空は、抜けるような青からやがて夕暮れのオレンジへと還って行く。
 乾いた空気が僅かに湿り気を帯びてきていた。本来この時期は夕方になってもまだ乾いている筈だ。
――一雨来るかな。こんなにも晴れてるのに?
 だが、急ぐに越したことは無い。以前、同じような時に酷い目に遭ったのを思い出し、少し足を速める。
 混雑し始めた市場(メルカート)の雑踏を早足で、それでも鼻歌混じりに抜けて、1本奥まった通りへと折れる。
 すると、先までの人込みが嘘だったかのように、そこには静寂が満ちていた。
 しっとりとした空気。その、アイボリー基調の街を歩いているのは1組の男女だ。
 1人は赤いフレームの細長い眼鏡を掛け、プラチナ・ブロンドの背中まである髪を首元で束ねた女。
 もう1人は、短めに揃えた髪を灰がかった茶色に染め上げた隻眼の男。
 彼女は、薄れ行く空の青と空気の変わり目の探索を楽しんでいたが、ふと動作を止め、男に向き直る。
「ねぇベルリッキ……今日は何の日?」
 あまりに唐突に、日本語で放たれたその台詞に、隻眼の男は驚いたように振り向いた。
 そして、柔らかな笑みを微かに浮かべて、こう返す。
「“誕生日”か」
「そ!」
 満面の笑みを浮かべて彼女は彼の腕をとり、彼は取られるまま――しかし重みが掛らぬ様腕を預けた。

 普段より少し豪華な食事をとって、一息つく。
 自室の窓を開け放ち、彼はゆっくりとオイルライターに火を灯した。
 一拍置いて香りのいい煙が室内を満たす。
 吹き抜けになっている階段から下を覗く。と、彼女はまだ洗い物が終わらないようだった。
 ソファに深く腰掛けて、夜空に変わりつつある空を慈しむように眺める。
 昼間あちらこちら連れまわされた疲れだろうか。火を点けた煙草がまだ半分も燃え尽きぬうちに、瞼が重くなってくる。
「……う」
 火事にならぬようになんとかそれを灰皿に押し付ける。そこまでだった。
 満腹も手伝ってか彼は、数瞬後には穏やかな寝息を立てていた。



「京二!!」
 引き裂くような、引き裂かれるような声だった。
 耳には入っている。だが腕は止まらない。
 彼の立っている場所は、地上50メートル近い場所のフェンスの向こう岸であった。
 鷹の目、と呼ばれた彼女。
 その腕を以ってすれば今自身の頭を打ち抜こうとする彼の人差し指だけを吹き飛ばす事など造作も無い。
――あと、1秒早ければ。
 数秒後には落下を始め、十秒と経たぬ内にただの肉塊と化す彼の肉体を留める事が出来たかも知れない。
 だが、

――これは、罰だ。

――人の道を外れる事を選んだ、そのことの。

――皆……そして、京

――すまない。

 長い永い沈黙の後で、一発の銃声が鼓膜を振るわせた。



 2階に上がった彼女は消されたままの電気をそのまま放っておいた。
 ソファに腰掛けたまま男は俯いていて、よく見ると微かに上下に揺らいでいる。
「ベルー……」
 反応はない。
――随分、神経緩んだなぁ。
 そんな事を考えながら、彼女は微かに笑う。傍らのベットからシーツを一枚。
 肩が冷えぬよう首周りからシーツを掛けて、隣にもぐりこんだ。
 昼間は温暖で過ごしやすいのだが夜は一気に冷え込む。
 「涼しい」を既に通り越した空気の中、触れている肩が温かい。
 燃え残りが微かに伸ばす煙と小さな赤い灯火を見ていると、やがて彼女も眠りの世界へと引き込まれていった。


――ただ、私は

――私はただ、君と一緒に居たかった

――その為なら何でも

――だから、お願い


「……死なないで」
 気付くと、彼女は口の中でそればかりを繰り返し、耳を塞いでいた。
 風が、時間が、空間が、全てが体温を奪い去っていくような錯覚。
 思わず蹲ってしまうような。
 不意に、真紅に染められてなお柔らかなその髪に、重みが掛る。
「……?」
 その感触にゆっくりと瞼を上げ、耳を塞いでいた手を放す。
 視界はぼやけていて全ての物が曖昧にしか見えない。
 だが、次に捉えた声が全ての状況を明らかにした。
「死ぬ事が望みか……ならば尚更だ。与える訳には行かない」
 ようやっと視界が普段に戻る。
 血濡れで、殺人現場から抜け出してきた死体のような姿で、男が彼女の前で仁王立ちしていた。
 手に持ったM8357(クーガー)からは、今まさに弾丸を放った事を示す硝煙が微かに漂っている。
 そして、柵の向こうには……届かなかったはずのそこには、右手を抑えて立ち尽くす影。
 彼女は再び視界が揺らぐのを感じた。



 ベルリッキ、と名を変えた彼はふと、目を覚ました。
 時計を見ると、随分と針が移動している。完全に眠っていたのだろう。
 ふと、頬を擽る吐息に気付いて隣を見遣る。
「……やれやれ」
 安らかな寝息を立てるラグオラ……嘗ての名を“京”という愛しい存在を見て、彼はそう呟いた。
 苦笑と共に有って良い言葉とは裏腹にその顔は穏やかで、そこに暗い影は最早存在しない。
 起こさぬようゆっくりとソファから抜け出し、煙草に火を点ける。
 ぼう、と温かみのある色が彼を包み込み――ふと、彼は棚に置かれた一丁の拳銃を見遣る。
 胡桃の木で作られたグリップには黒ずんだ血がこびり付き、その上中央は砕かれている。
 弾倉が込められる筈の場所は中からの圧力に歪み、最早使い物にならぬ事は誰の目にも明らかな、そんな銃。
「……誕生日、か」
 あの日、彼は一度死に、生まれた。
 その日こそ、もう昨日になろうとしている今日。
 だから誕生日なのだ。
 肺に入れたそれを少し強めに吐き出して、その鋼鉄色をからかうように弾く。
 そして、振り返った彼は少し困ったような顔をした。
 ソファで眠りこける彼女のそれは、あまりに安らかな寝顔だった。
 だが、このまま起こさなければ間違いなく風邪を引いてしまうだろう。
 横で寝たとして……風邪引きが2人に増えるだけだ。
「しょうがない」
 彼は苦笑に似た表情で、ソファへと向かう。

 夜はまだ長い。
 2人の時間はまだこれからだ。


 遠い時を抱いて、彼らは歩いていく――