つまるところ、彼は嫌われ者だった。
 理由としては単純で「一般常識」とか「普通」とか、そう言った単語を彼が尽く疑い、嫌ったからだった。
 人間と言う弱い生き物は、この地上に於ける理から実は逸れていない。寧ろ「それ程には」などと言うまでもなく、実に忠実に沿って生きている。
 手を組み徒党を組み、彼の周りの人間達は彼を忌み嫌った。




[ No.1 : 灰色の世界]



1:
 目が覚める。
 曇りガラスが填め込まれた窓の光はどこか薄ぼけた灰青で日は出ていないようだった。
 眠い目を擦りあけて、彼はいつも周りを見渡す。
 塗り伸ばされた脂(やに)のついた白い壁。同じ色のカーテン。
 テーブル代わりにしている、折畳式の小さな木の椅子。その上には原稿用紙とインクのなくなりかけたボールペンが置かれている。
 それと、脱ぎ散らかされたワイシャツとジーンズ。
 黄色いパッケージから煙草を抜き出し、火を灯した辺りでやっと実感が湧くのだ。
 ああ、今日も一人だ。そうやって安心する。
 洗いざらしのワイシャツを引っ張り出し、汗に塗れている方を洗濯籠に放り込む。
 財布を左に、ブルーイングがすっかり剥げて古ぼけた45口径を右腰に引っ掛けて、彼は街に出た。
 高い湿気と灰色の空の所為か、人通りは少ない。彼にはありがたいと思える状況だった。
 黒ずんだコンクリートのガード脇を抜け、幾つかの穴が空いたガードレールを跨いでいく。
 美しい日だ、そう彼は思った。
 人一人が通れる程度の幅しかないビルの隙間を抜け、駅のロータリーに出る。
 そのまま反対側まで通り抜けて、少しまたガード脇を歩いた所で、彼は徐に横道に逸れた。
 幾ら空が灰色だとて、今は昼前だ。だがそこはコールタールで満たされたように闇に満ち満ちていた。光を通さぬ黒。
 左眼を覆っているガーゼが汗にずりおちて、彼はそれをテープごと引き剥がした。ぺと、と地面に落ちる音が聞こえる。だが、見えない。
「……痛」
 大した感慨もなく、癖だと言うように彼はそう呟いた。
 半分開いたままの瞼。その奥にある筈の眼球は存在しないように見え、その上には深々とした傷が斜めに走っている。
 そこにはまだ薄っすらと血が滲んでいた。
 治らないのだ。
 受けたのは数年前にもなる傷だった。だがこの数年、滲む血が止まる事も傷が塞がる事もなかった。
 不意に気配を感じる。後ろに浮かび上がるかのように現れたそれに、彼はゆっくりと振り返った。
「まだ、足りないかね」
 前にいるであろうそれが、衣擦れの音と共に喋った。
 しわがれた老人の声だ。
 彼は“それ”を一度も“見たことは”無い。いつもこの闇の中に現れ、闇の中に消えていくのだ。
「足りないさ」
 小さく、しかしはっきりとした声で彼は言った。
 老人であろうそれの、溜息が闇に響く。
「ならば、授けよう」
 どこか呆れたような、莫迦にしているような、とにかく厭な物言いだ。
 いつもと同じように彼は眉を顰めて手を差し出し――不意に、掌に重みが掛る。
「渡したぞ」
「たしかに」
 それだけを言って、彼は闇から抜け出た。
 灰色の世界に戻ってきた彼は、手の中の重みを確かめた。
 包んでいた指を開き数を数える。7発。そう、7発の弾丸だ。
 先端に丸い穴が開けられ、そこに十字の切れ込みが入れられた“ホロゥポイント”と呼ばれるものだ。
 柔らかい物に当たれば空洞は対象を抱えこみ、抱えきれなくなるとその切れ込みから表面の金属に割れ目が入り、穴を中心として弾頭はマッシュルームの傘の様に開く。
 肉を裂き骨を砕き、且つ身体の中で止まるように。彼はいつもこれを使う。
 11.43ミリメートルの小さくて大きな脅威を、いつも7発ずつだけ。
 あの老人――それすらも定かではない――が何者であるか、彼は知らないし気にした事もない。
 それほどに彼は傷つけたい相手が居たし、傷つけられたがっていた。
 同時に、その程度しか考えてもいなかった。いや、考えられなかったのだ。

 プレスされたスチールと四角い押しバネで作られた弾倉を抜き出し、掌の7発を順に込める。
 弾倉を押し込む前にスライド・ストップを掛けて、ポケットから取り出した1発を薬室に。
 倒れかけのガードレールに腰掛けてタバコを吹かしながら、彼はしかめっ面をする。
「――痛」
 見れば、爪の先が割れて薄く血が滲んでいた。構わず最後の7発目を捩じ込んで、スライド・ストップを解除。それから弾倉をフレームに戻す。
 起きたままのハンマーを安全装置で止めて、彼はそれを再びジーンズのウエストに差し込んだ。
 溜息の様に一際大きな白い影が口から吐き出されて、再び歩き出す。
 昼時を迎えても、この駅はそれほど賑わいはしない。周りは古ぼけた商店街とこれまた古い小学校程度しか存在しないからだ。
 ロータリーにはあの鬱陶しいスーツの群れも、粉っぽく只管に臭い中年女の軍団も見当たらない。
 饐えた溝の臭いを避けるようにしながら、一つ息を大きく吸う。
 ゆっくりと吐き出して、彼は片手を上げた。


2:
 向かった先は嘗ての友人の家だった。
 その200メートル手前でタクシーを止めさせて代金の代わりに一発の11.43ミリを。
 憐れなドライバーは側頭部を吹き飛ばされて白茶けたゼリーを飛ばしながら赤い海に還っていった。
 ヘッドレストに掛ったカバーを引き剥がして、斑になった顔と剥き出しの肩を拭うと、彼は運転席を占領していた生肉を押しのけて、アクセルを踏み、ハンドルを切り、ドライバーではなくなったそれごと車を河にダイブさせる。
 派手な水柱に続いて――燃料タンクが川底の石に当たったのだ――車は紅蓮の炎と共にドライバーと同じ場所に帰っていった。
 オレンジ色の照り返しを受けて、灰色だった彼は少し色を取り戻し、また灰色に戻る。
 ここでも彼に感慨は無かった。
 表情も。
 感情もなくただ前を向く。視線の先にあるその家はもう目前だ。
 趣味の悪い茶色で塗られたその家はどこかひっそりと佇んでいた。
 手入れされておらずジャングルのようになった庭と、空家になっている隣の家が尚更それを強調する。
 容赦がない自然、雨と風と太陽に曝されてすっかり灰色になった表札と壊れたインターフォン。
 彼はそのボタンをゆっくりと押し込んだ。
 それから門扉を2度叩いて徐にその取っ手を回す。鍵もないそれはあっけなく開き彼を導きいれる。気配はあった。確かにこの中に奴はいる。
 感覚が確信へと変わり安全装置を解除。配慮もなにもなく、血の滲む人差し指を無神経に銃爪にあてがう。
 彼にとって傷つける事も傷つく事もそうではない他の何事も、最早同じに感じられていた。
 何もない、その感覚だけが彼を蝕み、こうさせている。
 やがて玄関の扉が開き見慣れていたその顔が前に現れる。

「――久し振り」

 そいつはそれだけを言って顔を引き攣らせた。どんな感情がそこに有るのだろう?
 怯え、驚愕、少しばかりの期待。
 それと、絶望。
 彼の右手を見たそいつは明らかな絶望をその目に宿した。
 そして、それは次の一言を聞くだにより濃い色となって現れた。

「――誰だっけな、お前」
 彼は続ける。
「俺はお前と決着をつけたがっていた。それと名前くらいは覚えている。だが、そんなことはもう如何でもいい」
「――そう」
「俺がお前に勝つ方法だ。それを持って今日ここに来た」
「……そう」
「さよならだ、旗瀬?」
 そいつが腰に手を伸ばすのが見えた。
 抜かせはしない。

 轟いた銃声は一発だった。

 肩に掠った弾丸が壁に花を刻む――闘いの始まりだった。
 距離は取らせない。幸いこの家の玄関は格闘するには広く、撃つには狭い。
「――ぁっ!」
 気合と共に左の拳を放つ。身を屈めて躱されると同時にステップバック。
 しゃがんだ彼に向かってくる蹴り足に、鋼鉄の塊を差し出す。が、見事に避けられ、彼は畳んだ腕で受ける形になった。
 緩和しきれない衝撃は舌打ち中だった彼を玄関の外に引き戸ごと弾き飛ばす。
 はめ込まれていた硝子が水飛沫の様に散り、一瞬の虹を見せた。
 ここで初めて、彼はにこりと微笑んだ。
 背中にはキラキラと光る欠片と汗に混じった小汚い桃色がこびり付いたままだ。
 だが、嬉しい。
 確かにそう感じる。
 対する旗瀬は死に物狂いと言える、恐怖とも怒りとも悲しみともつかぬ、必死の形相だった。殺されまいとする獲物の目。
 口もとに滲んだ血を拭って、彼はもう一度微笑んだ。
 そいつ――旗瀬龍一(きせ りゅういち)――は格闘家の父を持ち、自身も齧る程度に嗜んでいる。
 そこが狙い目だ。もう一度、半身から左を放つ。
 大振りのそれは軽々と受け止められ、旗瀬はその腕を引き寄せる。肘の関節狙いだ。
 それでいい。左腕などくれてやる。
「――――!」
 息を呑むのが見えた。生兵法は怪我の素。いや、死に至る病だ。
 癖で肘に流れた意識は左腕を貰った代償だった。
 それは、投げられても腹から外れない銃口。めきり、と言う音と共に彼は無表情のまま引き金を引いた。

「――ぐっが」
 篭った声だ。何時聞いても厭になる。
 何時聞いても?
 ――そうだ、俺はこいつのこんな声が嫌いだった。そう彼は思い出す。
 柔らかな部分に加速された金属の拳を喰らい、旗瀬は芋虫の様にのた打ち回った。
「苦しいか? 痛いか?」
 只管に苦しむ旗瀬に、彼はそう投げた。
 血の滲む唇で、旗瀬は何かを呟こうとしている。それを見た彼は微笑を消した。
 また、あの無表情に色が無くなっていく――傍目から見てぞっとする――そんな光景だった。
 もういい。やっぱりお前はお前で、誰でもいいお前だった。
 腿だ。無造作に引く。

パン

 そう言えば、腕が捩れたままだった。
 下手な返しのお陰で関節からではなく、尺骨が叩き付けられて折れている。腕、とも思ったが、取り敢えず弾が勿体無かった。
 障害物――或いは知らぬ人間を見るように、彼は視線を下ろした。
 その片方ずつの手で腹と足を抑え、旗瀬は泣いている。出血も痛みも相当のもの。声は出せまい。
「――ぁ……京二」
 サッカーボールを蹴る要領だ。不意に聞こえたその声に、彼は思い切りその頭を蹴飛ばした。

「――ふ」
 一言、とも言えぬような、或いは、ただ肺に残っていた空気がそれの誤作動で吐き出されたような、そんなものだった。
 それきり、旗瀬であった物は永遠に動かなくなった。


 灰色に戻った彼は茶色の家を抜け出てまた灰色の空の下に戻った。
 酷く、虚ろだった。
 傷つく度、傷つける度に思う事は減って行く気がする。これで3人。
 3人だ。あと、2人。
 車、と思ったが、街からは離れた場所にあるここは滅多に車など通りはしない。先のタクシーは川に沈み海に還してしまった。
 仕方なく歩き出す。
 闘いの興奮はすっかり褪めていた。今の空のようだ、そんな風には思わないが。

 変わり映えのしない景色だった。
 平日の昼間ではあったが、人も見えず、住宅街に人気も無い。
 唯一人が集まる場所と言っていいすぐそばの小学校からですら活気も何も感じられない。コンクリートの怪物がただ聳え立っている、そんな印象なのだ。
 あとは只管に広がる田園風景だ。未だ実を見ぬ青々とした稲が風神の息吹にうねり、あたかも絨毯の様に振舞っている。
 彼には、見慣れすぎて飽きを通り越した所にある光景だった。
 見慣れ――
「――そうだったな」
 そう、彼はこの光景を見慣れていた。見慣れるほど、繰り返し見てきた光景だった。
 その先にいるのは、旗瀬。
 思い出した。
 記憶は連なるものだ。積み重ねが、時間の連なりが、自らの感覚がそれを捏造していく。
 基幹部位を思い出してしまえば連なる物は引きずり出されていく。ずるり、と音を立てて。

 旗瀬と彼――京二(きょうじ)は、少なくとも傍目には友と呼んで差し支えない間柄だった。
 酒を飲み、明日を語り合う様なものではないにせよ、互いにとって忘れ得難い存在ではあった――それだけは確かだ。
 二人が出会ったのは、偶然と言う名の必然のもとだった。部活が一緒だとか、趣味が似ていたとか、そんな在り来たりの必然。
 京二は旗瀬よりも幾分ませていた。何かと言も動も子供染みた旗瀬に、彼は兄の様に接してきたものだ。
 笑わせるなと思う。今となっては。
 やがて共に成長した二人は、暫くの間を置いた後に切欠を得てめぐり逢う。
 だがその時から旗瀬は、変わった。変わってしまった。彼を彼とは認めようとしなかった。無論、京二とて成長しない筈も無い。
 ただ、それが思春期と呼ばれるような躁鬱と呼ばれるような、そんな不安定なものに支配されているが故に彼は傷ついた。
 怨み――いや、恨みだろうか。そこにそれが存在しないと言えば嘘になるかもしれない。
 しかし、こうして手を血に染め上げるには未だその理由は浅すぎる。

 ふと、右手が45口径を握り締めたまま固まっている事に気付いた。
 磨かれた胡桃に真鍮のメダルが填め込まれたグリップが汗に滑る。
 フレームとそれとの間にサンドされたステンレスのクリップを、無造作にウエストに差し込む。
 灰色の自分、取り戻す色などないと思っていた。いや、今も、恐らくは。
 それでも彼は血の戻る赤いその様を、愛しげに眺めていた。


3:
 日が暮れ始めていた。とはいえ、この空だ。見上げれば雲が迫るようにその身を誇示している。
 空が赤く輝くのを遮ったままその身を黒く染め上げて行くのが、彼には何故か安心できた。
 徐に弾倉を引き抜く。残り4発の鉛。
 角のコンビニエンス・ストアに差し掛かる。青と白とピンクの看板が厭でも目に付く。
 目を逸らすように京二はアスファルトを眺めた。
 丁度見られたのだろう。手には弾倉、腰には銃が提げられたままだ。硝子越しに雑誌を読んでいた男がびくり、として固まっている。
 彼が見つめ返すと、男は雑誌を返してそそくさと店の奥へと逃げて行った。見られる程度、然したる問題はない。どうせ、人間は己のこと以外を考えなどしない。
 男は殺されると思うに違いない。或いは、何らかの危害が自らに降り掛かると思っているに違いない。ならば放って置くまでだ。
 その角を曲がり、煙草に火を点ける。バニラ・フレーバーの甘い香りが、何故か癪に障った。

 そこに戻る頃には、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
 とはいえ、そこは昼間であろうと何時であろうと黒である事に変わりは無い。そう、闇と言うよりは均一な黒だ。
 薬室の一発はそのままに、彼はそこへと踏み込んだ。
 生温い臭い。
「……なんだ?」
 いつもと“雰囲気のようなもの”があからさまに違った。
 雨の前のような、息詰まる感覚。
 やがて、黒が闇に変わり、色を戻して行くのが見えた。
「――あ?」
 表情が戻る。
 極僅かな変化。だが驚愕、という他無いような――京二は、眉根を微かに寄せ目を開いた。

 赤。

 恐らく、恐らくはあの“老人の声”の主だろう。
 小汚いジャケットと臙脂色(えんじいろ)の帽子を被ったそれは本当に老いさらばえた男であった。ホームレスと見て間違いあるまい。
 痩せこけて骨の浮いた首が真紅を通り越した黒で染められている。
 首を刺されるまでさんざ藻掻いたのだろう。辺りに散らばっていた芥が男の周りだけ綺麗に掃除されてしまっている。
 そして、左手は安っぽい金網をぐしゃぐしゃと握り締めたままだ。
 彼を待っていたのだろうか。そこには古びた45口径の弾丸箱が置かれていた。文字通り、死んでも放さなかったのだ。
 硬直して固まった右腕を力ずくで引き剥がし、箱を開ける。
 全装填された予備の弾倉が二つ、それとバラが1箱――50発。
 ポケットに弾倉を捩じ込む。と、ふと、脳裏に老人の姿が過った。
 あの老人は、自分に弾を渡す度弱っていきはしなかったか――彼は再び眉根を寄せた。

「おい!」
 明らかに敵意のある声だった。警官か、或いは義憤に満ちた通りすがりか。
 箱を置きゆっくりと振り返る。
「何してんだ手前」
 突き刺すように京二は視線を向ける、が次の瞬間彼の口からもれたのは溜息だった。
 所謂チンピラの類だ。こいつらか。無感情の中に思う。
 一人は恐らくナイフだ。この老人を刺したのがこいつだろう。血は如何にか処理したようだが、臭いまでは誤魔化せない。その長身に生臭い香りが漂っている。
 もう一人は素手だろうか。耳の変形と立ち位置、拳の様子からしてそこそこやるタイプ――旗瀬と同じようなものと言える。
 値踏みしている、と分かったのだろう。こういう事にだけは敏感なのが彼らのような種族だ。
「手前何見てんだゴラァ!!」
 彼の胸元を思い切り捻り上げる。長くはまずいが精々首が少し苦しいくらいだ。
 彼は唯一自由な右手をゆっくりと腰の後に回した。
 染み付いた癖だ。
 左足で膝を踏み台に、右手の狙いは腿。前によろめいた所へ叩き込む。
「フッぁ」
 空気が抜ける音だ。肺から搾り出されたそれは声にもならなかった。
 乾いた発火音と共にムラだらけのスライドが固定される。
「――痛ッ」
 着地と激発の衝撃には流石に声が出た。折られた左腕が重く脈動を伝えてくる。固定しておけばよかったか。だが、後悔している暇は無い。
「ヨシイ!」
 すぐさま隣の奴が駆け寄り、前に立ちはだかる――そう思った瞬間には京二は左の頬を打ち抜かれていた。
 老人の死体を押し飛ばして金網で止まり、派手な音がガード下に響き渡る。
「舐めた真似してくれんじゃネェか」
 “舐めた真似”をしているのはどちらだろうか。そう思って京二は笑った。
 無表情の下に因縁は在れど落ち度は無い他人を屠ってきた彼。そして、因縁すらない他人をその手に掛けた二人。
「足の分だ」
 折れた左腕が容赦無く圧し潰される。
「――ッアァ!!」
 ずれた骨で曲がっていたそれが完全に在り得ない方向に捩れた。裂け目から桃色の棘が見える。
 一瞬遠退きそうになる意識を食い縛った歯で何とか繋ぎとめ、京二は右手の銃を放した。
 かすかに余裕の浮かぶ表情で近寄る。
 動こうとしない彼に、淡々と奥に潜む余裕を押し殺して間合いを計る。
「お前もこの爺と一緒だな」
 あまり学があるとは言えぬ声色だ。
 不思議なもので、人はその生き様によって声まで変わる。正確には色付け方、だが。
「大人しくしてりゃいいのによ。俺達ゃ何も殺してぇ訳じゃねぇ。面倒になるから殺す。面倒がなけりゃそのままだ」
 まぁ、2、3発の挨拶はあるかもな、そんなことを言ってそいつは振り向いた。
 語るまでも無い。京二は激痛の中でそう思った。こいつに語るべき事など何もない。一方的な暴力にはその上を以って返す。それが彼の流儀だ。
 金網に預けてあった身体をゆっくりとずり下げる。ウエストに差し込んであった換えの弾倉がコンクリートの土台に引っ掛かるのが分かる。
「ったくオメェもよ、もうちっと相手読めや」
 腿を抑えたまま蹲っているそいつ――ヨシイ、といったか――に向けてその男は嘲笑うようにそう言った。お前もな、と付け加える。
 その時だった。
 轟音が彼ら3人の耳を支配する――真上はガード、列車の通過音だった。
 完全な勝機だ。疑う余地も何も無い。何も考える必要も無い。その結果で手にする物が、ちっぽけな物であることを除けば。
 列車が通り抜ける間に、抜け落ちた弾倉に手を回してフレームに滑らせる。鷲掴みから銃を1回転させ、目の高さに持ってきた時にはもう照準は付いていた。
 スライド・ストップを解除。初弾、装填。
 彼が振り向いたのは丁度その時だった。
「――まぁ、あんたは運が……!」
 余裕綽々――それは時として薬ともなる。自らを鼓舞し敵を貶おとしめる為の。
 しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。過ぎた薬は最早「毒」でしかない。
 そしてその毒に、彼は冒されていた。

 顎。

 下顎を吹き飛ばされ、膝から崩折れる。
「――ハルキ?」
 ゆらりと上げた顔には明らかな恐怖が色付いていた。
 眉根を寄せることも無い。目を細める必要もない。距離、5メートル。
「テメ……!」
 頭。
 かち割られた頭蓋から液体を撒き散らし、自分の膝にぶつかってから横に倒れる。
 あっけない幕切れだった。


4:
 流石に限界だった。
 如何に無表情を装い心を憎悪と憤怒に燃やせども、精神と身体は互いに関わり合いを続けている。
 彼はそのままずるずると金網からずり落ちていった。
 新たに築いた2つの屍を前に、京二はその虚ろな視線を灰色の柱に向ける。視覚が映像を捉えてはいてもそれを認識していない。
 少し、血を流しすぎた――それでも、こんな場所で死ぬわけにもいかない。

 ぼんやり、ぼんやりと脳裏に甦るのは嘗ての3人。そのうちの一人の事だ。
 彼もまた――いや、彼こそは京二と肩を組み酒を交わしその将来を語り合った仲であった。
 どうやってか社会から外れた落伍者の集まりとも言えるそこは、それでも一つの信念に基く――言わばマフィアやヤクザの小規模版といえるものだ。
 組織と言う程大掛かりな物でもなく、チームと言うには規模の大きい、そんな集まり。
 頭数こそ少なかったがメンバーには異能者と言って良いほどの面々が揃っており、彼らはその中の一員だった。
「……神暮(みくら)」
 特に仲のよかった一人、それの名だ。
 互いに心許し、この世への認識――常識に囚われず、己の正義を貫き、誠意を尽くす生き方――それこそが正しい事だと、彼もまた京二の言に頷いた筈の一人だった。

『京二』
 一度瞼を瞑れば“あの時”と一緒に嘗ての表情が浮かぶ。
 それは微笑とも憐笑とも冷笑とも付かぬ――いや、それすら突き抜けた無表情とも言える笑いだった。
 力を手にし、束の間の平和を感謝する事すら忘れ、享受するに甘える愚民に世界の真実を。
 例えそれが、傲慢極まる理想かつ無知極まる行為であろうとも。
 それが、彼らの持論であり彼の信念だった。
 そうだ。
 こんなにも世界は腐っていて――だからおれたちは
『京二』
 そう、あれは突然の事だった。
 初めて京二がその手を血に染めた日だった。相手は一人の国会議員。結構な大物だ。
 普通ならば敵わない相手――だからこそ彼らはそれを目標として掲げた。
 大掛かりな準備の元、その議員の裏を全て洗い上げ、綿密且つ完璧にスケジュールを把握し、侵入から逃走経路その他に至るまで、全てを組み上げたのはこの神暮だ。
 彼は組織(便宜上こう呼ぶ)の実質的な頭脳であった。
 “仕事”が終わった京二を自室に招き入れた神暮は、彼を正面に座らせると唐突に語り始めた。
『お前は作戦を成功と見るか?』
 その表情は神妙と言う他無く、京二は言葉を失った。
 神暮は姿勢一つ変えぬまま、彼の瞳を見つめている。
『お前等は――いや、お前は当り前の事を嫌った。だがそれは――』
 京二は視線をそらす事すら出来ぬまま座りつづけた。
 小さく息を吐き、ようやっと言葉の意味が流れ込んでくる。
『お前が当り前の事を知らず、当り前を恐れ、当り前の愛を受けずこの場にいるからだ』
 違う。
 そう瞳で訴える。
『ならば何故銃を取り、何故に剣を振るう』
 それは
『理解欠如の基盤に載った真実など、果たして真実と言えるのか? そんな物が欲しいのか? お前は』
 違う。違うんだ。
『人は』
 そう言った神暮は一旦言葉を切った。
 そして溜息と共に京二に背を向け、窓辺に立つ。
『人はな、京二。己の“想”を相手に伝えんがために言葉と頭脳を発達させてここに至る。それが例え想の欠片であったとしても、何もしないよりは遥かに伝わる』
 白いカーテンの設えられた出窓。脇に置かれた緑の葉を慈しむように撫ぜる。
 京二には、何故かそれが辛い光景に思えた。
 神暮の、線の細い指先が撫ぜる――その光景が。
『俺達は力に訴えるべきではなかった。今この時になってそれが良く分かる』
「神暮……」
 伸ばした筈の指はむなしく虚空を彷徨った。
『俺は、これで終わりだ。もう、終わりにする』
 そう言って振り返った時だった。

 怒号と共に飛び込んできたのは防弾ベストとマスクに身を固めた重武装の警官たちであった。
 反射的に上げたモーゼル・Hscは火を吹く事なく窓の外へと投げ出され、京二は為す術もなく捕らえられた。
――京二“は”。

 そう、この時だった。
 神暮が“あの”笑みを初めて浮かべたのは。

『京二――』
「何故だ……何故」

 混乱した頭にはその言葉だけが、壊れたレコードのように無情に回っていく――


 彼が次に目を覚ましたのは、覚えの無い部屋だった。
 そもそも何時意識を失ったのか――それすら定かではない。直前の光景すら思い出せない。
 ふと視線をめぐらす。言うなれば只管に白。白い壁に白いカーテン、窓の外には白い空……そして、今自分が横たわっているベッドもシーツも、何もかもが白かった。
 視線を戻す。
「――?」
 何故か、視界が狭まった気がしてならなかった。
 丁度――左眼を閉じたような――
「――お目覚めかね?」
 突如として掛けられたその声に、彼はびくりとして振り向いた。
 見れば、白衣を着込んだ数人が手元に抱えた帳簿になにやら書き込みをしている。その中から前に出てきた一人はどこか見覚えのある人物だった。
「おまえは……」
 おや、という表情。
 男は2、3言隣の取り巻きと囁き合ってこちらに向き直った。その瞳の色はどこかしら“まともではない”――そう、京二は自らと同じ類の臭いを感じ取った。
 覚えがあったはずなのだ。ここまで危うげな雰囲気を持つ人間を思い出せないはずが無い。
「残念だな。やはり後遺症は付き物と言うわけだ」
――後遺症? 俺は何か――
「君には今、一部記憶の欠落と色盲の症状が見られる」
 施術そのものは成功だがね、と男は肩を竦めた。
「せ、じゅつ?」
「そうだ。君は我が国の偉大なる研究、その研究材料として我々に提供されたのだよ」
 ようやっと、帳が掛っていた頭が働き始めた。
 そうだ。俺は神暮の部屋で捕まって、その後。
 男は、京二の顔に浮かんだ微かな驚愕を読み取って、にやりとした。その笑顔のまま、彼は続ける。
「やっと分かったようだね、四方津京二。君は売られたのさ」
「う・・・」
「嘘だ、かね? 残念ながら嘘ではない。君はもう、人間の枠を超えてしまった」
 それが何を意味するのかを彼が理解するには一瞬の間すら必要なかった。
 組織の存在意義――それは人が人として人らしく逝きぬく為、それを妨げる感情と風潮へのレジスタンスだった。
「今や君は細胞の一欠片まで君であり、そのどこか一つさえ残っていれば、君はその時点のままの君として甦る」
 科学・医学的な説明を神暮から受けた覚えもある。
 この技術――不老不死の研究は――
「そう、君達がまさに“敵”や“害悪”として追い求め、かのK議員を暗殺した理由……“諸悪の根源”さ」
 ――国の元秘密裏に表向きに善意を押し出して“新たなる医学再生術”として研究が進められていた。
 その途中結果が“クローン再生”
 自らの遺伝子で内臓や四肢を始めとする身体の各部位を育て、機械の部品を換えるかのごとく使用する。そんな物が蔓延れば、人は自分の身体に執着などしなくなる。
 身体は精神と共にある。共に在ってこそ人は自分が人間であると――そう思えるのではないか。
 そうだ。俺達はこの研究から世に放たれた技術を、人の倫理を冒し、生物全てを冒涜するようなこれを打ち倒す為に――京二はその無表情に静かに怒りを潜ませた。
 だが、何の感慨も無い、男の目はそう語っていた。
 怒りのあまり、絶望のあまり。京二の意識はそれを拒絶しようと精一杯の防御反応をとる。
 徐に男は人払いをすると、今にも気絶せんとする彼の顎を無理矢理に持ち上げて、囁くように言った。
「君は絶対に感謝することになるよ」
 感謝だと? 声に成らぬ声を彼は振り絞る。
 くく、と喉の奥で男は笑った。
「その不死身と言える身体にね。左眼の損失など安い物と感じるだろう――いつかここに戻る時にね」
 次第に視界が灰に滲む。
 再び、京二の意識は黒の中へと落ちて行った。


5:
 ――目が覚める。
 夢、だ。そう気付くと、テレビを点けたように視界が広がっていった。
 白い天井だった。だが、あの時のような薄ら寒い無機質さはそこにない。
 ゆっくりと見回す。
 シンプルだが、生活臭を感じる部屋だ。
 アルミのデスクの上には液晶ディスプレイを備えたデスクトップ端末。その脇には吸殻が山のように積まれた灰皿、それと、掛けっぱなしのジャケットと靴下。
 そこは明らかに一般家屋の一室だった。住んでいる人間はどうやら一般人ではなさそうだったが。
 ――と言うのも、部屋干しの洗濯物とポスター以外に壁に掛けられていた物が凡そ一般人には不必要な物だったからだ。
 2丁の拳銃――レース・ガンと呼ばれる、シューティング・マッチに使用するタイプ――が1丁と、それを改造した格闘型拳銃が一丁。
 前者は兎も角、後者はシューティングにはまず必要ない。
 未だ夢を見ているのだろうかとも思うが、どうやらそれはなさそうだった。
 見れば、捩れた腕は元の状態に納められ肉が捲れた部分にはしっかりと包帯が巻いてあり、取ってしまった筈の右目のガーゼも眼帯までつけられて固定されている。
 おまけに無事だった右腕には輸血用の点滴まで刺さっていた。
 さらには枕元のローボードには彼の拳銃が、弾倉を装填した元の状態のまま置かれている。ご丁寧な事この上ない。

「…………」

 別に言葉を失った訳ではない。
 失った左眼の分、彼は少し聴力に優れる。その優れた耳が微かな物音を捉えたのだ。確実に、人の歩行音。
「…………」
 兎にも角にも、彼はその45口径を手に薬室の一発を確認、その撃鉄を起こした。
 洒落たドアに京二は照準を当てた。無論、念のためだ。
 この部屋の住人が彼を如何こうするつもりであったならば既に如何にかなっていなければおかしい。そして、危害を加えられたような痕跡は無い。
 だが、この部屋に来るのが必ずしもこの部屋の住人であるとは限らない。
 折られた左腕は感覚こそ戻りつつあるものの、完全に回復するまでには今しばらく掛る。
 近隣住民ならば居留守で事は収まるだろう。だが、組織の追手、警察官――どれも今の彼にとっては勝てる望みの少ない相手だ。
 扉が開く。
「たーだいまっとうわ!」
 何の警戒もなし、と言ってよかった。刺客ではありえないし、無論警察官でもない。
 前に出した両手をわたわたと振るその姿を見、彼は溜息と共にゆるゆると銃を下ろした。
 女は胸に手を当て――そう、女だった。
 部屋の様子からある程度予想はできた物の、一般的な女性の腕力で彼を運ぶのは相当な苦労だ。
 この世で動く限り、嫌う『常識』に当てはめて物事を考慮せねばならないのは皮肉と言う他無かったが、とにかくどこかでそれは在り得ないと思ってしまっていたのだろう。
 改めて見る。と、結構小柄な女であることが分かった。
 真っ赤に染め上げられた肩で揃えられた髪は、ゆるりとした外はねを描いている。剥き出しの肩は、健康的と言うより痛々しい焼け方をしている。
 顔は――京二は人の美醜はあまり気にかけないのだが、かわいいほうだろう。
 そこまで考えて京二は溜息をもう一つついた。
 その彼女はというと、肩掛けの鞄を放り投げて端末の置かれたデスクの前にどかりと腰掛けると、徐に煙草に火を点ける。えらく早い立ち直りだ。
 視線を送る。
――何故、助けたりした?
「銃向けてくるとはね。少しくらい感謝されていいと思うんだけど?」
「警戒して当然だろう? 見も知らぬ場所と人間だ……まして、俺がいたのはあんな場所だ」
「殺人犯だから、とかあまり考えて無いんだけどね。生きてたら取り敢えず助けるわよ」
 微妙に話が噛み合っていなかったが、彼女の意見は当然と言えた。手を差し伸べて殺され掛けては人は誰も他人を助けようとは思わなくなるだろう。
 彼は、少し俯くと口の中だけで喋るかのように声を返した。
「……すまない。助かった」
「それだけ?」
 にやり、とした表情。分かってやっているらしい。
 それでも礼には礼を返す。彼の行動理念――この一連の殺人劇とてその上にあるのだ。
 搾り出すように答える。
「あり……がとう、ございました」
「よし」
 満足げに頷く。
 銃を向けられた事など忘れてしまったかのように、彼女はにこ、と微笑んだ。
「――で、なんていうの?」
「…………?」
「名前」
「……名乗るのは普通自分からだろう」
 彼女は片眉を上げて抗議を表した。レディーファーストと言ったつもりは無かったのだが。
「……四方津、京二」
「きょうじ、か。字は?」
 京都の京に数字のニだ、と投げ遣りに返す。途端、彼女の表情が一段明るくなった気がして、京二は首を傾げた。
 ふと、銃を手に持ったままだった事に気付き、弾倉と薬室の1発を抜いて棚の上に戻す。
 動いた拍子か、左腕がずくりと痛んだ。
「――痛」
「あ、動かないほうがいいよ、まだ」
 彼は内心、嘲笑った。彼女ではなく、自らの身を。
 骨折程度の怪我ならば4日もあれば十分だ。まともに動かないとしても痛みは消える。
 どこか自虐的なそれも顔に出したつもりは無かったのだが、どうやら読み取られてしまったらしい。
 こういう時女を相手にするのは厄介だ――そんな言葉が頭を過る。
 彼女は怪訝そうな顔で京二の表情を覗き込み、そしてこう言った。
「……訳ありなのは元々なんだろうけど、ためこむのもよくない」
 言ってくれる。京二は嗤った。応える気もしない。いきなりこの場で話すには彼の境遇はあまりに並外れすぎていた。
 どうせ、頭が可笑しいと思われるのが関の山だ。そんな諦めが心を支配する。
 無言のまま黄色いパッケージから一本をつまみ出し、傍に置かれていた百円ライターで火を点けた。
香りの良い紫煙が肺を、空間を支配していく。京二はぼんやりとそれを眺めながら、溜め込んだそれをゆっくりと吐き出した。
 端末を立ち上げたまま彼女はこちらの言葉を待っている。京二は口の端を歪めて流し目を送った。
 陶器の白い灰皿に吸い差しを置き、口を開く。
「――お前は?」
 彼女の名前には別に興味は無い。が、自分だけ名乗るのもどこか癪だ。
 一瞬理解していない様子だったがそれも刹那のこと。猫のような瞳をしぱと瞬かせて、彼女はこう名乗った。
「四御神 京(しのごせ みやび)」
 先の表情は――なるほど、と思った。自分と同じ字だからか、と彼は納得する。
「……字は京、か」
「そ」
 同じように吸い差しを灰皿に置いて京はこちらへ体ごと振り返った。
 細身に似合わぬ胸が、その存在を主張する。
 それが、世俗を意識せぬ為の物か、はたまた彼の貫くべき信念が潔癖を装う為か。
 ――それは分からなかったが、こういった『女』を意識させられる女というものが京二はどうにも苦手だった。
 京が悪戯っぽい眼差しのまま、再び口を開く。
「ねぇ……あなた、殺し屋?」
「違う」
 即答だった。事実京二は殺しを生業(なりわい)としている訳ではない。
 生きるために殺すことは在れど、それを営利的に行っている訳でない以上、彼を殺し屋と言う事は出来ないだろう。例え世間の目がそう語ったとしても。
 それにしてもとんでもない質問だ。彼女は自分の命を惜しいと思っていないのだろうか。先の様子からしても、あまり生きる事に執着の無いタイプなのかも知れない。
 ふ、と嗤う。
「殺人鬼さ」
「ふうん。どんな奴がお好みなの?」
 言葉の意味は、そのままだろう。どんな奴を殺すのが好きか、という意味だ。
 その声色は莫迦にするわけでもなく、頭ごなしに信じていないといった様子も無い。
 ただ、どこか諦めのような音は混じっていたが、彼女の表情に偽りの色は見えない。とことん妙な女だった。
 にやりとして、決り文句。
「お前のような、と言ったら?」
「陳腐。面白くないわね」
「それは残念だったな」
 ブラインドから入る日差しは徐々に黄色味を増し始めていた。京二にそれを知る術は無いが感覚で分かる。丸1日かそれ以上、眠っていたのだろう。
 京二は銃を腰に戻すと徐に立ち上がった。これ以上他人にかまけている暇など無い。
「……動くなって」
「世話になった」
 遮るように言う。肌蹴たワイシャツのボタンを雑に掛け直して、京二は立ち上がった。左腕は未だ痛むが致し方在るまい。
 下らない会話に義理で興じるくらいならば、独りのねぐらで転がっていた方がまだまし――
「待ってってば!」
 ――思考は声に遮られた。
 思うよりも大きく、そして叫びに近いような――そんな声だった。

 静寂が部屋に満ちた。
 立て付けの悪い窓から漏れる熱気がブラインドを揺らす、ちりちり、という音と、端末の微かな唸りだけ。
 二人はその中で彫像の様に固まっていた。流れる煙草の煙だけが時が流れている事を示している。
 どれ程の時間だったのだろうか。少なくとも、彼と彼女が思うよりは短い時間だろう。
 京二はドアノブに掛けていた手をゆっくりと放した。
 あからさまにほっとしたような貌。頬が僅かに紅潮しているのは日焼けでもなければ見間違いでもない。
 彼は眉を寄せたまま、その場に立ち尽くした。
「あ、あのさ――」
 裏返りそうな危うげな発音。だが、京二のその視線はその刹那鋭さを宿した。
 びくり、として再び凍る彼女を余所に、腰に差した45口径を抜き放つ。
「ちょ――!」
「黙れ」
 来る。
 確かな感触だった。敵意、とまではっきりしたものでは無いが、明らかにその類の物だ。左腕が使えないのは致命的だが、何とかするしかあるまい。
 足音はこの家の玄関を明らかに目指している。もう余裕は幾許(いくばく)も無い。
「お前は隠れ――」
 いい終わるか終わらぬか――ドアチャイムの可愛らしい音が不穏な響きを伴って、鳴った。