1:
「では、何か有りましたら署の方までご連絡下さい」
「ご苦労様です〜」
 ドア越しに気配が遠ざかって行くのが分かる。
 この部屋は2階だ。錆びた鉄製の階段を叩く硬質でどこか危うげな音が遠ざかってから、京はドアに凭れ掛かって静かに息を吐いた。
 そのまま抗議の色を隠そうともせず京二の押し込まれているバスルームを見遣り、もう一度ブラインドの隙間を覗いて溜息をつく。
「……あのねぇ、他人ん家を殺人現場にするのは止めてくれる?」
 最もな意見だ。京二にとっても本来、関係の無い犠牲が増える事はあまり望ましい事ではなかった筈だった。――が、
「邪魔とあらば殺す」
 さらりと口から出るほど、その生き方は彼に染み付いてしまっていた様だ。
内心、歯噛みする。
 京は口を噤み、京二を見つめたまま何かを思っている様子だった。
 物憂げな視線。
 その視線に京二は奇妙な既視感を感じていた。見たとして一体何処で――
「それ、疲れない?」
 ――思考が遮られる。つくづく口を挟むタイミングが良い、のか悪いのか。
「そこは問題じゃない」
「そう? あたしには面倒臭いよ。人殺しは」
 事も無げに言う。まるで殺したことがあるようではないか。
 だが、ここでそれを訊ねるほど京二は野暮ではないし、また、訊かないほどには野暮だった。沈黙の中さらに押し黙るかのように口を閉じる京二。京は少し口の端を歪めて言った。
「……あるよ。この手で、ひとり」
 その表情は穏やかで、とても殺人の自白には見えなかった。なんとなく視線を合わせるのが憚られて京二は眼を伏せた。
 柔らかな仕草で京は手を組む。見遣る視線はどこか遠く、その口調は思い出を語るようなものだ。
 冷静ならば滑稽極まりない光景。だが、芯から落ち着いたような彼女の表情はそれ故にどこか真実めいて見える。
 そのまま二人はまた押し黙った。
 長い長い沈黙に気圧されても、二人の口は閉じたままその開く糸口をつかめなかった。
 京はその場でしゃがむとそのまま膝を腕で抱え込んだまま彼を伺うように時折上目遣いの視線を向けた。
 もとよりその口を開く必然の無い京二は兎も角、彼女はあからさまな気まずさのもと小さな口を噤んでいる。
 外は夕暮れの黄色から宵闇の蒼へと移ろって行く。やがて蒼の帳が部屋を覆って尚、二人は灯りすら点けようとはしなかった。
 5本目の煙草が燃え尽きた所で京二は徐に立ち上がった。空の包装紙を握り潰し、ポケットに押し込む。
 声を掛けてくるかとも思ったが今度は、否、今度こそ京は無言のまま彼を見つめていた。
 迷いはあった。
 このまま声も掛けずに出て行く事と、それが如何言う事を示すのかという謂れの無い不安に。だがその迷いが如何程の価値か。
 確かに京二は彼女に助けられた。その結果今ここにいる彼は、あの倒れたままという状況から想定出来る範囲の、そのどれよりも良い状態にあると言っていい。だが、それまでだ。
 見知らぬ少女に助けられ、そこから物語が始まる――そう、そんな物はそれこそ物語の中だけで十分だ。
 自嘲めいた笑みを浮かべる。何を考えているのだ、俺は。
 一言胸の中に吐き捨てて、彼はそのドアノブに手を掛けた。
 今度こそ止めはしない。ゆるりと扉の向こうに消え行くその姿を彼女は何時までも眺めていた。


 街灯の仄かな明かりの下で京二は曲がった一本に火を点けた。
 月明かりはなく、昼間とはうって変わったような曇り空だ。丁度、倒れた昨日のような――正確には昨日なのかどうかすら定かではなかったが。
 どれ程眠っていたのか、記憶にも無ければ訊きすらしなかった、と彼は今になって思い出した。
 それとてどうでもいいと言えばそれまでだ。今の俺には復讐という二文字と腰に差した45口径しかない。そう思い直す。
 ――否、無理矢理にでもそう思い込ませなければ、今ここに立っている事すら辛くなってしまいそうで不安だったのだ。
 何故そう思わなければ不安になるのかはわからない。あの妙な――それも行きずりのような女が何故それほどまでに気に掛るのかも。
「……余計な思考が多すぎる」
 敢えて口に出す。そうする事でいつも迷いは振り切ってきた筈だと。
 重く圧し掛かる鳩尾のわだかまりを吐き捨てるように、彼は火を点けたばかりの吸い差しを思い切り投げ捨てた。

 先日の現場を避けて通る為、彼は少し遠回りをすべくガードから古い国道へと足を向けた。
 つくづく思う。都会でもなく田舎というには家と人と道路の多い街――何もかもが中途半端な気がしてならない。
 ふと見上げた鄙びた郵便局の時計を見る。時間は午後8時を回った所だ。
 今歩いているのは都心へと向かう主要通勤道路だ。通勤道路であるがゆえ帰宅ラッシュの時間さえ越えてしまえば、昼間の混雑が幻であるかのような静寂を見せる。人通りさえ殆ど無い。
 時折過ぎるライトを目で追えば、大概にして「不良少年」と呼ばれる類の原付自転車か、その発展形が乗るようないかれた形の乗用車ばかりだ。
 ポツリと一箇所だけ光を放つようなそこで、京二は280円を投入し、見慣れた絵のパッケージの前でボタンを押す。微かなモーターの駆動音と共にその見慣れた紙箱は手の中に納まった。
 手を翳し、無言のまま火を点ける。バニラ・フレーバーは風に流され、どこか生臭い臭いだけが彼の鼻を突いた。
 金属音。
 なんとなしに振り返る。ライターを閉じる時の金属音に混じって、何か他の金属音が聞こえた気がしたのだ。
 ――建物かなにかにでも反響したのだろうか。幾ら耳が良くとも彼にとて聞き違いはある。
 人であればそれでも気配は滲み出るものだ。尾行の類ならばすぐに気付いておかしくない。だがその気配は先から一度も感じられない。
 事実、振り返ったところで前を向いたところで……少なくとも前後200メートル以内に彼以外の人間は視界内に存在していなかった。
 首を傾げ、また足を進める。勘が鈍っているのだろうか。
 ――尤も、そうだと仮定するに思い当たる節は多過ぎた。未だ鈍痛を訴える垂れ下がった左腕。どうやら寝違えたらしい首の微かな痛み。妙に強張った筋肉。そして――
 金属音。
 今度は足を止めず、京二はその歩調をゆっくりと、しかし着実に速めていった。間違いない。彼の他に、視界外から迫る何か、誰かが存在する。
 何気なくを装って路地に逸れ、3回目の角を曲がった所で彼は全力で走り出した。
「――痛っ」
 左腕が疼く。組織を再構成していた骨が、走った振動で無理矢理引き剥がされそうになっているのだ。顔を顰め、右手で庇う。今度は明確な気配と足音がはっきりと聞こえた。少なくとも二人。
 まずい。自分が全て招いたとは言え非常にまずい状況だった。このままでは銃は撃てそうに無く、かと言って格闘に持ち込まれれば、無いも同然である左腕分のディス・アドバンテージが大き過ぎる。その上相手は二人――もしくはそれ以上だ。
 “組織”の追跡者である事は先ず疑う余地も無いだろう。警官ならば間違いなく先に声をかけてくる筈だからだ。
 つくづく自分の不慮ぶりに嫌気が差す。京二自身が思っていた以上に勘の鈍りは進行していたらしい。
 だが、ここで捕らえられ殺される訳にも行かない。すぐさま思考を切り替える。
 今逃げているのは閑静な住宅街の中だ。その中途半端な街の立ち位置のお陰で、新興ではないここには街灯が少ない。
 ちらと覗いたミラーに追跡者の影は無かった。となれば、相手は塀の上か屋根の上だ。
 すぐさま彼は全装填のマガジンをウエストから一本引き抜く。と、予備動作なしで空に放り投げた。
 相手の微かな驚愕の気配が彼の神経を擽る。
 にや、とした京二は半身で45の銃爪を弾いた。


 その頃京は、彼の居なくなった部屋で独り準備をしていた。
 プライベートに関わる物――宅配便の伝票やレシートの数々は細かく裁断し、芥箱に入れる。
 端末のデータは必要な分だけPDAに移す。あとはハードディスクドライブを物理的に破壊すればいい。
 壁に掛けた銃を一丁だけ下ろしてホルスターに入れ、キャビネットからは黒いロングコートを。引出しからはサングラスと一振りのナイフ。“ウォーレン=トマス”と銘打たれたそれをカイデックス樹脂のシースに突っ込んで腰に佩き、2丁分のバックサイド・ホルスターをピストルベルトに通す。
 何故、あそこで止められなかったか。京は自問する。
 彼女には自信が無かった。
 京二を今の道から引き剥がす事、その彼を自分の傍に置いておくこと。そしてなにより、そうまでして彼を拘束する理由に。
 それでも、嫌な予感がしてならない。
 例えば昼間来た警官もそうだ。あの男は警官にしては目の色がどうもきな臭かった。組織と警察が裏で手を組んでいても、下っ端にまで“その理”が行き渡っているかと言えば、実はそうでもない。頭ごなしに疑うのはあまり賢いとは言えないのも分かってはいたが、胸に蔓延謂れの無い不安はどうにも拭い去れなかった。
 複列式――ダブルカアラム――の弾倉は全部で4本。左右に2本ずつ分けて腰に差す。それと、古い単装式――シングルスタック――の弾倉を一本。こっちはパンツのウエストに差し込む。
 それが終わると鍵を掛けておいたクローゼットの奥、そこから古い一丁の銃を取り出して、空いている方のホルスターに突っ込んだ。
 姿見に映ったその動作は驚くほど京二に似ていた。
 京は思わず苦笑する。
「癖だ、ね」
 コートを羽織り、ベルトを締める。
 そして、サングラスを掛けるや否や彼女は端末に向けて弾丸を放った。青白いスパークが迸ると同時に、それは役目を終え、白煙を上げ始める。
「……今、行く」
 呟きが残る部屋を後に、彼女は駆け出して行った。


「――?!!」
 息を呑む気配。だがもう遅い。
 乾いた音と共に亜音速の弾頭は空に踊った弾倉の中心を見事撃ち抜いた。
 火薬を増量された7発の強装弾は摩擦の火花に灼かれ、閃光を伴って一気に破裂する。
「ぐぅあぁぁぁぁぁっ!」
 この世のものと思えぬような叫び声を上げ、影は屋根の上から転がり落ちた。
 読み通りだ。敵は暗視装置を武器にこちらを追っていたのだ。
 通常暗視装置は急激な光量変化に対してフィルターが働くようになっている。安価なものならばその機能すらない物も多いが、組織にそんな安物を配備する理由は何も無い。それでも、強烈過ぎる光は――それも間近で受ければ当然中和しきれず光は装着者の眼球を容赦無く襲う。あの様子では恐らく失明は免れないだろう。
 尚且つそれだけでは無い。
 詰められた薬莢の破片は自らの内に溜め込んだ炸薬でバラバラに飛び散り、所謂即席のショット・スラッジとしても機能する。
 先ずは一人、だ。
 思った刹那、聞き慣れた風切り音と共に京二の立っているすぐ傍の路面に火花が散る。
 息を付く間もない。
 発射音は無かった。先の音量に感覚が鈍ったのだろう。だが、今掠めていったのは明らかに弾丸だ。
 瞬間「しまった」と思う。足を緩めてしまった。
「ち!」
 思い切り地面を蹴る。だが間に合わない。

 腿。

「がぁっ!」
 鮮血が飛び散った。
 赤だけは、血の赤だけは、よりにもよってそれだけは彼に色として捉えられる。そのまま京二は地面に転がった。紅が広がる。
 その拍子で力の入らぬ左腕をしたたか打ちつけてしまう。
「〜〜〜〜ッ!」
 芯から湧き上がる苦痛――思考まで食い潰さんとするそれを何とか抑えて、先の方向に銃を向ける。
 左腕は再び骨が分断されてしまった。僅かな動きでも電撃のような激痛が走ってしまう。
 闇の中に浮かび上がるマズル・フラッシュ。そこを一撃だ。次の一撃でそこを狙うしかない。
 構えを解き、視界を広くする。
 相手もどうやら慎重になっているらしい。恐らくは先の一撃――弾倉の炸裂を見て、暗視装置を外したのだろう。暗順応を待っているのか、或いは彼の出かたを窺っているのか――それとも。
 どこだ。耳を、感覚を研ぎ澄ましていく。どこだ。

 だが、次に聞こえたのは銃声ではなかった。
 「こっちです!」という悲鳴に近い女の声と数人の男が走ってくる。
 間違い様も無い。警官だ。
 悪態をつく暇は無い、が、息を付く間はある。彼は静かに息を吐き出すと、右肩を塀に押し付けよろよろと立ち上がった。

 5メートルと歩かぬうちだ。
 視界は揺れ、全ての輪郭が滲むような気持ちの悪い錯覚が押し寄せてくる。血が足りないのだ。
 考えてみれば当り前の事だった。
 彼はあの場で倒れてしまい、京に助けられた。俄かな睡みを経て今ここで戦い、血を流している。血が増えそうな事は京の部屋で受けた少量の輸血だけで、あとは何もしていないし摂取していない。
「・・・・・・ぅ」
 歯を食い縛って逆流しそうになる胃液を抑えながら懸命に歩くが、後からの追手はその距離を見る間に縮めてくる。
 血の後が残るが、少なくとも一人はあの先に目を焼かれた奴に足止めを食らうはずだ。一発さえ撃てればただの警官ならばなんとかなる。
 だが、さらに視界はぼやけ、撃ち抜かれた右足がどんどん軽くなって行くのが分かる。今や彼の意識は風前の灯だった。
「・・・く、そ」
 揺らめく視界の中、ふと目に付いたのは民家の裏手に立つ灰色の金属――LPガスのボンベだ。
 あれを爆発させれば――いや、それも危険が過ぎる。まかり間違えば彼も一緒に挽肉になってしまう。
「おい!」
 見つかったか。反射的に銃を抜き放つが右腕も上手く動かない。
 足にももう、踏み出す力が残っていない。
 一瞬逸れた思考が“諦め”に満たされた。瞬く間にそれは彼の脳内を支配し、全てその思考に塗り替えられていく。
 どうせ、ここで終わるような奴だ。最初からあいつらに敵う訳なぞ無かった。
――うるさい。
 あの女も俺を生かして笑うためにだけに助けたんだ。
 そうだ。どうせこの世に俺という人間など必要ない。捕まってしまえばいい。
 捕まって無様に飼われて殺されていけば良い。
――だまれ。
 必要ない人間は生きる価値など無い。
 足が、止まる。とまってしまう。
「だ・・・・・・」
 くやしい。
 警官が走ってくるのが分かる。終わりか。終わりだ――
「黙れぇぇッ!」


 ――刹那、煌めく閃光が彼の視界を覆った。


 炸裂音。
 静寂の後に何かが倒れるどさり、という音が聞こえてくる。
 直後、闇を切り裂くようにその声が耳に届いた。
「乗って!!」
 闇夜に輝き、艶かしいラインをその身に湛える真紅のバイク。
 不貞腐れたような表情で道路を照らす白いライト――その上に跨るのは、燃えるような赤に染め上げられた髪の――
 目の前に差し出された僅かな望みに思考は剥ぎ取られた。なのに、相変わらず足も目も言う事を聞こうとしない。
 ズルズルと、彼はそれでも必死に身体を引き摺る。
 そこに狙いを定めた警官は、彼の無事な足を狙って発砲した。
 官給のチーフス・エアウェイトリボルバーが持つ短い銃身では、この距離は先ず当たらないものだ。
 銃の特性理解度から考えてもどうやら組織の息は掛っていないようだが、うっかり餌食になれば死んでしまうことに変わりは無い。
 装填されている357マグナム弾は流石に旧式化した弾丸ではあるが、その威力が変わったわけではない。安物防弾ベストで受けた日には、貫通こそせずとも肋骨の1、2本は容易く叩き折られてしまうだろう。
 街灯に力の源を得たグリーンのアクリルファイバー・サイトは、抜きからの一挙動でその発射光を捉えた。弾薬を入れ替える最中だった警官の顎をダブルタップ2連射で放たれた38口径の強装弾が粉砕する。
 序でと言わんばかりに、京はその照準をそのすぐ横へとずらした。増援に駆けつけたらしい警官も彼女の前に辿り着く事すらなく倒れ臥す。
 100メートルはあろうかと言う距離だ。よほど手が掛けられた高精度の銃なのだろう。通常の拳銃では先ず狙撃など出来る距離ではない。
「早く!」
 京二は這い上がるようにして何とか後部のシートに跨った。落ちぬようにと、無理矢理手をベルトに回され、挟む形で固定される。
 その銃を仕舞うや否や、京はスロットルを半回転させてクラッチを繋ぎ、バイクを発進させた。
 バスドラムのようなアイドリングから、2つのピストンは軽やかに獰猛に二人を夜の国道へと誘って行った。


2:
『――情報は、どんな物であれ複写する毎に傷つき、劣化していく。
 その当り前の摂理に対して、我々人類がとうとう反抗の牙を剥く時が来た。
 敢えていうならば“剥いてしまう時が来た”だろう。
 その細胞は何一つ劣化させる事なく己の分身を作り上げ、古い細胞は新たな分身が育ちきると同時のタイミングで死滅する。
 これが何を意味するのか――
 つまるところ、老化の原因は細胞に含まれる機能・またそれを含めた複写時の情報劣化にあった。
 何をか況や、先の肯定に当てはめればそれは確かなものだ。
 不老不死――
 嘗て我等と同じ道を歩み、同じ理想を掲げ邁進したひとりの士は、裏切りに次ぐ裏切りの上、それの贄と差し出された。
 人が人故に得た苦しみを、悲しみを、そして喜びを、世の赴くままに享受し、世代を繋ぐ事。
――それだけを夢見た我等が同志が、何故このような目にあわなければならない。
 
 何にせよ、私にはこれは恐るべき禁忌を侵す行為と思える。
 決して、人類は新たなる幸福を手に入れた訳ではない。それだけは言える。
 これは、新たなる脅威だ。只管に戦慄を感じざるを得ない―― 』


 神暮十矢(みくら とうや)は独り、黙々と書面に向かって筆を走らせていた。
 組織内の位置付けはNo.1の肩書きを持ってはいるが、今の彼には組織を左右する程の実権は無い。
 かの“四方津京二・逮捕”の功を称えられ押し上げられた彼ではあったが、それは所謂傀儡(かいらい)であり、実際にはその後に座る新参者の狂学者――敷島洋介が全てを握っている。
 あの時の全容を知る彼は、口封じとして軟禁状態に置かれていた。だが、それだけでは無い。
 腹違いではあったが、それでもたった一人の肉親であった妹を人質に取られ、傀儡としての日々を強要される屈辱――それは語るべくも無いし、到底語りえぬ物だろう。
 京二は処術の成功後、施設研究者数人を殴り殺し、組織から脱出した。そう聞かされてもう3年立つ。
 その間、つい先日まで彼の消息は途絶えたままであった。
 京二の生存。
 無事か如何かはともかく、こちらの手が及ばぬ場所で上手く生き延びている事だけは事実なのだ。
 それは唯一と言えば唯一の、神暮にとって救いとなる事柄だった。

 神暮は筆を止め、壁に掛けられた呼び鈴を鳴らした。ちりりん、と澄んだ音が彼の耳を擽る。
 やがて、樫のドアがきっちりと2度叩かれ、エプロンドレスに身を包んだメイドが頭を下げた。
「お呼びで御座いましょうか?」
 つくづく趣味の悪い。神暮はこの光景を見るたびにそう思う。
 趣味が悪い、と言うか頭が悪いと言うか。これらの趣向は全て敷島の手配による物だ。敷島は相手を服従させる事に快感を感じるタイプである。
――だからと言って私の所にまで趣向を持ち込んでは欲しくない物だ。いや、だからこそか。
 そんな風に思って、彼は仏頂面を崩さぬまま、メイドに下知を下した。
「コーヒー・ミルクを淹れてくれ。豆は任せる」
「畏まりました。少々のお待ちを」
 閉じられた扉に向かい、彼は今日幾度目かの溜息を吐いた。
 ゆったりとしたオフィスチェア――それこそ、今時ドラマにもあまり姿を見せぬような、社長椅子だ――のリクライニングを目一杯倒し、逆さになって外の景色を眺める。
「……大導寺、旗瀬、そして岸武……私の番は未だ来ず。彼の夢は泡沫の中に――」
 その呟きはどこか遠い世界へ向けたような、今際の際に老人が吐いた言葉のような、そんな疲れた響きを伴って虚ろな部屋に掻き消えた。
 神暮は倒した時と同じようにゆっくりと姿勢を戻すと、徐に一番上の引出しに鍵を差し込んだ。
 そこに入れられているのは深い蒼を湛える、旧式の中――小型拳銃。モーゼル・Hsc。
 “あの時”京二が警官隊に向けた銃だ。
 欠かさず手入れされた様子が一目見て判る。薄く塗られたガン・オイル。それでいて埃の一つも付着していない。
 つ、と角が取れてしまった滑らかなスライドを撫でる。
 ひんやりとした感触が、執筆に疲れた手を、指をやんわりと包んでいく。
「……京二。俺は――」
「失礼します」
 呟きは遮られる。
 いつも通りに彼は苦笑しながらコーヒーを受け取り、そしてまた窓辺に立つ。
 その姿には彼の歳に似合わぬ哀愁が、背中を包み込むようにひっそりと、しかし確実に漂っていた。

 部屋と同じように白く、装飾が一切省かれたマグカップ。彼の気に入りだ。道具はシンプルなものが一番いい。
 たっぷりと注がれたコーヒー・ミルクが、ほかほかと湯気を立てている。
 夏である今、季節柄に合った光景とは到底言い難いが、ここの主である彼にとってこの部屋の冷房は些か効き過ぎた。
「……美味い」
 最初の頃はおぼつかない様子だった彼女も、今ではプロよりも巧くコーヒーを入れて見せるようになった。その奇天烈な服装について訊いた事もある。
 「嫌じゃないのか?」と訊く神暮に、彼女は「敷島様のご命令ですから」と笑顔で応えた。
 そう言われてしまえば、神暮には微妙な笑顔を浮かべるしか他に術がない。
 3年という月日を経たあの日は、彼にとってあまりに遠い日だった。
 思い出に浸りはしない。
 そんな事をすれば、瞬く間に過去と言う名の病は根を伸ばし、己を腐らせる。
 椅子に腰を掛け直すと、神暮は徐に端末の電源を入れた。そのままテレビを起動し、ニュースをかける。
 如何でもいい他人の事故、根元から腐った政治、勢いのないスポーツ。
 バラエティかと思わせるような、下らない特集の数々。いつもと同じだらだらとした内容がたれ流されていく。
 やがて天気予報に移ろうかと言うところで、彼は初めて画面に目を遣った。
 「天気予報が好きなのか?」と訊かれれば「いいや」と彼は応えるだろう。
 だが実際の所そればかりハシゴする様に見てしまう。TVニュースでやるような内容は、本物の速報以外ならば先ず放送前に彼らの耳に入る。
 いまや組織はこの国の支配者の一人だ。だが、天気だけはそうも行かないし分からない。
「明日の事すら確実に分かるなど……何が面白い物か」
 神暮は、己の呟きに驚いた。口にだしているとは思わなかったのだ。
 丁度予報が終わる。民放から国営放送にチャンネルを切り替え、彼は臨時ニュースになっている事に気がついた。

『――った今入ったニュースです。
 午後8時半頃、国道4号線、芝浦谷付近の住宅街で銃撃事件が発生しました。
 付近を通行中の会社員女性の「銃声がする」との通報により、駆けつけた警察官は犯人と思われる男一名を逮捕。
 逃走の際、もう一名の犯人と思われる男が発砲。増援に駆けつけた警官2名が死亡、一名が重症です。
 続報は詳しい情報が入り次第、お伝えいたします――』

 神暮は、思わず落としかけたカップを何とか持ち直して、煙草に火を点けた。赤と白が特徴的な紙箱から出されたそれは、癖が強く濃い。
 胸一杯に紫煙を吸い込んで吐き出す。気分を落ち着かせる必要があった。二口目で、ようやっと込み上げた物が静まって行く。
 高鳴りが収まるや否や、神暮は卓上に設置された受話器を取るとタッチパネルに手馴れた仕草で指を走らせた。
 数回のコール音の後に電話は繋がり、慇懃無礼な口調の男が電話口に出る。
 男が口上を言い終える前に神暮は口を開いて遮った。
「……神暮だ。敷島を――どこへ? ……わかった。伝言を頼む」
 相手がメモを用意している。物音が途絶えた所で、彼は一息にこう言った。

「“今放送された銃撃事件は終息した。これ以上の捜査と報道を許すな。”以上だ。頼む」

 それだけを言い、彼は再び書面の前に戻った。


3:
 決意に満ちた瞳。
 切り裂くような風にはためく黒いコートと赤獅子の髪。
 いつのまにか消されたライトと、折り曲げられたナンバープレート。
 全てが陳腐で、ありふれていて、どこか現実感を持たない要素達。
 時速100キロメートル単位での速度違反を犯しながら一切の不安な挙動が見当たらない京の運転。その後部座席で、京二はくく、と笑った。
「何?」
 ヘルメットさえない状態だ。
 声は漏れなく風切り音に掻き消されて届く訳がない。京二は右目を細めて頭を振った。
 恐らくバックミラーで様子を見ているのだろう。少し不機嫌そうな表情で京は運転に戻っていく。
 京二には、今この全ての状況がなんだか可笑しかったのだ。
 満身創痍の自分とおかしな女がたった二人で、真夜中の街を暴走している。周りは全て彼らの敵であり――まるで、つまらないロックの歌詞か何かだ。
 たまらなくおかしい。
 可笑しかったが、たまらない快感だ。
 世の中の全てを置き去りにしたようなこの逃避行が、何時までも続けばいいと思う。尤も、京はそれどころではないかも知れないが。
 前の車を追い越すために出た対抗車線。
 12トンダンプと軽自動車の3メートル無い隙間に突っ込み、次の瞬間にはカーブが迫る。
 微かなブレーキングの瞬間に赤い車体はその横腹を地に落とすかのように傾け、切り裂くかのような線でカーブを抜けていく。モナコ・グランプリか何かのようだ。それがこの国の狭くうねった道路ならば尚更。
 不意に赤い回転灯が顔を出す。白い車体。銀バイだ。
 国道4号に配備された彼らは、近隣では精鋭で知られた部隊の一つだ。
 恐らく通報を受けて進路を封鎖すべく集まってきたのだろう。
「おい!」
「振り切る!!」
 呼びかけにも京は言い切るように答えてみせる。口の端を歪めたのは決して苦笑ではない、笑みだ。
 京二はにやりとした。こうなれば最早このレースを楽しむしかないだろう。どうせ、今の彼には彼女の腰にしがみつく以外何の術も無い。
 2人の笑いに答えるかのように、2気筒の心臓が唸りを一際大きくする。
 クロスレシオに設定されたミッションを一段下げ、赤い車体は赤信号の交差点へと突っ込んでいく。
 トラックの往来ですっかり歪んだアスファルト。加えて前方は坂だ。その段差は軽々と車体を押し上げ、2人は2度ほど空を飛んだ。
 下りに差しかかっていた車を丁度飛び越し、アクセル全開のままの危なげない着地。
 僅かにグリップを失ったタイヤが、まるで着陸する航空機の様に白煙を上げる。そこから車線変更で一気に広がった空白へと踊り出るのだ。
 着地の衝撃に顔を歪ませながらも、京二は口笛を吹かずに居られない――何時以来かもわからぬハイだ。
 京も左手の親指を立て、如何? とサインを返す。
 最高だ。最低で最高の夜だ。
 京二は最高の笑みを浮かべた。


 サイレンが遠退く頃には、油・水温計の針はレッドゾーンを指しっ放しの状態だった。
 頃合だ。丁度良い。
 都内に入る直前の田園風景の中で、京はその赤い車体を寄せてエンジンを止めた。
 長らく続いた興奮状態の所為で少し視界がふらつく。京二もまた貧血の眩暈こそ無理遣りに剥ぎ取られた感じだったが、流石に立つ事が精一杯の状態だった。
 バイパス道路から外れた外からは見えぬ茂みの中で、2人は大の字で寝転がる。
 暫くは荒い息遣いだけが虚空に響いては消えていたが、やがてどちらともなく笑いが漏れた。
 現実はこんな物だ。
 逃げて逃げて逃げ切る。力一つで逃げ切る。現実にはそう上手くは行かない。
 様々な媒体で語られる物語の主人公達の様には、上手くいかない。
 だからこそ2人は笑ったのだ。
 こんな所で寝転がり、何時見つかるとも知れぬ恐怖すらないのが、どうにも可笑しかった。
 一頻り笑ったところで、京が立ち上がる。
「……左腕」
 見れば、突き出た骨で開けられた肉の穴こそ塞がってはいたが、先の戦闘と風圧ですっかりあらぬ方向を向いてしまっている。
 興奮物質の作用か不思議と痛みは無いのだが。
 「大丈夫だ」と、京二はあたりに転がっていた適当な木の棒を当て、骨を無理矢理繋ぐ位置に戻すと徐にシャツを破る。
 無言で支える京の助けを借りてしっかりと結びつけると、彼は再び横たわった。
 ようやっと、気分が落ち着いてくる。
 寄せる波の様な痛みが襲ってくるのもまた同時ではあったが、彼は微かに笑って煙草を取り出した。

 辺りはちょっとした林になっていて、近くに民家などは殆ど無かった。
 青いトタンの塀と、罅割れたアスファルトの小道。その脇に開けているのが林の入り口だ。
 文明が届かぬような場所だ。お陰で時間は判らなかったが、そう長い時間の逃避行ではない筈だ。何しろ、半ば無理遣りに速度で全てを振り切ったのだ。
 甘い香りが肺に行き渡る心地良い感触を楽しみながら、京二は視線だけを起こし、つい今しがたまでしがみ付いていた赤い車体を見遣った。
 遠い電灯の明かりを微かに受けるその車体は、鋭く、しかし流麗なラインを保っている。
 色も相俟って思い浮かべるのは彼女の姿だ。どこかしら鋭く、且つ、流麗。
 視線を振る。
 当の本人はというと、車体の前に立ったままコートのあちらこちらに備え付けられたポケットを焦ったように一つ一つ確かめている。その姿は、狂気的なライディングを見せた先までの姿と重なる物ではなく、切符をなくした子供のようなあどけない物だ。
 くく、と、声を殺して笑う。
 京二には、京が何を探しているのか見当はついていた。そのまま歩み寄ると、くしゃくしゃになったパッケージを差し出す。
「綺麗に散っただろうな」
 言った瞬間、堪えていた笑いが再び込み上げてきた。
 あっけに取られたような表情の京はむくれっ面をつくると、パッケージごと彼の手から奪い取る。
 愛用のオイルライターはどうやら無事だった様で、小気味良い金属音と共に灯りがその顔を照らした。
 一口目を吸い込むと、彼女は見事に咽た。再び、京二は唇を歪める。
「う、これきっつい」
「普段“もどき”なんぞ吸ってるからだ」
 してやったり、と言った表情の京二。
 今度は知らん振りを決め込んだらしい。気にしない振りをしてそのまま二口目を吸い込み――やはり顔を顰めた。
「こりゃ早死にするわ」
「まったくだ」
 そう言って、2人はまた笑い合った。

 半刻ほど過ぎただろうか。
 時折遠くに見えた赤い光も徐々にその数を減らしていき、やがて見えなくなった。
 仲間を殺された警察がこれで完全に引いてしまうと言う事はまずないだろう。それでも相手の数が、取り敢えずでも減ることは歓迎できる。
 ともあれ、ここから移動するにしても一度落ち着いてしまった思考を再度、それも意図的に盛り上げるのはなかなかの労働だった。
 笑いも途絶え、紫煙ばかりが場を満たし始めてやっと、京はその重い口を開いた。
「……何故、とは訊かないの?」
 何故、とは何か。
 京二とて、訊きたいことが無いわけではなかった。
 何故、あの時あの場に現れる事が出来たのか? 何故、警察相手に挑発するかのような暴走をしてまで、再び助けた?――何故、あれだけの事をして平然としている?
 他にも本当に気になる所から下らないものまで幾らでもある。何故、この夏場に黒いコートなぞ着ている?――それこそ際限が無い。
 ふと、これは聞いて置いて損は無い――確かにそんな質問が一つだけ存在する事に気付く。
 京二はこう返した。
「じゃぁ、訊こう」
 ふ? と笑って赤い髪をひるがえす。
「お前は何者なんだ?」
 十二分に失礼な質問だろう。少なくとも、助けた相手にする物ではない――常識ならば。
 京二は、害なす者かそうでないのか、それはある程度本能に近いもので判別する事が出来た。また、そうしなければ今まで生き延びる事すら出来なかっただろう。
 だが、それでも。
 彼女は背を向けたまま横顔で微笑を零した。
 赤とモノトーンだけの世界でも、それは儚げで美しい微笑だった。
「……そんなのは、誰にもわからない」
 違う? と投げ返す。
 先までとはうって変わったトーン。肩越しのその声は、夜の空に弱々しく溶け消えていく。
 京は考えていた。
 言いたい事など幾らでもある。先刻、京二が考えた「何故」のそれ以上に。
 だが、ここで言うべきか。彼女を押さえつけるものはそれだけでは無かったが、この場でその衝動を抑えるにそれは十分な事柄だった。
 今にも震えようとする唇を抑えて「それだけ?」と訊き返す。
 と、彼女はその表情を隠すように完全に前を向いた。