"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A11"THE END"/The Sword of Wish


 ある晩冬の午後、名医モンドは往診に出かけたが、これは気の進まぬ仕事であった。
 患者は30手前の男。住まいは貧民街の朽ちかけた小屋。そのような男に金の気配があろうはずもなかったが、まぁ、それはよい。金が無いなら無いで、無いなりに手を尽くせば良いだけのこと。よくある話だ、厭う理由はない。
 彼の気を重くしているのは、その患者が死の床にあるという、ただその一事である。
 モンドが訪れた小屋は、いつもながら綺麗に片付いていた。というより、物らしい物がないのだ。家具といえば粗末な藁ベッドくらいのもの。その上には頬のこけた男が横たわり、瞼を閉じて深く眠っている。あたりに漂う濃厚な死の気配は、どこか、神聖なる教会の静謐をすら思わせた。
 臭いがする。仕事柄、これまで何百何千と嗅いできた――そのくせいまだに嗅ぎ慣れない――避けるべからざる運命の臭いだ。すぐ目の前にまで迎えに来た《死の女皇》さまが、ほのかにその体臭を漂わせているのだ。
 これを嗅ぐと虚しくなる。自分の仕事は何のためにあるのかと。人の命を救うのが役目のくせに、最後には必ず死を見届けねばならぬ因果な稼業。
 その困惑を顔に出すような名医モンドではなかったが――
「ギリアン。ギリアンくん。起きてるかね。ワシだよ」
 声をかけると、患者ギリアンは静かに目を開いた。首を動かす気力もないと見えて、ただ眼球のみをこちらに向ける。
「先生……今、起きました。今日は具合が良いようです」
「そりゃあ何よりだ。
 ほい、いじらせてもらうよ」
 モンドは患者のそばにあぐらをかき、服を脱がせた。
 痩せた体だった。まさに骨と皮、いや、それ以下とさえ思える。
 ギリアンは元々、屈強の剣士であった。その腕前を活かし、後始末人として幾多の魔物を狩り殺した。壮健だった頃の、鋼のような肉体を、モンドも目にしたことがある。それが病一つでこうまで衰えようとは。
 モンドは、汗を拭いてやり、床ずれに軟膏を塗って……と、流れるように作業を済ませていった。その間、ギリアンは指一つ動かしはしなかった。糸の切れた人形のように腕を垂らし、されるがままに任せていた。
 処置が終わりに差し掛かった頃、ギリアンは不意にこう囁いた。
「先生。私はもう長くありませんね」
「む……」
「いいのです。先生の見立てを教えて下さい」
「……そうだよ。君の言うとおりだ」
「あと、どれだけ?」
「さあ、2日か、3日……」
 と答えたところで、処置は全て終わった。再び服を着せ、最後に薬を飲ませる。薬と言っても、今となっては体の痛みを和らげる程度の効き目しかあるまいが。
 ギリアンはベッドに横たわり、濁った目でじっとモンドを見上げた。
「先生、長い間ありがとうございました」
「なあに。こっちも商売だよ」
 モンドは笑ってみせたが、患者はくすりともしなかった。思えば、元気な頃から、滅多なことでは顔色を変えぬ男であった。死を目前にしたこの時に至ってもなお落ち着き払った態度を崩さずにいる。日々の鍛錬によって磨き上げた精神力のなせる技だろうか。
 もはやそれ以上の言葉はなかった。モンドは、耐え難い沈黙から逃げるように、小屋を抜け出したのだった。

 その夜のことだった。
 ギリアンは夜の暗闇の中、静かに思いを馳せていた。これまでの人生、さして長くも華やかでもなかった道程に。
 ――私の人生は、一体何だったのだろう。
 思うようには、生きられなかった。本当は、もっと違う生き方をしているはずだった。もっと違う死に方も。かつて彼は剣の道に命を捧げ、騎士として栄達を望んだが、果たすことなく、いつの間にかこの貧民街に落ちてしまったのだ。
 妻もない。子もない。親しい友もない。磨き上げた剣技を受け継ぐ弟子もなければ、歴史に名を刻むこともできなかった。
 何も遺せず。
 何も果たせず。
 ただ病だけを得て、無為な人生に幕を閉じる。
 涙が零れそうになった――辛うじて残った最後の矜持が、それを止めてくれたが。
 ――もう私には何もないのだ。何も。執着すべきものさえも――
 いつしか微睡みが彼に忍びより、夢の世界へと誘い込んだ。死の床の浅い眠りは現実と混ざり合い、夢の中でなお彼は考え続けた。何もない。本当にそうか? 残されてはいないのか? 為すべきことが――?
 朝日が差し込み始めた頃、彼は不意に覚醒した。
 ――ある。心残りが、ひとつ。
 ギリアンは、カッと眼を開き、震えながら身を起こした。ベッドのそばに立てかけておいた剣に手を伸ばす。革の鞘に触れると、ひやりとした感触が指に吸い付くかのようだ。
 ――あのひとと闘いたい。もう一度。
   緋女。
   我が生涯で最強の相手と!



勇者の後始末人

“最後の闘い”




「そっちに行ったぞ、緋女!」
 森の奥の廃村に、ヴィッシュの声が響き渡る。
 その声に追われるように、小鬼どもが湧いて出た。朽ちかけた農家の、壁に空いた大穴から、ぞろりぞろりと次々に――その数10匹あまり。
 鉄面皮ゴブリン。かつて魔王軍が雑兵としてこき使っていた鬼の一種だ。大した力はないが、繁殖力が高く、よく廃墟や打ち捨てられた古城などに群れで住み着く。そして近隣の村や街を襲い、野党まがいの真似をやってのけるのである。
 ゴブリンどもを待ち構えるのはひとりの女。大刀を軽々と肩に負い、両足に草を踏み蹴散らして、仁王立ちに行く手を阻むは美貌の剣士――勇者の後始末人、緋女である。
「来な」
 その声も姿も、キンと真っ直ぐに張り詰めて、さながら剣そのものの如し。
「まとめて片付けてやる!」
 彼女の挑発を理解できたわけでもあるまいが。
 ゴブリンどもは奇声を上げるや、緋女に殺到した。棍棒、石、盗んだ農具、原始的とはいえ充分に強力な武器の数々が、あらゆる方向から襲いかかり――
 白刃一閃。
 次の瞬間には、小鬼どもが一斉に血の花を咲かせ、死体となって転がっていた。
 その中にただひとり、平然と立つ緋女。フッ、と胸に溜め込んだ気合を吐き下したところへ、相棒の声がかかった。
「おお。流石だな」
 ヴィッシュは、足の踏み場もないほど散らばったゴブリンの死体を、ひょいひょいと飛び越えながら、緋女に近寄ってきた。
 見れば、ゴブリンはみな、正確に頸動脈のみを切り裂かれている。大きく肉を切ったり骨を断ったりすれば、どうしても剣の切れ味は鈍ってしまう。よって、大勢を一度に相手取るなら、切っ先だけを用いて最小限の傷で斃すが最も良い。
 と、口で言うのは容易いが、実戦でその通りやってのけるのは至難の業。相変わらず緋女の技量は舌を巻くほどであった。
 緋女は、刀についた血をボロ布で拭いながら、口を尖らせそっぽを向いた。
「ほめられたって嬉しくねーからな」
 声はとても嬉しそうであった。これが犬に変身している時なら、意に反して尻尾がバッタバッタと振り回されていたところだ。
「そうか?」
「嬉しくねーし」
「はいはい」
「ころすぞテメコラァ!」
「さてー次はどこだー」
 と、そこへ仲間から《遠話》が届いた。耳元で響く声に曰く、
[CQCQ、こちら絶世の美少女。でっかい群れ(クラスタはっけーん。]
「分かった、すぐ行く!」
 勇ましく返事をしたはいいものの、ヴィッシュは正直なところ疲労気味であった。何しろ昨夜から今朝まで夜通しゴブリンどもを追い回していたのだ。
「忙しいなァ」
 肩をすくめてヴィッシュがボヤく。緋女は握り拳を突き出して、トンと彼の胸を打った。
「がんばろっ」
 こう素直に言われては、頷こうという気も湧いてくる。
「よし。やるか」

 同じ頃、第2ベンズバレン四番通りの外れに、病んだ剣士ギリアンの姿があった。
 衰えきった彼には、貧民街からの僅かな道のりが千里にも万里にも思えただろう。痛みは絶え間なく襲い来る。疲れは一足ごとに積み上がる。それでも彼は歩み続けた。頼りは杖代わりの剣一本。こだわり抜いて仕立てた頑丈な鞘は、木の葉のように軽い病人の体を充分に支えてくれた。
 緋女にまた会いたい。闘いたい。ただその一念が、死にかけの体を動かしていた。
 彼女を想うと、疲労も苦痛も不思議と気にならなかった。むしろ再戦を待ち望む気持ちがいや増して、胸の高鳴りさえ覚えてしまう。この情熱を言い表すだけの語彙をギリアンは持たなかった。身体の中を駆け巡るのは声ならぬ声、言葉ならぬ言葉だ。
 緋女。
 彼女の剣を初めて目にしたのは、去る秋口のことだった。
 あの頃、まだこの街に来てから日が浅い緋女の仕事ぶりを、偶然にギリアンは見かけたのだ。彼女は街道沿いに湧いた戦車蟲を狩っていた。象ほどもある巨大なカブトムシ。板金鎧なみの装甲を持つ厄介な相手だ。普通なら、大勢で取り囲んで鉄槌で外殻を叩き割るしか対処法はない。
 それを彼女は、ひょいと――湖畔でのんびりと釣り竿でも振るうような気軽さで――刀を走らせ、ただの一太刀で仕留めてしまったのだ。
 美しかった。あの太刀筋は完璧であった。一切の無駄なく正確無比に敵の要点のみを切り裂く、まさに剣の極めて至るべき型。霞の如く柔らかで、風の如く素早く、大地の如く落ち着いて、そのうえ焔の如く燃えている――
 あまりのことに、ギリアンは見惚れた。
 堪えようもない興奮を覚え、ギリアンはすぐさま彼女の元へ駆け寄った。そして息を切らせながら、頭を下げて丁重に頼みこんだのだ。手合わせを所望いたす、と。緋女ははじめキョトンとしていたが、やがてニッカと無邪気に笑い、
「いいよー」
 と、気楽に答えた。
 日を改めて、ふたりは決闘を行った。結果は、散々なものであった。ギリアンの木剣は一度たりとも相手を捉えられず、緋女の木刀は七度こちらを打ち据えた。愛撫するような優しい打ち方であった。事実皮膚には傷らしい傷も付かなかった。にもかかわらず、一瞬遅れて骨に重い衝撃が走るのだ。力の全てが身体の芯に叩き込まれているからだ。
 刀の芸術、と言うより他なかった。
 滅多打ちにされながらも、ギリアンは悦びを覚えた。もはやそれは法悦であった。この木刀を通じて、自分は神秘に触れたのだと、そう思えた。
 勝負の後、緋女は軽く汗など浮かべながら、楽しそうに微笑んだ。彼女は、神聖なる嶺に凛然と咲き誇る大輪の華。剣の巫女――いや、女神そのものであろうか。
 緋女。
 過去を思い起こしているうちに、ギリアンは目的の場所にたどり着いた。後始末人ヴィッシュの住まい、三階建ての細長い一軒家だ。戸を叩いてみるが、返事はない。ドアには鍵がかかっている。
 留守か、と落胆したところへ、背後から声がかかった。
「あら。ヴィッシュくんにお客さん?」
 振り返れば、よく肥えた中年の女性がひとり、喋りたくてたまらないといった顔をしてこちらを見ている。彼女はギリアンの顔をまじまじ見つめるや、胸の前で手のひらを打って、
「あらあら! ギリアンさんじゃあないの? ずいぶん痩せたのねえ。
 わたしよォ、隣のパン屋の」
 と、隣家を指さす。正直に言って彼女の顔に覚えはなかったが、おそらくヴィッシュを訪れた時に紹介されたことがあるのだろう。興味のない相手のことは全く記憶に残らないのだ。悪い癖だと思ってはいたが、ついに最期まで直せなかったらしい。
「緋女さんに会いに来たのだ。お留守かね?」
「昨日から3人一緒にお仕事よ。確かトーレスでゴブリン狩りだって」
 トーレスは、ここから東に一日ほどの距離にある小さな街だ。たかがゴブリン狩りにあの3人が駆り出されたとなれば、獲物は並大抵の数ではあるまい。少なくとも50匹以上、ことによると100匹。ヴィッシュたちの力を以てしても、狩り尽くすには軽く丸一昼夜は要するに違いない。
 すると、帰宅は早くとも今夜遅く、あるいは明日のことになろう。
 それまで命がもつかどうか。仮に持ったとしても、その時に剣を握る力が残されているかどうか――
「分かりました。ありがとう」
「どういたしまして。戻ったら、あなたのこと伝えとこうか?」
「いいえ、結構。こちらから出向きます」
 そう答えて、ギリアンは歩き出した。パン屋の女性は、枯れ草のように風に揺れるギリアンを見ると、不安に駆られ、再び声をかけた。
「ねえ、大丈夫? 出向くって……トーレスまで行くの? その体で?」
 ギリアンは何も答えなかった。無礼は承知であったが、今は、声をあげる体力さえも惜しかった。もう心を決めたのだ。身体に残った力の全てを、最後の闘いに捧げると。

 第2ベンズバレンからは、三本の大街道が発している。北には、馬車10台分もの幅を持つ王国の大動脈、通称“無制限街道”。西には、古ハンザ時代から続く由緒正しき“アレフの道”。そして東には、広大な田園地帯を貫く“ヴェダ街道”である。
 ギリアンは東のヴェダ街道を歩きだした。気は急いていたが、無理が利かぬ身体なのは自分が一番よく分かっている。焦りを胸のうちに封じ込め、一歩一歩、確かめるようにギリアンは進んだ。
 途中、何人もの旅人に追い抜かれ、時には訝しそうに睨まれさえした。気にならなかったと言えば嘘になる。
 だが、彼は己に言い聞かせ続けた。
 ――比べるな。私は私の道を征け。
 第2ベンズバレンを出て、のどかな田園を越え、木の葉もまばらな寒々しい林に差し掛かった頃、彼の耳に悲鳴が届いた。
 見れば、林の中から焦げ色をした獣が一頭、飛び出してきたのであった。猪に似ているが、下顎から長大な二本の牙が付き出している。“衝角猪(ラムボア”、魔王の手になる危険な魔獣だ。
 前を歩いていた農民らしい母子が悲鳴を上げた。衝角猪がその声に刺激され、母子の方へ牙を向ける。
 ――いけない!
 と悪寒が背筋を貫くや、ギリアンの身体はひとりでに動いていた。小石を拾い、投げ付け、注意を引きつけておいて、走る。
 猪が来る。
 その動きが、細かな体毛の一本に至るまで手に取るように視えた。
 猪の突進を、僅かに半身捻ってかわし、すれ違いざまに愛剣を走らせる。
 切っ先は線を引くように猪の脚を裂き、一秒遅れて血が噴き出して、腱を切られた猪は横倒しに倒れ伏した。
 あとは楽なもの、であった。もはや立ち上がることも出来ず、怨嗟の声を上げながらのたうち回るばかりの猪に、止めの一撃を突き立てた。
 死んだ魔獣に祈りを捧げながら、ギリアンは不思議に思っていた。今の動きは大変に良かった。強敵を一頭仕留めたというのに、自分は息一つ乱れていない。動きに無駄がないからだ。この病みきった身体であれほどの剣が振るえようとは、自分でも信じられない。
 死を目前にした今になって、彼の集中力はかつてないまでに高まっているようだった。
 勝てる、かも知れない。この剣の冴えがあれば――
 そこへ、先ほどの母子が恐る恐る声を掛けてきた。彼女らは愛らしく声を揃えて礼を述べ、何かお返しを、と申し出た。
 ギリアンは丁重に辞退したが、母子は引き下がらなかった。感謝の気持ちを形にせねば気が済まぬ、という素朴で熱烈な善意を感じた。どうしたものか、と思案するうちに、ふとギリアンは空腹を覚えた。
 空腹? まさか? 最近は流動食(おもゆさえ受け付けなくなっていたこの胃腸が?
 しかし、確かに空腹だった。さらに信じられぬことに、腹が鳴った。何ヶ月ぶりのことであった。
「では……朝から何も食べていないので」
 申し訳なさそうにギリアンは切り出した。
「何か食べさせてもらえないか」
 母子はそっくりな顔をそっくりに綻ばせ、ふたり揃って頷いた。

 母子の住まいに招かれ、ギリアンは下にも置かぬ歓待を受けた。
 食事は大変に豪勢なものであった。カリカリに表面を焦がした塩漬け豚、濃厚な味わいのチーズ、豚の血の腸詰め、この冬に樽から出したばかりのみずみずしいワイン……ありふれたものではあったが、母子二人暮しの農民には、とっておきの贅沢品であっただろう。
 ギリアンはありがたくそれらを頂いた。涙が出るほどに美味かった。胃の内側から熱い活力の炎が湧き出してくるかに思えた。まさか、再び食を愉しめる日が来ようとは。
 とりわけ、母親手作りの焼きたてパンは格別だった。竈から引き出して、灰を払い除けて、あつあつのままかぶりつくのだ。これが、美味い。小麦の旨味が口の中で花開くかのようだ。もういくらでも食べられる。
 それに何か、懐かしい味だった。
 昔、こうして焼きたてを食べさせてくれた(ひとがいた。
 そう、あれはもう10年も前のこと。
 あの頃、ギリアンはまだ17歳。成人してから5年目の、根拠のない全能感に取り憑かれた、どこにでもいる若造だった――

 ギリアンは北部の小さな農家に生まれた。幼い頃から運動の得意な子供であった。とりわけ、騎士を真似て棒切れを振り回すのが好きだった。淡い憧れを抱いていたのだ。大人たちは、平民が騎士になれるはずはないと嘲笑ったが。
 ある時、剣の達人として有名な老騎士が村を通りかかり、ギリアンのチャンバラ遊びを偶然に見かけた。そしてすぐさま両親に掛け合い、ギリアンを養子として引き取ったのであった。
 その日から、老騎士はギリアンの師となった。老師にはいくら感謝してもしたりない。ギリアンに素晴らしい剣術を仕込み、平民に過ぎない彼を騎士見習いに取り立ててくれ、いずれは自分の騎士株を譲る約束さえしてくれたのだった。
 ギリアンは師のもとで修行に明け暮れ、その才能を見事に開花させた。達人仕込みの剣は鋭く、15歳の頃にはもう、王国に並ぶものなしと評されるまでになっていた。
 もちろん、平民上がりの彼に、貴族の子弟どもはいい顔をしなかった。なまじ実力があればなおさらである。
 有形無形さまざまの嫌がらせがあった。中には耐え難いものもあったが、彼はじっと我慢を続けた。
 それが可能だったのは、ひとつ、大きな心の支えがあったからだ。
 ああ、萌え木の如きルクレッタ。唯一無二の想い人よ。
 ルクレッタは老師の孫娘だった。一つ年下の彼女は、ギリアンを深く慕い、どこへ行くにも着いて来たものだった。剣の修行で散々に打ちのめされるギリアンを、いつも親切に手当してくれた。衣服の繕いも弁当作りもかいがいしくやってくれた。早くに両親を亡くしたせいか、彼女はどんなことでも独力で器用にこなした。その指使いは見惚れんばかりであった。
 ギリアンは彼女を実の妹のように愛した――そして長じては、当然の如く、ひとりの女として愛するようになっていた。
 いつか騎士の位についたなら、彼女を妻に迎えたい。彼はそんな夢を抱くようになっていた。愛しい人と寄り添い、憧れの職につく幸せな未来。それが目の前のことのように想像できた。
 もちろん、口に出して愛を語れるような度胸あるギリアンではなかったが、ルクレッタもまた同じ気持ちでいるはずだとは思えた。
 根拠のない妄想ではない。一度、成人したばかりのルクレッタに縁談が持ち込まれたことがある。縁談はすぐに立ち消えになった。ギリアンは詳しいことを聞かされなかったが、どうやら、ルクレッタ自身が強く拒んだらしいのだ。後で風の噂を耳にした。彼女が祖父にこう訴えたのだと。
「私、誰のお嫁さんになるか、ずっと前から決めてるの。お祖父様が誰より目をかけている人よ」
 ギリアンは舞い上がった。これが舞い上がらずにいられようか?
 以来、ギリアンはルクレッタを強く意識するようになったのだった。いったん女として意識してしまうと、それまでも充分に愛らしかった彼女が、この世に比類なき人とさえ思われるようになった。
 恋は魔法。今も昔も。
 とはいえ、快い魔法なら受け容れぬ手はあるまい。
 彼女も同じ気持ちだったろうか? 確かめる術はもはや無いが、少なくとも、その頃から二人の距離が急速に縮まったのは確かだった。手足に触れる指も、以前とはその甘やかさを変えていた。時には、心臓が破裂しそうなほど近く寄り添って――
 ギリアンはこれまで以上に修行に、身を入れるようになった。ほとんど執念にも近い思いを抱いて、ひたすらに腕を磨いた。
 成すべきことはただ一つ。
 騎士になるのだ。鍛え抜いたこの力でもって。

 それから2年が過ぎ、魔王の侵攻が始まった。
 ベンズバレン王国にもその魔手は伸び、東部から北部にかけての地域で激しい戦闘が繰り返された。度重なる敗戦で軍は致命的な兵力不足に陥り、窮余の策として大規模な人材登用が行われた。その中に、騎士見習いの大量一斉叙任も含まれていた。
 ギリアンは、ついに騎士となったのである。
 老師はこれを大いに喜んでくれた。無論ルクレッタもだ。叙任式の夜は祝の宴会で家に戻れなかったが、翌朝、帰宅したギリアンを、ルクレッタは暖かく迎えてくれた。
 ふたりは、どちらからともなく抱きしめ合った。
 その途端、爽やかな性欲が湧き上がり、互いが互いをむさぼるように求めあった。この日、初めてふたりは愛を交わした。
 それはとろけるように素晴らしい出来事だったが――なぜか、あまり記憶に残っていない。おそらく夢中すぎたのだろう。
 それよりも鮮明に覚えているのは、昼過ぎてからルクレッタが作ってくれた朝食のことだ。
 あの日、寝床で、汗ばんだ彼女の裸体を、濡れた手ぬぐいで拭いてやった。彼女は心地良さそうに鼻息を漏らした。その体を抱き寄せてキスを奪った。もう一度、と甘い声でねだられて、今度はうなじに唇を這わせた。背中にも。乳房の上にも。最後はもちろん、再び唇に――
 それからルクレッタは、急に恥ずかしがりはじめ(つい今しがた、あらゆるところを惜しみなく開け広げたにも関わらずだ)、いそいそと逃げるように衣を纏った。そして、速やかに妹の顔に戻ると、ギリアンのためにパンをこね始めたのだった。
 その時の、パンの焼けるうっとりするような香ばしさは、ルクレッタへの情愛と密接に結びついている。
 ギリアンは、ルクレッタを寝床に誘った。テーブルでは向かい合って座るしかないが、寝床なら横に寄り添うことができるから。
 ふたりは枝に並んだ小鳥のように身を寄せ合い、焼きたてのパンを分け合った。ひとつまみずつ千切り、互いに食べさせあった。何度も指が唇に触れた。パンと一緒に指先をねぶり合うこともあった。
 美味い、美味いパンだった。暖かく、柔らかく、何より甘く、ルクレッタの心が染み込んだようであった。一口ごとに活力が湧き出し、(け口を求めて体内を駆け巡った。期待は胸の内で膨らみ、膨らみ、膨らみ上がり――ついに弾けた。再びふたりは獣となった。荒々しい行為が済むや、すぐさまもう一度。さらにもう一度、もう一度――
 求め求められることの快楽を、ふたりは心ゆくまでねぶり尽くした。
 それが最後の逢瀬になるとは、夢にも思わぬままに。

 農民の母子は、命の恩人たるギリアンをしきりに引き止めたが、彼は聞き入れなかった。手厚い歓待に礼を述べ、母子を振り切るように住まいを辞した。ふたりは街道に出て、ギリアンの姿が消えるまで見送ってくれた。
 ――ああ、よかった。
 ギリアンは、満ち足りた気分を味わっていた。
 少なくとも、今日自分が闘いに赴いたために、ふたりの命を救うことはできたのだ。それだけでも、この人生は無駄ではなかったと言えるではないか。
 ギリアンの表情には生気がみなぎり、先ほどまでとは別人のようにさえ見えた。いまだ体の痛みは治まらず、杖無しで歩けるわけでもなかったが、背筋はぴんと伸びていた。道はまだまだ遠かったが、必ず緋女のもとへたどり着けると、無邪気な確信を抱いていた。
 意気揚々、ギリアンは街道を進んだ。
 途中で多くの旅人とすれ違ったが、その中に、大きな帽子で顔を隠した二人組の男もいた。彼らの片方は、ギリアンの横を通り抜けるやひたと足を止め、音を立てぬよう慎重に振り返った。もう一人が訝って問いかける。
「どうした?」
「静かに。今の病人、奴だ」
「奴……」
 二人そろって帽子をそっと持ち上げ、ギリアンの背中を見やる。片方が、あっ、と小さく声を上げた。見る影もなく痩せ細り、人相も変わってしまっていたが、あの後ろ姿には見覚えがある。
「ギリアン! ギリアン・スノーかっ」
「まさかこんなところで会うとはな。おい、これはチャンスだぞ」
 ひとりが、己の右肩をさすった。彼の右腕は肩の下までしかなかった。かつてあのギリアンに切り落とされたのだ。
 もうひとりもまた、指で顔の傷をなぞった。眉の上から頬にかけて、斜めにばっさりとやられている。ギリアンの剣によってつけられた傷だ。
「やろう。10年前の怨み、今ここで晴らしてやる!」

 10年前。騎士叙任を受けたギリアンは第二師団に配属され、激戦の北部へ送られることになった。
 王都を離れるその日、彼はルクレッタと約束した。戦が終わって戻ってきたら結婚しようと。彼女は驚きもしなかった。ただ、微笑とともに頷いただけだった。きっと予想済みだったのだろう。結婚を申し込まれることも、そのタイミングも、ことによるとプロポーズの言葉までも。
 ともあれ彼は意気揚々と出陣した。浮かれているのは否定できなかった。が、剣さばきには一片の慢心も浮つきも見られなかった。常に己を諌めよという老師の教えが、骨の髄まで染みていたのだ。戦場において為すべきことはただひとつ。絶え間なく襲い来る魔物共に、己の持つ力の全てを粛々と叩きつけるのだ。
 彼の業前(わざまえと戦功はほどなく師団司令官の知るところとなった。士気発揚のためもあったのだろう、ギリアンは全軍の前で大々的に功績を賞され、勲章と恩賞を授けられた。
 多くの将兵はギリアンを讃え、また我も後に続かんと奮い立ったろうが、中には真っ直ぐに受け取れない者もいた。いつの世も、羨望を歪んだ形にしか発露できない者はいるものだ。
 彼らは高名な貴族の子弟、いずれは軍の要職に付くことを約束された者たち、であった。彼らにとって、下賤の出でありながら運良く騎士の位を掴んだだけの男(事実ではあった)は、決して許せぬ悪だ。ましてそんな下衆が勲章を授かるなど――言語道断。
 次の日から、ギリアンへの執拗ないじめが始まった。過失を装って泥水をかけられる、鎧を汚される、馬の(しりを切られるなどは日常茶飯事。一人だけ命令を伝えられなかったり、きつい歩哨を不自然に数多く押し付けられたりもした。時には、剣の目釘を抜かれていたことも――もしギリアンが几帳面に点検を行う性格でなかったなら、刃がすっぽ抜けて大惨事になっていたところだ。
 いじめは、次第に悪質さを増し、悪戯では済まされぬ領域にまで至りつつあった。直接的な暴力を受けたことも一度や二度ではない。それでもギリアンは耐え続けた。理由はいくつもあるが、まず、相手が有力者だけに反撃は面倒なことになる、と踏んだのがひとつ。いざとなれば自分の方が強い、と自負していたのがひとつ。そして、誰が自分を貶めようとルクレッタだけは愛してくれる、と確信していたのがひとつ。
 ところがある時、ついにどうにもならぬ事態が出来(しゅったいした。
 その日、師団はとある農村のそばに布陣した。偶然にもその村はギリアンの故郷であった。
 上官や仲のいい同僚たちは、家族に会ってきてはどうだと勧めてくれた。心遣いは嬉しかったが、ギリアンは断った。今の彼は老師の子。父母や兄姉らとは、もう他人となってしまったのだ。それに従軍中でもある。公私混同は避けたかった。
 石頭のお前らしい、と同僚たちは笑った。
 その話を、少し離れたところで耳ざとく聞いている者たちがいた。いつもギリアンに嫌がらせを仕掛けていた連中である。彼らが何かひそひそ話しているのをギリアンは目撃した。そのときは、また何か良からぬことを企んでいるのだろうと思っただけだった。いつものことだったからだ。
 異変が起きたのは、その夜のことだった。
 ギリアンの所属する中隊で、隊員が3名、野営のテントから消えているのが発覚した。脱走は言うまでもなく重い罪である。もし何か不祥事でも起こしたなら、部隊全体も連帯責任を問われることになる。そこで、残りの隊員たちによって深夜の捜索が始まった。
 ギリアンは妙な胸騒ぎを覚えた。
 居なくなった3人というのが、先ほどギリアンの故郷のことを聞いて密談を交わしていた、あの連中だったからである。
 ギリアンは、走った。故郷の村へ駆け込んだ。星空の下に広がる田園には、まだ青臭い稲や麦が、絨毯の如く敷き詰められている。その根本では蛙たちが、陰気な歌声を飽くことなく響かせている――
 と。
 ある一角だけ、蛙の歌が途絶えているのが分かった。危険の気配を察して鳴き止んだのに違いない。
 穴の空いたような静寂に包まれているのは、まさに、ギリアンの生家であった。
 悲鳴が聞こえた。いや、嗚咽だ。
 ――姉の声だ!
 ギリアンはあぜ道を猛然と駆けた。かつて何度となく走ったこの道を、当時に数倍する速度で駆け抜けた。飛ぶように田畑を越え坂を登り、生家の戸を叩き壊さんばかりに押し開けた。
 中に広がっていたのは危惧したとおりの光景。鍛え抜いた騎士たちが、卑劣にも三人がかりで、ギリアンの姉を組み敷いている姿であった。
「やめろッ!!」
 ギリアンの怒声が、騎士たちを家ごと吹き飛ばすかに思われた。騎士たちの二人が立ち上がる。ひとりはまだ姉の上にまたがったままだ。あたりに目を配れば、父と母は頭を殴られたらしく、血の匂いを漂わせながらうずくまっており、幼い妹は震えるばかり。兄と弟の姿はない――きっともう結婚して家を出たのに違いない。兄たちさえいればきっと犯行を諦めていただろうに、この卑怯者どもは!
 姉にまたがったままの騎士が、にやにやと下卑た笑みをギリアンに向けた。
「おうギリアン。一緒にやるかい? 行き遅れの田舎女だが、この土臭いのがまあまあいけるぜ」
 むせ返るような邪悪の気配に、ギリアンの怒りは留まるところを知らず膨れ上がっていく。
「やめろと言っている」
「空気悪くする奴だなあ。こういう女は、後で金貨の2、3枚も投げてやりゃ納得するんだ。ノリが悪いんだよ、百姓上がり!」
「……これが最後だ。やめろ」
「やめないね。王都にいるお前の妹、あのブスだ、今度あいつにもいい思いさせてやるよ。あの顔じゃあどうせ嫁の貰い手も……!」
 それが、彼の最後の言葉となった。
 一瞬の出来事だった。ギリアンは音もなく、そよ風のように肉薄し、ただ一刀にて彼を斬り捨てた。反撃はおろか、悲鳴を挙げることさえできぬままに。
 驚いたのは、立ってギリアンの行く手を塞いでいた――はずの二人であった。自分たちの間をギリアンがすり抜けたのに、彼らは気付きさえしなかった。その時点で彼らは思い知るべきだったのだ、圧倒的なまでの実力差を。しかし残念ながら彼らは、恐怖と驚愕に駆られて、剣を抜いてしまった。
 抜けば、もはや殺し合うしかない。
 ギリアンは振り返りざま、流れるように刃を走らせた。ひとりの顔面を斜めに切り裂き、返す刀でもうひとりの右腕を二の腕から切り落とした。余りにもその手際が良すぎたために、相手ははじめ、切られたとさえ認識できなかった。
 少し遅れて、血が吹き出し、ついで地獄の痛みが彼らを襲った。絶叫が響く中、ギリアンは溜め息をついた。姉と妹の肩を叩いて慰め、父母のそばに跪いて容態を診た。どうやら命に別状はなさそうだった。
「ギリアン……あなた、ギリアンでしょう?」
 震える声で姉が言う。問には答えず、ギリアンは立ち上がった。
「すぐに軍隊の連中が来るだろう。恐れることはない、今夜起こったことを全て包み隠さず喋るといい。隊長は話のわかる人だ」
「あなたはどうするの?」
 ギリアンは、家の戸口へ向かった。
「さようなら。みんな、どうか元気で」
 その言葉だけを残して、ギリアンは生家を飛び出した。
 そのまま彼は軍を脱走した。どんな事情があろうと、名族の跡継ぎを殺した罪からは逃れられまい。たとえ軍法が赦しても、あの男たちの親が赦しはしない。
 己のしでかしたことの報いだ。潔く殺されてやるのも良いが。
 彼はまだ、命に未練があったのである。恥ずかしいことに――いや、当然のことながら――

 ギリアンにやられた二人の騎士は、今もなお、あの夜の怨みを忘れてはいなかった。
 軍法は彼らの蛮行を厳しく裁いたが、刑の執行はうやむやにされた。彼らの親兄弟から圧力がかかったことは言うまでもない。死をもって償うこともなく、地位を失うこともなく、少々配置換えと訓告を食らった程度で、彼らはのうのうと生き続けた。
 無論、無くしたものがないわけではなかった。切り落とされた腕は二度と戻らぬし、顔につけられた大きな傷は嫌でも目立つ。彼らの「若気の至り」、その報いたる一生ものの傷跡は、親族の間でも宮中でも物笑いの種だった。
 彼らは何度も屈辱に震えた。そして互いを慰めあった。いつか、あの悪党ギリアン・スノーを懲らしめてやろう、と。
 あれから10年経った今、ついにギリアンを見つけたのだ。この好機を逃す訳にはいかない。
 二人組の騎士は、充分な距離をおいてギリアンの後をつけた。相手は死にかけの病人、容易いことだ。やがて二人は何やらひそひそと申し合わせた。傷顔の方が街道を外れ、林の中に消えた。
 一方、ギリアンは歩きながら、妙に落ち着いた気分を味わっていた。
 午後の街道は平穏そのもの。作物が刈り取られた後の田園に雀の群れが舞い降りて、忙しく跳ね回りながら土を突く。一羽が虫か何かを捕まえ、口移しで他の一羽に分け与えた。
 ほう、とギリアンは感嘆の溜め息を吐いた。雀とは、あんなふうに獲物を分け合うものなのか。野鳥などという生き物は、早い者勝ちの奪い合いをしているとばかり思っていた。
 これは発見であった。皮肉なものだ。死を目の前にした今になって、新しく何かを知ったとて何になろう?
 ギリアンは、そんなことがどうでも良くなっている自分に気づいた。ただ目の前で懸命に糧を求める雀たちが、たまらなく愛おしく思えた。いつまでも眺めていたかった――
 ふと、腕が剣の柄に触れた。
 剣に叱られた気がした。甘えるな、と。
 ――行かねばならぬ。私は私の人生を。
 と、そのときであった。
 ギリアンは、ひたと足を止めた。道の先に、じっと立って行く手を塞いでいる男がいる。ただならぬ気配、殺意の臭いが鼻をついた。
 ギリアンは剣に手をかけた。残り少ない体力を振り絞り、その男に誰何の声をかけた。
「あなたは誰だ? 私に何か用なのか」
 男は答えず、その代わり――剣を抜いた。
 と、そちらに気を取られていたのが悪かった。応戦しようとギリアンが愛剣を引き抜いたその時、背中に熱い衝撃が走った。
 背を、肩から腰まで、ばっさりと斜めに切り裂かれていた。
 よろめきながら振り返り、背後から襲ってきた二人目の敵を見た。あの邪悪に歪んだ笑み。切り落とされた右腕――ひと目で思い出した。そして理解した。
 ――あの時の二人! 意趣返しか!
 片腕の男が、二の太刀を叩き込もうと振りかぶる。行く手を塞いでいた方、傷顔の男も迫ってくる。挟み撃ちだ。
 しかし。
 ――生兵法が!
 ギリアンは喘ぎながら剣を振るった。無造作に、力さえ込めず。
 刃は旋風(つむじかぜのように渦を巻き、前後の敵をただ一息にて薙ぎ倒した。二人の喉元だけを正確に掻き切って。
 敵が倒れたとたん、猛烈な痛みがギリアンに襲い掛かった。脂汗がどっと体中から噴き出した。膝を付き、呻き、朦朧とする意識の中で、彼は必死に痛みを堪えた。
 雀がそばによってきた。慰めてくれようとしたのだろうか? 妄想に過ぎぬとは半ば自覚しながらも、彼はその甘い妄想に縋りかけた。
 ここで倒れてしまいたい。心優しい小鳥たちに囲まれて、何もかも忘れて眠りたい――
 だが。
 ギリアンは、剣を杖に、立ち上がった。
 行かねば。
 行かねばならぬ。10年前のあの時と同じように。
 温かいもの、甘やかなもの、心潤わしてくれる愛、その全てを――かなぐり捨ててでも。

 10年前の、その夜。
 ルクレッタは、家の窓辺にもたれ掛かり、じっと星を眺めていた。
 ギリアンが同僚を斬って逃亡した旨は、既に王都にも伝わっていた。その背後にある事情もだ。賢いルクレッタは、彼が逃げた理由まで察していた。そして、彼が次に取るであろう行動も。
 予感があった。日数から言っても、おそらくは、今夜あたり――
 と。
 ルクレッタは、窓の外の路上に、音もなくわだかまる影を見出した。夜そのものよりも黒い影。ルクレッタは窓を開けた。
 そして、2階から飛び降りた。
 影が慌てふためくのが気配で分かる。しかしルクレッタは平然と着地し、影のもとへ近づいていった。影、ギリアン・スノーのもとへ。
「お帰りなさい」
「ただい……ま」
 ギリアンは、面食らいながらも、彼女を抱き寄せた。ルクレッタは背伸びしてキスをせがんだ。触れ合った唇は炎よりも熱く、ひとつのもののように吸い付いた。
 このままもっと素晴らしいことをもしたいくらいだったが、今は、そうも言っていられない。
「事情は?」
 端的にギリアンが問えば、ルクレッタもまた端的に答える。
「聞きました」
「私は逃げる」
「一緒に行きます」
 こうなるだろうことを、ギリアンは完全に予測していた。
 そして、そのための心構えを決めていた。言うべき言葉、為すべきこと、全てあらかじめ用意しておいたのだ。
「だめだ。奴らの親は必ず私の命を狙うだろう。一緒にいれば、君も師匠も危ない」
「だから逃げましょう、遠くへ」
 答えは、用意していたはずなのに。
 彼女を目の当たりにすると、それを口にするのがこうまで辛いとは。
 胸の中で暴れまわる罪悪感と誘惑と後悔の予感、その全てを振り切って、ギリアンは言った。毅然として。
「だめだ」
 ルクレッタは、もう何も言わなかった。
 ギリアンは、彼女の肩をそっと押し退け、一方、身を後ろへ引いた。暖かな窓の灯りが遠ざかり、底知れぬ夜の闇が一歩近づく――
 それでも。
「私のことは忘れて、どうか幸せになってくれ」
 行かねば。
 行かねばならぬ。
 欲しかったものの全てをかなぐり捨てて。
「さよなら」
 彼は走り出した。
 闇が彼を飲み込んだ。
 ここが、これから彼の生きる世界。光の当たらぬ世界の裏側。こんなはずではなかったのに、堕ちるしかなかった淀み。
 ルクレッタとは、二度と会うことがなかった。

 背中の傷は、炎の如く燃えていた。
 溢れ出る血。背後に揺れる夕陽。遠ざかってしまった安息の日常が、彼の心をたまらなく惹き付ける。なぜこんなところへ来てしまったのだろう? こんなにも痛いのに。こんなにも熱いのに。治療のあてもない荒野の中を、どうしてひとり彷徨っているのだろう。
 振り返りたかった。引き返したかった。叶うことなら、もう一度。しかし――
 ――これは、もう、だめだな。
 妙に落ち着いている自分がいた。傷の具合、病状、そうしたものを、他人事のように冷静に分析していた。死ぬ。もう間もなく。そう確信した途端、それまで胸の中に封じ込めていた――10年に渡って隠し続けていたものが、熟した木の実の弾けるが如くに噴き出した。
 ああ、ルクレッタ。唯一無二のルクレッタ。
 君はもう結婚したろうか。
 何処かで、誰かと、別の幸せを掴んでくれたろうか。
 ギリアンは歩んだ。一歩。
 師匠はまだ存命であろうか。きっとふがいない弟子に憤っておられよう。だが一方で、厳しくも優しい老師は、今も私を心配してくれているに違いない。謝りたかった、一言、ただ一言でも。
 ギリアンは歩んだ。また一歩。
 故郷の家族。父と母、きょうだいたち。弟は立派に家族を守っているかな。父や母の傷は大丈夫だったのだろうか。今頃はみんな、種蒔の準備に大慌てだろうか。元気にやっていけているだろうか。
 ギリアンは歩んだ。さらに一歩。
 いつの間にか。
 彼の背から流れ出た血は、夕陽の(あかに溶け込んでいた。
 背中のことだ、見えはしない。だが、見えずともギリアンにはそれが解った。はっきりと。
 ――なあんだ。“何もない”なんて間違いだった。
   あるじゃないか、私にだって。
   こんなにも、こんなにも――
 涙が零れた。
 子供のころから、ついぞ零したことのない涙であった。

 ヴィッシュたち3人は、午後遅くになってようやくゴブリン狩りを終え、帰路に就いた。ヴェダ街道を西へ。
 3人じゃれ合いながら進んでいると、行く手に小さく人影が見えた。煌々と輝く夕陽の中に、やせ細った男の姿が浮かんでいる。よろめき、杖にすがり、何度も倒れかけながら、それでも歩むことを止めない。
 ヴィッシュは目を細めて見つめ、やがて気づいた。それが知った顔であることに。
「ギリアンじゃないか」
 駆け寄ってみれば、ギリアンの顔は逆光の中に青白く浮かび上がり、息は今にも耐えんばかりであった。そして、死を予感させるこの臭い。背中の致命傷が放つ血臭。
「どうしたんだ、お前、ひどい怪我じゃないか」
 ヴィッシュの言葉を遮るように、ギリアンは一言、求める相手の名を呼んだ。
「緋女」
 弱々しく、しかし、はっきりと。
「真剣勝負を所望する」
 ヴィッシュには訳が分からなかった。この男は後始末人である。その腕前はヴィッシュもよく知っている。緋女が現れるまでは、間違いなく第2ベンズバレン支部で最強の男だった。だが、この病み衰えた体で、しかもあんな傷を負ったまま、緋女と戦おうというのか? そんなことのために、ここまで来たというのか?
「馬鹿言うな、そんな体で……」
 と。
 横から剣のような腕が伸びて、ヴィッシュを黙らせた。
 緋女の腕であった。
 彼女は炎の揺らめくが如く、ギリアンの前に進み出た。刀の柄に手を掛けて、静かに一言。
「来な」
 言葉は、それで充分だった。
 二人は、それぞれの剣を抜いた。
 仲間たちが数歩下がって見守る中、ギリアンと緋女は、じっと見つめ合った。身じろぎもせず、瞬きもなく、何百年も立ち続ける大木のように、二人はただそこに在った。鳥の声が消えた。風さえ止んだ。大地は凍り付いたかのようであった。
「……なんで始めないのかな。」
 術士カジュが呟いた。ヴィッシュは首を横に振る。
「始まってるさ。動けないんだ」
 ヴィッシュとて、それなりの使い手。腕前は彼らに到底及ばずとも、目に見えぬ応酬を感じ取ることはできる。
 ギリアンの集中力はかつてないまでに研ぎ澄まされ、緋女の吐息ひとつにまでも鋭敏に反応している。故に緋女は動けない。あらゆる打ち込みに、完璧な返しが来るのが視えるのだ。
 ありていに言えば――殺気。凄まじいまでの、殺気であった。
 あの緋女を、完全に封じ込めてしまうほどの。
 見るがいい。それが証拠に、緋女の額に汗が浮かんでいる。
 緋女は、追い詰められている。
 ――初めて見た。これがあいつの本気なのか。
 ヴィッシュは息を飲んだ。
 もはや誰にも割って入れぬ。
 ここから先は、達人のみが到るべき処。
 対峙は、いつ果てるともなく続き――
 そして。

 一瞬。

 刃が走った。
 緋女の刀は真っ直ぐに、ギリアンの胴を断ち割った。その背後に揺らめき沈む、茜色の夕陽もろともに。
 ひととき、間をおいて、ギリアンは倒れた。
「おいッ!」
 首縄を解かれた猟犬のように、ヴィッシュは彼に駆け寄った。隣に跪き、傷を診る。深手だった。緋女に斬られたところは勿論のこと、背中の傷も極めて深い。
「カジュ! 治してくれ!」
「……無駄だよ。」
 カジュはそっと首を横に振る。
「ボクの術は、寿命を犠牲にして肉体の時間を巻き戻す。
 でも……その人の時間は、もう残っていないんだ……。」
「いいんだ、ヴィッシュさん。私はもう、どのみち……」
 消え入りそうな声で、ギリアンが言った。
「試してみたかったんだ。最後に、私が積み上げてきたものの全てを……」
 緋女は、刀を鞘に納めると、ギリアンのそばに胡座をかいた。手を伸ばし、彼の頬に触れる。彼の体は急速に熱を失っていた。ずっと背負っていた熱いものが、体を離れて天へ昇っていくかのように。
 緋女は囁いた。彼に、慈母の眼差しを向けながら。
「楽しかった。お前、強かったよ」
 思いがけない言葉。
 ギリアンは目を閉じた。その顔には微笑みが浮かんでいた。生涯で一度足りとも見せたことのない、心から満ち足りた笑顔。
「ありがとう……
 ここまで来て……良かったよ……」
 そしてギリアンは眠りに落ちた。
 微睡みの中に見た夢は、甘く優しいものだったが――やがて虚空に溶け、消えた。
 彼が最後に得たものは、ただ、安らぎであったのだ。

THE END.