"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A10"Not Only Sweet, But..." or "Hello World.(Part2)"/The Sword of Wish


 リッキー・パルメットは逃亡した。
 “企業”は、一年をかけた英才教育の仕上げとして、彼にひとつの試験を施した。並み居る天才たちの中で技を磨き、8歳にしてすでに宮廷術士なみの実力を持つリッキーにとって、それはごく簡単な試験に過ぎなかった。
 ただ、ひとりの人間を殺せばよい。
 一年間パートナーとして生活をともにした少女――小さき者どもホムンクルスのロータスを。
 “企業”によって“製造”されたリッキーは、これまでの経験から、“不合格者”たちの行く末をなんとなく察していた。教育の過程で落第し、徐々に数を減らしていった同級生たち。全く音信不通になってしまった彼らがどこに行ったのか、推測するのは難しいことではなかった。
 廃棄処分か。何かの実験台に流用されるか。いずれにせよ、命はあるまい。
 それが怖くて。死ぬのが嫌で。そのために、ここまでずっと、生き馬の目を抜く競争を潜り抜けてきたというのに。
 なのに――今、ロータスが殺せない。
 殺せるはずがあろうか。彼女は大切な友だちだ。仲間だ。恋人だ。そして、魔術によって創造され、孤独のみを道連れに育ったリッキーにとって、たったひとりの家族であった。殺せない。殺さない。
 たとえ自分の命を天秤にかけようとも!
 リッキー・パルメットは逃亡した。ロータスを奪い、試験官を焼殺し、試験会場を粉砕して。
 “企業”による追跡は執拗なものだった。支社は世界のどこにでもあり、監視の目はいくらでもあり、つまるところ、世界のすべてが敵であった。
 リッキーは、ロータスを連れて内海各地を転々とした。一時たりとも心の休まらない、辛い旅だった。しかし後悔はなかった。大切な人と寄り添う暮らしは、楽しくさえあった。
 それでも、無理をすれば、限界はいずれ訪れる。
 一年後。永い、永い、永劫とも思える逃避行の果て、もはやリッキーに逃げ場は残されていなかった。暗殺者に追い詰められ、最後に行き着いたところは古代帝国の打ち捨てられた都市遺跡であった。
 寄り添う三本の尖塔。頂上に備えられた鐘突場。崩れかけた煉瓦造りの冷たい床に、彼はじっと身を潜める。精一杯の慈しみを込めて抱きかかえる。虫の息の少女、ロータスを。
 小さき者どもホムンクルスの寿命は短い。もう彼女には、声を挙げる力さえ残っていないのだ。薬や魔術による延命も限界を迎えていた。それでも彼は、ロータスを安らかに逝かせてやりたい一心で、今は必死に身を隠し、息を潜めているのだった。
 こんなことしかできない無力と。
 どんなことでもやりたい愛着と。
 そんなことすら叶わぬ理不尽。
 涙は出さない。ロータスを不安にさせたくない。だから泣かない。しかし心は涙に濡れていた。逃れられぬ運命の気配が、すぐそこまで迫っている――
 と。
 リッキーは弾かれたように顔を上げた。周囲に立ちこめた異様な魔力を敏感に嗅ぎ取ったのだ。情報場が歪んでいる。探知系の術がそこらじゅうをまさぐっている。なんたる速度。なんたる精度。仕掛けておいたありったけの探知防御にもかかわらず、空間の歪みは爆発さながらに伸び広がり、的確に範囲を絞り込んでくる。
 まさに神業。思わず、笑みが零れた。
 ――やっぱヤベーわ、お前。
 敵に対する心からの賞賛が生まれると同時に、リッキーをえもいわれぬ開放感が満たした。諦観。見つかるのは時間の問題だ。そして今度こそ逃れる術はない。穏やかに静まった心で、彼は自分の置かれた状況を見据えた。どうにもならぬのなら、果たして何をすべきだろう?
 《死》が、逃れられぬ運命ならば――?
 熟考の末に、彼は為すべきことを見いだした。
 すなわち、胸にロータスを抱き寄せ、優しくその髪を撫でたのだった。
「大丈夫。最後までオレがいっしょにいてやる」
 囁きは口づけの如く。
「好きだぜ、ロータス……」
 その時だった。
 夜の帳を身に纏い、一つの影が闇の中から舞い降りた。
 ゆっくりと目を遣れば、懐かしい顔がそこにある。
 痩せこけ、骨筋張った頬。焦点の合わぬ虚ろな瞳。目の下にくっきりと浮かんだ深い隈。唇はひび割れ、玉のようだった肌は見る影もなくざらつき、無数の裂け目が走り、かさぶたに覆われ、今もまた、掻き毟られて剥がれた皮膚片が砂礫のように煉瓦に積もる。背中に広がる《風の翼》が月光を不気味に屈折させ、右手に携えた身の丈を越える長杖は、まるで命を刈り取る大鎌のよう。
 黒衣の死神。いまや彼女は、そう呼ばれている。
 カジュ・ジブリール――無残に変わり果ててしまった、かつての学友であった。
「さすがだな、カジュ」
 リッキーは精一杯に強がって、悪戯な笑顔を作って見せた。
「手間かけさせてごめんな」
 死神がじっと獲物を見据える。凍り付いたような静寂の中、時間だけが無為に過ぎていく。
 リッキーは眉をひそめた。こちらに打つ手がないことは分かっているはずだ。張り巡らしていた罠は全て解除され、魔力も底をつき、あとはただ、非力な9歳の子供がたった2人、抗う意志さえ失って座り込んでいるのみ。カジュの実力なら呪文さえ必要あるまい。視線一つ、意志一つだけで、虫けらのように2人を捻り潰せるはずだ。
 なら、この沈黙は一体なんだ?
「カジュ……?」
「キミがいけないんだ。」
 リッキーの声を遮り、カジュは早口にまくしたてた。低く、暗く、呪詛のように。
「弱いものには生きる資格もない。キミが弱いからいけないんだよ、リッキー。」
 死者よりも冷たく沈み果てた声。
 それを聞いた途端、リッキーは高らかに笑い出した。何かすばらしく愉快なものが、心の奥から湧き出してきた。安心した。カジュは少しも変わっていない。殺人鬼へと堕ちながら、それでも心はあのときのまま。共に学び、ときに遊び、競い競われ切磋琢磨した、あのカジュ・ジブリールそのままなのだ。
 会心の笑みを浮かべたまま、リッキーは友に、言葉を贈る。
「カジュ、気をつけろ。お前も――」

 次の瞬間、逃亡者たちは炎に飲まれた。

 真紅の火柱が三本の尖塔を叩き割り、爆ぜ、燃え広がって、辺り一面を焦土に変えた。もはやここに動くものの姿はない。みんな燃えた。燃やした。殺してしまった。
 もう、何も。
 何も、ここにはない。
 黒衣の死神は夜空に浮かび、燃えさかる大地をじっと見下ろしていた。自分のしでかしたことを見つめるために。こんなことをしてしまった自分の気持ちを、確かめるように。
 腕がかゆい。首筋も。狂ったように掻き毟り、かさぶたになった皮膚が破れて血が噴き出しても、それでもカジュは掻き続けることしかできない。かゆい。かゆい。自分の肌に何かおぞましい物がまとわりついて、ずっと身体を蝕んでいる。
 彼女は唇を、真っ直ぐに結んだ。
 かつて自分に向けた問いかけが、今も頭を渦巻いている。
 ――ボクは、一体何のために生きてるんだろう。
 少なくとも、こんなことのために生きてきたのではなかった――
 そのはずなのに。



勇者の後始末人

“焦がし砂糖は甘くて苦い。”
あるいは
“ハロー、ワールド。(中編)




 それから、さらに一年余後。
 内海東部最大の港湾都市、第2ベンズバレンの船着場に、カジュ・ジブリールの姿があった。
 今、彼女は恋をしていた――糖蜜のように甘やかな恋だ。彼女の小さな胸には、綴じ紐で製本した恋文の束が抱かれている。その中に託した真情に思いを馳せるたび、胸の奥に疼痛にも似たときめきが走る。これを読んでほしい。そう願っているはずなのに、一方で、永久にその時が来なければよいのに、と祈る自分がいる。
 カジュは最前からずっと、相棒緋女の肩車に乗り、ごった返す船着場に目を光らせていた。ここ、第2ベンズバレン港湾区の“脱出広場”は、世界最大の集散地といっても過言ではない。あらゆる人と物がここに集まり、ここから旅立っていく。ゆえにその混雑は並大抵のものではなく、大雨が過ぎたあとの濁流めいてすらいる。この中から特定の人物を探すのは至難の業である。いいかげん、寝不足の目がシバシバしてきた。
 だが、諦めるわけにはいかない。ずっと、こんなチャンスを待ち続けていたのだから。
「どお? いたー?」
 下の緋女が、ポカンと口を開け、肩の上のカジュを見上げた。
「んー……。
 あ。いた。」
「え、マジ?」
 ひょい、と地面に飛び降りて、カジュは脇目も振らず走り出した。小さな身体を最大限に活かして人混みの隙間を潜り抜け、何度か人とぶつかりながらも、待ち焦がれた恋人の元へたどり着く。
 そこにいたのは、雑然とした港町には不釣り合いなほど落ち着いた物腰の、五人の紳士たちであった。
 デュイル風の優雅な衣服に身を包み、港の風景を物珍しげに見回す、旅行者とおぼしき紳士たち。上流階級の人間なのはひと目で分かる。しかし貴族ではない。引き連れた下男はわずかに二人。荷物の量といい装いといい、貴族にしては質素に過ぎる。
 その中のひとり、誰よりも柔和な笑みを浮かべた紳士が、まことに楽しそうに連れに語りかけていた。
「ごらん諸君、この街並みを。たった10年でこの変わりよう。都市計画の緻密さと、それを具現化した法整備の周到さには舌を巻くばかりだよ。見事なものだねえ」
 その話し声は耳心地良い演説のよう。それを聞きながら、カジュはぼんやり立ちすくんでいた。
 自分でも信じられない。足が動かない――緊張している。物怖じなどしたためしがない、普段なら王族相手でさえ自分のペースを崩さない、あのカジュがだ。
 あの紳士に声をかけたかった。そのために来たのだ。何年もずっとこんなチャンスを待っていたのだ。それなのに――
 そのとき。
 どん。
 と、背中に何かがぶつかった。我に返って振り向くと、後ろには緋女、頼れる相棒。彼女の手のひらがカジュの背を押してくれたのだ。何も言葉はなかったが、視線をだけで思いは伝わる。曰く――「がんばれ。楽しみにしてたんだろ」。
 カジュは無言でうなずくと、腹の下に力を込め、意を決して紳士たちの前に飛び出した。
「あのっ。」
 紳士たちの視線が、一斉にカジュに集まった。
 再び襲い来る混乱と圧迫。
 だが、
 ――負けない。
「セレン魔法学園の、先生がたですよね。」
 紳士のひとりが眉をひそめ、あからさまな不快を顔に浮かべた。次いで発せられた声は硬質で、言葉の冷淡さをいや増すかに思われた。
「何の用だ?」
 ムカついた。
 物乞いか何かと思われたに違いない。いずれにせよ、こんなチビの子供とまともに会話をする気はないのだ。お偉い先生がたとしては。
 そう気づいた途端、不思議なことに、身体の芯から力が湧いてきた。怯えはどこかに消えてしまった。怯む理由など、もはやどこにもなかった。
 カジュはしっかと足を踏ん張り、叩きつけるように恋文の束を差し出し、自信に満ちた不遜極まりない言い方で――つまりはカジュ・ジブリールそのものの声で、こう言い捨てた。
「読んでください。ボクの論文。」

 セレン魔法学園。
 この名を知らぬ者はあるまい。異界の英雄セレンが設立した、世界初の大学である。
 啓示オラシオン教会の権限が今より遥かに強かった暗黒時代。内海世界の教育は、教会が主宰する教導院によってほぼ完全に独占されていた。そこへ突如として現れた英雄セレンは、異界の先進的な教育システムをこの世界に導入し、有能な人材を数多く育て上げ、その力によってついに邪悪な魔神の封印という偉業を成し遂げたのだ。
 このセレンの学び舎を発端とするのが、現在のセレン魔法学園である。開校以来300年、歴史に名を刻んだ卒業生は、まさに綺羅星のごとく。たとえば、デュイル神聖王国からデュワ王国への転換期に活躍した“呼春君”テネロープ。シュヴェーア帝国の“流血宰相”ドレニン。ベンズバレン建国王を支えた三賢者のひとり、“二倍偉大なる”ダイム・ダミアム。そしてもちろん、魔王を倒し世界に平和を取り戻した“剣を継ぐ者”勇者ソール……
 魔法学園は、学を志す者すべての憧れである。そこでは世界中の名だたる学徒、術士、聖職者たちが、日夜真理の探求に勤しんでいる。今は無名の者たちも皆、いつかは学園の門を叩き、己の研究を世に問わんと野望しているのである。

 そして――ここに仁王立ちする天才術士カジュ・ジブリールもまた、煮えたぎるような野心を胸に抱えた学徒のひとり。
 魔法学園からの派遣団が王都の大学で講演を行う、という噂が流れてきたのは先週のこと。それを耳にしたとたん、カジュの胸は萌えいずる恋心で溢れんばかりとなった。会いたい。そして、自分の研究成果を学園の研究者たちに見てもらいたい。
 いても立ってもいられず、カジュは長い間書き溜めてきた草稿を、連日徹夜の大急ぎでまとめ上げ、入魂の論文に仕立たのであった。
 だが――
 派遣団の中のひとりが、露骨な侮蔑の笑みを浮かべた。さきほどカジュに冷淡な言葉を投げた、あの男である。彼は小さく鼻で笑いながら――むかつく。むかつく。――論文を受け取り、その表紙を一瞥して片眉を跳ね上げる。
「やれやれ……」
「論文だって? どんな?」
「私にも見せてもらえます?」
「読む価値ありませんよ、副校長」
 好奇心をくすぐられた他の紳士たちが、ぞろぞろと集まってくる。カジュの論文が手から手へ回される。最後にそれを受け取ったのは、穏やかな――しかし確かな困惑を顔に浮かべた紳士だった。
 彼はページをいくつかめくり、中にざっと目を通して、それからひたとカジュを見下ろした。彼女が少しも怯まないのを見て取ると、次は優しく微笑んで腰をかがめ、正面から顔をのぞき込む。
「執筆者はカジュ・ジブリールとなっていますね。あなたのお名前ですか?」
「はい。」
「はじめまして、カジュくん。私、ファラドと言います」
 あっ、とカジュは声を漏らし、頬を紅潮させた。
 マイクル・ファラド――魔法学園が誇る、当代屈指の大賢者である。貧しい身の上から己の才覚によって頭角を現し、若くして学園の副校長にまで上り詰めた男。その研究内容は、学界にいくつもの革命をもたらした。これからももたらしていくだろう。
 もちろんカジュも彼の名は知っている。どころか、学生時代からの大ファンである。
「あの、ボク、論文読んだっす。“クレクト分解”とか。“クレクト・モートリック回転”最高。」
「おやありがとう! 驚きました。その年齢で、あれが理解できたのですか?」
 カジュは肩をすくめる。
「ま、それなりに……。」
「素晴らしい。未来ある若者が学問に興味を持ってくれるとは嬉しい限りだ。
 学園の門は、学究の徒すべてに開け放たれています。もちろん、あなたにもね」
「副校長!」
 先ほどの嫌味な男が口を挟んだ。が、ファラドがピシャリと言い返す。
「今、私が彼と話しているのですよ」
 嫌味な男が口の中でもごもごと――「書写屋あがりが」などと――毒づくのも無視して、再びファラドはカジュに微笑んだ。いささかわざとらしいその親切が、子供扱いから来るものなのは分かっていたが、カジュは何も言わなかった。
「しかし、カジュくん。残念ながら、この論文はいただけません」
「なんでですか。」
 ファラドは悲しげに目を細めた。
「一昨年発表されたオースタイン卿の論文、“光が引き起こすマナの歪み”と酷似しているからですよ」
 カジュは絶句した。
 ファラドはカジュの論文をめくり、いちいち該当箇所を指さしながら、丁寧に、慎重に、決して責める声色にならないように、注意深く論文の問題点を指摘していった。
「理論も、証明の過程も、実験手法まで完全に一致しています。実験データの細かな数値や文章表現は異なっているようですが――」
「写してないっすよ。」
「ええ、分かっています。疑っているわけでは……」
 ――疑ってんじゃん。
 カジュは細く長く、胸の中のおどんだ息を吐き出した。
 カジュは他人の論文の模倣などしていない。彼女のプライドがそんな薄汚い不正を許しはしない。ただ偶然に一致しただけだろう。取り組んでいる問題が同じで、お互いに最良の解答を導き出したのなら、その内容が似てくるのは当然のこと。ただ、タイミングまで重なってしまったのが不運だったのだ。
 ファラドは先を続けた。とりつくろうような饒舌さで。
「カジュさん、私はあなたの情熱を理解しているつもりです。だからこそひとつ助言を送りたい。まず、頑張って勉強を進め、王都の大学を目指しなさい。大学では充分に高度な知識と理論を授けてくれるでしょう。そしていつか、また論文を書いて、ぜひ学園に送ってください。それが何よりよい方法です。
 私はその日を楽しみに待っ――」
「あのー。いつまでこの国にいますか。」
 カジュが不意に割り込むので、ファラドは目を丸くした。
「えっ? そうですね……今から王都の大学に行って、仕事をして、帰りはまたここから船に乗りますから……半月ほどでしょうか」
「おっけーっす。」
 溜め息混じりにそう吐き出すと、カジュは踵を返した。後ろで待っていた緋女が首を傾げている。
「ん? もういいの?」
「もういいよ。行こ。」
 最後にカジュは、ふと立ち止まり、振り返って紳士たちのへ視線を投げた。世界の全てを見下したような彼女の目つきの中には、つい先ほどまでの驚きも落胆も、ほんの一欠片さえ残っていない。そこに燃えているものは、ただ、暗い情熱の炎だけだった。
半月後、お楽しみに。」
 あっけにとられる紳士たちを残して、カジュは雑踏の中に、消えた。

「そりゃあ運がなかったな」
 帰宅したふたりから事の顛末を聞いて、ヴィッシュは気の毒そうに眉を歪めた。
 彼がカジュの前に差し出したのは、精魂込めて焼き上げた特製カスタード・プリン。卵や砂糖をふんだんに用いた、たいへんに贅沢な焼き菓子で、ヴィッシュも実際に作るのはこれが初めてである。カジュの好物がプリンだと耳にして、試しに挑戦してみた、のだが。
 不機嫌絶頂のカジュは、怒りに任せて口に掻き込むばかり。あれでは味もろくに分かるまい。カジュの喜ぶ顔を期待して、パン屋のオーブンを借りてまで焼き上げたのだが、タイミングが悪かった。うまく行かないものである。
 飲み物のようにプリンを飲み下し、カジュは小さく鼻息を吹く。
「“企業”を辞めて以来、最新の研究にはほとんど触れてなかったからね。ボクの知識は2年前で止まってるんだ。」
「それはお前のせいじゃないだろ?」
「いや。もっと気をつけてれば気づけた。要するにボクがヌルかったんだよ。」
「まあ、学園ばかりが学問の道でもないさ……気長にあちこちアプローチしてみるこった」
「冗談じゃないね。」
 とプリンを睨むカジュの目が、暗い情熱の炎に燃えている。
「もう一本書くよ。今度は絶対カブらない、とっておきのテーマでね。」
「……あ? 書くって……連中が帰るまでにか!?」
 緋女はよく意味が分かってないらしく、口をもぐもぐさせながら、そっとヴィッシュに耳打ちする。
「どういうこと?」
「論文ってのは、ふつう何年もかけて、データを集めて理論を深めて、コツコツ書いていくもんだ。それを半月でやろうってんだから……」
「へー。すごー」
「……絶対分かってないだろお前」
「えへ♪」
 気楽にプリンをぱくつく緋女は置いておいて、ヴィッシュは唸りながら天井を見上げた。
「じゃあ、代わりの術士を手配しないとなァ……ロレッタあたりの手が空いてりゃいいが」
「要らないよ。仕事休むなんて言ってないっしょ。」
「おいおい。これから繁忙期に入ろうってときに。いくらなんでもそれは……」
「ボクを誰だと思ってんの。」
 カジュは机を叩いて立ち上がった。年齢以上に小柄な彼女は、立ってもなお、座っているヴィッシュと同じ背丈しかない。だが、その小さな身体から放たれる異様な迫力、いわば殺気のようなものに、ヴィッシュは圧倒されずにいられなかった。
「ボクは天才術士カジュ・ジブリール。それを奴らに思い知らせてやる。
 ごちそうさまっ。」
「おお、味はどうだった?」
「甘すぎる。」
「そうか……無理すんなよ!」
 カジュの姿がバタバタと階段の上に消えていき、居間にはぽっかりと穴の開いたような静寂が訪れた。ヴィッシュは困惑を顔に浮かべて、半分近く残ったプリンを見つめる。程よく狐色に焦げたカスタードが、どこか寂しげに見えた。
「ケチつけられてやる気出す、か。あいつらしいけど……」
 スプーンを手に取り、プリンを一口味見してみる……なるほど、確かに甘味がベタベタと強すぎる。菓子だからと思い切りよく砂糖を使ってみたのだが、加減を間違えてしまったらしい。どうも菓子作りは勝手が違う。思うに任せない。
 思わずヴィッシュは溜め息をこぼした。
「難しいなァ」
 すると、緋女がプリンをがばりと小皿に取っていき、
「あたしは好きよ」
 などと言う。慰めてくれたのか、はたまた頭に浮かんだことを口に出しただけなのか。いずれにせよヴィッシュは少し、頬を緩ませた。
「そうか。また作ってみるよ」

 かくして、カジュの挑戦は始まった。
 屋根裏の勉強部屋に身を落ち着け、白紙を山と積み、墨を溶き、ペン、定規、参考資料のたぐいを万端整えて、いざ、執筆開始。
 カジュは書いた。書いた。猛然と書いた。時間の不足を補うため、下書きなしの一発勝負。しかしペンは淀みなく走り、白紙の山はみるみる消え失せ、床一面がインク乾き待ちの原稿で埋め尽くされていく。
 恐るべきハイペースでの執筆。当然ながら疲れはある。だがその疲れさえ心地よい。書く者だけが味わえる、集中の果てにある快感の波。知的興奮と創造の喜びがい交ぜになった、天上の法悦だ。
 と、最高に筆が乗ったタイミングを見計らうかのように、部屋の済に転がしていた水晶玉が輝きだした。遠方の知人から《遠話》が届いたのだ。
〔やっほーカジュちゃーん! おひさー! オレだよー! 元気ー? カッジュせんぱーい? いるー?〕
 底抜けに明るい少年の声が、しきりにカジュの名を呼んだが、ペンはちっとも止まらなかった。7回名前を繰り返されたところでようやく気づき、ちらと水晶玉に視線を送る。
「あー。ゴメン、なに。」
〔いたいた。さてはまた何か書いてんな?〕
 《遠話》の相手、通称“パン屋”とは、もう長い付き合いである。最後に顔を合わせたのは2年以上前のことだが、それからも時折魔術を使って消息を交わしている。お互いに性格を知り尽くしているから、ほんの少しのやりとりだけで、やることなすこと伝わってしまう。その手っ取り早さが楽でもあり、また鬱陶しくもあり。
「悪いけど話してるヒマないよ。締切ヤバくてね。」
〔ふーん? 何書いてんの?〕
「“テンジーの呪文子仮説における無限縮退矛盾の解決”。」
 パン屋が言葉を失った。
 たっぷりと沈黙してから、彼は困惑気味におずおずと問いかける。
〔……え? ちょ……なにゆってんの??〕
 密かにカジュはほくそ笑んだ。思ったとおりだ。この反応が欲しかった。このテーマは、学生時代からコツコツ研究を進めてきた、まさにカジュのとっておき。知識のある人間ならば誰もが驚きを隠せまい。この手応えばかりは、ヴィッシュや緋女からは得られない。
 筆は片時も休ませず、しかし上機嫌に、カジュは説明してやった。
「マナ密度が極めて低い条件下でもクローディスの排他原理が成立する、としたらどうか。」
〔なんで?〕
「実は二重延展効果はコボルの限界以下でも起きる。」
〔は!? マジ!?〕
「マジ。」
〔解決じゃん!! え!? は!? マジで!? おま……お前ヤベーな!? 世界ひっくり返す気かよ!?〕
「ま、そのうちにね。」
〔はえー……やべーなお前、尊敬するわ……結婚しよ?〕
「死ね。」
〔あざまーす! ごほうびいただきましたァー! うぁっしぇーい!!〕
「ウザいんで切るね。」
〔了解。がんばれー〕
「ほいほい。」
 屋根裏に静寂が蘇り、カジュは再び、孤独な創作の世界に耽溺していった。彼女の中に渦巻いていた輪郭の定まらない憤りは、今や確固たる形を取り、明快な言葉として全身の細胞を突き動かしていた。
 ――示すんだ。
   ボクの力を。
   ボクがここに在る理由わけを。
 そして、夜は更けていく。

 はじめのうち、執筆は極めて順調に進んだ。
 ずっと胸の中に温めてきた新理論である。書くべきイメージはほとんど固まっており、後はそれを文字にするだけで良かったのだ。言葉は汲めど尽きぬ井戸のように溢れ出し、50枚の原稿が4日で完成した――これは、寝食と仕事の時間以外、片時も休まずペンを走らせるペースである。
 だが、徐々に筆の進みが遅くなってきた。理論はもう頭の中で完璧に仕上がっている、と思っていたのだが、実際に書き出してみると、いくつかの欠点が見えてきた。追加実験も必要だ、3つか――切り詰めても2つ。さらには、解決策の見えない致命的な問題が、新たにひとつ発見される始末。
 カジュは考えた。仕事中も食事中も、睡眠中さえも思考を巡らせた。夢の中でとびっきりの解決策を思いつき、わめきながら飛び起き、枕元のメモ用紙に殴り書きすることもしばしば。良いアイディアが浮かべば書き、書いては詰まり、また苦悩の唸りをあげる。そんな生活が続いた。

 疲労が蓄積していたある日、こんなことがあった。屋根裏部屋で思考を巡らせていると、ヴィッシュがひょっこり顔を出し、
「なあ、俺、協会の寄り合いで呑んでくるから」
「んぁー。」
 返事、というより、それは巣穴に籠もった獣の鳴き声のようだった。
「飯、作ってあるからな。緋女が戻ったらふたりで食えよ」
「あびゃー。」
「……行ってきます」
「おはようございまーす。」
 まともな会話さえできないありさま。不安に駆られたヴィッシュは家を出るのを躊躇いさえしたが、これも無理からぬ話だ。

 また、こんなこともあった。最近風呂にも入っていないカジュが、身体から獣の匂いを放ち始めたので、緋女が強制的に入浴させた。隣の空き地に湯を張った大桶を置き、裸にむいたカジュをドボンと放り込む。服を脱がされても湯に突っ込まれても抵抗ひとつしないばかりか、何か呪文のようにブツブツと唱え続けているのだから気味が悪い。
 そのまましばらくは、緋女とふたり並んで、大人しく風呂桶に浸かっていた。
 だが突如、カジュはカッと目を見開いて、
「分かったあっ。」
 風呂を飛び出し、奇声を上げて、家の中に駆け戻った。
 ビックリしたのは台所で夕飯の支度をしていたヴィッシュである。いきなり全裸の美少女が裏口から駆け込んで来るものだから、あやうく包丁で指を切り落とすところであった。
「うお!? おま、服! 服!!」
「うはははははははははは。」
 奇ッ怪な哄笑とともに、カジュは風のごとく階段を駆け上り、屋根裏に行ってしまった。そこへ緋女も戻ってきて、
「おいカジュー? なんだよあいつ」
「……ってお前も裸かよ!! ちょっと隠せよなあ!」
「えーいいじゃんもうメンドいしー」
「うちの女どもときたら……恥じらいもなきゃ有り難みもねえ」
 顔面を真っ赤に染めてそっぽを向き、必死に動揺をごまかすヴィッシュであった。

 その上さらに、次々と舞い込む仕事の依頼が、執筆の重大な妨げとなっていた。
 ヴィッシュがぼやいていたとおり、晩秋から冬にかけては後始末人の繁忙期だ。森の動植物が不足するこの時期、魔獣が餌を求めて人里に迷い込むことが増える。象獅子ベヒモス毒樫木ポイゾナスオーク、食い詰めた鉄面皮ゴブリンの群れ……単に数が多いばかりか、油断のできない厄介な魔獣も少なくなかった。
 筆が乗ってきた時に限って、狙いすましたように緊急の依頼が入るような気さえした。気のせいなのは分かっていたが、執筆を中断されるたびに苛立ちがつのることは否めなかった。
 少しでも遅れを取り戻そうと、日中を仕事に費やした日は、夜、明け方まで実験に取り組んだ。泊まりがけの狩りがあった時は、書きかけの原稿を持って行き、野営の焚火を頼りに筆を進めた。
 しかし――そこまでしても時間が足りない。執筆だけならギリギリなんとかなりそうだが、書いている途中で過去の実験データの誤りを見つけてしまったのだ。やり直さねばならないのだが、とてもそちらに時間を割いている余裕は――
 次第に深まっていく疲労と苦悩に、カジュの表情も普段と違って見えたのだろうか。ある夜、ヴィッシュが夕飯のスープをよそってくれながら、カジュの顔をのぞき込むようにして言った。
「大丈夫か? やっぱり、少し仕事休むか?」
 それは思いやりの言葉に違いなかったが、今のカジュには、責められているようにさえ聞こえるのだ。ゆえにカジュは、とっさに、矢を射返すような返事をしてしまった。
「要らないって言ったでしょ。」
 言ってすぐに後悔したが、吐いた唾は飲み込めない。
 無言でカジュはスープを啜った。とびきり旨いはずのヴィッシュの手料理が、今はなぜか、味らしい味もない濁り水のようにしか感じられない。

 カジュは今や深い霧の中に迷い込んでいた。
 近すぎる期限、不十分な準備、多忙、少ない参考文献、睡眠不足、そして何よりも、壮大すぎるテーマ……様々な悪条件が、カジュを、経験したことのない泥沼に導いてしまった。
 書けば書くほど、書くべきことが増えていく。次から次に、構想段階では思いもよらなかった問題が噴出する。それらを泥縄式に解決し続けるうち、いつしか思考は途方もなく深い迷路に囚われる。出発点はもう見えない。自分がどこにいるのかも分からない。
 ――あれっ。ボクは今、何を書いてるんだろう。
   今まで何を書いてたんだろう。
   こんなもの、本当に書く価値あるんだろうか。
   そもそも――何のために書いていたんだ。
 そしてなにより。
 出口を見失ってしまったのだ。
 ――どこへ行けばいい。
   ボクは……一体何を書けばいいんだ……。
 ある時、ついにカジュの筆が止まった。
 書けなくなってしまった――ただの一文字さえも。

 遠く離れた王都の宿で、魔法学園副校長マイクル・ファラドは夜空を見上げていた。
 カジュが去ったあと、彼はすぐに迎えの馬車に乗り、王立大学を目指した。王都までは通常の行程で片道4日半。大学についてからは無数の要人たちによる挨拶攻め。さらに盛大な歓迎会。たっぷりと気疲れしたあとで、ようやく本番――講演と意見交換会が始まった。
 数日前までののんびりした船旅が嘘のように、王都に着いてからは万事が慌ただしい。今日も、ついさきほどまで、討論会の打ち合わせで大学に籠っていたのだ。ようやく解放され、宿に戻ったのは夜半すぎ。宿の女将が下戸の彼のためにミルクを温めてくれ、彼はありがたくそれを頂きながら、つかの間の安らぎを噛み締めていたのだった。
 なのに、心は妙にざわついて、嵐の前の海面のように落ち着かない。港に降りたあの日からだ。
 彼は、あの日出会った少年――カジュの目が、どうしても忘れられないのだった。
 あの少年はまだ10歳かそこらといったところだろう。幼いばかりか、実績も名声もない、どこの誰とも知れないひとりの子供に過ぎない。それが突然彼らの前に現れて、数年前の画期的な論文とそっくりなものを突きつけ、自分が書いたと主張する。これが受け入れられようはずはない。
 彼はひとりの学徒として、大人として、なによりセレン魔法学園の機能と立場を守る者として、正しい対応をしたつもりだった。あの少年は、一足飛びに評価を求めるような性急さは捨てて、順を追って学ぶべきなのだ。それが最も良い道のはずだ。その考えは変わっていない。
 だが――
 あの目。周りの大人たちを、あるいは世の中そのものを、見透かし、見下し、諦めきっているかのような目。
 まぶたを閉じれば、驚くほどに冷たいあの眼差しが蘇る。
 ファラドは思う。ひょっとしたら、自分は大きな過ちを犯したのではないか? もし、あの論文を、本当に彼が独力で書いたのだとしたら? 世界最高峰の研究と同等のものを、ほとんど同時期に、まだ経験も浅い少年が成し遂げてしまったのだとしたら――?
 その可能性は極めて低い。だが、魔法学者たる彼はいくつもの前例を知っている。偶然にも、そして不幸にも、全く同時期に、全く同じ研究が、全く別々の場所で成され、ほんの数年の後先で明暗を分けてしまった例を。あるいは、どちらが先に発見したかという泥沼の論争に陥ってしまった例を。
 彼の論文が、その例の新たなひとつ――ではないと言い切れるだけの根拠があるだろうか?
 薄弱な根拠のみで、剽窃だと思い込んでしまったのは、ひとえにあの少年が若すぎたからだ。ファラドの目が偏見に曇っていたからだ。もし彼が無実なのだとしたら。あのとき突きつけた正論は、暴力以外の何物でもなかったはずだ。真実を力でねじ伏せられた、その経験が、彼の心に取り返しの付かない傷を負わせてしまったのではないだろうか?
 ファラドは自分自身の少年時代を思い起こした。彼は平民の家に生まれ、教導院の聖職者から最低限の文字を学び、やがて書写屋の見習いとして就職した。まだ印刷機が一般化していないこの時代、本は書写によって増やすよりほかなく、都市部に書写から装丁、製本までを担う専門業者があったのである。
 その工房で何冊もの本を写すうち、ファラドはその内容にも通じていった。彼は断片的だが価値のある学問の基礎を仕事の余録として学び取り、いつしか学を志すようになった。
 もちろん、それは大いなる思い上がりに過ぎなかった。体系立って学んだわけでもない彼の知識は、半可通以下の代物だった。ことによると無知よりたちが悪いとさえ言えたかもしれない。
 だが、書写屋の主人は彼の聡明さを愛し、たまたま手に入れた魔法学園の一般向け講義のチケットを、彼に譲ってくれたのだった。彼は講堂の最前列から身を乗り出し、一言たりとも聞き逃すまいと講義に耳を澄ませた。そして学び取ったことをノートして、あろうことか、講師であった高名な学徒に、思慕の手紙を添えて送りつけたのである。
 その講師がノートと手紙に興味を持ってくれたのは、全くの幸運だった。そうでなければ、彼は生涯の恩師と出会えぬままであったろうし、なにより、学園で学ぶ機会など得られるはずもなかっただろうから――
 思えば、ファラドが今、魔法学園の代表として働けているのは、あの日の思い上がりと、それを受け止めてくれた大人たちのおかげである。ならば、今こそ彼は、かつて受けた恩を返すべきではなかったのか? 今は亡き恩師や雇い主にではなく、これから学の道を歩まんとする若者たちに――
「副校長」
 彼の深い後悔は、横からかけられた声によって掻き乱された。見れば、部下がひとり、困惑を顔に浮かべて立っている。
「申し訳ない、何度もノックしたのですが?」
「いえ、よいのです。ちょっと考え事をしていました」
「お探しだった本を王家書庫で見つけましたよ。賢者ギルディンの原稿にかなり近い写本と見えます」
「借り出せたのですか!」
「良くも悪くも我々は特別扱いですね。肩の凝る宴会に我慢したかいがあったでしょう?」
「あはは、おおきにそうだ。これは素晴らしいニュースだ、まことにありがとう!」
 紳士――魔法学園副校長は、疲れも忘れて興味深い古書に飛びついた。だが、先人の美しい論理を堪能しながらも、彼はずっと、カジュの目を頭の片隅に置き続けていた。あの少年がもしこの場にいたら、きっと、未知の書に出会えた喜びを分かち合えただろうに――と、微かな寂しさを覚えながら。

 疲労と混乱の果てに、カジュはとうとう致命的なミスをやらかした。
 それは、農村に湧いた衝角猪ラムボアを狩る仕事中のことだった。そいつはほとんど子象並みの体躯を持つ驚異的な大物で、差し向けられた討伐隊をたびたび返り討ちにしたという曰く付きの相手であった。とりわけその生命力は並外れていて、矢の雨を浴びせられながらも平然と突進し、射手たちの一団を粉砕したほどだという。
 たとえ緋女といえども、こいつを一撃で仕留めるのは困難であると推測された。戦って勝てないことはないだろうが、時間をかければ取り逃がす恐れもあるし、なにより緋女が危険に晒される。
 そこでヴィッシュが立てた方針は、ヴィッシュと緋女のふたりが囮となって遠巻きに獲物を引きつけ、その隙にカジュが必殺の術を脳天に叩き込む、というものであった。
 だが、カジュの疲労はこの時すでに極限に達していた。しかもなお悪いことに、カジュ自身がそのことにまるで気づいていなかった。確かに論文には行き詰っていた。だが仕事の方はちゃんとできるつもりでいたのだ。
 その結果――《光の矢》でとどめを刺すはずのところ、呪文を間違えて、《鉄砲風》を発動してしまった。
 衝角猪ラムボアは突風で僅かに足を止めた。が、それだけだった。不意の魔法を浴びてかえって勢い付き、突進の矛先をカジュに向けた。この期に及んでもまだ、カジュは自分のミスに気づいていない。閃光のように失態を悟ったのは、砲弾めいた巨体が目前に迫った後のこと。
 ――やばい。死ぬ。
 全身の毛という毛がザアッと音を立てて怖気立つ。衝角猪ラムボアの名の由来たる大牙がカジュに突き立つ――その直前、横手から矢のように飛び込んできた緋女が、猪の横腹を打ちのめした。
 緋女の太刀に腹を半ばまで切り裂かれ、猪は鋭く悲鳴を上げる。横倒しに倒れる。だが、まだ生きている。苦痛を怒りに変えて立ち上がり、再びカジュ目掛けて走り出す。
 ここでようやくカジュは我に返り、慌てて構築し直した《光の矢》で魔獣の眉間を射抜いたのだった。
 衝角猪ラムボアが動かなくなったのを見るや、カジュの腰がへたりと砕けた。ほどなくヴィッシュも駆けつけてくる。彼の顔は、当のカジュ以上に血の気を失っていた。
「無事か!?」
 カジュがひらひらと手を振って応えるので、ようやく彼は胸を撫で下ろしたようだった。
「びっくりさせるなよ……まあ、無事でよかった」
「やー。ゴメンゴメン。ちょっとボンヤリ。」
「……おい」
 頭上から突然降ってきた怒りの声に、カジュは視線を上げた。見れば、緋女が猛禽を思わせるあの眼でカジュを睨んでいる。震えが走った。刃を突きつけられたような気がしたからだ。
「お前、ロンブンやめろよ」
「は……。」
「でなきゃ仕事休め。どっちかにしろ」
「何言ってんの。なんで緋女ちゃんにそんなこと命令されなきゃいけないわけ。」
「テメー、あたしが助けてなかったら死んでたろ」
 カジュは言葉に詰まった。ぐうの音も出なかった。確かにカジュが助かったのは、超人的な脚力と剣の腕を持つ緋女のおかげだ。常人なら救援が間に合っていない――ヴィッシュが遅れて駆けつけたことを見てもそれは明らか。いや、カジュ自身が死ぬのなら自業自得だ。ことによると仲間を危険に晒す可能性すらあったのだ。
 それは分かっている。
 分かっているが――カジュの頭は唐突なきつい苦言に混乱し、緋女への反発心ばかりに支配されてしまった。敵意を剥き出しにして睨み返し、反論をぶちまけようとした。だが言葉が出てこない。言いたいことは分かっているのに、言うべきことが見つからない。
 カジュの沈黙を受容とみなしたのか、緋女はヴィッシュに目を向けた。
「よお。代わりの魔法使い探してよ。できんだろ?」
「そりゃまあ……しかし腕は期待できねえぞ。“火の玉”のお嬢ロレッタは別件入ったらしいし、あとはせいぜいガイルとか……」
「何でもいいよ。今のコイツよりゃマシだろー」
「え、緋女、おま……」
 カチンときた。
「ふざっけんなよっ。」
 カジュは地面を蹴り割るように立ち上がった。疲れも迷いも一時的に消滅した。腸の奥から湧き上がってくる正体不明の激怒が、他の全てを弾き飛ばしていた。緋女の冷たい視線が返ってくる。刃そのもののようなそれを、あえて総身に受け止めて、反撃の言葉を叩きつけた。
「なんでそんなこと言われなきゃいけないわけ。お前何様だよ。」
「何様はテメーだろ。ワガママ言ってんじゃねーよ」
「ボクより強い術士がいるんなら連れてきてみろよ。瞬殺してやるよ。」
「ロクに寝てもいねえ奴なんて危なくって使えねーっつってんだよ」
「疲れてたって関係ないって言ってんだよっ。」
「いま関係あったろうが寝ボケてんのか!」
「な、ふたりとも落ち着……」
「ならボクはもう要らないってことか。」
「ああ要らねーよ! 寝ボケたままなら要らねえ!」
「死ぬのがボクならどうでもいいだろ。」
「ああ!? じゃ何のために生きてんだテメーは!! 殺すぞコラァ!!」
「やれるもんならやってみろよっ。」
「ああやってやるよ! あたしのツレに手ェ出す奴は許さねえ! たとえそれが、テメー自身でもだ!!」
「やめろッ!!」
 ふたりをヒタと黙らせたのは、割って入ったヴィッシュの大音声であった。刀の柄に手をかけ、あるいは指先に魔法陣を編みかけた、互いに恐るべき技量を持つふたり。その間に身体をねじ込み、視界を塞いで、冗談では済まないところまで行きかけた諍いを止めた。我が身を盾にした強引な止め方だった――一歩間違えば自分が斬られていたかもしれない。それでも止めねばならなかったのだ。
「カジュ……お前は疲れてるんだ」
 カジュが涙の浮いた目を背ける。
「緋女。お前も言い過ぎだろ」
 緋女が不機嫌にそっぽを向く。
「……もう帰ろう。とにかく今夜はゆっくり休め。後のことは……また明日だ」
 どちらからも返事はなかった。
 太陽は西の山際にかかり、今やその光を完全に失おうとしていた。寒風が不気味なうなり声を上げながら吹きつけた。どうやら今夜は、寒い、寒い夜になりそうだった。

 仕事から戻った時にはもう、街全体がすっかり暗闇の海に埋没していた。カジュは帰るなり屋根裏に駆け上がっていき、夕飯ができたと声をかけても返事ひとつしなかった。ヴィッシュには何もできなかった。心を込めて作った手料理が、なすすべもなく冷めていくのを見守る他には。
 そのまま夜は音もなく更けていった。どうにも寝付かれず、ヴィッシュはストーブに火を入れ、酒を温め、一人酒を喰らっていた。横では緋女が床にムシロを敷き、刀をバラして手入れしている。炉の炎がじわりと揺れて、剥き出しになった刀身の、息を飲むほどに華麗な刃紋を浮かび上がせる。
 ヴィッシュは迷っていた。緋女に訊いてみたいことがあった。だが、自分に彼女らの内心に踏み込む資格があるのかどうか、いまひとつ自信が持てなかったのである。
 今となってはこのまま放っておくことはできない。拒絶は覚悟の上で、ヴィッシュはゆっくりと、口を開いた。
「なあ」
 緋女は、刃の打ち粉を丹念に払いながら、鼻にかかった甘い声を返してくれた。
「んー」
「お前は……知ってるのか。なんであいつが、ああなのかを」
 吸い込まれるように刃が鞘に収まり、鯉口で、パチリと耳心地良い音がする。
「話してくれたことないなー」
「お前にも、か……」
「あのカジュが、よ……」
 溜め息がこぼれる。
 緋女は刀を脇に置き、胸を弓なりに反らせ、暗い天井を仰ぎ見た。あの向こうにカジュがいる。しかし、その間は何層もの壁に阻まれ、いまだ彼女の全貌は見えない。
 心とは、元来そうしたものかもしれない。どれほど近づこうと、一つ屋根の下で同じ飯を食らおうと、ひとつの寝床に同衾しようと、決して正体が見えることはない。できるのは推測することだけだ。推して、測って、何度も重ねて、それでも暴けないのが人の心だ。
 緋女は寂しげに目を細めた。
「ね。昔の話、していい?」
「ああ」
「あたしとカジュが初めて会った時ね。あいつ、“企業”に使い捨てにされてたんだ」
 ヴィッシュの手の中で、杯に波紋が立った。
「ほとんど自殺みたいな攻撃させられてて。見殺しにされてて。あたしがそれを助けて。仲良くなって。いっしょに企業の奴らをぶっ潰して。
 それから一年、お前と出会うまで、あっちこっち二人旅。
 その間に治ったけど……最初、あいつヒドい顔してたんだよ。肌とかボロボロでさ。なんか痒くなるみたい。傷になってカサブタだらけなのに、また掻いちゃって。どんどんヒドくなってくの……
 ずっと酷い扱いされてたらしいんだ。嫌な仕事ばっかさせられてさ。あんまり話したがらないけどね……」

 話してどうなることでもない。泣き言を言って、誰かに優しく守ってもらう、そんな甘えた生き方は本意じゃない。
 だからカジュはひとりで生きたかった。同情なんてまっぴらだ。自分の居場所は自分の力で勝ち取りたかったのだ。
 誰かに与えられる居場所の脆さ。与えられたものにすがることの危うさ。皮肉にも、“企業”で生まれ育った経験が、それらを嫌というほど教えてくれたから。
 弱みを見せてはダメだ。たとえそれが、大好きな友達に対してでも。優しく親切な仲間に対してでも。
 それなのに。今は、その生き方が耐え難く、苦しい。
 カジュは屋根裏の巣に籠もり、人知れず泣いた。常にそうであるようにだ。やがて、涙が疲労を羽毛のように暖かく包み込み、彼女をまどろみへと導いていった。
 カジュは夢を見た。
 夢の中に誰かが現れ、問うた。
 ――何のために生きているの。
 カジュは答えようとした。
 言葉は――出なかった。もう何年も、ずっとその答えを探し求めてきたはずだったのに。今ではもう答えを見つけ出してしまい、顧みる必要さえなくなっていたはずなのに。それは妄想だった。答えを見つけたわけじゃない。解決できたわけじゃない。
 ただ、一時の愉しさが、辛い問いかけを忘れさせてくれていただけだ。
 ――分からない。
 カジュはようやく、そう応えた。
 ――まだボクには分からないんだよ――

 そこで、目が覚めた。
 すでに太陽は高く昇りきっており、小窓の隙間からは眩い白光が射し込んでいた。表通りのざわめきが聞こえる。人々がそれぞれに蠢いている。己の為すべきことをよく心得て――あるいは、心得ているかのごとく見せかけて。
 すっかり寝坊してしまった。今日は早朝から論文の続きに取り掛かるはずだったのだ。だが不思議とカジュに動揺はなかった。あれほど彼女を追い詰めていた焦燥が、たっぷりの睡眠のおかげで、まるで他人事のように片付いてしまっていた。
 書物机に頭を預けたまま寝ていたためか、首と肩が乾物のように凝り固まっている。大きく伸びをすると、骨と筋肉がバキバキと心地良い音を立てほぐれていった。思いっきり息を吸い込み、吐く。まるで10日ぶりに呼吸をしたような気がする。悪くない、息をするというのも。
 小窓を開けてみると、陽射しが鋭く目を刺した。そのまっしろなセカイの中に、カジュはふと、幻を見た。少年が太陽の中に浮かんでいた。逆光のために顔は見えない。だが、それが誰なのかは、見るまでもなく分かる。
「いつまでも進歩ないんだ。笑っちゃうよね。」
 カジュがささやき声で自嘲すると、少年はゆっくりかぶりを振った。
 ――キミは、とってもすてきだよ。
 思わずカジュは吹き出した。自分の頭だけで創った問答が、やけにもっともらしく思えて。
「キミってそういうやつだよ。クルス。」
 それからカジュは、両の手のひらで頬を打った。小気味よい音が、弛緩した心と身体を引き締める。見えた気がした。己の為すべきこと――少なくとも、今為すべきことだけは。
 そう。
 ――少なくとも、破滅するために生きてるわけじゃない。
「よっしゃ。やるかっ。」

 居間に駆け下ると、ヴィッシュは(びっくり顔。)緋女に(今は犬に変身中。シッポ振り回して超ごきげん。)昼飯の皿を(うまそう……。いや、あれ絶対ヤバいっしょ。)差し出しているところだった。カジュのお腹がいいタイミングでキュンと鳴き、
「食べ物ある。」
 と問いかけるのを後押ししてくれた。ヴィッシュは僅かに戸惑いながらも、ぐいと親指でテーブルを指し、
「座んな」

 今日のメニューは“たっぷり牛肉の牛飼い煮グーラシュ”。
 バターを入れた鍋でタマネギを炒め、狐色になったところでスパイス、水、少量の酢を加え掻き混ぜる。ここに角切り牛肉をどっさりと加え、さらにジャガイモ、人参、トマトピューレ、刻みニンニク、ハーブ、塩を加え、煮込む。肉が柔らかく煮えたなら、小麦粉でとろみをつけて完成。
 ヴィッシュの故郷、シュヴエーア北部の郷土料理で、あちらでは黒パンを添えて汁に浸けながら食べるのが定番。今日はベンズバレン流に、ほかほかの白米といっしょにいただく。
 ごろりと大きな魅惑の肉をひとさじすくえば、トマトの香りも豊かな紅玉色のスープがとろおりと垂れる。空きっ腹にこれはたまらない。かぶりつくようにして口に入れる……とたん、爽やかな酸味が一陣の風のように舌の上を吹き抜けた。そしてそれに絡みつく牛肉の、柔らかなこと! よくよく煮込まれた肉は繊維の一本までほろりと解けるほどに柔らかい。飲み込めば脳を刺激する、あらがいようもない確かな満足感。
 ――うまい。
 こんなに。こんなに食べ物とは旨かったのか。
 腹の中に温かくどっしりしたものが満ちていき、カジュは恍惚の溜め息をついた。腹から始まって、全身にエネルギーが行き渡りつつあるのがはっきりと感じ取れた。錯覚であることは分かっている。そんなに早く消化が進むはずがない。だが、いま身体を満たしつつあるこの感覚、元気は、紛れもない真実だった。
「ごちそうさま。さーて、続き書きますか。
 緋女ちゃーん。暖房ー。」
「わんっ!」
 カジュはすっくと立ち上がる。緋女が足元に擦り寄ってくる。犬になった彼女を抱いていると、膝がとても温かいのだ。
 階段を登りかけたところで、ヴィッシュに声をかけられた。優しげな声だった。いつもとなんら変わりなく。
「大丈夫か?」
 カジュはひょいと肩をすくめた――ヴィッシュがいつもやる仕草そっくりに。
「まあ見てな。」

 一晩の休息で蘇った頭が、たっぷりの栄養を得て走り出す。まずやるべきは計画の見直し。深い疲労は能率を落とすだけだとはっきり分かった。睡眠時間はきちんと予定に組み込んでおく。その上で、我欲と妄執を棄て、あと7日で実現可能な見通しを立てるのだ。
 まずは全体構成の簡略化。万全を期すなら言及すべき副次的な研究についての記述を最小限にとどめ、実験をひとつ省略。代わりに理論面からのアプローチを追加し、後続の検証に先鞭をつける。これなら頭の中にあるものを書くだけでよい。
 特殊な条件下のみで成立する存在性方程式には項を追加して一般化するつもりだったのだが、とても書ききれない。これも削除……またいつか、独立した論文にまとめることにしよう。
 あれも削り、これも削り、時間の不足は工夫で補い、なんとか形を作っていく。それでも削りようがない実験、それも大掛かりなのがひとつ残っていた。ここは、アレの力を借りることにする。極めて不本意だが。
「パン屋ー。」
 遥か遠いリネットまで《遠話》を飛ばすと、待ってましたとばかりに陽気な声が応えた。
〔よーっすカジュ大先生ー! 実験準備できてるぜ!〕
 カジュは目を丸くした。
「まだ何も言ってないんだけど。」
 パン屋は気のいい笑い声を聞かせてくれ、
〔こないだ、お前しんどそうだったろ。頼ってくれるって信じてたぜ!〕
 この時カジュの中に生まれた感情は、言葉ではいまひとつ説明しづらい。気の利いた助力に感心したようでもあるし、暖かな友情に胸を打たれたようでもある。もっと別の甘やかなものが込み上げてきたのも、否定はできない。しかし同時に、正体不明の敵愾心や敗北感、悔しさのようなものが胸の中に入り混じっているのであった。
 やたらと早口で実験内容を説明したのは、そんな気持ちをごまかすためだ。パン屋は時折相槌を打ちながら聞き、いくつかの要点について質問を飛ばした。
 打ち合わせがすっかり済んだころ、カジュは不思議な気分になっていた。まるで昔に戻ってきたような。同年代の子供たちと、日々、学問というおもちゃで遊び回っていたあの頃に。二度と戻りたくないはずの、苦い思い出ばかりであったはずの、あの頃に。
「……そういう感じで。手間なんだけど頼むよ。」
〔任せとけって。そのかわり、今度会えたらデートしてよな〕
 彼の愛嬌ある笑顔が目に浮かぶよう。
 カジュは、ふんと鼻で笑った。
「ま、一回だけならね。」
 パン屋の歓声の大きなこときたら耳が爆発するかのようだ。カジュは片耳に人差し指を突っ込んで、思いっきり顔をしかめたのだった。

 そして再び、カジュは書いた。
 冷え込む夜、犬に変身した緋女を、湯たんぽ代わりに足元へ抱いて。霧の朝、実験結果を元にパン屋と激論を交わして。いつのまにか届けられていた夜食に、ねじ切れそうな空腹を満たして。
 いくつもの手に頼りながら、カジュの魂を込めた論文は紡がれていった。決して満足のいく出来栄えではない。もっと良いものが書けたはずだ、充分な時間さえあれば。豊富な書庫があれば。自分にもっと、実力があれば。
 思い通りにならぬ作品に、苛立ちを覚えなかったといえば嘘になる。
 それでも、編まねばならない。
 たとえ最善ではなくとも。今のカジュに出せる最大限の“答え”を。

 それから七晩七夜が飛ぶように過ぎた。書き連ねた原稿は200枚超。その全てを束ねて製本し終えたのは、ある日の早朝――魔法学園の一行が帰りの船に乗る、まさにその朝のことであった。

 港はいつものごとく人混みに溢れていたが、学園の一行はいまや黄金そのもののように輝き際立って見えた。大混雑の中から、カジュは一目で彼等の姿を見出し、その行く手を塞ぐように前へ出た。手には大慌てで製本したばかりの、インクの香りも真新しい論文を持ち、足では港の石畳に食いつくように踏ん張って、学徒たちの顔を見上げている。
 一行の中に、ファラド副校長の姿は見えなかった。いるのは、感じの悪い目つきでカジュを値踏みしている連中ばかりだ。しかし、今のカジュには胸を張って対峙するだけの根拠がある。手の中の完成原稿が、彼女に無限の勇気とふてぶてしさをくれる。
「先日はどうも。」
 刺すように挨拶すると、学徒の一人が不機嫌に眉を跳ね上げた。
「ああ。お前は、あの時の」
「書き直したんで、コレ。」
 差し出され分厚い紙束を、学徒は手に取った。表紙を一瞥し、中を数ページめくる。
 カジュは黙ってその様子を睨みながら、とくとくと小さな胸を高鳴らせていた。自信がある。今度こそ、読めば分かってもらえるはずだ。見るものが見れば必ず評価される、そんな論文に仕上がっているはずだ。あの眉が今に緩むはず。あのしかめっ面を学術的驚異が支配するはず――
 だが。
 学徒は侮蔑の嗤い声を上げ、カジュの論文を、無造作に投げ棄てたのだった。
「言うに事欠いて“無限縮退問題”だと? ばかめ!」
 叱責が、カジュの頭上に降り注ぐ。それは聞くに耐えない罵倒だった。昼日向に始まった騒ぎに、好奇の目が集まりだした。そして無数の視線に晒されながら、カジュは――じっと、身をこわばらせることしかできなかった。
「ガキにこんなものが書けるはずがあるまい。中を見る価値もない。おおかた、わけもわからずセンセーショナルなテーマをぶち上げ、ろくな論証もせず戯言ばかり書き連ねているのだろう。ええ? そうだろう、小僧? そんなに学園の名声が欲しかったか? 奇抜なことをして印象を残せば、誰かの援助を掠め取れるとでも思ったか! 恥を知れ、この物乞いが!!」
 ――殺す。
 と、カジュが殺気を膨れ上がらせた、その時だった。
 突然、学徒が錐揉み様に回転しながら吹き飛んで、挙句、遥か向こうの木箱の山に頭から突っ込んだ。
「……は。」
 あっけにとられるカジュの前を、鋼鉄の大盾のごとく庇っていたもの。
 緋女であった。
 一体どこから現れたのか。というより、今日は一人で来たはずだったのに。ともあれ、緋女はどこかから矢のように飛び出して、その拳で学徒を殴り飛ばしたのである。
 緋女の顔に表情はない。頬も、眉も、大理石の彫像のように凝り固まっている。その中で、ただ目だけが燃えていた。炎のように燃えていた。
 緋女は走った。
 あまりにも速すぎて、霞か幻のようにしか見えない。一瞬で次の学徒に肉薄し、その鼻っ面に握り拳を叩き込む。ふたりめの学徒が卒倒し、ようやく残りの面々に恐怖が走る。悲鳴が上がる。背を向け逃げ出す。
 逃がすわけがない。
 緋女は殴った。蹴った。投げ飛ばした。石畳は割れ、大樽は砕け、人が紙くずのように吹き飛んだ。命乞いにも容赦しない。反撃の拳も効こうはずがない。ちぎっては投げとはまさにこのこと。緋女は今や吹き荒れる嵐であった。
 その間、緋女は一言も発しなかった。
 それでもカジュには伝わってくる。眼が、拳が、筋肉繊維の一本一本が言っている。緋女の胸を満たす言葉にならない炎の叫び。
 ――あたしのツレを、ナメんじゃねえ!!
 カジュは静かに眼を閉じた。
 暗闇の中で己の心に向き合ってみれば、もう、どす黒い執着は、すっかり萎えて消えていた。
 カジュは、鼻息も荒い緋女に歩み寄り、服の裾をちょんと指で引いた。
「帰ろ、緋女ちゃん。」
「……いいのかよ」
 あたりに動くものがいなくなってもなお、緋女の怒りは収まらぬらしかった。カジュは彼女に、無理な作り笑いを投げかけ、
「うん。もういいんだ。」

 マイクル・ファラドが所用を済ませて港に戻ってきたのは、ちょうど、カジュたちが広場を去った直後のことだった。
 ファラドはまず、倒れてうめく同僚たちに驚き、次に、遠くを去っていくカジュの背中に驚いた。幸い同僚たちは、手ひどく殴られてはいたものの命に別状はなく、この程度なら魔術で治すのも容易だろうと思われた。
 安堵の溜め息をついたとき、ファラドは、石畳に散乱した文書に気付いた。手にとった一枚には、目を奪われるようなタイトルと、几帳面な文字の著者名が記されていた――カジュ・ジブリールと。
 一体何が起きたのか、これで、なんとなく察せられた気がした。
 ファラドは困り顔で頭を掻き、それから、散らばった原稿を拾い集めにかかったのであった。

 帰宅したふたりを出迎えたのは、なんとも抗いがたい、甘やかな香りであった。
 エプロン姿のヴィッシュが、上機嫌に鼻歌など歌っている。彼は仲間たちの姿を認めるなり、湯気を立てる耐熱皿をテーブルに運んできた。
「見ろよ、新作だぜ」
 と、自慢げに披露されたのは、焼きたてのプリン。新鮮な卵、ミルク、砂糖を混ぜ合わせ、耐熱皿に満たしてオーブンで焼く――前の失敗をふまえて今度はさらにひと工夫。フライパンで慎重に炒めた焦がし糖蜜を、上からとろりと垂らしてみた。
 ヴィッシュ特製“焦がし糖蜜のカスタード・プリン”、完成である。
「わー! うまそー!」
「ふーん。」
 飛びつく緋女に、冷めたカジュ。ふたりそろって席に着き、ふかふかの生地を小皿に取る。
 カジュは、しばらくの間、たれ落ちる糖蜜を見つめていた。どこか優しげなカスタードの白。舞い踊るような焦がし砂糖の黒。ふたつがうねり、混ざり合い、ひとつのところに溶け合っていく。
 ひとさじ口にしてみれば、ヴィッシュが顔色をうかがいに来る。
「どうだ?」
 眠たげな眼を横手にそらし、カジュはボソリと呟いた。
「……まあまあだね。」


THE END.





 さて。
 それからしばらく経ったある日のこと。カジュ宛に一通の手紙が届いた。余談とはなるが、以下にその内容を記しておく。


  *


「私は今、船の中でこれを書いています。
 まず、あなたにお詫びをしなければなりません。私の同僚たちが、あなたに大変な無礼を働きました。許されることではありません。彼らの上司として心より謝罪します。
 そしてまた、個人的にも謝りたいことがあります。実のところ、同僚たちばかりではなかったのです。私もあなたを侮っていました。あなたがあまりにも若いので、つい、とてもまともな論文など書けまい、と思い込んでしまったのです。
 それは大きな間違いでした。きっと、たいへんに不快な思いをなさったでしょうね。私の心ない言葉が、あなたを必要以上に追い詰めてしまったかもしれないと、罪の意識に駆られています。赦してくれとはとても言えないくらいです。
 でも、もし私を赦してくれるなら、もう少しだけ、この手紙の続きを読んでいただけないでしょうか。

 あなたの論文を読みました。
 大変に素晴らしかった。素晴らしすぎるあまり、はじめは我が目を疑ったほどです。しかしどうやら、あなたの理論は正しいようだと思えます。これは今までの常識を根底から覆しうる新説です。いえ、こんなこと言うまでもないでしょうね。この論文の価値は、誰よりあなた自身が最もよく分かっているに違いありません。
 私はこの論文を学園に持ち帰り、査読にかけてみるつもりです。おそらく審査員たちも私と同じ感想を抱くことでしょう。あなたさえ良ければ、学園を通じて全世界に発信したいと思っています。

 私は、今回の旅でひとつの収穫を得ました。それはどんなダイアモンドよりも大粒で、美しく、そのうえまだ誰にも知られていない、神秘的な宝石の原石です。ぜひ、この原石を世に送り出す手伝いを、私にさせてほしいと思うのです。
 そしてもし、ご不快でないなら――あなたを学友と呼ぶ権利を、私に与えていただけませんか?

 またお手紙します。

 あなたのファン 魔法学園副校長マイクル・ファラドより



 追伸

 さらに詳しく検証したところ、いささか気になるところが何点か見つかりました。実験データの不足が数か所。あきらかな論理の飛躍が一箇所。
 これが査読で問題視されるのは、まず確実です。追加実験と考察の追記に取り組んでみてください。詳しくはまた査読後にお知らせします」


  *


 手紙を読み終わったカジュは、苦笑して、小さく一言呟いた。
「さすがに甘いだけじゃあないね。」


改めて―― THE END.