1:
 京は、遠く霞む世界から水の流れる音を聞いていた。
 剥き出しの肌をさわさわと撫でる涼風。
 触り心地のいいシーツが、彼女から奪った体温を申し訳なさそうに返している。
 そこで京はようやっとその世界が現実である事を認識した。
「……寝ちゃったよ」
「おはよう」
 水音は京二の出てきた洗面所のものだろう。
 眼帯を外した左眼には血の滲み続ける傷が痛々しく走ったままだ。
 京は弱々しく笑ってその身を起こした。
 シーツに包まれたその肢体は、窓の光を受けて一層美しく見える。例えそれが午後の日差しでも。
 京二は白い布の下を想像してしまい思わず目を逸らした。枕元に置きっぱなしだった炭酸飲料はすっかり温くなっている。
 顔だけを向けて京は鼻に抜ける声で甘ったるい声を漏らした。
「このまま、だらだらしてたいよねぇ……」
「そうだな」
 そう言って京二は微笑った。起き上がった筈の京は幸せそうに瞼を合わせている。
 このまま寝かしておく方が、彼女は幸せなままいられるかも知れない。ふと、そんな考えが過った。
 45口径を手に取る。チャンバーの一発も、再び腰に差された2本の予備弾倉も全装填だ。これ以上の準備はない。
 脱ぎ散らかしたワイシャツを手に取り、埃を払って袖を通す。
「……やっぱり、行くんだよね」
「ああ」
 止めたいのはやまやま、だろう。当り前だ。
 親しかった人間同士が戦う場所を見たいなどという人間は、余程性質の悪い性格をした奴だけだ。
 かすかに眉根を寄せて、それから再び彼女は起き上がった。
 大雑把に服を羽織ると徐に持ってきたサイドバッグの中身を漁り始める。と、一つのソフト・ケースを京二に投げ渡した。
「……ん?」
「開けてみて。多分、役に立つから」
 言われるままにジッパーを引くと、中から小柄な樹脂フレームの黒い塊が姿を現す。
 それは、オーストリア製の9ミリ拳銃だった。手の平の大きさ程度しかないが通常弾倉でも10発は撃てる、予備兵装(サイドアーム)としてかなり優れた拳銃の一つである。
 だが、渡されたそれのスライドには、見慣れないツマミが取り付けられ、上面には反動抑制用の穴……ガス・ポートが開けられている。
「……これは?」
「フル・オート仕様。相手がスコーピオンだしね。15連の弾倉しか持ってないけど、使えるなら使った方がいいでしょ?」
「お前は如何するんだ?」
 以前のストライク・ガンはきっちりとした修理無しには使えない筈だ。
 だが、京は一つ笑って、散らばった服の下になっていた灰色の銃を取り出す。
「あたしは、これがあるから」
 表面処理が剥げかけたそれは、京二のもつそれと同じような古い45口径だ。
 ただ、その全長はフルサイズである京二のものと比べると幾らか切り詰められており、撃鉄などの形が違う。
 その上フレームはスチールでなくアルミで作られている。俗にいう携行型――コマンダー・ライトウェイトだ。
 京二はふ、と笑って返す。
「まさか、とは思った……まだ持ってたんだな」
 彼女のコマンダーも京二の1911同様に岸武から譲り受けた物だ。
 ただでさえ射撃制御が難しい45口径、それも短銃身のモデル。
 そんなものを、後生大事に持っていた理由は他でもなく――京二の45口径に合わせたからだ。
 ボロボロの側面を撫でてから弾を込める。本来左利きである彼女の為に両側仕様となった安全装置。
 薬室まで込め終わった所で撃鉄を引き下げ、彼女はそれをオンにした。
「それ、使い方分かるよね?」
「これがセレクターか」
 いいながらツマミを弄る。
 その構造上、手動の安全装置が無い――というのは分かったのだろう。
 あって然るべきことだが、彼の扱いは慎重そのものだった。
 投げ渡されたマガジン・ポーチをベルトに差し、15連弾倉2本を突っ込んで止める。
 ワイシャツで隠してしまえば、外からは分からないだろう。
 京はその光景を眺めながら遠く呟いた。
「ねぇ、これが終わったら……どうするの?」
 できれば、答えて欲しくない質問だった。
 京二の行動原理を考えれば、答えなど一つしかない。
 己の身体が許せぬのならば答えなど――
「――さぁな」
 その呟く先に見えるものが、酷く儚いものである気がして、京は目を逸らした。

 突如、ベッド脇の電話機がけたたましいコール音を奏でる。
 出ずとも分かった。いよいよその時が来たのだ。
 受話器を取り、俯く。
「……はい」
『四方津様、岸武様がお見えになっております。ロビーでお待ちになられておりますので』
「すぐ向かうと伝えてくれ」
『畏まりました』
「ああ、それから……」
 そこまで言って京二は言い澱んだ。
 会えば戦うことに間違いはない。そして、この場を選べば大勢の無関係な人間が巻き添えになるだろう。
 だが、逃げろ、と言ってみたところで、果たしてどうなるというのか。
『どうなさいました?』
「……いや、いい」
 無理矢理に受話器を引き剥がす。
 逃げろ、というその行為は最早偽善に過ぎない。
 全てを巻き込む覚悟で臨まなければ、彼の生そのものが閉ざされる。
 無言のまま立ち上がり、扉を開く。
 京は全てを見届けるべく、その拳を握り締めた。

 岸武に限って言うならば恐らくは一人で、それも正面から来るであろうが、他の監視員が手を出してこないとは限らない。
 そうなればエレベーターを使うのは危険だ。罠を張られていた時にどうする事も出来ない。
 二人は階段を使ってホテル5階からロビーへと下った。
 盆休みも過ぎようかと言う時期が時期であるだけに、ロビーは人でごった返している。
 フロントに問い合わせようかと思った矢先、カフェ・ラウンジに座るチェックのスーツが目に飛び込んできた。
 気配に気付いたのか、岸武は振り向くとこちらに向かって手を上げた。手元には珈琲が見える。
 思わず腰の銃に手を伸ばしかけるが、京がそれを制止した。
 京二に頬を近づけると、囁くように言う。
「……血の気だけじゃ、あの人に勝てない」
 尤もな意見だった。黙って肯き、そのまま近付いていく。
 そのまま席に座り、現れたボーイに珈琲を二つ注文した。岸武は俯いたままコーヒーを啜っている。
 こうして見ると、本当に落ち着いた――ただの老紳士だ。
 その手が血に染まった物であるなどとその雰囲気からは全くもって感じ取れない。だが、本当の暗殺者とはこう言うものだ。
 人の波に紛れ、鋭い目を不自然無く対象に向け、闇に消す。
「――元気そうで何よりだ」
 徐に口を割り開く。手にもった新聞を畳むと岸武は京二の目を見詰めた。
 穏やかなそれの奥底に、一筋の決意が見える。
 京二もまたその雰囲気に飲まれぬ強い眼光を以って返す。
 ふ、と笑って岸武は続けた。
「どれだけ懐かしんでも時はもう戻らぬと、今ここに来て感じる」
「なぁ、先生」
 その言葉に岸武は心底驚いたという表情を見せた。
 だが、すぐさまいつもの渋面に戻す。
 深い溜息と共に俯くと、岸武はこう言った。
「思い出は……辛いだけだろう?」
「……ああ」
 京二は苦笑で答える。
「それで、なんだ?」
「……いや、いいさ」
 そうか、とだけ呟いて岸武は珈琲のカップを持ち上げた。
 中身が空になって、それはかちゃりと固い音を立てる。
「もう何も――」
「――言葉は要らない」
 にやりとして岸武は徐に立ち上がる。それが合図だった。


2:
 テーブルを蹴り上げて、京二と京は走った。後手で京をフロントに走らせ、京二はメーン・ホールを挟んだ対岸へと走る。
 ちらと見た後で、岸武が手にもった鞄をゆっくりと上げて行くのが分かる。
 全てがスローモーションのようだった。何事かと彼らを見る客たち、フロントに飛び込んでいく京、そして――
「ふせろぉ!!」
 言うか言わぬかのタイミングで、京二が今し方走っていた軌跡を弾丸の雨が切り裂いていった。
 アタッシュ・ケースに隠されたそれは炸裂音をロビーに轟かせながら、次々とオブジェを破壊していく。
 明らかに拳銃弾の物ではない――これはライフル弾の威力だ。
 些か大柄なケースだとは思っていたが、まさか機関銃が仕込まれているとまでは思っていなかった。
 一拍を置いて、ようやっと悲鳴が上がった。客たちが逃げ惑い始める。
 邪魔だとばかりに岸武は逆向きにしたケースを床に置く。と、猛烈な煙と共に中央に置かれていた一番大きなオブジェが木っ端微塵に吹き飛んだ。
 客たちは爆風に薙ぎ倒され、折り重なるようにして倒れていく。
 ソファ席の分厚いテーブルに身を隠す。間一髪で京二は降り注ぐ破片に晒されずに済んだ。
「……ち」
 すぐさまソファから半身で45の狙いをつける。爆煙の向こうにちらと見えた影に向けて撃つ。
 岸武はテーブルの上に乗ると、次から次へと歩いて渡っていく。無論マシンガンのトリガーは指で切りながらしっかりと引いている。余裕の動きだ。
 端――京二からは死角となる場所――までたどり着いたところで、取っ手の下に付けられたボタンを押す。
 すると、ジュラルミンで出来た外板が外れて中から夥しい量の空薬莢が転げ落ちた。
 仕込まれていたのは空挺部隊(パラ・トルーパー)が使用するタイプ――銃床が伸縮式になった軽機関銃だ。予備の弾薬ベルトを肩掛けにしてグレネード・ランチャーを外すと、フレームだけになった鞄を掲げる。
 飛び出してくる影を見つけたのだ。すぐさま薙ぎ払う。
 文字通り蜂の巣にされ、影は倒れた。あからさまなフェイクだ。あるいは狂気に憑かれた一般客が飛び掛ってきたのだろうか? どちらでも良い。
 岸武は再び立ち上がると京二の隠れた“辺り”のソファ席を全て薙ぎ払った。
 5.56ミリの牙が詰め綿を引き裂き、あたかも白い羽のように宙を舞わせる。
「――見境なしか、よ!」
 言ってからなにを今更、と自嘲する。
 京二はソファ席ではなく、上手く死角と死角の間を抜けてコンクリートの支柱の裏へと身を潜めていた。
 ベルト・リンクを交換している音が聞こえる。
 チャンスは今、それも一瞬しかないだろう。京二は腰に手を当て、京から渡された機関拳銃――グロック・マシン・ピストルを抜く。
 薬室に弾は入っている。柱から腕の分だけ乗り出して、晴れてきた煙の向こうに狙いをつける。
 先ずは10連、フル・オート。
 思いがけぬ連続した炸裂音に、岸武は身体を伏せて転がる事しか出来なかった。
 京二がフル・オートを持っているとは考えにくかった所為もある。
 すぐさま撃ち返し、コンクリートを派手に削る。間違いなく軍用――冗談のような火力だ。
 壁抜きまでに至らないとしても、同じ場所に隠れ続ければ確実に撃ち抜かれる。弾切れを狙えるとは考えない方が良さそうだった。
 何せ相手は200連からのベルト給弾式マシンガンで、対するこちらは副武装用の機関拳銃一丁だ。
 続けざま弾倉を入れ換え、今度は15連を差し込む。
 止まったスライドを解放して一気に走りながら撃ち込んでいく。
 相手は長物だ。こちらに勝つ術があるとすれば、まがりなりにも室内戦闘である事――場所の狭さと多々転がる障害物を利用し、拳銃の利点である取りまわしの良さを利用して一挙に距離を縮める他に無い。
 中央を走りきり、岸武側の柱へと何とか飛び込む。
 無論、京二のその思考は読まれているのだろう。弾幕を張り、ゆっくりと余裕の歩きを見せながら対角へと移動していく。
「くそ!」
 フレーム前部に差して、フォア・グリップにしていた最後の15連を一引きだけ叩き込み、移動先へと牽制する。
 だが、すぐさま射撃は返されて後にある壁――ガラス張りのそれを次々に削られるばかりだ。
 残りは10発。一度引けば0.5秒と掛らず撃ち尽くしてしまう。45口径は全装填だが、フル・オートは使えない。
 ふと、岸武の位置を見て京二は閃いた。
 9ミリを仕舞って腰からクリップを引き抜くと、徐に照準を天井に合わせて45口径の引金を2度引き――
――2度命中した。

 無論、岸武は反撃の引金を引く。
「……っ、なんだと!?」
 思わず狼狽するのも無理は無かった。彼めがけ落ちてきたのは、天井を煌びやかに飾り付けていた照明――シャンデリアの一つだ。
 3つ備え付けられたそれの一つ、吊り下げ式だったそれの基部を狙い、見事に落下させたのだ。
 さながら映画かドラマを思わせるこの賭けは、流石の岸武でも想定外のことだったらしい。
 岸武は何とか横飛びから転がって難を逃れたものの、その質量の前に軽機関銃は無残に潰れ果てた。
 脇に仕舞われたスコーピオンを抜いて、そのまま転がりながら射撃する。
 無論そんな弾が当たるとは思っていない。飽くまで牽制だ。
 だが、京二はそこを逃すまいと距離を詰めていた。
 走りながらのダブル・タップ。一発はこめかみを掠り、岸武に一筋の赤を描く。
 すぐさま岸武は起き上がり、京二の走り込んだ場所へと向けるが、引金が引けない。ボルトが止まったままになっている!
「!!」
 初歩も初歩であり、岸武にはあり得ない筈のミス――弾切れだ。
 目にも止まらぬ速さで弾倉を捨てて入れ替える。だが、間に合わない。
 45の照準が付くのが見える――だが、こちらも放たれる事は無かった。
 すべったかと思うや否や、為す術無く京二は叩きつけられていた。照準に気を取られ、空薬莢が転がる足下を見失っていたのだ。
 形勢は逆転した。
 転んだ先に銃を向け、岸武のスコーピオンが今度こそ火を吹く。
 咄嗟に、京二はテーブルの一本足を掴み薙ぎ倒した。
「うおぉ!」
 摩擦の熱が、一瞬靄掛った意識を引き戻す。
 至近距離だったが、分厚く堅い木で出来たテーブルは見事弾丸を止めた。
 だが、不意に横から走った一発が京二の脇腹を抉る。跳弾だ。
「――痛ぅっ!」
 そのまま葬らんと岸武はテーブルの上に立ち、台の向こうに伏せる京二に向けて再び照準する。
 左手でフル・オートを抜くと、京二は引金を絞った。
 岸武は堪らず、降りて転がる。 
 と、そこにスライドの止まったフル・オートを投げつけ、続けざま京二は45を放った。
 今度は岸武がテーブルを蹴倒して防ぐ。
 それを跳ね除けて起き上がり、互いに照準を付けたのはほぼ同時の事であった。
「く……はぁっ……流石だな、殺人教官」
「ふむ、動きは良いが狙いが粗いな」
 息を切らす京二に対し、岸武の呼吸は穏やかそのものだ。
 緊迫した睨み合いかと思われたそこで、不意に岸武は銃口を下げた。
 肩を竦め、京二を見遣る。
「……ふぅ」
 呼吸を整え終わる。まだ銃口は外さない。
 岸武の眼光から、すぅと鋭さが引くのが見える。
――何のつもりだ?
 気持ちの揺れが手に伝わり、僅かに狙いをずらす。
 その時だった。
 居合のそれとも何ともつかぬ体勢から岸武が前に出る。
「――っ?!」
 神速、と言っていい踏み込みだった。
 肘を固めたそれを寸でで躱す。が、痛む脇腹が刹那、京二の身体を縛った。
 見逃す筈が無い。すぐさま体重を入れ替え、蹴りが放たれる。脇腹だ。
「ぐっ、ああっ!」
 そのまま転がり、何とか45を持ち上げ――放つ。が、先から一発毎に裂けるような痛みを齎す傷が邪魔をした。
――当たらない!
 そう判断するや否や、京二は銃を投げ捨てた。伏せの状態からスタートを切って組み付きに掛る。肘で払われ、返しの掌底が飛ぶ。
 風切り音と共に迫るそれを首だけで躱して、腹を目掛けて回し蹴り――視界に被さった京二の左腕が岸武の目を刹那に塞ぎ――命中!
「フン!」
 だが、吹き飛んだ岸武は気合を吐くや否や背中のバネを使って飛び起き、すぐさま間合いを詰めてくる。
 右構えからの左ストレート。その全力の一撃すらフェイントにかけ、京二は右でボディ・ブローを狙う。
「甘い!」
 躱す半身からくる、痛めた脇腹目掛けての容赦ない一撃――これはそのまま踏み込んで躱す。
 そのまま京二は岸武の左頬を狙い、拳を放った。が、一瞬岸武が視界から消える。
 瞬間、肘を鳩尾に叩き込まれた。だが、倒れない。
 にや、と唇を歪めると、京二はそこから組み付いた。
 次に岸武が感じたのは右肩から発せられた“熱い”という感触だった。
 京二を振り解いて再び間合いを取る。
 無造作に右肩へと手を伸ばすと、岸武は感慨もなさそうに刺さったナイフを抜き、放り投げた。
 ぽと、と薄い刺突用のナイフが絨毯に落ち、その周りを紅に染める。
 ようやっと息が上がってきた岸武。
 荒い息を落ち着かせながら、二人は不敵に笑った。


3:
 青い地色を見せていた空は白く濁り、灰色の雲が全てを覆い尽くそうとその体を伸ばし始めていた。
 このままならばまず、雨だろう。そんな空模様だった。
 長い長い沈黙の中で、二人はただその視線を合わせ機を――気を窺っていた。
 心地良い空間――外界の全てが思考から取り除かれ、ただ二人が闘っているというだけのシンプルな事実。
 そして、互いが互いだけを求めているという事実――それだけが互いを支配し動かしている。
 ただ只管に孤独であった京二と岸武にとってこれほどの喜びがあるだろうか。
 言葉で分かり合えずとも、そこには暴力というものを通した何がしかの意思がはっきりと通っている。
 一見、その先に得るものの無い戦いで不敵に笑う二人は、他から見たならば狂人以外の何物でもないかも知れない。
 次で最後。
 それは互いの直感としてそこにあるものだ。
 微かな筋肉のたわみ、皺一つの動き――互いのそれを一つとして見落とすまいと、二人は神経を張り詰めていく――



――その時だった。



「……ふっ、ぁ?」
 半身で構えていた岸武の胸に空洞が出現した。
 飛び散っていく肉片と、夥しい赤色をしたそれが、一粒一粒まではっきりと見えた。
 そこに音は無かった。感情も無かった。
 ただ、岸武の向こう――道路に面していたガラス壁の一部が丸く穿たれているのが見えた。
 一瞬遅れて、空気が揺れる。
 思考が神経を伝わり、肺が空気を絞り、声帯を震わせる。
「――きっ」
 乾いた唇に血を滲ませる。やがてそれは溢れて、唇の端から一筋の流れと成って零れ落ちた。
 茫然とした顔のまま血を滴らせて岸武は京二を見詰めている。
 京がフロントからコマンダーを構えるが、一瞬で状況を判断するとフロントから這い出る。
 何時の間にかホテルの周りは黒尽くめの集団にすっかり取り囲まれていた。
 見る限り特殊部隊も斯くやという装備だ。光学サイトなどで固められたごてごてとした自動小銃を抱え、突入してくる。
――来るな!
 駆け寄ろうとする京二を眼で止め、岸武は後ろを振り向いた。
 その先には横一列に並ぶ――銃口。
「岸武――ぇ!!」
 叫びは、炸裂した閃光とけたたましい炸裂音に掻き消された。
 京はただ立ち尽くす京二を押し倒すようにして体を抱え、柱の影へと飛び込む。
 僅かに開いた視界に、文字通り蜂の巣と化していく岸武の姿が映った。
 やがて弾雨が止む。硝煙の香りと薬莢の転がる空虚な音だけが辺りを支配する。
 幻覚だと思いたかった。
 だが、目の前で岸武はゆっくりと、本当にゆっくりと膝を折り、崩れ落ちていく。
 頭を押さえつけていた京の腕を振り払うや否や京二は飛び出した。撃ちそうになる隊員を隊長らしき男が制止する。
 駆け寄った先の岸武は、頭部と上半身だけを残された襤褸(ぼろ)と化していた。
 瞳は虚ろに開いたままだが、彼らはこれでも意識を絶つ事が出来ない。死んでいるわけでは無いのだ。
 脳を生かしたまま、再生可能な部位のみを再生不能になるまで痛めつける――無論、これはかの身体を持つ者達にとって最も苦痛を伴わせる殺し方だ。
 死に掛けた魚の様に口をぱくぱくとさせて痙攣するそれに京二は何度も名前を叫ぶ。
 不意に、京二と京を取り囲んでいた黒尽くめが左右に割れた。
 反射的に首を向けたその先に一台のロールス・ロイスが見える。
 やがて、後部ドアが運転手らしき男に厳かに開かれ――白衣が風に舞った。
 大理石調の床に革靴の音を響かせて、男は傲然とロビーの中へと歩みを進める。ずれた眼鏡をくいと持ち上げ、男――敷島洋介は口の端を歪めた。

「……お、まえ……は」
「久し振りですね、四方津君――と、怖い怖い。そんな目で見つめないでください。何しろ3年ぶりの再会ですからね」
 そう言って肩を竦める。
「はく、い……」
 声が上手く出なかった。怒りも何も全て吹き飛ばされてしまった気がした。
 頭に、あの時の白い部屋の光景が甦る。
 敷島は、そんな京二から興味もないとばかりに視線を逸らすと、徐に岸武の髪を引っ張り上げた。
 そして何事かを耳元で囁く。
 瞬間、岸武の目が見開かれ何事かを叫ぼうとする。掴んだそれを投げ捨てるようにして敷島は身を引いた。
「おお怖い。やはりこう言うものは使い終わったらさっさと処分すべきですね」
 投げ捨てるようにその髪を放し、ついと虚空に指を振る。
 連動するかのように黒尽くめが退き――胸を穿ったそれと同じ弾丸が今度は岸武の頭部を完膚なきまでに粉砕した。
 威力からみて、間違いなく人間を射撃対象としてはならない弾丸……対物ライフルから放たれたそれだ。
「ははははっ! いいですね。実に気持ちよい弾け方をする」
 一頻りそう笑う。
 最早ただ茫然とする事しか出来ぬ京二に敷島は顔を寄せた。
 その細く白い顎を人差し指の上に乗せ、甘く囁く為に。
「恐らく、あなたが一番殺したい相手は私なんでしょうね」
「……なん、で」
 掠れ声で答える京二に、敷島は満足げに笑みを浮かべた。
 その刹那、黒尽くめの一角でざわめきが起きた。
「京二! 目を、覚ませっ!! 京――あっ!」
 取り押さえられているのだろう。身を捻って無理矢理に叫んでいる様子だった。
 だが、彼にはその声すら届かない。
 やがてその声は鈍い音と彼女の悲鳴のようなそれと共に沈黙した。
 揺れる意識の中で腕だけは反応した。反射的に構えを取る腕。だがそこにいつもの45口径は無い。
「……み、や……」
「ふふふ。素晴らしい。意識は半分でも身体が反応するんですねぇ……でも悲しいかな、君の手にその凶弾を放つ物は無い」
「敷島博士」
 不意に黒尽くめの一人がなにやら耳打ちをする。
 ふ、と笑ってそれを下げさせると、もう一度敷島は京二の耳に囁いた。
「残念ながら今日はお時間のようです。いずれ近いうちにまたお会い致しましょう。私は何時でも貴方達をお待ちしております」
 いやらしい響きを以ってそう囁くと敷島は心底満足げに笑みを浮かべた。
 背広の上に纏った白衣を翻し、踵を返す。と、ふと立ち止まり、もう一度振り向いた。
「――ああ、そうそう。お待ちしているのは私だけではありませんよ?」
 そして、恋人に微笑むかのごとく敷島は笑う。
 ポケットに入れた手を怪しげに動かしながら敷島はこう付け加えた。
「心底君を慕っておるのですよ。そう、神暮代表も……ね」
「――っざけるなあ!」
 ここに来てようやっと焦点を戻し、京二は殴りかかった。が、黒尽くめの一人に足を掛けられて無様に転がる。
 くくく、と喉を揺らし、白衣が遠ざかっていく。
 乗り込んだ白い車が走り出すと同時に、黒尽くめもまた潮が引くように去っていった。

 痛む体を起こし、引き摺るようにして立ち上がる。
 全く力の入らない脇腹を抑えながら、倒れた京に触れる。
 2、3度揺り動かすと、彼女は薄っすらと瞼を開けた。
「あ……きょう、じ……」
「喋らなくていい」
 遮られる。
 紡ぐ間もなく消えたそれは、彼女の双眸から涙となって溢れ出した。溢れてしまえばもう止める事は出来なかった。
 肩を震わせて京二のシャツにしがみ付く。京二はやんわりとその背中に腕を回した。
 全てがモノトーンの中、そこだけは赤く、そして温かい。
「……こんなの、こんなのってないよう……なんで……なんで!?」
「…………」
 子供のように泣きじゃくる京を胸に抱え、京二はどこか遠い場所を見つめていた。
 腕に掛る温かさが、今は痛い。そんな事を思う。

 やがて空は、まるで彼らの顛末を見届けていたかのように――その大粒の涙を街に落とした。


4:
――これは、罰なのだろうか。
 ふと、目が覚めた。カーテンの隙間に覗く街はまだ群青に閉ざされている。
 枕元に置かれたデジタル時計は朝には程遠い時間を指している。
 だが頭と目が妙に冴えてしまいもう眠れそうにはなかった。髪を手で梳いて溜息と共に起き上がる。
 すっかり軽くなったツートーンの箱から一本を取り出し、それに火を点けた。
「…………ふぅ」
 寝起きにはやや癖の強い香りだ。
 末端の血管が収縮するのを感じながら、狭苦しい安宿の部屋を見渡す。
 こうしてみるとあの場所の生活が決して悪い物ではなかったのだと思える。尤もそれは生活水準として、の話ではあるのだが。
 神暮はさっき思った言葉について少し考えた。他愛もない寝起きの思考遊びだ。
 ――罰。
 それは己が被るものとしてはあまりに漠然としすぎていて、どれが今感じるものに繋がるのかさっぱり分からない。
 だが、それでもいいのかも知れない。そんな風にも思う。
 考えた所で意味が有るのか、とも。
 人――自分が理解せずとも事象はそこに存在するし、存在し続けるものだ。ならば、次に考えなければいけない事は明白だ。
 その事象が何故そこに有るのかではなく、今そこにある事象を正しく理解し、先の対策を練る事。ただそれだけだ。
 今は、まだ死ねない。
 全ては京二と京に、3年前の贖罪を果たす為だけに。
 若く、そして何処までも青かった自分が許せぬがゆえに。今ある生はその為にこそあると、彼は思う。
 無論それが、死に際に限りなく近い自らを赦す為だけのものであるとも。
 気付けば手の中にあった橙の灯火は消えていた。フィルターにさしかかろうかというところで燃え尽きていた。
 苦笑する。こいつのように今ここで燃え尽きてしまう訳には行かないと。
 ぐしぐしと灰皿に押し付けて完全に揉み消して肌蹴たシャツを直して胸のボタンを合わせる。
 ぼさぼさの白髪を手で撫で付けて、枕の下に入れておいた鋼色の小さな暴力を手にとる。
 三日月を思わせるそれは、本物の月が齎す薄明かりの中でより一層その蒼を深いものとし、冷たい輝きを湛えている。
 それを一瞥して腰に仕舞うと神暮は部屋を出た。
 空はまだ暗い蒼を湛えていたが、街は何時でも明るい。
 道端には、髪を染めて素顔と心を化粧で塗り隠した若者たちがたむろしていて、時折狂ったような笑い声を響かせる。
 駅にあるモニターは電波を受信し続け、ニュースや宣伝を垂れ流す。
 そう、ニュースだ。
 “代表”がいなくなった事で、敷島はようやっと“己の”権力を振るい始めたようだった。
 報道管制等は殆ど存在せず街角のいたるところであの銃撃戦のニュースを見る事が出来る。
「……便利な時代、か」
 路上で寝転がる襤褸切れに似た人間を見てふと呟く。呟いてから彼は苦笑した。
 この感情は偽善に他ならない、と。
 あの牢獄を出てひとつ気付いた事がある。彼自身が“想像以上に迷い彷徨っている”と言う事だ。
 それは2人に対する事であり、自分が行おうとしている“償い”の事でもある。
 自らの最大の偽善。
 頭では理解していても心がそれを認めようとしない。
 だから彼には“今はそれどころではない”“彼らに会う事が先決なのだ”と言い聞かせ、片隅に封じ込める事しか出来なかった。
……一体、私は何をしているのだろう? 彼らに会って、何をしてやれるのだろう?
 その問いに応える者は、いない。
 生臭く薄汚い路地から海沿いの大通りへと続く道を抜け、神暮は公園へと向かった。
 ここで3つ目。
 あてがあるわけではない。ただ、順番に思い出の糸を手繰り寄せてそれに縋っているだけだ。
 実際、彼が使えるツテはかなり少なく、その上で頼れる筋は殆どない。それしか方法が無いのだ。
 外から見ればちょっとした森に見えるここは妹――京と出掛けた数少ない場所の一つだった。
 瞼を閉じれば、あの頃の光景が捏造される。
 彼は夕暮れ時を好んだが、彼女は昼間の海の方が好きで、よく駄々を捏ねられた物だ。
 その度に彼は、学校を休んで彼女をここへと連れ出した。
「……残酷だな」
 景観は改修工事やら何らやで些か変わっていた。だが、鼻腔を擽る潮の香りだけは変わらず、容赦無く彼を過去の世界へと誘う。
 海風のお陰で涼しいが、続いた雨の所為で湿気は濃かった。優しく彼の頬を撫でて笑うように通り過ぎる。
 ふと、気付くと隣のカップルが訝しげに見つめている。
 神暮は苦笑して空を見上げ、それから踵を返した。


「ふむ、失態ですね」
 白い部屋で、敷島は面白そうにそう呟いた。
 傍らにいるのはあの黒尽くめの男だ。彼は敷島を恐れることも畏れることもない数少ない人間だ。
 目の前のソファで足を投げ出して背中で腰掛け、折畳式のナイフを玩びながら何かを量るように視線だけを向けている。
「……その割には余裕だな」
 この男は決して、言葉を額面通りに受け取らない。
 心底愉快そうに敷島は笑う。男のここが気に入って傍に置いているのだ。そうでなくては、と。
 手元にある書類は、神暮の世話係から渡されたあの遺書とそれにまつわる報告書だ。
 行方を追うのもまた一興かとも思ったが、やめた。
 “遺書”のあまりのくだらなさと、今の神暮が持つ影響力のあまりの小ささに“追う価値すら見出せぬ”と判断したのだ。
「……どう思う」
 不意に男が聞いた。
 書面を投げ出して敷島が向き直る。なんのことでしょう? と聞き返しているのだ。
「四方津のことさ。俺は腰抜けの人形と女には興味がない」
 くく、と腹で笑う。
 彼もまた敷島と見る位置こそ違えど、ただ一点を見つめているのだ。
 それは単純にして明快。自らの力を最大まで使い、戦うこと。
 馬鹿げた話かも知れなかったが男は“戦うことのためだけに全てがある”と、そう思っている。つまるところ同じ匂いを持っているのだ。
 だが、敷島は敢えて訊いた。
「彼を取り逃がした事もまた、失態だと?」
「違うさ」
 即答だ。
 あの場で取り逃がしたのは、彼がまだ戦うに値しない相手だと――そう思ったからに過ぎない。
「……どう、ねぇ」
「今まで潜伏してきただけはあるな。警察がこれだけ動いている中で3日逃げ延びている」
「ええ」
「思った以上に狩甲斐のありそうな獲物じゃないか……だが」
 不意にその目が細められる。
 心地の良い寒気に敷島もまたその目を細めた。
 持っていた書類を机に投げ出すと顎の前で両手を組み、乗り出すようにして姿勢を固めた。
 言葉を待つ。
「……『だが』?」
「ちょっとした興味だ。あんたが何故四方津を逃したのか」
 溜息をつき、敷島は考える“振り”をした。
 答え決まっているが、それはあまりと言えばあまりで実に明快――言ってしまえば神暮と同じ理由であるに過ぎない。
 だが、ここで本当に考える。あの場で感じた彼の薄い感情の中にそれとは違う何かがあったような気がしたのだ。
 珍しく答えに詰まる敷島に、男は意外そうな目を向けている。
 視線に気付く。と、彼は笑ってこう応えた。
「……特に理由はありませんよ。きっとね」
 嘘だ。と視線が語る。
 だが、敷島は愉快そうに微笑むばかりで何も語らない。
 男は諦めたように、より深く身体を沈めて目を瞑る。

 ――敷島を良く知る者がもしこの場を見たならば、我が目を疑い驚いたに違いない。
 或いは、只管に怖れ戦いたかも知れない。
 何故ならそれは、彼の人生の中で初めての――心よりの笑顔だったのだから。