NULL 第三話 減量遠征(リデューシング・エクスペディション)

 二〇三五年 四月三十日(月) 雨
 最近、何かがおかしいと思っていた。
 わたしの体の変調に、ハジメはまだ気付いていないようだ。彼が真実を知ったらどんな顔をするだろうか。まず、驚くことは間違いないだろう。戸惑いもするかもしれない。その後、彼は喜ぶだろうか。それとも、何か大きな間違いを犯したことについて、酷い後悔の念にかられるだろうか。前者であってほしい。
 さて、わたしの身に何かがあったときのために、わたしの体に現れた変調を、ここに書き記しておく。
 第一に、女性特有の生理現象がない。第二に、ときどきオエッとなる(特にハミガキをするときはよくなるようだ)。第三に、わたしの腹部は日々物理的膨張を続けている。
 これらの症状は、日増しに酷くなっているようだ。もはや無視できる状況ではない。幸い今日は午後から定例の健康チェックがあるので、そこで主治医に相談してみようと思う。
 その結果は、帰宅後、ここに追記するつもりだ――
(ナルの日記より抜粋)
 
「……は?」
 エリィは聴診器を持つ手を止めて、目をまるまると見開いた。
 彼女と向かい合って丸椅子に座るのは、真剣なまなざしのナル。冗談で言っているようには見えない。顔をかちかちにこわばらせ、荒い鼻息をエリィに吹き付けながら、身を乗り出してエリィの返答を待っている。
「……今、なんて?」
「だからっ! 妊娠してるんじゃないかって!」
 エリィは一気に力の抜けた体を、椅子の背もたれに投げ出した。一体何を言い出すかと思えば。
「あなた、自分の仕様は把握してるんでしょう?」
 ナルに妊娠する機能はついていない。本来なら搭載される予定だったのだが、ナルの成長速度が暴走していることが分かってから、卵巣や子宮の活動を制限したのである。
 それもそのはず、妊娠が可能な限り最も若い生後二ヶ月――つまり十三歳くらいで妊娠したとしても、中の子供が十月十日を経て産まれる頃には、ナルはもう八十歳になっている。どう考えても子供を産むことは不可能である。それどころかナル自身の肉体に深刻なダメージを与えかねない。
「で、でも……心当たりはたくさん」
「精力的なのは結構ですが、少しは控えなさい」
「生理だって来ないのにっ」
「そもそも機能がないんだからんなもん来るわけないでしょう」
「ハミガキするときオエーッて!」
「それを言うならお米の炊けた臭いでしょう? ハミガキの時は胃腸が荒れてりゃ誰でもなります」
「それにほらっ! 事実お腹がこんなに膨らんで!」
 ナルはシャツの裾に手をかけて、胸まで一気にまくり上げた。
 白い肌は緩んでいて、柔らかい肉に覆われている。特にお腹回りはなだらかな山を作っていて、指でつまめば取れそうなくらいだ。エリィはしげしげお腹を観察し、それから大きく溜息をついた。
「ナル……」
「はいっ」
「それはただの肥満です!」
 肥満――!
 肥満肥満ひまんひまんひまひまひまひまままままま――
 
 帰って来るなり、ナルはどんとちゃぶ台を叩いた。
「ハジメッ! 山行こう! 山登り!」
「は、はあ?」

 第三話
 減量遠征(リデューシング・エクスペディション)

「金剛山?」
 ケンジは顔を持ち上げると、露骨に羨ましそうな表情をエリィに向けた。今日はゴールデンウィークまっただ中の五月四日。社員の中にも休みを取って出かけている者は多いが、こんな最高の陽気に、ケンジは副社長室にカンヅメだ。こんなふうに、ときおり休憩を取って、ナルが拾ってきた子犬……サマーニャと戯れるのが唯一の楽しみだ。
「初心者にしては、ずいぶんきついところを選んだもんだね」
「お詳しいのですか?」
「昔は登山が趣味だったよ。最近は忙しくって、ちっともだけど。でもなんでまた、急に登山なんか?」
 エリィは書類を小脇にかかえて、肩をすくめた。
「笑っちゃいますよ。あの子、妊娠したんじゃないかなんて言うんです」
「へえ?」
「お腹が出っ張ってるのは太ったせいだと言ってやりました」
 なるほど、それを気にして運動しようというわけだ。ほほえましいというか、いじらしいというか。
「何度も言うけど、きみはもう少し優しい言い方を身につけるべきだよ」
 ケンジが責めるような視線を送っても、エリィはそしらぬ顔をしている。事実を言ったまでだから、責められるいわれはないというわけだ。ケンジはサマーニャの背中を撫でると、お気に入りの自走玩具を走らせてやった。勝手に動き回るボールを追いかけ、サマーニャは絨毯の上を駆けめぐりはじめる。
「欲しかったのかな」
 革張りの椅子に腰掛けると、ケンジは小さく呟いた。耳ざとくそれを聞きつけたエリィが首を捻る。
「はい?」
「子供さ。ハジメくんとの」
 願望があるからこそ、そんな勘違いもしたのかもしれない。ケンジはまだ幼い子犬を眺めながら、そんなことを思う。ふと、冷たい目をしたままのエリィに視線を送り、
「女性は、そういう願望を持つものかい?」
「さあ? 持つ人もいるんじゃないでしょうか」
「そっけない返事だね、どうも」
 ぐるりと椅子を回して、強化硝子張りの窓を見上げる。空は快晴、どこまでも突き抜けるような青。そろそろツツジもきれいになってくる頃だ。すっかり運動不足に陥った体が、動きたくてうずうずしている。
「あーあ、僕も山行きたいなあー!」
「仕事が片づきましたら、いつでもどうぞ」
 背後でエリィが、新たな書類を広げる音がした。
 
 金剛山は、奈良との境にある、大阪で最も高い山だ。昔の地殻変動で高さが変わって、今は標高一一三一メートル。初心者だけで昇るには少々きつい場所もある、昔からの霊峰である。昔は神さまが住んでいたとか、そんな言い伝えもあるらしい。
 新緑が眩しく映える山道で、ハジメは額の汗を拭った。こけむした岩の間を流れる沢が、涼しげな音を立てる。まるで入り込んだものを包み込むかのように、四方から聞こえてくる鳥の声。吹き抜けた風が鮮やかな緑を揺らす。抜けるような青空は、光と影のコントラストの上で、静かに漂っている。
「ハージメっ!」
 ナルが先の方からハジメを呼んだ。手を大きく振り回して、小さなリュックサックを揺らしている。
「早くはーやくっ!」
 今朝からずっとあの調子。よっぽど楽しみだったのか、はしゃぎにはしゃいで、見ているこっちがひやひやするくらいである。手近な岩の上にぴょんと飛び乗り、ナルは大きく深呼吸する。ぴんと伸ばして後ろに反らした両腕が、まるで翼のようにも見える。
 ほんの一ヶ月ほどの間に、ナルの体はハジメの年齢を超えて、すっかり大人の魅力を放っていた。柔らかく膨らんだ胸も、流れるようにゆったりとした腰つきも、この遠目でさえハジメの視線を釘付けにする。
 何考えてるんだろう、山登りに来てまで。ハジメは頭を振って邪念を払い、心を清らかにしてから、ナルに応えた。
「そんなにはしゃいでると、上まで保たないぞーっ!」
「だいじょうぶ! たかが一キロちょっとじゃない、平気平気!」
 ……一キロちょっとって、それは高さだぞ。分かっているのやらいないのやら。ハジメは後ろ頭をぽりぽり掻いた。
 
「も、もうだめ……ギブアップ……」
 いわんこっちゃない。へなへなと地面に座り込むナルに腕を引っ張られ、ハジメも少しよろめいた。登りはじめて一時間。まだ道は半ば、ここから山道はさらに険しくなろうというところだ。こんなところでへばっていては、先が思いやられる。
 とにかく少し休まなければならない。ハジメはぐるりと周囲を見回し、近くに眺めのよい岩場があるのを見つけると、ナルの手のひらを握る手に、そっと力を込めた。
「ナル、がんばってあそこまで行こう。座る所もあるし、景色もいいよ」
「うん……ごめん、ちょっと引っ張って。立てないわ」
 ハジメは非力な腕で、思いっきりナルを引っ張り上げた。反動をつけてなんとか立ちあがったナルと一緒に、とぼとぼと岩場まで歩を進める。
 岩場からの眺めは、まさに絶景だった。
 岩場は、昔の地殻変動でできた断崖絶壁の上にあった。どこまでも果てしなく広がる、雲もまばらな青い空。その下には大阪の街並みがえんえん広がっている。遥か彼方に見える黒い巨大な塔は、梅田の環境建築群(アーコロジィ)か。隣にそびえる葛城山の山肌は、ツツジの目も醒めるような赤に染まっており、空の青に強烈な印象を焼き付ける。
「きれぇーっ!」
 さっきまで死んだ魚のような目をしていたナルが、急に歓声を上げた。その声は、初めて会った頃の、少女だったナルと全く変わらない。高くて澄んでいて、弾けて跳ね回るような、元気のいい声。ハジメは胸の奥から微笑みが込み上げくるのを感じると、手近な岩の上の砂を、手で払いのけた。
「少し休もう」
「うんっ」
 岩の上にちょこんと腰掛けると、ナルはハジメの腕を引っ張って、自分の横に座らせた。椅子代わりの岩は狭くて、二人で座ると肩が触れ合うほど近付かなければならない。ナルの動きの一つ一つが、肩を通じて伝わってくる。ハジメは背筋に、何かとても心地よいものが走るのを感じた。
「はーあ」
 ナルが沈んだ声を出す。見ればその顔は沈痛そのもの。きれいな景色から目をそらすように、自分の腕を見つめている。右手の指で、左の二の腕をつっついている。長袖の下で肉が揺れているのがわかる。
「へこむなあー。体力すっかり落ちちゃった……」
 彼女がそんなことを言うのは初めてである。ハジメは目を丸くして、
「それで、急に山登り?」
「ん? んー、まあね」
 言葉を濁して、大きく背伸び。思いっきり逸らした胸の柔らかい膨らみが、服の下で強調されている。ハジメは思わず目をそらす。
「ハジメと会ったばっかりのころなら、こんなの楽勝だったのになあ」
「そりゃあ……」
 ナルは今でも十分若々しい。とはいえ肉体年齢は、計算上二十七歳に達しているのだ。少々体力が落ちてきたって、全く不思議なことではない。まして、この二ヶ月というもの、運動らしい運動は特にしていないのだ。
 ハジメはしばらく考え込んで、それから、笑顔をナルに向けた。
「じゃあ、トレーニングしよう」
 ナルはきょとんとしている。かまわずハジメは早口にまくしたてた。
「体鍛えるんだよ。特訓。前にやったじゃない、石段兎跳びの刑とかそういうの。ぼくも、最近また運動不足になってるなって思ってたとこなんだ」
「ハジメも? 一緒にやるの?」
「ダメかな」
 ナルはぶんぶん頭を横に振った。驚きと、嬉しさがごちゃまぜになって、ナルの表情がくちゃくちゃに歪む。
「んーん、一緒にやろっ!」
 そしてハジメに抱きつくと、むりやり自分の膝の上に引き倒す。大切なものを抱きしめるように、ハジメの頭を胸に抱き、手のひらで無茶苦茶に撫で回した。しまいにはほおずりまでする始末。
「ハジメ、すっごく素敵……もう最高! かわいい! なでなでしちゃう!」
「ちょっ、ちょっとナルっ、こんなところで……いやそのうわっ」
 ふと、ハジメは頭を撫でるナルの手つきが、急に優しくなったのを感じた。ハジメの短い髪を丁寧にときながら、水が流れるように指は流れていく。ハジメは視線を動かして、ナルの顔を見上げようとした。しかしナルの手がしっかりとハジメの頭を抱きかかえていて、それを許さない。
「ねえ、ハジメ」
「……ん」
 諦めてハジメは耳をすました。ざわめく頭上の枝葉。耳元をすり抜けていく冷たい風。微かな靴の動きに合わせて、ちりちりと鳴く岩場の砂。そして鼓動。自分の鼓動。押し当てられた胸を通して感じる、ナルの鼓動。
 低く声を押し殺して、泣いているみたいに聞こえた。
「ハジメは――」
 沈黙。
 ぺちん、とナルの手がハジメのおでこを叩いた。ハジメはゆっくり起きあがると、くちゃくちゃになった髪を撫でつける。ナルはくすくす笑っている。何がおかしいのか分からないが、目に涙を浮かべるほど笑っている。ハジメもつられて笑顔を浮かべる。
 そしていつも、後からしまったと思うのだ。
「なーんでもないっ!」
 ナルは勢いをつけて、一気に立ちあがった。大きく背伸びをすると、胸一杯に息を吸う。
「さあ、行こう! 先は長いぞっ!」
「うん」
「六根清浄六根清浄!」
 どこでそんな古い呪文を覚えたのやら。元気よく手を振って歩き出すナルを見送りながら、ハジメはもう一度耳をすました。
 耳の奥で、生き物のように泣くナルの鼓動が、まだ聞こえる気がする。
 その時、ハジメの頭上を薄い影が覆った。弾かれたように空を見上げれば、さっきまで晴れ渡っていた空に、黒い雲が立ちこめはじめている。それと同時に辺りを包む、白くて濃い霧――いや、雲か。流れてきた雲が、ちょうど山肌に貼り付いたのだ。
 山の天気は変わりやすい。こういう時に、こういう足場の悪い岩場で、下手に動くのは危険だ。一人で先に行ってしまったナルを引き留めようと、ハジメは胸に息を吸い込み――
「きゃあっ!」
 ナルの悲鳴がハジメの耳を衝く。
「ナル?」
 ハジメは不吉なものを感じて、声のしたほうに駆け寄った。雲に包まれた岩場。一歩踏み外せば崖下に転落しかねないそこに、ナルの姿はない。
「ナル……」
 返事もない。
「ナル!」
 ただ、ハジメの声だけが山に虚しく木霊していた。
 
 エリィが定時に会社を出ることは、滅多にない。
 今日はその滅多にない日である。普段は副社長秘書として、ケンジの仕事が片づくまでそばに仕えていなければならないのだ。何かにつけて仕事をサボりがちなケンジを焚きつけるのも、エリィの仕事の一つだ。彼が珍しくやる気を出して、てきぱきと仕事を片づけてくれた時だけ、こうしてエリィは普通の女子社員(オー・エル)らしい生活を送ることができる。
 と言っても、彼氏ナシ、遊びもナシの真面目一徹では、夕飯の買い物をして家に直行するしかないのだが。
 仕事の後は疲れた体で家に転がり込み、そのまま泥のように眠る――という生活があまりに習慣化されてしまっているらしい。さほど疲れていない時でも、他にすることが思いつかない。悲しいことだ。
 ともかくエリィは、たまの暇にゆっくりくつろごうと、買い込んできたカクテルの缶をテーブルに開けた。襟とスカートのウェストを緩め、結った髪をほどくと、メガネも畳んでテーブルの隅に置く。こういうときは、できるだけだらしのない格好がしたいものだ。
「TVオン」
 複合端末(コンプレ)にヴォイス・コマンドを飛ばした。コンピュータであり、テレビの受信機でもあり、電話でもあり、その他諸々でもある複合端末(コンプレ)は、あまり一般には出回っていない高級品だ。最近じわじわと需要が高まってきたという話も聞くが、パソコンとテレビと電話と音響機器と映像機器を全部足したよりも三割ほど高く、なおかつ壊れやすいというイメージがあるのが難点だという。
 しかしそんな高級品も、滅多に使うことはない。あまり稼働させないから壊れることもないが、宝の持ち腐れかな、とは少し思う。
 とにかく、複合端末(コンプレ)が映し出すニュースチャンネルをBGMのように聞きながら、エリィは座布団の上にあぐらを掻いて、一本目の缶に指をかけた。気持ちのいい破裂音を立てて窒素ガスが缶から漏れだす。エリィはきつい白桃の香りを嗅いでから、ゆっくりと口をつけた。
『遭難しているのは、豊中市在住の飯田ナルミさん、25歳で――』
 ぶ。
 思わず吹き出したカクテルを拭い、エリィは複合端末(コンプレ)の画面にかじりついた。
 空中から映された山の映像。夕日に染まった新緑。剥き出しになった岩場。何機もの作業用フロートドレスが飛び交っている。そして画面の右上に、四角い別ウィンドウで表示されているバストアップは――
『午後からの悪天候のため、捜索は難航しています。現場は滑りやすい岩場で、当時一時的な濃霧に覆われていたということです』
 画面が切り替わる。ニュースは終わりだ。どこだかわからない会社の車のCMが入る。流れるように走る美しい車の姿を、しばし呆然と見つめて、やがてエリィはぽつりと呟いた。
「ナル……」
 飯田という名字は、はEMO社が持っている架空の国民登録のひとつ。ナルミは日本人らしくなるように考えた偽名。
 ナルが遭難。
「全くあの子は……」
 エリィは溜息をつくと、乱暴にカクテルの缶をテーブルに叩き付けた。緩めたばかりのウェストを、またきつく締め上げる。
「せっかく早く帰れたと思ったのにっ!」
 力強く立ちあがり、エリィは再び戦闘態勢を整えた。
 
 ナルは、突き抜けるような痛みに、目を覚ました。足首の筋肉が少し動くたびに、全身に電流が走るよう。顔をしかめながら、パンツの裾をめくってみる。厚手の靴下の上からでも、気持ちが悪くなるくらいに大きく腫れ上がっているのがわかった。
 一体、何が。
 頭がぼうっとして、よく思い出せない。ナルは何度も深呼吸して、少しずつ心を落ち着かせた。そう、登山しに来た。ハジメと一緒に登っていた。そうしたら、突然雲が湧いてきて、辺りが一瞬真っ暗になって、恐ろしくて、ハジメのところに戻ろうと――
 そうだ。思い出した。慌てて動いた時に、足を滑らしたのだ。
 砂にまみれた岩の上は思いの外に滑りやすくて、そのままナルは、抵抗もできず崖下まで真っ逆様。途中、柔らかい低木(ブッシュ)がクッション代わりになってくれたらしく、足首の腫れ以外に大きなケガはない。登山用にと新調した厚い服も、体を護るのに一役買ってくれたようだ。
 それでも、手のひらや顔は、小さな擦り傷だらけだった。
「ハジメ……」
 かすれた小声で、名を呼んでみる。返事はない。それはそうだ、とナルは溜息をつく。ここはまだ崖の途中。まばらに緑の木々や低木(ブッシュ)が生えた、狭い岩棚だ。ハジメが近くにいるなら、こんな所に放ってはおかないだろう。
 岩棚の上とはいえ、ナルの体は絶妙な具合に、木々の影に隠れている。いつの間に日が暮れたのか、辺りはもう薄暗い。おまけに、まだ辺りに立ちこめている白い霧。歩いてここまで来るのは無理だし、空から眺めただけでも見つかるまい。
「迷惑、かけちゃったな」
 ナルは痛まない左足を曲げ、両腕で抱え込んだ。ハジメは今ごろ、どうしているだろうか。探しているだろうか。心配しているだろうか。それとも――
 それとも、何?
「本当はね、ハジメ……訊きたかったんだ」
 自分の膝の上に、ハジメの重みを感じていた、あの時。
 言葉に詰まり、結局ごまかした、あの時。
 わたしのこと、嫌いじゃない?
「でも……訊けなかったんだ」
 ぽつり。
 ナルは空を見上げた。
 木々の隙間からこぼれ落ちてきた雨粒が、彼女の頬を伝って降りた。
 
 ハジメはただ、山頂の捜索隊事務所の中を、うろうろと辺りを歩き回っていた。
 できることはすべてやった。ナルの姿を見失って、遭難したことに思い当たると、すぐさまハジメは電話で救助を求めた。フロートドレスの捜索隊は、山頂からわずか五分で文字通り飛んできた。ハジメは山頂で待つように言われた。何か手伝わせてほしいと返した。足手まといだと一蹴された。
 できることは、すべてやったんだ。
 でも体が言うことを聞かなかった。座っていても体の奥からむずむずした感触が登ってきた。ハジメは立ちあがったり座ったりを繰り返し、やがて落ち尽きなく部屋の中をうろつき始めた。ことあるごとに窓の外を見た。今にもナルが戻ってこないかと思って。漏れ聞こえる捜索隊の無線にも耳を傾けた。朗報は一つもなかった。山頂には神社も寺もあったので、何度も出向いては無茶苦茶に祈った。そして何分かおきに、また事務所に戻り、自分の無力さを悔やんだ。
「ナルっ……」
 心配だった。体が張り裂けそうだった。胸の中に鉛の重りを埋め込まれたみたいだった。すぐにでも助かるかもしれないという希望、そしていつまでも助からないかもしれないという不安、二つが代わる代わる、鼓動のようにハジメを襲った。まるで泣いているみたいな鼓動だった。
 その時だった。事務所の外で話し声が聞こえてきた。捜索隊が帰ってきたのだ。ハジメは外へ飛び出した。降り出した雨が体を濡らすのもかまわずに。そしてリーダーらしい、フロートドレスの男にすがりついた。男はヘルメットを外すと、面食らいながらもハジメを屈強な胸で受け止めた。
「ナルはっ! ナルはどこに!」
「落ち着いて! 瀬田さん、落ち着いてください」
 男はハジメの背中を叩くと、事務所の中に押し返した。雨を避けて、さらに数人が事務所に入ってくる。ハジメは彼らに座らされ、落ち着くように何度も言い含められてから、絶望的な報告を聞いた。
「いいですか、瀬田さん……もう日が暮れてしまいました。天候も悪い。今日はこれ以上の捜索は無理です」
 全身の毛が逆立った。怒りがぞわぞわと肌の上で脈打った。ハジメはポリマー地のフロートドレスにつかみかかり、雨で滑るその首もとを握りしめた。周囲の隊員たちが慌ててハジメを羽交い締めにする。
「何を……何を! 見殺しにするのかッ! ナルを……お前っ」
「危険なんです!」
 男は怒気を孕んだ声で、唾を飛ばしながらハジメに怒鳴りつけた。
「見殺しにはしたないが、二次遭難は避けねばならない。わたしらの誰かがそれで死んだら、あんた責任取れますか!?」
「でも!」
「でももへったくれもあるかっ! だいたいあんたら、素人やろが? なんであんな危ないコースに入ったんですか。それで遭難してぎゃあぎゃあ騒がれてもね、こっちはとりあってられんのですよ!」
 ハジメはそれで、ぴくりとも動けなくなった。
 そうだ。止めればよかった。ナルが登山したいと行った時に。せめてもっと簡単な、旅行気分で登れるところにしておけばよかった。ナルから離れなければよかった。もっと早く霧に気付いて、注意しておけばよかった。
 できることは、すべてやった?
 大嘘だ。
 何もしなかった。何もしなかったに等しいんだ。
 立つ力を失って、隊員たちにつり下げられるような姿になったハジメを見下ろし、男は呼吸を整えた。その挙動に、既に怒りの色はない。むしろ自分の怒りに恥じているようにも見える。
「……すいませんけども、捜索の続きは明日からにさせてもらいます。夜半には天候が回復するという予報がでてますから、夜明けを待ってすぐに出動しますので。落ち着いてください。いいですね」
 その時だった。まだ外にいた捜索隊員たちが、急にざわめき始めた。男は外の様子をうかがおうと、ドアを開き――
 そして、絶句した。
『瀬田ハジメッ! 出てこい!』
 スピーカーを通したくぐもった声が、山頂一面に響き渡る。聞き覚えのある声。ハジメは隊員たちの腕を振り払い、外に飛び出した。
 ハジメは目を見開いた。
 空に浮かぶ巨大な質量制御飛行船(フロートコンテナ)。最新技術を駆使したそれが、上空からゆっくりと下降してくる。その周囲を飛び回る、真っ黒な鴉のように見えるものは、無数のフロートドレスたち。どれもこれも、捜索隊の作業用フロートドレスとは一線を画した性能の、暗視機能まで備えた軍事用だ。
 着陸したフロートコンテナのハッチが開いた。ハッチに描かれていたエンブレムが真っ二つに割れる。
 EMO社のエンブレムが。
「全く……何をやってる、瀬田ハジメ!」
 秘書の傘に護られながら、フロートコンテナのタラップを降りてきたのは、黒いブランドスーツに身を包んだ、小林ケンジその人だった。
「な……んです、あんたがたは!」
 慌てた捜索隊の男に詰め寄られ、ケンジはにこやかに微笑んだ。
「彼らの上司です。ここから先の捜索は、我がEMO社の誇る最新鋭の夜間工作部隊が引き受けますので、どうぞご安心を」
「あ、はあ……」
 ケンジは、まるで割れた海の底を渡るモーゼのように、自然と開けた人混みの中を、ハジメに向かって静かに歩み寄った。そして、まだ戸惑いを隠せないハジメの眼前に近寄るなり、
「ふ、副社長……」
「『ふ、副社長』であるかこのアホォッ!」
 ごつん。
 強烈な頭突きをぶちかます。ハジメはいきなりの衝撃に、よろよろと雨に濡れた地面にしりもちを付いた。
「ってぇー! 何するんですか!」
「こっちのセリフだッ! ナルが大事なら、命の一つや二つスパッと賭けて守れ、馬鹿者!」
 言われてハジメは言葉に詰まる。ぐうの音も出ない。全く、ケンジの言う通りだ。
 ハジメは気付いていなかった。ケンジの頭突きが、彼の意識にかかった雲を、打ち払っていたことに。額の痛みがじわじわと全身に広がっていく。そうだ、こんなところでいじけて暴れている場合じゃない。
 助けなきゃ。ナルを。
「僕なんか……僕なんか……この一ヶ月ずーっと手間暇かけてご機嫌取ってきた女の子と、ようやくいい感じになってきた所だったんだぞっ! それを……それをっ!」
「ちなみに私は二ヶ月ぶりのくつろぎの一時を台無しにされました」
 冷淡に呟くエリィが恐い。怒りの形相のケンジは、手に持っていたバッグをハジメに向かって放り投げ、
「とにかく! 僕が出てきたからには五分で全てのカタを付ける。きみも手伝え、瀬田ハジメ!」
 ハジメは、腕の中のバッグの口を、そっと開いた。
 本物のフロートドレス一式が、その中で眠っていた。
 
 冷たい。
 雨の中、ナルは一人で震えている。上着のフードに包まれて、それでも顔は青ざめ、指先は凍るよう。雨粒が足首の傷を打つたび、突き抜けるような痛みが走る。たまらなくなって草葉で覆い隠しても、どれほどの効果があるだろう。
 冷たい。
 心をよぎるのは嫌な記憶ばかり。暗い部屋の中、狭い水槽に閉じ込められ、肺に不快な液体を取り込みながら、ただ浮かんでいるだけの毎日。全てが流れ込んでくる。酸素。栄養。電流。電流に乗って、言葉、歴史、技術、知識。
 何もかも与えられる暮らし。暮らしているのか暮らしていないのかも分からない暮らし。言葉を得るにつれ、知識を与えられるにつれ、ナルは自分の異常を悟った。人間はこんなものではない。時折姿を見せる「外の者」たちが普通の人間で、自分は人間ではない。ある時唐突に悟ったその事実が、まだ幼いナルの精神を叩きのめした。
 笑っている。神経リンクのケーブルを通して流れ込んできた知識の中で、歴史上の様々な一瞬を捉えた映像や画像の中で、人間はみんな笑っている。誰かに微笑みかけている。隣に誰かがいる。人間は一つではない。繋がっている。全ての人間が、別の人間に所有されている。誰もが誰かのもの。全てが一つ。「喩える」という概念を用いるなら――まるで大人工知能連続体(ネクサス)のように。
 そしてわたしは、そのどことも繋がっていない。
 わたしは、誰のものでもない。
 わたしは、人間ではない。
 わたしは、人間になりたい。
 わたしは、誰かのものになりたい。
 わたしは、わたしは――
 あなたのものになりたい。
 ハジメ。
「馬鹿みたい」
 ナルはぽつりと呟いた。小さすぎて、声は雨音に掻き消されて、ナル自身の耳にすら届かない。それでよいのだとナルは思う。誰にも聞いて欲しくなかったから。自分にも聞かせたくなかったから。それでも誰かに言いたかったから。
 聞くのは、耳を持たない空と、雨だけでいい。
「本当はね、誰でもよかったの。あの時――」
 心の奥で蘇るのは、はじめてハジメと出会ったあの瞬間。雨の中で、死んだように動かない彼。うってつけだった。とても苦しそうに見えた。助けてくれと叫んでいるのに、道行く誰もが、その声に耳を塞いでいる。そう見えた。
「ただ、誰か――誰かのために、何かがしたかった」
 だから、手を差し伸べた。
「誰かのものになりたかった――」
 空を仰ぎ見る。雲に覆われた空は、重たく、そして優しい。まるでナルを包み込んでいるかのよう。暗闇の世界の中に。自分一人だけに戻れる、孤独で暖かい空間の中に。
「でもね、今は違うの……ハジメは、わたしの特別なんだよ。わたしの笑顔で元気になって――わたしの胸で泣いてくれる人。それが、嬉しい」
 だから、不安になる。
「だけどわたしは……あなたの特別になれたのかな」
 だから、訊きたい。
「わたしのこと、好き?」
 
 体が軽い。
 妙な話だが、ハジメは生まれて初めて、体重が千分の一になるという感覚を、実感していた。今まで何度も、ゲームの方の「キャリオンクロウ」で体験していたことだ。しかし神経だけに情報が与えられるのと、実際に体の全てが千分の一のエネルギーで動くのとは、どこかが違う。理論上はゲームと同じになるはずなのに。
 体が軽いんじゃない。
 心が軽いんだ。
 ハジメはバーニアにコマンドを飛ばして、一気に大空へ舞い上がった。雨という天候は、フロートドレスの加速を悪くする最悪のシチュエーションだ。ゲームの中なら、舌打ちの一つもしていたところ。でも今はそんな気分じゃない。どこへでも飛んでいける、すぐにナルの元へ飛んでいける。そんな気持ちがハジメの体を突き動かす。
「ナル」
 小さく呟くと、ハジメは五十MPSまで加速して、わずか十数秒でナルが落ちた崖までたどり着いた。歩きでなら三十分以上はかかろうかという地点までだ。
 辺りを見回せば、ケンジの引き連れてきた夜間工作部隊が、サーチライトで山肌を念入りに走査している。ハジメは目を閉じ、コマンドリストを展開した。見たこともない装備の制御コマンドが並ぶ中から、目的のものを選び出し、コンプに送る。目映いビームライトが、頭の両脇から視線の先を照らし出した。
 
 光。
 ナルは顔を持ち上げた。いま、一瞬の光が、ナルの顔を照らして過ぎた。光だ。空を見上げる。夜の闇と雲の闇に包まれて、何も見えない空。その中に輝くいくつもの光。鴉のように黒くて、空を飛ぶ人影。
 その中の一つに、ナルの視線は釘付けになった。
「ハジメ」
 なぜだか、それがハジメだと分かった。
 目に涙が浮かんでくる。フードが風に払いのけられる。顔を打つ雨の冷たさも、足首の痛みも、どこか意識の果てに飛んでしまった。
 来てくれた。ハジメが、助けに。
 最後の元気を振り絞り、ナルは精一杯の声を出して、
「ハジメ―――ッ!」
 彼を、呼んだ。
 
 聞こえた。
 ハジメは周囲を見回した。今確かに、ナルの声が聞こえた。雨の中、微かにだが。
 岩肌の上に人の姿は見えない。そう、ナルは捜索隊に見つからなかったのだ。空から容易に見つかるような場所にいるはずがない。上からでは見えない場所。そして徒歩でもたどり着けない場所――
 崖の途中の岩棚を覆い隠すように繁った木々。
 あそこだ。
 半ば直感的に悟って、ハジメは真下へ向かって加速した。僅か三分の一秒の飛行。木々の間を複雑な機動でくぐり抜け、ハジメはたどり着いた。
 木々の奥で、自分を待っていたナルの元へ。
「ハジメ……」
 ナルが弱々しく声をあげた。ハジメは彼女のそばに跪くと、濡れた彼女の体を護るように抱き起こし、顔を隠すヘルメットのバイザーに《開放》コマンドを送った。カメラアイを通じてではない。自分自身の目で、ナルの姿が見える。
 幻じゃないんだ。
「ハジメ、わたし……」
 何事か言おうとするナルを、ハジメは有無を言わせず抱きしめた。もう何もかもどうでもよかった。ただ、ナルが無事でいたという、それだけで。何もかも。
「よかった……無事で、本当に……」
 ナルの疲れた腕が、それでもなお、ハジメの背を強く抱き返してくれた。
 それが二人の間の全てだった。
 
『こちら部隊長。副社長、朗報です』
 フロートコンテナに通信が入ってくる。ケンジは椅子に座ったまま、通信用のマイクをたぐり寄せた。
「どうした?」
『目標を発見しました。コンテナを低空に降ろしてください。収容します』
「そいつはよかった。見つけたのは誰だ? ボーナスはずむぞ」
『例の坊やです』
 冷淡な部隊長の言葉に、ケンジは目を丸くして、エリィを顔を見合わせる。まさか、プロの工作部隊をさしおいて、素人のハジメが最初に見つけるとは。手伝えとは言ったものの、正直アテにはしていなかったのだが。
「ボーナスは部隊全員で頭割りだな。すぐにコンテナを降ろす。収容は任せた」
『了解』
 操縦はエリィに任せて、ケンジはぼうっと天井を見上げる。ふと、ある単語が頭をよぎる。
「やっぱ、愛の力かねえ?」
「非科学的です」
 左様ですか。ケンジはひょいと肩をすくめた。
 
 あれから一週間。
「いってらっしゃーい!」
 ベランダから、ナルは下に手を振り回す。代打ちの仕事で出ていくハジメが、通りから恥ずかしそうに手を振り返した。穏やかな春の青空。向かいの小学校では、体操服を着た子供達が、元気に跳ね回っている。
 ナルはベランダの手すりにあごを乗っけて、しばらく遠ざかっていくハジメの背中を眺めていた。角を曲がって、その姿が見えなくなってもまだ。幻のように、太陽に白く浮かび上がり、揺らいでいる街。流れていく雲。時折聞こえる、どこかのママが布団を叩く音。
「幸せだなあ、わたし」
 融けるような声で呟くと、ナルは背伸びして部屋の中へ戻った。スェーミが足元にまとわりついてくる。もうご飯食べたでしょ、とばかりに指を突きつけて、ナルは洗面所に向かう。
 もちろん、目的は床に置いてある、例の計測器だ。
 努力に努力を重ねた。ハジメと一緒のトレーニングもしたが、それ以上に、彼が代打ちの仕事に出ている間に、秘密の特訓を重ねた。色々本を買って研究もした。食生活にも気をつかった。そろそろ豆腐にも飽きがきた。
 頑張ったのだ。ナルは。
 計測器の前に直立し、ふと気付いて、靴下を脱ぐ。これで少しでも違うはず。再びきをつけの体勢を取ると、恐る恐る、右脚からゆっくり踏み出した。
 体重計の上へ。
「減ってますように減ってますように減ってますように……」
 目をつぶって、右足を体重計に乗せ、ゆっくりじわじわ体重を動かして、左足も乗せる。そのまま一度深呼吸。高鳴る鼓動を押さえつけ、気合い一発、ナルは目を開いた。
「南無三!」
 減ってない。
 ……。
 やっぱり減ってない。
「そんなぁーっ……」
 ナルはその場にへたりこんだ。床の上にごろりと仰向けになり、涙でにじんだ天井を見上げる。
 スェーミが爪を鳴らして近寄り、ナルの鼻先をちろちろ嘗めた。慰めてるつもりだろうか。わけもわからず甘えているのか。どっちでもいいけどかまわないでくれ。一人にしといてくれ。そう思っても、スェーミを追い払う気力さえ湧いてこない。
「もう……ダメだぁ〜っ!」
 ナルの減量遠征(リデューシング・エクスペディション)は、まだ終わらない。