ARMORED CORE 2 EXCESS

 漆黒の空間。どこまでも深い闇。果てしない静寂。無限の大きさを持つ広がり。遥か遠い昔に爆発と共に生まれ幾多の星々を育んだ、全ての存在の母とでも言うべき世界。人はその世界を、畏怖と憧憬の念を込めて宇宙と呼ぶ。そして今でもその心は変わっていない。火星の地球化に成功し既に移住が始まった現在でも、人々は変わらず宇宙を畏れ敬う。
 いや、むしろ宇宙への第一歩を踏み出したからこそ、宇宙への畏れはいっそう強くなったのだ。
 窓から見えるのは宇宙だった。星一つ見えない宇宙。周囲には大気などほとんどないのだから、地上より明るく星が見えてもいいはずだ。しかし見えない。理由は簡単だった。星の光は掻き消されてしまったのだ。巨大な地球が放つ青い輝きに。
 ああ、地上から見える星々は、とても偉大なのだろう。地球の何十倍も何百倍も、ひょっとしたら何千倍も大きく、それにも増して強い輝きを放っているのだろう。しかし遥か遠くの偉大な星は、なんと小さくおぼろげなことか。すぐそばにある卑小な星は、なんと大きく明らかなことか。不思議なことだった。自ら輝くことすらできないこんな小さな星でも、手の届くところにある、ただそれだけで何よりも偉大で何よりも神々しい母になることができる。
 窓から青い光が射し込んだ。窓から黒い闇が差し込んだ。両極端な輝きは、薄暗い搬入通路に美しく妖しいコントラストを創り出した。青白い不思議な色合い。かつて月の光が心を狂わせると信じた人々は、狂気を指してルナと呼んだ。だが今、星の光が人を狂わせるというのなら、それはきっと月の光ではなく――
 地球の光だ。
 そしてここにも、地球の淡い輝きに狂わされた者が二人。
「……んぅ――」
 声は鼻から漏れだした。まだ頬に手を触れられただけだというのに、全身をぞくぞくと悪寒にも似た衝撃が走っていく。そして今度は赤い舌先が首筋をゆっくりと這う。体がぴくりと反応したのが、自分でも分かった。舌が妖しく蠢きながら首筋を這い昇る。ほんの少しそれが動くたび、のどの奥から声にならない吐息が溢れ出た。やがて舌は耳たぶまでたどり着く――
「だ、ダメっ!」
 顔を真っ赤にしながら、女は女を突き飛ばした。体中が火照っている。呼吸が荒い。筋肉に力を込めることができず、立っているのがやっとである。そんな状態でも相手のなすがままにさせるのは癪だった。
「なんで……いいじゃない、ほら……」
「ダメよ――誰か見てる」
 突き飛ばされた方の女は眉をひそめながら周囲を見回した。狭い搬入通路。窓から漏れ来る輝き以外に光のない空間。何の音も存在しない、完全な静寂。欲望をそそられる雰囲気こそあれ、そこには誰一人いる気配はない。
「誰もいないじゃな……」
 かたん。
 音。物音がした。女がはっと顔を上げる。何か小さくて堅いものが落ちたような音。ごくごく小さな、普通の空間では聞き逃してしまいそうな音が静寂を突き破った。誰か潜んでいるのか。あの曲がり角の向こう? 搬入資材の影? 詳しいことは分からないが、確かなことが一つある。ここにいるのは彼女たちだけではないということだ。
 女達は音がした方向を凝視した。覗きなんていう悪趣味なことをするのは何処のどいつだ。軽い憤りと不安を感じながら、二人はじっと闇を見つめた。闇は深い。吸い込まれそうで怖い。そしてあの闇の中には無粋な邪魔者がいるのだ。
 ――瞬間、そいつは背後に現れた。

HOP 4 The Moonless night

すら見えざる闇の夜

 がっちゃん。
 今時滅多に聞けなくなった重い金属音が暗闇を満たしていく。むしろコミカルと言えなくもない雑音を最後に、二人を入れた檻は完璧に閉ざされた。アパートの一人部屋程度の広さしかない空間。形は何の飾りもない直方体で、壁も天井も頑丈な材質――おそらくはセラミックか有機ポリマー――で覆われている。ただ一つだけあるドアは、どんな剛腕をもってしてもこじ開けられないであろう鉄の塊である。その上の方についたガラス面はマジックミラーになっているに違いない。
 実験用の大型動物を格納するためのケイジ。ユイリェンとウェインは、いきなりそこへぶち込まれていた。
「いってぇ〜ッ! もう少し丁寧に扱えよ、クソッ!」
 檻に放り込まれた時に打った尻をさすりながら、ウェインは愚痴をこぼした。しかし丁寧になど無理な話である。女のユイリェンにはまだ『商品価値』があるが、ウェインはそうはいかない。ただの邪魔な捕虜にすぎないのだ。もちろん出すところに出せば『商品』になるだろうが、決してその需要は多くない。
 顔を怒りで歪める彼と違って、ユイリェンは落ち着いたものだった。乱れた髪を手櫛で整える。どこも拘束されていないのがせめてもの救いである。だからといってこの檻を抜け出せるとは思えなかったが。
「叫んでも何も変わらないわ」
「いや、そりゃそうだけど……」
 ふぅと溜息をつくと、ウェインは冷たい床にごろんと寝ころがった。いやが上にも天井が目に入る。碁盤目状に――彼は碁を知らないのでチェス盤を思い浮かべたが――いくつもの平行線が走っている。そのマスの一つは、他と比べて妙に黒ずんでいた。何かのシミだろうか。もしかして血の跡? 昔聞いたことがある。どこかの天井には血のシミがついていて、夜になるとそれがだんだん大きくなっていくのだ。やがて血が天井を一杯に覆い尽くすと、生者を呪う悪霊が姿を現す――
 ぶるっとウェインは身震いした。どうもこういう話は苦手なのだ。
「なんでこんなことになっちまったんだろうなぁ……」
 色々な気持ちを振り払うように、ウェインは呟いた。完全に他人事の口調である。
「あなたのせいよ」
「うっ」
 責めるでも怒るでもなく冷静なユイリェンの応えに、彼は思いっきり頬を引きつらせた。
 
 
 宇宙ステーション『フィニール』。地球衛星軌道上に五基あるステーションのうちの一基である。月との連携補助が主な役目で、月面上で製造された固形三重水素や無重力合金等を一時的にプールする集散基地となっている。運び込まれた製品は3日に一回接続される軌道エレベーター『フローリッシュ』を通じて地上へ降ろされ、そこから各地へ流通していく。フローリッシュと接続された時、この基地はその名の通り頂華となって繁茂の塔を彩るのである。
 レクテナシステムが普及した現在においても三重水素はACやMT内の核融合ジェネレーターの燃料として有用であり、また火星への移民が盛んな今日無重力合金は連絡船の構造材として欠かすことの出来ない素材である。宇宙ステーションはどれも重要な役目をもっているのだが、その中でもフィニールは生活に直接結びついている分だけ格別であると言えた。もしここを破壊もしくは占拠でもされようものなら、地球の経済が大きく混乱することは明らかだった。
 そう、丁度今のように。
「そういうわけですから、あのレイヴンたち以外は予定通りです」
 男は見た目にそぐわぬ丁寧な口調で通信機に語りかけた。はげ上がり、いくつもの古傷が目立つ頭。ごつごつと骨張った粗野な顔立ち。頑丈な骨組みとしなやかな筋肉によって形作られた見事な肉体。それを包む服装も、ボロボロのシャツにだぶだぶのズボンだけで、どうひいき目に見た所でセンスがいいとは言えない。そんな山賊か落ち武者か、といった風体の男が、まるで一流企業のビジネスマンのような台詞を吐くのである。
「中枢のハッキングも成功、地上へは偽の情報を流し続けています。連絡員は生かしてありますので定時連絡も問題はありません。2日後の接続までは騙し通せるでしょう。占拠の際に多少外壁を傷つけてしまいましたが、こちらも損害は軽微、全体の0.5%に過ぎません」
 早口言葉でも言っているかのように男は一気にまくしたてた。唯一の汚点である商品の傷については、特に素早く言い切る。認めたくなかったのだ。予想外の事態――フィニールのスタッフが雇っていたレイヴンの存在に対処しきれなかった自分の力不足を。
『了解した』
 答えたのは、妙にぬらりとした声だった。男は他にこんな声を出す者を知らない。音が粘りけを持つというのも奇妙な話だったが、この声は触れば指にこびりつきそうなくらい粘っていた。振動しているのは空気ではなく何かの粘液なのだ。男はそんな奇妙な空想を頭の中に浮かべた。
『ではユリアン君、これより商品を受け取りに行く。1時間後には到着する予定だ』
「わかりました」
 男は――ユリアンは、ゆっくりと首を縦に振った。音声だけの通信では無意味な行動のように思えるその仕草も、本当は肯定の合図ではなかった。彼の癖、自分の頭の中で情報を整理するとき、自然と出てくる癖なのである。どうしてこんな癖が付いたのかは憶えていないが、少なくとも物心ついた頃には体に染みついていた。そして30に手が届こうかという今になってもそれは直っていない。
「それでは……」
『ところで』
 ユリアンの別れの挨拶は、くだんの粘り声に押しのけられた。今までこの通信相手――今回の依頼人――が「ところで」なんて言葉で話を切りだしたことなど一度もなかったのだ。彼は、ユリアンは名前も知らずただ『N』と呼んでいたが、無駄話を決してしない。依頼内容から細かい指示まで全て最初に提示されていたし、その後は定期的にこちらの報告を聞いて鷹揚に頷いてみせるかそうでなくとも最低限の連絡をするくらいしかなかったのである。何の変哲もない至極普通の「ところで」ではあったが、今に限ってはどうしようもなく奇怪な言葉に思えて仕方なかった。
『そのレイヴンとは、どういう連中なのだね?』
 なるほど、とユリアンは納得した。あながち関係のない話でもないようだった。自分たちに対抗する勢力があるのなら、それの出所を確かめたいと思うのは当然のことだ。ユリアンはなんとなく安心している自分に気付いた。やはりいつも通りだったのだと。
「まだ捕まえたばかりで、尋問もしておりません。ですがいずれ雇い主は――」
『そうではない』
 ぴくり。誰かの眉が動いた。
『何か特徴があるだろう。搭乗機の形式、性別、年齢、顔立ち、髪、瞳、人種、宗教、民族、出身地、生年月日、服装、座右の銘、アレルギーのある食べ物、好みの男のタイプ、男性経験の数、生理の周期、症状のはげしさ』
 ユリアンは眉をひそめた。一体何を言っているのだ。心の中で浮かべただけのはずだった問いは、いつのまにか口を吐いて出ていた。
「おっしゃっている意味が、わかりかねます」
『とにかく、特徴だ』
 釈然としないものを感じながらも、ユリアンはすぅっと息を吸い込んだ。また例の早口である。しかも今回は少しばかり量が多い。たった二人の捕虜ではあるが、目で見て分かるだけでも特徴など数え切れないほどある。先の奇妙な質問は、とにかく細かな特徴まで述べよと、そういう意味なのだとユリアンは自己完結した。
「捕虜は男と女が一人ずつ。男の方はヨーロッパ系の白人で、赤毛の短髪、瞳は青です。機体は……」
『女は?』
 またしても邪魔が入った。多少憮然とはしたものの、ユリアンには求められた答えを吐き出す以外の選択肢はありえない。依頼人が女の情報だけ欲しいといえば女の情報だけ与えるのがユリアンの仕事である。
「アジア系黄色人種です。髪の長さは腰のあたりまで、黒髪ではありますが強い光にあたると茶色に変化して見えます。瞳は黒。身長は150から160、年齢はおそらく15あたりでしょう。服装は、たしかデニム生地で統一されていたように思います。好みの男などは、さすがに」
『わからないか』
 冗談のつもりだった。ユリアンは冗談のつもりで、苦笑混じりに最後の文を付け加えたのである。しかしNの応えは、意外にも真剣で、あまりにも残念そうなものだった。一体、この男は何を考えているのだ。ユリアンはもうわけがわからなくなった。今まで事務的の一言で表現できていたはずの人間が、どうしてこんなどうでもいいことにこだわるのだ。これではまるで――
 いいや、よそう。軽くユリアンは頭を振った。深く考えてもなんの利益もない。
『そのレイヴンは我々が回収する。商品と一緒に引き渡してもらおう』
「了解しました」
『以上だ』
 通信はNの方から一方的に断ち切られた。口調には抑揚がなく、あの独特の声も多少粘りけを失ったようだった。しかし本当になくしたのは興味なのだろうとユリアンは想像した。レイヴンに対する興味ではなく、レイヴンについて大した情報を持っていないユリアンに対する興味――あるいはこの話題に対する興味である。
 ユリアンはほっと息を吐くと、椅子を軋ませながら立ち上がった。奇妙な感覚が彼の脳裏をよぎる。まるで不気味なサイコ映画を見た後のような、気味が悪く、それでいて惹き付けられる感覚。わけもわからずただなんとなく恐ろしい、うすぼんやりとした夢を見ているような心地である。おそらくこれは得体の知れないものに遭遇したとき人が感じる感覚なのだろうが、ユリアンの知る限り、この感覚には未だ名前が付いていない。
 どうしようもないいたたまれなさ、言い換えるなら居心地の悪さを感じながら、ユリアンはそそくさと通信室を後にした。
 
 
 どしゅんっ。
 漆黒の宇宙空間に衝撃が走る。音ではない。大気が極めて希薄な真空中では、音はほとんど伝わらないのだ。炸薬の爆発による衝撃は、耳で感じる震えとしてではなく、純粋な揺れとなって人々の肌にまとわりついた。
 それと同時に、小さな円筒形のポッド――小さいと言っても乗用車がすっぽり収まるくらいの大きさはあったが――が宇宙船から切り離された。しばらく力の余韻に流されるまま空間を漂い船から十分離れた所で、ポッドは自ら圧縮空気を噴射し速度を相殺する。船とポッドの相対速度は0となり、二つの塊――あまりにスケールが違いすぎて並列するには不適当だが――はぴったり寄り添って宇宙を流れていく。
「ギア試作一号機ヴァルゴ、射出完了」
 誰かの声が、がんがんとエコーを巻き起こしながら耳に届く。制御室の中はよく声が響くのだ。いつもは明朗なオペレーター達も、ここでは一風変わったテノール歌手となる。単調な報告。いくつもの電子音。時折聞こえる靴音。全てが一つの方向性を指し示している。それは一つの音楽だった。彼はいつも一人で演奏するが、たまにはオーケストラの指揮者というのも悪くない。
「フィニールへの予測軌道計測完了。10秒間最大加速の後等速進行、速度450で1752秒後にフィニール第三ゲートへ到着します」
「ギア内部設定および組織、オールグリーン」
「発射準備完了」
 時は満ちた。第一楽章の終わりである。彼は俯かせていた顔をゆっくりと持ち上げた。さらりと髪の毛が流れる。あまり見かけない色の髪だった。灰色の髪。それはモニターの放つ淡い光を浴びて、時折銀色に輝いた。白でもない。黒でもない。他の何でもなく灰色の髪。決してそれは白と黒の中間にある色ではなかった。
「プラグ点火」
「プラグ点火。発射まで、残り3、2、1」
 ドン!
 衝撃が制御室を襲った。管制官たちはそれぞれ思い思いに、手足を踏ん張りショックに耐える。中央のメインモニターには、背部から轟々と炎を吹き出すポッドの姿が大映しにされていた。ゆっくりとポッドは速度を上げていき、あっという間に肉眼では見えないほど遠くまで飛び去っていった。
 ようやく始まる。今までの事件は全て序章に過ぎない。あの襲撃も。あの離別も。あの独立も。全てここから始まる叙事詩のプロローグなのである。彼は唇の端を奇怪なほど高く持ち上げた。主役は誰だ? 彼? 否違う。彼女だ。彼女が主役の悲劇が、今まさに始まったのである。
 この忌まわしき祝砲と共に。
 
 
 ウェインはさっきからなんとなく、自分のふがいなさを反省していた。
 こうして猛獣用の檻に入れられて、おかしな話ではあるがゆっくり考える時間を与えられたのだ。壁に背を預けたまま、ウェインはちらりとユイリェンの方を盗み見た。ユイリェンは静かに目を閉じて、微動だにせずうずくまっている。彼女のことだから、諦めたわけではないだろう。何か策を練っているに違いない。
 なんだか溜息を吐くことさえはばかられる気持ちだった。とにかく今は、彼女にぴくりとも刺激を与えたくなかった。顔を向けられても素直に応えられそうになかった。
 きっとユイリェンは、怒ってなんかいないだろう。ましてウェインを責める気持ちなどあるはずもない。なんだかんだ言ってユイリェンは優しい。初めて会ってからもう3ヶ月になるが、彼が落ち込んでいる時にはちゃんと慰めてくれたし、悩んでいるときには的確な助言を与えてくれた。失敗しても責めるどころか見事にフォローしてくれる。あまりにもユイリェンは完璧だった。3つも年下のユイリェンではあったが、ウェインよりも遥かに『大人』だった。
 だから逆に腹が立った。彼女に対してではなく、自分の情けなさに対して。最初はただ、操縦技術を教わりたいだけだった。実際ユイリェンはいくつかのノウハウを教えてくれた。だが自分は? 彼女に何か報いることができただろうか。いつまでたっても腕は伸びず、ただユイリェンに護られる日々が続いている。
 今日捕まったのだって、彼の責任である。宇宙ステーションを占拠した武装勢力に対して襲撃をかけた。不慣れな宇宙とはいえ、ユイリェンの腕なら十分全滅させられる程度の戦力だったのだ。それなのに――
 思い出すだに情けない。ウェインは油断から脚部に攻撃をくらい、動きを止められ、あろうことか人質として使われてしまったのだ。コアに銃口を突きつけられたワームウッドを目にしたユイリェンは、いともあっさり投降した。まるでそれが当然だとでもいわんばかりに。
 ――ちくしょう。
 歯痒かった。いつも努めて明るく振る舞っている自分自身すらもが。
 ウェインは両腕に軽く力を込めた。床に座り込んだ姿勢のまま、ずりっ、ずりっとユイリェンに近づいていく。ぴくりと彼女の耳が動く。もちろん慌てて顔を上げたりはしない。外の見張りに動きを感づかれてはならないということくらい、ユイリェンは一瞬で理解していた。
 やがて二人の肩が触れ合うくらいまで近づくと、ウェインはほとんど耳に息を吹きかけるように囁いた。少しユイリェンの体が反応したようだったが、ウェインは敢えて気にしなかった。
「しばらく俺に合わせて」
 小さく、ともすれば隣のウェインにもわからないくらい小さく、ユイリェンは首を縦に振った。そして次の瞬間――
「きゃっ!?」
 
「……ん?」
 レイヴンを閉じこめたケイジの見張りは、檻の中から聞こえてきた悲鳴にふと顔を上げた。見張りといってもドアの前で男が二人、狭い通路にへたり込んでポーカーに興じるだけなのだが。
「どうしたんだ? おい、コールか?」
「中から何か聞こえねぇか」
「この野郎、負けがこんでるからって」
「馬鹿言え」
 さりげなく自分の手札――ダイヤのA、クラブの2、クラブの3、ハートの4、スペードのJ――を捨て札の中に紛れ込ませると、男はすっくと立ち上がった。物音がしたのは確かである。重い鉄製のドアについたマジックミラーで、中の様子をのぞき見る。
 そして男は目を見開いた。二人いたレイヴンのうち男の方が、あろうことか女の方を押し倒して今にも服を引き剥がそうとしている!
「何やってんだあの野郎!」
「あ?」
 とぼけた声を出しつつ眉をひそめる相方を放って、男は慌ててドアのロックを解除した。うっと右腕に力を込め、やたらと重いドアを引き開ける。そしてケイジの中から漏れ聞こえる声。
「いやっ! 何を……きゃっ!?」
「ユイリェン……俺、もう我慢できねぇんだよユイリェンッ!」
 さかりがついたオス犬が! 見張りの男は頭の中で罵りながら、ようやく開いたドアの隙間からケイジに飛び込んだ。部屋の奥には精一杯腕を突っ張って拒んでいる女と、その上から執拗に覆い被さっている男。見苦しいことこの上ない。
「手前、『商品』を傷物にする気……」
 駆け寄り、男はウェインの肩に右手を乗せた。
 ごっ!
 男が昏倒する! ウェインに、振り向きざまの裏拳をあごにぶち込まれて!
 ただの一撃で気絶した男の体が、どさっと音を立てて床に崩れ落ちる。その音から異変を察知したのか、外にいたもう一人の男が懐に手を伸ばしながら立ち上がった。開いたドアからケイジの中を覗き込む。
 たんっ。
 軽い音とともにウェインが床を蹴った。そして彼は風となる。拳銃を抜くよりも早くもう一人の見張りに駆け寄り、勢いを乗せた肘打ちを男の喉笛目がけて叩き込んだ。そのまま腕を振りきり、男を通路の壁に叩き付ける。重い肘と固い壁に首を挟まれて、男はげふっと痛々しく汚らしいうめき声を上げた。
 ゆらりとウェインの腕が動き、男の後頭部を鷲掴みにする。そして
 ごがっ!
 鉄製のドアの角に額を叩き付けられ、男は白目を向いて崩れ落ちた。
「どうだい」
 ウェインは膝の辺りを――ユイリェンを押し倒した時についた汚れを――軽く払った。しなやかな動き。河のごとき流れ。鉛のように重い一撃。今の彼の姿はACを操縦しているときとは全く違う。その落ち着き払った表情一つ、手慣れた埃の払い方一つですらも、彼が格闘について一角の者であることを如実に物語っている。
「スラム流喧嘩空手ってのも、案外痛いもんだろ」
 ほっと一息つくと、ウェインは振り返ってケイジの中に顔を向けた。
「さあユイリェン、はやいとこ逃げよおふッ!?」
 呻きながら彼は床に膝をついた。胸の当たりを両手で押さえ、吐き気すらも伴う痛みに必死で耐える。その姿は同情を誘うものではあったが、やはり自業自得とも言えた。
「名演技だったわ」
 いつのまにケイジを抜け出したのか、ユイリェンの肘鉄がウェインのみぞおちに深々と食い込んでいた。
 
 
 彼ら『終末の黒山羊』は、裏の世界では名の知れた商社――実際はテロリスト以外のなにものでもないのだが、彼らはそう言い張っている――である。
 施設。要人。人質。情報。彼らが扱う『商品』とは、大方がそういった非合法とすらも呼べないような代物である。占拠や誘拐、ハッキングといった手段でそれらを手に入れ、欲しがっている者に高値で売りさばく。もっともそれも、『買収』した商品を『売却』ているのだと言ってきかないのだが。
 その組織力は大きく、地球政府最高意志決定機関『ガバメント』にも繋がりがあると噂されている。エムロード社の一個師団に匹敵する軍事力を持ち、大企業の株式を少なからず保有するこの『商社』は、紛れもなく世界最大の犯罪組織と言えた。
 ある者は『終末の黒山羊』をこう形容する。『裏地球政府』と。表の世界を統べる政府が地球中央連合――通称地球政府ならば、裏の世界を統べる政府はまさにこの『終末の黒山羊』に他ならないのである。もっともさすがの裏地球政府も、本物の政府に比べれば虎の前の猫に等しい。自分たちが表に寄生しなければ生きていけない存在なのだということは、彼らもしっかりと理解していた。
 そして彼、ユリアン・デム・ボーマンは、『終末の黒山羊』幹部の一人だった。一介のちんぴらから、その機転がきく頭一つで上り詰めた出世頭である。今は数十人の部下とMT部隊を引き連れて、宇宙ステーション『フィニール』の『買収』及び『売却』という厄介な任務の最中である。とりあえず『買収』はほぼ問題なく終え、続いて依頼人が到着次第『売却』に移る予定だ。
 依頼人を乗せた宇宙船が着くまでの間、交代で見張りの任につきながらカードゲームに興じる部下達。彼らは無駄な略奪、殺人、姦淫はしない。それが組織――もとい、商社の命取りとなりうることを理解し、末端の鉄砲玉に至るまで徹底した教育を施しているからである。
 そうまで神経質になるには理由がある。なんでも『終末の黒山羊』創始者がかつて所属していた組織が、たった一つの怨恨によって壊滅させられてしまったらしい。本当かどうか怪しい話だが、その『エボニーインセクト』という組織も、かつて裏の世界を牛耳っていた『アルバート・マックス』という男も、それを滅ぼしたという『ワームウッド』という名のレイヴンも、実在したことは間違いない。そして何よりこのやり方が間違っていないということは、ここまでの成長を遂げた『終末の黒山羊』そのものが証明していた。
 部下の姿を横目で眺めながら、ユリアンは意気揚々とフィニールの中を歩き回っていた。誰もが今日の仕事の無事な終了を喜んでいる。まだ地位の低い彼らの姿は、過去のユリアンそのものだった。そのうちの一握りは彼のように幹部となり、残りは若いうちに命を落とす。命の重さが天秤で測られる世界。不毛な世界。そうだとわかっていても抜け出せない世界。
 自分の仕事に辟易しているユリアンの姿は――ノイローゼ気味の企業戦士と何ら変わるところがないものだった。誰だって、どこだって一緒なのだ。少し方向が違うだけなのである。
 ぴたん。
 ふと、ユリアンは足を止めた。周囲は薄暗く、透明な樹脂製の窓からは青い地球の輝きが見て取れる。いつの間にか彼は最下層の搬入通路へと足を踏み入れていたのだ。しかしそのこと自体には問題はない。問題があるとすればそれは、
 ぴたん。
 やはり、空耳ではない。どこか暗がりの中から音が聞こえてくる。右か、左か、はたまた上か。一体どこからなのかはよく分からないが、彼の耳が確かならば水滴のこぼれる音のようであった。それもただの水ではなく、微妙に粘りけのある、たとえば小麦粉を溶いた水のような――
 ぴたん。
 そのとき。つんとした悪臭が鼻を突き抜けた。眉をひそめ、鼻を覆う。普通ならば一秒たりとも嗅いでいたくないほどの悪臭。錆びた鉄に腐った卵を混ぜて便所に放り込んだような――汚らしいたとえだがまさにそのような――臭いである。
 ユリアンの額に冷や汗が浮かんだ。これは、臓腑の臭い。
 ぴたん。
 ぞくりと背筋を悪寒が走る。息を押し殺しながらユリアンは懐の拳銃を取り出した。壁に背を付け、油断なく銃を構え、隙なく周囲の様子をうかがう。音の発生源は、おそらく3メートルほど先にある脇道の奥にある。そしてこの臭いの主も。
 ぴたん。
 一歩一歩、確かめるようにユリアンは進んだ。脇道に通じる角がゆっくりと近づいてくる。そしてそれに合わせるかのように、辺りに漂う臭いも少しずつ濃くなっていく。近い。間違いなく、すぐ近くに何かがある。
 角の一歩手前までたどり着くと、ユリアンはごくりと唾を飲んだ。両手で構えた銃の重みを確かる。不思議と臭いは消えていた。ぴんと張りつめた緊張の中で、感覚は一方で研ぎ澄まされ、他方では全く鈍ってしまっていた。
 そして彼は床を蹴って、細い脇道へと飛び込んだ。
 ぴたん。
 そこに見えたのは赤黒い二つの塊でありその中から白くとがったものがいくつも覗きそれにはどろどろした液体がこびりついて臓器はそう臓器は辺り構わず散乱し耐え難い臭いを放ちおかしな方向に捻れた腕や切り離された頭そしてほとんどが削り取られながらも僅かに残った体の特徴で女だとわかるが彼はここでその視線に気付き上を見上げるとそこには爛々と不気味に輝く二つの光があった!
 ぐちゃっ!
 音と共に、拳銃が床に転がった。
 
 
 もう限界だった。ユイリェンは通路の真ん中に立ち止まり、膝に手を突いて折れた腰を支え、肩を激しく上下させながら荒い息を吐いた。さっきから走り通しで、ユイリェンの心臓は爆弾でも埋め込まれているのではないかと思えるくらい強く脈打っていた。走らなければ。そう思うのだが足はぴくりとも動かなかった。一度立ち止まったことで、彼女の精神はすっかり途切れてしまっていた。
「大丈夫?」
 心配そうにウェインが彼女の顔を覗き込む。さっきから同じペースで走っていても、彼は全く平気らしかった。技術はともかく、体力や純粋な力という面ではユイリェンはただの少女にすぎない。差は歴然だった。
「ごめん、調子に乗って飛ばしすぎたよ。少し休もう」
「でも……」
「いざって時にばてちまうよりはマシだろ?」
 ユイリェンははぁっと大きく息を吐いた。彼の言うとおりだった。敵に捕まり、ペンユウを奪われ、知らず知らずのうちに焦っていたのだ。とにかく機体を取り戻さねばと走り続けていたが、冷静になって考えれば敵に見つからないよう慎重に進んだ方が遥かにいい。
 まさか、そんなことをウェインに諭されるとは思ってもみなかったが。
 鋼鉄のように固く重くなった足を引きずりながら、ユイリェンは倒れるようにその場に座り込んだ。慌ててウェインがその体を抱きかかえ、近くの壁に背をもたれかけさせる。そしてうずくまる彼女の隣に、自分もちょこんと腰をおろした。
 淡い光が見える。ここがフィニールのどの辺りなのかはよくわからないが、少なくともどこかの外壁近くだということは確かだった。透明ポリマーの窓から見える、地球の青い輝きがなによりの証拠である。
 ――綺麗だなぁ。
 自分たちが今置かれている状況すらも忘れて、ウェインはぼぅっと窓の外を眺めていた。窓の向こうに見える光景の半分くらいは真っ黒な宇宙空間で、残りの半分を地球の痛烈な青が浸食していた。その光はあんまりにも強烈で、ウェインは目を瞬かせた。じっと見つめることもできない。光というよりは、連続して放たれる閃光と言った方が正しいのかもしれない。
 地球は滅びかけている。誰かがそう言っていたのを、ウェインはふと思い出した。環境問題とか、エネルギーの枯渇とか、希少動物の絶滅だとか。気が滅入るような資料を山ほど積み上げて、それでこういうのだ。地球は滅びかけている。滅ぼしているのは人間だ、と。まるで怪しい新興宗教だった。手相を見て、不吉だ、このままでは不幸が起きるぞと脅すのだ。そして法外な布施を要求する。あるいは、運気を上げるためのお守りを馬鹿みたいな値段で売りつける。本当にタチが悪い。
 一度この地球の姿を見てしまえば、そんなものに騙されることなんてないだろうに。見ろ、この嫌になるくらい明るく光る地球を。滅びるどころか元気がありあまって、所構わず暴れ回っているみたいじゃないか。
「きれい――」
 いきなり横から聞こえてきた声に、ウェインはぎょっとして肩を震わせた。恐る恐る――恐れる必要などどこにもないのだが――横に目を遣ると、そこには呆けた瞳で窓の外を見つめているユイリェンの姿があった。
 何か、変だ。別に外の光景をみて綺麗だということ自体はおかしくもなんともない。彼だってさっきまでそう思っていたのだ。だが、ユイリェンがこうして外を眺めているのには奇妙な違和感を感じてしまう。言葉にはできない。しかし、何かが変だ。
 はっと、弾かれたかのようにユイリェンは顔を伏せた。一体何に気付いたのか知らないが、しばらくうつむいていたユイリェンは突然に顔を上げると、隣のウェインに小さな声で呼びかけた。
「ウェイン」
「何?」
 彼女の視線は変に真摯で、ウェインはどぎまぎしてしまった。すぐ近くにあるはずの彼女の顔が、遥か遠くへと去っていく。実際には全く動いてなどいない。しかしたまに感じるあの感覚――手の届く距離にあるものが、ずっと遠くにあるように見える。これは俺だけが感じる感覚なのだろうか。単に目が疲れた事で狂いが生じているだけなのだろうか。
 違うような気がした。彼女の黒い瞳がそんな気にさせていた。
 彼の内心の葛藤など知る由もなく、ユイリェンは出し抜けにこう問いかけた。
「きれいって、なに?」
「はぇ?」
 思わずウェインは間の抜けた声をあげていた。予想だにしない――おそらくユイリェンもそのことは自覚している――問いだった。きれい? 綺麗って。普段何気なく耳にして、何気なく使っている言葉が頭の中を駆けめぐる。不思議と、なじみ深い言葉に限って正確な意味を説明できなかったりするものだ。
 目を丸くしているウェインをしばらく見つめると、ユイリェンはまた低くうなだれた。その瞳には見たことのない色が浮かんでいた。悲しみ? いや、違う。その感情は、きっとウェインもよく知らない、ましてユイリェンはもっと知らないものに違いない。
「ごめんなさい」
 声は低く落ち着いていた。いつものユイリェンだった。
「変なことを聞いたわ」
 確かに変な問いではあった。しかし、妙に答えが気になって仕方がなかった。綺麗ってなんだろう。答えのでない疑問を、ウェインは何度も自分に投げかけた。それでもわからなかった。しかし考える。やはりわからなかった。それでも考える。どうしてもわからない。
 彼を突き動かしているのは、好奇心だった。
「綺麗ってのは」
 ユイリェンみたいな人のことを、言うんだよ。口からこぼれかけた馬鹿な答えを、ウェインは慌てて飲み込んだ。ぶんぶんと頭を振る。だめだ、こんなくさい台詞死んでも言えない。でもきっと、あの若社長あたりなら平気で言ってのけるのだろう。この辺が自分とあの男との差なんだなぁと、ウェインは溜息混じりに痛感した。
 ふと気が付くと、ユイリェンが例の真っ直ぐな瞳でこちらを見つめていた。ああ、いけない。目を合わせることができない。瞳を見た途端に耳まで真っ赤になってしまいそうだった。もしかしたらもうそうなっているのかもしれないが。
「綺麗ってのは……えっと……」
 何か言わなければ。気持ちだけが焦って、ろくな言葉が浮かばなかった。浮かんだら浮かんだで、くさすぎたりださすぎたりで一瞬にして切り捨てられる。どうしよう、綺麗とは――綺麗、綺麗綺麗――考えすぎて、つい正直な答えが口を吐いて出た。
「わかんない……」
 ユイリェンの視線がじっとりとしたものに変わった。
「あっ、いや、なんつうの、そうじゃなくて……なんていうか、こう、感じるんだよ。この辺が、ぐって熱くなって」
 途切れ途切れになりながらも、なんとか言葉をひねり出す。半分は自分を落ち着かせるために、ウェインはそっと自分の胸に手を当てた。そして隣の少女に、わかるかな、と目で問いかける。
「言葉じゃうまく言えないけど、何か感じるんだ。痛いような、苦しいような、嬉しいような、変な感覚。そういうのじゃないかな、綺麗って」
 よくわからなかった。ただユイリェンはぼうっと彼の顔を見つめ、そしてなんとなく声を出した。喋ろうとか、尋ねようとか、そんなことを考えていたわけではなかった。ただ声は漏れていた。まるでにじみ出るように。
「みんな、そうなの」
 ウェインは首をひねった。
「わかんない。でも、俺は」
 ふっと小さく微笑み、ユイリェンは正面に向き直った。いやがうえにも地球が輝く。いや、本当に星は光を放っているのか。逆ではないのか。光を放っているのではなく、黒い闇をえぐっているのではないのか。そんな気がした。
「そう」
 彼女の声は消え入りそうに小さく、しかしやけに力強かった。
「私と一緒なのね」
 澄み渡り、澱みの欠片もない、透明な。そう、それこそが綺麗な声であった。彼女は概念を理解できずに苦しみながら、自らすでにそれを実践しているのだった。あるいはそれに自覚的になった瞬間、綺麗という感覚は失われてしまうのかもしれなかった。考えれば考えるほど、かき混ぜれば混ぜるほど、しっとりと広がる透明感は薄れていくのだ。言葉という不確かな仮面が、ゆらりゆらりとたゆたって消えていくように。
 ユイリェンはすっくと立ち上がった。さっきまであれほど激しく脈打っていた心臓は不思議と収まり、まるで湖の水面のように静まりかえっていた。もう休憩は十分、また走ることができそうだった。
「もういいの?」
「ええ。大丈夫」
 その答えに満足して、ウェインはにっこりと微笑んだ。腿に力を込め、その筋力だけで跳ねるようにして起きあがる。それなりに鍛えられた筋肉でなければできないことだった。二人はうなずき合い、再び走り出した。
 そのとき。
 ――   ――
 はっと気付いて、足を止める。二人が二人とも――同じ事に気付いたらしい。
 音が聞こえた。
 ――  ん――
 耳を澄ます。
 ぴたん。
 聞こえる。はっきりとした音が。水が――あるいはもっとどろりとした何かが――したたり落ちる音。そう遠くない。どこかで確かに音がする。
 ユイリェンの背筋に悪寒が走り、音が聞こえるのではないかと思えるほど急に肌が粟立つ。その小さな音は、薄暗さと地球の青白さに満たされた通路の中に不気味に響き渡っていた。恐怖。不安。そんな感情ばかりをやたらと目覚めさせる。
 ぴたん。
「なんだろ……」
「わからない」
 一言二言呟いてから、二人はゆっくりと歩みを進めた。音がしているとおぼしき方向へ。もしかしたら、ただ水道管か何かから水漏れしているだけなのかもしれない。しかし心の中からは嫌な予感が消えなかった。決定的に違う何かが、その音に含まれている。
 ぴたん。
 突然、それは二人の鼻を襲った。強烈な悪臭。まるで鉄錆びのような、そして腐り水のような、生ゴミのような、耐え難い臭い。ユイリェンの額から汗が噴き出した。この臭いは、まさか。
 近くの換気ファンに吸い込まれたせいで今まで臭わなかったのだろう。となれば、臭いの元はすぐ近くにある。
 こつっ。何かがユイリェンのつま先に当たった。視線を下げて足元を見る。それは拳銃だった。カッパーフィールドF−14SD2『リバーボア』。あまり銃に詳しくないユイリェンでも名前くらいは知っている。扱い安さと安定性で知られた名銃である。
 すっとしゃがみ込むと、ユイリェンは人差し指の先で銃を突っついた。とりあえず持てないほど熱くはない。恐る恐るグリップを手に取る。微かな暖かさが手のひらに伝わってくる。少し前に誰かがこれを撃ったという証拠だ。
「銃? どうしてそんなものが」
 ぴたん。
 例の音が彼の言葉を遮った。
 奇妙な音。悪臭。そして、落ちていた拳銃。いくつもの状況がユイリェンの頭の中でパズルの如く組み上げられ、一つの絵画となる。立ち上がり、彼女は闇の中に目を向けた。少し先に細い脇道に繋がる角がある。おそらくは。
 ぴたん。
 ヤスリで神経をがりがりと削り、研ぎ澄ましていく。目、耳、鼻、全ての感覚を集中させて、ユイリェンは脇道へ一歩を踏み出した。額にじんわりと汗が浮かぶ。使い慣れない拳銃を両手でにぎる。また一歩。
 ぴたん!
 それと同時にユイリェンは脇道へと一気に飛び出した。脇を締めて拳銃を構え、その鋭い銃口を通路の奥にわだかまる闇に突きつける。
 ぴたん。
 ユイリェンは言葉を失った。そして少し遅れてついてきたウェインもまた。想像を超える有様に、二人はただ呆然と立ちつくした。
 始めに見えたのは、闇の中で奇妙に浮かんだ白だった。細長く、鋭い白。柳並木が一様に枝葉をしならせているように、その白はてんでバラバラな方向に緩やかにしなっていた。半ばで折れているもの、隣とお互いに寄りかかり合ってかろうじて立っているもの。色々な白があった。
 それが剥き出しの肋骨であることに気付くには少しばかりの時間を要した。
 そして次に、黒いわだかまりが目に入った。あるものは肋骨を囲むように、またあるものは汚らしく床に散らばって、いずれももこもこと柔らかな膨らみを見せていた。丁度チョコレートパウダーを混ぜて焼いたスポンジケーキのようだった。
 それはぐちゃぐちゃに湿った肉片だった。
 最後に、細長い蛇の姿に気付いた。その蛇はぴくりとも動くことなく床にのびていた。死んでいるようだった。白くて、ところどころ赤黒い模様のある蛇だった。ただ、蛇にしては妙にぐねぐねと折れ曲がっていた。そしてやけに細く、そのわりに長かった。どうしようもなく不快な臭いを放っていた。
 体からでろりと飛び出した腸だった。
 死体だった。
 そこにあったのは、男のものが一つ、女のものが二つ、全部で三つの死体だった。それもとびっきり奇怪な死体だった。殺す理由が見あたらない死体だったのだ。
 人間がその障害を取り除くために殺すのならば、肉や骨を撒き散らして悪臭をばらまくような殺し方はしない。首を掻き切るか絞めるかして、もっとスマートに殺すはずである。まして動物が喰らうために殺すのならば、こんなにもったいない食べ方をするわけがない。赤身はおろか、旨そうな内蔵まで残っているのである。
 それならば。殺戮者が最大化しているもの、ありていに言えばその目的はただ一つしか考えられなかった。それは見世物にすることだった。この三人は、観客を恐怖に凍り付かせるためだけに殺されたのである。
 反吐が出る。
「ユイリェン――これって――」
「――わかってるわ」
 ウェインの声は掠れて、しかも震えていた。無理もない話だった。胃に何も入っていなくてよかった。感情を押し殺すことに慣れているユイリェンでさえ、胸がむかついて仕方がなかった。まして多感なウェインのこと、受けた衝撃ははるかに大きいはずだった。
 ぴたん。
 例の音が響いた。壁に張り付いた血液が、ゆっくりと滴り落ちる音が。
「何かがいる。この場所に」
 宇宙ステーション『フィニール』は、かくして殺戮劇の舞台となった。
 
 
 ああ。
 『それ』は低くうなった。獣のうなりというよりは、まるで人の声だった。優しく甘く艶めかしい女の声だった。ずぐんずぐんと脈打ちながら奥まで入り込んでくる異物感に耐えきれず、女がのどの奥からひねり出す恍惚のうめき声であった。
 侵略したいという欲望と侵略されたいという欲望は奇妙な仲立ちを得て一つとなり、それらは共に叶えられ、やがて体を引き裂かれる痛みが、相手を締め付ける力が快感となって、最後に全ては纏まって呼気へと変わり、のどを震わせながら声となるのだった。
 殺してくれ。
 『それ』は願った。切ない哀願だった。そして右腕を――今や前足と化したそれを――ぶぅんと激しく振るった。目の前にいた男が吹き飛んだ。遠くの壁に叩き付けられて彼は肉の人形へと姿を変えた。
 殺してくれ。
 どこかで誰かの声が聞こえた。こっちこそ声ではなく獣のうなりのようだった。か弱い小さな草食動物が、仲間に危険を知らせる甲高い悲鳴に近かった。実際悲鳴だったし、仲間に危険を知らせる役割も果たしただろう。ただあんまりにも周波数が高くて耳障りだったので、『それ』はその声の主も適当に始末した。
 殺してくれ。
 先刻の悲鳴が功を奏して、どやどやと大勢の人々が近寄ってきた。それぞれ手に思い思いの武器を持っているようだった。銃口はすべて『それ』の方に向けられていた。そして音が鳴った。パンパンと何かが弾けるような音がいくつも重なり合った。鉛の弾丸がいくつもいくつも迫ってきた。『それ』の周りは恐ろしいほどの敵意がいくつもいくつもいくつも取り囲んでいた。
 殺してくれ。
 死ななかった。狙いが甘いせいで突拍子もない方向へ飛んでいく弾も多かったが、それでもいくつかは間違いなく『それ』に当たっていた。しかし死ななかった。筋肉に深く食い込んだ弾丸は、その筋肉の収縮によってぞわりぞわりと体内を動き、やがて弾丸自身が穿った穴からぺっと吐き出された。瞬きするほどの時間の後には、ぼこんぼこんと傷口が蠢き、完全にその穴も閉じられてしまった。
 殺してくれ。
 そして『それ』は轟と吼えた。
 
 
 フィニールのメインホールに踏み込んだところで、ユイリェンはぴたりと足を止めた。隣のウェインもまた。
 例の臭いが鼻を衝く。ただそれは、前のものよりずっと強く、なおかつ混沌としていた。三つばかりの死体が放つ悪臭どころではない。そこにはいくつもの肉片が転がっていた。一つ。二つ。三つ……八つ。全部で八つの死体。胸を踏みつぶされ、頭を吹き飛ばされ、首をねじ曲げられ、肩口から切り裂かれ、無惨な――それでも最初の三つほど凄惨ではない――姿をさらす死体。
 そしてその中心、一歩踏み出すごとにぴちゃりと音がしそうなほど血で濡れた部屋の中央に、一つのわだかまりがあった。『それ』は立っていた。死者が作る山の頂に、四つん這いになって立っていた。
「なんだ……あれ……」
 ウェインが唸るように言った。
 一見して『それ』は虎のような姿をしていた。緩やかな曲線を描く背筋や、しなやかでかつ力強そうな脚の筋肉などは色濃くネコ科動物の特徴を持っていた。しかし『それ』が虎でないことは明らかだった。その短い体毛は黒一色で覆われていたし、顔つきなどは狼に近かったのだ。
 そして何より虎と異なっていたのは――大型のワゴン車ほどもあろうかというその体躯。
「生物兵器よ」
 生物兵器――その存在自体は、それほど珍しいものではない。戦史上何度も登場し、その度にある程度の成果をあげている兵器の一形態である。地球歴前4000年頃には馬や象が兵器として使用されていたし、通信連絡に鳥や犬が用いられたことも希ではない。
 そして戦時中にはいくつもの生物兵器が研究開発された。最も有名なのは開戦の一因ともなった自己増殖能力を有する組織型兵器『バグ』だが、その他にも生化学系企業を中心として多種多様な生物兵器が実戦投入されている。ただそのほとんどは安定性に難がありしばしば暴走を引き起こしたため、戦後のアイザック休戦軍縮条約によって開発及び製造が禁じられていた。
 しかし条約が完璧に守られることは、特に大企業においては極めて希であった。どの企業も条約違反兵器の研究を続けていることが事実であり、現にユイリェンの愛機『ペンユウ弐』もその成果であるという実例もある以上、どこかで新たに生物兵器が開発され実験投入されたとしても何ら不思議はないと言えた。
 あまりの血の臭いに腹の奥底から込み上げてくるものを必死で抑え、ウェインはユイリェンの耳元で囁いた。
「……こっそり逃げない?」
「無理よ。だって」
 ユイリェンは溜息混じりに答え、果たして『それ』が頭を持ち上げた。ゆらり、ゆらりと大きな狼の頭を持ち上げた。そしてぐるりと振り返った。ぎらぎらとまるで地球のように激しい光を放つ両目が睨んだ先は――ホールの入口で立ちつくす二人。
「もう気付かれているもの」
 
 こつっ。
 広く閉ざされた空間では、彼の靴音が特別よく響きわたる。澄み切って静まりかえった水面に雫を垂らしたように、音の柔らかな波紋はじわりじわりと広がって次第にその力を失い、やがて壁ではじき返される前に薄れ消え去っていく。
 彼は自分を中心にして広がるいくつもの同心球をはっきりと感じ取っていた。その球はまさしく彼が放った音に他ならなかったのだが、同時にそれは堅固な結界でもあった。空間を満たす靴音が彼の壁であった。その靴音の届くところ、彼の壁が囲うところ、たった一人で奏でる交響曲に満たされたところ、それは全て彼の領域、彼の城と呼ぶに相応しい場所だったのだ。
 自分の世界。自分が好きに創っていい世界。自分勝手な世界。なんて素晴らしい世界。
 まっくろなせかい。
 こつっ。
 彼はまた一歩を踏み出した。そして床と触れ合った靴底は、またしても固い音、すなわち世界の壁となる同心球を生み出した。ただそれは、世界を広げるための一歩ではなかった。既に決まっている世界を確かめるための一歩だった。この位置で靴を鳴らせばどこまで音が届くか、それはもう決まっているのだ。それをこれ以上広げることも狭めることもできない。ただ彼が求めているのは、どこまでが自分の交響曲の届く範囲なのか再確認すること、それによる自己満足なのだった。
 こつっ。
 自己満足の領域がまたしても広がる。
 そして彼はゆらりと髪を揺らした。汚らしい灰色の髪だった。首が隠れるくらいの長さをもつ灰色の髪は、ろくに手入れもされずゴルゴンの蛇のようにのたうっていた。ただ、一体どうしたことか。その灰色の髪は、どんな黒髪よりも闇色に見えた。
 確かにそこに在るのにまるで無いようだった。確かにそこに居るのにまるで亡いようだった。彼の存在とはそうしたものだったのだ。無をひたすらに望み続ける有。喪失をひたすらに求め続ける愛。それが彼の全てだった。
 こつっ。
 
 轟!!
 『それ』が、吼えた!
 『それ』の脚が力強く床を蹴り、血のぬめりなどものともせず二人へと飛びかかってくる。丸太のような太く逞しい前足からは、さっきまで体内にしまい込まれていたかぎ爪がいくつも生えていた。こんなものの一撃をくらえば、きっとユイリェンの華奢な肢体など簡単に吹き飛んでしまうだろう。足元に無造作に転がっている死体のように。
 ユイリェンは床に転がるようにしてその爪をかわした。誰かの血がぴちゃぴちゃとジャケットに付着する。なんてことだ。血の色そのものは洗えば落ちるかもしれないが、きっとこの鼻が曲がりそうなほどの臭いは取れないだろう。お気に入りだったのに!
 一方のウェインは、ひょいと体を捻るだけであっさり爪を避けている。やはりユイリェンに比べると、圧倒的に肉弾戦に慣れているのは明らかだった。
 床に片膝を突いた姿勢のまま、ユイリェンはさっき拾ったリバーボアを両手で構えた。実戦で使うのは初めてだが、射撃訓練は受けている。狙いは頭。一撃で脳まで食い込ませる自信はあった。しかし、まだ撃つには早い。
 ゆったりと、『それ』が向きを変える。適度に引き締まった筋肉をもつ脚を曲げ、ぴちゃり、ぴちゃりと足の裏を血の海に叩き付けて。その狼の頭を低く下げて、『それ』はすくい上げるようにユイリェンの瞳を睨み付けた。目が光る。ぎらり。
 そして『それ』が再び地を蹴る。口を大きく開き、ユイリェンの頭を丸飲みにしようと飛びかかってくる。そのとき、時間の流れが遅くなった。ゆっくりとコマ送りのように流れていく映像。ユイリェンはぴたりと狙いを定めた。ただ一点、狼の眉間に。そしてその牙が目前まで迫った瞬間!
 ずふっ!
 銃口から飛び出した鉛の弾丸は、『それ』の頭蓋を打ち砕き、脳に食い込み、汚らしい半透明の液体を飛び散らせた。脳漿の飛沫がユイリェンの頬に数滴かかる。そしてずぅんという轟音が響いた。『それ』の巨体が床に倒れ、それっきりぴくりとも動かなくなる。
 ふぅっ。軽く息を吐くと、ユイリェンはさすがに不快そうな表情を浮かべながら袖口で頬を拭った。膝立ちの状態から立ち上がり、生物兵器のなれの果てを見下ろす。案外あっけなかったが、外見から大体の生態が推測できる以上、対処するのはそれほど困難ではなかったのだ。
 ユイリェンは呆然と突っ立っているウェインの方に向き直ると、いつもと変わらない口調でこう言い放った。
「さあ、はやく地上に戻りましょ」
「動じない人だなぁ、ほんと……」
 彼が呆れ半分で呟いた、その口がぴたりと止まる。そして次の瞬間、彼は腹の底から叫び声をあげていた。
「まだだユイリェン!」
 
 ――油断せぬことだ。
 彼は頂華の中を先ほどと変わらない調子で歩み続けていた。こつっ。こつっ。無機質な通路を無機質な靴音が駆け抜けていく。ゆっくりと、何かを――おそらくは彼自身にしかわからない何かを――確かめるように。
 焦ってはいけない。そう、焦ってはいけないのだ。急いては十分に満足することができない。33年前がそうだった。地球歴177年、あの頃彼は15歳の若造だった。しかし若い彼も人並みに女性を愛することを憶えた。相手は随分と年上の女性だった。おまけに彼女には夫さえいた。9つになる息子もいた。それでも彼は彼女を愛してしまった。決して実らぬ片想いだった。
 残念だった。彼は焦りすぎたあまり、十分に自分の愛を伝えることができなかった。そうこうしているうちに彼女は死んでしまった。いまだに後悔の念が頭を離れない。
 ――脳細胞を破壊した程度で死んでいたのでは、単独兵器として役に立つまい?
 その心の声は、誰に向けられたものだったのか。
 
 衝撃が体を走る。ユイリェンは吹き飛ばされ、床に叩き付けられた。苦痛のうめき声が喉を漏れる。とはいえ、多少背中を打った程度で外傷はほとんどなさそうだった。ぴりぴりと肌を刺激する痛みを堪え、ユイリェンは腕に力を込めた。しかし起きあがることができない。何か重たいものが彼女の上に覆い被さっている。
 やけになま暖かく重たいそれ――ついさっきも同じ重みを感じたような気がするが――の下から、ユイリェンは這うように抜け出した。なんとか腰から上だけ自由になると、再び腕に力を込めて上体を起こす。
 そして、彼女は言葉を失った。じっと動きもせずに彼女にのしかかっていたもの、それは――
「ウェイン!」
 彼はぐったりと横たわり、もはや指先一つも動かそうとはしなかった。彼の腕から脇腹にかけて、赤々とした傷跡が姿を見せる。分析などしなくても一目でわかる。生物兵器の爪にえぐり取られたのだ。
 なんてことだ。ユイリェンは奥歯を噛みしめた。死んだはずの生物兵器が再び動き出した瞬間、彼はテロリストの死体が持っていた電磁警棒を手に取り、ユイリェンの目の前に飛び出して自ら盾となったのである。警棒で多少は力を受け流せたようだが、それでも彼は――
 生物兵器は、遠くで悲鳴にも似た雄叫びを上げている。その全身から立ち上る黒煙。体内に機械部品でも組み込んでいるせいなのか、電流にはそれほど強くないらしい。しかし脳を破壊されても再生するような奴である。電磁警棒の一撃などでは一時的に足を止める程度の役にしか立たないだろう。
 うぅ。小さなうめき声。
「ウェイン――」
 彼の頭は今、ユイリェンの膝の上にあった。ウェインはうっすらと瞼を持ち上げ、そして見たはずだ。呆然と自分の顔を覗き込むユイリェンの瞳を。
 ウェインは唇を微かに震わせた。
「――格好悪ぃ」
 
 え?
 
 一瞬、彼女には何が起こったのか理解できなかった。
 ただ見えたのは、ことりと力無く垂れ下がった彼の腕と、閉じられた瞼と、かすれた声を発したきり沈黙を保ったままの唇だけだった。そして感じ取れたものはもっと少なかった。たった一つだけ。それは、
 薄れていく、ウェインの体温。
 彼の暖かさが失せていくにつれて、ユイリェンの朦朧とした意識が逆に鮮明になっていく。はっきりと、しなくてもいいと思うのにはっきりと、自分の目の前にあるのが何なのか、自分がしなければならないことが何なのか、雷鳴が駆け抜けるようにユイリェンは理解した。
「ウェイン!」
 叫びながら、耳を彼の口許に近づける。同時に人差し指と中指をそろえて首筋に押し当てる。何も感じ取れなかった。吐き出される空気も、頸動脈の拍動も!
 不思議な感覚だった。自分の中からふつふつと熱く不快な何かが込み上げてくるたび、逆に冷静になっていく自分の表層がいた。自分の心臓のパルスすら停止させ、ユイリェンはただの機械へと成り下がろうとしていた。冷たいオイルの血にまみれた機械だった。彼を助けなければ。ユイリェンは、ただそのためだけの機械に生まれ変わったのだ。
 そっと自分の腿とウェインの頭の間に左手を差し込み、肩を右手で支えて、首にぴくりとも振動を与えないように床に寝かしつける。衝撃で心停止を起こしている今回の場合、頸椎が損傷している可能性が十分にあった。本来なら上を仰ぎ見るような形に頭を固定して気道確保するのだが、その可能性があるせいであごを下げるにとどめておく。
 ユイリェンは右手で彼の鼻をつまんで塞ぎ、ためらうこともなく自分の唇でウェインの口を覆った。肺に溜めた空気を相手の肺に送り込む。一度唇を放して彼の胸に目を遣る。膨らんだ肺がゆっくりとしぼんでいくのがはっきりと見て取れた。それからもう一度唇を付け、吹き込む。
 二度の人工呼吸が終わるとユイリェンは乱暴に彼の服を破り、胸をはだけさせた。みぞおちに人差し指と中指をそろえてあてがい、位置を確かめる。そこに手のひらを重ねて乗せて、自分の体重を乗せて強く胸を圧迫する。1回。2回。
 ああ。ユイリェンはだんだんと感情が高ぶってくるのを感じた。ウェインの体は急速に熱を失い、手のひらに力を込めるたびにもろくも胸板がへこむ。まるで彼が人形になってしまったかのようだった。彼はもう人ではないのかもしれなかった。
 轟。
 『それ』が吼えたのは、ユイリェンが二回通りの処置を終えた後だった。数十秒。ウェインの攻撃が創り出した数十秒は、彼を救うにはあまりにも短すぎた。見れば『それ』の体から立ち上っていた黒煙はすでになく、怒りに燃えるぎらぎらとした視線をこちらに投げかけている。
 首筋から指を放して、ユイリェンは立ち上がった。何の鼓動も感じ取れないこの指が憎い。ぎゅっと、音がするほどにユイリェンは拳を握った。
 ――彼は、死んだのだ!
 
「血のたぎりを、感じるか」
 彼はねっとりとした声をあげた。心の中で呟いていたはずの言葉は、はっきりとした音になって現れ出た。それは彼の髪と同じ色の声だった。灰色の、のたうちまわり、浸食する蛇だった。彼自身のこつりこつりという乾いた靴音に、その声は編み込まれるようにからみついた。
 交響曲だった。
「怒りに身を、任せるか」
 歓喜よ、と彼は呼ばわった。
 なんと喜ばしいことか。彼女は足を踏み入れようとしている。彼が聖殿へと踏み入る前に、彼女は自ら天国から堕ちようとしている。因果律が切り離した断片を結びつけることもなく、柔らかな翼で人々に安らぎを与えることもなく、彼女は白い翼をうち捨てて野に堕ちようとしている。
 神の美しい火曜から逃げ出して。
「来い。おれは、ここにいる!」
 
 殺す。
 ユイリェンが、変わった。
 それははっきりとわかる変化であった。たった一点、その瞳だけに訪れる変化であった。
 彼女の瞳がぎらりと光った。いや、逆だった。全く光ろうとしなかった。光を蝕む光を放っていた。あどけない表情で星の光に感動していたユイリェンはもういない。膝の上に彼の頭を抱いて呆然としていたユイリェンはもういない。ただそこにいるのは、瞳から恐怖を孕んだ闇を放ち、怒りのままに喉笛を噛み切ろうとする一匹の獣だった。
 殺す!
 轟!
 『それ』が走った。口をがぱっと開き、牙をぎらぎらと光らせ、よだれをだらだらと撒き散らして、『それ』は勢いよく走った。ユイリェンは身構える。右手には拳銃。しかし撃ったところでどうなる。脳を打ち砕いてもしなない怪物。どうすればそいつを殺すことができる?
 方法は一つ!
 たんっ!
 真後ろへと飛びすさりながら、ユイリェンは適当に引き金を引いた。何発か銃弾が弾け、『それ』の肉に気持ちいい音をたてて食い込む。しかしそれも一瞬の足止めにしかならなかった。『それ』は軽く身をひねり、体の中に入り込んだ弾丸をぺっと吐き出す。すぐさま傷口が再生し、ふさがった。
 だがユイリェンにとっては一瞬で十分だった。踵を返し、ホールから抜け出す方向に向かって一直線に駆け抜ける。
 あそこへ。あそこへ行けば。
 
 宇宙ステーション『フィニール』、最下層第三ゲート。宇宙船その他の発着点となる場所である。横の倉庫にはいくつもの作業艇や、AC、MTなどが格納されている。ユイリェンのペンユウもおそらくはこの辺りにしまわれているのだろう。
 しかし、彼女の目的は愛機ではない。ACの起動には多少時間がかかるし、それ以上にこんな狭い空間では大した活躍はできない。
 ユイリェンはじっと、ある場所に立って『それ』が来るのを待っていた。そこは一際小さなゲート。MTでも通ることができない、小型の作業艇と宇宙服を着た人間のためのゲートである。
 そして。轟といううなりが聞こえた。
「待っていたわ」
 ユイリェンは言った。その声は普段と何ら変わりがないように思われた。冷淡で、澄んでいて、綺麗な声。彼女の声は閉ざされたゲートという空間に響き、幾重にも重なって辺りに広がった。
 ぺたん、ぺたんと『それ』が歩く。何かに導かれるように。
「私は何も知らない。私を生かしているものが何なのか、私を突き動かしているものが何なのか、全く知らない。自分の激情の意味さえ、あなたが獣であるということさえも忘れてしまいそう。
 それでも私は――」
 たん! 『それ』が床を蹴り、ユイリェンに飛びかかった!
「あなたを殺さずにはいられない!」
 ユイリェンはぐっと身を屈めた。恐ろしい勢いで跳躍する『それ』の足元を転がってくぐりぬける。『それ』の爪が、彼女の髪を軽くかすめた。長い髪を束ねていたリボンが千切れ、ばさりと何万本もの糸が体にまとわりつく。しかしそれを不快に思うことすらなく立ち上がり――
 彼女は、壁面のパネルを操作した。
 ごぐん!
 低い響き。ゲートが開いていく。宇宙空間に繋がる天国への扉が開いていく! そして室内にあった空気は、圧倒的な圧力の差が生み出す力によって虚無の空間へと吸い出される。その中にあることごとくを巻き込んで!
 ユイリェンは必死でパネルのそばの取っ手につかまった。パネルを操作するものが外に放り出されないように、体を支える場所が備えてあるのである。しかし『それ』は違った。突然の突風に驚き、轟と吼え、必死でつるつるの何もない床に爪を立てようとする。
 だが無駄だった。ふわりと『それ』の巨体が宙に舞い、悲鳴を上げながら死の暗闇へと吸い込まれていく――
 その姿を哀れむでもなく憤るでもない視線で見つめながら、ユイリェンは再びパネルを操作した。すぐさま重い音がして、ゲートがゆっくり閉じていく。
 再び扉が閉まり、風が収まった後には――
 ただ、床に力無くうずくまるユイリェンのみが残されていた。
 
 どうして。
 どうしてこんなことに。
 ユイリェンは自分の無力さを呪った。彼を護りきれなかったとか、彼を助けられなかったとか、そんな生やさしいものではなかった。足手まといだった。私は足手まといだった。あの化け物を撃ち抜いて、得意になって、警戒することを忘れた。そのせいで彼は盾となって死んだ。
 私は、どうすればいいのだろう。
 私は、どう生きればいいのだろう。
 奇妙だった。あの日、企業という枷から抜け出したあの日から、私は自由に生きてきたはずだったのに。自由に生きてきた者が、どうして自分の道を見失うだろう。ずっと自分で道を探しながら歩いてきたものが、どうして道を決められずに途方に暮れるだろう。
 私は自由などではなかったのだ。またしても。
 そしてそれに気付く為に失ったものは、あまりにも大きい。
「ウェイン」
 自然とユイリェンの口から彼の名前が溢れ出た。どうしてなのかは誰にもわからない。なぜなら彼女は、何も知らない少女にすぎないのだから。
 こつっ。
 そのとき、音がした。
「愚かだ」
 誰かの声がした。奇妙な声だった。ねばねばとして不快な声だった。そしてやけに暗かった。怖かった。まるで心の奥底に直接入り込んで、恐怖の種を植え付けているかのようだった。聞いたこともない嫌な声だった。
 ユイリェンは顔をあげ、そして立ち上がった。予感がする。背筋が凍えそうな、なにか大変なものが近づいているという予感が。
「愚かで、そして哀れだ。
 死んだ男がそんなに大切かい」
 闇の中からそいつは現れた。灰色の男。そうとしか形容できなかった。
 灰色の髪。灰色の瞳。白人のようだったが、それにしても青白くて不健康そうだった。顔にはいくつもしわが走り、40過ぎの中年であろうということは容易に予想できた。服装も全身を灰色の長い外套ですっぽりと覆っており、やけに古めかしい。
 ただ、そいつの闇のような瞳の輝きに、ユイリェンはぞくりと身を震わせた。
「誰」
 額に玉の汗を浮かべ、彼女は問いかけた。
 灰色の男はにぃっと唇の端を異様に高い位置まで吊り上げた。それは悪魔の微笑みだった。見ているだけで全身が凍り付きそうだった。一体なんなのだ。この男は誰なのだ。どうしてこんなにも、私は恐怖しているのだ!?
 そして男は答えた。全てを呪うような声で。
「――ノイエ」
 
 ――狂える闇が、炎を侵す。
 
「あなたが送り込んだの」
 ユイリェンは右手に力を込めた。そこに握られているのは、拳銃だった。答え次第ではこれに火を噴かせることも彼女は辞さないだろう。化け物を殺し、一度は悲しみへと転化されていたされていた怒りがまた沸き上がる。どくんどくんと心臓が鼓動した。
「そうとも」
 いともあっさりと灰色の男――ノイエは答えた。
「あれは、我々の最新兵器――ギアという。その実験型第一号だ。
 おかげで良い実験ができた。感謝するよ」
 実験。
 ぎりっと音がした。ユイリェンの歯軋りの音だった。見えないものが見える。自分の心が闇に染まっていく、その様子が手に取るようにわかる。まだ終わっていない。この男を殺すまでは、まだ終わらない!
「あなたも殺すわ」
 銃口を突きつけ、ユイリェンは言った。
「どうぞご自由に」
 だんっ!
 引き金を引いた次の瞬間、彼女は我が目を疑った。
 消えていた。ついさっきまで正面にいたノイエとかいう男が、忽然と姿を消していた。幻でも見ていたのか? ――いや違う!
「焦りすぎじゃないのかな、ユイリェン」
 どくん!
 心臓が一際強く脈打った。あのねっとりとした声は後ろから聞こえた。恐怖と驚愕と焦燥を顔いっぱいに浮かべて、ユイリェンは振り返った。そして認めた――そこに灰色の男が何事もなかったかのように立っているのを。
「焦ってはいけない。焦ってはね」
 ノイエの粘りけのある声は、この時に限って優しい教師のようだった。
 いくつもの疑問がユイリェンの頭を駆けめぐった。この男は何者だ。ギアとは何だ。なぜ私の名前を知っていた。そして何より、どうやって後ろに回り込んだ!?
「また会える日がくる。その時まで、楽しみはとっておこうじゃないか」
 そして次の瞬間!
 ゴウンッ!
 爆音と共にゲートが外側から吹き飛び、大穴があく。その向こうは当然――宇宙空間。再び空気が外に吸い出される。ユイリェンは慌てて近くの取っ手を握りしめた。しかしノイエは――
 つかまるどころか、自ら宇宙に飛び出していく!
 ユイリェンは外へ力無い人形のように吹き出されていくノイエの向こうに、巨大な影を見た。宇宙船。どこの企業のものだかはわからないが、地球圏航行用の中型宇宙船である。この攻撃もおそらくノイエを逃がすためのもの――奴はあの船に拾われるつもりなのだろう。
 周囲にけたたましいブザーが鳴り響いた。異変を感知して補助隔壁が緊急閉鎖される。そとの宇宙とノイエの姿は少しずつ閉じていく穴の向こうに消えていった――
 
 やがて全てが収まったあと、ユイリェンはじっと閉じたゲートを見つめ続けていた。あの男――ノイエ。奴は必ず現れる。そして自分の最も恐ろしい敵となる。根拠や証拠など何もないが、ただ彼女は直感していた。
 灰色の男。
 そして真剣な眼差しでゲートを見つめる彼女の耳に、軽い声が響いてきた。
『ユイリェン! そこにいる!?』
 聞き慣れた軽い男の声。
 ――え?
『聞こえたら返事してくれよ……おーい、ユイリェン』
「ウェイン!?」
 思わずユイリェンの声は裏返った。ゲートの操作パネルにある通信端末から聞こえてくる声は、紛れもなくあのウェインのものだった。そんな馬鹿な。その次に彼女が発した問いは、自分でもあんまりだと思うほど間が抜けていた。
「死んだんじゃ……なかったの……?」
『おいおい勝手に殺さないでくれよ、気絶してただけだって。それで、目が覚めたらユイリェンも化け物もいないし……どこ行ったのか心配してたんだぜ。……ねえ、ユイリェン? どしたの、聞こえてる?』
 眉をぴくぴくと震わせ、ユイリェンは体中の音という音を絞り出すように叫んだ。
「馬鹿ッ!!」
 ぶつんっ。パネルに拳を叩き付け、無理矢理通信を切る。そのままユイリェンは床にぺたんと座り込んだ。冷たい壁に背を預けて、ふぅっと溜息を吐き出す。なんだか全身をけだるい疲れが包んでいて、なにもかもどうでもよくなってしまいそうだった。
 ユイリェンは両手で膝を抱えてうずくまった。そして腕の中に頭を埋め、彼に施した応急処置のことを思い出して、こう呟いた。
「――馬っ鹿みたい」


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