"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A09/The Sword of Wish


 生ぬるい溶液に包まれてカジュは目覚めた。
 目新しくもないいつものことだ。どうせまぶたを開いても、見えてくるのは見慣れた光景。床から天井まで届く柱のような硝子チューブ。内部を満たす淡緑色の溶液。擬似的無重力状態の中、白く浮かび上がる自分の裸体。足下の排液口から大きな気泡が吹き出した。気泡はカジュの指を、脚を、腰を、臍を、緩やかに弓なる腹と胸を擽り、金色の髪を揺らして頭上へと消えていく。これが来ると溶液が排出される合図。実験終了を告げる鐘。何もかも、いつものこと。
 いつだって代わり映えのない、クロムと硝子と監視の目に囲まれたカジュのセカイ。
 眠たげに半分ばかり持ちあげたまぶたの奥から、カジュは全てを睥睨する。
 溶液が下に吸い込まれ、チューブが天井に巻き上げられ、カジュは濡れた裸足でクロム貼りの床に降りる。股まで伸びた髪が幾つもの房に別れて体に貼り付く。さながらそれは、白いドレスを彩る金糸の縫い取りのよう。
 それらを、横から差し出されたタオルが包み込んだ。さして大きな布でもないが、カジュの全身はその中にすっぽりと収まってしまう。見上げれば、いつもの企業人(コープスマン)が、いつもの笑顔でカジュを見守っている。
「おつかれさま。これでテストシークエンスは全て終了だよ」
「そうなんですか? カジュは次、何したらいいんですか?」
 カジュは自分をカジュと呼び、抑揚の効いた少女らしい無邪気な声で問う。彼女は自分のこの声が嫌いだ。この声のせいでナメられる。企業によって計画的に生み出され、計画的に育てられ、計画通りいずれ企業戦士となるべき自分に、そこらの平凡な女子のような声など必要ないのに。といって、生まれ持った声質はどうにもならないが。
「“ワンフォース”」
「何それ?」
 コープスマンが、仰々しく封筒を渡してくれた。カジュが眉をひそめながら中を見ると、そこには一枚の命令書。企業は羊皮紙など使わない。徹底した製法研究の結果、羊を育てるより木を砕く方が安上がりになることに気付いたのだ。水にも暴力にも弱い安物のペラ紙。おかげさまで、カジュはタオルで手をしっかりと拭き、髪から滴が垂れないように注意しながら、恐る恐る読まねばならない。
 ともあれ、紙にはこう記してあった。
『カジュ・ジブリール LN502号
 AD1310風月2日を以て高等教育学校ニ号館への異動を命ず。 AD1310水月35日 人事部』
「……はあ。明後日すか」
「急だよねーっ。ま、決算間に合わせギリギリセーフってとこかな、ハハハ」
「高等教育学校って、イロハまでしか聞いたことないですけど。ニ号館って何するんです?」
「学園生活。お勉強さ?」
 彼の答えは、さも当然、と言わんばかり。
「――立派な企業戦士(オトナ)になるための、ね」
 そしてコープスマンは、愛嬌あるウィンクなどしてみせたのだった。



勇者の後始末人

“ハロー、ワールド。(前編)”




 本社から街道を南へ、馬車で揺られること丸一日。企業が運営する高等教育学校は草原を見下ろす小高い丘の上にある。
 丘のふもとで馬車が停まった。荷台の重たい幌をなんとか捲り上げ、まずは放り捨てるように鞄と杖を地面に降ろし、その後に続いて、カジュもぴょん、と飛び降りる。
 幌付き馬車の薄暗さで慣れた目に、春の陽射しは眩しいくらい。
 頭の上で手を振って、去りゆく馬車に別れを告げる。大きすぎて不格好な背嚢(ランドセル)を背負い、身の丈を越える杖を両手で支え、いつもの半開きの目でカジュは丘を見遣った。緩やかにうねりながら丘を登っていく石畳。その先には飾り気のない塀と門。無意識に、学校の門までの距離を、三角測量で暗算してしまう。数値上は大した距離でもないはずだが、なぜだろう、それが無限にも思えてくるのは。
 《風の翼》あたりで、びゅーんと飛んでいきたいところだが、許可なしに魔法を使うとコープスマンに怒られるし。
 溜息吐いて、しぶしぶカジュは丘を登りはじめた。脚が痛い。息が切れる。全く、肉体というのはめんどくさい。
 道のりの半分ばかりを踏破し、軽く息が切れ始めたころ、カジュは行く先に妙なものを発見した。道ばた、丘から突きだすように立った木の陰で、腰を下ろしてのんびりと風を浴びている人の姿。見たところ、カジュと同じくらいの背丈しかない子供のようだ。男か女かまでは分からないが。
 ――なんで、あんなとこに?
 疑問が頭を過ぎり、それはほどなく興味に変わった。興味は自制に、そして装われた無関心に。カジュは疲れた体に鞭打って、その子の前を足早に通り過ぎた。挨拶もしないどころか、視線も向けない。気づきもしなかったかのように通過したはず。こちらからは何もしなかったはずだ。
 だが、驚くべき事に――反応が返ってきたのだった。
「こんにちは。いい天気だね。」
 ぎょっとして、カジュは足を止めた。振り返り、声の主を見る。座り込んでいた子は立ち上がり、尻についた草や土を払いのけながら、こっちに虚ろな目線を送っていた。そいつの声には、まるで感情が籠もっていないように聞こえた。平坦で抑揚のない、無風の湖面みたいな声色。
「ボクはクルス。キミ、新入生でしょ。」
「……そうですが何か?」
 クルスと名乗った子供が、無造作に近づいてきた。カジュは反射的に逃げようとして、猫に追いつめられた鼠のように震え上がっている自分に気付いた。動けない。指一本。クルスがさらに近づく。もう目と鼻の先。なんだろう、この異様な気配。この距離に近づいたというのに、男か女かも判然としない、整いすぎた顔立ち。
 それが美貌と呼ぶものなのだと――自分が見とれているのだと――気付くには、カジュはあまりに幼すぎた。7歳であった。
「授業、明日から。」
「知ってます」
「急いだって、今日はどうせ暇なだけだよ。」
「だからなんだよ。カジュの勝手でしょ」
 いささかムッとした。その憤りがカジュを束縛から解き放ってくれたようだった。馴れ馴れしい男。こちらが丁重に話しているというのに、向こうは初めから友達気取りか。こんな奴ほっといてさっさと行こう、と決めて、カジュは身を翻しかけた。それを阻んで再びカジュを釘付けにしたのは、鼻先に突き出されたクルスの握り拳であった。
「遊んでいこうよ。烏野豌豆(カラスノエンドウ)が生えてるんだ。天道虫(テントウムシ)もいる。」
「はあ?」
「星が19個もあるんだ。」
 言って、クルスは拳を開いた。
「活きてるんだよ。」
 カジュの背筋を悪寒が走った。開かれた手のひらには、黄色い小さな丸い虫が十匹以上も蠢いていた。迷ったように輪を描いて歩き回るもの。逆さまにひっくりかえって脚をばたつかせているもの。物思いにふけって空を見つめているもの。一心不乱にクルスの指先目指して這い登り続けるもの。
 人差し指の先端に辿り着いた十九星の天道虫が、黄色い甲殻を開いて飛翔した。殻が真っ二つに割れる「がぱっ」という音が確かに聞こえた気がした。虫は飛んだ。一直線にカジュの顔目がけて。
「うっひゃあっ!?」
 思わず悲鳴を挙げて、カジュは逃げ出した。
 彼女は確かめもしなかったが――というより、確かめる余裕もなかったのだが――クルスはその後も、ずっとその場所に立ち尽くしていた。開きっぱなしの手のひらから、せっかく集めた天道虫たちが思い思いに飛んでいっても、それに頓着する様子さえ見せなかった。小さな脚を一生懸命ばたつかせて丘を駆け上っていくカジュの背中を、ただじっと見つめていただけだ。
 それが、奴とのファースト・コンタクト。
 第一印象は最悪だ。

 ――むかつく。
 ニ号館は学園の片隅に建っていた。大きなクジラを思わせる丸っこいフォルムの中に、教室、寮、食堂、売店、演習場、果ては公園からスポーツコートに至るまで、あらゆる施設がまとまっている。普通に学園生活を送る分には一歩も建物から出なくて良いようにできているのだ。
 翌日の朝、カジュを含めた新入生はニ号館の大講堂に集められ、そこで入学に先だつ全体説明を受けていた。広い部屋いっぱいに机と椅子が並べられ、同年代の子供たちがそれを埋め尽くしている。その中にあって、カジュはただ一人、ずっと眉間に皺を寄せていた。不機嫌であった。
 理由は簡単。いるのだ。アレが。隣の席に。
 睨むようなカジュの視線に気付いたか、クルスが、あのボンヤリとした目をこちらに向けた。カジュは慌ててそっぽを向いた。他に数百人もの生徒がいるというのに、なんでよりにもよって、あんなのと隣同士にならねばならんのか。全くウンメイというものは度し難い。空気読めと言いたくなる。
「まずは入学おめでとうと言いたい。当校のニ号館は一般に公開されていない施設です。この意味がお分かりかな? 君たちは、その全員が我が社の幹部候補ということです。これは引き抜きから諸君を守る手段なのです――」
「なーなー」
 突如、背中をつつかれて、カジュはびくりと体を震わせた。先生たちに気付かれないようそっと振り向けば、後ろには同輩が一人。その少年の人なつっこいニヤニヤ笑いが、どうにもカジュの気に障る。少年は声を潜めて話しかけてくる。
「オレ、リッキー・パルメット。よろしくっ。キミ、名前なんてえの?」
「今講話中ですが」
「バレなきゃ平気。ね、キミ、かわいいね。彼氏いるの?」
 ――そりゃどーも。
「死ねばいいのに」
 うっかり、本音と建て前が逆になった。だがリッキーとか名乗った少年は、少々邪険にされた程度ではひるみもしない。こういう――なんていうのだろう……ナンパ?――行為にずいぶん手慣れているようだ。他にやることなかったのか、情けない、とカジュは思う。こっちが恥ずかしくなってくる。ホラ見ろ、リッキーの隣にいる女の子だって、恥ずかしげに顔を伏せて身をもじもじさせているではないか。
「ねえ知ってる? ニ号館は通称“ワンフォース”っていうんだと」
 ぴくり、とカジュの耳が動いた。
「240人の入学生が、卒業時には60人に減るんだって」
「ふうん……」
 ――それで1/4(ワンフォース)
 これでようやく、腑に落ちた。ワンフォース。ここはただの学校ではない。校長が言うところの“我が社の幹部”、コープスマンが言うところの“立派な企業戦士”を、星の数ほどいる天才児の中からさらに選別するための施設なのだ。コープスマンは、学園生活だなんて、すっとぼけたことを言っていたが。今さらそんなヌルい扱いを受けるなんてどうしたことか、と不思議だったのだ。
 望むところだった。選別、試験、好きにすればよい。どんな試験であろうと勝ち残るだけの能力と自信を、カジュは既に持っている。
 と、一人で優越感に浸っていると、それが顔に出ていたらしい。気が付けば、隣のクルスがこっちの顔をじっと見つめていた。こっち見んな、と心の中で叫ぶ。その様子が、背後のリッキーからは見つめ合っているようにでも見えたのだろうか。
「え、そいつ、彼氏?」
 ――ありえませんが何か!?
 思わず叫びそうになるが、まだ講話中であることを思い出して自制する。
 そのとき、背筋の凍るような言葉が校長の口をついて出た。
「えー、諸君。張り出された座席表の通りに座っていますね? では、隣の生徒を見なさい。
 それが君のパートナーです」
 ……………。
 ――うそっ!?
 カジュは弾かれたように隣を見た。クルスが相も変わらず、身動きもせずにこっちを見ている。校長の残酷な説明は続く。
「これから一年、君たちは全ての講義、全ての実習、全ての試験をそのパートナーと一緒に受けてもらいます。年度途中でのパートナー交代は一切認められないし、いずれかの脱落はもう一方の脱落をも意味する。
 つまり――君たちは二人で一人。一蓮托生、協力しあわねばならないのです」
 ざわめきが大講堂一杯に広がった。カジュはといえば、あまりのことに、馬鹿みたいにぽかんと口を開け、珍しく丸々と目を見開いて、隣のクルスを、唐突に与えられたパートナーを眺めるばかりだった――パートナー!
 にこりと微笑む校長の顔は、生徒たちの反応を見て満足そのものであった。
「頑張ってくださいね。では、よき学園生活を!」

 校長の言葉が皮肉にしか聞こえないカジュにとって、今の状況は苦痛でしかない。
 それからというもの、クルスはどこに行くにもカジュに付きまとった。講義も実習も、食事でさえもだ。もちろんそれは、やむを得ないことではあった。クルスをパートナーとすることは、それ自体が学校から与えられた課題だ。従わないわけにはいかない。命令には従う。言うまでもなく、カジュは今までそうやって生きてきた。たいがいの無理難題はこなしてきた身の上だ。
 問題は、このクルスという少年が、途方もなく無能で怠惰でちゃらんぽらんだったことである。
 クルスはしばしば、授業をサボろうとした……というより、開始時間を忘れて遊びほうけた。遊ぶと言っても、外の草むらや木の下に、ぼんやりと立つかしゃがみ込むかして、虫や草を見つめているだけ。一体何が楽しいのやら、全く得体が知れない。カジュは彼の姿が見えないことに気付くたび、大慌てで学園中を駆け回り、彼を見つけ、首根っこを引っ掴んで教室へ引きずっていかねばならなかった。どうしようもなく時間が差し迫っていて、こっそり魔術を用いて捜索したこともある。
 その上、教室でのクルスは、たいてい黒板を虚ろに眺めているか、カジュの横顔をじっと見ているかのどちらか。あれで講義が耳に入っているのかいないのか。ノートを取っている姿を見たこともない。実際、聞いちゃいなかったのだろう。先生に質問されても、彼の答えは決まって見当外れだった。やがてカジュは、彼が当てられると、大慌てでノートに正解をメモして、そっと彼の前に差し出す習慣を身につけた。おかげでクルスも優等生扱い。カジュと並んで。
 何よりひどかったのは実習の時である。魔法陣を書くための砂、石盤とチョーク、補助のために支給された杖や封霊器、実験用の多種多様な硝子器を、いつも物珍しそうに手の中で弄ぶだけ。ひっくり返し、覗き込み、触り、時には舐め、まるで赤ん坊のように物に興味を示す。だが実習の準備や手順を進めることは一切出来ない。たぶん予習もしてきてない。というよりむしろ、そうした器具を見るのも触るのも存在を知るのも、これが初めてに違いない。
 何たる素人!! 今までの7年間何をやってきたのか! 7歳にもなれば、魔導書の百や二百は読んでいるのが普通だろうに!
 風月、地月。春が過ぎ去る。戦月。美月。夏がやってきた。カジュは溜息を吐くことが多くなった。
 このままではダメだ。なんとかしなければならなかった。卒業時、3/4の方に入るわけにはいかなかった。
 ならばやるしかない。パートナーが役立たずなら、自分一人でなんとかするのだ。
 カジュは努力に努力を重ねた。勉強に勉強を重ねた。自由時間を削り、睡眠時間を削り、食事の時間さえ切りつめて、体力の続く限り頑張った。
 それなのに。
 ああ、それなのに――

 転機が訪れたのは、美月の末、第二次中間試験の結果発表のときのことだった。
 廊下に張り出された順位表……120組240人分の成績が、上から順にずらりと並んだ大きな貼り紙。生徒達はそこに群がり、競って自分の順位を確認していた。人垣の中からは大いなる悲鳴が、そしてごく希な歓声が聞こえてくる。カジュは人々を掻き分けて前に出ると、恐る恐る、自分と……クルスの名前を探した。
 第104位。全120組中。
 セカイが消え去った。
 カジュは人混みの中からはじき出され、ふらつきながら、やっとのことで廊下の窓際までたどり着くと、糸の切れた人形のように床にへたりこんだ。茫然。未体験の低評価。カジュはずっと頂点を走ってきた。どんなグループに放り込まれても、その中で常に他を圧倒して生きてきた。なのに今――
 順位が三桁だと。
 上から数えて86.7%だと。
「……死ねばいいのに」
 ぽつりと、本音を漏らした、ちょうどその時だった。
「いよっしゃあああああああっ!」
 癇に障る脳天気な声が聞こえてきた。ぱたぱたと足音が近寄ってくる。見るまでもない、明らかにリッキー・パルメットだ。カジュは体に残った気力を振り絞って、杖にすがりつくようにして立ち上がった。いかにショックを受けようと、あんな奴に弱みを見せるつもりはなかった。
「よおっ、カジュ! 見て見てオレ! 9位ィ〜ッ! トップテン入りィ〜ッ!」
 百兆歩譲って自分の成績が悪かったのはいいとして、こいつに負けてると思うと納得がいかない。空気も読まずハイテンションなリッキーを睨む。彼は隣で身をすくめていた女の子の肩を、がしっと力強く抱き寄せた。おかげでますます女の子が恥ずかしげにうつむき、体を小さくしてしまう。
「オレたち頑張ったもんな! なっ、ロータス!」
「あう、あ……え……んっ……」
 ロータス、とはこの女の子の名前だ。入学式のとき、リッキーの隣に座ってもじもじしていた、あの気の弱い子だ。まともに喋ってるのを聞いたことさえほとんど無いが、魔術の才能はなかなかのものがあり、カジュも一目置いている。リッキーにはもったいないパートナーである。
「やっぱ努力すりゃ成果ってのは出るんだな、うんうん」
「カジュだって努力したよ!」
 思わずカジュは絶叫した。
 ここ数ヶ月の、血の滲むような努力が思い起こされた。休みたくても、遊びたくても、カジュは我慢して頑張ってきたのだ。なのにその結果がこれか? その報いがこれか? この学校の誰よりも豊富な知識と高い計算力と正確な技術を持っている自信があるのに。なのにどうして結果が出ない!?
 情けなくて、悔しくて、涙が溢れそうになる。泣かずに済んだのは、ただ、意地の為せる技。泣いてどうなる、涙を見せて何が変わる。自分を戒める強靱な意志が、挫折という名の最後の一線を越えることを、カジュに許さなかった。
 だがリッキーは……あの腹立たしい軽薄な男は、さも当然のように、不思議そうに、こう言った。
「いや、お前努力してねえじゃん」
 ――何?
「あ、いや、勉強は頑張ってるけどさ。すげーと思うけど……オレらだって、ここに集められた以上、それなりに天才児なんだぜ? 2対1じゃ勝ち目ねーだろ?」
 カジュは後ずさった。
 代わりに一歩踏み出したのは、さっきまでリッキーの隣でもじもじしていた、あのロータスであった。
「あっ、あの……クルスくん……待ってる、と思……から、あの……」
 カジュは、逃げた。
 小さな脚をぱたつかせて、必死に廊下を走って逃げた。分かっていた。本当は分かっていた。だからリッキーにああ言われても、何も言い返せず、受け入れてしまう。自分のやり方が間違っていることくらい分かっていた――だって、カジュは、天才だ。
 本当は。
 本当は、怖くて。
 カジュは走りながら指先で魔法陣を構築する。
 《広域探査》。発見まで32ミリ秒。楽勝だ。

 カジュが息を切らせて辿り着いたとき、クルスはいつものように校庭の草むらにしゃがみ込み、じっと花を見つめていた。カジュはしばらく彼の背中を見つめて立ち尽くし、息が整うのを待った――いや、実際には、声を掛けづらくて躊躇っていただけか。
 やがて覚悟を決めると、カジュは彼の背に声を掛けた。
「クルス」
「いいところに。ねえカジュ、今、精霊飛蝗(ショウリョウバッタ)がおんぶして……。」
 クルスは立ち上がった。あの虚ろな目を、類い希な美貌をこちらへ向けた。もうカジュは慣れていた。彼に見られても、身をすくめることもなければ、悲鳴を挙げて逃げ出すこともなかった。
 彼がこちらへ腕を伸ばした。手のひらに乗っていたオンブバッタが、ぴょんと跳んでカジュの服にしがみついた。黒いビーズ玉みたいな目が四つ、カジュをじっと見上げている。細いススキの穂みたいな触角が、それぞれゆっくりと8の字を描いている。カジュは優しく手のひらでバッタを包み、服から引き離すと、草むらに放ってやった。バッタは草むらの緑に溶けて、自分の世界へ帰って行く。
 初めて会ったときとは違う。物怖じしている暇などない。カジュにはやらねばならないことがある。
「今日、放課後、カジュの部屋に来て」
「なんで。」
「勉強。教えたげる」
「え。」
 クルスが、珍しく表情を変えた。
 初めは、驚き。そしてやがて、微笑み。嬉しそうな、本当に心躍る何かに出会ったような、そんな笑顔。カジュは心臓が爆発しそうになるのを感じていた。見たことがなかった。これまで7年の人生で、誰もこんな笑顔をカジュに向けたことは無かった。笑顔というのは人間関係を円滑にするための道具だ。それが常識だ。
 違うのだ。クルスは、そうではないのだ。
 そしてこの笑顔を誘発したのが、他でもない、カジュ自身であるという事実が、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。その事実が何を意味するかも、なぜ自分がそんなことに衝撃を受けているかも、カジュは気付いてはいなかったが。
「必ず行くよ。ありがとう、ボクのために。」
 腹の底から怒りが爆発して、カジュは頭の天辺まで真っ赤になった。
「お前がヘボいとカジュが困るんだよ! ばかッ!」
 まるで《火焔球》の術のように、怒りの形相で、肩肘張って、がに股に去っていくカジュ。その背中が見えなくなるまで、あるいは見えなくなった後も、クルスはじっと見つめていた。初めてあったときとそっくり同じ。
 同じに見えて、ちょっとだけ、違う。

 こうしてカジュとクルスの奇妙な師弟関係が始まったが、カジュを驚かせたのは、彼が思いの外できのいい弟子であることだった。カジュが手ずから教える知識や技術を吸収することは、まるで水を吸うスポンジのよう。
 半月で三つの言語をあらかたマスターした。さらに半月で基礎的な魔術式を残らず把握した。計算力こそかなり劣るものの、呪文の文法構造と単語の活用から神への敬意度を計算する、恐ろしく複雑な偏微分方程式も理解した。これは非常に重要なことだ――強力な術になればなるほど、神への敬意度を間違った際の反動が大きくなる。僅かな活用形のミスで、一体どれほどの一流術士が命を落としたことだろう。
 何より恐ろしかったのは、実際に呪文を構築する際、クルスがしばしば文法的ミスを犯すことであった。立ち会っているカジュのほうがぎょっとする。反動を消すために、慌てて防御の術を構築したことも、一度や二度ではない。だというのに彼は一切動揺を見せず、アドリブで後半の文法や単語を組み替え、呪文を唱え終わった時には、敬意度の誤差を有効数字5桁以内に抑えてしまう。これはほとんど神業である――にもかかわらず、
「一体どうやって計算したの?」
「なんとなく。」
 これだから、カジュはもう舌を巻くしかない。
 つまり彼は、ハナから計算などしちゃいないのだ。魔術式も、エギロカーン方程式も、全部腹の底から理解している。計算などするまでもなく正しい答えを導き出せるほどに。人が意識せずとも息を吸って吐けるように。鳥が何も考えずとも空を飛べるように。
 本物の天才、というものに、カジュは初めて出会ったのだった。
 解せないのは、これほどの才能を持った奴が、なぜ今まで燻っていたかということだ。ある日、勉強の合間にカジュは直接問いただしてみた。
「ねえ。今まで勉強してなかったの?」
「してたよ。でも、どうでもよかった。」
「どうでもよくないでしょ。カジュたちは企業に生かされてんだよ。成績悪かったら処分されちゃうんだよ?」
「どうでもいいなあ。」
「変な奴」
 クルスは笑った。彼は最近、よく笑うようになっていた。カジュは溜息を吐くことが少なくなった。彼の笑顔に、いちいち動揺することもなくなった。しかし、
「でも今は、勉強が好きだよ。」
「なんで?」
「カジュが教えてくれるから。」
 さすがにこれには参った。カジュが背嚢(ランドセル)でクルスの頭を激しく殴打し、逃げるように部屋を立ち去ったのは言うまでもあるまい。
 いずれにせよ、クルスはめきめきと力をつけていった。二人の評価も、最悪の状態から、徐々に高まっていったのである。

「LNの調子はどうです?」
 校長室のソファにどっかりと背中を預け、にこにこ笑顔を貼り付けたまま、コープスマンが訊ねた。向かいの校長が茶を啜る。彼もまた、能面のような笑顔を相手に向けている。立派な企業戦士(オトナ)たちの対峙であった。
「さすがにジブリール・タイプは優秀ですね。噂になるだけのことはあります」
「とはいえ、アレは魔王軍の技術を組み込んだ第一世代、いわば実験モデルに近いものですから。ま、使えるものは使っとけ、てなもんでしてね」
「つまり不安定性を心配していらっしゃる?」
「そういうことです。120体のうち、一体どれだけが使い物になるやら……問題があれば、僕が技術部に伝えときますよ。きっと新型には反映されるでしょう」
 言って、ずずっ、とコープスマンは茶をすすった。
「いやあ、美味しいお茶ですなあ♪」
「山が近いでしょう? 雪解け水が湧くんですよ。今年ももうじき、一面の銀世界になります」
「羨ましい、いい環境だ。今から楽しみですよ」
「というと、火月の最終試験には立ち会われる?」
「そのつもりです。ですので」
 楽しそうに、コープスマンは言った。
「そこらへん、も少し詰めて打ち合わせましょうか」

 30組60人が消えた。
 死月の下旬。季節はすっかり冬になり、いよいよ最終試験を2ヶ月後に控えた頃のことだった。240名いた生徒の内、1/4にあたる60人が、学校から忽然と姿を消した。
 異様であった。寮の部屋には荷物一つ残っていなかった。いつ、どこへ行ったのか、見た者は誰もいなかった。先生に尋ねても曖昧に微笑むばかり。何より他の生徒たちを――カジュも含めて――戦慄させたのは、彼らが消えたのが第四次中間試験の翌日であったということ。消えた面々が、成績の下位から数えて、きっかり30組であったということ。数日後、何事も無かったかのように張り出された成績表からは、彼らの名すらも消えていたということ。
 集団脱走――などと思う生徒は一人もいなかった。
 きっとどこか他の学校か部署へ異動させられたのだ、成績に応じたどこかへ。そう思う者もいた。
 だが噂はまことしやかに流れた。
 彼らは異動させられたのさ。《死》の国へ。
 思えば、ここに至るまで、ニ号館の生徒たちは考えた事もなかったのだ。1/4(ワンフォース)は分かる。選別された彼らは優遇され、企業の将来を担うのだろう。では、残る3/4は? 無能と断じられた人々は――何処へ?
 寮の部屋で、いつもの勉強机に齧り付き、しかしカジュの勉強は全く進んでいなかった。冬服を着込んで、雪うさぎのようにもこもこと膨らんでいるにもかかわらず、体の震えが止まらなかった。恐怖。それもまた、カジュにとっては初めての感情。
 そこへクルスがやってきた。いつもの、何も感じていないかのような無表情で。
「勉強、しよ。」
「うん……」
 カジュは生返事を返したが、手はペン一つ握れなかったし、魔導書のページ一つめくれなかった。
「どうしたの。」
「知ってるでしょ? 同級生が消えたんだよ」
「処分されたんだね。」
 ぞっとして、カジュは彼の顔を見た。彼の表情には、恐れも憐憫も同情も、何も浮かんではいなかった。どうでもいい。いつか彼自身がそう言った。今は、虚ろな目の光が、平坦な眉が、整いすぎた顔が、はっきりとそう告げていた。言葉はなくとも。
「何とも思わないの?」
「思ったより早かったと思ったよ。最終試験でまとめて削るんだとばかり。」
「え……」
「キミたちにプレッシャーをかけるつもりなんだと思う。」
「そうじゃなくて! 怖くないの!? カジュたちだって……!」
 椅子を蹴って立ち上がり、カジュはクルスに食ってかかった。苛立ちと恐怖を八つ当たり気味にぶつけてしまっているのは分かっていた。しかし、そうでもしなければ、どうにかなってしまいそうだった。怖くて、胸が苦しくて――
 だがクルスは、落ち着いて、優しく、カジュを抱きしめた。
 突然のことに、カジュは驚きすら覚えられないほど驚いた。嫌がるとか、突き飛ばすとか、そういうそぶりを見せることさえ忘れて、ただ彼のからだの暖かさがありがたくて、抱かれるままに彼の胸に耳を擦り寄せた。
「大丈夫。怖くなんかないよ。」
「カジュは怖いよ……」
「怖くないよ。だって、どうせすぐ死ぬもの。」
 カジュは、彼の胸を突き飛ばすようにして、彼から離れた。
「なんだそれ?」
「誰にだって《死》は訪れる。《死》は怖いお方ではないよ。
 死ぬまでの僅かな時間で、自分のやりたいことを成し遂げられたら、それでいい。ボクはそう思う。」
「そんな理屈で怖くなくなったら苦労しないよ!」
 ときめいて損した。カジュはどっかりと椅子に腰を下ろした。こんな奴に心を許してしまった自分に腹が立つ。腹が立つと、なんだか無性に勉強したくなってきた。要するに、勝てばいいのだ。1/4(ワンフォース)に残れば、何も心配なんて必要ないのだから。
「ほら、座って! さっさと始めるよ!」
「うん。今日は修辞的疑問文の係数計算を復習したいな。」
「おっけ。カジュも気になってたとこ」
 しばらくの間、部屋の中はペンを走らせる小気味よい音と、二人の息づかい、そして時折交わされる議論の声だけに満たされた。たっぷり夕暮れまで勉強を進めて、疲れ果てた二人は小休止をとった。
 その時、ふとカジュの頭に疑問が浮かんだ。さっきの話で、どうしても一つ、心に引っかかることがあったのだ。
「ねえ」
「なに。」
「クルスはさ、やりたいことって、あるの?」
「あるよ。」
「何?」
「ひみつ。」
 思いっきりジト目で睨んでやった。クルスは気にしてもいない。軽く微笑んだだけだ。
「そういうカジュは、何がやりたいの。」
「え? えーっと、それは」
 沈黙。
 天井を見上げ、腕を組み、考えふける。
 その答えもでないまま、外では、降り始めた雪がセカイを真っ白に染め始めていた。

 それから一ヶ月余り。年が明け、空月も半ばを過ぎた。生徒消失事件について口に上ることもなくなった。忘れられたわけではない。仮説が一通り出そろい、決定的証拠の不足から結論を出せないことが明らかとなり、議論の価値がなくなっただけの話だ。
 あの事件の記憶そのものは、あらゆる生徒の心に楔となって差し込まれていたことだろう。誰だって、処分なんてされたくないのだ。
 そんな折、新たな事件が起きた。
 リッキー・パルメットが消えた。
 午前の授業にリッキーが出席していないことが、ちょっとした騒ぎになった。先生たちが騒ぎを静め、他の生徒が授業を受けている間、水面下で彼の捜索をしていたようだった。だがその甲斐もなく、昼休みになっても彼の姿は学園のどこにも見当たらなかった。昼食を手早く済ませたカジュとクルスは、自分たちでもリッキーを探してみようと、校舎の中をうろつき回った。
 その途中、廊下の角を曲がりかけたところで、出くわしたのだ。その場面に。
 職員室前で、壁に手を突き、今にも倒れそうになりながら、ロータスが必死に何事かを先生に訴えていた。彼女の顔面は蒼白だった。体調を崩している――それもかなり深刻に――のは、誰の目にも明らかだった。
 何も考えずそちらに近づこうとするカジュの腕を、クルスが引っぱった。二人は曲がり角の手前に身を隠し、密かに話を盗み聞いた。
「リッキーは……わ、わた、わたしを……助けようと、モノモ草を……山に……!」
 モノモ草。薬草の一種である。かなり標高の高い山にしか生えない多年草で、その葉や実には生命の魔力が満ちている。昔から万病に効く薬とされてきたが、今では似たような成分が合成できるようになり、少なくとも企業では使われていない。
 つまるところ、ロータスが病気になり、それを治すべくリッキーは山に入ったのか。それも、この真冬の雪山に! カジュは窓の外を見た。朝から降り出した雪は吹雪の様相を呈し始めていた。案の定、遭難してしまったというわけだ。あのあほう。
 それにしても、医務室に行けばちゃんとした治療が受けられるだろうに。なんでわざわざ、雪山に薬草取りなんか行くのやら。
「……なるほどね。」
 だが、隣のクルスは納得したようだった。カジュには、彼の得心のわけがよく分からなかった。
 その時、黙ってロータスの話を聞いていた先生の声が、こちらに漏れ聞こえてきた。
「残念だが、この吹雪では捜索隊は出せない。二次遭難の危険のほうが高い。リッキー・パルメット君のことは諦めると、職員会議で結論が出た」
「そんな……! あの……!」
 先生はすがりつくロータスを振り払い、冷たく職員室に入っていった。ぴしゃりと戸が閉められた。ロータスは力尽き、その場にくずおれた。慌ててカジュたちが駆けよる。彼女を抱き起こそうと体に触れると、その肌は火のように熱い。
「……これ、やばくね?」
「限界なんだ。」
「は?」
「技術部がいい加減な仕事をしてる……。彼女の部屋に運ぼう。」
「それより医務室でしょ?」
「無駄だよ。診てくれないから。」
 クルスは無言でロータスの脇に腕を通した。彼に促され、カジュも反対方向から同様にする。二人力を合わせてロータスを担ぎ上げ、廊下をゆっくりと歩き出す。歩きながら、ぽつりとクルスは呟いた。
「助けに行こう。」
 ふんっ、とカジュは鼻息吹いた。
「あったりまえだよ」

 意識を失ったロータスを部屋に寝かせ、二人は二号館の屋上へ飛び出した。吹雪二人の前に立ちはだかる。だからどうした。
 カジュは杖を天に掲げ、指先で魔法陣を描き、圧縮呪文を口にする。最速最精密の呪文構築。完成まで僅か1秒。
「《広域探査》……ビンゴ!」
 人など他にいるはずもない雪山だ。リッキーの居場所を探り当てるなど造作もない。それは確かにそうなのだが、横のクルスが微笑むのを見ると、なんだか腹が立ってくる。誰のお陰で、こんなに探査系の術が得意になったと思ってるのだ。
 そのうえ、まるでこっちの考えを読んでいるかのようにクルスが言う。
「サボってるボクを探すのに比べたら楽勝だよね。」
「自分でゆうな」
 と、彼がいきなり、カジュを後ろから抱きしめた。吐血するかと思った。
「うへおあぁ!? なにっ!?」
「大丈夫、ボクに任せて。」
 クルスが早口に呪文を唱えた。《風の翼》だ。クルスの術が発動し、二人の体は空に舞った。雪に阻まれ視界も定かならぬ冬の空へ。こんな状態で飛んだら顔中雪だらけになってしまうかと思ったが、不思議なことに、雪は彼らの体に当たる直前に、見えない壁にぶつかって蹴散らされていく。
 どうやら彼の術にはアレンジが入っていて、体の周囲を結界で包んでいるらしい。いつのまにこんな術を組み立てたのやら――というより、よもや、今即興で考えたアレンジではあるまいな。なにしろアドリブ好きで無計画な男なものだから。
 ともかくこれで、雪山までひとっ飛びだ。視界がホワイトアウトしようが関係ない。カジュが術でリッキーの居場所を探知し続け、クルスをナビゲートすれば済むこと。カジュは真っ白な空の一点を指さし、
「あっち!」
「分かった。」
 背筋がぞわぞわした。
「うひっ! ちょっと、喋らないでくれる?」
「なんで。」
「息が変なとこあたる……」
「変なとこって。」
「だから喋るな! 分かってやってんでしょ!」
 やいのやいのと騒ぎながら、二人の姿は吹雪の中へ消えていった。

 ほどなくして、リッキーは山頂付近の崖下で見つかった。
 岩場に倒れ、体の半分ばかりを雪で覆われた状態で――危険な状態なのは一目で分かった。二人は慎重に舞い降りると、リッキーの側に駆けよって彼の体を揺すった。耳元で声を張り上げる。うっすらと、リッキーがまぶたを開いた。
「カジュ……クルスもか……」
 意識はあるようだ。まずは良かった。カジュはニヤリと笑って、
「貸しだからね。後でプリン、オゴってね」
「ダメだ……オレ、もうダメだよ……」
「弱気になったら本当に終わるよ。」
 クルスの助言も、弱り切った彼には通じないようだった。リッキーは残る力を振り絞って、右手をカジュの方に差し出した。手にはしなびた草が握られている。ギザギザの葉、裏に生えた短い毛、間違いなくモノモ草だ。
「頼む……これ、ロータスに……」
「嫌だね。生き残って、自分で渡しなよ」
「はは……きっびしいなあ、お前……」
 とは言ったものの、どうしたものか。空模様は酷くなる一方。吹雪は今や嵐の様相を呈し、自分一人ならともかく、とても他人を抱えて飛べるような状態ではない。リッキーの魔力は尽きかけているし、ここで夜を明かすのも危険。となれば。
 カジュはクルスに目を向けた。
「《瞬間移動》で校舎に送ろう。そのあとカジュたちは《風の翼》で帰ればいい」
「手伝うよ。」
「うん」
 二人は指を走らせ、リッキーの体を中心にして魔法陣を描き始めた。青白いカジュの魔力光と、赤いクルスの魔力光が、絡まり合って一つの紋様を紡いでいく。《瞬間移動》は大技だ。ここから校舎まで人間一人を転送するとなると、一人では気絶ギリギリまで魔力を消費して、なんとかいけるかどうか、というところ。それでも2人がかりでなら遥かに楽に術を構築できる。
 やがて魔法陣は完成した。あとは術を発動するだけ。
 だが、その瞬間。
 カジュたちの頭上で、低い獣の唸りのような音が響き渡った。
 見上げれば、山が――山肌が落ちてくる。
 雪崩である。
 術は発動直前。今、主術者のカジュが持ち場を離れれば何が起きるか分からない。クルスは反射的に陣を離れ、カジュを庇うように立ちはだかった。その一瞬、言葉一つ、目配せ一つなくとも、二人は完全に意志を共有した。カジュは《瞬間移動》を完成させる。そして雪崩は、クルスが防ぐ。
 雪の怒濤が二人に迫る。それが小さな子供達を飲み込む直前、クルスの術が発動した。
「《石の壁》。」
 ずどんっ!
 地面から巨大な石壁が天高くつきだした。だがこの程度で雪崩の勢いは防げない。そこへさらに次の術。
「《凍れる刻》っ。」
 一定範囲の時間を停止させる大技。対象は、いま立てたばかりの《石の壁》。
 時間停止した物体は、術の効果時間が切れるか解除されるかするまで、一切動けなくなる。本来は対象の動きを封じるための術である。だが一切動けないということは、一切動かされないということでもある。自然の脅威の前には紙切れ一枚に等しい《石の壁》も、《凍れる刻》を重ねがけすれば、何物にも崩せない完全無欠の盾となる。
 雪崩が壁に激突し、白い飛沫を上げて弾け飛んだ。

 ほどなくして、雪崩の音が完全に収まり、あたりを包んでいた白い粉雪が晴れてきた。どうやら助かったようだ。とはいえ、すぐにこの場を離れねばならない。《凍れる刻》の持続時間は短い。もはや効果は切れている。彼らを守ってくれた《石の壁》が、いつ、積み重なった雪の圧力に耐えかねて崩れ落ちるか、分かったものではない。
 クルスはカジュの方に目を遣り、目を見開いて、彼女に駆けよった。
 リッキーの姿はもはやない。《瞬間移動》は成功したようだ。
 だがカジュは、雪の中に力なく倒れ、身動き一つしていなかった。
 跪き、脈を取り、呼吸を測る。生きている。だが呼吸は浅く、脈は遅く、体温が急速に失われていっている。
 明らかに、魔力枯渇の症状であった。

 優しい温もりに包まれてカジュは目覚めた。
 体が重い。指一本持ち上がらない。ああ、色々尽きてるな、とカジュは察した。回らない頭を無理に回して、意識を失う前に起きたことを思い起こした。そう。リッキーを助けた。その仕事は完璧にやり遂げた。楽勝だ。だが、途中でクルスが儀式を抜けて、雪崩を防ぐ方に回ってしまったために、魔力の負担はカジュ一人に集中することになって――
 クルス。
 クルスは、すぐ側にいた。
 膝を抱えて、カジュをじっと見つめたまま、座り込んでいた。
 あたりは洞窟のようだった。いや、違う。自然洞窟にしては不自然に壁面がなだらかだ。おそらく《暗き隧道》の術で人工的な洞穴を造り、その中に逃げ込んだのだ。
「カジュ、大丈夫かい。」
「生きてるよ……多分ね」
「ごめん。ボクが途中で抜けたから。」
「何言ってんの。助けてくれたんじゃんか」
 一言声を出すごとに、疲れが鉄の塊となってのし掛かってくるようだ。体が重い。胸が重い。肺と心臓が、徐々に働くのを嫌がりだしたのが分かる。不思議な暗いもの、ずっとどこかにわだかまっていたものが、気力を無くした心の空洞に吹き出してくるようだった。
「カジュ、死ぬのかなあ……?」
 クルスは何も言わない。
「死んじゃったら、言えないから、いまのうちに言っとくね。ありがと。カジュ、今まで誰かと一緒に勉強とか、したことなかったから……楽しかったよ」
 あるいは、何も――
「もっと、一緒に、したかったなあ……」
「ねえ、カジュ。」
 クルスは微笑みながら言った。カジュは気付いた。彼の微笑みの奥に、身を引き裂かれそうなほどの懊悩があることを。悩み、苦しみ、その末にようやく下した決断があることを。
「いつか訊いてたよね。ボクのやりたいこと。」
「うん……」
「見せてあげる。」
 言って、クルスは、懐から取り出したナイフの先端で、人差し指の腹を裂いた。
 血が、泉のように湧き出した。
 緑色に淡く輝く異形の血が。
「うそっ……それ……」
 見覚えがあった。淡緑色の溶液。生命の魔力に満たされ、呼気を、栄養を、媒介するもの。かつてカジュは何度となくそれを浴びた。飲んだこともある。学園に来る前、巨大な試験管の中で毎日のように体を調べられていた頃、カジュの体を常に包んでいたあの生ぬるい溶液だ。
 魔力溶媒。モノモ草と同じ成分を持つ、人工的に合成された物質。
 そんなものを血液の代わりに循環させているものが、ただの人間であるわけがない。
「“小さき者共(ホムンクルス)”……!」
「そう……ボクらは造られたもの。キミたちのパートナー――いや、課題となるために。」
「え……」
「二号館に所属する240名のうち、本物の生徒は半数だけだ。半数はホムンクルス。生徒には一人に一体ずつ“パートナー”の名目でボクらが与えられる。ボクらといかに協力するか、ボクらをいかに利用するか、ボクらをいかに成長させるか。それがキミたちに課せられた秘密課題の一つだったんだよ。」
 クルスは苦笑した。今まで見せたことのない表情だった。
 初めて見た。彼がこんなに、怖がっているところを。
「ごめん。キミを騙して、友達面をしていた……。」
「ばーか」
 思いっきり。
 全力で。渾身の力を籠めて。もうこれで死んでもいいってくらい命も魔力も体力も気力も振り絞って。
 カジュはクルスを睨んでやった。
「キミはカジュの友達だよ」
 それっきり、クルスの懊悩は雲散霧消してしまった。もはや二度と、彼の恐れを見ることはあるまい。クルスはもう迷わなかった。緑色の溶液に濡れた指を、そっと、カジュの口許へと差し出した。
「ボクの命を君にあげる。」
 ほんの少しだけ、カジュはためらい、やがて恐る恐る、彼女は舌を伸ばした。舌先でくすぐるように、彼の指をなぞった。微かな痛みが電流のようにクルスの背筋を震わせた。溶液がたどたどしい舌の動きに導かれて、カジュの喉へ、彼女の中へと伝い落ちていった。やがて言いようもない歓びが二人を突き動かした。カジュは口いっぱいに彼の指を含み、狂ったように舐めしゃぶった。他には何も要らない。この瞬間、必要なのはこれだけだ。絡み合う舌と指、とめどなく溢れ出る溶液と唾液、二人は混ざり合い、一つとなり、夜の帳の奥底で、誰も知らない秘密の場所で、その行為は尽くことなく繰り返された――
 一夜は時として、生涯全てにすら匹敵する。
 何も知らない子供同士とはいえ、愛だけは知っていた。

 その翌朝、天候が回復するのを待って、二人は《風の翼》で二号館へ帰還した。空から舞い降りる二人をいち早く発見したのは、医務室で手当を受けていたリッキーだった。彼は散々にわめき立て、医務室職員に抱えられるようにして校庭へ出てきた。モノモ草の甲斐あってか、自分で歩けるまでに回復したロータスも一緒であった。
 彼らは抱き合って無事を喜んだ。特にリッキーの感謝たるや並大抵のものではなかった。ほとんどカジュにすがりつくようにして泣きじゃくった。自分が助かったのが嬉しいのか。あるいは、ロータスが助かったのが嬉しいのか。
 ロータス。彼女もまた、クルスと同じホムンクルスなのだ。ゆえに医務室では彼女を診てもくれなかった。所詮、彼女は備品に過ぎないというわけか――
 全てがまるで、悪い夢でも見ていたかのよう。
 数日の間、体力が回復するのを待って、カジュとクルスは授業に復帰した。数日の勉強の遅れなど、彼女らにとっては問題とさえも言えなかった。それより気になったのは、先生たちから、つまり企業からのお咎めが一切ないということだった。勝手に学園を抜けだし、勝手に魔術を使いまくり、処分されてもおかしくないだけの規約違反をしたはずのカジュたちを、処分、訓告はおろか、事情聴取さえしようとしなかった。
 なんとも不気味であったが、音沙汰がないものに怯えていても仕方がない。
 やがてカジュたちは日常に戻った。最終試験まで、残すところ一ヶ月半。
 カジュとクルスは一層勉学に励んだ。最近では、クルスがカジュの部屋に泊まり込みで一緒に勉強することも珍しくなくなった。時には朝まで一睡もせず、熱心に議論を交わすこともあった。結果、意見が分かれて大げんかになることも。でも決まって翌朝、二人で一緒に朝ご飯を食べていると、頭がすっと澄み切ってきて、意見の相違を解決する画期的なアイディアが浮かぶのだった。
 それでも、試験対策は万全、とは言えない。むしろ、勉強すればするほど、不安はどんどん膨らんでいく。
 これでいいのか。これで本当に充分か。怯え、無理をしそうになるカジュを、クルスはたびたび制してくれた。無理は長続きしない。長続きしなければ意味がない。クルスがいれば、カジュは冷静でいられる。子供みたいにワタワタしない。落ち着いて、目的と手段を見極められる。
 本当に、1/4(ワンフォース)に生き残れるのか。
 不安が黒い雲のように立ちこめる最後のときを、二人は支え合い、歩んだ。
 果たして最終試験の日はやってきた。その日どんな試験が課され、それにどう答えたのか、カジュはさっぱり覚えていない。たぶん、ただただ、夢中だったのだ。
 その後はただ、クルスと並んでベッドに仰向けになり、天井をじっと見つめていただけ。
 一方で、数日後、壁に張り出された最終試験の順位を見たときのことは、カジュの記憶にはっきりと焼き付いている。順位表の前には人だかりができていた。同級生の中でも背の低い方だったカジュには、背伸びをしても表の全体を見ることは適わなかった。だがそんな必要はなかったのだ。クルスが無言で指さした先は、垣根を作る同輩たちのはるか頭上。背伸びなんかしなくたって、誰にでも見える場所。
 一番上。
 喜びの余り、カジュは、奇声を上げて隣の誰かに抱きついた。人垣を作っていた生徒たちが一斉にこちらに目を向けた。抱きついた相手がクルスなのだと気付いたのは、このときだった。反射的にカジュは彼を突き飛ばした。彼は尻餅を付き、反動でカジュもまたひっくり返った。
 廊下にぺたりと座り込んだまま、クルスを見ると、彼は笑っている。
 本人さえ気付いてはいなかったが、カジュもまた、笑っていた。
 カジュにとっては初めての、見たこともない新たなセカイ。
 カジュたちは這い上がってきたのだ。学内トップの地位に。
 だがカジュはまだ幼く、人生経験が浅かったために、知るよしもなかった。トラブルというのは、往々にして、順調に行き始めた頃を狙い澄まして牙を剥くのだということを。

 そこは、真っ暗で広大な部屋だった。
 最終試験の翌日。卒業を間近に控えた時のことだった。カジュは突然、職員室に呼び出された。カジュだけがだ。クルスにひとこと言ってから行こうと思ったのに、彼は部屋にいなかった。首を傾げながら、カジュは呼び出しに応えた。
 先生の一人に連れられ、辿り着いたのは、今まで職員専用エリアとして立ち入りを許されなかった、とある小部屋であった。扉を開くと、その中には灯り一つともっていない。先生が魔法の灯りを指先に生み出した。か細く青白い光に照らされ、部屋の中の光景が浮かび上がった――何もない、床すらない、がらんとした空間。それが遥か地底へと繋がる吹き抜けで、壁には長い長い階段が螺旋状に備えられていることには、一瞬遅れて気が付いた。
 ――なにこれ。
 カジュの心中の疑問など気にも留めない。先生は靴音を響かせ、淡々と階段を下りていく。遥か深淵へ。闇の底へ。どれほどの段を踏みしめ、どれほどの時間を費やして降りただろう。下へと一歩足を踏み出すたび、心の中の不安が膨らむ。自分がどこか、辿り着いてはならない場所へ向かっているように思えて。
 それでもカジュに選択の余地はない――ただ、導かれるまま、彼女の前に造られた道を往き続けるしかない。
 不意に、背中に冷たい物が走った。弾かれたように振り返る。自分が降りてきた階段を見上げる。だがそこには何もない。自分が歩んできた螺旋の道は、もはや暗闇に閉ざされて、どこへ行ったやも分からない。
 辛うじて分かるのは、手さぐりで触れた壁の感触、靴底に触れる鋼鉄の段ひとつ、ふたつ。そして少し前を往く先導者の灯火。
 取り残されるかもしれない。言い知れない恐怖に突き動かされ、カジュは必死にその後を追う。
 やがてカジュは、そこに辿り着いた。
 そこは、真っ暗で広大な空間だった。
 案内役の先生は、カジュを残して階段を上っていってしまった。ただ一言、奥へ進むようにとだけ指示を残して。灯火は無くなった。空間は漆黒に閉ざされた。汗が額に滲んでくる。カジュの中の無意識が、何か異様な気配を感じ取り、体の自由を奪っている。それでもカジュは、恐れと不安を押し込めて、闇の奥に向かって一歩を踏み出した。固い靴音が鳴り、反響すらせず消えていく。空間があまりに広すぎて、音は響くことさえできないのだ。
「……なんなんすか?」
 たまらずカジュは声を挙げた。返事はない。
「あのー……これから何が始まるんでしょう」
 と言って、ふと気付く。
「ひょっとして……雪山の件の処分?」
「いやあ! 処分だなんてとんでもない!」
 いきなり、返答は空間の奥から聞こえてきた。弾かれたようにそちらを見つめる。と、灯りがともった。一人の男が手にランプを持ち、空間の中にぽつんと立っていた。男はゆっくりと近づいてくる。徐々に強くなるランプの光が、暗闇に慣れた目は眩しすぎる。眼を細め、カジュは男の顔を見ようとする。どこかで聞いたような声。
「あの件はね、話を聞いたとき、僕は素晴らしいと思ったんだ。思いやり深くて大変結構。いい子に育ってくれて嬉しいよ」
「あ。お久しぶりです」
 ようやく、相手が誰なのか分かった。コープスマン。この学園に来る前、カジュの上司にして保護者であった男だ。眼鏡の奥の、貼り付いたような笑顔が懐かしい。なんだかんだで、カジュにとっては親代わりだった人物である。
「元気で何より。実はねー、僕も時々様子見に来てたんだよー、気付かなかっただろうけど」
「そうだったんすか」
「でね、縁あって、君の最終二次試験の試験官を務めることになったんだ」
 カジュは眉をひそめた。
「……二次試験?」
「そ。順位表は見たろ? 君は上位60組、つまり50%以内に勝ち残った。おめでとう! そこで、君には二次試験を受ける権利が与えられたわけだ」
「なるほど……で、この試験でさらに半分に絞り込む。生き残るのは1/4(ワンフォース)、と」
「ご名答! ま、キッチリ1/4が残るって決まってるわけじゃないんだけどね。この二次試験は、人数に関係なく、こちらの出した課題をこなせた生徒だけが生き残れるんだ」
「こなせなかった生徒は?」
「ご想像に任せましょ」
 ――殺すってことだね、やっぱり。
 カジュは溜息を吐いた。覚悟はしていた。そのつもりで心の準備をしてきたのだ。クルスと一緒に積み重ねてきた勉強も、努力も、全てはこの試験を乗り越えて生き残るため。クルスだってそうだ。彼もどこかで同じ試験を受けているに違いない。
 あれほど頑張ってきたのだ。
 二人で必ず生き残るのだ。
「さて――準備は?」
「いつでも」
「では始めよう。来たまえ」
 来る?
 横手で、闇の中で蠢く何物かの気配が発生した。ぎょっとしてそちらに目を遣る。じっと目を凝らす。次第に目が慣れてきた。ランプの光を浴びて、その人物の姿が浮き上がり始めた。背が低い。カジュより少し高い程度。子供か。掴めば折れそうな細い腕、透き通るような白い肌、そして――
 全てを悟りきった諦観に満ちた、この世のものとは思えぬ美貌。
「……クルス」
「カジュくん。これが最終二次試験だ」
 コープスマンは言った。

「それを殺したまえ」

 ――なに?
「今から、それが君を攻撃する。君は自由に魔術を用いて応戦し、それを撃破するんだ。見事殺せれば合格。できなければ不合格。シンプルで分かりやすいだろう?」
「何言ってんすか! あれはクル……」
「“小さき者共(ホムンクルス)”。この試験のために特別に造られた人間型の教材だ」
 食ってかかるカジュに、コープスマンはにっこりと微笑む。
「大丈夫、人権はないよ――今のところ」
「そういう問題じゃないです!」
 カジュの言葉は、悲鳴以外の何物でもなかった。カジュは気付いていただろうか? 夢中で気付く余裕さえなかっただろうか。無表情のクルスが、僅かに、ごく僅かに、悲しそうに眼を細めたのを。
「あの子はクルスです……カジュの……大切な……」
 コープスマンは、微笑みを貼り付けたまま。
「余所見をしてていいのかね?」
 気付けば、その視線の向く先はこちらではない。
「来るよ」
 閃光。
 横手から目を貫く目映い真紅。クルスの魔力光。呪文が聞こえる。陣が見える。アレを使う気か! 読んだ瞬間カジュは動いた。体が勝手に。身を守るために。呪文、魔法陣、印、杖の補助、全て総動員して最速の、
「《光の盾》!」
「《光の矢》。」
 クルスの手から放たれた矢が文字通りの光速でカジュに迫り、一瞬早く展開された盾に吹き散らされる。光が弾け、闇を切り裂き、二人の視界は白に塗り潰された。さながらあの時、雪山目がけて寄り添い飛んだ、あの時の――
「本気なの……」
 涙に震えるカジュの問いに、
 ――もちろん、他に道はない。
 クルスの苦悶が確かに応えた。
 感傷にふける暇は――ない!
 術式構築の声がする。クルスが魔法ストックを創っている。カジュは涙を振り切った。踵を返し、懸命に走って間合いを広げた。彼の腕ならカジュが誰よりよく知っている。ストック数は最大3つ、カジュには1つ劣る。だが彼のことだ、どんな大技を創ってくるか。呪文を聞いて彼の手の内を読む。内訳は――《烈風刃》《鉄槌》、あとひとつ不明。読まれないための無音構築か!
 ならばこちらも返し技。《鉄砲風》《鉄砲風》《闇の鉄槌》《闇の鉄槌》、隠す意味も理由もない。この一手で勝負を決める。
 互いにストック完成は同時。クルスが腕を振りかざす。《烈風刃》が来る。広範囲に不可視の魔力刃を嵐の如く撒き散らす、タチの悪い大量殺戮術。術の性質上《光の盾》では防ぎづらい。よってここは、
「《鉄砲風》!」
 放たれた刃の嵐を、カジュの生み出した暴風が吹き散らそうとした、その直前。
「《凍れる刻》。」
 空中に撒き散らされた不可視の刃が、周囲の空間ごと時間停止する。
「うそっ!?」
 やられた。予想外だった。隠し球はこれか! 自分の放った攻撃の術を自ら時間停止させ、返し技を防ぐとは。《鉄砲風》は時の止まった空間にぶつかり、為す術もなくそよ風となって拡散する。カジュとクルスの間に絶対の防壁が生まれたようなもの。これでは攻撃が通らない。2発目の《鉄砲風》で転ばせ、動きを止めたところに魔力をそぎ取る《闇の鉄槌》2発重ねで気絶させようと思っていたのに。
 だが、これではクルスからの攻撃だって――
 そこでカジュは気付いた。クルスのストックはあと一つ。
「《鉄槌》。」
 巨大な鉄球を生み出し、大砲のように射出する術。この術なら攻撃可能。
 曲射。
 クルスは生み出した鉄球を、斜め上方へ射出した。鉄球は弓なりに弧を描き、時間停止した空間を飛び越えてカジュに迫る。この手があったか! カジュの背筋に悪寒が走る。《鉄砲風》では《鉄槌》の質量は防げない。なんとか走って逃げるしかない。仮に避けられてもそろそろ《凍れる刻》の効果が切れる――《烈風刃》が解き放たれて再びカジュに襲いかかる。
 手詰まりだ。カジュの思惑は瓦解した。完全にクルスのペース。
 そう悟るが早いか、カジュは迷わず魔法ストックを全て破棄した。ストックを保ったままでは新たな術が構築できない。こだわっていては死ぬだけだ。フリーになったカジュの精神が最高速で術を構築する。
「《瞬間移動》!」
 儀式無し、大型陣なし、助手なしの急あつらえ。それでも大技は難なく発動し、カジュの姿は掻き消えた。一瞬遅れて《鉄槌》が落着。《烈風刃》が吹き荒れる。一瞬判断が遅れていれば自分がいるはずだったその死地を、10mばかりずれた場所に出現したカジュは歯噛みして見つめる。
 互いにストックを使い果たし、カジュとクルスは対峙する。
 単なる仕切り直しに見えて、実態は大差がついている。クルスは自分の居場所から一歩も動かず、魔力の消費も最小限。一方のカジュは3つものストックを無駄にされたうえ、即席の大技で魔力の消耗著しい。ただ一人、肩で息をしながら、カジュは彼を睨んだ――見つめた。表情のない仮面のようなクルスの顔が、どうして今も、あのときと同じに見えるのだろう。
「カジュくん!」
 遠くからコープスマンの声が聞こえる。二人の戦いに巻き込まれぬよう、いつの間にか安全な場所まで避難したのだ。
「全力でやりたまえ! 彼を殺すんだ!」
「嫌です……」
「彼を殺せば君には特権が約束される。夢のような幸福が待っているんだよ!」
「やめてください……」
「なら君が死ぬか? 僕ぁそうなって欲しくないんだよ!」
「いいからちょっと黙っててよ!!」
 カジュは叫んだ。たまらなくなって。
 もう何も見たくなかった。カジュは目を閉じ、顔を俯かせ、この世の全てを拒絶して、見えるもの全てを闇の中に葬り去った。なのに耳は、肌は、クルスの息づかいとクルスの温もりを感じ取る。なのに記憶は、唇は、彼の笑顔と彼の感触を思い出す。クルスは強い。強くなった。カジュと一緒に強くなった。呪文の編み方も、ストックの組み方も、全部カジュが教えたのだ。カジュと共に学んだのだ。殺さず勝つなんてできない。殺すなんてできない。どうすることもできない! もうここから一歩も動けない!
「なんでこんなことしなきゃいけないんだよおおぉおぉぉぉおっ!!」
 反響すらなく。
 叫びは暗闇に呑まれて消える。
 カジュは跪いた。
 もういい、と思った。
 このまま、この隙に、殺されるなら――
 ――投げ出さないで。
 聞こえる――クルスの声。
 ――ボクは初めから分かっていた。知ってたんだ、試験の内容を。
 ――どのみちホムンクルスは長く生きられない。
 ――制限時間が過ぎれば魔力が尽きる。ロータスのように。
 ――限られた命の中で、ボクは探し続けた。
 ――そして見つけたんだ。キミを。
 カジュは、泣いていた。
 いつの間にか、泣いていた。
 涙なんて、どこか遠いセカイの出来事だと思っていた。実感できない無機質なセカイの出来事だと思っていた。セカイの中に包まれながら、カジュはそこには居なかった。今もなお。悲しいって人はどこかにいるんだろう。好きって人もどこかにいるんだろう。でもそれらは全てガラスの向こう。生ぬるい溶液の中から睥睨したおぼろげなセカイの他人事。
 ようやく今、カジュは初めて、涙を流した。
 ――ありがとう。今まで本当に幸せだった。
 ――だから――
 クルスの指先から、赤い魔力光が迸る。
 淡い溶液。緑の溶液。彼がヒトではないしるし。
 それが何だって言うんだ。
 指から滴る真紅の魔力は、まるで――
 ――ボクの命をキミにあげる。
 クルスは、最期にそう言った。
 完成した赤い魔法陣。術が湧き出す。殺意なき刃が吹き出す。三つの攻撃が編み出され、牙となり、爪となって、カジュに躍りかかる。カジュは立った。涙はなかった。呪文を唱えもしない。魔法陣を描きもしない。杖はだらりと垂れ下がり、働くそぶりさえ見せはしない。
 なぜなら、そんなの必要ない。
 必要なのはただ一つ。魂の奥底から引きずり出された、身がされそうな程の――
 絶叫。
 瞬間、発動した4つの術が、セカイの全てを薙ぎ払った。

 術の残滓が暗闇に溶け。
 へたりこんだカジュの前には、黒い消し炭だけが残る。
 涙は不思議と流れなかった。もう叫ぶこともなかった。ただ体中から力が抜けて、カジュは暗闇の中、ぽつりとただ一人。コープスマンが感嘆の声を挙げながら近づいてきて、彼女の肩を叩いた。きさくに、嬉しそうに笑って。
「よくやった! おめでとう、カジュ・ジブリール。君はこれで、晴れて立派な企業戦士だ! 快適な生活! 豊かな食事! 心躍る特権の数々! いやーホントおめでとう」
「……はい。」
 消え入りそうな彼女の声から、抑揚は、感情と呼べる物は消え去っていた。
「しばらくゆっくり休みたまえ。来年度からは、僕の部隊で頑張ってもらうことになる。おって辞令が行くからね」
「……はい。」
「じゃ、そういうことで! また会おう、カジュくん!」
「……はい。」
 静けさが戻り、暗闇に、一人。
 ただ一人、生き残ったのだ。
「ボクは……。」
 長い長い沈黙の後、カジュは、呟いた。
「一体何のために生きてるんだろう――。」

Continued on episode #10.