"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A13"Merry Christmas for Lovers!"/The Sword of Wish


 AD1310、死の月23日――

 どいつもこいつもクリスマス。まったくもって気に入らない。
 どだい、クリスマスというもの自体が嫌いなのだ。あれは英雄セレンが異界から輸入した文化の一つで、元々この世界の行事ではない。サンタクロースだかなんだか知らないが、得体の知れない異界の神ふぜいに、テンション上げてやる義理はない。
 ましてや、恋人同士がいちゃつくだけのくだらないイベントなどに。
「さ〜いれんな〜。ほぉ〜おりいなあ〜」
 が、クラスの愚民どもにとってはそうでもないらしい。とりわけお調子者のリッキー・パルメットなどは、早くも先週からトナカイの着ぐるみではしゃぎ回るほどの盛り上がりようだ。うざい。
「よーよーよーよーカッジュせんせーっ! 何浮かない顔しちゃってんのぉ! あ・し・た・は、クリスマスイブだぜええ〜っ?」
「だからどーした」
 授業後、講義室の机で教科書片付けているカジュに、リッキーが後からもたれかかってくる。トナカイの角がごっつんごっつんぶつかってマジうざい。
「どーしたって! お祭りだろ? クリスマス休暇だろ? みなぎってくるじゃねえかああ!」
「キミがみなぎるのは勝手だけどね。3日も前からサンタ服でつきあわされてるロータスがかわいそうだよ」
 赤いふかふかのワンピースに身を包んだロータスが、顔を真っ赤にして、ポンポンつき三角帽子のすそを引き下げる。目もとを隠し、あの、あの、とためらいがちにカジュに耳打ちする。
「え? 実は? ちょっと楽しい?」
 こくこくうなずくロータス。
 このバカップルめ。
「はいはい。もう好きにして」
「オレが言いたいのは、だ!」
 ビシッとリッキーが指立てた。
「お前もクルスと行ってくりゃいいんじゃね?」
「どこへ」
「クリスマスデートだろ!!」
 ぞわぞわぞわぞわ。
 カジュの背筋が粟立った。
「……ぜんっっぜん興味ありませんが何か!?」



勇者の後始末人

“恋人に、メリークリスマス”




 クリスマスは恋人と過ごす日なのだろう。
 なんでそれをクルスなんぞと過ごさねばならん。
 クルスなんぞと――
 いや、“なんぞ”でもないのか?
 “だからこそ”なのか?
 このあいだ、雪山遭難したリッキーを助けたとき、ふたりきりで夜を過ごしてしまったのだ。それってやっぱり、“そういうこと”なんだろうと、思わないでもない。
 なら、やるべきなんだろうか。
 つまり、デート、とかを。
 でも、あいつはべつに、そういうのじゃ……
 思考が同じところをぐるぐる回る。そのせいで気づかなかったのだ。廊下の途中でクルスが現れ、声をかけてきたことにも。返事がないのをいぶかりもせず、横にぴったりついてきているのも。耳元に、触れそうなほどに唇を寄せてきたことも。
「ねえカジュ。」
「わあ!?」
 教科書抱いて飛び上がるカジュを、クルスはいつもの無表情で見つめる。男にしておくのがもったいないほどの美貌が、じっとまっすぐにカジュばかりに向けられる。この嫌な癖はいつものことだが、今日ばかりは我慢がならなくて、カジュは彼を振り払うように脚を早めた。
「どうしたの。」
「別に」
「そう。ねえ、劇団ナフトル、知ってる。」
 これはまた妙な単語が出てきたものだ。劇団ナフトルといえば今エズバーゲンで話題の歌劇団。胸にくる恋愛ものを演るとかで、昨年あたりからずいぶん人気が高まっている、とは聞いたことがある。もっとも、演劇などカジュには何の興味もない世界であったが。
「知ってるけど?」
「クリスマス公演があるんだ。」
「ふーん」
「行こうよ。いっしょに。」
 と、クルスが焼印が捺された木札のチケットを2枚、唇の前に広げる。
「行こうって……」
 ごく落ち着いた声でそういいかけて、はた、とカジュは気づく。
 いま、こいつ、なんて言った?
 演劇?
 クリスマス?
 ――ふたりで!?
 みるみる頭に血が上っていく。今ならおでこで炭酸水素Naが熱分解させられる。石灰石とコークス加熱して二酸化炭素を生成、アンモニアと塩化NaとCO2でNH4ClとNaHCO3、熱分解して炭酸Na、塩化アンモニウムは強塩基で弱塩基遊離でアンモニア回収の再利用、物質量比1:1めでたしめでたし!
「めでたくないし!」
「なにが。」
「なんでもないよ! なにゆってんの!!」
「……いやかな。」
 彼の表情が、僅かに曇る。
 悪いことをしたかも、と心に差した罪悪感が、うっかり本音を引き出した。
「やじゃないけど」
「じゃあ、行こうよ。」
 心臓が、止まってしまう。
 カジュはからだじゅう真っ赤に茹で上がって、壁にコツンとおでこを当てた。
「……ふゅん」
 どうやら“うん”と言ったらしい。
 クルスは微笑んだ。彼の乏しい表情が読み取れるようになったカジュには分かる。ほっとしているのだ。おなかのあたりをザワザワとかき回されるような、背中を手のひらでくすぐられるような、そんな笑顔だ。
「よかった。ボク、ほんとうは……。」
「……ぉぉぉぉぉおおおおおおおリッキーキーック!!」
 そのとき、いきなり背後からダッシュで突っ込んできたリッキーのドロップキックが、言いかけた言葉ごとクルスをぶっとばした。ふたり絡まりあって倒れこみ、尻餅ついてケラケラ大笑い。
「よっしゃあああああああ! やっるじゃねーかクルスこのやろーっ! フロントチョーク!」
「ありがとー。クルスぼんばー。」
「おげぅ」
 締め技から抜け出したクルスの二の腕が、リッキーの顎の下にきれいにキマる。そのまま倒れたリッキーを押さえ込む。
「お、う、おい、キメろよな、クリスマスデート。あ、ギブ、ギブ」
「がんばってみるよ。きゃめるくらっち。」
「ぇぐぇ。ちょ、しぬ、ちょ」
 そんなふたりをおろおろ見るばかりのロータスと、まだ壁にもたれたまま立ち直れないカジュ。そんな光景を、好奇心旺盛なクラスメイトどもが見逃すわけがない。いったいどこから湧いたやら、わらわらと人が集まり始める。アニもオーコンもデュイも、一般クラスのやつらまでも、人垣作ってはやし立てる。
「なんの騒ぎ?」
「クルスがカジュに告ったって」
「マジで!?」
「デート誘ってたよ」
「クリスマスに」
 うおおおお、と歓声。
「劇団ナフトル」
「きゃー! ちょーロマンチックー!」
「すごーい! クルスやるーう!」
 いつもの無表情をなんとなくアホ面ふうに崩して、リッキーに三角締めしながら、クルスは手を振り観衆に応える。
「お幸せにー!」
「しっかりやれよーっ!」
「あ。どうも。どうも。」
「……どうもであるかああああああああ《鉄砲風》―――――っ!!」
 ずどがあああああああああああああん!!!
 カジュの怒りの呪文一発、あたりの全員が吹っ飛んだ。

 矢のように寮の部屋に飛び込み、さあ、途方に暮れる。混乱した頭で最初に考えついたのは、定時馬車の時間を調べることだ。職員室の掲示によれば、朝、昼、夕の1日3便。夕方では夜の公演に間に合うまいから、昼に出発。向こうまで2時間ほどかかったとして、随分時間に空きがある。どうしよう。ごはん? 食べてもまだ余る。何する? どこいく? なんにも知らない! 慌てて図書館に飛び込んで、資料を探す。だが、法語の特殊構文リファレンスはあっても、観光ガイドなんてどこにもない。無限次元ベクトル空間は分かっても、デートのやり方は分からない。そうだ、肝心なことを忘れていた。服だ! 部屋に引っ返しクローゼットを漁る。何もない。そりゃそうだ、法衣と寝間着と普段着くらいしか持ってないのだ。いや、それどころではない。カジュは女だ、いちおう。ならば、化粧くらいするべきか? 7歳がやったらかえっておかしいか? 何が正解? 何が間違い? もうなんにもわからない!
 散らかりまくった部屋の中で、それ以上に散らかった頭を抱えて、カジュは力なくベッドに倒れ込んだ。
 心臓が、信じられないくらいに興奮して。
 それが、カジュには鬱陶しい。
 と、誰かが部屋の戸を叩いた。クルスじゃあるまいな。こんな顔、見せられやしない。
 だが、かかった声の主は、予想外の人だった。
「あの……わたし、ロータス……」
 安堵の溜息をつき、戸を開けてやると、サンタの衣装の奥でロータスが控えめにはにかんでいる。
「なに?」
「あの、これ……」
 彼女が胸に抱えているのは、鏡だった。脇には竹のバスケットも提げている。そのフタを開けて見せてくれたのは、よく分からない小瓶、筆のようなもの、ハサミ、そのたもろもろ。
 首を傾げるカジュに、ロータスは嬉しそうに言った。
「おめかし、手伝お、と……思って」
 消え入りそうな彼女の声が、こんなに頼もしく思えたことはない。

 彼女の“おめかし”は、実に手慣れたものだった。
 鏡の前にカジュを座らせ、後から髪を梳いて、複雑に編み上げていく。カジュは思わず感嘆の声を挙げた。これが自分だろうか。ほんの少し髪を上げるだけで、薄桃色のブローチを噛ませるだけで、こんなにも違って見えるものなのか。
 ロータスの技は、さながら魔法のようであった。術師のカジュをしてそう思わせるほど、そこには驚異が満ちていた。
「いつもこんなことしてるの?」
「うん……」
「めんどくない?」
「あの、リッキーが……」
 頬を桜色に染め、言葉の最後は、やっと聞こえるかどうかの小声になって、
「かわいいって……言ってくれるから……」
「聞いたカジュがバカでしたーっ」
 髪型をいじり終わると、ロータスはカジュの正面に回りこんだ。小瓶に詰まった液体、粉、そういうものを筆か刷毛のようなものにつけている。カジュはふと不安になり、
「化粧、するの?」
「ちょっとだけ……カジュ、きれいだから」
 そう言われて、悪い気はしなかった。美の魔法使いのなすがままに任せた。自分のからだをいいように弄ばれる、どこか歪んだ快感。企業の研究員どもにいじられるのとはいささか異なる、蹂躙の心地よさ。
 ロータスの体温を間近に感じている間に、あっさりと化粧は終わった。
「……見て」
 言われるままに鏡を見て、カジュは言葉を失った。
 自分で言うのはおこがましい。だが彼女はとっさに思ってしまった。
 ――これは、美少女だ。
「どう……かな?」
「すごい……」
 鏡の向こうで、ロータスが声もなく笑っている。
「服もあるから、あの……」
「ありがと」
「きっと、クルスくん、かわいいって言ってくれるよ……」
「かもね」
 だが。
 これで問題は解決したはずなのに。
 高揚はひとときで流れて潰え、再び不安が頭をもたげた。
 確かに服のことは解決した。ついでに髪も化粧もちゃんとできた。ロータスには感謝の言葉もない。しかし彼女の手練の見事さが、かえってカジュを苦しめる。これが女子というものなのだ。勝負に挑む前段階でさえ、みんな、これほどの技術をもって変身を遂げるのだ。
 では、その先に一体どれほどの手練手管が要るというのだ?
 着こなしや化粧や髪型作りと同じだけの、ひょっとしたらそれ以上のノウハウが、そこにはあるはずだ。なのにカジュは何も知らない。こればっかりはロータスの助けも借りられない。デートの場についてきてもらうわけにはいかないのだから。
「どうしたの……?」
 鬱々としたカジュの心を読んだか、ロータスがそっと肩に手を添えてくる。
「……なんでもない。服、見せて」
 彼女に、これ以上迷惑はかけられない。
 これは、自分で解決すべき問題だ。
 そんな気がした。

 なのに答えは出ないまま、朝はいつもどおりやってくる。
 ロータスに借りた服、作ってもらった髪形、施してもらった化粧。その姿は全身鎧に長剣と凧盾を携えた騎士にも似て壮麗。完全武装で目指すは校門だ。そこに敵はいる。クルスがいる。ふたりで馬車に乗り、街に出かけ、そして、やるのだ、いろいろな、ことを。
 後れを取るわけにはいかない。
 これは女の戦いだ。
 胸の中でもやもやと渦巻くものを無理やり押さえつけ、怖気づきそうになる足を辛うじて奮い立たせ、カジュは、戦場へと、一歩を踏み出した。
 と、そのときだった。
「LN502号!」
 背後から製造番号を呼ばれて、カジュは、ギッと骨を軋ませ振り向いた。

 待ち合わせは校門前。今日からクリスマス休暇。開け放たれた門から、学生たちが外の世界に溢れていく。丘の下へ駆け降りて行く者、ひさびさの外界をじっくりと眺めながら歩む者、他愛もないいつも通りのおしゃべりに興じる者。心のうずくようなざわめきと、我慢しきれず巻き起こる歓声。
 その中で、門柱に背中を預け、彼は白い息を吐きながら待っていた。コートのポケットに両手を突っこみ、足先で芝の上の霜を払ってやりながら――
 人ごみの中からその姿を見いだしたとき、カジュはうすぼんやりした不安に襲われた。冬の清らかな陽射しを浴びるクルスの姿は、白い光を放つかのように鮮やか。そこが踏み込むべからざる聖域に思えて、彼の元へ進む足が止まる。
 だが、校門に向かう人の波が、彼女のためらいを許してくれない。誰かに軽く背中を押され、カジュは列からはじき出されて、気が付けばそこはクルスのそば。
「やあ。」
 クルスが微笑む。
「……うん」
 不機嫌に顔を逸らしながら、それでもカジュはちらちらと彼の表情を窺う。いつもの無表情がほんの少しだけ緩んだ。
 クルスは囁いた。
「すてきだ。カジュ。」
 嬉しさと不安と緊張と興奮と、言い知れないからだのうずきが綯い交ぜになり、カジュの中を駆け巡った。
 行こうか、と穏やかに言って、クルスが歩き出す。
 カジュはためらった。
 でも言わなきゃいけなかった。
 ――いや、言ってしまいたかった?
「クルス!」
 呼び止められ、彼が無表情をこちらに向ける。
「あの……ごめん。実験、入っちゃった」
 時間が凍りついた気がした。
 彼は何も言わない。
 カジュの舌が無用の流暢さで動き回る。
「リガノフ先生にいきなり宿題出されちゃって。明日までにトーニキロン反応のデータ取っとけって。ふざけた話だよね。あれ先生の研究だよ。ていよく生徒を助手代わりに使ってくれてさ」
 沈黙。
「クリスマスは、また来年にしよ」
 沈黙。
「……ごめんね」
 沈黙――
 やがて。
 無限に思えるほどの時間が過ぎて、クルスはいつものように、優しく微笑んだ。
「そっか。しかたないね。」
 でも、カジュの目はごまかせない。
 気の抜けた言葉。今まで見せたことのない、カジュにすら感情の読めない、微妙な表情。
 クルスは寮のほうに戻っていった。
 ずきりと胸を痛めるカジュを、ひとり、その場に残して。

 実験室は、このあいだ一夜を明かした雪山よりも冷たく、これまで過ごした幾千の夜よりも深く静まり返っていた。
 ひとり、ガラス器を手早く組み立て、薬品を調整し、ピペットで汲み上げては並べた容器に注いでいく。反応を起こす前に手早くレーベンス処理をせねばならず、その際の分圧比には有効数字3桁目の誤差さえ許されない。簡単に見えて、実はかなり微妙な操作を要求される実験だ。とはいえ、カジュの卓越した技術を以ってすれば。
 カジュはもう気づいていた。昨夜、あれほどロータスの技に感動したのに。今となっては、あれがただの児戯に過ぎなかったとはっきり分かる。美の魔法使いと呼ぶべきひとの技術は、おそらくあんなものではない。もっと崇高で、恐ろしくスマートで、素人目には凄みがさっぱり分からないほど、はるか高みに存在するもののはずだ。
 そう。今、カジュが自らの手で進めている作業のように。
 リッキーが戸をあけて入ってきたことには気づいていた。だが彼女は無視した。何を喋っていいか分からなかったし、何か喋りたい気分でもなかった。
「手伝おっか?」
 呆れ半分に目を細めて、リッキーが言う。カジュは振り向きもせず、
「どういう風の吹き回し?」
「こないだ世話になったお返し」
「殊勝な心がけだね」
 カジュは肩をすくめる。
「でも、いいよ。セットしちゃえば計測は1時間おきだし。あのときの貸しは、もっと大事なときに返してもらうから」
「大事なときって」
 責めるような言葉が、背中に痛い。
 リッキーは溜息まじりに言った。
「……どうかしてるよ」
「いつもどおりだよ」
「いつものお前なら『こんなのやらされる筋合いありませんが何か』くらい言ってるよ!」
 カジュの手が止まった。
 単に実験操作が終わってしまっただけだ。彼の言葉に打ちのめされたわけではない。
 だが、手持ち無沙汰になってもなお、彼女は振り返りもしなければ、言葉を返しもしなかった。
「ほんとにいいのかよ? クルス、楽しみにしてたぞ。お前だって」
「行ってきなよ。ロータスと約束してるんでしょ」
 それっきり。
 ふたりの間に、言葉は無かった。
 リッキーの姿は消え、カジュは椅子に腰掛け、読書しながら暇を潰した。
 定期的に計測を行い、実験ノートにペンを走らせ。
 僅かな仕事を終えると、また本の世界に没頭した。
 夕日を浴びながら、ひとり。

 器具を片付け、実験ノートを職員室に提出し、誰もいない渡り廊下を戻るころにはもう、半分近く欠けた月が東の山裾から昇り始めていた。
 もうじき夜半を迎える。クリスマス・イブが過ぎていく。もう少しで時間切れ。もう少しで終わる。もう少しで――
 ――もう少しで、解放される?
 溜息をついて、カジュは窓におでこをくっつけた。冷気が肌にはりつくようだったが、その寒さも罰として受け入れた。
 ――カジュは、ずるい。
 と。
 窓の向こうで、夜空にふわりと飛び上がる小さな人影があった。《風の翼》の術だ。背丈からして生徒らしい。じっと目を凝らし、それがよく見知った人物であると気づいたとたん、カジュは駆け出した。
 長くもない足を懸命にばたつかせ、慣れない運動に息を切らせて、中庭に飛び出すと、
「《風の翼》っ」
 不可視の翼を羽ばたかせ、少女は夜空に舞い上がる。
 澄み切った空。
 張り詰めた静謐。
 さざなみのように心ばかりが逸り。
 ついに彼の姿を見出した。
 鯨の背のような丸みを帯びた屋根の上に、彼はいた。クッションを敷いて、膝を抱えて、毛布に肩を包んで、じっと、街のほうの空を見つめているようだった。その後ろにカジュは降り立った。
 降り立って、黙った。
 この期に及んで、勇気がなかった。
 でも、彼もまた、何も言わない。
 その沈黙に導かれ、カジュは囁くように、呼んだ。
「クルス」
 クルスが振り返る。いつもどおりの無表情で。
「やあ。」
「……ごめん」
 彼はまた、自分の仕事に戻ってしまった。闇を見つめるという、大切な仕事に。
「もういいよ。」
「そうじゃなくて」
 言葉に詰まった。何をためらう。なぜここまで来た。言うなら今しかない。言わなければ生涯悔やむことになる。そんな気がする。だから、
 ――行けっ!
「邪魔が入って、今日、行けなくなって、カジュは……ほんとは……ほっとした」
 クルスは何も言わない。
「誘ってくれたのは、うれしかった。でも、何していいのかわかんなくて。何が起きるのか、わかんなくて。怖くて……カジュは、逃げた。
 だから、ごめん」
 白い息が、カジュの頬を包み込む。
「寒いでしょ。」
 振り返ったクルスは、微笑んでいた。
「ひとりぶんしかないけど。おいでよ。」
 そう言って広げて見せた毛布と座布団は、確かに、ひとりぶんしかなかった。

 いかにからだの小さいふたりとはいえ、ひとつしかないクッションを共有し、一枚しかない毛布を纏うとあっては、吐息がかかりあうほど密着するしかない。遠慮したせいでおしりがクッションからずり落ちそうになり、クルスの腕がそれを支えてくれる。腰に回された手の感覚にからだが熱くなり、同じように相手の体温も上がっていき、ぬくもりは混ざり合って融合した。ふたりはひとつのものとなって、四つの目で、同じところを眺め続けた。
「……ごめん。」
 彼の息が耳をくすぐる。
「実はボクも……。ほっとした。」
 訝るカジュに、クルスは苦笑する。
「わからなかったんだ。何していいか。」
「なんだそれ?」
「だいぶん勇気を出して、誘ってはみたんだけど。」
「無計画!」
「耳が痛いよ。」
 イタズラ心が起こり、カジュは、がぶりと彼の耳朶を噛んだ。
「痛。」
「おしおき」
「受け入れよう。」
「なんだ、偉そうに」
「虚勢を張っているんだ。」
 ふたりは笑った。
 ふたつの口から発してさえ、笑い声は、ひとつだった。
 そのとき、遠くの空に光の花が咲いた。
 わあっ、と思わずカジュは声を挙げる。クルスはこれを待っていたのだ。そういえば、誰かが噂していた。夜には街で花火が挙がると。それを一緒に見た男女は、永久に想いがつながりあうとか、なんとか、それらしい伝説があるのだと。
 そんな都合のいい伝説が、そんじょそこらにあってたまるか。
 そうは思うが、しかし。
 隣を見れば、クルスの瞳の中に、色とりどりの花火が煌いていた。
「ねえ」
「うん。」
「“好き”って、具体的にどういうことかな」
「うん……。ぜんぜん分からない。」
 光。遅れて、音が届く。
「ねえ、クルス」
「うん。」
「カジュは……。」
 口をでかかった言葉は、花火の音にまぎれて消えて。
 かわりに、後ろから招かれざる客が現れた。
「イッエ―――――ッ!! メッリークリッスマァース!!」
 ぼぱぱぱぱん! ぼぱぱんぱん!!
 いきなり背後で乱射されたクラッカーに、カジュは思わず飛び上がる。こんなバカなことするバカはあのバカしかいない! 振り返れば、リッキーのバカがひとりで4本もクラッカー握ってバカみたいな奇声を挙げている。いや、バカみたいなのではない。バカだ。
「なんだよキミは!」
「なんだキミはってか! そうです! わたしがサンタさんです!」
「酔ってんじゃねえのか」
「酒に頼るよーな偽物テンションでリッキー・パルメットが務まるかーっ! 差し入れ持ってきたぞーっ!」
 後ろから《風の翼》でふわりとやってきたのはかわいらしいコート姿のロータスで、手にはごちそう山盛りのバスケットが提げられている。声も無く、彼女がはにかむ。
「あの……あの……うん」
「何も言わないのかよ」
「よっしゃああああ! クリスマスパーティじゃああああ! やろうども!!」
「誰がやろうどもだ」
「めりくりーっ!」
「……………!」
 デュイ。アニ。オーコン。その他、クラスメイトが3、4人。屋根の上にわらわらとひしめき合って、烏合の衆がガヤガヤやりはじめる。飲み物の栓が音を立てて弾け、ローストした肉とふかふかプディングをカラスのようにむさぼりだす。
「よーし食え食え!」
「はいめりくりーっ!」
「……何回目だ」
「うるさいなーもーはい! めりくりー!」
「「めりくりー」」
「メリクリイヤッフゥー!!」
 隣でクルスが笑っている。カジュは広いおでこに血管浮かす。
「あ――――も――――おまえらうるせ――――っ!」
「申し訳ねえええええええええ! お詫びのしるしに肉どうぞ!」
「食べるけど!」
「オッス! カジュ先生オッス!」
「あ、花火!」
「たーまやー!」
「かーぎやー!」
「炭酸ストロンチウムー!」
「おッ、ちょいとオツだね?」
「じゃああれは?」
「蓚酸ソーダ……」
「からの、巨人鋼。」
 口を挟んだクルスに、周囲がおおっと声を挙げる。巨人鋼の炎色反応なんてそういえば見たことなかった。
「また来た!」
「硝酸バリ、と酸化銅?」
「はい質問! 配合比何対何でしょー!」
「知るかっ! 6:4くらいでしょ! 誰か分光分析してよ!」
「無茶言うな!」
「はいめりくりー!」
「「めりくりー」」
「めェりくり!」
「「めェりくり!」」
「メリクゥール!!」
「「メリクゥール!!」」
「メリクリウス・アントニヌス!!」
「「メリクリウス・アントニヌス・テオットドス!!」」
「誰それ」
「知らねーのかよ!!」
「知るよしもねーだろ!! メリクリー!!」
「「メリクリー!!」」
 ぜんぜん中身のない大騒ぎの輪から外れて、カジュは大げさに溜息をついた。横ではクルスがくすくす笑っている。睨んでやる。悪戯な微笑が返ってくる。
 カジュは彼以外の誰にも聞こえぬように、騒ぎにまぎれて、囁いた。
「メリークリスマス」
 応えもまた、ふたりだけのセカイの中に。
「メリークリスマス。」

With all Good Wishes for Christmas
and a Happy New Year!