ARMORED CORE EPISODE 9

ブルーグラス・メモリーズ

 人類を地下都市へと追いやった大戦争、「大破壊」から53年。世界は大きな変貌を遂げた。極度の汚染で人が住めなくなった地上。失われたシステム、国家。台頭する巨大企業。収まることを知らない紛争。激化するテロ。人種、性別、民族、各種取り混ぜた差別。需要があるからこそ誕生した供給、戦闘兵器ACを駆る傭兵「レイヴン」。
 だが、世界がどう変わろうとも人には変わらぬ真実がある。それは、生と死。ゆりかごから墓穴まで、とはよく言ったものだが、生まれた人間がいずれ死んでいくというこの真実は、決して変わることはない。
 世界最大の複合地下都市「アイザック・シティ」の外れに、一つのリフトがある。地下都市のさらに地下へと降りていくリフトである。下にあるのは墓地。無数の墓標が立ち並ぶ、湿った気色悪い空間だ。
 墓地はいくつもの層に分かれていた。地位の高いもの――それはこの世界においては金を多く持っているものとイコールだが――ほど、高い層に葬られる。少しでも、地上に近く。死してもなお、生に憧れる。人の浅はかな考えが産んだ、階層構造である。
 その一番上の層。一際豪華な墓標が軒を連ねる第一層を、一人の男が歩いていた。飾り気のないグレーのスーツを身に纏った壮年の男。白い色が混ざり始めた金髪と、澱んだ青の瞳。そして手には、花束が一つ。百合の花だった。
 やがて男はある墓標の前にたどり着いた。その墓標は、第一層にあって然るべきそれとは、一線を画したデザインをしていた。質素である。これなら一般人のものと大差ない。木に似た質感ではあるが、決して朽ちることのない合成素材で作られた、簡単な十字架。それが一つだけ、広い敷地にぽつんと立っている。
 男は花束を十字架に供えた。なんていう墓標だ。彼もそう思う。だが、生前にいつも親友が言っていたのだ。もし自分が死んだら、こういう風に埋めてくれと。周囲の者はもちろん反論した。でも彼は、親友の意志をかなえてやりたかったのだ。
「オブリッチ」
 親友の名。まるで、墓にかかれた銘を棒読みしているかのような響きだ。
「死ぬのが早すぎたんじゃないのか」
 親友にして上司にして社長であった男。彼は親友の秘書だった。懐刀として畏れられていたのだ。長老どもや専務の馬鹿共がちょっかいをだしてきた時も、二人でなんとか乗り越えた。会社もちゃんと纏めてきたつもりだ。しかしそれが……こんなことになるとは。
 ストレス性の脳梗塞。お笑い種だ。ひたすら、不和を取り除くことばかりに気を使ってきたお前が、その死によって最大の不和を呼び覚ましてしまった。跡を継いだ保守派のモールは頼りないし、革新派のハティーユやファも動向が怪しい。株主の長老どもも最近活気づき始めた。俺は、どうすればいい。せっかくここまで育ててきたネーベル・テヒニケンを、こんなことで潰してしまっていいのか。
「お会いできて光栄ですわ、ハール・ノーカー」
 声は、突然に後ろから聞こえてきた。男は、ノーカーと呼ばれた男は振り返った。いつの間にか、女が一人立っていた。鮮やかな、長い金髪。研ぎ澄まされた刃のごとく冷たい輝きを放つ青い瞳。整った顔立ち。女としては、背も高い方だろうか。黒いロングコートが目を引く。細身の美女ではあったが、どこか恐ろしさにも似た雰囲気を放っていた。
 女の手には、花束が握られていた。百合の花束。彼が今しがたしたように、女も墓にそれを供えた。彼の親友が生前好きだった、そして何度も似合わないぞとからかった、あの百合の花である。
「君は?」
 女は立ち上がった。墓標を見つめる瞳がすうっと細くなる。ノーカーは背筋に悪寒を感じた。この女は、天使か、はたまた悪魔か。ガブリエルのようにも見えたし、リリスのようにも見えた。
「NT第三技術開発研究部部長、アシャンタ=ナスティー」
 コートが揺れる。女は振り返ると、ノーカーに向かって微笑んだ。
「我が社を治めるに相応しい女ですわ」
 
 
 冷たい空気が心地よい。男は後ろ手に喫茶店のドアを閉めた。からん、と乾いた鐘の音がする。黒いロングコート、金髪、冷たい輝きを放つ青い瞳。1.9mを超える身長と、少し長めの手足。荒んだ空気を放つその男は、おおよそ紅茶店には似つかわしくない風体をしていた。
 だが、この店に来る連中はこんなものだ。なんでもここのマスターは元AC乗りだったらしい。そのせいか、紅茶店カラサキは闇の世界で生きる傭兵、レイヴンのたまり場になってしまっていた。彼も……ヨシュアも、そんなレイヴンの一人。もっとも、この店に来たのはこれが初めてだったが。
 ヨシュアは多少不機嫌そうな顔つきで、夜の街を歩き出した。ついさっき、店のマスターに笑われたのである。彼がダージリンの「ストレート」、を頼んだのがいけなかったらしい。普通はストレートで出すものなんだそうだ。
 仕方がないじゃないか。ただ紅茶とだけ言うと、砂糖だのミルクだのを力一杯ぶち込むような連中と、一年近くもつき合っているのだから。これだから、女は。ヨシュアは思いながら自己嫌悪に陥った。どうしてああも、甘い物ばかり食べていられるのか。
 こつり。こつり。闇に響いていく彼の靴音。耳がぴくりと動いた。右腕をコートの中に差し入れる。前の方の、バーとドラッグストアの間にある細い道。裏路地へ通じる道だ。ヨシュアはそこに入り込んだ。
 足下の汚物を飛び越え、粗大ゴミの隙間をくぐり抜け、酔って眠った浮浪者を踏みつけないように気をつけながら、裏路地を進んでいく。やがて彼はスラムの一角にたどり着いた。朽ちかけたビルに挟まれた、細い路地。幅は1mほどしかないだろう。この辺りまで来れば、少々騒いでも大丈夫なはずだ。
 ヨシュアは立ち止まると、コートをはためかせて振り向いた。
「パーティのお誘いかい、坊や」
 ゆらり。そいつは、まるで陽炎か何かのように、闇の中から現れた。随分とくたびれた灰色のコートで身を包んでいる。ボタンを全て留めて、フードも目深にかぶり……表情はおろか、性別すらも伺い知ることはできなかった。ただ、背が妙に低いことは目に付いた。今日日、小学生でももう少し立派な体格をしているだろう。
 『坊や』は、もう一度ゆらりと揺れた。走る。速い。おそらく、ヨシュアが本気で走ってもあれほどの速度は出ないだろう。かなり鍛え上げられているのかもしれない。
 ヨシュアは素早く銃を構えると、二発の弾丸を撃ちだした。『坊や』が身を屈め、高い一発をかわす。そして地を蹴って宙に舞い、低い二発目をかわした。なんて跳躍力だ、ヨシュアの身長より高く飛び上がっている! 『坊や』はそのまま横手の壁を蹴り、上からヨシュアに迫った。
 煌めく白刃。ナイフ。
 身をひねって、ヨシュアはそれを避けた。『坊や』は猫のように身軽に着地するなり、返す刃を繰り出す。今度は横に飛び、これをかわす。コートの裾が少しだけ裂けた。畜生、なんてことをしやがる。ヨシュアは『坊や』の右腕をつかみ取った。ナイフを落としてしまえば、恐れることはない。
「ッ!?」
 ヨシュアは慌てて手を離し、小さく呻いた。奴の腕をつかんだ左手に、真紅の血がにじんでいる。仕方なく彼は『坊や』に蹴りを入れて倒すと、後ろに飛んで間合いをとった。
 左の手のひらに、大きな切り傷がある。なんなんだ、あいつは。ヨシュアはさっき、はっきりと見た。今まではコートの下で見えなかったが……奴のナイフは、右手に持たれているわけではない。手首から生えているのだ。銀色に輝く刃が。
「……ガキにはすぎた玩具だな」
 彼の口調からは、さっきまでの余裕は感じられなくなっていた。肩で息をするほどではないが、額には玉の汗が浮かんでいる。ゆらりと、また陽炎が立つ。『坊や』が立ち上がった。
 ヨシュアは踵を返すと、一目散に走り出した。どうやら狭い空間では不利らしい。この通りを抜ければ、もう少し広い路地に出るはずだ。心配なのは、自分のスラムに対する浅い知識だけだった。この先が袋小路なんかになっていないことを、ヨシュアは必死に祈り、走った。
 もちろんそれを黙って見逃すほど『坊や』も甘くはない。地を蹴り、軽快な靴音を響かせ、恐ろしいまでの速度でぐんぐん迫ってくる。銃口だけを後ろに向け、ヨシュアは数回引き金を引いた。靴音は消えない。当たるはずもない。狙って撃っても当たらないのだから。しかし、彼の目の前にはもっと広い路地が姿を現し始めていた。
 たんっ、と小さな音がして、それっきり靴音は聞こえなくなった。恐る恐る後ろの様子を伺う。『坊や』は、空中に飛び上がり、さっきと同じように壁を蹴ろうとしている。ヨシュアは慌てて身を屈めた。刃が頭の上を飛び越えていく。『坊や』はそのままの勢いで広い路地に飛び出すと、獣のように四つん這いで着地した。
 銃弾が三発。『坊や』が地面を転がり、その全てを避ける。ようやくヨシュアも狭っ苦しいビルの隙間から抜け出した。スラムの一角。自動車がすれ違える程度の広さはある。
 『坊や』が、飛んだ。四本の手足全てで地面を蹴って。右腕のナイフは、ヨシュアの喉笛ただ一点を狙っている。畜生、これじゃあ本当に獣じゃないか。意味のない愚痴を自分自身にこぼしながら、ヨシュアは上半身をひねった。白刃が頬を浅くかすめる。赤い液体が軽く飛び散る。ヨシュアの蹴りが『坊や』を地面に叩き付けた。そして右手に力を込める。無防備な『坊や』に向かって、容赦なく飛んでいく弾丸。
 ヨシュアは我が目を疑った。『坊や』の、ナイフが生えていない方の腕……鋼鉄によって造られた左腕によって、弾丸は受け止められていた。馬鹿な、腕に金属を埋め込んでいる……いや、腕を金属で造っているだと? これではまるで……
 ――強化人間……? まさか、これが!?
 考える暇すらも、『坊や』は与えてくれなかった。倒れた状態から背筋の力だけで飛び上がり、右手を振るう。ヨシュアは上体をそらした。一突き目が鼻先をかすめる。もう一度。この位置でかわすのは無理だ。そう判断して、後ろに飛びすさる。今度は刃先が左腕を少し抉った。
 トリガーを引きながら、もう一歩間合いを広げる。弾丸は例によって左手に受け止められた。距離は4メートル少々。右にはビルの壁。左は開けた道。丁度二人の真ん中あたりに、ビルとビルの間の細い隙間がある。
 この状況で、次はどう動く。ヨシュアの脳が、考え得るシチュエーション全てを想定した演習を始めた。奴の突きは、上か、下か、右か、左か。飛んでくるか、地を這うように来るか。それともどこかに飛び道具を隠し持っているのか。そしてそれにどう対応すればいいのか。避けるか。撃つか。蹴るか、殴るか。それとも一目散に逃げ出すか。
 『坊や』が走り、ヨシュアが身構える。
 ……と。いきなり、予想だにしなかった因子が現れた。右手の、ビルとビルの隙間から。何気なく歩み出てくる一人の女。まずい。ヨシュアに向けられるはずだった刃が、その女に向いた。永遠にも等しい一瞬。どうする。撃てば女に当たる。女をかばえば自分が刺される。女を見捨てれば、使い捨ての盾になる。
 ヨシュアが決断するよりも早く――
 だんっ!!
 『坊や』は、女に腕を掴まれ、投げ飛ばされていた。
「……あらぁ?」
 女の間が抜けた声が聞こえる。地面に叩き付けられた『坊や』は、もはやぴくりとも動かない。打ち所が悪かったのだろうか。緊張の糸が切れ飛び、ヨシュアは肺にため込んでいた息を一気に吐き出した。深呼吸。気分を落ち着かせる。
「どうしたんだい、シャオシュエ。騒がしいねぇ……おや」
 男の声。『坊や』を投げ飛ばした女の後ろから、もう一人の男が姿を現した。その視線は、『坊や』に釘付けになっている。しゅうしゅうという音。不快な臭い。ヨシュアも気づき、『坊や』に目を遣った。
 そこにはあったのはただ一つ。ぼこぼこと泡を吹きながら、緑色の粘液へと変貌していく『坊や』の死骸だけだった。
 
「いやぁ、到着するなり凄いものに出くわしちゃったねぇ、シャオシュエ」
「さすがは都会ねぇ、いろんな人がいるわぁ」
 耐え難い臭いを放つ『坊や』のなれの果てから離れ、ヨシュアはなんとか呼吸を整えた。普段ACの操縦ばかりしているせいか、こういう肉体労働からはすっかり疎遠になっていた。息が切れてしょうがない。
「……なんで付いてくるんだ」
 ヨシュアはぶっきらぼうに問いかけた。『坊や』を投げ飛ばした女と、その夫らしき男に向かって、である。改めてその風体をまじまじと見つめる。変わった格好だ。
 男の方は、黒い僧衣を纏っている。首からは、銀色の十字架をぶら下げている。野暮ったい黒縁の丸眼鏡。糸のように細い垂れ目。キリスト教の……それもカトリックの神父であることは間違いなさそうだ。しかし、あの黒髪や黒い瞳はアジア人の証。少なくともヨシュアは、アジア人の神父というのは初めて見た。
 そして女の方。髪の色はやや茶色がかった黒。瞳は漆黒だ。なんの変哲もない、主婦その一といった感じのワンピースを身につけている。こちらもアジア系のようである。相当な美人だが、どこかで見たことがあるように思うのは気のせいだろうか。
 二人に共通していたことは、いつ何時も、決して微笑みを絶やさないということだった。
「ええと、あなたはレイヴンの方とお見受けしましたが」
「……確かに」
 まあ、見れば判るだろう。いくら治安の悪い世の中とはいえ、堅気の人間がそうそう襲われたりはしない。とりわけ、先のようなわけのわからない相手には。
「わたし、ヘイフォンと申します。恥ずかしながら。東のホウシァン・シティで神の教えを説いております。
 そして、こっちは妻のシャオシュエ」
「初めまして〜。主婦一号でぇ〜す」
 ヨシュアの額を、一筋の汗が流れた。あんまりにもこの二人の笑顔が目について、逆に恐ろしいくらいだった。別に作り笑いというわけではないだろうが。
「実はわたしたち、家出した娘を捜してはるばるアイザックまでやってきたのですよ。
 ですが何分地理に明るくないもので……どう捜していいやら見当も付かない有様で。どうでしょう、レイヴンさん。お礼はいたしますから、娘を捜すのを手伝っていただけませんか?」
 なろほど。まあ、人捜しは探偵か興信所の仕事であって、レイヴンの仕事ではないような気もするが、大した問題ではない。ようは金さえもらえれば何でもいいのである。
「報酬次第だ」
「おお! ありがとうございます! お礼は、そちらの言い値で結構ですよ。
 あなたに神の祝福がありますように」
 ヘイフォンとか言う神父は、ヨシュアの目の前で十字を切った。これは勘弁して欲しいものだ。しきりにこういうことをされると……父親を思い出す。
 そんなヨシュアの心中を知ってか知らずか、ヘイフォンは懐から一枚の写真を取り出した。恭しく差し出し、こちらに見せる。
「これが、わたしたちの娘です」
 写真を受け取り、視線を送る。ヨシュアの動きが止まった。
 そこには、見慣れたアジア人の女が、これでもかというくらいのジト目で写って……いや、無理矢理枠の中に収められていた。
 
 
「長老どもとは話をつけてきた」
 相手がソファに着くなり、男は言い放った。少し小柄の、人相が悪い男。ネーベル・テヒニケン専務、ハティーユ。いや、専務という呼び名はもはや相応しくないかもしれない。すぐに……あと三日もすれば、この会社の全権限は彼のものとなるのだから。
 対しているのは、はげ上がり、でっぷりと太った中年の男だった。こちらも同じく、ネーベル・テヒニケン専務、ファ=コード。手にした葉巻を口にくわえ、鼻から白煙を吹き出す。肉に埋もれかかっている目が、ぎらりと獣の輝きを見せた。
「まさか、譲歩などしなかっただろうね」
「愚問だな。あの連中がどれほど欲の皮が突っ張っているか、知らないわけではあるまい」
「何を譲った」
「株を半分だ」
「半分だと!」
 ファは葉巻を口から外すと、乱暴に灰皿に擦りつけた。前に身をかがませ、より一層瞳のを光らせる。しかしそれに怯える風でもなく、ハティーユは優しく諭すように語りかける。
「考えてもみろ。長老組は儲かると思っている間は絶対に株を手放さない。確かに採決権の半分は連中が持つことになるが、逆に言うと君の資産の50%はいつ何時でも安定しているんだ」
 ――お前がどじを踏まない限りはな。ハティーユは心の中で付け足した。
「独立の話は間違いないんだろうな」
 中年が――自分も人のことを言えた義理ではないが――落ち着いたのを見て、ハティーユは胸を撫で下ろした。深く追求されなくてよかった。まさか、こっちの条件を良くする代償にお前の資産を売った、などとは口が裂けても言えない。
「それは、完璧だ。IT関連とネットワークホストを独立させ、新会社を設立する。表向きはNTからの分裂だが、実質NTとは裏提携の形を取る。権限は今までと全く変わらない」
「ゲーム系も欲しい」
「無茶を言うな、あれは家電の分野だ」
「お前は古いんだ。儂より若いくせにな。今や、ゲームのないネットワークはただの子供の玩具に過ぎん。ふむ、逆説だな、これは」
 ハティーユの頭の中で、いくつもの数字が浮かんでは消えた。アミューズメントを手放したとしたら……損失はあるにはあるが、兵器というジョーカーさえあれば問題はないだろう。ハティーユはこう判断した。今のうちに、恩を売っておくのも悪くはない。
「いいだろう。ただし、系列会社として独立させ、その株式を35%引き渡すことが条件だ」
「よかろう。
 ……それでは同胞よ、儂はこれで失礼するよ。会食の予定があるのでね」
 ファは本当に重い体を、なんとかソファから持ち上げた。のたのたと歩き、部屋を出ていく太っちょの背中に、ハティーユは声を投げかけた。
「我が社を治めるのは我々二人……他にはあり得ない」
 その声が、聞こえたのかどうか。醜い中年は、立ち止まって振り返った。醜い笑み。
 ハティーユは笑い返し、そして心の中で呟いた。今に見ていろ、ブタ野郎め。貴様のような屑に、何一つくれてやるものか。全てを支配するのは……わたし一人だ。
 
 
「……………うそ……………」
 住処代わりの倉庫の中で、ここの主であるリンファは硬直していた。
 黒髪に黒い瞳を持つ、アジア人の女。レイヴンの中でも、かなり名前は知られた方だ。薄汚い倉庫の中には、3年来の相棒『ペンユウ』がその真紅の巨体を横たえている。ペンユウの上から一人の女性が顔を出した。北欧系の整った顔立ち。腰まである赤毛。相棒のメカニック、エリィである。今まさに、二人はペンユウの整備をしていたところだったのだ。
 まず最初に倉庫に入ってきたのは、黒いコートの根暗男、ヨシュア。これは別にいい。幾度と無く共に死線をくぐり抜けて来たパートナー――リンファ自身はただの腐れ縁だと主張して止まないが――である。しかし、その後に付いてきた二人には非常に問題があった。
 神父ヘイフォンと、その妻シャオシュエ。
「リンファちゃ〜ん!」
 シャオシュエは全速力でリンファに駆け寄り、有無を言わさず彼女を抱きしめる。べきばきとなにやら鈍い音。リンファの顔が痛みで歪んだ。
「か……母さん……痛い……」
「あらぁ。やだわ、母さんまたやっちゃった」
 3年ぶりに見る母は、かつて家出した時と全く変わっていなかった。何を考えているんだか分からない――おそらく何も考えていない――その笑顔。一体何なのかは知らないが、鼻をくすぐる不思議な香り。そして、ベア・ハッグで娘を窒息直前に追い込む癖まで。
 だが、リンファには昔を懐かしむ暇はない。ゆっくりと歩み寄ってくる神父。畜生、せっかく自由になれたと思ったのに。こんなところで終わりなのか……
「何しに来たんだよ、馬鹿親父」
 エリィとヨシュアが顔を見合わせた。口調が、明らかにいつものリンファと違う。確かに普段からあまり言葉遣いが丁寧とは言えないが……ここまで乱暴な台詞は初めて聞いた。どうやら、これは。二人そろって納得する。相当、親父が苦手らしい。
「リンファ、どうして急に家出なんかしたんだい。父さんも母さんも、心配していたんだよ?」
「3年経ってもまだ分かってねぇのかよ!?
 あたしはもう嫌なんだッ! 何から何まであんたたちに指図されて生きるのはッ!」
「あらぁ」
 リンファの叫びを遮るように、横手から聞こえてくる声。目を遣ると、シャオシュエがエリィの頭を撫でて、その顔を不思議そうに覗き込んでいる。
「この子はだぁれ?」
「ん〜とぉ、えりぃはりんふぁちゃんのいもうとでぇ〜っす」
「あたしより年上だろーが……あんたは……」
 全く、人がせっかく真面目な話をしているというのにこの二人は……緊張の糸がほぐれる。リンファは胸に溜めていた息を大きく吐き出した。
「まぁ! じゃあわたしはエリィちゃんのお母さんね!」
「わ〜い、おか〜さ〜ん!」
 エリィがシャオシュエに抱きつく。そして優しく髪を撫でる……事情を知らない人間が見たら、この二人が親子だと言って疑う人はいないだろう。
「まあまあ。エリィちゃんは甘えんぼさんね。
 リンファちゃんもね、プライマリに入ったくらいの頃はこうやっていつも甘えてたのよぉ。いけないわぁ、母さんってだめねぇ。良くないって分かってるのに、ついつい甘やかしちゃうの。あんまり可愛いからぁ」
「……はあ」
 そんな話をされても困る。ヨシュアはただ、間抜けな相づちを打つことしかできなかった。なるほど。彼の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。この親にしてこの子有りとは、こういうことを言うのか。口に出したらリンファは怒るだろうが、よく似ている……傍若無人なあたりが。
「いい加減にしろッ!」
 ついに堪忍袋の緒が切れた。リンファの絶叫。それは、半分悲鳴に近かった。ヨシュアにはわかった。せめぎ合っているのだ。リンファの中で、相反する二つの自分が。自分も何年か前に経験したことがある。心で思っている通りに体が動かない。それは比類無き苦痛だった。しかし人は時間と共にそれを忘れてしまう。おそらくリンファの両親も、エリィももはや覚えてはいないだろう。
「出て行けッ! ホウシァンに帰れよッ! ここはあたしの家だ!」
「そうはいかないよ。もう売り払って来たからね。家財道具全部だ。
 ……この倉庫の隣、廃ビルになっていたね。今日から父さん達はそこに住むことにするよ」
 リンファは言葉を失った。家出する前の、15年間の付き合いは伊達ではない。父親がどういう人間かは、一通り心得ているつもりだ。そう、一度決めたらてこでも動かない。そういう男だ。
 舌打ちが、自然と口をついて出た。床に放り投げていたジャケットを拾い上げ、父親の横を通り抜ける。やることは一つだ。奴らが出ていかないのなら、自分が出ていく。リンファはドアを蹴り開けると、外に飛び出した。
「待ちなさい、リン……」
 後を追おうとするヘイフォンの前を、長い腕が遮った。黒いコート。冷たい瞳。低い声で、ヨシュアは吐き捨てるように言った。
「どうやら、餓鬼の扱いはあんたたちより俺の方が慣れてるらしいな」
 
 
 ビルの最上階では、実直そうな男が額に汗を浮かべていた。社長室の空調は、全力で冷たい息を吐き出している。いつもより遥かに温度設定が低い。社長がそうしたのだ。自分がかいている汗が、冷や汗であるとも知らずに。お陰で秘書は寒くてたまったものではない。
「ノーカー、噂が流れているぞ」
 冷や汗をかいている実直そうな男、つまりネーベル・テヒニケン新社長モールは、先代から引き継いだ有能な秘書に愚痴をこぼした。正確には愚痴でないのだが、秘書のノーカーにとってみれば受け答えは一つである。
「どのような噂です?」
「ハティーユとファが動いている……長老組と裏協定を結んだらしい」
「荒唐無稽ですな」
 社長の懸念を、秘書は一笑に伏した。
「噂はでたらめだと?」
「信じる要素がありません。仮にハティーユ達と何らかの取引をしたとして、一体長老組にどんな利益が生じますか。利益が無いのなら長老は動かない。ご存知でしょう?
 それに、あのハティーユとファが手を組むとも考えにくい」
 確かに、表面上はそうである。長老組には何の利益もないし、犬猿の仲で有名な二人にいたっては並んでいる姿を想像することすらできない。
 だが実際は違う。オブリッチが会社を支配していた頃は、長老組は何も干渉してこなかった。彼に任せておけば、自分たちに利益も入り、会社も円滑に動くということを知っていたからだ。しかしオブリッチが死に、モールが権力を握ると、途端に長老組には金が流れなくなった。モールの実直な性格が仇となったのだ。そうなると、欲望の権化たる老人どもは暗躍し始める。長老組が動けば、ハティーユたちにとっても好都合だ。たとえ会社を二分することになったとしても、自分の手に実権が握られることになるのだ。
 そういう流れに気付いていないのは、他ならぬモール自身だけだった。
「大丈夫……なんだな? 私はお前を信じるぞ」
「光栄ですな」
 愚かな。モールは未だ、ノーカーの笑みが嘲笑であることにすら、気付いてはいなかった。
 
 
 からんっ。グラスの中で、氷が音を立てた。中を覗き込む。スコッチはもう一滴も残っていなかった。
「おかわりぃ」
 不機嫌なところに、酔いが絡まっている。リンファはグラスをカウンターに叩き付けると、自分はそこに突っ伏した。かなり酔っている。珍しいこともあるものだ。普段あれほど酒に強いリンファが、数杯のスコッチでこんなことになるなんて。とても信じられない。
 さては。隣の席でちびちび酒をすすっていたヨシュアは、グラスにスコッチを注ぐ男に目を遣った。何か細工をしたな、このいんちきマスターめ。そもそも、紅茶店にどうしてこんなに酒が用意してあるのか。ただ、今は有難かった。嫌なことがあったときくらい、気持ちよく酔わせてやりたいじゃないか。
「飲み過ぎだぜ」
「うるさいなぁ……どってことないって」
 リンファは注がれた酒に口を付けた。一口、こくんと飲み干す。喉が小さく動くのが、隣のヨシュアにははっきりと見えた。綺麗だ。がらにもなくヨシュアはそんな風に感じた。もちろん口にはださない。思春期の小娘に、そんな台詞口が裂けても言えない。
「なんで連れてきたのよ」
「あの二人か?」
 リンファは大きくかぶりを振った。随分酒が回っているな。普通に頷くこともできていない。
「お前の、親だからだ」
「頼んでない!」
 グラスを脇に置き、リンファはカウンターに顎を付けた。すうっと、寂しそうに目を細める。久しく見ていない表情だった。
「自由になりたかった……あたしはただ、自由になりたかったのよ。
 でも分かってくれない。親父も、母さんも、自分の生き方を押しつけるばっかり……もうまっぴらよ。あたしは誰かの持ち物じゃない。自分で考えて、自分で決められる。
 それなのに、どうして……どうして今更」
 自分の酒を一気に飲み干す。ヨシュアは空のグラスを丁寧にカウンターに戻した。隣に目を遣る。眠たそうな瞳で、頬を赤らめ、リンファがこっちを見つめていた。畜生。ときどき自分に嫌気がさす。こんな小娘に惹かれてしまっている自分が、たまらなく情けなかった。
「どんな親だって、いないよりはましなんじゃないのか」
 リンファは目を閉じた。まどろんできたらしい。最後の言葉。呆けた瞳で見つめていた言葉。火照った肌で受け取っていた言葉。耳には聞こえていなかったかもしれない。
 紙幣をテーブルにおいて、ヨシュアは立ち上がった。二人分の酒代よりも少し多い。
「目が覚めたら、酔い覚ましに苦いのを飲ませてやってくれ」
 紅茶店が本業のマスターは、無言で紙幣をポケットに納めた。全く、徹底して無愛想なことだ。レイヴンしか集まってこないのがそのせいだと、気付いているのだろうか。気付いたところで、急に愛嬌を振りまき始めるような男でないのも確かだが。
 からん。ドアの鐘がなる。ヨシュアは一人、紅茶店カラサキを後にした。
 さて。少し、野暮用がある。もうあれから数時間……そろそろ来ていてもおかしくない。
 記憶を頼りに歩く。細い路地。地面の汚物。眠ったままの浮浪者。間違いない、この道だ。そしてあの先にあるのは……
 コートの中に手を入れる。触れるもの、拳銃。慎重に、ヨシュアは角から向こう側を覗いた。しばらく前に『坊や』と死闘を繰り広げた通り。ちょうど奴を倒した辺りに、一台の車が止まっている。ワゴンタイプである。その後部トランクから、細いホースが伸びている。二人の男が分担して機械を操作しているのが見える。
 吸い取っているのだ。あの、緑色のどろどろした液体を。やはり、来ていたか。死体の――いや、兵器の残骸を回収しに来ているのだ。
 あの車には、見覚えがある。古い型だし偽装もされているが、あの特徴的なシャーシーの形状は、間違いない。ネーベル・テヒニケンという企業が数年前に発表した、『ゲヒルン』という名の汎用作業車だ。あれ一台で部隊の「脳」……すなわち「ゲヒルン」を担えるとかで、かなり売れた車である。
 大企業、か。背筋に妙な悪寒を感じ、ヨシュアは身震いをした。嫌な予感がする。何かが、自分にとってとてつもなく巨大な何かが、すぐ側まで迫っている。そんな気がした。
 
 
「どういうことだ!?」
 その暗い部屋に足を踏み入れるなり、ノーカーは声を荒立てた。恐ろしいくらいの剣幕で迫る先は、一人の金髪の女である。金髪の女は面倒そうに椅子から腰を上げた。澄んだ冷たい声が響く。
「どういうこと、って?」
「C−8居住区のスラムで噂が流れている。強化人間が現れた、とな。
 痕跡は回収したが……なんのつもりだ。今『ゲシュペンスト』を表に出せばどうなるか、わからないほど馬鹿ではあるまい!」
 金髪の女、アシャンタは妖艶な笑みを浮かべた。こつり、こつりと靴音を響かせ、ノーカーに歩み寄る。淡い香水の匂いが鼻をついた。綺麗な色のマニキュア。細く白く美しい指がノーカーの頬に触れる。優しく肌を撫でていった。
「大丈夫……あれは『ゲシュペンスト』じゃないもの。あいつはただの『ミゼラーベル』」
 指が頬から離れた。代わりに腕をノーカーの首にまわし、そっと引き寄せる。唇と唇が触れ合った。アシャンタは彼の中に入り込むと、そこで激しくのたうった。無反応。つまらない。そう感じるなり、アシャンタは舌を自分の口の中に戻して、唇を離した。
「あなたにプレゼントがあるの」
 アシャンタはノーカーの手首をつかんだ。手のひらに一枚のカードを握らせる。それはIDカードのようだった。ACなどを操縦するときに、搭乗者が正規の者であるかどうかを判別するために使うカードだ。
「『イミタティオーン』よ。大切に使ってね。今夜、あなたにとってまたとない好機が訪れるから」
「好機、だと?」
 妖艶な笑みが、悪魔の微笑みに変わった。背筋に走る冷たい感触。アシャンタは最後にノーカーの首筋にキスをしてから、デスクの横に掛けてあったコートを手に取った。ついさっき彼が入ってきたドアの前に立つ。重い音がして、ドアは勝手に開いた。向こう側の光が入ってくる。アシャンタのシルエットが映し出された。後光だ。これではまるで。
「楽しい……とっても楽しいパーティーよ」
 ドアが再び閉まる。暗黒を取り戻した部屋の中で、ノーカーはいつまでも、一人佇んでいた。瞳の光は、決意か、それとも狂気か。答えを知る者は、どこにもいない。
 
 
 不景気という言葉は、こことは無縁だ。いつの世も、この一帯だけは衰退しない。いや、むしろ世界が混乱すればするほど、より多くの人間がここに集まってくる。
 N−5商業区、通称「ウェブモール」。いくつもの商店が立ち並んでいる。大型スーパーマーケット。ドラッグ・ストア。ガン・ショップ。喫茶店やバーもある。しかしそれらは全て、仮の姿。裏に回れば、どの店も同じ商売をしているのだ。
 すなわち、娼館である。
 ヨシュアはコートをはためかせ、ウェブモールを一人歩いていた。裏通りに入り込み、ある化粧品店の勝手口を押し開ける。中では派手な化粧をした女が作り笑いを浮かべて待ちかまえていた。どう見ても30過ぎだが、本人は29歳だと主張してはばからない。
「ようこそ……あら、ヨシュア君じゃない。最近熱心ね」
「空いてるか?」
 化粧の濃い娼婦はくすくすと笑い、ヨシュアを手招きした。階段を登り、彼を案内していく。
「丁度良かったわね。アンジェリカ姐さんは今日休暇だったのよ」
「高級娼婦が有閑か。こいつは、いよいよ世も末だな」
「あら。だめよ、そんな風に言っちゃ。姐さんはヨシュア君一筋なんだから」
「娼婦はみんなそう言うんだ」
 女は肩をすくめた。彼女のような商売の女が、一番苦手とするのがこの種の男である。堅くて、影がある色男。助平な親父の方がまだましだ。なぜなら……もし彼に惚れ込んでしまったら、もうこの商売が続けられなくなるから。他の男に抱かれるのが、嫌になってしまうからだ。
 やがて二人は奥まった一室の前にたどり着いた。なんということのない、質素なドア。化粧の濃い女が軽くノックする。
「姐さん、ヨシュア君ですよ」
 入って。ドアの向こうからかすかな声が響いてきた。あまり防音設備が整っていないのは、娼館としては多少問題があるかしれない。ともかく、女はノブをひねるとすっと押し開けた。
 あまり広くもない部屋。あまり飾り気はないが、どこか上品な雰囲気が漂う。その奥の椅子に腰掛け、鏡台に向かって化粧を直している女。
「じゃ、あたしはこれで」
 ここまで案内をしてくれた娼婦は、ヨシュアを部屋に入れるとドアを閉めた。中にいるのは二人だけ。ヨシュアは壁に背を預けた。女が振り返る。美しい、女。亜麻色のソバージュ・ヘア。不気味にも美しく輝く青い瞳。口紅によって鮮やかに浮かび上がった唇。挑発的な肉体。ウェブモール一の……いや、アイザックシティ随一の高級娼婦、アンジェリカ。持ち前の美貌とその「腕前」によってここまで上り詰めた、娼婦達の憧れの存在である。
「会えて嬉しいわ、ヨシュア」
「悪いが、俺が買いたいのはあんたじゃない」
 ヨシュアが言い放つと、アンジェリカは少し顔をうつむかせた。しかし、その悲しげな表情を信じてはいけない。信じたが最後……それは、男が女郎蜘蛛の餌食となる時である。
「わかってる。頼まれてたネタが入ってるわ」
「ネーベル・テヒニケン……か?」
「あら。知ってたの?」
 やはり、そうか。ヨシュアは壁から背を離し、ベッドに腰掛けた。身を屈め、アンジェリカの話に耳を傾ける。
「ネーベル・テヒニケンの社長が交代したそうよ。昨日、急に。しかも、新社長になったのは一開発部長だった女」
 確かに妙な話だ。社長交代劇なんてのは、そうそう一朝一夕に起こるものではない。いくつもの勢力があり、それが鎬を削って、血塗られた争いのあとにようやく訪れるものなのである。しかも、元々要職になかったような者が就任するなど、前代未聞だ。
「その女の名前が……アシャンタ=ナスティー」
「アシャンタ? アシャ……」
 ヨシュアは目を見開いた。アシャンタ……Ashanta Nustea……
 まさ……か……
 もういい。十分だ。ヨシュアは立ち上がった。無言でドアへ向かい、ノブに手を掛ける。
 その背に、暖かいものが触れた。体にまわされた腕。背中から自分を抱きしめる女。ヨシュアの眉はぴくりとも動かなかった。腕に力がこもる。アンジェリカの体は、とても柔らかかった。
「行かないで。だって、まだ一度も抱いてくれてないじゃない」
 ヨシュアは無言でその腕を引き剥がした。ゆっくりと、優しく。
「どうして? あのチャイニーズ・ガールがそんなに大切?」
「……ああ。そうさ」
 はっきりと、彼は答えた。アンジェリカの頬を、冷たい雫が零れていく。ふと気づき、ヨシュアはコートの内側に手を差し込んだ。そういえば、まだ金を払っていなかった。その手を、アンジェリカがつかみ取る。彼は驚きを顔一杯に現しながら、彼女の涙を見つめた。
「いいわ。今日はおまけしてあげる」
 涙を指でぬぐい去る。妖艶な娼婦……だが今の彼女は、まるで無邪気な乙女のようだった。
「その代わり、絶対にまた来てね」
 
 ベッドに座り込み、アンジェリカは窓から外を眺めた。忙しく人が通り過ぎていくウェブモールの表道。颯爽と過ぎ去っていく黒いコートの男。馬鹿ね。その呟きは、彼に宛てられたものか。それとも、自分自身への言葉か。
「ちょっと妬けちゃうな。あのチャイニーズ・ガール」
 彼女とこんなに何度も対面していながら、一度も彼女を抱こうとしなかった男は初めてだ。でもいつか、彼はわたしを抱いてくれるだろうか。多分、無理ね。アンジェリカは苦笑した。自分は年老いて醜くなる一方だけど、あの娘はこれからどんどん綺麗になるんだもの。
 アンジェリカは溜め息を付いた。そして、小さな携帯電話を手に取った。
「ハァイ、チャイニーズ・ガール」
 
 
「どういうことだ、ノーカーッ!!」
 ネーベル・テヒニケン社長……いや、元社長のモールは、半狂乱でノーカーにつかみかかった。社長室前の廊下。モールが連れてきた武闘派の部下5名。そしてノーカーの後ろに控える、アシャンタの部下3名。いずれもダークスーツに身を包み、黒いサングラスで視線を隠している。
「貴様ッ……私を裏切るつもりかッ!!」
「……裏切る……? これは異な事を」
 ノーカーはモールの手首をつかみ取った。見た目にそぐわない力で、その腕をねじ曲げる。モールの部下が色めき立った。苦痛のうめき声。
「我が社を支配するに相応しいのはお前ではない。あの女だ。
 お前のような能なしは、さっさと野垂れ死んでしまえばいい」
 ダンッ!!
 銃弾。ノーカーの持つ拳銃から、狂気にまみれた銃弾が打ち出された。狙い違わずモールの心臓を射抜く。豪奢な体が音もなく崩れ去った。そして、それが引き金となって、さらなる狂気が撒き散らされる。ノーカーの部下が放ったサブマシンガンの弾丸は、拳銃を抜こうとしていたモール側の連中をことごとく撃ち抜いた。
 あとに残ったのは、6つの死体と血、そして硝煙の臭いのみ。
「お前達は長老組を片づけろ。わたしは専務のブタ共とけりを付ける」
 部下達は無言で走り去った。有能な暗殺者たち。どうしてアシャンタがこんな連中を子飼いにしていたのかは知らない。ただ、いつか来るであろうこの日をアシャンタが予測していたのは事実のようだった。狙っていたのだ。虎視眈々と、自らが支配者となる時を。
 さあ。ノーカーはポケットから一枚のカードを取り出した。楽しいパーティ、か。そして走り出す。ある方向、アシャンタに教えられた方向に。ぐちゃり。奇妙な感覚が足の裏にある。目を遣ると、そこには彼に踏みつぶされたモールの汚らしい死骸があった。
 ノーカーは口の端を吊り上げ、笑った。そして次の瞬間には、何事もなかったかのように走り始めていた。
 
 
 正直に言って、あの時のことはあまり覚えていない。
 ただ、気が付いたら自分が血の海の中にいた。赤く染まった土の上に、俺は座り込んでいた。手のひら。膝。胴体。そして顔。順番に見て回った俺の体は、全て真紅のどろどろとした液体でまみれていた。そして目の前の、あの男も。
 父親。俺の、父親。かつてレイヴン「ワームウッド」として、世界を震撼させた男。戦いを捨て、安らぎの中に生きることを選んだ男。最低の男。嫌いだった男。憎んでいた男。でも心の奥底で、憧れていた男。父親。
 奴は俺の目の前にいた。うつぶせに倒れていた。全身のどこにも血で汚れていない場所などなかったが、中でも腹は特に赤く染め上げられていた。奴は腹を押さえていた。嫌な臭いが鼻をついた。これが内蔵の臭いだと知ったのは、ずっと後のことだ。
 ――あいつを。
 奴は呻くように言った。
 ――あいつを助けてくれ。
 俺にはわからなかった。奴が言っていることの意味が。あいつ、とは誰だ。助ける、とはどういう意味だ。最初は、全くわからなかった。自分が父親を殺したんだと思って、錯乱していたのだ。
 ――解き放ってくれ。ワームウッドの呪縛から。あいつを、自由にしてやってくれ。
 呪縛。そうか。これは呪いか。俺に与えられたこの力は。受け継がれ、巡り続ける呪われた力。黙示録の第三のラッパ。俺は聖書が嫌いだ。ワームウッドがあるから。人々を緩慢な苦しみの内に嬲り殺す、最低の刑があるから。
 ――あいつを。
 最後にそれだけ言うと、奴は朽ち果てた。俺は涙を流しながら、辺りを彷徨った。見つかった死体は二つだった。父親と、母親。それを埋葬して、十字架を立てた後で、俺は思った。一つ足りない。あいつがいない。そうか。あいつも呪われているんだ。ワームウッドの呪縛を受け継いだのは、俺だけではない。あいつも、同じ。
 解き放つ。あいつを、呪縛から解き放つ。ワームウッドがワームウッドを滅ぼす。それが、俺の使命。いや、俺の生きる理由。だから俺はレイヴンになった。あいつを捜すため。あいつを解き放つため。あいつを、この手でくびり殺すため。
[戦闘モード起動]
 機械の声が響いた。ワームウッド。俺の相棒にして、親父の相棒。そしてそれは俺自身。俺の中に流れる苦い水。俺の体を形作るにがよもぎ。それがワームウッド。俺はこいつと一つ。生きるときも死ぬときも。頼むぜ、相棒。因果な仕事だが勘弁してくれ。これが最後の仕事だ。こいつが俺の、最後の戦いだ。
 モニターに巨大な塔が映った。ネーベル・テヒニケン本社ビル。そこが、戦いの舞台だ。
 
 ヨシュアの指先が軽やかに踊った。通信機を公共周波数に合わせる。ビルの中にいる連中にも聞こえるはずだ。
「ネーベル・テヒニケン社員に告ぐ。俺の名はワームウッド。今からお前達の企業をぶっ潰す」
 その声には何もこもってはいなかった。憤怒も。殺意も。激情も。感情と呼べるものは何一つ、その声には入っていなかった。それは機械の声に他ならなかった。ヨシュアは望んだのだ。自らが、殺戮のための機械となることを。
「死にたくない奴は今すぐ逃げろ」
 ヴンッ。低い駆動音。ヨシュアの駆る青い蜘蛛が動き始める。共に戦いはじめて、もう5年になる。リンファよりも、誰よりも、そしておそらく自分よりも信頼している相棒だ。その相棒「ワームウッド」を、左右から2機のロボットが取り囲んだ。MT「ハント」。ネーベル・テヒニケン製の逆間接型2足MTである。機関砲やミサイルなど、かなりの重武装が施されている。
『そこのAC、今すぐ停止しろ! さもなくば……』
 ガゴウンッ!!
 言葉を遮ったのは二つの爆発音だった。ワームウッドが放った数発の弾丸を食らい、ハント達が燃え上がる。一瞬、ほんの一瞬の出来事だった。おそらくパイロットはおろか、ビルで成り行きを見守っているであろう社員たちにも、状況は飲み込めていないだろう。
「逃げろと言ったはずだぜ」
 ヨシュアは右手でレバーを引いた。がぐんという小さな揺れがコックピットを襲う。ありったけの弾丸が、腕に内蔵されたガトリングガンに装填されたのだ。操縦桿に手を掛ける。ヨシュアは足でペダルを踏みつけた。ワームウッドの背中に装備されたブースターが、赤い炎を吹き出す。
 上昇しながら、ヨシュアは引き金を引いた。狂気の弾丸。星の数ほどの弾丸が、容赦なくビルの外装を削り取っていく。叩き割られ、崩れ落ちる強化ガラスの窓。悲鳴を上げて必死に逃げまどう人々。これは威嚇だった。余計な人間を、ここから追い払うための。やがて一通り撃ち終えると、ワームウッドは隣のビルの屋上に着地した。
 肩に装備されたレーザーキャノンが、火を噴く時を今か今かと待ち望んでいた。
 
 
「くそっ、一体何だというんだ!」
 悪態をつきながらもハティーユは懸命に走った。隣にはファの姿もある。でっぷりと太り、額に汗をかきながらも必死に逃げる彼の様子は、ほとんどコメディに近いものがあった。もちろん、それを笑っていられるような状況ではないのだが。
 昨日の深夜、突然に社長が交代した。命じたのは長老部の馬鹿共である。ハティーユたちとの協定も、今までの流れも何もかも無視した信じられない出来事だった。しかも新社長は、元は幹部でもなんでもないただの開発部長である。これで納得できるはずがない。
 今日は朝からその対応に追われていた。そしてファとの会談の最中に、最悪の事態が起こったのである。レイヴンの襲撃。それも、相手はマスターランカー『ワームウッド』だという。
 彼はすぐさまありったけの武力をつぎ込むことを命じた。いくら世界の十本の指に入るというマスターランカーでも、圧倒的な数の差を以てすれば、制圧できないはずがない。そう思っていたのだ。しかしその考えが甘かったということは、すぐに明らかになった。
 裏口はすぐそこだ。外には車が待っている。逃げなければ。とにかく、ここから逃げなければ。本社ビルを失ったとしても、会社がつぶれるわけではない。幹部と生産ラインさえ残っていれば、損失こそあれ壊滅はありえないのだ。
 ふっと、横で風が動いた。ファがスピードを上げたのだ。おいおい。あの重い体で、どこをどうすればあんな速さが出るというのだ。火事場の馬鹿力とはこのことか。一刻も早く逃げ出したいのだろう。ハティーユの数歩先で、ファが車に乗り込んだ。その後に彼も続く……
 ……と。
 ゴガシャアァッ!!
 ハティーユの目の前で、車が踏みつぶされた。巨大な足。畜生、レイヴンのACか! ハティーユは尻餅を付いた。腰が抜けている。立ち上がれない。彼は上を見上げた。メタリック・ブルーに輝く巨人……なに、巨人だと?
 目の前のACは人間型の2足ACだった。情報を信じるなら、襲ってきたレイヴンは四足のACに乗っているはず。ならば、こいつは別口か!? 次の瞬間、ハティーユは目を見張った。青いACの肩に付いているエンブレム。それは、ネーベル・テヒニケンのエンブレムに他ならなかった。
『何処へ行くおつもりです?』
 外部スピーカーから漏れてくる声。すました敬語口調。聞き覚えがある。社長秘書のノーカーだ。まさか、奴がこのACを操縦しているというのか。奴が、ファを圧殺したというのか。
「ノーカー! 一体どういうことだ!? 我々には……我々には、協定があるんだぞ!」
 スピーカーから笑い声が聞こえた。嘲笑だった。
『協定……? 知りませんな、そんなものは』
 ヴィイン。ACが駆動する。腕がハティーユの方に伸びた。左腕の甲に付いた平べったいユニットが、彼を正面にとらえる。レーザーブレードの発生装置。
『いい加減に気付くことだな。自分が詰みにはまったということに。
 ……老人共もモールも始末した。あとはお前を消せば、終わりだ』
 地面にはいつくばったままで、ハティーユは恐怖におののいた。声が出ない。腕が動かない。足が、頭が、肺すらもが動かない。死の恐怖が全てを凍り付けにしていた。やがて氷は全てを蝕むだろう。彼の心臓とて、例外ではない。
 ヴンッ。
 ノーカーはただ、トリガーを軽く引くだけで良かった。光の刃が男を貫く。輝きが収まった頃には、何も残ってはいなかった。蒸発したのだ。一撃で。
 彼自身見たこともないAC……アシャンタが秘蔵していた、自社規格のAC『イミタティオーン』のコックピットの中で、ノーカーは笑っていた。全ては終わった。邪魔者は全て排除した。これで彼の理想が実現される。オブリッチが目指していた理想の企業が、現実のものとなる。見ているか。聞いているか、オブリッチ。これが俺からの慰めだ。俺が歌う鎮魂歌だ。
 いや。まだ残っていた。あのレイヴン。これ以上本社を壊されるのは、さすがに良くない。このイミタティオーンで、奴を止めなければ。それで全てが終わる。そして始まる。あの恐ろしいほどに狡猾な女を頭にすえ、自分がそれを補助するのだ。
 ノーカーは操縦桿に手を掛けた。
 
 
[AC急速接近中。登録情報なし]
 レーザーキャノンを撃とうとしていたヨシュアは、コンピューターの報告に指を止めた。なるほど。自社製ACのお出ましか。これまでに数十体のMTを破壊したが、まだ本命を残していたというわけか。
 だが、今は暇がない。そうだな。彼は腕時計に目を遣った。長針が丁度「5」の所を指している。ならば、この針が隣の目盛りにたどり着く前に、かたをつける。
 レーダーによると、敵の位置は……真下。モニターを下に向ける。青く輝く2足ACだ。見たこともない型。自社規格を持っているとは、さすがは天下の大企業である。そいつは……イミタティオーンは、こちらを見上げているようだった。
 ヴンッ!!
 ブースターを一気に吹かし、イミタティオーンが上昇する。ワームウッドのいるビルの屋上を通り抜け、はるか上空まで昇りきる。奴の武装は、右腕のライフル、右肩のミサイルポッド、そして左肩には……全く見たことのない兵器。一見すると大口径のキャノン砲のようにも見えるが、そのわりにはチェーン機構らしきものも見受けられる。
 イミタティオーンが、その謎の兵器を構える。空中で撃とうというのか。だとすれば、あのキャノンらしきものはそうとう低反動の代物ということになる。
 連続した発射音。砲弾が雨霰と降り注ぐ。これは……おそらく、弾丸自体が推進力を持つジェットチェーンキャノン。随分と変わったものを使っている。さすがは自社規格、といったところか。
 だが。ワームウッドが屋根の上を滑る。当たらなければ、何の意味もない。砲弾はただ、隣の不幸なビルを砕くだけに終わった。
 何十発撃っても、ただの一発もかすらない。何故だ。ノーカーは焦っていた。これほどの火力を以てして、なぜしとめられない。武器をミサイルに切り替える。十数発のミサイルが、箱の中から飛び出していく。追尾性能も高い。これが当たらないはずがない。巻き起こる爆風。ワームウッドはその中に完全に巻き込まれていた。そうだ。こうでなければいけない。こうでなければ――
 ノーカーは絶句した。爆炎を切り裂き、飛び上がってくる一体の青い蜘蛛。無傷の、敵のAC。真っ直ぐに、イミタティオーンの方へ迫ってくる。ノーカーは身構えた。しかし奴は撃とうとしない。ただ上昇し、すれ違う。
『残念だったな』
 ――これは!?
 ガクンッ。イミタティオーンの機体が揺らいだ。原因は、たった一発の弾丸。ワームウッドのガトリングガンから飛び出した弾丸。それが、イミタティオーンのブースターを貫いていた。
 
 ズ……ン……
 巨体を支える術を失ったイミタティオーンは、ただ無為に大地へと落下した。衝撃。アブソーバーだけでは、とても耐えきれなかった。コックピット内部の隔壁がいたるところで破れ、避けた金属の破片が体を貫く。
 ノーカーは血を吐いた。
 不思議と恐怖はなかった。最後に聞いたレイヴンの言葉。その声。聞いたことがある声だった。
 同じだったのだ。アシャンタと。もちろん、声の質や高さは全く異なる。それでも、そこに潜む響きや色は、まぎれもなくアシャンタのそれだった。彼は理解した。アシャンタはあのレイヴンを待っていたのだ。ネーベル・テヒニケンを乗っ取ることでも何でもない。アシャンタの目的は、あのレイヴンと会うことだったのだ。
 まんまと、利用された。このわたしが。これでネーベル・テヒニケンは終わりだ。そして終わらせたのはわたしだ。これこそ、お笑い種だな。我が社のため、ネーベル・テヒニケンのためと、ひたすら苦労を積み重ねてきたというのに。
 オブリッチ。薄れゆく痛みと意識の中、ノーカーは親友に向かって呟いた。
 やはりお前は、死ぬのが早すぎたよ――
 
 
 ワームウッドはそのままネーベル・テヒニケン本社ビルの屋上に着地した。レーザーキャノンを構える。真下に向かって。閃光が走り、爆発が起こった。床……つまりはビルの天井に、大穴が開く。
 ヨシュアは二・三のスイッチを操作した。ACのコアに付けられたハッチが開く。ワイヤーづたいにワームウッドから降りると、彼は自分が開けた穴へ向かった。下は広い部屋になっているようだ。手持ちのワイヤーユニットの端を手近な構造材のなれの果てに縛り付け、穴に飛び込む。細さのわりに人間一人くらいなら平気で支えてしまうワイヤー。侵入するには欠かせない道具である。
 すとん。靴音を響かせ、最上階の床に着地する。ここはオペレーションルームか。人っ子一人いない。恐れをなして逃げ出したか。そのほうが都合がいい。部屋の端にエレベーターを見つけ、スイッチを押す。動力はまだ生きている。扉が開く。無人の室内に入り込むと、ヨシュアは一つ下の階を指定した。
 拳銃を構える。おそらくドアが開いた瞬間に砲撃がくるはずだ。
 小さな音がして、ドアが開いていく。間髪入れず引き金を引く。数発の銃声。空しく虚空を裂く銃弾。誰もいない。その代わり、廊下には無数の死体が転がっていた。いずれもダークスーツに身を包み、サブマシンガンや拳銃で武装している。
 どういうことだ。俺以外の誰かが侵入したとでもいうのか。まあいい。こっちの仕事が楽になるというものだ。ヨシュアは走った。内部の構造は大体調べてある。最初の角を右へ。次の角を左へ。T字路を左へ曲がると、一枚の豪勢なドアが目に入った。ドアの上にかかったプレート。『社長室』。
 ヨシュアはドアを蹴り開け、中に飛び込んだ。
 
「あらぁ。母さんったらまたやっちゃったわぁ」
 今日何度目かの台詞を、シャオシュエは口にした。その足下には、投げ飛ばされ、首の骨をへし折られたダークスーツの男。手にはしっかりとサブマシンガンを持っている。
 そのとなりで、リンファは小さく息を付いた。一通り邪魔者は片づけたようである。ネーベル・テヒニケン本社ビルの内部は、これでほぼ制圧した。それにたった今、ヨシュアも社長室に入っていったところである。もう、彼女にできることは残されていない。
「これで、わたしたちにできることは終わりですね」
 父親が言う。確かにそうだ。ヘイフォンの言うとおり、これ以上ヨシュアを助けることはできない。ここから先は、彼の自分自身との戦いなのだから。ヘイフォンにも、シャオシュエにも助けることはできない。しかしリンファは――
 うつむいたままのリンファに気付いて、シャオシュエは夫の肩を叩いた。にっこりと微笑んで優しく呟く。
「お父さん、帰りましょ。リンファちゃんにはまだやることがあるもの」
「え? しかし……」
 リンファは顔をあげ、母親を見つめた。それでいいのだろうか。自分に何かできるのだろうか。ヨシュアはもう、遠いところへ行ってしまったのではないのだろうか。
 母親は、どんなときでも母親だった。リンファはまだ子供だ。知らないことが山ほどある。母親だって、それは同じ。知らないことはいくらでもある。でも、一つだけできることがある。それは、考えることだ。
「大丈夫よ、リンファちゃん」
 母の言葉は優しかった。
「男の子は、みんな寂しがり屋さんなんだから」
 
 
 
 かちゃり。拳銃が真っ直ぐあいつを捉える。獣の瞳。ヨシュアの青い瞳がぎらぎらと輝いた。ついにここまで来た。あいつが、目の前にいる。目の前の椅子に座り、背を向けているあいつがいる。終わらせる時が来た。5年前の呪縛を。終わらせる時が、来た。
「会いたかったわ、ヨシュア」
 あいつが立ち上がる。流れるような金髪。あいつが振り向く。獣のような青い瞳。全て、ヨシュアと同じだった。これこそ、呪いの証。ワームウッドの呪縛を受け継ぐものの証だった。
「姉さんは、ずうっとあなたを待っていたのよ」
 姉。ヨシュアの姉。5年前に消えた、ずっと探し続けてきた、姉。憎むべき姉。父親と母親を殺した、姉。ナターシャ=オースティン。
 簡単なアナグラムだ。Ashanta Nustea。並べ替えれば、Natasha Austen。笑い話にもならない。
「一つだけ訊いておいてやる」
 ヨシュアの低い声が響いた。微動だにせず、口だけを動かす。機械のような単調な声。目の前にいるナターシャを、殺すためだけに存在する機械の言葉だった。
「何故殺した」
 訊く必要など、どこにもなかった。理由はわかりきっているのだから。それでも訊かずにはいられなかった。甘いのかもしれない。自分がその理由に納得して、姉を許すことを望んでいるのかもしれない。あり得ないとわかっていても。
「だって」
 それは一人の少女の声だった。
「飽きちゃったんだもの」
 ざわりっ、とヨシュアの首筋が騒いだ。奔る。咆吼をあげながら。黒い獣が奔った。獣が牙をむく。弾丸が空を裂いた。ナターシャが身をひねる。寸前で銃弾をかわし、逆にコートの中から銃を取り出して放った。ヨシュアの頬が軽く裂ける。かまわずヨシュアは拳を繰り出した。狙いはナターシャの腹。それも、コートに絡め取られ無駄に終わる。しかし狙いは別にある。ヨシュアの足払いが、彼女の脛を弾いた。カーペットの上に転がるナターシャ。
 彼女の銃を持つ右手を、左手で床に押さえつける。拳銃を姉の顔に突きつけた。容赦などするいわれはない。そのまま引き金を――
 ずぶりっ。音と痛みが同時に襲ってきた。ヨシュアの顔が歪む。慌てて地を蹴ると、姉の上から飛び退いた。切り裂かれたコート。脇腹に血が滲む。立ち上がったナターシャの左手には、べっとりと血の付いたナイフが握られていた。
 ナターシャが、ナイフの刀身を舐める。恐ろしさを通り越して、艶めかしくも感じられた。いや。ヨシュアが恐れているのはそんなものではない。呪縛に囚われた姉を、一瞬でも美しいと感じた自分自身だ。
「おいしい」
 彼女の舌はヨシュアの血でまみれていた。お前は天使だ。ヨシュアは思った。三番目のラッパを吹いた、残酷な天使だ。
「もっと……欲しいわ」
 ナターシャが奔る。近づかせるのは不利だ。ヨシュアは姉の眉間に狙いを付けた。ぐらりっ。視界がかすむ。意識が薄れる。畜生、血を流しすぎたか? 思った頃にはナイフが目前に迫っていた。慌てて身をひねる。左腕をかすめていくナイフ。そして銃声。ナターシャの銃弾が、ヨシュアの足を撃ち抜いた。飛び散る血と肉。硝煙の臭い。再び襲ってくるナイフ。痛む左手でナイフを振るう姉の腕をつかみ取った。
 見えた。ナイフの刀身だ。細かい溝が、無数に彫り込まれている。そういうことか。目が眩んだのは傷のせいではない。これは暗殺者が好んで使うナイフ。溝は、刃に塗った毒を長く保つためのものである。
 ダンッ!
 一際大きな銃声。弾丸がナターシャの左肩を貫いた。それと同時にヨシュアの左腕も撃ち抜かれた。二人が同時に放った銃弾は、互いの腕を使い物にならなくしてしまった。ナイフが落ちる。握ることもできないに違いない。
 ナターシャの腹に蹴りを叩き込み、ヨシュアは三度間合いを取った。体勢を立て直してから、ふらつく姉の右手に回し蹴りを放つ。銃が床に落ちた。ヨシュアが痛む左手で彼女の首をつかんだ。そのまま押し倒し、顔の位置に銃を突きつける。
 これで終わりだ。ヨシュアは呼吸を整え、引き金に指をかけた。
 ……と。
 それは、唐突に聞こえた。
 
 ――みあげてごらん――
 
 歌。
 視界が霞んだ。
 
 ――すてきなよぞら――
 
 この歌は。聞き覚えのある、この歌は。
 
 ――ひとみをとじて こんやはおやすみ――
 
 歌っているのだ。姉が。今も。昔も。そして……あの時も。
 
 ――きっとどこかで またあえる――
 
 頭が……痛い……これ……は………
 
 
 
 立ち上がった。
 父親が。死んだはずの父親が。たった今、目を閉じて冷たい肉の塊になってしまったはずの父親が。ゆっくりと立ち上がり、虚ろな瞳で俺を捉えた。青い瞳。俺と同じ色の瞳。やめろ。そんな目で見ないでくれ!
「お前が殺したんだ」
 嘘だ……違う! 俺は殺してない、俺は悪くない! なんでそんなことを言うんだ! あんたが頼んだんだ。姉さんを殺せって! 解き放ってくれって! だから……だから俺はずっと……!
 ゆらり。立ち上がった。母親が。父親の隣で転がっていた母親が。母親だったものが。そして虚ろな瞳で俺を捉えた。黒い瞳。俺と違う色の瞳。
「あなたが殺したの」
 父親と母親は少しずつ俺に近づいてきた。怪我をした足を引きずって。血にまみれた腕を伸ばして。ぼとり。腕が落ちた。父親の腕が、腐ってもげ落ちた。蛆が湧いていた。母親の目から無数の蛆虫が飛び出した。俺は叫んだ。俺は恐怖した。迫ってくる。父親が。母親が。俺を恨んで。俺を憎んで。俺を殺そうとして。体を蛆に喰われながら、肉を地面に撒き散らしながら、全身から血を吹き出しながら、とれかかった眼球を顔に張り付けながら!
「何故殺したんだ」
「お父さんとお母さんに飽きちゃったから?」
「殺すのが楽しいか?」
「人の血はおいしい?」
「ヨシュア」
「ねえ、ヨシュア」
 俺は涙を流しながら逃げまどった。声がする。父さんと母さんの声がする。俺を蝕む声がする。俺はもう一度叫んだ。そして走った。叫びが意味のある言葉になったのはその後だった。
「俺はやってない……俺は悪くない……全部全部全部全部姉さんがやったんだ姉さんが悪いんだ姉さんが殺したんだああぁぁぁあぁぁぁあぁああッ!!」
「あら」
 どくんっ。俺の心臓が鳴った。肩に手が置かれる。腐りかけた手。蛆がそこから俺の肩に移ってきた。俺は半狂乱になりながらそれを払い落とした。後ろに人がいた。腐って今にも崩れ落ちそうになった姉さんだった。
「本当は、わたしもあの時死んでいたのよ?」
 死体。父親の死体。母親の死体。目に入った。その隣に転がるもう一つの死体。姉の死体ナターシャの死体姉さんの死体俺が殺した死体俺が殺したのか姉さんを殺したのか父さんも母さんもみんなみんな俺が殺したのかそうなのか誰か誰か誰か答えろオオォォオオォオオオォオオッッ!!
 
 
 ――解き放ってくれ。
 
 
 ナターシャが拳銃を拾う。ようやくヨシュアは気付いた。ナターシャが銃を上に向ける。ヨシュアが銃を下に向ける。二人が同時に引き金を引く。
 ダンッ!!
 一つの弾丸は脇腹を貫いた。
 もう一つの弾丸は心臓を貫いた。
 立ち上がる。腐っていない、生きた人間が。黒いコート。金色の髪。青い瞳。ワームウッド。それは、弟だった。ヨシュアは荒い息を吐きながら、足下に転がる死体に目を遣った。ナターシャ。最後の歌……子供の頃、彼女が歌って聴かせてくれた子守歌。理屈はどうだか知らない。だが、あれはナターシャが見せた幻影だ。
 大きく息を吸い込み、吐く。終わった。何もかも。5年間――いや、人間が生まれてからずっと存在し続けてきた呪縛が。ワームウッドの呪縛が、今ようやく解き放たれたのだ。
 ――父さん。
 ヨシュアは今は亡き父を思い起こした。
 ――意味はあるのか。
 一歩、足を踏み出す。ドアへ向かって。撃たれた左腕を押さえて。一歩ずつ、歩く。
 ――本当に、そこに意味はあるのか。
 目が霞んだ。世界が揺らぐ。暗転する。光と闇が入れ替わる。ふっと背筋に冷たいものが走るようだった。俺は倒れているのか。ヨシュアがそれを理解するのには多少の時間がかかった。俺は、死ぬのか。
 倒れながらヨシュアは考えた。それも悪くない。もう何もかも、終わったのだから。自分が生きている理由も無くなったのだから。やっと楽になれる。死ねばきっと、苦しい事なんて無くなる。辛い事なんてなくなる。ああ、だんだん意識が遠のいてきた。目の前が白く明るくなってきた。そうか。これでようやく――
 とさっ。
 柔らかくて暖かいものが体に触れた。死神? いや、何か変だ。ヨシュアは残った力を込めて、瞼を開いた。自分は倒れてはいなかった。抱き留められていたのだ。一人の、女に。
「ばか。無茶しすぎよ」
 リンファ。どうして、こんな所に。それは彼にはわからなかった。娼婦が恋敵に依頼した、なんてことは頭の隅にも浮かばなかったのだ。ただ、一つだけわかることがあった。
 新しい理由が、ここにある。
「……余計な……ことを……」
 それが、今の彼にできる最大の強がりだった。
 リンファが肩に腕をまわす。彼女に支えられながら、ヨシュアはゆっくりと足を踏み出した。まだ、歩ける。二人は寄り添い、部屋の出口へと歩いていった。一歩一歩、確かめるように。きっと、確かめているのは床や足の具合ではないだろう。
 ドアまでたどり着いたとき、ヨシュアはふと足を止めた。肩越しに振り返る。微動だにしない死体。ヨシュアはそれに向かって微笑んだ。そして告げた。心の中で、最後の別れの言葉を。
 ――おやすみ、姉さん。

THE END.

 
 
 
 
 
 
 
 暗い部屋にいくつもの光が点る。
 そこにいたのは二人だけだった。一人は女で、もう一人は男。女は椅子に座って、目の前のモニターを眺めていた。モニターには、人の脳を模したコンピューター・グラフィックが描き出されている。
「社長が死んだよ」
 その背後に立つ男が、口を開いた。モニターの放つ光に照らし出されて、彼の顔が映し出された。細かなしわが目立つ。髪も既に白いものが混ざり始めている。そろそろ、中年や壮年を通り越して老年に入ろうかという男だ。
「損害は?」
 女が尋ねる。高く澄んだ、そして無邪気な声。子供の声のようにも聞こえた。
「ミゼラーベル一匹と、イミタティオーン一機。
 全く問題ない」
 ぴっ。
 女の前のモニターが、別の画像を映しだした。それは無数の正方形が並ぶだけの、実にシンプルな画像だった。ほとんどの正方形は青く光っているが、ごく一部だけは赤い輝きを放っている。
 そして、画面の端に居座る「98%」の文字。
「こっちもそろそろ終わる。プルスの調整さえ済めばいつだって、だ」
 女の声は狭い部屋の中に響き渡った。彼女の髪が揺れる。鮮やかな漆黒の髪が。そして女は笑った。声はあげない。唇を吊り上げて、まるで悪魔のように。
 やがて世界を襲う災悪。その種が芽を出し始めていることを、人々はまだ――
 知らない。

To be continued.