ARMORED CORE FINAL EPISODE

緋色の瞳のラグ・ドール

 その日は朝から嫌な予感がしていた。
 虫の知らせとでも言うのだろうか。自分の身に何か危険なことが降りかかりそうな気がしてならなかった。それも、ちょっとやそっとの危険ではない。命に関わる……いや、下手をすればもっと大きな物にも影響を及ぼしかねない危険。
 背中を絶えず駆け回っているむずがゆい感触に耐えきれず、ロレンスはガレージへと向かった。彼が世界最強の座に着いてから、一体どれほどの年月が経っただろうか。彼の前に敗北の二文字はなかった。圧倒的な力で勝ち残り、生き残り、幾つもの命を深淵へと叩き落としてきた。それはあまりにも重い荷物だ。最強という名。ひとたびそれが地に落ちれば、大地は震撼し、数多の人間が押しつぶされる。
 ガレージの中には一体の鬼が寝そべっていた。漆黒の肌の鬼。彼の相棒として永年活躍しつづけてきたAC、『アビス』である。光の刃と光の槍を以て、幾重にも群がる敵を片っ端から屠ってきた鬼。彼はこの相棒を信頼していながら、また逆に恐れてもいた。いや、恐れの先にいるのは自分自身か。押さえきれなくなる破壊の欲求。それを増幅させ、解き放つのがこの相棒だ。
 ロレンスはアビスの側に立った。黒い鬼は微動だにせずに転がっている。お前は感じないか。ロレンスは相棒に問いかけた。この空気はなんだ。この重みはなんだ。まるで風を待つ帆船のようだ。風が吹かなければ、乾いて死ぬ。たとえ吹いたとしてもそれは嵐かもしれない。
 その時、彼は背後に何かを感じた。物音一つない。しかし、彼にはわかる。微かな息づかい。鼻をくすぐる匂い。普通の人間なら見逃してしまいそうな僅かな情報も、彼にとっては大声で呼ばれているに等しいものだった。
 振り返る。ガレージの壁に背中を預けて、佇んでいる女。漆黒の髪。漆黒の瞳。知っている顔だ。少し前に出会ったことがある。一体あいつが何の用だというのだ。彼には、全く思い当たる節がなかった。
「ハァイ、ミスター・ロレンス」
 女は高く透き通った声を投げかけた。子供のようでも大人のようでもある奇妙な響き。前に会ったときと同じだった。ある者はそれを鬱陶しいと感じるだろうし、またある者はそれを美しいと感じるだろう。
「お手合わせ願えるかしら?」
 ぞくり。ロレンスの背筋を悪寒が駆け抜けた。
 
 それがすべて災悪の始まりだった。
 
 
 三人は今、かつてない窮地に陥っていた。
 汚れたパイプ椅子二つと、椅子代わりの木箱が一つ。それぞれに腰掛けているのは二人の女と一人の男。黒髪に黒い瞳のアジア系の女。三つ編みにした赤毛と小さな丸眼鏡の北欧系の女。そして、カトリックの僧服に身を包んだ糸目の男。
 珍しくチェックのクロスが敷かれた木のテーブルには、三人分のスープの皿が並べられていた。不思議な香りが鼻をくすぐる。そう、不思議な香り。コンソメともポタージュともトマトとも鶏ガラとも魚醤とも味噌とも醤油ともつかない、目の前のどろどろした謎の液体が放つ香りである。漆黒で皿の底が見通せないそのスープは、決して三つ星レストランの料理には見えなかった。
 ごくり。黒髪の女、リンファの喉がなる。スープが旨そうだったから、ではない。額を流れる一筋の汗。それは冷や汗か脂汗か。どっちにしろ、自分を待ちかまえる過酷な運命を前にして、彼女は神にでも祈りたい気分だった。
 赤毛の女と僧服の男――エリィとヘイフォンも、大体似たような様子だった。自分のスプーンを固く握りしめ、黒光りするゲル状の物体を見守っている。果たして、これは口に入れていいものか。一流大学を首席で卒業したエリィにも、その答えは全く見えなかった。
「さあ、めしあがれぇ♪」
 母親の言葉。リンファの母シャオシュエは、娘のエプロンに身を包み、お玉杓子を手にして佇んでいた。ずっと顔に張り付いたままの笑みからは、何一つ感情らしきものを読みとることはできなかった。
「……なんで母さんに料理させたんだよっ」
 父の耳元に顔を近づけ、リンファが囁く。三年前に家出するまでは、15年もの間一緒に暮らしてきた仲である。母親の料理の腕前が如何ほどのものか、知らない道理はなかった。それは父親にとっても同じ事。いや……もう20年以上も連れ添っているヘイフォンの方が、彼女のことには詳しいはずである。
「仕方ないじゃないですか……シャオがやりたいって言うんだから……」
 問いが問いなら、答えも答えだ。決してシャオシュエの耳には届かないくらいの小声でぼそぼそと答える。そこには絶望と諦めと、そして微かな恐怖が混ざっていた。
「ほんとは?」
「……朝起きたらもう終わってました」
「やっぱり……」
 ぺきっ。妙な音が響く。シャオシュエの方からである。リンファとヘイフォンが、目だけを動かして様子をうかがう。お玉杓子にはいくつもの亀裂が走っていた。なんて握力だ。さすがは太極剣の達人。そしてそれよりも恐ろしかったのは、微笑みを張り付けたまま歩み寄ってくる母の遅さだった。
「め・し・あ・が・れ〜♪」
 まずい。これは本当にまずい。今、母が手加減無しのベア・ハッグなど繰りだそうものなら……肋骨が折れるか肺が潰れるか。いずれにせよ、ろくな結果は待っていない。しかしこれを食べるというのは……
「親父……責任もって食べろよ」
「わ、わたしがですか!?」
 ついつい声のトーンが大きくなる。背筋に走る悪寒。彼のすぐ後ろには、妻の平べったい笑顔が迫っていた。ごくり。娘がそうしたのと同じように唾を飲み込む。仕方がない。覚悟を決めるより他……ない。
「リンファ、父さんのことを忘れないでくださいね……」
 別れの挨拶を済ませ、スプーンを手に取る。ペンダントにした十字架を握りしめ、神への祈りを捧げる。おお、主よ。願わくば、この哀れな子羊を救いたまえ。祈りは終わった。神や天使が光臨した形跡はない。やっぱりか。そうそう都合良く助けてはくれないものだ。
 手の震えを抑えながら、ヘイフォンはスープをすくい取った。それは確かに漆黒の液体だったはずなのだが、光を当てる角度を変えると不思議な金属光沢を放ち始める。見た目には、水銀か融けた鉛のようである。
 それを口元まで持っていってから、ヘイフォンはふと顔を上げた。娘の愛機『ペンユウ』が、その赤い巨体を横たえている。お前はいいね。食事しなくて済むんだから。馬鹿げた妄想にひとしきり耽ってから、ヘイフォンはついにスプーンを口の中に入れた。
 ぴたりと、彼の動きがとまる。見つめるリンファ。見つめるエリィ。なぜか見つめるシャオシュエ。ひくっ。ヘイフォンのしゃっくりが木霊した。どさっ。彼の体は、支えを失って床に倒れ込んだ。それっきり、ぴくりとも動かない。
 一体、どんな味だったんだ。父親の無惨な亡骸を見つめつつ、リンファは汗を拭った。昔エリィの料理を食べて記憶を失った男がいたが、これはそれ以上だ。食べた瞬間に即死するなど。いや、それはすでに料理ではなく毒物である。
「まあ! お父さんってばあんまり美味しくて感動しちゃったのね♪」
「それ絶対違う」
 リンファの言葉など、もちろんシャオシュエの耳には全く届いていなかった。
 
 ヴゥ……ン……
 低いうなり声を上げて電気自動車が停止する。小型のトラック。コンテナには大きくツバメのロゴマークが描かれている。シュヴァルベ運輸といえば、宅配便の業界では指折りの企業である。「どんな場所へでも荷物を届ける」というのがモットーで、金さえ払えば戦地へ補給物資を運搬することも厭わない。それ専用に何人かのレイヴンと専属契約しているという噂もある。
 今回の運搬先はスラムの一角である。かの有名な女レイヴンが住んでいるという倉庫だ。トラックから制服姿の男が降りてきた。例によってツバメのロゴが描かれた帽子を深々とかぶっている。コンテナの扉を開き、中から小さな段ボール箱を一つ取り出した。
 そのまま男は近くの倉庫へ向かった。入り口は二つ。大きなシャッターと、小さなドアである。迷わず男はドアをノックした。軽い音が湿ったスラムに響き渡る。
 帽子に隠れた彼の口が、にいっと吊り上がった。
 
 こんっ。こんっ。
 いきなり聞こえてきたノックの音に、リンファは顔を上げた。珍しいこともあるものだ。この倉庫にやってくる客には、ノックをするような礼儀正しい奴は滅多にいない。みんなしてドアを蹴り開けるのである。立て付けが悪くてそうしないと開かないのだから文句は言えないが。
「お客さん……ですか?」
 ヘイフォンがふらふらと起きあがった。顔が青白い。まだ後遺症が残っているようである。しきりに感想を求めるシャオシュエに、彼がしてやれたのは目を伏せて「美味しかった」と言ってやることだけだった。もちろん、精一杯声の震えを抑えて。
「シュヴァルベ運輸です。お届け物にあがりましたぁ」
「あ、は〜い」
 跳ねるように席を立ち、エリィはドアへ向かった。あいつめ。上手く逃げやがったな。宅配便を利用して、なんとかシャオシュエの料理のことをうやむやに済ませるつもりなのだろう。そうなってくれれば、リンファにとっても有難いことだが。
 エリィはドアノブをひねると、横の壁を蹴りつけた。衝撃でドアが勢いよく開く。外から開けるのは簡単なのだが、内側からだといろいろテクニックが必要なのである。
 外に立っていた男が、多少面くらいながらも微笑んだ。見事な営業スマイルだ。ああいうサービス業では、微笑み方のマニュアルまであるらしい。気苦労の絶えない商売である。ともかく、男はマニュアル通りに小さな段ボール箱をエリィに手渡した。
 一体何が入っているのだろうか。手のひらに載せるにはちょっと大きすぎる、というくらいの箱である。意外と軽い。いきなりエリィは箱を振り回した。音はしない。しっかりと梱包されているせいだろうか……それにしても乱暴な扱いである。
「受取証にサインをお願いします」
「は〜い」
 男はそういうと、懐に手を入れた。ごそごそと何かを捜す。おそらくペンか何かだろう。エリィは荷物を近くのスクラップの上に置いて、再び男に視線を戻――
「!?」
 ダンッ!!
 銃声が倉庫の中に響き渡る! 男が取り出した拳銃は、エリィの足を狙って弾丸を吐き出した。血が飛び散る。苦悶の叫びをあげてエリィは倒れ込んだ。脂汗を浮かべながら太股を押さえている。
「なッ……!」
「おおっと、動くなよ。動くとこの綺麗な顔が吹き飛ぶぜ」
 ついさっきまでの見事な笑顔はどこへ行ってしまったのか。男の顔は見る影もなく汚れ果てていた。欲望と慢心に取り憑かれたものの醜い素顔だ。しかし。リンファは奥歯を噛んだ。いくら心の中で罵ろうと、エリィを助けられなければどうしようもない。
「タオ=リンファ。俺が興味あるのはあんたの命だけだ。大人しく殺されりゃ相棒には……」
 リンファの眉がぴくりと動いた。なるほど。転んでもタダでは起きない。さすがは相棒である。リンファは必死に脳味噌を動かした。愛用の拳銃はどこにしまったっけ。そうそう、今は確かジャケットの内側にあるはずだ。
 ずぶっ。鈍い音。小さな刃物が男の右腕に食い込んだ。うめき声を上げ、銃を取り落とす男。エリィだってただ人質になっていたわけではない。男の一瞬の隙を見て、護身用のナイフを突き立てたのである。そしてそのことに男が気付く前には――
 加熱した銃を握ったまま、リンファはエリィに歩み寄った。横には眉間を撃ち抜かれた襲撃者の死体がある。馬鹿な奴。一体何を考えたのかは知らないが、あたしに喧嘩を売るには300年早い。そのままエリィを抱き起こし、肩を貸す。痛みに顔を歪めるエリィをパイプ椅子に腰掛けさせた。
「ちょっと、失礼しますよ」
 ヘイフォンが割り込んで、彼女の太股に触れた。別にセクハラではない。傷の様子を見ているだけである。傷口を刺激しないように太股の裏と表を覗き込み、彼は確信してうなずいた。
「リンファ、消毒薬と包帯を」
「あ……う、うん」
「大丈夫、弾丸は貫通してます。消毒と止血さえしておけば問題ありませんよ」
 リンファが慌てて持ってきた薬を、傷口に吹き付ける。エリィが小さく喘いだ。さすがに染みるのだろう。リンファはともかく、エリィはこういう怪我に慣れていない。レイヴンになって初めて腕を撃たれた日のことが、ふと頭に浮かんだ。あの時は確かエリィがこんな風に応急処置をしてくれた。
「随分……いい手際ね」
「いえ。これも神に仕える者の仕事ですから」
 言いながらも処置は進んでいく。最後にシャオシュエが包帯を切って、完了である。リンファは胸を撫で下ろした。憎たらしいが、もし両親がいなかったらこんなに的確な処置はできなかっただろう。エリィの額に浮かぶ脂汗。母がそれをふき取った。
 しかし疑問は……あの偽宅配便業者がどうしてリンファを狙ったのか、である。
「最近大人しくしてたから、狙われる心当たりなんてないんだけどな……」
「しかし、現に――」
 そこで、ヘイフォンの言葉は止まった。聞こえる。何かの音が。リンファにとっては馴染み深い音。この轟音はもしや、ACのブースター音? そう気付くが早いか――
 ゴガシャアアァァッ!!
 突然倉庫の天井が崩れ落ちた! 入り口近く、丁度襲撃者の死体があった辺りに大穴があく。向こう側に覗く金属光沢。赤く輝く目。畜生、なんて事だ。見たこともないACが、大事な住処をぶち壊しやがった!
 そのACが持つライフルは、まごうことなくリンファを捉えていた。やはり狙いは彼女らしい。一体何だと言うんだ。さっきの宅配便といい、今日は厄日か?
『へっへっ、お前がタオ=リンファだな? ぶっ殺してや……!』
 ガガガガガッ!
 視界の外から飛来する無数の弾丸! 知らないACの装甲がいたるところで潰れ、剥がれ、一瞬にして鉄屑と化す。ただのゴミと成り果てたACを踏みつぶすように、巨大な青い蜘蛛が姿を現す。なんて絶妙なタイミングだ。今日ばかりは、助けてくれたことを少しだけ感謝しようと思った。
 腐れ縁のレイヴン、ヨシュア。青い蜘蛛は彼のAC『ワームウッド』である。そのワームウッドの向こう側に、今度は一台のトラックが現れる。重要な物資を運ぶときに使う、装甲の厚いトラックである。運転席の窓が開く。そこから顔をだしたのは、実に久しぶりに見る男だった。
「コ、コバヤシぃ!?」
「みなさんっ!」
 トラックを運転していた男、シロウ=コバヤシは、喉を思いっきり震わせて声を放った。小柄で細身なアジア人が、今日に限っては頼もしくすら見える。不思議なものだ。人間の視覚なんてその程度のものか。
「乗ってください! 逃げますよっ!」
 
 ばたんっ!
 シャオシュエが力一杯荷台の扉を閉める。運転席のコバヤシは、頭の後ろに付いている窓で荷台の様子を確かめた。足に怪我をしているエリィ、見たことのない神父、そして見たことのない女性。リンファがいないが、きっとACに乗り込んだのだろう。
「出します!」
 ガゴウンッ!
 衝撃がトラックを襲った。幸い大きな被害はない。どうやら近くに榴弾が着弾したようである。この装甲トラックをなめてもらっては困る。並のACよりは断然皮が厚いのだ。コバヤシは素早くギアを切り替えた。クラッチから足を外し、アクセルを踏みつける。
 モーターの駆動音が心地よく響く。しかし今は、その不思議な交響曲に聴き惚れている暇はなかった。トラックはあっと言う間に最高速度まで加速した。狭いスラムの路地を無茶なスピードで駆け抜ける。途中で飛びだしてきた浮浪者を引きそうになり、コバヤシは慌ててハンドルを切った。
『一体どうなんてんのよ、これ!』
 遠くに爆発音が聞こえる。周囲には無数のACが潜んでいるはずである。彼らの目的はたった一つ。タオ=リンファを殺すことだ。その中の一機が返り討ちにあったようだが、同情するいわれは全くない。
 コバヤシは右手でハンドルを操作しながら、残った手でスイッチを押した。通信機が自動で周波数を合わせる。
「昨夜未明、ロレンスが何者かによって倒されました」
 ガシュンッ。コバヤシは目を見張った。進行方向に一機のACが着地する。襲撃者の内の一人である。そいつが手に持ったライフルは、間違いなく彼の方を向いていた。奥歯を食いしばってハンドルを切る。しかし次の瞬間、爆発したのはACの方だった。視界にちらりと映る青い影。ワームウッドである。
「本人の話によると、彼を倒したのは」
 燃え上がるACの残骸の側をくぐり抜け、更にトラックは先へ進んだ。このまま進めば幹線道路に出るはずである。行き先は地上。隠れ場所のあてが一つある。
「黒髪の」
 さっきまで痛みを堪えていたエリィが、はっと顔を持ち上げた。車の運転をしているコバヤシに視線を送る。驚愕。不信。それとも同情だろうか。彼女の心にある感情は。
「黒い瞳の」
 大きな衝撃が再びトラックを襲う。コバヤシは必死でハンドルを固定した。あわや廃ビルと正面衝突、というところで方向を戻す。額が汗ばんでいるのがわかった。冷や汗以外の汗をかくのは久しぶりである。
「アジア人の女性だったそうです。つまり」
 ヘイフォンの眉がぴくりと動いた。しかしそれに気付いていたのは本人だけだっただろう。彼は必死だった。自分の心の中の闇、耐え難いひけめを隠し通すことに。
「貴女ですよ。タオ=リンファ」
 
 
「大丈夫ですの、兄様?」
 白で統一された清潔な病室。細く白い花瓶によく似合う赤い花。時折聞こえる救急車のサイレンが心臓に悪い。そんな病室で横たえられているのは、見たところ20代後半程度の男だった。細身に眼鏡、金色の短髪。知らない人間に見せても、決して信じないだろう。彼こそが世界最強のレイヴン、ロレンスである。
 ――いや。最強だった、というべきか。
 彼の側に腰掛け白いタオルで汗を拭き取っているのは、妹のジーナである。兄と同じ金髪。瞳には心配と焦燥の色が浮かんでいた。
「兄様、本当にリンファ姉さまだったんですのぉ?」
 ベッドに転がったまま、ロレンスは妹の問いを反芻した。あれは本当にタオ=リンファだったのか。腹の傷がうずく。あの女のことを思い出すたびにだ。いつの間にか自分が恐怖という感情を抱いていることに気付いた。漆黒の髪。漆黒の瞳。妖艶な笑み。澄んだ声色。どれをとっても間違いなくタオ=リンファだった。喋り方も、細かな挙動も、身から出る雰囲気も。以前に戦ったタオ=リンファと全く同じものだった。
 しかし。また腹がうずく。あの時感じた恐怖は。あの時自分の額を流れた冷や汗は。まるで人間ではないものと相対しているかのようだった。そう、神か悪魔のような。圧倒的な恐怖。神々しさすらも感じさせるほどの恐怖。久しく感じたことはなかった。
「ジーナ」
「ほえ?」
 ロレンスは、心配そうに自分の顔を覗き込む妹に微笑みかけた。
「大丈夫だよ。きっと、全てがうまくいく」
 そうだ、タオ=リンファ。おそらくこれは君の戦い。わたしのような脇役には、干渉できない戦いなのだ。自分の力を信じろ。やがて君を不幸が襲うだろう。だが君はそれを乗り越えなくてはならない。他の誰でもない、君自身の手で。
 ロレンスにできること。それは、ただ祈ることだけだった。
 
 
 爆発音。もう数えるのも嫌になった。肩で息をしながらリンファは舌打ちした。馬鹿な奴らだ。どうせ、ロレンスには勝てなくても女一人になら勝てる、とでも思っているのだろう。身の程知らずほど迷惑なものはない。おまけに人違いときた。
 エリィ達の乗るトラックは、ようやくスラムを抜け、幹線道路へとさしかかっていた。このまま進めば地上へのゲートがある。コバヤシの話では、上に隠れ場所があるらしい。
「この街、こんなにレイヴンいたっけ?」
 リンファは引き金を引いた。単調な作業。また一つ馬鹿な命が消え去っていく。爆炎を尻目に見ながらトラックの後を追う。その横にワームウッドが続いた。こっちはバック移動しながら後方の敵を蹴散らしている。どの方向にでも自由に移動できるのが四足の便利なところである。
『この街だけじゃない。世界中のレイヴンがお前目当てに集まってきてるのさ』
「……もてる女は辛いわね」
『そういう台詞は、鏡を見てからにするんだな!』
 ガガッ!
 無駄なく撃ち込まれたガトリングガンの弾丸が、のこる最後のACを粉々に砕いた。道路の真ん中に巨大な鉄くずが生まれる。交通の邪魔である。これだけ騒いでいるのだから、ガードの連中が出てきてくれてもいいだろうに……どうせあいつら、怖じ気づいて隠れているのだろう。いくら三流レイヴンとはいっても、ガードの貧弱な武装では、ACを相手にするには分が悪い。
 ……と。
 ピピピピピッ!!
 けたたましい音が鳴り、レーダーにいくつもの光が点った。赤い光点……その数およそ10。さっきまで全く何もなかった場所に、いきなり反応が現れたのだ。しかもリンファ達を完全に取り囲んでいる。その反応通り、近くのビルの影からわらわらと現れるAC達。
『止まれ、タオ=リンファ!』
 通信機を通じて聞こえてくるダミ声。気配を感じてペンユウが振り向く。黒いACが、バズーカの銃口をトラックに突きつけていた。いくら装甲が厚いとはいっても、あんなものをあの距離で食らっては……
 黒いACの足下には何かの残骸が転がっている。漆黒の、巨大な卵の殻のようなもの。なるほど、そういうことか。記憶にある。どこぞの企業が開発した、『ハイドエッグ』とかいうものである。その実はステルス機能を持った半球形のドーム。ACなどが頭からかぶり、待ち伏せなどに使うわけだ。
 しかし……どうする。エリィ達を全員人質に取られているようなものである。おまけにさっきと違って相手は複数。一人の気を紛らわせたとしても、すぐに他からフォローが入る。リンファはワームウッドの方に目を遣った。様子見か、それとも何も思いつかないのか。青い蜘蛛はぴくりとも動かなかった。
『照準!』
 号令一下、周囲を囲むAC達が動く。あるものは右腕の銃を構え、またあるものは膝立ちになってキャノン砲を固定する。いくらなんでも、これだけの数に囲まれては逃げようもない。
 リンファの背中を冷たい汗が流れた。
『くくく……最強のレイヴンの名は、我等マンシャフト・アングライファーがいただ……』
 ――瞬間!
 キュゴウンッ!!
 天空から降り注ぐ光の矢。ペンユウ達を取り囲んでいたAC達が、次々と爆発を起こす。これは……レーザーライフル!? しかし一体誰が?
 呆然とするリンファの耳に、どこかで聴いたことのある低い声が響いてきた。
『前口上が長いのだよ、前口上が!』
 この声は、まさか!? リンファは慌ててレーダーを確認した。すぐ近くに光点が二つ、新たに加わっている。これは……上? ペンユウのメインカメラが上を見上げる。地下都市を照らす照明。逆光を受けてビルの上に佇む、二機のAC。
 ACが、飛んだ。100メートル近い高さを一気に飛び降り、着地寸前でブースターを噴かす。鈍い衝撃とともにACが着地した。砂色の中量2足AC。右腕に持った高出力のレーザーライフル。間違いない。奴だ。
『ふふん、苦労しているようだな、タオ=リンファ』
「ミラージュ!? あんた……生きてたの?」
『最後の一撃はコアから外したからなぁ……』
 リンファの問いに答えたのはヨシュアだった。
 マスターランカー、ミラージュ。かつてリンファ、ヨシュアと死闘を繰り広げた男。この都市では珍しい、アラブ系の男である。間抜けな奴だが、腕は一流。敵にするのは御免だ。
 もう一機も続いて飛び降りてきた。こちらはくすんだ青銅色の重量2足AC。ミラージュの付き人、カンバービッチが駆る『スティンク』である。
 襲撃者の残りが、一斉に飛びかかる。その先はペンユウではなくミラージュの愛機『サンドストーカー』。リンファの仲間だと勘違いしたか、それともライバルと認識したか。いずれにせよ、結果は一つだった。サンドストーカーの左腕から光の刃が生み出される。AC達はレーザーブレードの一撃で、コアと脚部を切り離されていた。
『さあ、行きたまえ!』
「え?」
 ミラージュの声。リンファは我が耳を疑った。奴は敵である。自分たちを助ける理由など、ミラージュにはない。そのはずだった。彼女の戸惑いまで、電波に乗って流れていったのだろうか。ミラージュは再び口を開いた。
『勘違いしてもらっては困る。いいかね、君達を倒すのはこのわたしなのだよ。従って、わたし以外の何者にも破れることは許されないのだ!
 わかるかね? んん?』
 見栄はっちゃって。愛機のコックピットの中、カンバービッチは苦笑していた。惚れてるなら惚れてると、素直に言えばいいのに。もっとも、言ったところで勝算は限りなくゼロに近い……いや、間違いなくゼロなのだが。
「礼は言わないわよ」
『期待していないとも!』
 リンファは少しだけ微笑んだ。そして操縦桿に手をかけた。トラックがまず走り始める。それに続くワームウッド。ペンユウは……少し躊躇って、それからブースターを噴かした。背中から吹き出す炎。轟音を撒き散らしながら去っていくその後ろ姿を見つめ、ミラージュは大きく息を吸い込んだ。
「さあ、カンバービッチ君! 今日は追加弾倉を持ってきているだろうね!」
『当然ですよ、ミラージュさん!』
 
 
「ふぅん……結構人望あるんだぁ。あの女」
 狭い部屋を満たすのは、闇。見つめると吸い込まれそうになる。触れると蝕まれそうになる。感じる者全てを恐怖させる、闇。闇の底に彼女は鎮座していた。闇を吸い込んだ女。闇を蝕んだ女。闇すらも恐怖させる女。彼女は闇の王。このちっぽけな闇から這いだし、やがては全てを飲み込む。
 闇の王の目の前には小さなモニターがあった。ある都市の映像。ビルに挟まれた幹線道路を、ひたすら地上に向かって突き進む赤い影。ペンユウ。タオ=リンファが、あの女が駆るAC。何が真紅の華、だ。闇の王は視線をすこしそらした。モニターの端に表示される数字。最初99を示していたそれは、やがて姿を変えた。
 ――100%。
「オズワルド」
 闇の王はその男の名を呼ばわった。闇の中にあるもう一つの玉座。そこに腰を落ち着けている男。茶色の短髪。頬の古傷。そして何より目を引くのは、人を見下したような瞳の輝き。この男は自分の三倍近くも生きているが、おそらく友人の一人もいないだろう。闇の王はそう推測した。
「時間だぞ」
 オズワルド、と呼ばれた男はゆっくりと立ち上がった。冷たい空気が流れる。オズワルドは細く長く息を吐いた。ひゅうひゅうと音がする。嫌な音。闇の王は舌打ちをした。
「やめろ、オズワルド」
「儀式だ」
 勘に障る音が止んだ。代わりに訪れる静寂。オズワルドは闇の王の方を向くと、口の端をにぃっと吊り上げた。虚ろな瞳。奴はあたしの方を見ていない。闇の王は確信した。奴が見ているのはあたしではなく、この闇だ。あたしの意のままに操られる闇。
「昔から……戦いの前にする儀式……俺は決して負けなかった。儀式の力だ」
 うるさい男だ。闇の王はオズワルドを無視して立ち上がった。奴の横を通り抜け、闇を切り裂く。しゅっと音がしてドアが勝手に開いた。光が闇を蝕む。そうか。闇の王は感じた。闇を蝕むのが光なら、あたしは光に違いない。
「あたしはあの男を殺してくる」
「黒き疾風……ブラックゲイル、か」
 闇の王が光の中に消えていって、部屋は再び闇に包まれた。オズワルドは笑った。せせら笑った。黒き疾風。小さき雪。嶺に咲く華。そして。
 か細き華よ。お前はどこへ行く。闇を喰らって、お前はどこへ行こうというのだ。笑いが大きくなった。何者も、逃れることはできない。支配? 統治? それがなんだというのだ。オズワルドの望みはたった一つ。恐怖。猜疑。激昂。言い換えるならば、それは。
 闇。
 途切れることのない哄笑は、いつまでも闇の中に木霊していた。
 
 
 ふうっ。
 ガレージの壁にもたれかかり、リンファは小さくため息をついた。
 コバヤシに案内されてやってきたのは、地上の廃工場だった。確かに地上ならそう簡単には見つからないだろうし、ここにはACを隠す広いスペースと、整備用具、そして弾薬まで供えてある。コバヤシの話では、知り合いのレイヴンが隠れ家にしている場所らしい。もっとも今、そのレイヴンは遠くの地下都市まで出張に出ているそうだが。
 奥には人が暮らせるスペースもあったが、さすがに狭い。ベッドにエリィを寝かせ、シャオシュエが看病に付いている他は、みんなこのガレージにたむろしていた。機体の整備に余念がないヨシュア。ハンディパソコンをいじっているコバヤシ。そして、椅子代わりの木箱に腰掛け、十字架を見つめたままぴくりとも動かないヘイフォン。
「親父」
 リンファは、側に座っている父親に声をかけた。ヘイフォンの顔が上がる。拳銃。リンファ愛用の銃が、その口を父親の方へ向けた。かちゃりという小さな音。その様子に気付いているのは、彼女ら二人だけのようだった。
「知ってるんだろ?」
「何のことです」
「とぼけるな」
 銃を懐にしまい込む。リンファは腕組みをした。黒い瞳が冷たい輝きを放つ。ロレンスの敗北。世界最強となったリンファ――いや、黒髪の女。自分ではない。そんなことをした覚えはない。それなら、可能性はただ一つ。
「もう一人いるんだ。あたしが」
 ヘイフォンは何も答えなかった。目を伏せ、十字架を握りしめる。舌打ちをして、リンファは父親の胸ぐらをひっつかんだ。抵抗すらしようとしない父親を、壁に乱暴に叩き付ける。異変に気付いたヨシュアとコバヤシが、慌てて二人を引き剥がした。流れる沈黙。
「止めろ、リンファ……一体何を狼狽えているんだ。お前らしくもない」
「狼狽える……? 狼狽えるって何よ。あたしがおかしいっての!? 覚えもないのに狙われて、エリィが撃たれて! こいつが悪いのよッ! 親父が来てからいいことなんて一つもないじゃないッ!」
 ヨシュアに羽交い締めにされたまま、リンファは藻掻いた。目を見開き、顔に怒りを露わにして。理由のない激昂。気分が高ぶって、冷静な判断ができなくなっているのだ。その姿は、どこか幼さを感じさせた。
 収まる気配のない激情を感じ取って、ヨシュアは彼女を椅子に押しつけた。肩をしっかりと押さえつけられてはぴくりとも動けない。リンファはようやく大人しくなった。
 ふと、その瞳が目に付いた。小さな輝き。まさか。ヨシュアは目を見張った。涙が、彼女の瞳に浮かんでいる。そのままリンファは彼の胸に顔をうずめた。一体どうしたというのだ。この程度のことで、泣くような女じゃなかったはずだ。もしヨシュアが心理学者だったなら、彼女の心で起こっていることに気付いていたかもしれない。
「わたしは――」
 ヘイフォンがなにやら口を開こうとした、その時。
 ピピピピピッ。
 小さな電子音がガレージの中に響き渡った。コバヤシが懐を探る。小型の携帯電話を取り出し、スイッチを押す。機敏な動作でそれを耳に押し当てた。聞こえてくる声。どうやら、アリーナ管理委員会の同僚かららしい。
「なんですってッ!?」
 いきなりあがった甲高い叫び声に、全員が顔を上げた。
 
 
「主任」
 オペレーターは椅子から顔だけを後ろへ向けた。アイザックシティ・ガード、第二管制室。ガードに寄せられた通報の内、ACやMTによる凶悪テロに関する情報はここに集められる。いわば、管制官にとっての花形である。
 数十人のオペレーターが集う中に、その一報が飛び込んできたのだ。
「所属不明のACが多数、C区画で破壊活動を行っているようです」
「また、例のレイヴンじゃないのか?」
 管制主任は報告を入れたオペレーターに歩み寄った。彼の前のモニターを覗き込む。ACが出現したのは、丁度さっきまでレイヴンたちが喧嘩を繰り広げていたあたりである。一度おさまったようだが、また暴れ出しても不思議はない。
「いえ……今度の奴は、全機が同じ型のようです。しかも未登録機のようですね。規格もネストとは異なっています。どこかの企業の自社規格か、でなければ密造品かと……」
「映像は出せるか?」
「今ロード中です……来ました。メインモニターに出します」
 管制室の中央にあった巨大なモニターに、映像が映し出された。ざわり。誰からともなく、ざわめきが起こる。映像はアイザックシティ・C地区の一角である。周囲の喧噪を遠くに聞きながら、主任は画面に見入った。そんな馬鹿な。これの何処が破壊活動だ。これは、これではもはや。
「地獄だ……」
 誰かが呟いた。そうだ、あれは地獄の光景だ。青く塗られた、奇妙な形状の2足AC。その手の銃が火を噴く。吹き飛ばされる建造物。逃げまどう人々。画面は、ACに踏みつぶされる親子の姿を鮮明に映し出した。誰かの悲鳴。火。赤い火。もはや人も街も、原型をとどめてはいなかった。一面の焼け野原。もうもうと立ちこめる煙が、地下都市に充満する。
 やがて、青いACがこちらを――いや、カメラの方を向いた。単眼が不気味に光る。銃口が画面一杯に映し出され――
 映像は、そこで途切れた。
 管制室には沈黙が流れた。データだけが次々と流入してくる。F地区。T地区。アイザック・シティのいたるところが襲撃を受けている。全てのACを合わせれば、おそらく100近いだろう。信じられなかった。一体どんな勢力だというのだ。アイザック・シティそのものを襲撃するなど!
 最初に正気を取り戻したのは、管制主任だった。
「何をしている! 早くガード全機に出撃命令を出せ!」
「り……了解!」
 
 
 ドアが音を立てて開く。顔を出したのはエリィだった。松葉杖の代わりにシャオシュエの肩を使い、ふらつきながらも歩いてくる。そして、一同が集まって見つめている画面に目を遣った。コバヤシが持っていたハンディ・パソコン。その画面は今や即席のシアターと化していた。もっとも、みていて胸くその悪くなる最低の映画だが。
 炎と、怒号と、悲鳴と、銃弾と、血と、煙と、巨大な青い悪魔と、死。画面にはそれが満ちていた。次々と映像が切り替わり、アイザック・シティ各所の様子を映し出していく。100機近い数のAC達は、まるで作業のように都市を破壊していく。
「アイザックの全区域に、謎のACが出現……無差別な破壊活動を行っています。
 ……いや、アイザックだけじゃない。わたしの同僚の言葉を信じるなら……世界中の全ての地下都市で、これと同じ事が起こっている」
 コバヤシの額を、汗が流れ落ちた。あっさりといい放ちはしたものの、冷静に考えれば尋常なことではない。全ての地下都市にそれぞれ100機のACを配置するとなると、総戦力は数千機に及ぶ。一体どこの企業が、そんな戦力を持ちうるというのだ。
 一方でヨシュアは、画面に映ったACの姿を凝視していた。目がすうっと細まる。同じだ。あの青いACと。かつてネーベル・テヒニケン本社ビルの前で、襲ってきたあのACと。これはお前の仕業なのか、ナターシャ。まだ終わっていないというのか。
「そんな……」
 ヘイフォンが声をあげた。顔を覆い、床に崩れ落ちる。全員の視線が集まる。エリィを椅子に座らせたシャオシュエがその背に手を触れた。
「どうして……どうして今更『ゲシュタルト』が……
 『あの子』が……まさか本当に、あの子が!」
 ――あの子!?
 リンファが問いただすよりも早く――
 ゴガアアアァァァアッ!!
 ガレージの天井が崩れ落ちた! 上から降ってくる赤い影。巨人が舞い降りる。真紅の巨体。2足AC! 追っ手……ではない。リンファは目を見開いた。ただの追っ手なはずがない。だって、あのACは。あの赤いACは。
「ペンユウ……!」
 空から舞い降りた災悪、もう一機のペンユウ。そんな馬鹿な。何から何まで信じられなかった。襲ってきたACは、まぎれもなくペンユウ。武装は変更されているが、基本構造は全く同じ。リンファは直感した。こいつがもう一人のあたしだ。ロレンスを倒したのは、こいつなのだ。
「シーファ……!」
 ヘイフォンは立ち上がった。虚ろな瞳。不確かな足取り。ふらふらとACに歩み寄っていく。何をするつもりだ。シーファとは一体何なんだ。リンファは呼び止めようとした。しかし動かなかった。足が動こうとしなかった。みたことがある。自分は、この光景を前に見たことがある!
 そして、ヘイフォンは手を大の字に開いた。のどの奥から声を絞り出す。
「シーファ……君なのか」
 ヴゥンッ。ペンユウは右手を掲げた。巨大なレーザーライフル。その銃口が、小さな小さなヘイフォンを捉える。ヘイフォンの肩は震えていた。恐怖ではない。泣いている。あの父親が泣いている。
「ごめんよ……シーファ……わたしは、君に許してくれなんて言えない……でも」
 震えが、止まった。
「わたしはリンファまで失うわけにはいかなかったんだッ!」
「何処見て言ってんだこの屑がッ!」
 銃声。
 
 その瞬間一体何が起こったのか、リンファには把握できなかった。ただ、事実があるだけ。真後ろからいきなり聞こえてきた声。銃声。弾丸。女が一人、飛び出す。ヘイフォンの名を呼ばわりながら。シャオシュエが。母親が。自ら飛び、そして。
 
 弾丸はシャオシュエの胸板を貫いた。美しい肢体が床に落ちる。ぴくりとも動かない。血が床を彩っていく。それは汚らしい染みのようでもあったし、美しい絵画のようでもあった。リンファにはただ、見つめることしかできなかった。凄まじい形相で妻に駆け寄る、父親の姿を。
「チッ……外したか」
 声は後ろから響いてきた。歯を食いしばり、振り返る。
 そこには一人の女がいた。黒髪。黒い瞳。少し吊り上がった目尻。それは、リンファだった。リンファは目の前に自分がいるのを見て、そして自分の手をまじまじと見つめた。再び目を戻す。それは自分に違いなかった。
 ヨシュアは慌てて銃を突きつけた。リンファに……いや、突然現れた黒髪の女に。足に狙いを付け、引き金を――
「何処狙ってんの?」
 声はまた、後ろからだった。消えた。瞬き一つする間に、女の体が消えた! 肩に手を触れる者がいる。一瞬で後ろに回り込んだ、女の手だった。
「愛してるわ……ヨシュア」
 ゴッ!
 ヨシュアは床に倒れ込んだ。何だ。一体何をされた!? ただの肘打ち一発だったはずだ。それなのに、まるで鉄の棒で殴られたかのようだ。息苦しい。体が動かない。こんなことで破れるなんて!
 女は地面に転がるヨシュアをうっとりと見つめ、唇を吊り上げた。高笑いが響き渡る。
「あら、冗談よ。本気にしちゃったかしら? ヒャッハハハ!」
 この女ッ!
 リンファの金縛りがようやく解けた。懐から銃を取り出す。もう一人の自分に向かってそれを突きつける。妙な気分だった。自分で自分を撃とうとするなんて。リンファは自分を睨み付けた。
「この偽物ッ! 生かしてはおかないッ!」
「動くんじゃねぇ!」
 女が叫びに呼応して、赤いACが動いた。さっきまでヘイフォンを狙っていたライフルが、リンファに狙いを帰る。畜生。これでは動くに動けない。どう頑張ってみたところで、拳銃でAC用レーザーライフルに勝てるわけがない。
 それを見て満足したのか、女はゆっくりと歩き出した。エリィの横を通り抜け、コバヤシの前を行き過ぎ、妻の死体を抱いて涙を流すヘイフォンに歩み寄る。ヘイフォンは涙に濡れた顔を持ち上げた。リンファには、それが純粋な悲しみの表情には見えなかった。まるで怯える子羊のような瞳。
「久しいなぁ、黒風……いや、ブラックゲイル。嶺華はあたしのことを忘れちまったみたいだが……まさかあんたまで忘れたってことはねぇよな? ああん?」
 がっ。女が蹴る。シャオシュエの死体を。
「馬鹿だよなぁ、コユキ=ムラクモも。敵対企業の一流エージェント、ブラックゲイルとの逃亡劇!
 ハッ! 泣かせる話じゃないか! ラスト・シーンが最愛の夫をかばっての死、だなんてな!」
 女が銃を取り出す。まっすぐに、銃口はヘイフォンの額に向けられた。涙を拭く。ヘイフォンは立ち上がった。妻の体を、優しく横たえて。そうだ、もう逃げることはできない。過去の罪。今の罪。未来の罪。全てをこの瞬間に、清算する。さあ、わたしを裁いてくれ。
 君の手で。
 ヘイフォンは目を閉じた。悲しみも怒りも、もはやなかった。ただ安らぎ、死を待つ自分がそこにいた。リンファ。彼は最後に、最愛の娘に心の言葉を投げかけた。君はこの場面を見たことがあるだろう。そしてすぐに思い出すだろう。受け入れなさい。自分の過去を。そして考えなさい。自分に今何ができるのか。自分が何をすべきなのか。自分自身の過去を、どう清算するのかを。
 唇がつりあがった。
 
 ヘイフォンは地に斃れた。妻の上に。まるで互いをかばい合っているかのように。
 頭ではなく心臓を撃ったのは、女の最後の情けだったのかもしれない。
 
「プルス。帰還するぞ」
 女が命じると、ACは女に左手を差し出した。人間とは思えない跳躍力で、その手のひらに飛び乗る。女は上からリンファを見下ろした。唇がにぃっと吊り上がる。リンファは恐怖している自分に気付いた。もうレーザーライフルの狙いは外されているというのに、一歩も動くことはできなかった。ただ、あの女を凝視しているだけだ。
「ポイント021335−S。そこに、大破壊以前の工場施設がある」
 女は高らかに言った。それは詩のようでもあった。
「待っているぞ。リンファ姉さん」
 ACが飛び上がる。ブースターが生み出す突風が頬を撫でた。ああ、なんてことだ。知っている。あたしはこれと同じ光景を知っている。敵がいなくなると同時に、悲しみがこみ上げてきた。リンファはふらふらと両親に歩み寄った。膝をつき、父親の頭を抱きしめる。
「何やってんだよ……こんな所で寝てたら風邪引くだろ……?
 なあ……起きろよ……親父……親父……馬鹿親父っ!」
 リンファの頬を涙が伝った。ヨシュアが立ち上がる。しかし、どうしようもなかった。何もしてやれなかった。悲しみを分かち合うなんて、できるわけない。それはエリィも、コバヤシも。見ていることしかできない。悲しみなんて、言葉でどうこうできるものじゃないんだ。
「父さん……」
 最後の声はかすれていて、本当に口から出たのかどうかも怪しかった。全部思い出したよ。あの女のこと。15年前のこと。ずっと忘れていたこと。父さんのこと。母さんのこと。幸せってこと。悲しいってこと。畜生。なんで今まで忘れてたんだ。なんでこんな大切なことを忘れてたんだ! あたしは……あたしはあたしはあたしはあたしはあたしはッ!!
「う……ウアァアァァッッァアアァアァアァァッ!!」
 絶叫が、ただ木霊する。
 
 
 あたしは、一人じゃなかった。ずっと一緒だったんだ。生まれたときから。ううん、母さんのお腹の中にいる時から、ずっとあの子と一緒だった。あたしたちは一緒に生まれて、一緒に育った。
 かわいいあの子。双子の妹、シーファ。あたしの名前は父さんがつけて、妹の名前は母さんがつけた。あたしは、嶺に咲く華のように気高く強く育つように。妹は、野に咲く細さな華のように、優しく穏やかに育つように。嶺華と、細華。リンファとシーファ。いい名前だと思う。あたしはこの名前が好き。だって、あたしの名前だから。
 父さんはアジア人が集まる和郷市――ホウシァン・シティで、神父の真似事をしていた。スラムの子供達を集めて読み書きを教えたり、怪我人や病人の手当をしたり。結構近所では有名だった。みんなが父さんを頼ってきた。でもあたしは――あたしたちは知っていた。父さんが本当は神父じゃないってことを。なんだかわからないけど、父さんは神父様と呼ばれるとき、すごく嬉しそうで、すごく悲しそうだった。
 母さんは一生懸命父さんの手伝いをしていた。あんまり手先が器用じゃないから苦労してたけど、母さんには父さんには真似できないことができた。微笑み。にっこり笑うと、それだけでどんな子供も泣き止んだ。悲しい大人は楽しくなった。すごいなって、子供心に思ってた。
 シーファがある時言ったんだ。母さんみたいになりたいって。だからあたしは答えた。父さんみたいになりたい。あたしたちは約束した。ずっと一緒にいようね。二人だったらなんでもできるから。父さんと母さんみたいに。
 でも、あたしたちが三歳の時。あいつはやってきた。紅い、角の生えたACに乗って。茶色い短髪。頬の傷。そいつはオズワルドと名乗った。父さんに会いたい。そう言ったんだ。あたしたちは断った。そいつの目が嫌いだったから。ぎらぎらと、まるで獣みたいな光を放つ、目。
 オズワルドはあたしたちを突き飛ばすと、教会の中へ入っていった。そして父さんと話をしていた。父さんは怖い顔をしていた。何を話していたのかは、よく覚えていない。ただ、少しだけ覚えていることもある。父さんがクロームのエージェントだったってこと、母さんがムラクモ・ミレニアムの社長令嬢だったってこと、そしてオズワルドが強化人間製造のための最高のモルモットを探しているってこと!
 いきなり、あたしたちの首筋を黒服の男がつかんだ。父さんは僧服の中から銃を取り出すと、黒服の男を撃ち抜いた。あたし達は床に落ちた。近くにいた母さんがあたしを抱きかかえた。でも、シーファを抱いたのは父さんじゃなかった。
 オズワルド。その男がシーファの体をつかんだ。あたしは泣き叫んだ。シーファも泣き叫んだ。離れたくない。そう思った。でも父さんは……逃げ出した。母さんもその後を追った。オズワルドとシーファの姿はどんどん遠くなっていった。あたしは想像もしていなかった。それっきり、シーファと会えなくなるなんて。父さんと母さんが、シーファを見捨てるなんて!
 そしてあたしは記憶を閉じた。父さんと母さんを許すために、全てを忘れ去った。でも本当は忘れられなかったんだと思う。だから、あたしは家出するはめになったんだ。父さん達と一緒にいると、記憶が蘇りそうだったから。
 でも、今なら? 今なら父さんと母さんを許せる? 父さんの判断は正しかった。オズワルドはきっと、何人もの部下を引き連れていただろう。シーファを取り戻そうとして戦いになれば、父さんも母さんも殺され、あたしとシーファの両方が実験台にされていただろう。でもそう思うのは、あたしが「選ばれた方」だからだ。もしあたしがシーファだったら? 父さんに見捨てられて、強化人間の実験台にされていたら? あたしは間違いなく両親を恨む。憎む。絶対に許さない。そう思う。
 だから、行かなきゃ。あたしはもう迷わない。狂わない。忘れない。シーファ。15年間の空白は長すぎるけど、きっと埋められる。
 いつかきっと、また会える。
 
 
「浮かない顔だな」
 オズワルドは帰ってきたシーファを眺め、呟いた。殺したのだろう。あの愚かな夫婦を。しかし、復讐を果たしたというのにこの顔はなんだ? まるで悲しんでいるかのようではないか。見境のない強化によって、普通の人間としての感情すらも失ったこの女が?
 シーファは自分の指定席にどっかりと腰を下ろした。頬杖を付き、ぶっきらぼうに言い放つ。
「『ゲシュタルト』のテストは?」
「順調だ。何も問題ない。『ゲシュペンスト』の安定率も99.8%。ゲシュタルトの限界性能を完全に引き出している。現在は全機を一時撤退させて調整中だが……」
「明日は本番だな?」
「そうだ。だが、明日はここに残ってもらうぞ」
 ここにきて、はじめてシーファはオズワルドの顔を見た。眉をひそめた、今にも癇癪を起こしそうな顔。こりっ。シーファの歯軋りの音が、闇に響いた。
「何だと?」
「『ジュステーム・ゲシュタルト』の形成率が低い。やはり、『核』はここに待機していなければならないようだ。『ガイスティッヒ・ヴェレ』の増幅機がある。それを使用するのだ」
「あたしに問題があるってのか?」
「そうではない。所詮、一人の『プルス』が放つ貧弱なガイスティッヒ・ヴェレでゲシュタルト全機を操作するなど、不可能なのだ。いくらゲシュペンストの助けがあるとは言ってもな」
 シーファは舌打ちをすると、椅子に手を付いて立ち上がった。気分が悪い。だんだん自分の感情が高ぶっていくのがわかる。『楽しい』と感じている自分がいる。明日の壮大なパーティを、『楽しみ』にしている自分がいる。胸くそが悪い。そんな感情は、とうの昔に捨て去ったというのに。
「明日は客が来る」
 彼女の言葉は冷たく、鈍かった。
「盛大にもてなしてやれ」
「……心得た」
 男の答えを聞くより早く、シーファは部屋を飛び出していた。
 
 
 地上の夜は重く、暗い。分厚い大気に阻まれて、星の一つも見えはしない。風が吹き抜けていく。巻き上げられた砂埃が二つの十字架を包み、そして消えていった。木で組まれた簡素な十字架。名前すらも彫り込まれてはいない。ただ、二つの墓標は寄り添うように佇んでいた。まるで幸せな夫婦のように、ひっそりと。
 花すらも供えられていない墓標を、また風が包んでいく。
 
 辺りがすっかり暗くなったのを見計らって、リンファは起きあがった。自分を包んでいたシーツをはぎ取り、床から立ち上がる。部屋の端のソファでは、エリィがすうすうと寝息を立てている。傷の具合は良好のようである。
 足音を立てないよう、ゆっくりとリンファは部屋を出た。広いガレージ。青い蜘蛛のそばに佇んでいる紅い巨人。それに歩み寄り、見上げる。3年間、リンファはこいつと一緒だった。戦場に立つとき、リンファはこのペンユウと一体となっていた。無機質な装甲板が自分の素肌のようだった。それを心地よいと感じるようになったのは、いつの頃だったか。
 ごめんね。答えるはずもない巨人に、リンファは心の声を投げかけた。今度ばかりは帰ってこれないかもしれないけど、最後まであたしと戦って。リンファは答えを聞いたような気がした。地獄の底へだって付いていく、と。
 その時、リンファは彼の存在に気付いた。ペンユウの足に背中を預け、腕組みをして佇んでいる。いつもの黒いコート。見慣れた金髪。綺麗な青い瞳。ヨシュアだった。リンファは驚きを顔に出さないように気を付けながら、彼に歩み寄った。
「行くのか」
 低い声が耳に届いた。子守歌のようで、とても気持ちのいい声。リンファはうつむいて答えた。
「うん」
 そして、自分の頭を彼の胸に埋めた。暖かい。腕を背にまわす。力一杯彼を抱きしめた。彼もまた、それに応えた。匂いが鼻を衝いた。コートに染み付いた、淡い煙草の匂いだった。いつもは苦手なその匂いも、今はたまらなく愛おしかった。
 言葉なんて出てこない。だからリンファは心の中で言った。ありがとう、ヨシュア。あたしは、あなたに会えて幸せだった。だから、いつ死んだって後悔しない。もちろん死にたいわけじゃない。でも、あなたと一緒にいた時間がとっても楽しくて、嬉しくて、好きだったから。だから、死ぬことなんて怖くないの。いつだってあたしは、精一杯に生きてきたから。あなたと一緒に生きてきたから。
 リンファは顔を上げた。そして瞳を閉じた。唇に柔らかくて暖かいものが触れるのを感じた。力が抜けていく。感覚がなくなっていく。自分の存在が曖昧になって、そして痛いほど確かになっていく。まるで自分はそこにしか存在していないかのようだった。彼と触れ合っているその一点だけで、自分は存在している。そんな気がした。
 口づけの時間は長かったのか、短かったのか。誰にもそれはわからなかった。リンファは唇を離すと、彼の手に小さな物を渡した。それは十字架だった。ヘイフォンがいつも肌身離さず持っていた、あの十字架だった。
「あなたが持ってて」
 それだけ言うと、リンファは彼の横を通り過ぎた。コックピットへと向かい、駆けていく。
「リンファ」
 その背に、再び低い声がかかった。ヨシュアは十字架を握りしめ、まじまじと見つめていた。しかしその瞳が捉えていたのは、金属の塊ではない。その向こうにいるもの。その向こうにあるもの。
「誰のためだ」
 リンファは肩越しに振り返った。しばらく黙ってから、小さく口を開いた。その表情は苦笑しているようにも見えた。
「誰のためでもない。あたしのためよ」
 それを聞いて、ヨシュアは少しだけ笑った。笑って、そして投げた。手の内にある小さな金属の塊。そう、たった今渡されたばかりの十字架を。リンファは慌ててそれを受け止めた。どうして。瞳を見る。青い瞳は真っ直ぐに、あまりにも真っ直ぐにこっちを見つめていた。
「お前のためなら、俺にも理由がある」
 
 エリィはシーツにくるまったまま、外の音を聞いていた。ACの駆動音。廃工場から遠ざかっていく二機のAC。その足音を遠くに聞きながら、エリィは寝返りを打った。天井。昔のことが頭をよぎる。そう、初めてリンファと出会ったときのこと。
 リンファちゃん。彼女は相棒の名を呼んだ。あなたにあげたペンユウは、わたしがムラクモを抜けるときに失敬してきたものなの。でもそれも、本来はムラクモの機体じゃなかった。クロームが極秘裏に製造していた二機の新型ACのうち、一機を奪取したものだったのよ。
 これも運命なのかな。巡り巡って、同じ二機が今、戦いに身を投じる。不思議ね。神様が本当にいるみたい。でも、ここから先は誰にも予想なんてできない。どっちが勝つか、どっちが生き残るか、誰にも決めることなんてできない。
 だから、リンファちゃん。必ず帰ってきて。わたしはここでこうして待ってるから。明日の朝目覚めたら、何事もなかったみたいにリンファちゃんが微笑んで、馬鹿みたいに騒いで、笑って、そして時々依頼をこなしたりして……
 待ってるからね。だってリンファちゃんはわたしの友達だから。相棒だから。親友だから。一番大切な仲間だから。
 
 
 もうじき夜が明ける。
 シーファは椅子に腰を下ろした。それは彼女の玉座だった。広大なドーム状の空間。その中央にある、闇の王の玉座。そしてその後ろに控える騎士。真紅の巨人、『プルス』。強化人間専用に造られたAC。シーファのためだけに造り出されたAC。だからこのACはこう名付けられたのだ。強化人間――プルスと完全に一つになるために。
 いや。シーファの脳裏を嫌な光が駆け抜けていった。造られたのはプルスの方ではない。あたしだ。あたしが、このACに乗るために造られたのだ。究極の強化人間として。完璧な強化人間として。ジュステーム・ゲシュタルトの核として。かつてはクローム社によって。その滅亡後は、意志を受け継いだナターシャとオズワルドによって。見境のない強化を受けたのだ。もはや、本来の肉体はほとんど残っていない。人工組織ばかりになってしまった。脳の中に至るまで。
 世間では存在自体が認められていない強化人間に、自分だけがなったというのは快感だった。そして同時に耐え難い苦痛でもあった。もうシーファに仲間はいないのだ。
 だって、彼女はもう人間ですらないかも知れないのだから。
 
『これだな? 大破壊以前の工場ってのは』
 通信機から、ワームウッドを駆るヨシュアの声が伝わってきた。目の前にある巨大な建造物。分厚い外壁に、気密性が高そうなゲート。明らかに補修と改装の手が加わっている。それもごく最近に。
 リンファは目を細めた。なぜかはわからない。でも感じる。シーファはこの中にいる。間違いなく。
「ヨシュア、穴開けて」
『乱暴だな、全く……』
 ワームウッドがレーザーキャノンを放つ。閃光と爆音が無秩序にばらまかれる。もうもうと立ちこめる砂埃。それが収まった頃には、堅く閉じられたゲートに大穴が穿たれていた。AC2機程度なら並んで通れそうなくらいの穴である。
 赤い巨人と青い蜘蛛は、工場の中に滑り込んだ。長い通路。ACが出入りしやすいように、広めに造られている。レーダーを確認する。映り込む妙なノイズ。どうやら電波障害が起こっているらしい。これでは、レーダーは使い物にならない。
 慎重に歩みを進めていく。一体何処で何が待ちかまえているやら分かったものではないのだ。分かれ道はない。途中にはいくつか閉じたゲートもあったが、完全にロックされているようだった。そして、おあつらえ向きに用意された一本だけの道。
 誘っているのだ。悪魔が、地獄の底へと。
 やがて二機は広い部屋にたどり着いた。ACが本気で暴れ回っても何ら差し支えないほどの広大な空間。見たところ立方構造になっているようだった。
 ぴくり。レーダーよりも鋭い、リンファの鼻がそれを感じ取った。
 
 来たか。姉さん。
 玉座に座ったまま、シーファは息を吸い込んだ。余計な邪魔者が付いてきている。奴には大人しくしていて貰わなくてはならない。このためにゲシュタルトを待機させておいて正解だった。
「Plus befehlt euch」
 シーファの口から浪々たるドイツ語が飛び出した。ジュステーム・ゲシュタルトの操作コマンドは、全てドイツ語によるのだ。
「Loscht den Hindelichen !」
 
 ヴンッ。低い駆動音。立方体の部屋のいたるところで、無数のハッチが扉を開いていく。十数個のハッチの向こうには、それぞれ一機ずつ控える青い2足AC。あの、世界中で暴れていたACである。なるほど。まずは雑魚で歓迎、ということか。
『聞こえるか、リンファ』
「何よ?」
 今にも先制攻撃のトリガーを引こうとしていたリンファを、彼の声が押しとどめた。出鼻をくじかれ、リンファは顔をしかめた。
『ここは俺が引き受ける。お前は奥に行け』
「ちょっと、そんなこと……」
『いいから行けッ!』
 びくっ。リンファの肩が震える。彼の怒鳴り声なんて、久しぶりに聞いた。嫌な気分だった。荒っぽいヨシュアは、あんまり好きじゃない。でも次に聞こえてきた彼の声は、まるで底が見えない海のように優しかった。どこまでも青かった。
『お前にはやることがあるだろう。こんなところで立ち止まるな。
 行って、ケリを付けてこい。お前自身の過去、全てに』
 そうだ。ヨシュアはいつだって、あたしより一歩先を見ている。リンファは思った。何度彼に助けられただろう。感謝しようと思っているのに素直になれなかったことが、何度あっただろう。だから今は。リンファは心の中で決意した。彼に一言、言わなくては。
「……ありがとう」
 ふっと、息を吐くような音が聞こえた。笑ったのだ。ありがとう。もう一度心の中で繰り返して、そしてリンファは操縦桿を倒した。奥の通路へと、全速力でペンユウが駆けていく。待っていろ、シーファ。
 
 ――すぐにそこへ行く!
 
 シーファは唇の端を吊り上げた。聞こえたのだ。姉の声が、今。もうじきあの女はここへくる。最後の戦いが待つ、この場所へとやってくる。その時こそ審判が下されるとき。彼女の復讐が終わりを告げるとき。シーファは足下に転がる肉の塊に目を遣った。さっきまでオズワルドだったそれは、血の気を失って青ざめていた。
 愚かな男だ。強化人間の力を支配できるなどという、思い上がりを持った挙げ句がこれだ。あたしは忘れてなどいない。お前があたしに何をしたか。手術がどれほどの苦痛だったか、知らないとは言わせない。屑め。お前は親父と同じだ。最低の屑野郎だ。死して当然の男だ。
 そしてリンファ。あたしの双子の姉。ぬくぬくと幸せに暮らしてきた姉。お前はあたしの敵。この力で、空白の15年があたしに与えた力で、お前を殺す。お前の男も殺す。お前の相棒も殺す。みんな殺す! あたしを助けてくれなかった奴ら全員、あたしとプルスとゲシュペンストとゲシュタルトの力で跡形もなく消し去ってやる!
 
 ――来い! リンファ!
 
 リンファの頬を汗が伝い落ちた。聞こえた。今、妹の声が。確かに聞こえた。原理など知るものか。だが、心に伝わってくるこの声は、まぎれもなくシーファだ。彼女にはわかる。彼女のどす黒い感情の奔流が。
 細く長い通路を抜け、ペンユウは再び広大な空間へとたどり着いた。さっきとは違う、ドーム状の空間。あまりにも巨大な空間。このドームに比べたら、ACなど豆粒のような物だった。そしてその中央に、静かに佇む紅い巨人。自分と同じ姿をした巨人。右手に持ったレーザーライフル。左肩のレーザーキャノンと、右肩のミサイルポッド。大した重武装だ。リンファにとっては、その姿がまるで天使のようにも見えた。
 ――『プルス』。
「待っていたぞ、姉さん。今日、この時を」
 通信機からではなかった。シーファの声は、直接彼女の耳に届いた。不思議と不信感はなかった。まるでそれが当然のことであるかのように感じている自分がいた。それを疑問に思おうとすらも考えなかった。
「あたしはあんたの姉じゃない」
 リンファは応えた。機械の助けなど借りてはいない。ただ声を出すだけで、それはシーファの元まで届くのだ。
「なくしたぬいぐるみを探しに来た、ただの女よ」
 微かな笑い声が聞こえた。甲高いシーファの声だった。なくしたぬいぐるみ。シーファ。あたしはあんたを探しに来た。そう、ずっと探していたんだ。15年前の、あの日から。
「さあ」
 シーファは言った。静かに、穏やかに、冷たく。
「始めようか」
 
 口火を切ったのはマシンガンの掃射だった。雨霰と降り注ぐ弾丸が、プルスの装甲をかすめていく。プルスは右に飛んだ。右腕のレーザーライフルが、光の槍を撃ち出す。死をもたらす輝き。リンファは慌てることもなく操縦桿をひねり倒した。ペンユウのブースターがこれでもかと炎を吹き出す。前へ。一気に間合いを詰める。
 火力で劣るペンユウにとって、唯一プルスを上回っているのは機動力だ。近距離で、相手を攪乱するしかない。おざなりにマシンガンで牽制しつつ、プルスを壁際に追い込んでいく。
 瞬間、プルスが宙へ舞い上がった。肩のレーザーキャノンを構える。射出される光の砲弾。あんなもの、まともに喰らったらひとたまりもない。マシンガンで砲弾を撃ち落とす。衝撃を受けた光の弾は、周囲に爆炎を撒き散らしながら消滅した。
「ヒャハッ!」
 シーファの歓声。爆炎を切り裂いて姿を現す真紅の機体。プルス。奴の左腕が輝いた。レーザーブレードだ。ペンユウが身をひねる。光の刃が胸の装甲をかすめた。
「おおッ!」
 それに応えるようにリンファが吠える。自らもブレードを生み出し、プルスへと斬りかかる。プルスが左腕を振るった。ぶつかりあう光と光。激しい衝撃。飛び散る無秩序な光。ペンユウは自らの意志で力に流された。はじき飛ばされ、間合いが広がる。
 ピピピッ。電子音。FCSが総力を挙げてプルスを捉えていく。ロックオンが終了するなり、リンファはトリガーを引いた。肩のポッドから打ち上げられる四発のミサイル。それが頂点に到達するよりも早く、ペンユウはマシンガンを放った。プルスが横に飛んでこれをかわす。着地。衝撃で一瞬プルスの動きが止まる。ミサイルが降り注いだのは丁度その瞬間だった。
「みえみえなんだよ馬鹿姉がぁッ!!」
 プルスは突如レーザーキャノンの砲身を真上に向け、光の砲弾を放った。ミサイルと衝突し、再び爆炎が巻き起こる。残り三発のミサイルもその炎に巻き込まれ、誘爆を起こした。
 そのままプルスは肩のミサイルを放った。飛来する一発のミサイル。それが中空で4つに分裂した。拡散ミサイルだ。マシンガンが火を噴く。四発のうち上空から迫る2発を撃ち落とし、低空を飛ぶ2発を飛び上がってかわす。上空から降り注ぐマシンガンの弾丸。プルスの回避行動が一瞬遅れた。弾丸が肩をかすめる。ジョイントを貫かれ、弾け飛ぶミサイルポッド。
 シーファの舌打ちが聞こえる。プルスはペンユウを追って空中に飛び上がった。レーザーライフルを連射する。キャノン砲並の威力を持つ光の槍が真下からペンユウを襲う。しかしそんなもの、ペンユウの機動性を以てすれば回避するのは容易い。ブースターの微かな動きだけで、全てを見事にかわしきる。ペンユウの左手に点る光。レーザーブレードを構え、下のプルスに向かって急降下する。
 ガッ!
 ブレードは、プルスの左肩をかすめた。レーザーキャノンが切り離され、地面に落ちる。しかしその瞬間ペンユウの動きも一瞬止まった。それを見逃すシーファではない。レーザーライフルの光。光の槍はペンユウのミサイルポッドを貫いた。巻き起こる誘爆。衝撃で二機は大地に叩き付けられた。
「強化人間がどういうものか知ってるかッ!」
 シーファが叫ぶ。プルスはペンユウを蹴り飛ばして間合いを取った。すぐさまレーザーライフルを乱射する。ペンユウが斜め後ろに飛んで光をかわしきる。
「あたしは知ってる。毎日体を切り刻まれたッ!
 15年間毎日だ!」
 リンファは歯を食いしばった。知ったことか。お前の15年間がどうであろうと、今することはたった一つ。お前をこの場で殺すことだけだ!
 ペンユウがマシンガンを撃ちながら走った。
「だがな、麻酔は使わないんだ。人工器官が拒絶反応を起こすからな!
 わかるか! お前にわかるかッ! 手足を縛られ、口を塞がれ、はっきりした意識の中で延々体を切り刻まれる気分がッ!!」
 ペンユウの足が、一瞬止まった。コックピットの中でうずくまるリンファ。痛い。何だこれは! 腹が痛い! まるで刃を差し込まれているかのようだ。シーファが言葉を紡ぐたび、シーファと心が繋がるたび、リンファの体に閃光のような痛みが走っていく!
「痛いだろう! 苦しいだろう! それがあたしの痛みだ。あたしが毎日感じてきた痛みだ!
 見えるかッ! あたしが見ていた光景がァッ!」
 気が狂いそうだ! 目の前に見たこともない光景が浮かぶ! 白衣を着た男。白い灯り。煌めく刃。腹に刃が食い込んだ。激痛。飛び散る血で白衣が汚れる! あたしの血。紅い血! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いこんなことが昨日も今日も明日も明後日もその次も毎日毎日毎日毎日ッ!
「ウアアアアアアアアアッ!!」
 ペンユウは狂ったように走った。光の刃を生み出して、プルスに正面から斬りかかる。プルスの腕にも刃が生まれた。耳を劈くほどの轟音が鳴り響き、世界が反転するほどの衝撃が二機を襲う。刃と刃は互いに弾かれ合った。もう一度。今度はお互いに突き上げるような一撃を繰り出す。衝撃。レーザーライフルが根本から斬り飛ばされた。マシンガンがその真ん中を突き刺された。小さな爆発が二機を揺らす。
 このままで終わらせてなるものか。リンファはもう一度操縦桿をなぎ倒した。ペンユウの左手が横に振られる。
 ザンッ!!
 手応え。プルスの頭部が消し飛んでいた。シーファの目の前のモニターが一瞬砂嵐を映し出す。直後にコアに内蔵されたサブセンサーが起動する。畜生。よくもやりやがったなッ! プルスの左手が縦に振るわれた。
 ゴッ!
 鈍い音。ペンユウの右腕が、肩口で切り落とされていた。その残骸が弾け飛び、地面に転がる。一瞬、ペンユウのバランスが崩れた。
「リンファアアアアアァァァァァアァァッ!!」
 プルスの右腕がペンユウを殴り倒した。地面に転がる巨体。プルスはその上に馬乗りになり、狂ったように両手を振り下ろした。拳がコアに食い込む。
 ガッ。また衝撃が走る。リンファは目を見開いて、操縦桿を握ったまま震えていた。伝わってくる。聞こえてくる。感じられる。シーファの心。どす黒い、反吐が出そうな妹の心。次から次へと頭に声が雪崩れ込んできた。シーファの叫びだった。
「聞こえるかァァァァァアァァリンファアアァァァァァッ!!」
 ガッ。もう一度。
「お前らがあたしを見捨てたせいでェェェェエエあたしの15年間は無茶苦茶になったんだァアアァアァッ!!」
 ガッ。ガッ。感覚が短くなった。
「お前が笑って喜んで泣いて怒って男に抱かれて楽しくやってる時にあたしは痛くて苦しくて辛くて寂しくて切なくて怖くて悲しくて悔しくて狂ってお前にお前にお前にお前にお前にそれがわかるかァァァアアアァァァァアアアッッ!!」
 プルスの拳は止まることなくペンユウを殴りつけた。その度に痛みが伝わってきた。リンファは自分が狂っていくのを確かに感じた。それはシーファが狂ったのと同じ過程だったのだ。リンファは震えて、そして叫んだ。絶えきれずに叫んだ。
「ウアアアアアアアアアッ!!」
 ガッ! ペンユウが上のプルスを蹴り飛ばした。衝撃ではじき飛ばされるプルス。ペンユウは立ち上がった。ゆっくりと。地獄の亡者のように。
「リンファ……」
 シーファは歌った。
「あたしの痛みを知れッ!!」
 ヴンッ。プルスの持つもう一つの機能が、唸りながら動き始める。シーファの口を吐いて出る言葉。コマンド・ワード。
「Plus befehlt euch」
 そこで、シーファは一度言葉を句切った。黒かったはずの彼女の瞳は、今や緋色に変色していた。大きく息を吸い込み、そして悲鳴にも近い叫び声を挙げる。
「Lasst den Narren die Engelshymnen horen !」
 
 キ……イイイィィィィィィン……
 音? いや、もはや人間の耳では音とも判断できない。ただ、ヨシュアは空気が細かく振動しているのを感じた。ついさっきまで彼と激闘を繰り広げていた『ゲシュタルト』たちが、一斉に奇妙な音を放ち始めたのだ。
 いぶかしがるより先に、激痛が走った。脳に直接痛みが走る。頭の中を何かが駆け抜けていく。頭が痛い。まるで何かに脳を掻きむしられているかのようだ! ヨシュアは耳を押さえた。
 もしこの場にエリィがいたら、何が起こっているのか気付いていたかもしれない。
 
「うっぐううああああああっ!!」
 リンファは激痛に絶えかねて叫び声をあげた。頭が痛い。割れそうだ。リンファにはわかった。これは、シーファが発している心の声だ。痛いのは心だ。黒く染まっていく。リンファの心が壊れていく。妹と同じ、狂った堕天使へと、リンファは一歩一歩歩み寄っていた。
「う……ぐ……あ……」
 震える手を、必死に動かす。操縦桿を握る。全身から吹き出す冷や汗。リンファは歯を食いしばった。動け! あたしの体よ、動け!
 ヴンッ。
 小さな駆動音。シーファは目を見張った。ペンユウが動いたのだ。馬鹿な、何故動ける!? 完全に脳の機能は停止しているはずだ。彼女が放つ強力なガイスティッヒ・ヴェレ――脳内電流によって生じた電磁波を増幅したもの――によって、脳内電流を混乱させられて。動けるはずがないのだ。ただ、痛みを感じることしかできないはずなのだ。シーファが記憶している痛みを!
 一歩。確かにペンユウは歩いた。幻覚ではない。何故かは知らないが、奴にはガイスティッヒ・ヴェレが通用しない。
 それなら。シーファは唇の端を吊り上げた。プルスの左手に、光の刃が生み出される。決着を付けようじゃないか! 最後の決着を!
「……シ……」
 リンファは呻いた。頭をかき乱すノイズに絶えながら、乱暴に操縦桿を押し倒した!
「シーファァァアアアアアアァァァァァァァァアッ!!」
「気安く呼ぶなこのクソダボがぁアァァァアアァァァアァァッ!!」
 二機が走る。互いに互いの狂気を増幅させて。シーファの狂気、どす黒いクレパスのごとき深淵。リンファの狂気、堕ちてもなお憧れる天上の楽園。二人は叫んだ。その心はすでにここになかった。ただ、死と恐怖と衝動のみが突き動かす闇。二人の闇の王。あと一歩。光の刃が互いの命を求めて煌めく!
 
 ――男が、そこにいた。
 
 ぎいいいいいいんっ!!
 瞬間、紅い巨人のコアは真っ二つに切り裂かれていた。
 
 
「な……?」
 ヨシュアは我が目を疑った。
 脳をかき乱していた奇妙な音が止まった。そしてその音を発し続けていた『ゲシュタルト』たちも。ワームウッドを十重二十重に取り囲んでいた青いAC達は、今やただの巨大なモニュメントと化していた。
 どうして……? ヨシュアはまだふらつく頭を必死で働かせた。何故止まったのだ。
 理由は一つしか思いつかなかった。
「そうか……リンファ」

 ――どうして
 心の声が、彼女に伝わってきた。そこに、さっきまでの狂気はかけらも感じられなかった。ただ、純真な少女が一人、自分の心をさらけだしている。それだけだった。取り戻したのだ。本当の自分を、死の間際で。
 ――どうして、あたしは負けたの
 リンファは、妹の声を目を閉じて聞いていた。シーファ。灼き切られたコアの中で、今にも息絶えようとしている妹。何もしてやれない自分が歯痒かった。自分にはただ、終わらせることしかできない。何も創らず、何も産まず、過去を清算するだけ。妹を助けもせずに、その狂気を消し去ってしまうことしかできなかった。
「理由なんて……ない」
 せめて最後は姉らしく。リンファは静かに言った。言葉に優しさを込めようとしている自分に気付き、彼女は目を開いた。
「あんたとあたしじゃ格が違う。それだけよ」
 すうっと、妹の心は消えていった。安らかに。眠るように。妹は消えていった。
 そして、リンファはもう一度目を閉じた。
 
 小さな美しい雫が、彼女の頬を優しく伝い落ちていった。

The real love still remains to be seen.