1:
 風の音が戻る。
 こめかみの脇に新たな一筋の赤を垂らしながらも、京は京二を睨みつけたままだった。
 我を忘れた銃撃に彼の45口径は応えなかった。引き金を引く力に握る力を奪われて照準からずれる“ガク引き”だ。
 加えて、未だ熱を持つスライドは京の左手に握られている。
「……貴様!」
「あたしは“貴様”じゃない。人として名前がある」
「ふざけろ!」
「あたしは――」
「人としてだと? 笑わせるな!」
 獰猛な笑みを浮かべ、京二は吐き捨てた。
 嘲笑でも何でもなくただ相手を畏怖せしめるだけの笑み。
 迷う事無く右手に乗る重さを振り払う。京にいくら凄まじい再生能力があっても、基本となる身体能力は飽くまで一般的な女のそれでしかない。
 思い切り振られた京は肩から地面に叩きつけられた。
 荒い息のまま京二は叫ぶ。
「この身体の……お前と俺の何処が人だと言う?……何処を見てお前は人だと言うんだ? 俺の左腕を見ろ……自分の胸を見てみろ! 一体何処が人だって言うんだ!!」
 京もまた鋭い視線を送り返す。
 起き上がり、対照的な声――押し殺した声で訊き返す。
「なら、あんたは……京二は誰の何処を見て人だと言うのさ」
「……!」
 最早、京二の負けは確定していた。いや、最初から決まっていた様なものだ。
 もともと、人間の考えた“人たる物”の定義など酷く曖昧なものだ。“定義が存在する”こと以外に確たるものなど何一つ無いのだ。
 加えて“言葉”そのものの曖昧さは定義の曖昧さな部分をより不確かにする物でしかない。
 全ては人の傲慢と自虐と不安解消のために生み出された、人の為の物でしかない。
 真理を求め、それこそが自らの理想であると信じた京二に真っ当な反撃の術があるはずも無かった。
 だが、彼はここで頭を垂れる訳にはいかない。
 ――黙らせる。
 彼にあるその方法はたった一つ。暴力。右手にある11.43ミリ。
 最小限の予備動作で京二は、京の顔めがけて銃を振った。
 尻餅を着く体勢からそのまま後に転がって避ける。と、京もまた腰に戻していた38口径を抜き放つ。
 京は、嗤った。恐らくは、失われた過去にも見たことの無い貌。
 不敵な表情だった。目は活き活きと、炎を灯さんばかりの輝きを放つ。
「……やってみる? その暴力で何処まであたしについて来られるか」
 表情をそのまま声色にしたような響きで、京は言う。
 お前は私に敵わない、と。

 京二は無言のまま断続的に後に飛び、弾丸を放った。
 読まれている。が、端からこれは捨て弾だ。
 それを捨てて、京の右脇に向けて追撃。退路を封じた所で決める。
 だが、彼女は嘲笑うかのように京二の左側へと走り、茂みへと飛び込んだ。
 そのままダブルタップを疾らせる。
 だが、崩れた体勢で放たれた弾丸は虚しく地面を抉るばかりだ。
 京は構えの特性を利用したのだ。京二は伸ばし気味の右腕をほぼ直角に曲げた左腕で支える。
 遮蔽物から半身で撃つ分には被弾面積を減らせる構えだが、その分持ち手の反対に死角が出来る為反応は遅れる。
 対する京は、動きから見ても的撃ちだけではない、明らかなコンバットシューターだ。
 京二は相手の予想位置を中心に円を描くように走り、コンクリート製の水呑場に腰を落とす。
 一髪の間を置いて超音速弾が頭上の街灯を叩き割った。
 止まらせない気だ。
 降り注ぐ硝子から逃れ、来た方向から90度ずらした方向へランダムに走る。
 大木の陰にたどり着いたところで京二は息を整えながら弾倉を入れ替えた。
 かなり不利な状況だった。
 相手は防弾ベストすら貫く高速弾、対するこちらは威力はあれど貫通能力と精度は比較にならない。幸い、拳銃弾では貫通不能な遮蔽物が多い場所ではあったが。
 隠れた大木から50センチの距離を保ったまま、ちら、と広場の方を覗く――動きは無い。
 だが、先の場所に留まっている事も有り得まい。茂み越しに有利な位置へ移動している筈だ。
――となれば。
 半端な弾倉にもう一度入れ替えて3発放ち、すぐさま新品の弾倉に入れ替える。
 照準は予想位置周辺の街灯だ。中心の電球を射抜かれ、広場そのものが暗闇に染まる。
 そう、京が装着しているフロント・サイトがアクリルファイバー製だった事を思い出したのだ。
 僅かな光源を捉えて光るサイトではあるが、暗闇では役に立たない。
 そして、狙撃さえ封じればまだ勝ち目はある。
 茂みの高さに腰を落とし、大木を盾に彼はその場で待った。
 撃たれる危険はあったが先ずは相手の位置を知ることが先決だ。移動するのが定石だからこそ敢えて、である。
 静寂が満ちた。
 時折木の葉が漏らす、溜息のようなざわめきが耳を通り過ぎる。
 彼の聴力をもって位置が捉えられないとなれば、移動した先で彼と同じく潜んでいるのだろう。慎重に行くしかない。
 相手は数十メートル先の指一本を撃ち抜けるのだ。迂闊に動けない。
 生温い風に身を預けて10分程経っただろうか。
 京二の耳は、微かに違和感のある擦れ音を捉えた。風音ではない。
 気配を殺したまま構え、引金に向けた感覚を研ぎ澄ます。
 遊びが終わり、引金がシアに掛る感触に変わった。後一ミリ動かずして、彼の45口径は火を吹く。
――そこ。
 撃針が信管を叩いた。
 耳を裂くような音に研がれていた感覚が一挙に現実へと引き戻される。
 手応えが無い。
 瞬時に感じ取って移動を開始する。
 一瞬前にまで居た場所が高速弾に抉られて行く。
 振り返って撃ち返すが全く手応えが無い。一体如何いう動きをしているのか全く想像が出来なかった。
 外周を沿うようにして走り、公衆便所の裏に身を隠す。
「……くそ」
 完璧に玩ばれている、そんな雰囲気だった。
 舌打ちをして弾倉を入れ替える。弾の残った弾倉をベルトに差し込んで、彼は再び顔を出した。
「――探し物は見つかった?」
 突如として上から降りかかって来た声に顔と銃を上げる。
 だが、遅かった。
 背中に引っ掛かれるような猛烈な痛みと衝撃が走りその場に倒れ込む。飛び降りざま銃で殴られたのだろう。
 走る衝撃に薄れ掛ける意識を気力の総動員で引き戻し、転がって距離を取る。
 .45を向けた先に京は居ない。
 右眼しかない京二の死角。京二は片手で構えたそれを反射的に左に向けて撃った。微かな手応え。
 こめかみの辺りを撃たれ、体勢を崩した彼女が視界に入る。
 狙いは腹。
 だが、その狙いは外れた。
 ふら付いたその体勢でも京は軸足を保ったままであった。そこからしゃがみ込むように放たれた掌底が京二の持つ拳銃の銃身後退(ショートリコイル)を妨げる。
 そのまま払い除けられ、今度は向こうの銃が京二の顔に向く。
 未だ力の入らぬ左腕で殴りつけるようにそれを払う。
 外れた弾丸が地面を抉り、派手な火花を散らした。
 骨は完璧でないにせよ順調に再接合していたようで幸い、痛みも折れる感触も無い。
 このまま格闘戦に持ち込めば力の差で押し切れる筈だ。
 先の掌底で2重装填(ダブルフィード)を起こした銃を投げ捨てると、京二はワン・ツーを放った。
 放つ瞬間に彼女の笑みが見えた気がした。
 そして、その姿が刹那に消える。
「ち!」
 下にもぐりこまれた。
 京二の動体視力が優れていないわけではない。が、幾らそれが優れていても片目が見えぬ分の不利さはあまりに大きい。
 自己流――喧嘩殺法では到底補えるわけもなかった。
 視界が回転する最中、体当たりを食らうか喰らわぬかの刹那で京二は膝を放つ。
 ――が距離も体勢も不十分だ。
 威力の無いそれを京は顔面で受け流す。
「はぁっ!」
 鼻血を流しながら京二の軸足を折らせて地面に薙ぎ倒した。
 マウント・ポジションを取られてはたまらない。
 だが京は、後ずさったところに上手く膝を繰り出し、京二の肺を便所の壁に押し付ける。
 軽い酸欠状態に視界が霞む。隙の無い構えから不意に出される銃口。
「らぁっ!」
 今度は京二が掌底を放つ。
 半身からでも上手くすれば、完全に機能を封じられる一擲。だが、京には避ける素振りすらない。
「――くっ!」
 触れた瞬間、鋭い痛みが彼の腕を引き戻す。
 続けざまに出した2撃目で銃口を払い、そのままスライドを掴む。
 何かに皮膚を食い破られる感触だった。
 京二の血を受けて闇夜に鈍く輝く、格闘戦用に棘が削りだされたミート・ハンマーのようなブロック。
 朧気な記憶が一瞬鮮明さを帯び、また霞む。
 気が狂った阿呆な銃工――アラン・ズィッタが創った――そんな事を言って、彼女は笑っては居なかったか?
 違う、笑っているのは、今。
 くるりと手首の返しで銃口が戻ってくる。今度は払い除けない。
 縮めた左脚で反射的に出した馬蹴りは、きっちりとガード位置にあった腕ごと京の腹にめり込んだ。
「――がっ」
 完璧な効力打。
 だが、京二は気に食わなかった。
 今のはあからさまな油断だ。
――何故あそこで撃たない。
 スラッジを固めたタイルからゆっくりと立ち上がり、静かに言い放つ。
「もうやめよう、とでも言うつもりか」
 何を今更。
 それこそ勝手が過ぎる。
 咳き込み、悶える彼女の腹を堅い爪先で打ち抜く。
「痛ぅっ!!」
 ごきり、というこもった音と共に、京の左腕があらぬ方向に曲がった。
 取り落とした格闘拳銃ストライク・ガンを横に思い切り蹴り飛ばす。
 滑った先で叩きつけられた照準器が弾け飛んだ。精度を至上としていた以上、恐らくはもう使い物にならないだろう。
 荒い息もそのままに蹲る京を見下ろす。
 生臭い、潮の香りが鼻を突いた。
「げっ、げほっ……」
「……くそっ」
 内臓まで達したのか口を切ったのか、京は唇の端に血を滲ませている。
 回復出来るとは言えダメージはダメージだ。
 蹲ったまま彼女はかすかに震えている。この様子では最早戦闘になるまい。

 ――そう、勝利の筈だった。

 だが、いつもの興奮はそこにない。あったのは漠然とした寂寥感と虚ろな後悔だけだ。
 虚しすぎた。
「くそっ!」
 殴る。だから殴った。
 その白い顔面を思い切り京二は殴りつけた。
 為すがままにそれを受け、京はその顔を腫らしていく。
 京二は、泣いていた。わけも判らずに。
 溢れた涙は重力に惹かれ、赤く染まった彼女の頬に零れ落ちる。
「かな、しい……ね」
 目も口も半分しか開かぬような状態で彼女は笑みとわかるそれを作って見せた。
 腫れ上がって、それでもその表情は美しく見え――

――拳は、止まった。

 荒い息のまま立ち尽くす。
 彼にはその美しさも、口から漏れ出た言葉も、何もかもが腹ただしかった。
 見下されている。
 それは、彼の精神に纏わり続けてきた――全ての元凶ともいえる“もの”だ。
 京二は牙を剥くように言った。
「何様のつもりだ」
「……さぁ?」
 飽くまで澄ました様子だ。
 なら、もう一発だ。腕を振り上げる。
「いいかげ――!」
 瞬間、京二は左頬を打ち抜かれて転がった。
 腰も体重も使わない腕力だけの物だった筈だが、上った血の所為で視界外からのそれに対応できなかったのだ。
 じわ、と熱い痛みが広がる。
 ずれた眼帯から左眼の血が滲んでいた。
「……いい加減にするのはそっちだよ」
 低く、静かに京はそう呟いた。
 憐れむような声ではない。それは決して哀しみを含んだ物ではない。
 端にたまっていた紅がその細い顎に伝い、地面に一粒の染みを作る。今度こそ唇を切ったのだろう。
 だが、その傷も無造作に拭う右腕が通り過ぎる間に消えていく。
 折れた左腕を元の位置に戻して、京はしゃがんだ京二を見据えた。
「甘えるだけ甘えて、これでもまだ気がすまない? いい加減にしてよ」
「甘える、だと?」
「勝手に付いて来て、勝手をされたからって怒り出して、挙句殴っておいて『いい加減にしろ』だの『何様のつもり』だの……まるっきり子供じゃない」
「…………」
 言葉を返せない事が、これほどまでに悔しいと思った事は、京二にとって初めてのことだ。
 ――そしてそれは、自らの胸中に明らかな心当たりがあると言う事だということも。
 捨て去った筈の自己嫌悪と羞恥。封じ込めきれなかった感情がじわり、と滲み出す。
 俯いたままの京二に、京は追い討ちを掛ける様に言った。
「そこまであたしが邪魔なんだったら一人で行って死ねばいいじゃない。あたしの代わりに手足を切り刻まれて、白い部屋に閉じ込められてればいい」
 彼には、最早沈黙で応えること以外、何も手立ては残されていなかった。
 初めから彼女に敵う訳も無かったのだ。
 “人間”を捨て去る事も叶わず、自らを、状況を憎む事しか出来なかった京二。
 気が狂いそうなその“全て”を通り、逃げ延び、打ち破り、乗り越えた果てにここに立つ京。
――俺は
 ボロボロになったスーツを翻し、傷だらけになったストライク・ガンを拾い上げると、京はもう一度向き直る。
 呆然としたような、何かが抜け落ちてしまったような表情で京二は顔を上げる。
 だが、京の白い頬に光は届かず、表情は読めなかった。
 少しの間を置いて呟きが風に乗った。
「……じゃぁ、元気で」
 彼女が振り返る事は、なかった。

 やがて、あの爆音が夜の大気を震わせ、遠ざかって行く。
 耳を背ける事も無く、京二はただそこに佇んでいた。


2:
 青梅街道を都市部から西に抜け、山間の村を潜った所にそこはある。
 美しい緑と透き通った水の流れる沢。表情こそすぐ変えてしまうが、今は透き通るような青空が広がっている。
 標高はそれ程でもない筈なのだが、雲が近い。灰色の都会を見慣れた目には眩しすぎるような光景がそこには広がっていた。
「……私がこうやっているのも妙な話だ」
 黒塗りの車から降りるなり、岸武はそう漏らした。
 積んできた荷物を無造作に引っ張り出し、途中で桶と柄杓を拾い上げると徐に歩き出す。
 立ち並ぶ石――墓石だ。その中にある一つの前にかがみこむ。
 本来ならば、自分が先にこの中に入るべきだった。そう思うことは無いにせよ、その声からはどこか感慨めいた感傷が感じられた。
 刻まれた名は“旗瀬”。
 ――襲撃の失敗から3日が過ぎた。
 昼時の鋭い日差しは、山間部特有の冷気に緩和されて幾分柔らかい。都内とは思えぬ、粉っぽさのないしっとりとした優しい空気だ。
 その老眼鏡に隠された瞳から鋭さが消え、懐かしむような表情で岸武は語り掛ける。
「京二もお前も、ただ巡り合わせが悪いだけだった……違うか? 龍一」
 応える者はいない。
 鳥と蝉の合唱の中にそれは溶け消えてゆくばかりだ。
 ベレー帽を取り、胡麻塩頭を撫で付けて線香に火を点ける。
 特有の甘い香りが広がると、彼は傍に置いておいた花を真新しい金属の花瓶に活け始めた。
「お前もあいつも、何も悪い事はしていなかった……お天道様が、世の中が許さずとも、お前等は正しいことをしていた。私はそう思って止まない」
 余分な茎を切り終わり、華の向きを整えて手をあわせる。
 ゆっくりと、何を願うでもなく自らの心を澄ましていく。
 ――彼は思うのだ。死者への手向けは、飽くまで生者の為のものであると。
 それの死を教訓として無駄にせず、悲しみばかりに心の眼を奪われぬ様に……それは自らの行った行為への反省と代償の精算をする為の事であると。
 閉じる時と同じか、それ以上の時間を掛けて彼は眼を開いた。
 胸ポケットに入れられた白枠に薄青のパッケージを取り出し、一本に火を点ける。
 ふわ、と漂う辛味のある味が今、心地良かった。
「……お前は、吸わなかったか」
 溜息を吐くように、肺の残りを搾り出す。
 もう一口吸い込んで彼は徐に立ち上がった。ベレー帽をかぶり、老眼鏡の位置を合わせる。
「――私に出来る事は最早、限りなく少ない。息子も敷島の手の内だ。望みは限りなく少ない……だが」
 不意に山から下りてきた冷たい風が一瞬だけ無音の世界を作り、彼の言葉を攫った。
 恐らく、その先は旗瀬にも聞こえてはいまい。岸武は疲れたように笑うと、砂利道から石段へと降りて車へと向かった。
 振り向くことは無かった。
 最早やる事もやるべき事も全ては決してしまった。例えそれが自らのみに課した矜持でも。
 換気の終わった車内に滑り込む。
 岸武は目を細めてそのアクセルを踏み込んだ。
 溜息は、深く、長い。

 来た道を戻らないのは、ある種癖と言ってもいいだろう。
 長年の凶行の果てに染み付いた癖だ。そうは消えない。彼は“組織”子飼いの暗殺者として、長らくその地位を守ってきたのだ。
 青梅街道から五日市街道へと抜け、だらだらとした渋滞を眺める。芳しい状況とはいえなかったが、車で来てしまった以上仕方あるまい。
 余裕の出来た思考が、先の続きを流し始めた。
 彼と京二の関係はそれなりに古い。
 当時、武力闘争の機運が高まっていく中、人数こそ増えつつはあったが、組織は切り札を欠いていた。そこで起用されたのが岸武だ。
 異国の戦場で自らの腕を持って生き長らえた彼が、その技術の全てを以って戦士に仕立て上げる――それが彼に課された使命である。
 そして、京二と龍一は切り札となるべくして岸武に預けられた兄弟弟子であり、彼の愛弟子だった。だからこそ岸武は敷島の策に全てがはまって行った時も、最後まで抵抗した。
――だが、全ては。
 そこまで考えて彼は頭を振った。思考が落ち込めば、行動にも何がしかの影響は出てしまう。
――だからこそ、ケリをつけねばなるまい。
 そう考え直す。
 ふと、彼は思考を引き戻した。
 目線だけで見たミラーに先ほどから同じ影がちょろちょろと消えては出てくる。
 明らかにこちらを尾行している様子だった。気になってはいたのだが、この渋滞では仕掛けようもあるまいと放っておいたのだ。
 見覚えのある赤い車体はすり抜けも出来ぬ幅の道路に苦しめられているようだ。
 車両による尾行は身一つよりも難しい部分がある。特にこういった融通の利かぬ道路では尚更。
「……京お嬢、か」
 彼女は京二と関係があった頃に岸武の手解きを幾つか受けている。
 師に相対して尚ばれぬ尾行など、そう在るものではない。まして彼女はその点に於いて未熟なまま、かの運命を辿ったのだ。
 相手が何を考えているのかは判らない。何せ、岸武は前回彼女によって撤退を余儀なくされたのだ。
 だが今、彼の後にいる彼女からは不思議とその危険な匂いは感じ取れない。
 慎重な判断が必要である事に変わりは無かったが、何処からとも無く湧きいでる気分の所為か、放っておく気になれないこともまた事実だ。
「……ふむ」
 車は丁度、大き目の交差点にたどり着こうとしていた。信号のパターンからして、歩行者を轢く心配はそれほど大きくは無い。
 ならば。
――少し、相手をしてやろう。
 弛みかけのまま時を止めたその頬を少し吊り上げて、岸武はハンドルを切った。突然左折した岸武の車に、京は噛み付くような素早さでその尻に喰らい付く。
 その潔い行動から見て、もとより気付かれるのは承知の上なのだろう。
 中々面白い。
 久し振りの高揚感が彼を包み始め、老練な“殺人”担当教師の横顔がその面影を取り戻す。
「では、これはどうする?」
 細い脇道から高架道へと車を進める。
 恐らく向こうも組織IDは生きたままだろう。神暮は京と京二のIDを消す事を頑なに拒んでいた筈だ。ならばETCでの通り抜けが利く。
 高速道では車線変更もさることながら、それ以上にコースの設定――どの車線が一番長く走られるのかを見極める事が重要となる。
 そこに加えて、岸武の乗るセダンは大排気量エンジンにターボ・チャージャーと足回りの強化が施されたチューンド・カーだ。
 今の時間、その機能はフルに活用できない。だからこそ、空いた瞬間がポイントとなる。
 制限速度の3倍以上でゲートを潜り抜け、バックミラーに紅い車体が映っている事を確認すると、岸武はシフトを一速落としてアクセルをフルに踏み込んだ。
 リアホイールに断続的な悲鳴を上げさせながら、黒塗りのそれは爆発的な加速を見せる。
「――相変わらずだわ」
 あきれたように呟く。
――ヘルメットを買って置いてよかった。
 そんな風に小さく笑いながらもヘルメットのダクトを閉じ、見る見るうちに遠ざかるそれを追うべく、彼女もまたギアを一段落とした。
 咆哮。
 地の底から響くようなそれが轟き、公道レーサーとまで謳われたジャジャ馬がその尖った鼻面を僅かに持ち上げる。
 いつもは不貞腐れたように地面を照らす片目を、睨みつけるかのような両目に切り替え、前輪が接地すると同時に彼女はアクセルを一気に開いた。
 風が猛威を振るう。何処までついていけるか。
「……ふむ」
 右に左に車線を変えながら、時折視界を広げてミラーを覗く。流石に排気量の差は大きいが、どうにか付いて来ているようだ。
 ちら、と見たデジタルメーターは既に法定制限速度の2倍を優に超している。
 微かな揺れすらないハンドルは調整された足回りと剛性の高い車体の賜物だ。
 対する京の車種はある程度しなる車体を以って、コーナーを制するタイプだ。直線とは言えこの速度は中々に厳しいだろう。
 一瞬だけアクセルを緩め、重心が前に移った所で丁寧にハンドルを回す。車体は白線をなぞるようにカーブを抜けていく。
 段差に躓いて飛ぶようであれば……そこまでの相手だと言う事だ。
 岸武はにやと笑って抜けるのを待つ。と、不意に無線が入った。
『莫迦にしてるのかしら、岸武さん?』
 一瞬沈んだフロントが見え、それこそ道路を切り裂かんばかりのアウト・イン・アウトで、彼女は一気に岸武の横へと切り込む。
「ははははははっ」
 正直ここまでやるとは思わなかった。
 だが、折角だ。勝負はここからとしようじゃないか。
 あと4km程度で丁度ジャンクションに差し掛かる――あと、一分もない。
 看板が猛烈な勢いで遠ざかり、見る間に分岐が迫る。
 許される距離ギリギリで左右どちらかへと入るつもりだった。間違った方向に入れば、環状線を一周して戻ってくる他無い。
 フェイントでハンドルを僅かに振るが、流石に反応しない。
「……大した物だ」
 あの目を持つだけのことはある
 ――そう、彼女は不死検体としては初めて、身体能力拡張の強化を施された人間だった。
 鷹の目。
 その名の通り、ずば抜けた視力と反射神経を持つ。能力からすればもとより、岸武や京二が敵う相手ではない。
 ならば物理的な有利さを使う。車体はこちらのほうがはるかに大きく、重い。
 岸武は徐にハンドルを回してサイドブレーキを引いた。と、その黒塗りの車体は道を塞ぐようにしてスピン状態に入る。
 2車線しかないここで意図的にやるのは自殺行為とも言えたが、岸武には容易い事だ。
 と、ブレーキングから、彼女は大きく横に出て右車線から路肩へと飛び込んでいった。追い越す気だ。
 見抜かれている。尾行の腕はどうにも素人だったが、バイクの扱いはプロかそれ以上だ。
 アクセルを開けることしか出来ぬサルとは違う――それは先のコーナリングでも判ってはいたのだが。
 岸武は車体が進行方向を向く少し前にアクセルを慎重に踏み込んだ。あっけなく車はスピンから脱してレーンへと向かう。
 後一歩の所でまた加速に振り切られ、彼女は舌打ちと共に右手を捻った。


 ランプを走る車を追い越し合い、再びのフェイントも見破られた所で、ようやっと岸武は車の速度を下げた。
 十分だ。十分楽しませてもらった。
 儀礼としてハザード・ランプを2度点灯させて、高速道から一般道へと下る。
 大通りから少し外れた駅前通りで、彼は車を止めた。
 パーキング・メーターが立ち並ぶそこは繁華街とも商店街ともつかぬ中途半端な場所だ。徐に車を降り、到着した京へと歩み寄る。
「久し振りだね……いや、そうでもないな。この間は世話になった」
「会うなり嫌味ですか。相変わらずで」
「君も人のことは言えまい」
「違いない、です」
 そう言って2人は笑った。
 煙草に火をつけて、岸武は親指で一角を指す。
「あそこに美味い珈琲を出す喫茶店がある……どうかね。私に用があるのだろ?」
 いいですね、と笑ってから彼女はこう付け加えた。
「まさかカーチェイスをする羽目になるとも思いませんでしたけど」
「たまにはこう言う刺激も良かろう。いかんせん血腥さすぎる」
 その皺の奥に深い哀愁のようなものが見て取れる。以前の岸武はもっと鋭く、全てに戦いを挑むような目をもっていた筈だ。
 唇を噛み締めるようにして、咥えた煙草を斜めにしながら岸武はどこか遠い視線を彼女に向けた。
「立ち話も何だ。老人の遊びに付き合ってもらったお礼に一杯ご馳走しよう」
「頂きます」
 京は独り、時の流れに思いを馳せた。
 京二と、この岸武の歩んできた道に。


3:
 一人佇む事には慣れていた。
 京が傍にいたときも京二は常に孤独を望んでいた、その筈だった。
 浮かぶのは在り来たりな文句だ。
 失って初めて気付く――そんな風に思いたくは無かったが、思わざるを得ない自分が確かにそこに居る。
 苛まれるほどでなく、どこか引っ掛かりだけを残すそれは、ベッドに寝転がる彼に、意味の無い寝返りを幾度と無く打たせた。
 あれから、公園での決闘から2日。
 京が去った後のそこには、京二の為に買った洋服の類が片方のバックごと残されていた。
 それが彼女の律儀から来るものか、はたまた持っていて役に立たぬものを置き捨てていったのかは判らなかったが、彼にとってそれが思わぬ幸運であった事に違いは無い。
 兎にも角にもボロボロになってしまったスーツを処分し、それらを着込むことで見た目を整える事は出来た。
 あとは簡単なことだ。
 傷だらけになった45口径を再び腰に差し、偽名と架空の住所を宿帳に書き込み、彼は今クッションの効いたベッドの上に居る。
 組織の息がそれほどに掛らぬグループ、という理由で選んだここはそれなりにランクの高いホテルだったが、金は如何とでもなった。
 脱走した当時、報酬の振込先となっていた口座が不思議と生き残っていたのだ。
 彼は気付くや否やすぐさま全額引き出し、架空の名義をでっち上げて幾つかの地方銀行へと分散させた。
 何せこのご時世だ。あとは、クレジット・カードさえ有れば如何にでもなった。現金を引き出すにせよコンビニエンスストアさえ有れば事足りる。
 背に伝わるのは、柔らかなベッドの感触。
 だが、それすら感じ得ぬほどに京二の思考は現実と自らの内を彷徨っていた。
「……俺は」
 いっそ、思考する事を止めてしまいたかった。
 だが、彼の内に起きた“変化”はそれを許さない。
 薄っすらと、だが確実に、失われた筈の記憶が思い起こされようとしていた。
 未だ断片に近いものではあったが積み上げられてしまえば、それは一つの流れとして彼に認識させようとする。
 見知っている筈の場所で、はにかむような笑みを向けている、京。
 食事をしている時。休日に嫌がる彼を無理矢理に連れ出して服を買いに行かされた時。照れくさくて、投げるように渡したプレゼントを見つめていた時。
 ――そして唇を、初めて身体を重ねた時。
 記憶の中の彼女はいつも嬉しそうに笑っていた。
 理屈は考えるまでも無かった。彼女が笑うのはいつも、彼が傍に居た時だ。
「……みやび」
 だが、それでも。
 彼は意思を曲げる訳には行かない。
 例え、決意を秘め、そのもとに行動するのが彼一人の判断でしかなかったとしても。
 殺した旗瀬や大導寺、そして神暮に報いる為にも――そう、京二はここまで踏み込み、来てしまったのだ。後戻りなど許されない。
 唇を噛み締める。八重歯に貫かれたそれが鉄の味を口に広げる。
 皮肉なものだ、と彼はふと思った。
 失ったものの一つを取り戻しつつあり、しかしそれ故に彼の敵と化した嘗ての同胞がより許せぬものと思えてくる。
 カーテンを薄く開くと、鋭い陽光が差し込んだ。思わず目を細め、それからゆっくりと視線を下に落とす。
 眼下に広がる街は人で溢れかえり、マッチ箱のようなビルとビルの隙間は、まるで何かに群がる蟻の大群のようなそれが往来している。
 許せない。だが、いかな拘りのもとに俺は奴等を許さないのか。
 嘗て、神暮は言った。

『世はこれほどに腐り、人の温もりある世は今にも果てんとしている』
『革命をもたらすべく続けてきた我々の行動もいまや水泡に帰し、泡沫の夢と消え去らんとしている』
『そうまでして、自らの寂しさをより深化させてまで、人は己の寂寥を埋めんとしているのか――』

「……人って何だ。結局、俺に何を言いたかったんだ、神暮」
 答えなど無い。
 だが“応え”は確かに在った。
 ふと、京二は灰色の視界の中で窓に映る自らの姿を眺めた。
 Tシャツにされたプリントに少しの違和感を感じたのだ。
 やがて、その正体に気付く。右胸のあたりに付けられた小さなアクセント、赤だ。
 彼が唯一の色として認識できる色であり、そして、それは風になびく獅子の髪――京。
 気付けば視界の全てが揺らめいていた。頬を伝う感触に思わず手を触れる。
 何故涙が溢れるのかは判らない。
 だが、彼は町が紅く染まるその時まで――静かに、独り泣きつづけた。