフレイン。ユイリェンは世界中を巡り巡ってまた海に戻る。永遠に。永遠に!
 はっ、とユイリェンは顔を上げた。右の手のひらを見る。左の手のひらを見る。分裂などしてもいないし、蒸発もしていない。周囲を見回せば、変わり映えのしないコックピットの内壁が彼女を包んでいる。モニターの隅で点滅する時計。何も映っていない画面。
「私……妄想していたわ……」
 呟く。誰にともなく。
「嫌な夢……世界がみんな私だけになるの……おかしいわ、そんなの……」
 言葉は止まらなかった。ユイリェン以外に誰もいない閉鎖空間の中で、ユイリェンはずっと語り続けた。誰かに声を聞いて欲しくて語り続けた。息苦しい――酸素はあと30分ほどしか保つまい――のを耐え、ユイリェンは語った。誰かがそこにいるような気がして。
「海の底は牡蛎でいっぱいだったわ。とても美味しそうな牡蛎……どうしてあんなにたくさんある牡蛎が、海の底を覆ってしまわないか知ってる? 放っておけばどんどん増殖するのに……私は知らないの。前にシャーロック・ホームズで読んだけど忘れてしまったわ。ホームズが病気になる話よ。仮病なの。ワトソンも騙して、犯人も騙すの。ホームズがもうすぐ死ぬと思った犯人は、彼の前で自白してしまうのよ……本当はホームズは元気で、病気のふりをしていただけなの……彼の陰謀だったのよ。たしか、『死にかかった……』なんだったかしら。そう、『死にかかった探偵』……
 コナン・ドイルは晩年オカルトに傾倒して……ホームズも後期の作品は、推理小説というより……オカルト小説になってしまったわ。残念ね……オカルトが嫌いではないけど……ホームズにはやってほしくなかった……
 でも世界を埋め尽くしている物はあるの……牡蛎ではなくて……私。私は世界を埋め尽くしているわ。世界は私だけなの。だって、私は私の知っている世界しか知らない……私が世界を知るには、目を、耳を、鼻を、舌を、肌を、心を介さなくてはならない……全て世界は私というフィルターを通して伝わってくるの……私の知っている世界には私がいる。例外なく全て……だから世界は全て私なの。世界にはみんな私が満ちているの……
 誰だって同じ……あなたの知っている世界は全てあなた……あなた、誰……?
 ああ、でも変だわ……今日の私は饒舌……どうしてこんなにも話すのか……わから……ない……」
 そしてユイリェンは目を閉じた。心が満たされて温かかった。不思議と安らいでいた。狂気は人を破壊するものではない。人を救うものなのである。もはや拠り所を失ったユイリェンの心は、死を確信したユイリェンの心は、自らの心の内側に安息の地を見いだした。狂気という名の固い鎧を纏い、自分自身の快適な城の中に閉じこもってしまったのである。
 恐怖から逃れるために。
 それは死への恐怖ではなかった。ユイリェンは決して死を恐れなかった。今も死を恐れてはいない。それは忘れられる事への恐怖だった。海の底にいるユイリェンを、誰もが見捨てる事への恐怖。ユイリェンが必要なくなることへの恐怖。歴史から、記憶からユイリェンが消え去る事への恐怖。永遠に闇の中へ没する恐怖!
 ずっと、憶えていて欲しい。この世界が消えてなくなっても、永遠に。
『ユイリェン!』
 声が聞こえたのはその時だった。ざあざあとうるさい雑音に混ざって、通信機から吐き出された男の声。聞き慣れた男の声だ。聞き間違えるはずもない。耳から脳へ、そして胸の奥へと染み渡っていく柔らかな声。これは幻聴か? こんな深い海の底に彼がいるはずはないのに。
『ユイリェン! 応答してくれ、助けに来たんだ!』
 助けに来た? プロのサルベージ部隊ではなくよりにもよって彼が? じわじわとユイリェンに自我が蘇ってきた。夢の中から、恐怖の渦の中から彼女は這いだした。それと同時に悶々とした怒りが胸に湧き起こる。エリィめ! 救助隊の予算をケチったな!
「どうしよう、ウェイン」
 言いながらユイリェンはモニターの電源を入れた。蚊の飛ぶような音がしてから、周囲に光が灯る。映し出される海底の風景――岩、水、泡――の中に、明るい白色光が貼り付いている。光の向こうに隠れている巨大な蟹のようなシルエットは潜水作業艇だ。
「私、恐怖のあまり頭が狂ってしまったわ。なんとかして」
『はあ?』
 意味が分からずウェインは聞き返し……一瞬間をおいてから、呆れ口調でこう言ったのだった。
『なに言ってんだよ。わけ分かんないこと言うのはいつもじゃないか』
 ……この野郎。

 まずは休止状態のペンユウを再起動し、仰向けの姿勢から立ち上がらせる。機動性は落ちるものの、ACは水中でも活動可能である。海底を歩くことしかできないのでは、兵器としては役に立たないが。
 それから補給を行う。コア背面下部の非常補給口に固形ヘリウム3のカードリッジを挿入し、燃料を補給。別の口に圧縮酸素ボンベを差し込んで、こちらはユイリェンへの補給である。これでペンユウもユイリェンもあと5時間は保つ。救助作戦の第一段階は終了だ。
 続いて第二段階、サルベージ作業に移る。ペンユウのコア背面上部――人間で言えばうなじの辺り――にあるハッチを開く。そこにハーディ特製のインサイド・ユニットを装着するのだが、水深2000mの海底でパーツを脱着した例など聞いたことがない。エリィは圧解の危険はないと保証してくれたが、不安感はどうしても付いて回る。
『ヘリウム排気でバルーンを膨らませようなんて、無茶な作戦ね。エリィが考えたの?』
「堅物じいさんさ。助けに来てくれたんだ」
 ハーディ。あのじいさんもつくづく分からない男である。何故今ごろになってユイリェンに手を貸すのか――それは過去への執着からではないはずだ。過去を乗り越えて未来へ続く何かを、ユイリェンの中に見いだしているはずだった。そういう男なのだ。うじうじと亡霊に縛られて、未練がましく地面にしがみついているような男ではない。
『装着終わったよ。ハッチ閉めて』
 弾かれたように顔を上げてユイリェンはスイッチを操作した。どうやらぼうっとしていたらしい。
 エリィの言葉通り、圧解もなく作業は終了した。インサイド・ユニット挿入口を固く閉じ、ユイリェンを救うための切り札がペンユウの体内に入る。コントロールをS−22、マルチチューブをG−He2。指定されたとおりに配線を終え、ジェネレーターが生み出したヘリウム排気がバルーンに注入されはじめる。本来なら外部へと排出されるはずのごみが、今や命を繋ぐ風船を膨らませるのだ。
 バルーンは順調に膨らみ、直径3mほどの大きさになった。同時にペンユウの巨体がゆっくりとしたスピードで浮上し始める。あとは状況に応じてヘリウムの量を調整すれば、浮上の速度を調節できるのだ。あまり急ぎすぎても機体に負担がかかるので、何かないかぎりこの速度を維持すればいい。
 ふわふわと海中を浮上していくペンユウの隣に、大きな蟹が陣取っている。ウェインの乗る潜水艇である。彼に残された仕事は、浮上するユイリェンのフォローと……そして護衛である。運が悪ければ――いや、とんでもなく幸運なのでなければ――じきに敵が現れるはずだ。
「ユイリェン、状況は?」
『快適よ。ファースト・クラスとはいかないけど』
「苦情はなしだぜ、お客さん。なんたってタダ乗りだからな」

「状況は?」
[深度500、魚雷有効深度に入ります]
 優雅な腰つきで椅子に身を埋めるケンジに、エリィは図表を示して見せた。彼の顔は全くの無表情で、何を見てもぴくりともしない。長年研究した成果によると、ケンジがこうして表情を殺すのはひどく同様しているときである。口でどう言おうと、彼がユイリェンに並々ならぬ愛情を注いでいるのは紛れもない事実であるのだ。
 エリィは自分の胸中になにやらもやっとしたわだかまりがあることに気付いていた。それの名前も知っている。嫉妬だ。自分が妹に嫉妬心を抱いているのは否定できない。もし自分に肉体が――まさしく言葉通り肉の体が――あったなら、と考えずにはいられない。ケンジの心をつなぎ止めることができただろうに。あの可愛い少女のように、ケンジの心を自分で一杯にすることができただろうに。
[心配することはありませんよ。あの娘は大丈夫です]
 さあ、わたしを見て。エリィは背筋に悪寒が走るような暖かい笑みを浮かべた。あまりにも神々しくて、畏怖を人に植え付ける笑み。
[わたしは、あの娘が無事に帰ってくるということを数学的に証明できそうな気までしているんですよ。とても奇妙なことですけど]
「君ができるというのなら、できるのかも知れないな」
 そうとも。エリィの中にじんわりと満足感が広がった。必ずあの娘は帰ってくる。
 その時、けたたましい警告音が辺りに響き渡った。途端に画面に表示される、赤い光点が五つ。海底でじっと耳を澄ませていたテロリストどもが、とうとう牙を剥いたのだ。
「敵か」
[はい。戦闘用潜水艇『トライデント』、全五機]
 さあ、ユイリェン。どうやって切り抜ける? ここは水中――ペンユウは護ってくれませんよ!

『敵機接近ッ!』
 ウェインの絶叫がやかましく響いた。そんな大声を出さなくたって、潜水艇の水中レーダーから情報は送られている。獲物を狙う獅子よろしく周囲300mの海域を旋回している五つの影は、いやというくらい目に焼き付いているのだ……五つだって! ユイリェンはすぅっと目を細めた。旋回速度は50ノット前後。直線なら70は出るだろう。小型艇としてはかなりの性能だ。たかがテロリストにしては豪勢な装備である。
 ぐるぐると円を描いていた点が動きを変えた。ゆっくりと速度を落とし、旋回の角度を深める。円の中心、つまりはペンユウめがけ回頭する。レーダーに表示される警告灯。魚雷発射音探知、接近中!
「エンジン停止」
『はぁっ?』
「いいから停止、早く!」
 怒鳴りつけ、自分もペンユウのジェネレーターを停止させる。レーダーから消える青い光の点……自機座標である。機体の発する音を全て消した瞬間、ペンユウはそこに存在しないことになる。水中において音を出さない物体は見ることも触れることもできない。物理学の視点から言えば存在しないのでる。やがてウェインの潜水艇もエンジンを止めた。
 両機ともぴたりと上昇が止まる。馬鹿な、これじゃ観音隠れだ! 日本の忍者がやるという、闇の中でただじっとしているだけの隠れ方である。あと200、150、少しずつ迫ってくるマイクロ魚雷相手に、そんな怪しげな戦術が通じるはずが――
 魚雷を示す紫色の光点が四方八方からペンユウたちを包み込む。距離50。命中する!
 ウェインは両目を閉じた。
 そして開いた。
 紫色の光はレーダーの中央を通り過ぎ、ふらふらと千鳥足で散っていった。命中弾ゼロ、被害は全くなし。それを見てもしばらくは、ウェインは硬直したままだった。やがて頭が情報を受け付け始める。盛大な溜息を吐き、腹の奥から声を絞り出す。
『なんだよこれ……どうして』
「水中では、エンジン音で機体を識別するのよ。魚雷は目標をロストしたわ」
 魚雷の推力が尽きるのを待ってから、ユイリェンは再びジェネレーターを起動した。ヘリウムが精製され風船に注ぎ込まれる。それに続いてウェインの潜水艇もまた動きを取り戻した。
『じゃあ、魚雷が来るたびにエンジン止めれば……』
「駄目よ。次は起爆座標を設定してくるわ。敵の位置に関係なく一定の場所で爆発するの。おそらくは識別型の魚雷と混ぜて」
『なるほどね。わかってきた』
 ぞくっ。

 その時の感覚をどう表現すれば良いのだろうか? ともかくユイリェンは、ウェインがそう呟いたときに彼でない何かを感じた。なるほどね、わかってきた。彼はそう言ったのだ。まるで料理番組を見てレシピを憶えたかのように何気なく。普段通りの優しいウェインの声だったのだ。
 しかし――声だけの通信の中に、表情を見たような気がした。彼が薄ら笑いを浮かべているように聞こえたのだ。
 彼はユイリェンと同じになってしまったのか? 戦いの度に自分を失い、誰かの声に呼び戻される。表現は、感じ方は違うかも知れない――でもそういうものに彼はなってしまったのだろうか?

『ユイリェン、一つ聞きたいんだ。ペンユウと命とどっちが大事?』
 一瞬、一秒にも満たないほど僅かな間、ユイリェンは沈黙した。彼はこう言っているのだ。愛機を捨てる覚悟をしろ、と。それを知った上で、少女の答えはたった一つだった。
「命よ」
『それなら策がある。俺に任せてくれるかい?』
 小さく少女は微笑んだ。一体いつの間に、相棒はこんな大口を叩くようになったのやら。初めてあったときは何もできない愚かな男だった。能力を持ちながら、それを使おうとしない男だったのだ。しかし今は――
「いいわ。私の命――あなたに預ける」
『OK! 出力最大だッ!』
 言われるままにペンユウは上昇を始める。そのバルーンにははち切れんばかりに大量のヘリウムが注入され、遊園地で子供が持っている玩具のようにも見えた。残り500m、この勢いで進めば100秒で海面に出られる。諸々の理由を考慮するとこれ以上の上昇速度は得られそうもない。どちらにせよ、魚雷のノイズが海中をかき乱している今、これ以上の速度で動くのは無謀というものである。
 同じ速度で横をついてくる潜水艇。ウェインの陽気な声を、通信機が吐き出した。
『奴らは多分、ノイズに紛れてこっちの頭上を塞いでるはずだ。そいつは俺が片づけるから、ユイリェンはそのまま浮上を続けて』
「真っ先に狙われるのは私よ」
『魚雷が来たら俺の指示通りに動いて』
「了解」

 ずずず。ざらざらの床を布が這い回るような音。潜水艇がタンクに詰め込んでいた海水を排出する。それによってタンク内の密度が下がり、潜水艇は浮力を得る。速度を上げ、蟹はふらふらと浮かび上がっていく。魚雷のノイズは減衰し、パッシヴソナーが反応しはじめる。同深度に敵機1。距離15m!
「的中」
 ウェインはがちゃがちゃとコンソールを操作した。消していたライトが暗い海の世界を照らし出す。細かな塵と気泡の向こうに見えるのは、二つの球をつなぎ合わせたような、不格好な潜水艇である。にやりと笑ってスクリューを起動する。重苦しい塩水を掻き分け、蟹型潜水艇はツイン・ボールに突撃した。
 これじゃあ。彼は心の中で呟いた。どっちがトライデントだかな。
 コックピットにずしんと重い衝撃が走った。まるでバスドラムを真横で叩かれたみたいだ。まさしく獲物を狙う蟹の如く――さしずめ、今晩のディナーは二匹のウニか?――ウェインの潜水艇がトライデントに組み付いた。向こうの焦りが海水を通して伝わってくる。一体どこの天才に、海の底で格闘戦を仕掛けられると予想できる?
 蟹の腕がトライデントの球面をがっしりとつかんだ。
「恨むなよッ!」
 どじゅっ!
 瞬間、トライデントの球体は内側に向かって圧縮される。まるで誰かに引き裂かれるかのように球面が捻れ、砕け散った。パイロットは自分の死すら自覚できなかったに違いない。深度500の水圧は、あまりにも過酷であまりにも平等だった。
 蟹のパイルバンカーが穿った微かな穴でさえも、水圧は見逃さなかったのだ。
『ウェイン! 敵魚雷発射音、数は……』

 ユイリェンはじっとりした目つきでモニターを睨み付けた。憎たらしい光の点どもに向かって人差し指を爪弾く。
「不明よ」
 数はあまりにも多すぎた。
『左腕を下へ向けて』
 彼の指示は明確だった。耳から入ってくる情報を受け、ユイリェンはコンピューターのように正確に腕を動かしていく。操縦桿をやさしく撫でる白い手が、紅い鬼を突き動かした。左腕をそっと、下へ。
『腕部リミッターを限定解放。初弾が距離75の位置にきたら、限界出力で――』
 無茶だ! 額に冷や汗を浮かべながらもユイリェンは両手を走らせた。コンソールの上を目にも留まらぬ速さで駆け抜ける指先。リミッター解放まで後2秒。指定の距離に初弾が来るまではあと5秒。理論上は可能だが、正気の沙汰ではない。ウェインがユイリェンを狙うアサッシンでないとすれば!
『シールド展開!』

ボジュッ!

 衝撃! ユイリェンはかすれた呻き声を吐き出した。鉄の棒で殴られたか? それとも腹の上でプラスチック爆弾でも炸裂したか? 上向きの急激な加速度を得、つまりは力を叩き付けられて、ペンユウの巨体は一気に浮上した。遥か下方を魚雷の群が過ぎ去る。あまりの速さに目標をロストしたのだ。
 いつまでも苦しがっていられない。ユイリェンの震える指が再びコンソールを走った。
『急いで左腕を……』
 言われるまでもない! 悪態を吐きたいのを、彼女は奥歯噛みしめて耐えた。
『パージ!』
 鈍い衝撃が――さっきのに比べればそよ風だ――脳震盪おこしかけの頭に響く。コアから切り離されたペンユウの左腕は、その傷口を見る間に広げて圧解していった。すぐさま関節の隔壁を展開したため、コアそのものに損傷はない。もしあればユイリェンも海の藻屑である。
 しかし、うまくいったから良かったものの。ユイリェンは外部モニターに映る蟹型潜水艇を睨み付けた。他人事だと思って、無茶な作戦立てて!
 シールドで精製された大量のプラズマは、放出された瞬間に海水を蒸発させる。生み出された莫大な量の水蒸気が巨大な泡となり、ペンユウの巨体を一瞬ながら持ち上げたのだ。無論、水蒸気爆発によって左腕は破壊され、ペンユウ自身も衝撃を受ける。さらに水蒸気は2秒もすれば機体の横をすりぬけてしまう。一度限りの、回避にしか使えない裏技である。
「馬鹿みたい……今日はもう二度目よ!」
『何が?』
「この台詞が」
 ようやく怒りも収まり、ユイリェンはジェネレーターの出力を上げた。バルーンをさらに膨らませ、上昇速度を上げる。海上まであと250。あと50秒で全てが終わる。生か。それとも死か。いずれにせよ、一分も経たないうちに決まる。
『こっちは三度目だ。魚雷発射音確認ッ』
 すぅっと目を細めて画面を睨む。相変わらずフォークダンスを踊っている赤い点と、魚雷を示す紫の点。一つの赤から四つの紫が射出されて、全部でいくつ? 4×4=16発。よくできました、簡単な算数です、というわけだ。こんなものを喰らったら消し炭一つ残りはしないだろう。
「私は怒ったわ」
 静かに呟きながら、彼女はコンソールに怒りをぶつけた。どうせ生き残ったところで、この機体は使い物になるまい。キーボードの一つや二つ叩きつぶしたところでかまいはしない。それよりも今は、この圧倒的ストレスを解消することの方が重要に思われた。
 ともかくユイリェンの命令はバルーンに注水することだった。一時的に浮き輪の浮力をうち消す。そしてペンユウはうつぶせの姿勢から仰向けにひっくり返った。バルーンの上に乗るような形にしてから、再び水を抜き、ヘリウムを注入する。
「私にしがみついて」
『一体何を思いついたんだい、お姫様』
 蟹が腕を伸ばし、紅鬼にぴったりと貼り付いた。潜水艇とAC……奇妙な取り合わせの二機は、いっしょくたになって上昇していく。その間にもペンユウの右腕や脚は細かな動きを繰り返していた。回転してうつぶせに戻らないように、ユイリェンが必死にバランスを取っているのである。
「思いついたのは私じゃない。あなたよ」
 魚雷接近。距離75。さっきと同じ距離。
 がくん! 二機をショックの槍が突き刺した。切り離されたバルーンが一瞬沈降する。切り離されたバルーンである! ペンユウはインサイド・ユニットのバルーンを強制排除したのだ。
 そして、次の瞬間。

[うっそォ!?]
 思わずエリィは素っ頓狂な声で叫んでいた。信じられるとかられないとか、そんな生やさしい話ではない。発狂の一歩手前であった。これまでAIとなるべく生まれてきたコンピューターの大半が発狂してしまったが、後少しでエリィもその仲間入りをするところだったのだ。
 それは目を見開いてモニターに見入っているケンジも、相変わらず髭をもさもささせているハーディも、多分一緒なのだろう。ほんの一瞬、まるで世界が凍り付いたかのように感じた。ひょっとしたら自分は文字通りフリーズしてしまったのかもしれないが。
「エリィ」
 ぽつりと、寂しそうにケンジは呟いた。寂しい? いや違う。こういう表情は呆けているというのだ。
「僕は幻覚を視ているのかもしれない……状況を報告してくれ」
[はあ。まあその、ペンユウは……]
 幻覚を視ているかもしれないのは、ここにいる全員だ。集団催眠というやつ。信じ込んでしまうとありもしないものが見えるのである。いや、この場合は誰一人として想像もしなかったのだが、そういうこともあるのだろうか? こいつは幾分奇妙である。
[過加速走行を発動しました]
 爺さんがもさっと髭を動かした。

 水中で過加速走行! ロデオさながらに揺れ動く機内で、ウェインは必死に歯を食いしばった。舌を噛んでしまいそうだ。蟹型潜水艇は真っ白な気泡の渦に包まれ、爆発的な速度で浮上していく。無論、宿主のようにくっついているペンユウも一緒に上昇――というか吹き飛ばされている。その背のブースターは既に鉄屑と化している。コア特有の三重装甲がなければコックピットまで圧解していただろう。
 確かに、さっきのシールドと原理は同じだ。ただし規模が遥かに大きい。過加速走行用に吹き出されたプラズマジェットは、周囲の水をことごとく煮立たせるのに充分すぎるほどだった。
 しかし、いくらなんでも! 喋ることなど無論不可能だが、心の中で叫ぶ。無茶にもほどがある。

 無茶は承知の上だ。きっと心の中で文句を垂れているであろう相棒に、ユイリェンは応えを返した。しかし本当の無茶はこれから始まる。過加速走行による急上昇は第一段階に過ぎないのである。
 仕掛けは下に置いてきた。ペンユウめがけて迫っていた魚雷群は、目標を見失って彷徨する。やがて丸っこい障害物――バルーン――にぶち当たり、信管が作動した。一つ。また一つ。無数の魚雷は次々と誘爆し、いまや水中に浮かぶ巨大な火の玉と化した。
 水を伝わる爆風が周囲に広がる。16発分のエネルギー。それは紅い巨人の背中を押し上げるのに十分なエネルギーである。
 ――信じられる? 笑っていた。ユイリェンはにっこりと微笑んでいた。
 深度はぐんぐん小さくなっていく。200。150。100。50。そして、ゼロ!
 ――潜水艇が空を飛ぶのよ!

 海面に塔が現れた。それは大きな大きな塔だった。青く白い水の柱でできていて、その中央には紅い輝きがあった。さながら水晶に包まれたルビー。しぶきを巻き上げ天へ昇る紅は、溶岩の間欠泉から飛び立つ不死鳥のようでもあった。
 ペンユウ!
「何をしている」
 ケンジに声をかけられて、エリィは初めて呆けている自分に気付いた。そうだ、ユイリェンは助かったのだ! 水圧と爆圧でボロボロになったペンユウ……でも彼女(彼?)は主を護り通したのだ。何一つ力を振るえない海の中で。
[ペンユウ・トゥー、及び作業用潜水艇、回収します!]
 安堵の表情を浮かべるエリィとケンジの後ろで、しわがれた老人はそっと部屋を発った。



[あーあーあー、こいつは重傷ですよぉ]
 紅い巨人――ペンユウの残骸は、海上基地のデッキに佇んでいた。もはや動き出すことはないであろうその足元に、二人の人間。いや、一人と一つ。少女とホログラフがちんまりと立ち尽くしている。
 そう、と小さく応えてユイリェンは顔を伏せた。わかっていたことだった。ペンユウはもはや再起不能だろう。コアからして損傷が激しく、残っているのはもはやユイリェンに合わせた戦闘データのみと言っても過言ではない。
[こりゃ本格的に修理しないと駄目ですね……というか換装ですか。いずれにせよ、一度研究所に戻ってください。一ヶ月やそこらはかかりますよ]
 戻る? あの場所に、一年前に捨てた古巣にか。結局自分は、あそこに帰るしかないのだろうか。あそこにしか居場所がないのだろうか。血と硝煙のみが糧となる。金と賞賛のみが命となる。何一つとして喜びのない、あの場所へ。
 漠然とした不安感を抱きながら、ユイリェンは帰りたくないと考えている自分に気付いた。かつては大好きだったはずの研究所。おばあちゃんとの思い出がたくさんつまった研究所。それなのに今は――十五年の過去より、たった一年の現在が愛おしい。ボロボロの隠れ家で、裏レイヴンとして生きた日々を――手放したくない。
「でも、ケンジが」
 口を吐いて出たのはただの言い訳だった。
[何を言っているんです。あの人、なんだかんだ言ってユイリェンを連れ戻したがってるんですよ。口に出すとやもめ男みたいだから言わないようですけど]
 そう。またしても彼女は気のない相づちを返しただけだった。

 ウェインはじっと海を見つめていた。デッキの端にじっと座り込む。延々と続く海。微かに湾曲している水平線。黒々とした夜のカーテン。そこに空いた無数の穴――星。
 ぐっ、と拳を握る。そして恐る恐る開く。見慣れた自分の手がそこにあった。非力な手だ。何一つできない手。握り拳で顔面をぶちのめそうが、器用な指で操縦桿を捻ろうが、それが何だというのだ? 大切な人一人護れない手に何の意味がある。今回はなんとか助け出せた。しかしそれは彼の力によるものではなく――三分の一ユイリェン自身の力であり、三分の一はハーディの力であり、もう三分の一はただの偶然だった。
 この世は強い人間で溢れているのだろうか。数え切れないほどの人間がいて、それぞれ大切なものを抱えて生きている。大切なものを護りきる人間――それは強い人間だ。恋人かもしれない。家族かもしれない。友人かもしれない。名誉かもしれない。企業かもしれないし民族かもしれないし宗教かも国家かも、ひょっとしたら金なのかもしれない。何にせよ強い人間は大切なものを護る。たとえ自分が滅びようとも、しがみついて護る。
 強く。
 ウェインはぽつりと呟いた。
「強くなりたい」
 今になって、封じ込めていたジレンマがずきずきと痛み始めていた。

「どこへいくつもりだ?」
 ひたり。
 老人の手が止まる。一艘の小型ボート――あんなもので海上基地まで来たのだろうか――は、血のように黒い夜の海にたゆたっていた。その上でエンジンを操作していた老人もまた。老人は振り返りもしなかった。ただ静かな波に合わせて、ゆらりゆらりと揺れているだけだった。
「帰るだけじゃよ……もうワシに用はあるまい」
「ああ。少し質問に答えてくれたらね」
 ケンジはじっと佇んでいた。海上基地の下層にある小型艇専用の港。作業もあらかた片づいた今では、もう出入りする船もない。照明はなく、非常口を示すグリーンランプのみがチカチカと輝く。動くものは何もない。ただ深く毒々しい宵闇のみが辺りを満たしていた。
「何故、助けた?
 何故、あの娘に与する?
 何故、いまさら現れた?」
 しばし沈黙が続いた。ハーディの髭がもさりと動く。その音は闇の中で密やかに反響した。
「未来ある若者には、生き延びてもらわんとな」
「未来がありすぎるのも考え物だ。あの娘が初めてACに乗った時、その戦闘能力はすでに晩年のタオ・リンファを超えていた。ワームウッドやアルクと同等。ラハードでも太刀打ちでなかっただろう。
 もちろん――」
 ハーディは操作盤に載せていた手をすっと下ろした。まるで追いつめられた犯人が観念したかのように。
「あんたでもな。宝条司」
 ぐっと固く拳を握る。ずっと昔に捨てた名前。堅物爺さんの本当の名前。宝条司。老人はもさもさと髭を震わせた。白ではない、銀色の髭。妊娠中に母が服用していた麻薬の副作用による色。
 司は――ハーディは唸るような声を喉から絞り出していた。
「いつ気付いた」
「初めからさ。ペンユウの整備ができるメカニックで、今うちに所属していないやつは――僕の知る限りあんたしかいない。
 それより質問に答えろよ。なぜ今になって姿を現した。あの娘に何を求めていた」
「何も」
 ぐっ、ぐっ。木が擦れ合うような軋みは、彼の笑い声だったのか。髭と髪に隠れて見えない表情は、きっと寂しげな老人の――様々な過去を孕んだ老人のそれであっただろう。鋭い眼光もない。毒のある舌もない。何も持たない、死を待つだけの老人。
「ワシはただ、見極めたかっただけじゃよ。タオの血を受け継ぐ娘がどんな者なのか。本当に『敵』と戦うことができるのか」
 老人はがちゃがちゃと操作盤をいじくった。重低音が闇に反響し、ボートの周りに波紋が生まれる。エンジンがぶぅんぶぅんとうなり声を立てる。この船は、老人を何処へ運ぼうというのか。もはや帰る場所を失った哀れな老人を。本当に還るべき場所には、まだ行くわけにいかない老人を。
「これからどうする」
 愚問だった。
「どこかで静かに暮らすよ。なに、退屈も長く続きはせんわ。婆さんのところへ行くのもそう先のことじゃない」
 ゆっくりと船は動き始めた。夜に包まれた海へと。深い暗い海へと。もはや二度と会うことはあるまい。この若社長にも、あの若造にも、紅い鬼にも――そして黒髪の少女にも。寂しさはなかった。寂しいなどという人間臭い感覚はとうに無くしていた。彼には無数の別れがあった。別れのみがあった。出会いはたった一つ。でも別れは無限にあったのだ。
「ワシらの時代は、もう終わったんじゃよ」



 錆び付いた蝶番が苦しそうに軋んだ。ドアに鍵はかかっていなかった。いつもは固く閉ざされ、少女のはかない聖域をかたくなに護っている扉だというのに。いずれにせよその夜、彼がノブを捻って腕を押し出すと、木製の扉は苦もなく開かれたのだった。
 少女は安らかに眠っていた。窓から差し込む青白い月明かり。それに照らされ、少女のベッドが浮き彫りになる。真っ白なシーツにくるまり、下着姿で寝ころがる少女。うなじと肩の描く柔らかな曲線。彼の脊椎を電流が駆け抜けた。それはオルガズムにも似た感覚。槍に突き刺されて彼はびくりとのけぞった。甘美な悪寒という槍に突き刺されて。
 言いたいことは山ほどあった。尋ねたいことも山ほどあった。一緒にいたかった。離れたくなかった。白い手を握り、柔らかな肌を指でなぞり、淡い薄桃色に口づけしたかった。栗と濡れ羽が混ざった色の長い髪を、わき水の如く掬い取ってみたかった。少女は拒まぬだろう。彼の指先を受け入れるだろう。しかし。
 それではいけないのだ。
 自由になりたい。少女はいつも呟いていた。自らを嘲るように、そう呟いていた。今の彼にはわかる。自由の意味。それは夢のようなもの。その中にあって誰も気付かず、その中にあって誰もが求めるもの。命とは、自由とは、愛とは、全て夢なのだ。
 彼は自由だ。はっきりとそれを悟った。こんなに素晴らしいことが他にあるだろうか。何処にでも行ける。何でもできる。羽ばたき一つで世界すらその手の内に収まる。誰にも止められない場所に、彼は行く。少女にすらも止められない場所に。
 いたたまれなくなって、彼は目を閉じた。これ以上、ここにはいられない。
 悲鳴をあげる蝶番を気にしながらドアを閉じる。少女の寝息ももはや耳には入らない。鮮やかな月光ももはや目には入らない。聖域に背を向け、うつむき、彼は自分自身に呟いた。自分自身の中にいる少女の幻影に向かって。
 俺、強くなるよ。大切な人を――ユイリェンを――護れるくらい、強くなる。そしたら必ず還ってくる。だから――だから、今は――
 彼は大股に部屋を横切った。数々の思い出が宿る部屋。だらしない格好の少女から目をそらし、緊張しながら朝食をつつく。読書に耽る少女に声をかけ、邪魔をするなと冷たくあしらわれる。大喧嘩をした日もあった。それらが全て過去になる。後一歩を踏み出して、目の前のドアを開けた瞬間に、ここは彼の家ではなくなるのである。
 涙などなかった。悲しさもなかった。妙に淡々と、彼はドアを開いた。
 そこには広い夜空が広がっていた。何処までも続く闇。瞬く星々が彼を貫く。いつかこの星を二人並んで見たい――そんなことを考えたこともあったっけ。そう、いつか。いつかまた星を見よう。自分がそれに相応しい男となったとき。彼女と二人、無限に広がる星々を見つめよう。
 拳を固く握る。彼の瞳には決意が満ちている。小さな水晶の宝珠に、ただただ決意だけが満ちている。どこまでも純粋で確かな想い。それを確かめるための言葉は、一つだけでこと足りる。彼は口をそぅっと開き、優しい声でこう言った。
「さよなら」

 少女はシーツのなかでうずくまっていた。いつかこんな日が来ることはわかっていた。わかっていたのに。
 シーツを引き上げ、少女は頭まで布に包まれた。外を見たくもなかった。音を聞きたくもなかった。涙も出ない自分に腹が立って、悲しんでいる自分に苛立って、何より彼が――彼が――
 ぐっと唇を噛むと、少女は小さくこう言った。
「馬鹿」


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