ARMORED CORE 2 EXCESS

 暗く、細く、果てない闇の深淵へと向かってどこまでもどこまでも続く、長い長い道。煌びやかな都市の真下、岩盤をくり抜いて造られた直線磁気レールの上を、巨大な蛇を思わせる鋼鉄の塊が駆け抜けていく。ふぁんふぁんと甲高い笛のような音色が縦横無尽に響き渡った。空力を最大限まで考慮して製造された蛇がたてる微かな騒音でさえ、狭い地下空間の中ではこれほどまでに壮大な音楽を奏で始める。
 ハイライン・シティ、第三環状地下鉄。この一周約40kmの環状線は、いくつもの副都心と住宅密集地とを結び、駅の配置が的確なこともあって、中・下層階級市民の手軽な足として親しまれていた。
 列車の内部はそれなりに混みあっていた。座席は全て埋まり、一車両に立っている人間が5、6人。通勤・通学のラッシュからずれているせいもあって、乗客の大半は買い物帰りの家族連れやデートに向かう若者たちが占めている。
 時折弾かれたように大声をあげる男の子。それをたしなめる母親。一度は大人しくシートに座る――床に足がついていないから「乗っている」と言った方が正しいかもしれないが――ものの、何を思ったか意味もなく両手をばたつかせ、シートをばんばんと叩き始める。
 膝の上にそびえ立つ紙袋の隙間から、ユイリェンはその様子をちらちら盗み見ていた。こそこそする必要などどこにもなかっただろうが、正面から見つめるのがなんとなくはばかられて、彼女はずっとこうしている。
「かわいいよなぁ、子供って」
 突然横であがった声に驚いて、ユイリェンは慌てて正面に向き直った。紙袋の中から新しいデニムの奇妙な香りが漂ってくる。前の事件でお気に入りのジャケットを廃棄せざるを得なくなったので、こうして新しいものを買ってきたのである。
 ちなみに今日のユイリェンはノースリーブの白いシャツに赤いネクタイ、そして濃紺のソフトジーンズという軽装である。季節はずれの熱波が北アメリカ大陸西岸地方を襲ったせいで、このところハイライン・シティは一時的に初夏のような熱気に覆われていたのだった。
「そうかしら」
 努めて平静を装って、ユイリェンは応えた。
「嫌いなの?」
「無知で、愚かで、騒がしいもの」
「そりゃまあ、確かに」
 彼女の隣の席で、ウェインはひょいと肩をすくめてみせた。とはいえ何も呆れているわけではない。子供がバカでうるさいのはどうしようもない事実だし、彼自身機嫌が悪いとつい子供を疎んでしまったりする。彼が肩をすくめたのはそうした理由からではなくて、ユイリェンならこう言うだろうなという予想がものの見事に的中したからである。
 そうこうしているうちに列車の速度が落ちていき、やがて駅に停車した。人口の多い副都心の駅だけあって、乗客の乗り降りも激しい。ただ入ってきた人数と同じくらい出ていくので、全体の混み具合は平衡状態を保っているようだった。
 そのとき、乗車してきた四人組がユイリェン達の前を通り過ぎた。一風変わった目立つ連中である。身長2mはゆうに越えているであろうはげ上がった大男と、歩き方がぎこちない人相が悪い男、小柄で服の肩口から先がだらりと下がった――おそらく両腕が失われているのであろう――男。そして最後の一人。
 女だった。身長はユイリェンより一回り大きく、女性の中では平均といったところだろう。クリーム色のふんわりとしたワンピース――スカートの裾に赤い刺繍が二本入っている――に身を包み、ブラウンのストールで肩を覆っている。腰まである明るい栗色の髪はアップでまとめ、さらさらと首筋や肩を覆い隠すようにたゆたっている。何気ない普通の女だった。
 ただ一つ普通でなかったのは、似合わないサングラスで目を隠していることだけ。
 ユイリェンの目はその女に釘付けになった。何故かはわからない。ただなんとなく惹き付けられるものを感じていた。その女が全身から異様な気配を放っているのをユイリェンは敏感に感じ取っていた。
 ふと、女がユイリェンの方に顔を向けた。
 ユイリェンの冷たい澄んだ視線と、女のサングラスに隠れた視線が交わった。ほんの一瞬。瞬きひとつすれば過ぎ去ってしまうほど短いひととき。だがその一瞬が、ユイリェンには無限に長い時のように感じられた。自分の何かと、その女の何かが触れ合うような気がした。
 やがて女はまた正面に向き直り、取り巻きとともに別の車両へと消えていった。
 ぷしゅっと音がして列車のドアが閉まる。緩やかに体を押す加速。地下鉄は駅を出発して、再び闇の通路へと入り込んでいく。
「……今の人」
「え?」
 小さな小さなユイリェンの独り言にも反応して、ウェインが声をあげる。しかしそれに応えるつもりは彼女にはなかった。それ以前に彼の声が耳に入ってさえいなかったのだ。ただ一つのことが無性に気になって、頭の中を一杯にしてしまっていたのである。
 ――どこかで会ったような気がする。
 
 先頭車両には、他よりも多くの人間が集まっていた。それというのも、ここにいる一人の男のせいである。
 お世辞にもセンスがいいとは言えないライトグレーのスーツを着込んだ短髪の中年男、名前はウィリアム・ディケンズ。地球政府の最高意志決定機関『ガバメント』のメンバーである。普段なら地下鉄を利用する理由など全くない男ではあるが、今日は好感度稼ぎを兼ねての『視察』の最中なのだ。
 表向き、『ガバメント』のメンバーは地球住民による直接投票によって選出される。だからこうした地道な選挙活動も必要になるわけだが、それがただのフェイクであることを知る者は少ない。選挙で選ばれるメンバーはただの仮面。真に重大な決定を下すのは、その裏に隠れた者達なのである。
 しかしウィリアムが重要人物であることに変わりはない。細かな――それでも地球はおろか火星にまで影響を及ぼすのだが――政治に関しては彼ら表の『ガバメント』にまかされているのである。
 車内にいるのは彼と、二人の黒服SP、数社の報道陣、物珍しそうな視線を送る野次馬、そして乗客の中に紛れ込んだ私服SPが十数名である。ウィリアムは報道陣がマイクを向けるたび、なにかしらあたりさわりのないコメントを返したり、時折ジョークを飛ばして笑いを取ったりを繰り返していた。
 と。しゅんと音がして、別の車両に続くドアが開く。
 そして――
 
 はっと、ユイリェンは顔を上げた。列車の前のほう――さっきの一団が消えていった方向に顔を向け、目を丸くしてじっと見つめる。
「なに、どしたの?」
 横ではウェインが、相変わらずの口調で問いかけている。どうやら彼には聞こえなかったらしい。そしてパニックを起こさないところを見ると、他の乗客たちにも。しかしユイリェンの耳は確かにその音を捉えていた。
 ――銃声。
 
 誰かの悲鳴が車内を満たした。
 狭い空間を満たす硝煙。ばたばたと倒れた十数人の男たち。じわりと広がる赤い染み。突然の出来事に腰を抜かす報道陣。あんぐりと口を開け、ただシートに座って凍り付いているウィリアム。
 突然の銃撃は、無数の乗客の中から彼のSPたちだけを正確に撃ち抜いていた。
 撃ったのは三人の男たち。はげ上がった大男、人相の悪い中肉中背、服の袖をだらりとたらした小男。彼らの手の内――小男だけは何も持っていないようだったが――には、ブルパップ式のアサルトカービンが握られている。ケースレス弾を使用する、どこにでもある普通のライフルである。
 かつっ。
 靴音が響いた。男達の後ろの闇から、一人の女が姿を現した。
 奇妙な女だった。服装から清楚なイメージが伝わってくるし顔立ちも整っているのだが、目を覆い隠すサングラスがそれを台無しにしているようだった。しかしそれよりも奇妙だったのは、その女が放つ異様な気配だった。周囲を圧倒し、血に怯えた民衆の悲鳴すらも押さえ込んでしまうほどの、巨大な何か――カリスマとでも言うべき気配を、その女は体中から匂い立たせていた。
「ウィリアム・ディケンズ」
 女は澄まし声でそう言った。
「貴方の身柄を拘束します」

HOP 5 Subway Emperor

地下鉄の

「ん?」
 計器の異変に気付き、駅員は不信の声をあげた。ほとんどの管理が自動化された今日、駅員の仕事といえばこうした計器の監視くらいのもので、相当大きな駅でも駅員が片手で数えられる程度しかいないということも希ではない。ましてそれほど大きくもないここレステアブリッジ東駅では、駅に常駐しているのは彼ら二人だけである。
「どうした?」
 その相方が異変を察知して声をかける。
「13便の速度が下がってない。おいおい、止まらないつもりかよ」
「計器の故障じゃないのか」
「だといいが」
 ぼやきながら駅員はキーを叩く。画面に表示されるいくつかの文字。ソフトが走り、システムの異常を探していく。その間にも列車は速度を落とさず駅に迫ってくる――計器はそう言っている。
 やがて結果が画面に表示された。計測システムに異常確認されず。
「センサーは問題なさそうだ。やばいぜ、まさか本当に――」
 そのとき。
 ゴウッ!!
 爆音と振動が駅員室を揺るがした。まるで至近距離で爆発が起こったのではないかというほどの衝撃。駅員の一人は耐えきれずに床に転がり、もう一人はかろうじて壁に手を突き揺れに耐える。
 ほんの数秒で周囲は何事もなかったかのように静まりかえった。一体なんだというのだ。まさか本当に爆発でも起こったというのか。倒れなかった方の駅員が慌てて部屋のドアを開け、プラットホームへと歩みでる。
 そこで彼は絶句した。延々と伸びるコンクリートの床に転がるもの、それは――
 時速800kmで通過していった列車の起こす風圧に吹き飛ばされ、小さなうめき声をあげる人々の姿だった。
 
「きひっ! たまんないねぇ〜!」
 陶酔した声で小男は呟いた。例の袖をだらりとぶら下げていた男である。彼は今、長い袖を肩口までまくりあげ、列車の制御機関をかたかたと操作していた。
 彼は腕がないわけではなかった。まくりあげた袖の下に隠されていたのは――極端に短い腕だった。肩から数cmほど、申し訳程度の肉の棒が突き出ており、その先には何の異常もないごく普通の手のひらがちょこんとくっついているのだった。遺伝子異常によって引き起こされた奇形だった。
 腕が短いせいで端から端まで指が届かず、彼はキーボードを叩くために大きく体を揺らす必要があった。キーボードの左半分を左手で打ち、右端の方にある文字が必要になったらぐっと腰を曲げて右手をキーボードに乗せる。左の方の文字が必要ならまた元に戻す。その繰り返しである。しかしそんな悪条件にもかかわらず彼のタイピング・スピードは恐ろしく速かった。無機質なタイプ音と左右に揺れる上半身が不思議と調和し、傍目にはまるでアップテンポの音楽に合わせたダンスのようにすら見える。
「思いっきりとばしなよぉ、おぼっちゃん。普段は3割も出させてもらえないんだからねぇ……きひっ!」
 当たり前である。2kmに一つ駅があるような地下鉄で、最高速の800kmまで加速できるはずがない。そんなことをすれば停車の度に乗客にとてつもない加速度がかかる上、風圧による騒音も半端なものではなくなる。無論、乗客のことなど気にしなければそのくらい出せる構造にはなっていたが。
「ヒナセ」
 小男の名を呼んだのは、あの女の澄まし声だった。列車の一番前にある制御室の入口で、彼女はヒナセのいる場所とは少し違う所をじっと見つめていた。彼女の後ろ、ドアの向こうにははげ上がった大男が立っているのだが、その首から上はドアの上に隠れてしまって全く見えなかった。
「もう終わりましたか?」
「ああもうぜぇんぶ終わったよぅ。おぼっちゃんはこのままずっと、環状線を最高速でぐるぐるさぁ」
 女は満足げに頷いた。ヒナセは優秀な――視点を変えれば悪質な――ハッカーであり、一団の情報処理担当である。内部に侵入さえできれば、地下鉄の制御システムを乗っ取って車両を思いのままに動かすなど容易いことだった。
「では、わたし達は後ろを見てきます。人質の監視をお願いします」
「あいよー」
 言われてヒナセは、制御室の端に転がっている男に目を遣った。手足をワイヤーで縛られたウィリアム・ディケンズその人である。怯える彼の目を見つめ、ヒナセはにぃっと不気味な笑みを浮かべた。もし何か抵抗しようものなら、脇の下に隠し持った低速磁気ニードラーで手足を撃ち抜く算段である。
 その光景を背に、女と大男は制御室を後にした。
 
「よく聞きな、クソども。この列車は俺達が占拠した」
 ユイリェンとウェインは、思わず目を合わせて同時に肩をすくめた。目の前でアサルトカービンをぶらさげ、偉そうに演説している中肉中背の男――あの4人組の中で、一人歩き方がぎこちなかった奴である。そいつのあんまりにもありきたりでオリジナリティのない台詞回しに、二人は心底呆れ返っていた。
「いいか、おかしな真似するんじゃねぇぞ。ぴくりとでも動いたら撃ち抜くからなァ」
「下品」
 思わず本音がユイリェンの口を滑り出た。
 言わなければ良かったと後悔するが、時既に遅しである。男の耳がぴくりと動き、顔にあからさまな不快の表情を浮かべながらユイリェンを見下ろした。これもまた予想通りの反応である。
「なんだ、手前は?」
 まるで家出した不良少年のような口調で脅しながら、男はすぅっとユイリェンに顔を近づけた。次の瞬間、そいつの表情が一変する。怒りの形相から、卑猥な笑みへと。思わず目をそらしたくなるような、どうしようもなく目障りな顔である。一般人なら恐れもしようが、ユイリェンにとってはそんなもの、間抜けな道化師の面にも等しい。
「ほーお。きれいな顔してるじゃねぇか……」
 言いながら男は左手を動かした。その指先がゆっくりとユイリェンの胸元へと伸び――
 ぼぐっ!
 次の瞬間、鈍い音とともに男は真横に吹き飛ばされていた。アサルトカービンが男の手を放れてユイリェンの足元へと転がり、周りの乗客たちが口々にざわめき立てる。勘の鈍い男である。すぐ隣でもくもくと膨れあがっていたこの怒気に、全く気付いていなかったのだから。
 ユイリェンの目の前には、ぱんぱんと手を叩いて埃を落とすウェインの姿があった。
「汚ぇ手でユイリェンに触ってんじゃねぇよ、おっさん」
 正確には触れる前に殴り飛ばされていたのだが、そんなことウェインは全く気にも留めていないようだった。手首を振り、首を大きく回して、すでに準備運動を始めている。その目はいつになく鋭く、その視線は床でぴくぴくとのたうち回る男の姿を貫いていた。
「ねえユイリェン、あいつ殴ってもいいよね?」
 ユイリェンはいつものように肩をすくめた。
「好きにして」
「OK」
 ふっと小さく微笑むと、ウェインは腰を低く落として格闘技の構えをとった。安定していて、なおかついつでも素早く動き出すことができるような姿勢。瞬間、彼の目が変わる。雷光のように明らかな輝き。まるで彼の目の中に、研ぎ澄まされた剣の切っ先が埋め込まれているかのようだった。
「んじゃ好きにさせてもらうぜ!」
 
 
[かなりまずいです]
 ケンジは目を丸くした。
「……なんだい、唐突に」
[ちょっとびっくりするくらい最悪です、状況]
 何の前触れもなく突然エリィが現れたのは、ケンジが自分のオフィスルームで事務処理をこなしているときのことだった。今時珍しくなった木製のデスクに、流線型のデザインが施されたパソコン、そして山と積まれた書類の束。このところ女遊びが過ぎて溜まっていたツケが、今更になって回ってきたのである。
 不信半分、安堵半分でケンジは手に持っていた書類をデスクに戻した。隣で見張り役をしていた秘書のレイチェルが、眼鏡の向こうですぅっと目を細める。何の恨みがあるのか知らないが、レイチェルはトイレと食事以外の休憩を一秒たりとも許してくれないのだった。最近外の女ばかりに手を出して、彼女にかまってやらなかったのが悪かったのだろうか。ケンジは内心反省していた。
 しかし今日のエリィのいでたちは、いつにもまして突拍子もなかった。白地に黄色い花の柄が――菊の花なのだがケンジは知らない――ついた振り袖に、頭は日本髪風のアップでまとめている。AIのエリィに既婚も未婚もないが、彼女はまだ独身生活を謳歌しているつもりのようだった。
「最悪って、何が」
[つい先ほど、第三環状地下鉄の第13便がハイジャックされました]
「ほお」
 また思い切ったことをしたものである。路線の上しか走ることができない列車を乗っ取るなど愚の骨頂だが、環状線ならば要求が呑まれるまで延々走り続けることができる。乗客を人質にとれば、その後逃げ出すことも――極めて困難ではあるが――不可能ではないだろう。
 とはいえ、確かに興味深くはあるが、世間一般にとっては重大な事件であってもケンジにとっては対岸の火事である。それで会社に大きな損得が生まれるわけでもなし、女を口説くネタになるわけでもなし、面倒な仕事から解放されるわけでもなし。なんら関係ないと言ってしまえばそれまでである。
[テログループ『道程』から犯行声明がありました。その文面にこうあります。
 我々はガバメントメンバー、ウィリアム・ディケンズの身柄を拘束した。この男の所業極悪非道にて赦され難く、定刻までに正義のための資金援助が得られない場合はこれを誅殺する]
 ケンジが目を細め、逆にレイチェルが目を見開く。エリィの言うとおり、これは看過できない事態のようだった。
 ウィリアム・ディケンズは、表ガバメントのメンバーの中でも特にコバヤシコーポレーションとの繋がりが厚い男である。名門フェニックス基督教大学の経済学部の出身だが、何故か同大学の工学会にも名を連ねており、科学技術に対する造詣が深い。科学省においては圧倒的な発言権を持ち、大きな声では言えないがコバヤシコーポレーションとは何度も裏取引をしている。社にとって決して失うわけにはいかないコネなのである。
「良くないな。部隊を派遣するか」
[すでにゼナートフォースが動いてます]
 げ。ケンジの顔が引きつった。ゼナートフォースとは、コバヤシコーポレーションの上位組織である『元老院』直属の特殊機動部隊である。彼らの仕事ぶりはまさに完璧――救出作戦ならまるで霞のように忍び込み要人を確保するし、破壊作戦なら消し炭一つ残すことはない。
 ゼナートフォースが動いたということは半ばウィリアムの身柄は確保したも同然だが、問題はその後である。きっと今度の審問では、この件について対応の遅さを責め立てられることだろう。言い訳を考えるだけでも胃がきりきりと痛みそうだった。
 諦め混じりの溜息を吐くと、ケンジは椅子の背もたれに体を投げ出した。
「じゃあいいじゃないか。もう僕にできることはないよ」
[いえ、それがですねぇ]
 珍しくエリィは言葉を濁らせた。
[ユイリェンも乗ってるんです。その列車]
 今度こそ、ケンジは完全に凍り付いた。
 
 
 ごっ!
 ウェインの右の拳が男の頬を捉えた。醜い顔を余計に歪ませながら男がのけぞる。その隙にウェインは左の拳を胸板に、そして流れるような動きで首筋に回し蹴りを叩き込んだ。呻きながら男が床に倒れ込む。
 周囲の乗客たちからわっと歓声がわきあがった。いいぞ、もっとやれ。そんな声があちらこちらからウェインに投げかけられる。テロリストの占拠によって抑圧された人々の心が、にわかに現れた『救世主』によって沸き立っているのだった。
 こう騒がれると、ウェインとしても悪い気はしない。まるでスターにでもなった気分である。愛想良く手を振り、笑顔で応える。
「は〜い、どもども。サインは後でね」
 瞬間、視界の外で弾ける殺気。呑気にも観客に手を振っていたウェインは、気配だけを頼りに後ろへ飛びすさった。耳元をかすめる風の音。男の拳のようだが、狙いも速度もてんでなっていない。ただ力任せに振り回しているだけである。
 いつの間にか立ち上がっていた男の方に、ウェインは再び向き直った。腰を落として例の隙のない構えをとる。余裕の笑みさえ浮かべ、彼の表情はまるでゲームを楽しむ子供のようだった。
「この野郎……!」
 ふしゅう、ふしゅう、と男は息を吐き出した。怒気を孕んだ声色、ウェインというただ一点しか見ていない瞳、固くこわばった筋肉。あれではだめだ、とウェインは心の中でアドバイスした。心を落ち着け、周囲をよく観察して、体を柔軟に保たなければいけない。彼が教えを請うた師の受け売りである。
「ぶっ殺してやる!」
「あらあら、ムキになっちゃってまぁ」
 頭に向かって繰り出された男の右腕をかがんでかわし、逆に起きあがりながらのアッパーを顎に叩きつける。手加減はしておいた。案の定男は一瞬ふらついただけですぐに体勢を立て直す。そう、そうでなくては。よりにもよってユイリェンに手を出そうとするなんて、馬鹿としかいいようがない。もう少し痛い目を見せてやらないと、一撃で気絶させたのでは面白みに欠ける。
 奇天烈な形相のまま、男は左の拳を突き出した。単調な攻撃である。ウェインは横に身をひねるだけでこれを避け、一気に男の懐まで入り込む。
 そのときウェインの左側から風のうなりが迫ってきた。男の右の拳である。なるほど、とウェインは少しだけ感心した。左はフェイント、右腕を本命に据えた2連撃ということか。しかし――
「ダセェよ、あんた!」
 叫びながら、ウェインは男の右腕をつかみ取った。そして次の瞬間、
 どすっ!
 男は背中から、床に倒れ込んでいた。周りの観衆にも、そして技をかけられた当人にも、一体何が起こったのかはわからなかっただろう。ウェイン自身はほとんど力など加えていない。ただ、男の拳の力の向きをほんの少しずらしてやっただけである。ただそれだけで男はバランスを崩し、床に叩き付けられたのだった。
「えいっ」
 コミカルなかけ声と一緒に、ウェインは男のみぞおちを軽く踏みつけた。げふっという汚いうめき声が車内に響く。最後の一撃は完全なおまけである。相手に屈辱感を味わわせる以上の意味はない。
 わあっと今まで以上の歓声が辺りを包み込んだ。総立ちになった観客たちに向かって、にこやかに手を振るウェイン。狭いせいで派手な足技が使えなかったとはいえ、この様子だと見栄えはなかなかのものだったようである。
 きっとユイリェンも、俺の勇姿に惚れ込んだに違いない。アドレナリンが分泌された脳で勝手なことを考えながら、ウェインは彼女の方に――
 瞬間、歓声を悲鳴が引き裂いた。
 弾かれたようにウェインは振り返る。そこには、手に拳銃を構えたあの男の姿。
 がきゅん!
 車内に木霊する銃声。ウェインが目を見開く。観客がしんと静まりかえる。硝煙の臭いがあたりに充満する。
 男の拳銃は、銃弾を発する前に手の内からはじき飛ばされていた。どこからか飛来した別の銃弾によって。
「随分無粋ね」
 澄ました綺麗な女の声が耳に届く。聞き慣れたその声に、ウェインはほっと胸を撫で下ろした。振り返って声の主に目を遣る。そこには髪を掻き上げながら逆の手で拳銃を弄ぶ、ユイリェンの姿があった。
「格闘技に銃を持ち込むなんて」
 おおっ。まるで計ったかのように、無数の感嘆の声が和音を作った。そして巻き起こる歓声と拍手。予想以上に大きい周囲の反響に、ユイリェンは面食らって目を見開いた。人々の眼差しが彼女一点に集まっている。彼女にとって、こんな大勢に注目されるのは初めての経験である。
「サンキュー、ユイリェン」
「気を抜かないで」
 ユイリェンは面はゆそうに顔を背けた。その姿が妙にかわいらしくて、ウェインの心中にどくん、とパルスが走る。大勢に注視されるのが苦手、か。ウェインは苦笑しながら敵の方に向き直った。意外な弱点だな。
「さて、どうするよ」
 男はずっと床に座り込んだままだった。驚きの表情で口をぱくぱくさせながら、ただ呆然とどこか虚空を見つめている。もう戦う気はない――いや、それ以前に質問に答える気力すら残っていないようだった。
 その時、ウェインはふと男の足元に目を遣った。格闘しているうちに引っかけたのか、男のズボンの裾が少し破れている。そしてその向こうに見えるのは――真っ黒い肌。黒? ウェインは眉をひそめた。顔や手は黄土色、明らかにアジア系である。それほど日焼けしているわけでもない。そらならこの黒い脚は一体。
 やがてウェインは、一つの答えに行き当たった。
 ――駆動義足か。
 昔はどうだか知らないが、最近では義足を付ける者は決して珍しくない。事故で脚を失った者や生まれつき持っていなかった者は言うまでもなく、40代や50代の中には戦争で四肢を無くした帰還兵が少なくないのである。そんな人々にとって、神経接続によって生身の脚とほぼ変わらない動きができる駆動義肢は待ち望んだ品であった。それどころか普通では考えられないような力を出すこともできるため、自ら脚を切り落として義足に付け替える者までいる始末である。
 ただ皮肉だったのは、戦争で傷ついた者が戦争で発達した技術の恩恵を誰よりも受けているということだった。義足の駆動系はMT技術の応用だし、神経接続も戦時中の情報戦において開発されたものなのである。
 ふぅと小さく溜息を吐くと、ウェインは男の胸ぐらをひっつかんでつるし上げた。男は抵抗すらしなかった。ただ力を抜いてぼうっと虚ろな視線と漂わせていた。ウェインはその姿に無性に腹が立った。甘えるなよ。列車ハイジャックしておいて、哀れんで見逃してもらえると思ったら大間違いだ。
「どうしてほしい? 言ってみろよ、おっさん」
「その手を放してもらいましょうか」
 澄んだ声は、後ろから聞こえた。
 
 
 閉鎖された駅の静寂を、無数の靴音がかき乱した。奇妙な靴音だった。おそらく十数人が走っているのだろうが、その足音は一分の狂いもなく見事に同じテンポを刻み続けていた。何もかもが完全に画一化された軍隊の靴音。
 やがてプラットホームに現れた人影は、およそ軍隊と呼ぶには相応しくないいでたちをしていた。漆黒。頭の天辺からつま先まで、何もかも黒で統一されていて、目の部分すらも真っ黒なゴーグルで覆われているのだった。そんな者が十数人。完璧なリズムで靴音を刻む。
 黒い兵隊はみな、何かこれまた黒い箱のような物をかかえていた。兵隊たちはプラットホームに入ってきた順に、それぞれ箱を操作しはじめる。留め具をはずし、箱の中にたたまれていた平べったい板のようなものを外に出し、細いコの字型のパイプのを取り付ける。
 やがて黒い箱は、黒い鳥となった。人の胴と同じくらいの大きさの箱の横に平たい板――翼がつき、上部にはパイプでできた取っ手がついている。
 やがて全ての兵隊が鳥の組み立てを終えると、またしても駅は静寂に満たされた。時が満ち暴走する蛇が現れるまでの、つかの間の静寂だった。
 
 
 思わずウェインは言われたとおりに手を放す。男はどさっと音を立て、床に崩れ落ちた。そのまま怯えた目でぶるぶると震えている。腰を抜かしたようだった。
 聞こえてきたのは女の声だった。澄み切って、冷ややかで、綺麗な声。なんとなくユイリェンの声に雰囲気は似ていたが、決定的に違う部分があった。それは声の色だった。ユイリェンの声は様々な色が無数に混ざり合って結果的に澄んでいるように見えるのだ。しかしこれは違う。何もない、本当に透明でどこまでも見渡せる無色の声なのである。
 ウェインは振り返った。
「げっ!?」
 目の前には大男の姿があった。はげ上がり、いくつも傷がある頭。ウェインよりも頭一つ高い身長。ユイリェンの腰ほどもある上腕。そして、般若のごとき怒りの表情。まさかこいつがさっきの声を出したのか? ウェインは信じられないという思いで大男の顔を見上げた。声は見かけによらないものだ。
 すっと、大男が一歩前に踏み出した。弾かれるようにウェインが身構える。しかし大男は彼の横を素通りすると、その後ろに転がっている義足の男の首をひっつかんだ。そのまま片腕だけで、いとも簡単そうに義足の男を持ち上げる。
 ひゅう、とウェインは口笛を吹いた。見かけに違わず大した力だ。
「言ったはずですね、水島。女性への侮辱は許さないと」
 例の澄んだ声は、大男とは別の方から聞こえてきた。ウェインは再び振り返る。前の車両に続くドア、さっきは大男の陰に隠れて見えなかった位置に女が立っていた。栗色の長い髪にブラウンのストール、クリーム色のワンピース。華美に飾り立てない清楚な服装からはまるで聖職者のような雰囲気が伝わってくる。ただ、どうしても目を覆い隠すサングラスが浮いてしまっていた。
 なるほど、さっきの大男にあんな声だせるわけないか。ウェインは一人納得して肩をすくめた。しかし女性への侮辱云々と言っていたからには、あの義足の男――水島と呼ばれていたか――がユイリェンにちょっかいを出すところを見ていたということらしい。
 ぎちっ。ウェインの背後で嫌な音がした。そして苦しそうなうめき。大男が手に力を込め、水島の首を締め上げているのだった。
「ひ……し、閑ぁ……もう……二度とやらねぇよぅ……だから……」
 ぎちっ。悲鳴が一層大きくなる。女は無表情でその様子を眺めていた。じっと、ただただ真っ直ぐな視線を送っていた。楽しむでもなく、哀れむでもなく、怒るでもなく、ただ純粋に罰するという行為――ウェインは背筋を冷たいものが走っていくのを感じた。なんて冷たい目だ。
「ユガ」
 女が名を呼ぶと、ユガという名の大男はぬうっとうなりながら水島を床に放り捨てた。そのままウェインの横を再び通り抜け、女の後ろに陣取る。その姿はさながら君主に仕える騎士のようであった。随分と体格の良い騎士ではあったが。
 女はウェインの顔をじっと見据えた。しかしその瞳は――サングラスに隠されて見えないが、伝わってくる空気は――どこか虚ろで、まるで何も見ていないかのようだった。もしかして。ウェインの頭に一つの可能性が浮かんだ。盲目なのか。
「貴方は、勇敢な男性ですね」
「そりゃどうも」
「ですが今は、大人しく座っていてください」
 がちゃっ。小さな音に、ウェインが――そして車内の誰もが――目を見張った。女が脇に構えた一丁の軽機関銃。その銃口が向く先は、彼女の仲間を叩きのめした勇気ある男ではなく、手近な一人の子供だった。
 ひっ。子供とその母親が引きつった悲鳴をあげる。
 ウェインは肩を落とすと、大きな溜息を吐いた。どうやらこれ以上暴れるわけにはいかないようだった。
「……わかったよ。静かにしてるから、その物騒なのをしまってくれ」
 とぼとぼと足を引きずるように歩くと、ウェインは元の席――ユイリェンの隣――に静かに腰を下ろした。なんだか情けない。彼は肩を縮こまらせ、しゅんとうなだれて、飼い主に叱られた犬のように小さくしぼんでいった。そして誰にも聞こえないような小声で、隣のユイリェンに囁いた。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「ん……なんとなく」
 ユイリェンは肩をすくめた。
 やがて女はきびすを返し、入ってきたドアに向かって歩き出した。ユガも、そしてようやく立ち上がった水島もその後ろに続く。水島が通り抜けざま二人に憎々しげな視線を送る。しかしウェインはそしらぬふりで耳の後ろを掻くばかりだった。
「あなた」
 ユイリェンが唐突に口を開いた。ぴたりと女の足が止まる。
 感じたのだ。女もまた。ここに座っている少女に、何か不思議な感触を。一度も会ったことがない、お互いに名前も顔も知らないはずなのに、どうしてか遥か遠い昔から知っているような気がする。何か目に見えない力強いもので結ばれているような気がする。そんな不思議な感触だった。
「死ぬわ」
 少女の言葉はあまりにも率直で、残酷だった。
「自由のために死ぬのであれば、惜しくはありません」
 
 
 ケンジは思いっきり背伸びをした。
「おわったぁ〜」
「お疲れさまです」
 彼が机の上の書類を片づけ終わったころには、すでに夕日は沈みかけていた。朝出勤し、たっぷり仕事をして、日が暮れる。そんなあたりまえのサイクルさえも、ケンジにとっては苦痛に満ちた責め苦だった。昼になってからの重役出勤、ほんとうに重要な会議だけ出席し、日が暮れれば女の待つ街へと繰り出していく。それが彼の日常である。
 大学の時に身につけたサボタージュのテクニックだ。その鮮やかな手並みは、彼のちょっとした自慢でもあった。
「お茶をお煎れしますわ」
「ああ」
 本当によく気の利く秘書だ。怖いくらいに。
 そのとき、部屋のドアがぎぃっと軋みながら開かれた。ケンジは眉をひそめた。一体だれだ、ノックもせずに入ってくる不届き者は。
「ニイハオ、ケンジ!」
「コーウェン」
 不届き者は中年の男だった。歳はおそらく40代から50代、白髪が混ざり始めたブラウンの短髪に、同じ色の口ひげ。この年代にありがちな軽妙な雰囲気を見事に体現している彼の名は、コーウェン・ゴールドマン。コバヤシコーポレーション現社長である。
「アジア暮らしが長すぎて脳まで汚染されたか?」
「けっ、口の悪いガキだ」
「人のこと言えた義理かね」
「これだよ」
 コーウェンは大げさな身振りで肩をすくめてみせた。そのままぴょんと飛び上がり、デスクの上に腰掛ける。ケンジの冷たい視線さえ、彼は見て見ぬ振りをしているようだった。
「ペイファンで5ヶ月も、一体何をしていたんだ」
 コーウェンが本社を発ち、東アジア最大の都市ペイファン・シティに向かったのは今から5ヶ月も前のことである。彼がいない間に兵装研究所襲撃が起こり、ユイリェンが野に降りて、ケンジはその対応に忙殺されたのだった。本来なら社長であるコーウェンの仕事である。恨みがないといえば嘘になる。
 それに彼がアジアに向かった表向きの理由は、新興のシンキョウ・シティへの売買ルート確保だったはずである。相手は片田舎の島国、その生命線は全て大陸にあるペイファンに集まっているのだから、そう難しい仕事ではない。立場の問題上社長自らの出陣ではあったが、1ヶ月もあればゆうに片づくはずの仕事だったのだ。
「そりゃあ、日本へのルート確保」
 社長はわかりきっている答えを返した。
「ああ、いや、わかった。そんな怖い顔するなよ。色男が台無しだ」
 ケンジの耳元に口を寄せ、コーウェンは囁いた。口ひげがちくちくとケンジの頬に触れる。
「ナノバーストを狙ってる奴がいる。アジアで隠居してた第一期たちが、何人か襲われた」
 頬のちくちくが離れていった。ケンジはぴくりとも表情を動かさなかった。やはりそんなところか。多少の予想はできていた。前に第一兵装研究所を襲撃した連中と、おそらくは同じ手の者だろう。
 その次のコーウェンの声は、いつもの軽い調子に戻っていた。
「とまあそういうわけで、アジアの動向を探ってたわけさ」
「なるほど」
 ことん、と紅茶のカップがデスクに載せられた。一つ、二つ。ソーサーに添えられた白い指から腕をたどれば、そこにはレイチェルの美しい顔があった。ひゅう、とコーウェンが口笛を吹く。
「相変わらず、綺麗だねぇ。どうだい今夜」
 彼の手が肩に触れかけた瞬間、レイチェルはすっと一歩後ろに下がった。その顔にはにこやかな笑顔が張り付いたままである。ただ彼女の冷たい瞳は、あからさまにこう語っていた。ふざけるな、この助平親父。
「あいにくと、先約がありますので」
「あらぁ」
 がっくりとコーウェンは肩を落とした。仕方なく紅茶のカップに手を伸ばし、ずずっと音を立てながらそれをすする。香りのいい、旨い紅茶だった。そのくせほろ苦い。
「レイチェル、少し席を外してくれ」
「……はい」
 少しためらってからレイチェルはドアに向かった。その手前で軽く会釈をしてから、副社長室を後にする。いくら秘書とはいえ、彼女は完全に信頼できる相手ではない。社長と副社長の会話を聞かせるわけにはいかないのである。
「続きを」
 催促されてコーウェンは紅茶のカップをデスクに戻した。
「一応情報漏れはなかったんだがな」
「間違いないのか?」
「第一期の連中だぜ。若くて90、下手すりゃ100。耄碌してるか死んでるかで、まともに話ができる奴なんざ一人も残ってなかったよ」
「それならいいが」
 確かに考えてみれば、コバヤシコーポレーション設立当初のメンバーなどすっかり老いてしまっていて然るべきである。なにせ50年も昔の話だ。かぎまわっていた連中も、さぞかし肩を落としたことだろう。
「そっちはどうなんだ。襲撃があったらしいじゃねぇか」
「詳細はエリィが伝えたとおりだ」
「それから動きは」
「ない」
 ケンジは自分の紅茶に口をつけた。彼の好きなミントのハーブティー。閃光のように明るい香りが鼻を突き抜ける。秘書の気配りは完璧だった。ケンジの好きな紅茶はいくつかあるが、その中から仕事疲れによく効くものを見事に選んでいる。いい秘書を持ったものだ。
「NB班の状況は?」
「進歩はあるが、僅かだな。実用化するにはまだ効率が悪すぎる」
「どのくらい」
「爪の垢ほどの物体を分解するのに億単位」
「……豪勢だな。まったく」
 コーウェンは肩をすくめた。
「ただ、現段階でも兵器利用は不可能ではない。5兆はかかるだろうが」
「そんな大金積んでまで使いたいようなもんかね? 核の方がよっぽど安上がりだ」
「第二次世界大戦中のアメリカは、ウランを精製するために国中の銀細工をかき集めて導線を造った」
「中世の話なんかたとえになるもんか。第一、今は戦時中じゃない」
 確かにその通りだった。今まさに世界規模の戦争の最中で、明日の我が身も知れない時勢であれば、戦略を揺るがしうる兵器を欲する者もあるだろう。しかし地球政府の統制の元でかりそめの平和が世界を満たしている今、これほどまでに効率の悪い兵器を苦労してまで手に入れる利点はない。
「まあなんにせよ、俺が帰ってきたからにはもう安心だ。社内安全、商売繁盛」
「家内安全」
 社長のミスを指摘すると、ケンジは椅子を蹴って立ち上がった。うんっと吐息を漏らしながら背伸びして、凝った肩をもみほぐす。コーウェンがいない5ヶ月の間、彼だって何もしていなかったわけではない。7番街に、なかなかいい店を見つけたのだ。
「久しぶりに、一杯どうだ?」
「まあっ、奢ってくださるの、若社長!」
 女性語を使いながら気色の悪いしなを作るコーウェンに、ケンジは――知り合いを真似してこう言った。
「馬鹿みたい」
 
 
「馬鹿みたい」
 突然呟くユイリェンに、ウェインはびくっと肩を震わせた。いつもの『馬鹿みたい』とは少し違う。そこに浮かぶのは自嘲や呆れではなく、何か憎しみにも近い感情だった。彼女の心の中がどす黒く染まっているのがはっきりと感じ取れる。戦いの時のユイリェン――味方であっても恐怖してしまうほどの、漆黒の翼の少女である。
「ごめん」
「あなたのことじゃないわ」
 おもわず口を吐いたウェインの言葉はユイリェンによって一蹴された。一体何を怒っているんだろう。彼には全くわからなかった。
 ユイリェンを満たしているのは、ある感情であった。彼女自身まだ味わったことのない、名前も知らない感情である。同族嫌悪。少し経験豊かな者ならば、あっさりそう表現しただろう。ただ身を以てそれを理解するには、ユイリェンは少し幼すぎた。同じ歳の他の者よりも、ずっと。
「自由のために死ぬなんて馬鹿げてる」
 ああ、とウェインは吐息を漏らした。
「あいつらのことか」
 自由。テロリストの女がそう言った。自由のために死ぬのならば。全く馬鹿馬鹿しい話だとユイリェンは痛切に感じた。自由を欲して、戦い、追い、求め、やがて力つきる。そんなことが一体何になるというのだ。自由は戦って得るものではない。追ってつかむものではない。求めて与えられるものではない。ユイリェンはそのことを知ったのに、あの女はまだ知らないのだ。
 ユイリェンは何も知らない少女だった。そしておそらく、あの女は何でも知っている女性なのだろう。でも彼女の心は、まるでその瞳のように盲目で、黒い硝子に覆われてしまっているのだ。
「あの人は死を覚悟しているんじゃないわ。生きることから逃げているだけ――見せかけの生命にすがって、本当の命から目をそらし続けているのよ」
「……俺、よくわかんないよ」
 そのとき、列車がまた駅を通り過ぎた。時速800kmならほぼ10秒に1回駅を通過することになるのだから、ウェインもユイリェンもその光景はすっかり見飽きてしまっていた。
 しかし。ユイリェンの瞳が、彼女の卓越した動体視力が、そこに何かを捉えた。
 プラットホームち散らばった、無数の黒いわだかまり。ぴくりとも動かず、周囲の闇と同化して、ただ静寂の中で佇む黒い影。彼女はその気色悪い蟻のような集団に、心当たりがあった。
「……ゼナートフォース――」
 
 
「話していただけますね」
 女は足元で転がっているウィリアム・ディケンズを見下ろして、相も変わらぬ澄んだ声を投げかけた。制御室――そこにいるのは彼女と、人質と、大男と、小男である。水島はすぐ後ろの一号車で見張りをしている。もっとも、乗客は全て二号車以降に移らせていたが。
 彼女の名は和気閑。テログループ『道程』の『導き手』である。あらゆる差別行為の撤廃と社会的弱者の権利保護、すなわち『自由』の獲得を旗印に掲げ、各地で要人を誘拐しては身代金をこそぎとる犯罪集団。その手口は冷酷――いや『無関心』極まりなく、目的達成のために必要ならば一般人を巻き込むことも厭わない。企業や政府からは悪魔にも等しい誹りを受けているのが、そのリーダーのワケシズカなのである。
 『道程』のメンバーは4人。指導者の和気閑、武闘派のユガ、ハッカーのヒナセ、火器管理担当の水島。それぞれがそれぞれの業を持ち、それがみな第一線のものであればこそ、彼らは現在に至るまで生きながらえてきたのである。
「……何のことだ」
 ウィリアムは腹の底から絞り出すように応えた。彼は恐怖していた。話してはいけない。一般人が知らなくて彼が知っているようなことは、すべからく口に出してはいけない。情報漏洩――それは『組織』が最も嫌う裏切りなのである。
「1年前、ガバメントの秘匿口座から貴方の口座を経由し、ユーラル・シティの銀行でマネーロンダリングした後にコバヤシコーポレーションへ振り込まれたお金がありますね」
 息を飲み、ウィリアムは目を見開いた。ありえなかった。あの金は一流の洗い屋――マネーロンダリングによって汚れた裏金を綺麗にする専門家――に依頼して、決して悟られぬよう移動させたはずだ。ただのテロリストごときが、そんな情報をつかんでいるはずがない。
 彼は知らなかった。その洗い屋が閑たちに情報を漏らしたということを。そして既に閑たちの手によって、洗い屋が殺されているということを。もし機密情報を閑たちがつかんだと知れ渡れば、裏にある組織は彼女たちの口を封じようとするだろう。それを防ぐための自衛処置だった。
「教えていただきましょうか。あの裏金が何のために使われたものなのか」
「それを……知ってどうする」
 閑はぴくりとも動かなかった。指先はおろか微かな眼球の揺れすらもサングラスによって隠した彼女は、まるで一体の蝋人形のようだった。その姿はあまりにも芸術的で、異様とも言える雰囲気を放っている。そう、最も近いイメージは――大聖堂の奥に鎮座する、美しい聖母像。
「その話を元にスキャンダルを組み立て、貴方を脅迫します」
「馬鹿な! 脅迫されると解っていて誰が秘密を話すというのだ!?」
「教えていただけないのであれば、この場で貴方を射殺し、通常通り身代金を請求します」
 ウィリアムは絶句した。もはや二の句は継げなかった。すなわち閑はこう言っているのだ。今すぐ死ぬか。金を倍払って命を繋ぐか。
 愚問だった。答えなど、初めから分かり切っている二者択一――これほど残酷で、これほど馬鹿馬鹿しいことは他にない。
「あの……あの金は……」
 ぽつり、とウィリアムは絞り出すように言った。話してはいけない。それは痛いほどに解っていた。しかし話さなければ殺される。話したら話したで、おそらく『組織』につけねらわれる。彼にはもはや一つしか道が残されていなかった。それは今ここで閑たちに情報を漏らし、後で完璧に口を封じること――
「ナノ……バースト……その研究資金だった……」
 ぴくっ。閑の眉が僅かに震えた。ナノバースト。聞いたことがない言葉だった。
「ナノバーストとは何ですか」
「物質を……分解する技術だ……電子の存在率を強制的に変化させ、結合を解く」
 正直に言って、どういう技術なのか閑にはわからなかった。存在率……名前くらいは耳にしたことがあるがそれがどういうものなのかは知らないし、それを変化させると何故結合が解かれるのかも見当も付かない。しかし彼女はたった一つのことを理解していた。
 この男を殺すのは、得策ではない。
「……話は後で詳しく聞きます。今は――」
 と、その時。
 
 
 それは、ごう、とも唸らなかった。空気を噴出する微かな音すらもそれは放たなかった。黒い小さな鳥のようなそれは、内蔵した電磁石を反発させ、地下鉄のリニアレールの上を滑走しているのだった。つまりは地下鉄と同じ仕組みを一人用に小型化したものなのである。その上には取っ手がついていて、黒ずくめの男達――ひょっとしたら女も混じっているのかもしれないが――はそこにしがみつき、前方の地下鉄をひたすら追いかけていた。
 本来は地下鉄の整備作業員が円滑に移動できるように開発された道具である。それがこんなことに――人質救出任務などに――使われるとは、一体誰が想像しえただろうか。
 奇妙な鳥型の道具にはりついて、飛び続ける黒ずくめたち。数は5人。その内の一人が一気に加速し、列車の真後ろへと張り付いた。ぺたん。間抜けな音をたて、手に持った吸盤が流線型の車体に張り付く。
 そして次の瞬間――
 
 爆発音が列車を揺るがした。
 
「――っ!?」
 突然の衝撃に閑がよろめく。その体を、ユガの太い腕がふわりと抱き留めた。腹に触れる彼の下腕。筋肉質でごつごつとしているはずのそれは、不思議と柔らかく、そして暖かかった。もしかしたらそれは錯覚だったのかもしれないが。
 ぬぅ、とユガは唸った。それは彼の言葉だった。何か言いたくて、でも気の利いた台詞が見つからなくて、どうしようもなくなった彼が放つ言葉だった。閑はその、何処までも純粋な気持ちの奔流が好きだった。成長することを知らない彼の心は、何も混ざらず何にも汚されず果てしなく純粋だったのである。
「ありがとう……」
 なんとか体勢を立て直すと、閑は冷ややかに礼を述べた。ユガの腕がすっとほどかれる。
 一体今の衝撃は何だったのだろうか。まるで爆発でも起きたかのようである。何かの事故。いや、その割には列車の動きに不調が見られない。乗客の蜂起。だとすれば、一号車で見張りをしている水島が何か反応するはずである。
「きぃい……う、うそだぁ!」
 聞こえてきたのはヒナセの声だった。いつもより一層甲高く、耳障りで、震えすら混じっている声。そしてかちゃかちゃとキーボードを叩く音がそれに加わる。いつもの軽快なダンス――しかし閑の耳は確かにそれを捉えていた。微かなリズムの乱れを。
「ハッキング……内部から……ちくしょお、なんだよ一体どうやってぇ!?」
 内部からハッキング。
 馬鹿な。閑の心を衝撃が包みこんだ。列車の内部からハッキングを仕掛けられたということは、当然ながら誰かが車内に潜入したということである。ヒナセのプロテクトを即興でうち破るほどのハッカーが偶然紛れ込んでいたとは考えにくいし、何より列車のシステムを熟知しているものでなければハッキングは不可能だ。
 交渉は決裂したようだった。まさか、人質の安否確認すらせずに特殊部隊を送り込んでくるとは思わなかった。
「食い止めてください」
「やってるよぉ! っきいい!」
 ヒナセに命令を下すと、閑は後ろの一号車へ飛び込んだ。後ろについてくる足音はユガ、そして前でまごついている気配は水島である。ここまできてようやく微かな喧噪が彼女の耳に届いた。驚いた乗客が騒ぎ出したに違いない。
「水島」
「お、おう」
「後続車両へ。乗客を鎮めてください」
「了解」
 足音、ドアの開く音、閉まる音。銃声が一つ、二つ。砂をおしなべるように静まっていく乗客たち。水島の手際の良い仕事を音に聞きながら、閑はじっと闇を見つめていた。
 彼女らは屈するわけにはいかないのだ。報いを与えるまでは。彼女らを虐げた『人間』たちに、彼女らを『人間』の枠に入れなかった『人間』たちに、彼女らの全てを奪い去った『人間』たちに、然るべき報いと罰を与えるまでは。決して。
 
「行かなきゃ」
 ユイリェンは立ち上がった。
 先の衝撃。おそらくはゼナートフォースがどこかを爆破して、車内に侵入したのだろう。
 ゼナートフォース。それはコバヤシコーポレーションの上位組織である『元老院』直属の特殊戦闘部隊である。火器、格闘、操縦、潜入。隊員はありとあらゆる方面に精通し、その総合的な戦闘能力は困難な任務を成し遂げうるものだという。そのトレードマークは全身を包む漆黒。装甲すらも身につけない部隊など他にない。
 詳しい作戦内容がどうなっているのかは知らないが、奴らのやることはたった一つしかないのである。それはすなわち――
 攻撃目標の完全消去。
「行くって、どこへ?」
 怪訝そうに――というよりはむしろ突然の言葉に驚いて、ウェインが半開きの口で問いかける。ユイリェンはくるりと振り返り、呑気にシートに腰掛けたままの彼を見下ろした。
「あの人達は死ぬわ。このままでは」
 ユイリェンは彼の瞳を見つめた。それはまるで彼女の瞳ではないかのようだった。冷たくもない。澄んでもいない。濁り、澱み、汚れ、そして熱い輝きを、今の彼女の瞳は放っていた。ウェインはただぼぅっと、その光にみとれていた。こんなユイリェンは、初めて見た。
 正直言って彼女の気が知れなかった。相手はテロリストである。これだけの乗客を拘束した犯罪者なのだ。特殊部隊がやってきてそれを殺すというのなら、喜びこそすれ疎む理由など何もないはずである。それを助ける理由なんてどこにもないのだ。
 ただ。ウェインはふっと自嘲気味に笑った。こんな瞳で見つめられると、不思議とつき合いたくなってしまうのである。
「OK」
 彼はすっくと立ち上がった。身長が違うせいで、今度は逆にウェインがユイリェンを見下ろす形になる。相変わらずの瞳で見上げるユイリェンに、彼は不器用にウィンクを一つしてみせた。
「俺はユイリェンについていくぜ」
 
 ――ふむ。
 エリィは目の前の『地図』をざっと見渡した。それは地下鉄の『地図』である。彼女が侵入した端末の位置、中枢へのルート、正規のICE、ハッカーが仕掛けた即席の罠。全てが余すところなく記されている。
 そう、それは地下鉄を制御するコンピューター内部の『地図』なのである。
 ざわっ。
 『地図』のいたるところで何かが波打った。犬やカメラやスピーカーの形をしたそれらが、侵入したエリィに反応してそれぞれの処理を始める。ある者は警報を鳴らし、ある者は彼女の本質を見極めようと分析し、またある者は単純に彼女を噛み殺しにかかる。ほとんどは正規のICEたちである。正規ユーザーアカウントを持つエリィを狙うところをみると、どうやらハッカーが多少プログラムをいじっているらしい。
 エリィはふっと微笑むと、『地図』の上に手を乗せた。
 ――うざったいな。
 ぞふっ!
 彼女が念じた瞬間、虚空から現れた錐のようなものがICEの全てを貫いた。途端に薄れ、消え失せていく防御プログラムたち。別にプログラムが不安定だったわけでも、ハッカーの改造によって歪みが生じていたわけでもない。
 この世に存在しないのだ。エリィのアイスピックを防ぎきれるICEなど。
 ――腕は悪くないようですが。
 エリィはにっこりと笑った。いつものように、楽しそうな顔で。
 ――所詮は人間です。
 そして彼女は、両手で列車の中枢をつかみ取った。
 
 どんっ!
 二度目の轟音が列車を揺るがす。閑は耐えきれずに床に倒れ込んだ。
 今度は一瞬で終わるような揺れではない。強い力が体を引いている。まるで誰かに引きずられているかのように、見えない腕が彼女を引っ張っているのである。強い慣性力だった。つまり――
 列車が急停止している。
「うそだああああああ!!」
 絶叫が聞こえた。ヒナセの声である。列車の中に侵入され、内部の端末から別のハッカーに忍び込まれ、自信を持って仕掛けた罠を全て壊され、彼は癇癪を起こしたのだった。ヒナセはひたすらに叫んだ。ただ叫んだ。否定したかった。自分のたった一つの自信、自分を保つたった一つの能力が否定されたということを否定したかったのである。
「うそだうそだうそだうそだうそ……」
 そして次の瞬間、爆発が彼を吹き飛ばしていた。
 
「お前等!?」
 先頭車両を目指して走るユイリェン達の前に、そいつが立ちはだかった。右手に持ったカービンライフル。ぎこちない歩き方。下品で不愉快な表情。水島だった。
 まずい奴と出会ったものである。おそらくは乗客を鎮めるために歩き回っているのだろうが、こいつが素直に道を空けてくれるとは思えない。閑たちの命が危ないことを説明しても納得することはないだろう。
 ユイリェンは後ろ手に、ウェインの服の裾を引っ張った。いざとなったらこいつを片づけてくれ、という合図である。
「そこを退いて」
「馬鹿言うな! お前等も大人しく……」
 その時、ユイリェンの背筋をぞくりと悪寒が駆け抜けた。
「回避!」
 その声とほぼ同時に、飛来する無数の弾丸。飛び散る血しぶき。硝煙の臭い。どうと音を立てて倒れる肉体。甲高い誰かの悲鳴。次の瞬間ユイリェンの眼に映ったのは、体中穴だらけにして倒れた水島の死体だった。
 ユイリェンは列車の後ろに目を遣った。後続車両に続くドアの向こうに、軽機関銃を構えて立つ黒ずくめの男の姿。頭からつま先まで全身をすっぽりと漆黒のスーツで覆っていて、その瞳すらも黒い偏光ゴーグルで覆い隠している。ゼナートフォースの標準的なスタイルである。
「無茶苦茶しやがる……一般人巻き込むつもりかよ」
 憎々しげにウェインは呟いた。もし座席の影に隠れるのが一瞬でも遅ければ、二人は水島と運命を共にしていただろう。これがゼナートフォースのやりくちなのだ。ありていに言えば目的を達成するため手段を選ばない。言い換えれば、目的以外のことに関して徹底して無関心なのである。
 一般人の安全。社会の混乱。そして自分自身の命に対してすらも。
 からんっ。
 車内に小さなカプセルが投げ込まれた。自販機で売っているジュース缶くらいの大きさの円柱型カプセルである。無機質な鉄色に光るそれは、床をごろごろと転がって、やがて乗客の誰かの脚にぶつかって止まった。
 ――あれは――
「逃げてっ!」
 同時だった。
 ユイリェンが叫ぶのと、カプセルが弾けて中から透明の気体が吹き出すのとは。
 辺りに漂う防虫剤のような臭い。一瞬きょとんとしていた乗客たちは、やがてびくりと震え、床に転がり、びくんびくんと痙攣を始める。車内を悲鳴が満たした。しかしやがてその悲鳴すらもなくなり――ただ苦痛に満ちたうめきだけが静寂を否定する。
 二人は走り、あわてて次の車両に飛び込んだ。その背後でドアがひとりでに閉まる。ウェインが驚いて取っ手に手を掛けるが、ドアはぴくりとも動かなかった。いつのまにか自動でドアがロックされている。
「ちくしょう……開かねぇ!
 ユイリェン、一体何なんだよ!? あれじゃあみんな……」
「神経ガスよ」
 瞳に黒々とした輝きを孕みながら、ユイリェンはドアの向こうを睨み付けた。なぜドアがロックされたのかはわからないが――連中をこれ以上前に進ませないという意味では好都合である。
 まさかここまでとは思わなかった。乗客を全て始末しながら進んできたなんて。いくら自分たちの存在を知られたくないとしても。
「行きましょ」
 低く震えた声でユイリェンは言った。
「奴らの部隊は、これだけではないわ」
 
 エリィは不機嫌そうに『地図』を眺めていた。つい今しがた、ロックをかけたドアの制御部分を指でいじりながら。
 ――少しやりすぎです。
 『地図』のいたるところで、車内の監視カメラに映った映像が投射される。ガスで充満し、もはや動く者すらなくなった車両。突然目の前のドアがロックされたことに戸惑う黒ずくめたち。先頭車両を目指して走るユイリェンとウェイン。
 ――ユイリェンは、殺させません。
 
 黒こげになった人の形の炭が二つ、制御室から転がり出た。皮膚はただれ、いびつな形に縮み、ぶすぶすと黒い煙を立てるそれは、ついさっきまでヒナセとウィリアムだったものである。
 ぬぅ。ユガが唸る。その鋭い視線の先に、いくつもの黒い影が映った。車両の前に穿たれた大穴から、銃を片手に突入してくる黒ずくめたち。その一人がヒナセの死体を踏みつけ、ぐちゃりと汚らしい音を立てる。
 ゼナートフォース。その別働隊だった。
 まず最後尾の車両に侵入し、内部にハッキングユニットを取り付け、コバヤシコーポレーションの管理メガコンプに接続して車両の制御を奪う。車両を緊急停止させた後で今度は一番前の車両から侵入し、テロリストを挟撃する。これは彼らの任務だったのだ。
 その中に、人質の保護という項目は含まれていなかった。
 ユガは立ち上がった。両手でアサルトカービンを構える。彼が繰り返し繰り返し練習して、ようやく憶えた銃の扱い。閑が教えてくれた。拳だけでは生き残れないんだと、閑が教えてくれたのだ。
「やめて……」
 床にうずくまったまま、閑呟いた。ユガが立ち上がったのが気配で分かった。銃を構えたのが音で分かった。大勢の侵入者達が彼女らを狙っているのがはっきりと感じ取れた。もうこれ以上、彼を傷つけたくはなかった。
 もう終わりだ。閑は確信した。いつかくる滅び――それは今やってきたのだ。
「責任者はわたしです――彼は命令に従っただけ、殺すならわたしを――!」
「……シ……ズカ……」
 声が聞こえた。
 それは彼の言葉。優しい彼の言葉。たった二つだけ、彼が発することの出来る言葉。心が伝わってきた。たったの三音しかない単語だというのに、まるで彼と心が繋がっているかのようだった。ずぐんずぐんと脈打ちながら彼の心が入ってきた。
 閑は眼を見開いた。彼の心を知って。
「シィズカァァァァァァァッ!!」
 
 
 もうどうでもよかった。何をされても悲しさも悔しさも感じられなかった。何もかも無くして、誰からも見捨てられて、彼女はたった一人で闇の中を漂っているのだった。彼女には光すらも与えられていないのだ。
 周りで騒ぐ男どもは、何度も閑に差し込んだ。そして中で弾けさせた。かわるがわる延々そんなことを繰り返した。それでも閑は何も感じなかった。触られても入れられてもぴくりとも反応しなかった。まるで体中の神経がどこかで途切れてしまっているかのようだった。
 それでも男達は繰り返した。何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も。物言わぬ人形を相手に狂ったように。
 父親に見捨てられ、母親に見捨てられ、何も与えられず、そう光すらも与えられず、汚らしい裏通りに放り出され、彷徨い、転び、汚れ、そして男達に嬲られる。もうどうでもよかった。恨みもなかった。怒りもなかった。絶望もなかった。このまま闇に堕ちて消えてしまっても一向に構わなかった。
 疎まれながら生きるのと、誰にも知られず死に逝くのと。一体どっちが幸せだろう。
 いいかげん意識が薄れ始めてきた。ああ、わたしは死ぬのだな。ようやく死ぬのだな。最初は哀れみの目で見ていた人が、次第に疎み始め、やがては離れていくように。わたしはこの世界から離れていくのだな。
 そう思った次の瞬間、奇妙な音が彼女の意識を呼び戻した。ぼぐり、とでも表現するのだろうか。鈍い、何かが砕けるような音だった。途端に巻き起こる怒号。そしてまたあの音。こんどはどさっ、と軽い音も混ざっている。誰かが叫んだ。ユガ、と。
 やがて辺りは静かになった。あれほど何度も繰り返した男たちも、もはや彼女に触れようとはしなかった。無理だったのだ。奥歯をへし折られ、鼻っ柱を砕かれ、眼球を潰され、意識を失った彼らには。動くことさえできなかったのだ。
 誰かが彼女の上に布を被せた。ごわごわの感触は革のジャケットらしい。ごつごつした何かが彼女を抱き起こした。誰かの腕だった。その腕は固い筋肉に覆われていて、しかし何故か柔らかく、そして暖かかった。
「だれ……?」
 閑は問いかけた。柔らかく暖かく優しい腕の持ち主に。彼女を救ってくれた誰かに。
 その人は、ぬう、と唸ってから片言にこういった。
「ユ……ガ……」
 
 
 銃声が響いた。
 ユガは自分の中に食い込んでくる無数の銃弾を感じていた。不思議と痛みは無かった。それどころかあらゆる感覚がなかった。たった一つ、心を満たす奇妙な充足感だけが彼の意識を保っていた。
 彼の心に言葉はない。彼の心は言葉で表せない。しかし無理矢理に翻訳するならば、彼はこう思っていた。
 もう、いいんだ。頭悪くて、捨てられて、悪い連中と、悪いことして、殴って、それで生きてきて、でもだれも、ともだちでいてくれなくて、シズカをみて、助けると思った。そしたら、ともだちだった。シズカはともだち。大切な。護るんだ。大切だから、護るんだ。だから。
 もう、いいんだ。
 
 どさり。
 大きな壁のようなユガの体が、倒れた。
 ああ。閑は瞳の奥から何かがわき出してくるのを感じた。手探りで彼の体に触れて、逞しい体を指でなぞった。ぬるぬると何か液体で汚れていた。そして所々に穴が開いていた。ああ。閑は不思議な快感のようなものを確かに感じていた。やがて指は丸くて大きいものに触れた。彼の頭だった。
 閑はそれをそっと抱きしめた。途端に心の中からそれは一気に吹き出した。涙と、そしてあの奇妙な快感だった。悲しみという名の快感だったのだ。ぞくりぞくりと体を震わせ、その快感は彼女の中を駆け抜けた。
 ああ!
 閑は懐の中に手を入れた。
「何もかも忘れられたらどんなに幸せだっただろう――」
 手に触れる、固いもの。それを取り出し、閑は先端を自分のこめかみに当てた。
 拳銃。
「怒りも――憎しみも――
 もしかしたら、わたしがわたしであるってことすらも――」
 
 ユイリェンは、最後のドアを開いた。そして。
 
 閑はゆっくりと、引き金を引いた。
 
 
 
 ざっ。ざっ。
 そこは昼特有のけだるい雰囲気につつまれていた。安普請だが手入れと掃除は行き届いた部屋。大きな四角いテーブルが一つあり、その上ではテレビが毒にも薬にもならないゴシップ番組を垂れ流す。誰も見てはいないのに、やたらと偉そうなキャスターが電話をかけてきた主婦に暴言を撒き散らす。
 ただそこに、ざっ、ざっという音が満ちていた。
 部屋にいるのも二人だけ。じっと新聞を読みふけっている白いヒゲの老人と、テーブルに伏したまま動かない黒髪の少女。ハーディとユイリェンだけであった。目を合わせることも、まして言葉を交わすこともない。ただそこにいるだけである。ユイリェン達の住処は、いつもこんな様子なのだった。
 ぱらり。ハーディが新聞のページをめくった。
 ユイリェンはじっと、一つのことを考えていた。
 自由。一体それな何なのだろう。命を捨てるほどの価値があるのだろうか。そうまでして手に入れるべきものなのだろうか。自らの命を絶つ理由になんてなるのだろうか。一度つかみかけた自由のイメージは、またしても彼女の中で崩れ去った。あの女性のせいで。
 思えばあの女性はユイリェンと同じだったのだ。似ているとか同族とかじゃなくて、同じものだったのだ。ただ純粋に自由を求めていたのだ。その理由がなんだったのかまではわからないが。
 自由ってなんだろう。命ってなんだろう。ユイリェンにはわからなかった。いくら考えても答えが出なかった。ただ一つわかったのは、自分が何も知らないということだけだった。
 あの、ざっ、ざっという音が止まった。
「ごはんだよ〜、ウェイン特製卵炒飯」
 キッチンから出てきたのはエプロン姿のウェインだった。ハーディは働こうとしないしユイリェンは苦手だったので、必然的に家事は彼の担当となっていたのである。ただ案外、まんざらでもなさそうだったが。
「たべたくない」
 その呟きなど全く無視して、ウェインは手にした皿を、ユイリェン、ハーディ、そして自分の席に並べていった。レンゲと水の入ったコップを添えて、エプロンを脱ぎユイリェンの隣に腰掛ける。
 ユイリェンは伏せていた顔を持ち上げると、隣のウェインに視線を送った。
「食欲がないわ」
「うまいもの食べて」
 何処か遠いところを見つめながら、彼は言った。
「泣いて、笑って。
 それでいいじゃん。ね」
 ユイリェンの方を向くと、ウェインは不器用にウィンクしてみせた。その姿が妙に可笑しくて、なんだか暖かくて、安らぐ気がして、しばらく呆然としていたユイリェンはふっと微笑んだ。
「――そうね」


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