ARMORED CORE 炎-FEUER-

 4 炎のように酔いしれて -Wir betreten FEUERtrunken-


 怖い。
 怖い、怖い……怖い怖い怖い怖い怖い! 怖い。怖い、怖い? 怖い――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!
 もはやフォイエに意識はなかった。だが魂で感じていた。闇に没した意識の奥で、フォイエは小さく震えている。潰えかけた心の灯火。それを取り巻く氷の刃。徐々に刃が迫ってくる。喉を狙って擦り寄ってくる。強すぎる。怖すぎる。勝てやしない! 諦めが、恐怖が、為す術もなく倒れたフォイエに押し寄せてくる。
『期待はずれの罪は重いぞ、少女』
 声。
『試しに死んでみるかね?』
 光の刃がペンユウの胸を貫――

 ……こうとした瞬間。
 何かがシーザリオンの横手に突っ込んだ。
「ぬおおっ!?」
 圧倒的な質量の塊。もはや弾丸にも等しい速度で体当たりを仕掛けてきたそれは、鈍い黄色に輝く巨人。シーザリオンより頭一つ分背が低いとはいえ、丸太のような腕や足、どんな攻撃でも弾いてしまいそうな胸板は、力士と呼ぶに相応しい。
「有澤重工! キンタローか!」
 重量級ノーマルを間近に見ながら、オーメルマンは唇を釣り上げた。ネクスト同士の戦いに割り込み、捨て身の突撃を仕掛け、シーザリオンにがっちりと組み付き押さえ込んでいるこの機体。操縦するのは一人しかない。身を挺してこの女を守ろうとする人間。
「正気かね? 冷静な君らしくもない。そう思わんか、カジュ・ジブリィル!」
『殺させやしないよ……』
 キンタローのコックピットで、カジュが低く唸り声を発した。

「あの日……」
 きゅっ、とコンソールの上でカジュの手のひらが結ばれる。
「あなたたちに見捨てられ、死を待つばかりで、ひとりぼっちだったこのボクを……
 フォイエちゃんが救ってくれた……」
 馬鹿は分かっている。ノーマルふぜいでネクストに敵うわけがないことも知っている。でもそんな理屈は吹き飛んでいた。心の炎に灼き飛ばされた。今カジュにあるのは一つだけ。たった一つの答えだけ。
「だからお前なんかにやらせない」
 たった一つの答え。カジュがカジュであるための。
「お前なんかに、殺させるもんかっ!!」
 カジュの指がコンソールを走る。途端に唸るキンタローのアクチュエータ。敵の関節に指を突っ込み、無理矢理その動きを握りつぶす。耳を劈く嫌な高音。辺りに漂う焦げた臭い。少しずつ、キンタローの指が引き裂かれていく。
『それで止めたつもりかね!』
 ィィィィィイイイイ!
 更に高まる駆動音と共に、シーザリオンがキンタローを押し潰しに掛かった。だが次の瞬間、
『うっ……』
 驚きに目を見張ったのは――オーメルマン。
『動かんだと!?』
 額を伝う汗もそのまま、カジュは早口にまくし立てた。
「ネクストの圧倒的パワーのほとんどは、音速すら突破するその速度に起因する……動く前に組み付きさえすればノーマルでも押さえ込めるんだ……
 甘く見てると……痛い目見るよ……!」
『ち!』
「チョカナータさん!」
『任せろっ!』
 叫ぶカジュに応えたのは、砂煙と共に突進してくる一台のカーゴトラック。その荷台に載っていたユノゴウが、タイミングよく飛び降りる。彼らに頼むのはフォイエとペンユウの回収だ。それさえ果たせればそれでいい。ネクストさえあれば勝機はある。いや、
 ――フォイエちゃんさえ助かれば!
 ざわり、と沸き立つカジュの血液、猛烈な憤りと焦りと苛立ちと、そしてなにより愉快の突風がカジュの体を貫いた。シーザリオン。その中にいるオーメルマン。奴が放つ暗黒な風。浴びるものの命を根こそぎ削いでいくかのような、限界まで濃縮された悪意の塊。
『あっはははは! なかなか賢しいぞカジュ、さすがは元リンクス候補だ。
 しかしこの行動は』
 白銀が唸る。
『愚行としか思えんね!!』
 コックピットのレッドランプが一斉に悲鳴を挙げた。腕。腰。脚。ありとあらゆる関節に限界以上の負荷がかかる。シーザリオンに押し返される。たかがノーマルでそう長く持ちこたえられるとは思わなかったが、まさかこれほど早くとは。
 焦りの色を声に浮かべてカジュは渾身の力で叫んだ。
「チョカナータさん! 早く!」
『回収はしたっ! お前も乗れ!』
『出来るものかなぁ!?』
 嬉しそうに、楽しそうに、上擦った声でオーメルマンが叫ぶ。射抜くようにモニタの向こうの白銀を睨み、カジュは指を奔らせた。何もかも自由になると思うな。全て遊びで済むと思うな!
「あなたの言うとおりだね……」
『何ィ?』
 コマンド。受領(レシーヴド)。
「人生には自爆がつきものだよ」
 空気圧の抜ける間抜けた音を立てながら、キンタローのコックピットハッチが解放される。すぐさまカジュはワイヤー伝いに滑り降り、トラックに向かって駆け出した。翼のネクストの全身から放たれる驚きと焦りの気配。今ごろ無人のコックピットでは、虚しく警告が鳴り響いているはず。
 瞬間。
 紅蓮の爆炎が白い翼を飲み込んだ。

「うおおおっ!?」
 トラックのハンドルにしがみつき、チョカナータは悲鳴を挙げた。サイドミラーに目を遣って、目が痛くなって視線を逸らす。爆発の閃光なんか肉眼で見るもんじゃない。とはいえバックミラーに僅かに映る、無惨にやられたペンユウの姿も、とても直視できたものではなかったが。
 助手席では、間一髪で駆け込んできたカジュが荒い息を吐いていた。脂汗の浮かんだ幼い額を、チョカナータはゴツゴツした手で撫でてやる。
「よくやったぜ、坊主。よくあんな無茶したな」
「ろくでもないのと付き合ってるとね……友達のバカが伝染るんだよ……」
「医者も温泉も治せないってやつかぁ? とにかくあの爆発ならPAだって貫ける! コロニーに戻って体勢を……」
 しかし彼の言葉を遮り、弾かれたようにカジュが振り返った。荷台のペンユウの向こう側、微かに見える――
「ウソだろ……」
 白銀の翼。

 オーメルマンは溜息を吐いた。
 感嘆の溜息を。
「ふふふ……」
 ネクストこそ期待はずれだったものの、やはり戦いは楽しませてくれる。無敵のシーザリオンを相手に、たかがノーマルふぜいで勝負を挑み、あまつさえ見事に出し抜いて見せるとは。
「ははははは……あーっはははははは! いいぞ! 最高だ!」
 芸術などくそくらえだ。
 常日頃オーメルマンはそう思っていた。
 一部の高尚な人間にしか理解できない芸術などに、一体何の意味がある? 絵画。音楽。物語。全ては大衆のためのもの。踏ん反り返った評論家どもが低俗と貶める、下品で派手で原色ギドギドの娯楽にこそ、真の芸術の価値がある。
 全ては心躍らせるため。
 人生は全て享楽のため。
 だからこそ、オーメルマンは条件反射。
 条件反射のコマンドに応え、とシーザリオンが翼を広げた。小さな無数の白い羽根が一斉に空へと舞い上がる。ただの飾りと思っては困る。翼は小型のバーニアユニット。あるいは自律機動兵器。そして掲げた銃口の先に、真っ直ぐ一列に整列すれば、それは巨大な磁気レールですらある。
「これは私の感謝の気持ちだ」
 無上の享楽を与えてくれた者への。
「派手に死ね! 諸君!!」
 閃光。

 炎。
 人間というやつは、どうしようもない生き物だ。火傷した子は火を怖がるというのだから、きっと人間は子供より頭が悪いに違いない。いや、それとも子供が思いの外賢い生き物だったのか?
 いずれにせよ言えるのは、人がこの世に生まれてずっと、炎に魅せられ続けてきたこと。
 炎は何より便利な道具だ。生では食えない食べ物を高度な料理へと昇華する。暗い夜に灯りをもたらす。害虫も菌も殺せる。その気になれば、気に入らない隣人だって殺してしまえる。
 だがそれほど便利な炎に、幾たび人は手を灼かれただろうか。肌が引きつり、癒着する感覚。炎などとっくに離れているのに、いつまでも消えない熱の残滓。炎を操り、制御しようと試みるたび、人は手痛い火傷を負う。それでも炎を捨てられない。その揺らめきに、その輝きに、何より圧倒的な熱量に、人はいつも引き込まれる。まるで火傷の痛みにすら焦がれているよう。
 うんざりだった。
 鍋の下から溢れ出す青い炎。ガスコンロの熱にあてられて、少女は額の汗を拭った。玉となって落ちた滴が、砕けたアスファルトに模様を刻んだ。みすぼらしい厨房だった。頭上には、日よけ程度にしかならない波形トタンの板。アスファルトを掻き分け、その下の土に突き立てられた、錆の浮いた鉄パイプが4本、辛うじてトタンの屋根を支えている。
 だがそれでも、今の彼女に取っては大切な厨房だ。大きな寸胴では、白い、光を放つかのような粥が煮立っている。お玉ですくい上げ、熱さに耐えつつ慎重に味見する。塩をあとひと匙。それがじいちゃんに教わった味。
 鋭い眼差しで青い炎を睨みつつ、フォイエは小さく頷いた。
「……うん!」
「フォイエちゃーん、注文……肉粥ふたつ、味噌粥ひとつ……」
「オッケー! さっきの味噌、あがりっ!」
「はーい……」
 ぼんやりした声で返事しながら、手早くトレイに粥の器を載せるのは、言わずと知れたカジュである。フォイエの粥屋は半分屋台のような、小さなバラックでしかなかったが、このところ評判が広まって、外にまで席を増やしているくらいだった。その絶えることのない客の中を、小さな金髪少女はちょこまかと忙しく走り回り、自慢の記憶力で全ての注文を瞬時に覚え、見事な手さばきで器を配り、自分の身長ほどもありそうな器の山を抱えては、洗い桶にぶち込んでいる。
 とはいえ昼飯の時間帯も過ぎ、ようやく客足が鈍ってきたようだった。フォイエは粥をかき混ぜる手を止めて、ふと店の様子に視線を送る。とりあえずしばらくは、カジュに任せておいても大丈夫だろう。
「カジューっ! ちょっとよろしく!」
「はーい……」
 手早く器に粥を盛ると、フォイエは店の裏から通りに飛び出した。ごちゃごちゃしたコロニー「シング」の裏通り。玉蓮通りに立ち並ぶ、無数の高層ビルに太陽を遮られ、この裏通りは一日中薄暗い影の中にある。そこでも、ボロを着た人々が、人の体内を流れる力強い動脈血のように、果てしない脈動を繰り返していた。名前もないこの裏通り、誰もがただ裏通りと呼び、それで通じるこの裏通りで。
 飾りなんて何もない街。
 土臭い地面を蹴り、フォイエは軽々飛び上がった。足下の錆びた鉄骨を越え、ボロボロのトタン屋根を通り過ぎ、掻き集められたくず鉄の山を眺めて行くと、通りの隅っこに腰を下ろす一人の老人の姿が見えてくる。老人は土を慈しむように優しく胡座を掻き、道行く野良犬に福々しい視線を向けながら、空き缶に小銭が投げ込まれるのをじっと待ち続けていた。
「じーちゃんっ!」
「お……」
 消え入りそうな声で老人は応えた。フォイエはぴょこんとしゃがみ込むと、いつものように、湯気を立てるアルミの器を差し出した。老人はにこりと笑い、節くれ立った皺だらけの手を差し出し、何よりまず、手を合わせて祈りを捧げるのだった。なにものかに。それから恐らく、フォイエにも。
「ありがてえ……いつもすまんねえ……」
「なーに言ってんのよ」
 フォイエは不器用にウィンクしてみせた。
「じいちゃんに味見してもらわないと、商売になんないのよね。ほら、あたし味音痴だからさ」
「うん……うん……」
 老人は器の熱の全てを受けとるかのように、両の手のひらでそっと器を受けとった。もう素早くは動かない腕を曲げ、白い粥を、甘い肉味噌と一緒に、僅か啜った。微かな音。唇の隙間から漏れていく暖かさ。やがて老人は、細い目をもっと細める。
「うまい――」
 なんでだろうな、とフォイエは思う。
 毎日この一言を聞く度に、フォイエは思わず笑ってしまう。
 毎日この一言を聞くために、今のフォイエはきっと……生きてる。

 だがそれが――カジュにはどうしようもなく……たまらなかった。
 昼下がりの休息もつかの間、夜にはまた店は客で溢れかえる。故郷にいた頃、フォイエが毎日のように食べていたという粥の味は、恐らく確かなものだったのだろう。あるいはフォイエの妙な器用さ、なんでもかんでも、見よう見まねでそれなりに形にしてしまう器用さのたまものなのか。
 ともかく毎日忙しかった。カジュは一日駆けずり回り、今までの人生で一番激しく肉体労働しているくらいだった。それはいい。生活にも困らない。毎日プリンだって食べられる。
 でもそれが、カジュにはどうしても許せない。
 夜も更け、客もまばらになったころ、フォイエとカジュは厨房のパイプ椅子に腰を下ろし、二人して遅い夕食を取っていた。料理屋の宿命と言おうか、賄いはもちろん粥の残り物だ。粥の上に添える肉や野菜もたっぷりある。たかが粥、とバカにしてはいけない。アジア圏では、粥は最もメジャーなファーストフードの一つであり、そのバリエーションの豊富さは、ほとんど一つの料理体系を築くまでに至っているという。
「あーあ、いっそがしかったぁー!」
 呑気に粥を啜りつつ、フォイエは満足そうに溜息を吐いた。心地よい疲れが彼女の体を襲っているのだ。もちろんカジュも一緒だった。こんな日は、決まってぐっすりと眠れる。店の裏にあるバラックで、一つのベッドに二人、縺れ合いながら眠るのだ。
 朝、屋根の隙間から差し込む清々しい朝日に起こされて、昼からの分の仕込みをしつつ、朝の営業の準備に入る。外に机を並べ、看板を出し、夜のうちに仕込みをしておいた粥を煮込み、戦争のような朝を過ごし、怒濤のような昼を過ごし、竜巻のような夜を乗り切って、再び二人で床につく。
 そんな生活が嫌なわけではない。むしろ楽しくて、充実すらしている。腹立たしいのは、そこではない。
「フォイエちゃん……楽しそうだね、最近……」
「そーねえ。やりがいもあるし、みんな美味しいって言ってくれるし」
 にこっ、と満足そうにフォイエは笑う。
「なんか落ち着いちゃったな、あたし」
 そして自分で作った粥を豪快に掻き込んだ。
 それはそうだろう。
 それはそうだろうとも。
 カジュはプラスティックのレンゲを握りしめ、無表情に粥に視線を落としていた。あれほど湯気を立てていた粥が、アルミの小さな器の中で、すっかり冷めてしまっていた。冷めているのはカジュも同じか。でも。
 こんな事を言えた筋合いではないと分かっている。でも。
 ――見たくなかった。こんなフォイエちゃん。
 冷めた粥を、カジュは啜った。
 と、そのとき。
 店の外で、人々の悲鳴とパイプ椅子の転がる音が響いた。続いて何か、重い物が倒れるような音。フォイエは思わず腰を浮かし、食べかけの粥の器を放って駆け出した。

 店の外には早くも人だかりができていた。フォイエは動物園の臭いがする男たちの中を掻き分けて、人だかりの中心へと首を突っ込む。
 嫌な予感は的中した。予感というより、それは予測だったのか。ともかくそこには、ボロボロの……もはや服としての役割すら果たさない布に身をくるんだ、一人の男が倒れ伏していた。骨と皮だけになった手足。やせ細り落ちくぼんだ眼孔。
 瞬間、フォイエの胸で何かが揺らめいた。
「難民だ――」
 一体誰の言葉だっただろうか。結局は言葉が、人々を正気に、普段の生活へと引き戻したのだ。人だかりを作っていた人々は、フォイエと、倒れた男だけを残し、思い思いに散らばっていく。
 フォイエはその場に膝を突き、男の頭を膝の上に抱き上げてやった。疲れ切った、血の気のない男の唇から、微かな吐息が漏れる。と、横から水の入ったグラスが差し出される。遅れて駆けつけたカジュだった。相変わらず気が利いている。
「もう大丈夫よ。ほら、飲んで」
「難民、だね……」
 フォイエが男に水を飲ませるのをじっと見下ろしながら、カジュはぼそりと呟く。
「キャルビンの……」
 僅かに。
 僅かにフォイエの肩が震えた。
「そうね」
「キャルビンはもう、完全にオーメルの植民地になったって……」
「分かってるわ」
「中の人は過酷な強制労働を課せられて……命がけで逃げ出す難民は後を絶たないって……」
 フォイエは何も言わない。
 無言でただ、難民の男を抱き上げ、闇医者の元へ連れて行くだけだった。

 そんなことも、珍しい光景ではなかった。
 三ヶ月。フォイエも参加したキャルビンの攻防戦から、もう三ヶ月が過ぎた。
 あの日、翼のネクストが放ったレールガンの一撃で、ドームの三分の一以上を吹き飛ばされたキャルビンは、雪崩れ込むオーメル軍に抗う術を持たなかった。当たり前の話だ。ネクストを以てすら対抗できないネクストを相手に、ノーマルや改造MTに……あるいは銃を手にした人間に、一体何が出来るというのだ。
 あの時カジュに出来たのは、気絶したフォイエを隣に載せて、ひたすら車を走らせることだけ。
 辛うじて逃げ込んだのは、アジア圏最大のコロニー、シング。その下町に身を隠し、生活するために粥の屋台を始めた。一方でカジュは密かに情報を探っていた。キャルビンのその後。デューイやチョカナータ、旧キャルビン首脳陣のこと。
 しかしデューイたちの行方は杳として知れず、伝わってくるのはキャルビンの悲惨な現状ばかり。
 詳しい言及は避ける。戦争に負けた都市が経験することなど、どこでも大した違いはないから――
 カジュはトタン組みの我が家の中で、椅子にちょこんと腰を下ろし、たった一つしかないテーブルの上の、プリンのパックを見つめていた。この三ヶ月、店を始めてからというもの、プリンには事欠かなくなった。昔のように、あと何個溜まってるからね、なんてやりとりをすることもなくなった。
 でも。
 家の隅のベッドの上では、フォイエが胡座を掻いて、ぼうっと天井の裸電球を見つめている。いや……違う。彼女の視線はもっと遠い。遥か彼方。どこかカジュには見えない場所を、ずっとフォイエは見つめている。
 やがてそれにも飽きたのか、フォイエがふと、カジュに視線を向けた。
「……食べないの?」
「行かないの……?」
 間髪入れずカジュは応えた。
 沈黙。
 だがフォイエは平静を装って首を傾げた。装った平静であることなど手に取るように分かった。カジュに分からないことなどないのだから。
「……どこへ?」
 だからカジュは何も言わない。
 何も言わなくても通じると分かっていた。フォイエだってそう。惚けたって無駄だということは、フォイエにも痛いくらい分かっていた。痛々しい沈黙が過ぎた後、フォイエはぷいっ、と顔を背ける。
「行かないわよ」
「どうして……?」
「仕方がないじゃない」
「仕方がない……?」
 何度も何度も、ぼそぼそと先を促すカジュに、カチンとくるものもあったのだろうか。フォイエは大人げなくカジュを睨みつけ、早口にまくし立てる。
「仕方がないわよ。今さらキャルビンに戻ったって何もできやしないわ。あたしにもうペンユウはないの。もしあったって!」
「そうやって本心を誤魔化してるんだね……」
 呻きながらフォイエは口をつぐんだ。
「助けに行きたいと思ってるんでしょ……?」
 容赦なく追い打ちを掛けるカジュから逃げるように、フォイエは顔を俯かせる。
「毎日転がり込んでくる難民を見て……なんとかしてあげたいって思ってるんでしょ……?
 なのに自信を失ったから……夢に折り合いつけて……生活の中に埋没して……満足した気になってるんでしょ……?」
 いつまでも――
 いつまでも、あばら屋の中には静寂が広がっていた。小さな蛾が一匹、壁の隙間から潜り込んで、裸電球の周りを飛び回っていた。暖かなオレンジ色の炎に惹かれて。これほど弱々しく揺らめきながらも、確かにそこで燃えている、小さな小さな炎に惹かれて。
 カチッ、と、音。蛾の羽根が電球を叩く音。
 それがフォイエの言葉を促す。
「食べなさいよ、プリン」
 その瞬間カジュの中で何かが爆発した。もう叫ばずには居られなかった。椅子を蹴らずには居られなかった。飛び出さずには居られなかった。
「いらないよ! こんなもの!!」
 小さな足音が遠ざかり、減衰し、やがては消え去る。
 ただ一人取り残されて、それでもフォイエは……電球の光をじっと見つめていた。

 シングはドームのないコロニーだ。
 上を見上げれば剥き出しの夜空がある。そして時には、それが耐え難いほど煩わしくもなる。
 夜空に輝く煌びやかな星と、玉蓮通りの繁栄の光に照らされて、カジュはただ一人、汚れた用水路の側に膝を抱えて座り込んでいた。あらゆる音が遠い。あらゆる光が遠い。かつてフォイエはあの星の光と同じだった。キラキラして、輝いて、いつも力強い目をしてた。だから惹かれた。だから……好きになった。
 なのに、今では。
 やるせない気持ちを胸の中に押し込めて、じっとカジュは丸まった。
 だからだろうか。何も見たくないと思っていたからだろうか。カジュは気付かなかった。思いの外近い物音。
 自分の背に忍び寄ってくる押し殺された足音に。
 アスファルトと靴底が擦れ合う。
 弾かれたように顔を上げるがもう遅い。後ろから伸びた長い腕が、カジュの喉を引きずり上げる。喘ぎながらカジュは背後の男に視線を送った。全身を黒に包んだ、それでいて怪しさのない男。どこにでも紛れ込み、息一つ乱さず仕事を果たせる男。
 背中にこつんと当たる感触。
 銃口。
 ――企業のエージェント!
「カジュ・ジブリィル……だな?」
 問いかけておきながら答えることも許さず、男の腕が万力のようにカジュの首を締め上げた。

 ――許すのか?
 誰かがフォイエに問いかける。
 揺らめくオレンジの光に照らされて、フォイエは静かに、膝を抱えてうずくまっていた。
 この三ヶ月、フォイエはただ、その日その日の暮らしに全力を注いでいた。それは楽しくて、嬉しくて、やりがいのあることだった。生きているという実感があった。未来への希望も、それなりの野望もあった。
 ――だが、違う。
 何かが、違う。
 その思いだけは、決して消えることがなかった。
「満足した気に……なってたのよね……」
 飾りもなく、てらいもなく、カジュが真っ直ぐ指摘した通りに。
 ――許すのか? 奴らの横暴を。
 オレンジが揺らめく。
 ――放っておけるのか? キャルビンの惨状を。
 その問いから。
 その答えから目を逸らした暮らし。
 たとえどれほど楽しかろうと、たとえどれほど生き甲斐があろうと、そんなものに満足できるわけがない。
 自分の炎(こころ)を見つめずには。
 だから――
「フォイエちゃんっ!」
 と、その時、上擦った悲鳴とともに一人の男がバラックに駆け込んできた。店の常連、動物園の臭いがする男の一人だ。男は普段ぼんやりした両の瞳に、いつにない不安の輝きを灯し、大きく肩を上下させながらフォイエを茫然と見つめている。
「どうしたの?」
 心に過ぎる嫌な予感。
「カジュちゃんが……連れてかれた。企業の黒服だ!」
 だから。
 だからそれが見えたとき、心に炎(フォイエ)を感じた刹那、迷うことなく踏みだそう。
 誰にも答えは分からない。でも恐らくそれこそが、原初の複雑系(アルファコンプレックス)から読み取れる、幾千億の中のたった一つ。
 たった一つの答え。人々が幸せであるための。
 一億分の六秒。
 フォイエは光より速く飛び出した。

「連れて参りました」
 抑揚のない事務的な口調で言う黒服が、とんとカジュの背を押した。
 扉の中は別世界。一体だれの趣味なのだろうか。連れてこられたキャルビンの、旧市長舎ビルの最上階。広い会議室を見渡す限り、会議室らしい所は一つもない。照明を落とされた薄暗い部屋。豪奢なアンティーク机。柔らかそうな革張りの椅子。そこに埋もれるように腰掛けた一人の男が、大型モニタのアクション映画をにこにこしながら見つめている。
「へんな趣味……」
「うむうむ。君は前からそうだった。物事をズバリと言う子だったよ。
 久しぶりだな、カジュ・ジブリィル」
 リモコンの一時停止ボタンを押して、男は椅子をくるりと回す。現れたのは心底楽しそうな笑みを浮かべる一人の男。
 オーメルマン・ソーコン。
 他に誰があろうか。
「手錠を解いてやれ」
「はっ」
 オーメルマンが冷ややかに言うと、後ろの黒服が、カジュを後ろ手に縛めていた手錠をかちゃつかせた。と、突然手首が自由になって、ようやくカジュは息を吐いた。手首が擦れて炎症になりそうだったのだ。
「……いいのか?」
 暗闇の中から声がした。オーメルマンの横の暗がりに佇む二つの影に目を凝らす。遠くて暗くてよく見えないが、なんとなく見覚えがある顔だ。恐らくは……オーメル幹部会議長。そして強行市場開拓部のホセ。
「子供一人に何ができます」
「それはそうだが……」
 不服そうな議長に……というよりは、椅子に踏ん反り返ったオーメルマンに向かって、黒服は会釈して立ち去った。カジュの後ろで扉が閉め切られ、ぴたりと停止した間抜けな爆発シーンのみが部屋を照らす。赤い、身じろぎもしない灯りに照らされて、オーメルマンはじっとカジュを見つめている。
「さて……何か飲むかね? アルコールは無理かな」
「予言してあげる……」
 凍て付く声。
 僅か十歳の、華奢な、囚われの少女が、大の男三人を相手に怖じけるそぶりすら見せない。
「後悔するよ……すぐにね」
「子供が強がりを言うなっ! お前はただミネ・フォイエの居場所を言えばいいんだ!」
 ホセが議長の後ろで騒ぎ立てた。臆病な犬ほどよく吠えるという。耳障りなだけだ。怖くも何ともない。
 そんなカジュの気分を察したのか、さすがに老練の議長がホセを抑えた。彼はゆっくりとカジュに歩み寄り、親切な老人面をして彼女のそばにしゃがみ込む。深い皺の刻まれた、しかし荒仕事一つしたことのない綺麗な手が、カジュの肩にそっと置かれた。
「すまないな。我々は君を脅すつもりはないんだ。ただ、君たちの力は埋もれさせるには惜しい。スカウトしたいのだよ。どうかな?」
「そして時が来れば使い捨てる……」
「そんなことは……」
「その証拠に、あなたたちはあの男を恐れている……」
 カジュが真っ直ぐ指さしたのは、にやにやしながら成り行きを見守るオーメルマンの額だった。
「ネクストとリンクス全てを恐れてるんだよ……ネクストはこの世にあってはならない力。たった一人の人間に、人類全てと戦えるだけの力を与える剣。数の論理を根底から覆す不確定要素……
 だからあなたたちは、一方でリンクスをこき使いながら、一方でリンクス絶滅の機会を探っている。自分の地位を守るために……」
 議長は言葉を失い、唇を固く結んだ。さすがに舌打ちこそしないものの、冷めた目でオーメルマンの顔を睨みつける。ああそうだとも、とその老いた顔が言っている。リンクスがこの世から消え去れば、どれほど企業経営がやりやすいか。
「ふふふ……あーっはっはっはっは!」
 みんなの視線を一身に浴びて、しかしそんなもの意にも介さず、オーメルマンは膝を叩いて大笑いした。
「いやいや! 思った以上に聡明な子じゃないですか。全くその通り! おかげで私も酷い扱いを受けていてね」
「オーメルマン!」
 非難だか何だかの声を挙げる議長を、オーメルマンは片手で押さえる。
「別に恨んじゃいませんよ。ただ、私が牙をもがれて十年も冷や飯食っていたのは事実。今こうしてみんながゴキゲン取ってくれるのも、頃合いを見てスッとシーザリオンを取り上げるためでしょう?
 ま、いいんですよ。私はその日その日が面白おかしく生きられればね。どうせ限りある人生です。汗水垂らして働くのも、血を流して闘争するのも、全くバカらしいじゃないですか!」
 ――ああ、そうか。
 カジュは小さく溜息を吐いた。
 この男はこれが全てなのだ。
 享楽。ただ刹那刹那の享楽。それ以外に何の価値も見いだせない男。目の前にあるものを楽しむことしかできない。自分以外の誰かを思いやることもできない。世界の全ては彼の玩具。人生は刺激の強いゲーム。命も、社会も、幸福も……
「哀れだね……」
 カジュは、確信した。
 恐れるものなど何もない。
「あなたはそうして冷めたまま……」
 恐れる理由などどこにもない。
「たった一人で死んでいくんだ」
 なぜなら――
「死ぬときは誰でも一人だよ」
 嘲笑うようにオーメルマンが言った、その瞬間。
 ――来る!
 轟音が辺りを揺るがした。

 バリケード。木製の。
 はっ! とフォイエは息を吐く。オーメルの検問をぶっちぎり、キャルビンの大通りを爆走し、彼女のワゴンが目指した先は都市中央部のただ一カ所。しかしどうやらオーメルどもは、あっちこっちの道路を塞ぎ、内部を臨時の基地にしているらしい。そのための木製バリケード。
 目の前には即席のゲートがある。ライフル抱えて二人立ってる。奥にはMTの姿も見える。だからどうした。フォイエは大きく息を吸い込む。回り道している暇はない。行くなら真っ直ぐ。ひたすら真っ直ぐ!
「おおおおおおおりゃあああああああああッ!!」
 雄叫び一発。
 グレーのワゴンに蹴散らされ、木片が派手にぶっ飛んだ。

「なっ……なんだ、今のは!?」
 あわてふためく議長が、手元の電話でどこかを呼び出す。その報告を聞いたのだろうか。彼の老いた顔面が、可哀想なくらいに青ざめた。
「だ……誰かが真っ正面からゲートに突っ込んだあ!? 一体どこのバカだ!!」
「ウチのバカです。恥ずかしながら」
 にやりと嫌らしい笑みを浮かべて、カジュは小さく呟いた。

 出るわ出るわ。一体どこから湧いたのやら。
 ただ一カ所を目指して最短コースでつっぱしるワゴンの前に、わらわらと寄ってくる人の群。各々武器を抱えた彼らは、言うまでもなくオーメルの兵である。緊急連絡が基地を駆けめぐり、辺りにけたたましいサイレンとまばゆいレッドライトが乱れ飛び、無数の銃弾がワゴンめがけて降り注ぐ。
 時々気持ちのいい音がして、そのたびワゴンの速度が落ちるが、そんなことなど気にも留めない。フォイエはひたすらアクセルを踏みつけ、身を低くして突っ走った。彼女の頭には完璧な作戦がある。こんな所で止まってられない。
 まずペンユウを取り戻す。
 次にカジュを救い出す。
 最後に企業の連中を追い払う!
 カジュが隣に居たならば、きっと「うん、完璧だね……」と太鼓判をくれただろう。
 と。
 正面に武装MT。
 こちらを向いたバズーカ砲口。
「んげっ!?」
 フォイエは悲鳴を挙げながら、力の限りハンドルを切った。一発、二発、白い尾を曳き夜陰を割いた二条の危険な爆発物を、ワゴンはすんでで切り抜ける。後ろで爆発。舞い散るアスファルト。何やらベコベコと後ろに当たる音を聞きながら、フォイエのワゴンはMTの足下をすり抜けた。
 だがこのまま広い道を進んでいたのではやられるのも事実。
 旋回。クラッチキック、間髪入れずアクセル、クラッチ。
 後輪をこれでもかと擦りつつ、フォイエは減速なしでクイック・ターン。横手の細い路地に飛び込んだ。ここならMTも入って来れまい。あと問題は、後ろからライフルを雨あられと浴びせてくる兵士たち。
 目的のガレージはすぐそばだ。しかし車は保ちそうにない。
 フォイエはワゴンを壁に擦らせ、事故を装って停車させると、運転席の足下で何やらこそこそと細工を仕掛けた。と、ドアを蹴り開け、銃弾が途切れる僅かなタイミングを見計らい。横手のさらなる細道へと駆け込む。
 怪訝に思った兵たちが、様子を見ようとワゴンに駆けよった、その時。
 運転席のプラスティック爆弾が、グレーの外装ごとあたりの敵兵を薙ぎ払った。

 息せき切って、フォイエはガレージに駆け込んだ。
 ドアにかけられていたチェーンロックを、蹴りの一発でぶち破る。中にはコジマ粒子が漏れないように、厳重に密閉されたおんぼろガレージ。そこにあの日の姿のまま。
 真紅の巨人が、じっと佇んでいた。
「ペンユウ……」
 胸の奥から沸き上がってくる、何か。
 体を突き動かす、何か。
 フォイエは固く拳を握り、ペンユウの足下に駆けよった。立ち尽くすペンユウの全身は、頑丈そうな固定具とリフトでしっかり固められ、指一本動かせそうにない。まずこの固定具を外さなければコックピットにも入れないが――
 と。
 外し方を探そうと辺りを見回すフォイエの足下を、警告すらない銃弾の雨が一薙ぎした。反射的にフォイエは飛び退き、近くの固定具の影に身を伏せる。狭苦しい、油っぽいガレージの中に広がる硝煙の臭い。小さくフォイエは舌を打つ。
「動くな! 動かなければ殺さん!」
 裏を返せば、動けば殺す。
「上から命令が出ている。あんたをスカウトしたいんだとさ。だから殺さない、大人しく降服しろ」
 フォイエが蹴破ったばかりのドアから入ってきたのは、四五人のオーメル兵だった。もちろんそれぞれの手には、いかついライフルが握られている。加えてこちらは丸腰。相手になろうはずもない。
 だが。
 フォイエはゆっくりと、立ち上がる。
「冗談じゃないわ……」
 その燃え上がる真紅の瞳が、オーメル兵の心臓を貫いた。
「カジュを連れ去り……
 街をこんなにして……」
 何か。
「人も……機械も……何もかも、自分のために利用することしか考えない! そんな奴らに力を貸せって?」
 胸の中で揺らめく何か。
「冗談じゃないわ。死んでもゴメンよ!」
 オレンジ。
 いや、
「……もういい、捕まえろ!」
 オーメル兵が引き金を引く。手足の一本くらい撃ち抜くつもりの銃弾が、超音速でフォイエに迫る。避ける術などあるはずもない。防ぐ力などあるはずもない。
 だが、その時。
 真紅!

 誰もが。
 己の目を、耳を疑った。誰にも理解などできなかった。フォイエにだって。敵にだって。誰にだって分からない。こんなこと分かるはずがない。ただフォイエは、舞い散る埃、飛び散る破片、響き渡る軋みに包まれて、反射的に閉じていた目を、ゆっくりと……静かに、開くだけ。
 フォイエの頭上を覆う影。
 優しく、守り、庇うように。
 叱り、寄り添い、励ますように。
 自ら固定具を引き千切り、振り下ろされたペンユウの腕が、銃弾の全てを弾き飛ばしていた。
 動いた!?
 誰かの叫び。
 そんな馬鹿な! 無人のはずだ! 馬鹿野郎、何かの拍子に固定具が外れただけだ! 何かの拍子って何なんですかっ!? 逃げろ……殺される!
 無数の叫び。遠い叫び。遠ざかっていく焦りと混乱。
 フォイエは渦巻く音に包まれ、それでも静かに見つめ合う。ペンユウは四つんばいになり、光の灯らぬ暗い瞳をじっとフォイエに向けていた。奴らの言う通りだ。あるわけがない。機械が勝手に動くなど。これはただの偶然だ。あの瞳だってフォイエを見つめてなんかいない。ただ偶然、ちょっとした偶然で、まっすぐフォイエに向いているだけ。
 だがそんなことに何の意味がある?
「そうだよね……」
 待っていた。
「そうなんだよね」
 ペンユウはずっと待っていた。
 フォイエの胸に、力の炎が灯る日を。
「やるわよ! ペンユウ!!」
 機械の瞳が紅に燃える。

 全ての鎖から解き放たれて、真紅の巨人が跳躍した。
 ペンユウはガレージの壁を突き破り、音速突破の衝撃波で辺りの全てを薙ぎ倒しながら外の道路へと飛び出した。真紅の巨人に向けられる、色とりどりのライトビーム。既に情報も行き届いていたのだろう。ペンユウの出現を待ちかまえていたかのように、無数のノーマルが取り囲む。
『奴は丸腰だ! 一斉砲火で……』
 ふんっ、とフォイエは鼻息吹いた。その白い指先が、
「死にたい奴から」
 コンソールを、
「前に出ろォッ!」
 踊る!
 瞬時。
 ペンユウの姿が掻き消えて、ノーマルの背後に出現する。
『ひ……!』
 パイロットの悲鳴すら許さない。華奢に見える真紅の腕が、強靱なノーマルを腰から真っ二つにへし折った。響き渡る不気味な破砕音が敵を正気に返らせる。思い出したかのように降り注ぐ銃弾の雨。
 だが余りにも遅すぎる。編み目のように絡まり合った無数の砲火のただ中を、真紅が稲妻のように突き抜ける。潰すなら頭。フォイエは思考などしていない。本能がそう判断した。部隊を指揮しているらしい一機に狙いを定め、数ミリ秒で肉薄し、
「どぉぉぉぉりゃああああああッ!」
 腕を一振り。音速の衝撃波を叩き込む。
 ただ一撃で粉砕されて、力なく崩れるノーマルを、巨人の足が踏み割った。
 陽炎。
 その揺らぎの向こうに立ち尽くす真紅。誰もが熱に浮かされて、引き金を引くことすら忘れていた。熱量。彼らの前にいるのは熱量。揺らめき、暴れ、灼き尽くす、真紅に燃える燎原の火。
 火は何気なくしゃがみ込み、残骸の中から使えそうな武器を拾い上げた。レーザーライフルに、レーザーブレード。ブレードを左の下腕に装着し、重量バランスを調整しながら、フォイエはちらりと敵に目を遣る。
 公開周波数に通信を繋ぎ、
「――まだやる?」
 一言。それで終わり。
 ノーマル部隊は我先にと逃げ散りはじめる。フォイエはその背を見送りながら、小さく胸の息を吐き出した。追いかけて殲滅する気はなかった。ペンユウは取り戻した。次にすべきことは――
 と。
《熱源接近》
 の警告より速く、フォイエはその場を飛び退いた。空から飛来する幾筋もの光。低速レーザーの青い輝きが星一つ無いドームの夜を満月のように照らし出す。威力こそないものの、雨のように降り注ぐレーザーの中をペンユウは辛うじてかいくぐる。
 ――この感覚っ!
 背筋に奔る冷たいものを、叫びたくなるほどの恐怖を、必死に胸の中に抑えつけ、フォイエはそれと対峙した。空を飛び舞い、優雅に、美しく、翼羽ばたかせ降り立つ巨人。
 シーザリオン。
「オーメルマン……!」
『不躾とはいえ素敵なレディ』
 ばさりっ、と大きく翼を広げ、シーザリオンが右手を伸ばす。
『――踊ろうか』

「くそっ……くそっ……くそっ! いつもそうだ、いつも奴らに振り回される……」
 振動やら気持ちの悪い音やらが断続的に襲ってくる中、議長とホセは早足に廊下を進んでいた。前と後ろを黒服の男女に守らせて、外で待つ車へと急ぐのだ。
 真紅のネクストとミネ・フォイエへの対処は、オーメルマンに任せておいた。リンクスをどうこうできるのはリンクスしかいない。それが議長をますます苛立たせる。だが今は怒りも憤りも抑え、ともかく逃げることが先決。ネクストが暴れ回るような場所に、一秒だって留まっていたくはない。
「いっそのこと、これを機会に難癖つけて、オーメルマンを処分してはどうですか?」
 と進言するのはホセである。彼は直属の上司を殺されて以来、オーメルマンに対して暗い復讐心を抱いている。一瞬、議長もまたその思いに囚われそうになった。確かにここで奴を始末できれば、どれほど気が楽だろう。しかしそうもいかない。
「いや……いかん。この世にネクストというものがある以上はな……」
 ここで頼みの綱のオーメルマンを失えばどうなる? キャルビンを足がかりに、シングを、ホウシァンを、アジア圏全体を手中に収めるという計画も水の泡。それどころか他の企業に隙を突かれて潰されかねない。なにしろ、ネクストの一機も送り込まれればそれだけで終わりなのだ。
 ちっ、と議長が珍しく舌打ちをした頃、ようやく一行はビルの外へとたどり着いた。静かに待っていた黒塗りの車に乗り込み、運転席に身を乗り出して、黒服の男に声を掛ける。
「君、とりあえず街の外に出てくれ。場合によっては今夜中に支社まで逃げた方がいいかもしれん」
「いえ、議長」
 静かな声で黒服は異議を口にした。助手席に女の黒服も乗り込んでくる。
「他に、誰にも手出しできない避難場所を用意してあります」
「ほう、では任せる。どこなんだ?」
 ばん。

 と、間の抜けた音の残響も、夜の闇に消えた頃。
 黒服の男は、拳銃を握った手でサングラスをむしり取りながら、爽やかな笑顔を死体に向けた。
「天国、ですよ」
 デューイ・オーディーン。
「地獄の間違いじゃないですか?」
 助手席の女もまた、グラスを外して悪戯っぽく言う。秘書の静。そうこうしているうちに、物陰から現れた筋肉質の男が、後ろのドアを開けて死体を二つ、引きずり下ろす。彫りの深い顔。言うまでもあるまい。
「似たようなもんだろ。チョカナータ、潜伏してる連中に連絡。市民を片っ端から蜂起させろ。それがフォイエの援護にもなる!」
「了解っ」

 凍えた闇に、閃き一つ。
 残滓が揺らぎ流れて、二つ。
 ――三つ!
 刃と刃がもつれ合い、瞬時せめいで弾け飛ぶ。その反動さえ利用して、ペンユウは後ろに跳び退った。前には翼。シーザリオンの白い巨体が背から光を溢れさせ、一直線に突撃してくる。
 退かねば、斬られる。
 だが確信と同時に背後に違和感。後方モニタに視線を送れば、退路を塞ぐ倉庫の外壁がそこにある。方向転換? 踏みとどまる? どっちにしたって活路はない、ならば、
 ――突っ込む!
 全速力の後退でそのまま壁をぶち破り、ねじ曲がった建材ごと倉庫の中に飛び込んだ。しかし息つく暇はない。すぐさま小刻みなバーニア噴射で崩れた体勢を立て直し、壁の穴から舞い込んでくる小さな薄片を迎撃する。
 シーザリオンの羽根。小型の自律攻撃ユニット。倉庫に山と積まれた資材を蹴散らし、必死に後退を続けつつ、フォイエはライフルを振り回した。一条。二条。低速レーザーが資材の中を突っ切るたびに、小気味よい爆発が連鎖する。とはいえ二十を超える、針の穴にすら等しい目標。
 一つが爆炎を切り裂いて、ペンユウの側面に回り込む。
「くっ!」
 焦りの色を浮かべつつ、フォイエは奥歯を噛みしめた。その指がコンソールを奔れば、青い蛍のごとき輝きがペンユウの全身から放たれる。絶対防御膜プライマルアーマー。放ったレーザーの全てを弾かれ、茫然と宙に浮く白い羽根を、ペンユウのブレードが両断した。
 すぐさまプライマルアーマーを解除して、フォイエは奥歯を噛みしめた。周囲をコジマ汚染に包み込むこの兵器、街中での使用は最小限にしなければならない。とはいえ敵は翼のネクスト。そんな甘いことを言って勝てる相手か――
『全力で来たまえ、フォイエくん』
 まるでそんな思考を読むかのように、オーメルマンの声が紛れ込む。
『市民思いも結構だがね。負けては元も子もあるまい!』
 ありがたい。
 フォイエは最後の迷いの残滓を、短く強い呼気と一緒に吐き出した。敵の言葉が教えてくれる。守らなければならないもの。曲げることのできない己のルール。
 ――死んでもPAなんか使うもんかっ!
 しかしPA抜きでとなれば、機体の動き一つで避けきる覚悟が必要だ。全方位から同時に迫る、百を数える砲火の全てを。そんなことはまさに神業。たとえネクストを以てしても不可能に等しい。
 だからこそ。
 笑い、フォイエは唇を湿した。
「やってやろうじゃない」
 必要な物は三つだけ。
 腕と、根気と。
 そして熱量。
 きゅうん、と子犬のような声を最後に、ペンユウのアクチュエータが動きを止めた。静まりかえる真紅の巨体。さんざん荒らした倉庫の中に、もはや動くものは何もない。この倉庫の外、周囲のどこかに、白く輝く翼はいる。じっと息をひそめ、電磁波も駆動音も殺し、こちらが飛び出すタイミングを窺っている。
 合わせろ。
 心を静かに。しかして熱く。
 陽炎が立つほど加熱していた真紅の装甲板が、夜に晒され凍えていく。
 と、
 ――今!
 どんっ!!
 屋根をぶち抜きペンユウが飛ぶ。すぐさま集まる白い薄片。その数およそ百余り。だがそれらが光を放つより速く、真紅の巨体が掻き消える。クイック・ブースト。超音速のソニックブームが縦横無尽に駆け回り、追いすがる白を、辺りの空を、見るも無惨に吹き散らす。
「どこだ!」
 目指すは一点。ただ一点。翼のネクスト本体のみ!
 降り注がれるレーザーの雨を錐揉み回転しながらの全方向クイックでくぐり抜け、フォイエは夜空に舞い上がる。もはや自分でも理解できない機動。どこをどう飛び、何がどうなり、今がいつだかも分からない。それでも確かに感じられる。ドームに塞がれたキャルビンの夜空。いくつものビルが絡まる虚空。そこに奴の姿はある。ビルを舐めるように舞い上がり、剣のように鋭く飛んで、求める姿を見つけ出す。
 翼を広げ――浮遊する影。
 ――捉えたッ!
 と思った瞬間。
『数えたことはないんだが』
、シーザリオンから白い雲が広がった。
 雲にすら見える薄片の群れが。
『たぶん千基くらいだなァーッ!』
 もはや。
 絶望を覚える余裕すらない。
「舐めるなよ」
 飛ぶなら真っ直ぐ。
「たかが敵の千や二千で!!」
 バカでも真っ直ぐ!
 雄叫び、ペンユウは矢のように突き抜けた。真っ直ぐ。直線。これまでの機動が嘘のように。まるで一個の結晶の如き、青いレーザーの塊が迫る。しかしその中の一点を、針の穴より小さな点を、ペンユウは真っ直ぐ駆け抜ける。
 一直線に貫き通す。
『だが!』
 砲火の結晶を貫いた先に。
 シーザリオンの光の剣。
「っ!?」
『それでもお前は――弱い!』
 刃が、ペンユウの右肩をえぐり取る。

「!!」
 市庁舎ビルの窓に駆けより、カジュは声にならない悲鳴を挙げた。
 知識が頭で渦を巻く。知らなくてもいいことが暴れ回る。ネクストはアクチュエータの複雑系。精緻な機械の芸術作品。だからネクストは何より脆弱。僅かな傷が、僅かな欠如が、機体全ての機能を奪う。
 右腕を根本から切り落とされて。
 ペンユウの紅い装甲板が――堕ちる。
「やだ……やだ……やだ!!」
 窓にすがりつき、生まれて初めての涙を零し、カジュは胸の中に溢れかえった自分の全てを――
「死んじゃやだっ……動いて! フォイエちゃんっ!!」

 ブラック・アウト。
 珍しいことじゃない。
 いつだってそうだった。
 人間だもの。人生なんだもの。いつだってそうだし、今もそうだし、これからだって――そう。
 心が冷たく凍ること。目の前が暗闇に閉ざされること。決して珍しいことじゃない。
 でも、そんなとき。
 心が氷に閉ざされたとき。
 どうしようもない絶望の淵で――気付く。
 まだ、ここには。
 まだ、心(ここ)には。
 潰えぬ火種が燃えていることに。
「動いて!」
 声、それが、
「動いて! フォイエちゃんっ!!」
 それが答え。たった一つの!

《システム再起動!》
 フォイエは嵐のようにコンソールを叩いた。やるべきことが山積みだった。バランス調整。回路切断。エラーチェック。操作系再編成。何より大事な……何より致命的な。決してやってはいけないはずの、
《AMSカット! 手動操縦(ダイレクトレスポンス)モード!》
 それは無謀。
 だが、
「行けるっ!」
 コンピュータの操縦補助を全て根本から断ち切って、数万個のアクチュエータを全て手動に切り替えて、ペンユウは背から炎を吹いた。
「カァァァァアアァァジュウウゥゥウゥゥッ!!」
 またしても進むは一直線。
 しかし今度は――ビルの頂上。囚われのプリンセス。小さな妹。いや――
 かけがえのない、親友の元へ。

「ば……」
 AMSの寓意に条件反射し、散らばった千の攻撃ユニットを呼び戻しながら、無意識にオーメルマンは声を挙げていた。
「馬鹿……」
 茫然とするのも無理はなかった。腕を切られて動けるはずがない。指一本すら動くはずがない。だがそれはAMSに頼ればの話。全体を一つとしか見られないAMSによる操縦は、一を欠けばそれが全を失うことに直結する。だから理論上は確かにそう。AMSを切りさえすれば、数万個に及ぶアクチュエータ一つ一つにコマンドを送れば、動かせないこともない――
 しかしそれは、ほとんど物理的に存在し得ない可能性。
「馬鹿すぎる!」
 ははっ、とオーメルマンは笑いを零した。
「面白すぎるっ! やってくれるな!」
 ビルの最上階に頭から突っ込み、カジュをコックピットに招き入れるフォイエを見下ろし、ようやくオーメルマンは己を取り戻した。
「いいぞ……もっと! もっともっともっと! 私を楽しませてくれェーッ!!」

「フォイエちゃんっ!」
「カジュ!」
 開いたコックピットで腕を開くフォイエ。カジュは顔をくちゃくちゃにして、全速力でその胸に飛び込んだ。フォイエの細い両腕が、もっと細いカジュの背中を抱きしめた。二人はもう何も言わなかった。何も言う必要がない。言葉なんて必要ない。いつだってそう。そんな二人だから。
「やるわよ、カジュ」
「ん……!」
 カジュを抱いたままシートに座り、ハッチの閉鎖をコマンドし、フォイエは優しく呟いた。やるべき事はカジュにも知れている。ヴン……と虫の羽音のような音を立て、再び光を灯すモニタ。カジュはフォイエの膝の上に座り、短い手でコンソールに指を伸ばす。
 数万個のアクチュエータ。火器管制。ジェネレータ調整。やるべきことは山ほどあって、その全てに最高が求められる。
 でも今なら。
 今なら――ひとりぼっちじゃない!
「ボクが……火器管制と索敵!」
「そんじゃあたしは機体制御ね!」
「敵機! 攻撃来たよ! 42の19、rは203!」
「オッケェーッ!」
 青いレーザーが頭上から迫る。しかしそれがペンユウを貫く一瞬前に、紅い巨人の姿が消えた。クイック・ブースト。砲撃を振り切り、再び放たれたシーザリオンの羽根を掻き分け、ペンユウは一気に駆け上がる。
 空の高みへ。翼の元へ。
 今、打ち倒すべき敵の袂へ。
「オーメルマンッ!」
『その程度の速度成分で!』
 シーザリオンが剣を抜いた。白く輝く光の剣。大上段から振り下ろされる超低速レーザーの束を、しかしペンユウは受け止める。夜空にかかる満月のような、青き輝き放つ刃で。
 だが一撃で諦めるオーメルマンではない。プラズマ共鳴に刃を弾かせ、弾かれるままに刃を引いて、返す刀を横から浴びせる。それも甘い。ここは空中。ペンユウの巧みなクイックが、一瞬にして敵の背後へと回り込ませる。
「カジュ!」
「うん!」
 フォイエが鋭く叫んだときには既に刃は繰り出されている。フォイエ一人で動かすよりも数ミリ秒も素早い機動。オーメルマンは僅かに呻き、クイックターンで敵を捉えてすんでのところで受け流す。だがこれ以上の接近は不利。翼を大きくはためかせ、シーザリオンは後ろへ跳んだ。
『何が一体どうなっている……何故だ!? なぜそんな状況で……二人がかりでようやく動かしながら! 一人でやるより素早く動ける!?』
「教えてあげるわ」
 フォイエは静かに呟いて――
 剣を、真っ直ぐ、敵の喉へと振り上げた。
「あんたは一人だ」
 音もない。
「あたしたちは一人だ」
 光もない。
「だからあたしは」
 街もない。ドームもない。夜もなければ月もない。
 敵もない。味方もない。
 あるのは膝の上に乗る友の感覚。
 あるのはただ、
「勝つ」
 確信。
 じっ、と。
 紅と白は、対峙する。
 虚空――
 と、
 閃く!

 一瞬の。
 一瞬の均衡と、静寂、の、後。
 白銀の翼は、堕ちた。
「これが結末……か?」
 コンソールが弧雷を迸らせ、オーメルマンの呟きに応えた。青い光の剣に両断され、真っ二つに裂かれたハッチの向こうに、こちらを見下ろす真紅が見える。ようやくオーメルマンは理解した。これが敗北。これが……
 これが、結末。
 やっぱり。
 堕ちていくシーザリオンに抱かれ、オーメルマンは口の端に笑みを浮かべた。思った通り。考えていた通り。この世の中は面白いものだ。人生とは楽しいものだ。何も悔いなど無い。もう少し長く愉しみたいところではあったが、しかしそれも、どうでもいいこと。
 今が、今のこの敗北が、愉悦でありさえすれば。
「は……ははっ……ははははは……」
 心から、愉快の笑いを夜空に投げかけ、
「なかなか……お――!」
 オーメルマンはそのまま、闇に没した。

 振動は街中に響き渡った。それの意味するところを知らない者などいない。
 とはいえ、人それぞれ、別の意味でそれを捉えていたことも事実。
 ある者にとっては勝利であり。
 ある者にとっては敗北であり。
 そしてデューイにとっては、安堵でもある。
「二人とも無事、か……心配かけやがって」
「市長!」
 見晴らしのいいビルの上から武装蜂起の取っていたデューイの背後に、聞き慣れた男の声が近づいてきた。おっと、とデューイは白々しく振り返る。まさか今の失言、聞かれちゃいなかっただろうな。まあ、慌てて駆けてくるチョカナータの姿を見れば、心配するまでもなさそうだが。
「オーメルの部隊は逃げ支度だ! 追撃するなら今だぜ!」
「そうか」
 だが、デューイは、ひょいと肩をすくめた。
「ま……やめとこう」
「へ? なんでだよ! 今なら赤子の手を捻るようなもんだぜ」
「だからさ。そうケチケチするなよ。逃げる時間くらいくれてやろうぜ」
「まあ……お前がそう言うなら」
 そんな気分じゃない。
 今、晴れ晴れした気分で半壊したキャルビンの空を見上げ、デューイは大きく背伸びした。これで一つ仕事が終わった……とはいえ、まだまだ仕事は山積みだ。街の復興。企業との調停。周辺都市との関係再構築。軍事的な脅威だってそこら中にゴロゴロしている。気を抜く暇なんてありはしない。
 だが、せめて今くらい。
「チョカナータ。それより、オーメルの食糧倉庫を住民に開放してくれ」
「ん? おう」
 にやりと笑ってデューイは叫んだ。清々しい声で。
「まずは腹一杯食おう!
 あの二人の分も、一応取っといてやれよ!」
 ゆっくりと空から舞い降りる真紅の巨人を、いつまでもいつまでも、見つめながら。

 はあっ……
 カジュは思いっきり、思いっ――きり溜息を吐いた。
「……運動すると、お腹空いたね……」
「そりゃそーよ……もう夜が明けるわ。そろそろ朝ご飯の時間よ」
「ん……ねーフォイエちゃん……さっきのプリンは……?」
 がくっ、とフォイエは肩を落とした。いらないよ、とタンカを切って、ほったらかしてきたあのプリン。もちろんあのまま、シングのバラックの机の上に置きっぱなしである。今さらあんなもんの話を臆面もなくするあたり、やっぱりカジュはカジュというか。抜け目ないというか。ちゃっかりしてるというか。
「置いて来たって、あんなもん」
「あ、そう……」
 そう。
 残念そうに鼻息を吹くカジュの頭を、フォイエはぐりぐり撫で回した。そうだとも。また昔の生活に逆戻りかもしれない。プリンもまともに買ってあげられない、儲からない生活。でもそれもきっと。
 それもきっと――
「カジュ」
「……ん」
「また買ったげるわよ。まあ、その……なるべく毎日、ね」
 割れたドームの向こうから、目映い朝日が差してきた。
 その明るい輝きを、空にいつも燃える炎を、真っ正面から見つめ――
「……うんっ」
 カジュはにこっと、笑顔を浮かべたのだった。

(続く)