ARMORED CORE EPISODE 3

ヘヴィ・メタル・シルバー

 靴音が暗い空間に響き渡り、果てしなく深い闇を二本の光条が切り裂く。
 靴音は、闇の中を歩く二人の男のものだった。どちらも警察組織『ガード』の制服を身に纏い、手には懐中電灯を掲げている。普通は拳銃で武装しているものだが、今は丸腰である。
 非武装である理由はただ一つ。つまり、危険なのである。武装をしていると。
 二人の警官は暗く長い通路を、懐中電灯の明かりを頼りに進んだ。この先には、一つの独房がある。そこへ行くには幾重にも張られた電子ロックをくぐり抜け、監視システムが網のように仕掛けられた通路を通らなければならない。おまけに独房はハッキング対策として古風な錠前で閉ざされている。
 神経質すぎるほどの警備……事情を知らない人間はそう思うだろう。しかしガードの面々にとっては、これでもまだ恐ろしくて夜も眠れないほどだった。
 だからこそ、複数の監視カメラで常に見張っているにもかかわらず、こうして警官が十五分に一回見回りに来るのである。
 それほどまでに独房の中にいる男は恐れられていた。もし奴が脱走するようなことがあれば……このアイザックシティ・ガード本部が全滅しないという保証はどこにもなかった。
 長い長い通路を通り抜けて、警官二人はドアの前にたどり着いた。持っていたカードキーをスロットに差し込み、その隣の手形に手を押し当てる。さらに壁に付いているセンサーを覗き込んだ。 カードキー、指紋、網膜パターン。オーソドックスだがこれだけ重なっていると安全性はかなり高い。
 ドアは音もなく開き、警官達を中に招き入れた。さらに廊下が延び、その奥にまた一枚のドアが見える。警官達はドアの前に立つと、横の壁に付いているモニターを覗き込んだ。
 独房の中の様子が見える。簡単な作りのベッド、備え付けの便器……そして、床に散らばった赤黒い液体と、その上にうつぶせに倒れた左腕のない男。
「お、おい! 見ろよ、これ!」
 モニターを覗き込んでいた警官が、もう一人に促した。言われるままにモニターに目を遣り……そして、青ざめる。
「まずいな……よし、俺が衛生班を呼んでくるから、ここは頼む」
「急げよ……」
 一人はきびすを返して元来た方に消え、もう一人はややこしい操作をして独房の扉を開いた。
 床に散る血とおぼしき液体に顔をしかめながら、警官は倒れた男に駆け寄った。この男に左腕がないのは元からだが、やはり気になり、警官は男の肩口に手を伸ばした。
 ――次の瞬間。
 ぐきゅっ。
 警官の首は、いきなり起きあがった男の右腕によってへし折られていた。
 
 簡単なことだ。
 留置所ってやつの環境は悪い。食事も例外じゃない。大抵はかすかすの古パンと鍋の底が焦げ付いて赤黒くなったトマトスープ、ってとこだ。食器もアルミの安物で、時々二枚重なってることもある。その余りの食器に、スープを取っておく。それを床にぶちまければ……暗い部屋の中なら、血のように見えるだろうさ。
 
 警官は急いでカードキーをスロットに差し込んだ。ドアが音もなく横に開く。
 速く衛生班を呼んでこなければ。裁判前の囚人に死んでもらっては困るのだ。ああいう奴は、きちんと法の裁きを受けてもらわねば示しが付かない。もっとも、その法も企業が私利私欲のために定めた法にすぎないのだが。
 彼は足を速めた。厳重にロックされたドアはもう一つある。そこを抜ければ、通常の署内である。
 こんなときは、いつも自分たちの命を守ってくれている警備システムが恨めしく思える。どうしてこんなに面倒なんだ、と内心毒づきながら再びカードキーを通し、指紋と網膜を照合した。
 ――それが彼の最期だった。
 彼は自分に何が起こったのかさえもわからなかっただろう。
 彼の背中に食い込み、肋骨の隙間を抜けて心臓を貫いていたのは、小さな金属片だった。
 
 武装しない、ってのは賢い判断だ。
 もし俺が逃げ出しても、凶器を奪い取ることができないんだからな。
 しかし、俺をなめてもらっちゃ困る。人なんて脆い生き物さ。殺すのなんてわけない。
 あんたたちがハッカー対策でわざわざ用意していた錠前……あの長い鍵、あれなら十分、人の心臓くらい貫けるんだぜ。
 
「ちくしょう、またかよ!」
 小太りの警官が、自分の手札をテーブルに投げ捨てた。そのカードのすぐ側にあるクチャクチャの紙幣を、別の痩せた警官が懐に入れる。
 勤務時間中に賭とは感心しないが、倉庫番などという退屈な仕事ならばそれも仕方ないのかもしれない。
「いつも言うけどよ、お前は戦略ってやつがなってないんだよ」
「うるせぇ! くそっ、今度こそ取り戻してやる!」
「おいおい、まだやる気かよ?
 それよりそろそろ見回りの時間なんじゃねぇのか?」
「知るかよ! どうせ倉庫の見回りなんて必要ねぇだろうが!
 行きてぇなら一人で行け!」
 痩せた警官は肩をすくめた。全く、男のヒステリーは……とりわけ勝負に負けて起こした奴は醜いものだ。
 仕方なく痩せた方の警官は一人で立ち上がった。部屋の奥にある扉に歩み寄り、カードキーを通す。この扉の奥は証拠品や押収品をしまう倉庫になっている。入口はここしかないし、普段人がいる場所でもないので見回りの必要性は確かに薄いのである。
 開いた扉をくぐろうとしたとき、警官は背後に何かの気配を感じた。相棒の小太り警官の気配だろうか? いや、もっと何か異様な気配である。
 恐る恐る振り返り、そして彼は凍り付いた。
 いつの間にかそこに立っていたのは、小太りの警官の頭を手にした左腕のない男の姿だった。その足下には、首から上を切り離された警官の死体が転がっていた。
「お……お前はボ……!」
 その言葉を言いきる前に、彼の首の骨は男の右腕によってへし折られていた。
 
 まぁ、俺の気配を感じたのは誉めてやるよ。いい勘してる。だがな、せっかく立派な銃を持ってたって、いざって時に使えないんじゃ宝の持ち腐れだ。
 さてと、丁度倉庫の戸も開いてることだし、アレを返してもらおうか。全く、俺の大事な腕までとっちまうんだから、ガードってのも慈悲のねぇやつらだな。
 
 天井の小さな灯りが無数に並んだ棚を照らし出す。棚に並べられているのは、奇妙な形の刃物、改造拳銃、毒物、多種多様なアダードラッグ……押収品の中でも極めて違法性、危険性の高い物である。
 男は倉庫の一番奥にあるこの部屋を歩き回って、ある物を探していた。右腕一本で棚をかき回し、目的の物を求めて歩き回る。 それは倉庫の一番奥の奥に後生大事にしまってあった。男はそれを見つけるなり狂喜し、右腕でつかみあげる。
 義手である。男は義手を自分の肩にはめ付けた。何度か腕を振り、動作を確認する。
 捕まったときに奪い取られた左腕を、ようやく男は取り戻した。肘のあたりまでは生身の腕とほとんど変わらないが、そこから先は機械骨格がむき出しになっている。
 ガードがわざわざ義手などを没収していた理由はそこにある。この男の最大の武器、それはこの義手そのものなのである。
 男は満足げに口の端を吊り上げた。そのまま踵を返し、倉庫の出口へ向かう。
 さて、これからどうしようか。男は考えた。ここにいるガードを皆殺しにするのもいいかもしれない。しかし……。
 男は急いで倉庫を出た。二つの死体が転がるさっきの部屋に戻り、死体の腕時計を確認する。やはりもう夜明けが近い。必ず夜に『仕事』をするのがポリシーである彼にとって、もうガードを壊滅させるだけの時間は残されていなかった。
 仕方なく彼は少し簡単な道を選んだ。そうだな、このあたりで妥協しようか。
 考えがまとまった丁度その時、部屋の入口に新たな気配が現れた。
「悪い悪い、交替の時間過ぎちまっ……」
 男は入口の方に目を遣った。一人の若い警官が立ち尽くし、目を見開いて彼を凝視していた。彼は迷った。今ここであの不運な警官を殺すべきか。それとも――そう、あえて泳がせて恐怖をばらまかせるか。
 男は後者を選んだ。
「ボ……ボダ!?」
 警官は悠長にも男の名を叫んだ。そして次の瞬間、派手に悲鳴をあげて何処かへ逃げ去って行った。
 さあ、楽しくなってきた。男は……ボダは、たまらずに奇妙な甲高い声でわめいた。見える。恐怖し、絶望する人々の姿が。
 ボダはそのために生まれてきた。愉楽。ボダの頭の中にあるのは、ただそれだけだった。
 
 奴が逃げた。その知らせは瞬く間に広まり、辺りは騒然となった。すぐさまガード幹部が中央制御室に招集され、第一種警戒態勢……つまり軍に攻撃を受けたのと同等の警戒配備がなされる。
 武装規制も完全解除され、無数の警官達が手に凶悪な兵器を持ち、あの男を追い回している。
 ガードの総司令官は頭をかかえていた。制御室に飛び込んでくる報告の全てが、こちら側の被害を伝えるものばかり。すでに数十人の警官がボダの手にかかり命を落としている。
「第三狙撃部隊……全滅です」
 またか。この総司令官が、ボダ逮捕の知らせに狂喜したのはつい一週間前のことである。それが今また、ガードの総力をあげてボダと相まみえることになろうとは。彼は遅ればせながらも後悔していた。自分の心の中に、油断があったに違いない、と。
「奴はどこに向かっている?」
「この進路だと……西門から脱出するつもりだと思われます」
 総司令官は考えを巡らせた。西門のあたりにあるのは……警官の宿舎と訓練施設、あとは重機のガレージくらいのものだが……
 彼はふと、あることに思い至った。
「おい、確か明日はデモ行進の監視任務があったな?」
「は? ええ、確かに……」
「ということは、『トラッカードッグ』はどうなっている!?」
 制御室の中にいる全員が凍り付いた。そしてオペレーターの言葉を待つ。
「じ……実弾が装填されていますッ!」
 誰もが言葉を失った。最悪の事態……考えようによってはガードの全滅よりもまずい。すぐさま対応できたのは総司令官だけだった。
「可能な限りの『ビショップ』と『スティンクバグ』を出動させろ! 『トラッカードッグ』の警護を……いや、動き出す前に破壊しろ!」
 オペレーターはすぐさま命令を伝えた。しかし心の中には一抹の不安がよぎる。廉価だけが取り柄の『ビショップ』や『スティンクバグ』に、戦うために生まれてきたようなACを止めることなどできるのだろうか、と。
 
『もったいねぇよなぁ……あれを壊しちまうなんて』
「仕方ないさ。ボダに奪われるよりはましだ」
 胴体に二本の足がついただけ、という単純な構造のMT『ビショップ』のコックピットの中でパイロット達がぼやいていた。ガレージの中で動いているのは、まだこの二機のビショップだけである。他の連中は準備が遅れているらしい。
 なんにせよ命令を実行しなければならない。二機は急いでガレージの奥へと向かった。
 そこに仁王立ちしているのは、白と黒で塗装された一機のACである。ガード所有、プログテック社製威圧用AC『トラッカードッグ』である。その周りには装備品のバズーカ砲と、その追加弾倉が整然と並べられている。
 どうやら、まだ異状はなさそうである。
『おい、本当にやるのか?』
「命令だろう。やるしかないさ……俺はそれより、こいつの機関砲でACを破壊できるかどうか、ってことの方が心配だね」
『全くだ……っ!? ぐああっ!』
 ――なんだ!?
 もう一人が異状を察知するが速いか……
 彼の乗るビショップもまた、突然動き出した『トラッカードッグ』のバズーカ砲によって、粉々に粉砕されていた。
 そう。すでに遅かったのだ。
 ボダはトラッカードッグのコックピットのシートに身を埋め、満足げに哄笑をあげていた。
 
 
 酒の匂い。弾けるようなピアノの音。マスターがオーダー通りにジンを小さなグラスに注ぎ、カウンターに置く。。黒いコートを羽織った長身の男はそれを少し口に含んだ。
 飲み下すと、喉に熱い感覚が広がる。男は思った。やはり酒はこのくらいきつくなくては。
 この店には初めて来るが、なかなか雰囲気のいい店だ。何より酒が旨い。彼はそう酒好きではないが、ここにならまた来てもいいと感じた。
 戸が軋み、ゆっくりと開いた。外の湿った風が薄暗い店に忍び込んでくる。誰か客が来たようだった。カウンター席に腰掛ける男の背中の方で、なにやらざわめきが起こっている。それも男の声ばかり。彼がふと顔を見上げると、マスターもまた目を細めていた。
 靴音がざわめきを切り裂く。この音は、おそらくハイヒールだろう。女か。彼も周囲をざわめかせるような女に興味がないわけではないが、今日は女に用があってここに来たわけではない。
 女の靴音は彼の真後ろで止まった。彼の隣の席にその女が腰を下ろす。女は澄んだ声でマスターに言った。
「白乾児、ある?」
 マスターは渋い顔をした。
「ないならいいわよ。彼と同じの」
「ジンのストレートだぞ。大丈夫なのか?」
 女は彼の言葉を鼻で笑った。
 声を聞いただけでわかる。この女に会うのは……これで三度目だ。
 黒い瞳と黒いショート・ヘア。目尻はやや吊り上がっていて、挑発的な雰囲気を漂わせる。アジア人に許された小さく引き締まった鼻。淡い色の口紅で一層映える唇。
 彼と同じ、レイヴンと呼ばれる傭兵の中の一人。それが彼女、リンファである。リンファ、という名は、今や闇の世界の傭兵達の間に知れ渡っている。彼が気に入らないのは、なぜか噂の中でリンファの相棒にやたら腕の立つ黒いコートの男がいる、と囁かれていることである。
 今日は、リンファはやけにめかし込んでいる。普段ならハイヒールなど絶対に履きそうもないのだが。
 リンファはカウンターに置かれたジンを、グラスの半分くらい一気に飲み下した。横で彼が目を見張る。彼も結構酒には強い方だが、どうやらこの女には敵わないようである。
「最近よく遇うわね、ヨシュア」
「遇いたくはないけどな。
 ……お前もか?」
 ヨシュアと呼ばれた黒いコートの男はぶっきらぼうに問いかけた。リンファもヨシュアも、繁栄する社会の闇を駆け抜ける傭兵、レイヴンである。同じ所で出くわすということは、同じ仕事である可能性が高い。
「殺人鬼ボダ……こんないいネタ、独り占めにはさせないわ」
 リンファの声は、隣にいるヨシュア以外には聞こえないくらい小さなものだった。
 殺人鬼ボダ。大破壊以後最大級の凶悪殺人犯。二年ほど前に突然犯行を始め、犠牲者はざっと千人以上。そのうち、追っ手のガードが半分を占める。一日に一人か二人は殺していた計算になる。
 その手口は残虐……ある者は首の骨を折られ、またある者は胸板を手刀で貫かれ、ボダに出会って生き延びているものは両手で数えるほどしかいない。
 十日ほど前に、ついにそのボダがガードによって逮捕された。その当初はかなりのニュースになり、誇らしげに逮捕時の状況を語るガードの面々がテレビで連日放送されていたのは記憶に新しい。その話題性たるや、ガードのスポンサーであるプログテック社の株が急騰したほどだ。
 しかしつい三日前のことである。ボダは拘置所を脱走。立ちはだかるガード百二十六人を殺害し、ガード所有のACを強奪した。
 慌てたガードは急遽ボダに賞金を懸けた。賞金額は七万コーム、賞金首の生死も問わない、という異例の好条件に、普段は企業からの依頼を主にこなすレイヴンたちが飛びついた。
 そんな中で、リンファとヨシュアはこのバーにボダが現れる、という噂を聞きつけたのである。
「僕と同じ情報を探り当てたか。流石だな。
 ……どうだ? 奴は手強い。ここは一つ、手を組まないか?」
「冗談。あんたと組んだりしたら賞金半分になっちゃうじゃない」
「実は、ガードのお偉いさんにコネがあってね。僕に限り賞金が十万コームでるのさ。
 二人でする楽な仕事で報酬は五万コーム。悪い話じゃないだろう?」
 いくら二人組だろうが、凶悪な殺人鬼を相手にするのが楽な仕事かどうか……リンファは迷った。ジンの残り半分を一気に飲み干す。熱い感覚が喉を通り抜けていった。
 グラスをカウンターに置くと、リンファは隣でちびちび飲んでいる男に視線を送った。
「いいわ、協力しましょ。でも、後でそのお偉いさん紹介しなさいよ」
「憶えてたらな」
 ヨシュアのグラスも空になった。話もまとまったし、あとはボダがこの店に現れるのを待つだけだが……本当にここに現れるのかもわからないし、もし来るにしても今日来るのかもわからないのだ。
 と、リンファが考えた一瞬後に、後ろのテーブル席から濁声が聞こえてきた。
「ボダ!?」
 二人の肩がぴくりと震えた。全く同時に、肩越しに後ろに目を遣る。
 そこでは無精髭を生やした中年の男が、席で酒を飲んでいた女にからんでいた。さっきの声は女のものである。
「そうよ、俺は怖ぁ〜い殺人鬼なのさ」
「やめてッ! 放してよッ!」
 ヨシュアの眉がひくついた。その耳元でリンファが囁く。
「ねぇ……もしかして、この店に現れる『ボダ』って……」
「……アレのことか……」
 どうやら、これはガセネタだったようである。リンファは溜息をついてカウンターに向き直った。今日はただ、飲んで帰るだけになりそうだ。
 その時、不意にヨシュアが立ち上がった。
「……ヨシュア?」
 怪訝そうなリンファの声を無視して、ヨシュアは今だテーブル席で女にからみ続ける中年男に近付く。その顔には冷たい笑みが浮かんでいる。
「よう」
 男は鬱陶しそうにヨシュアを見上げた。
「あぁ? なんだ、てめーは」
「あんた、ボダっていう名前なのか?」
 男は一瞬唖然とした後で、下品に笑った。半分笑い声を混ぜながら嘲るように答える。
「ああ、そうさ。てめーも殺されたくなかったらとっとと失せな」
「なんだって? よく聞こえないな」
「あ?」
 ゴッ!
 鈍い音が響き、男のみぞおちにヨシュアの拳がめり込んだ。そのままヨシュアは拳に力を込める。
 次の瞬間、男の体は宙を舞った。ヨシュアに投げ飛ばされた男は、背中から床に叩き付けらる。男の苦しそうな呻きがリンファにも聞こえてきた。
「もう一度聞く。
 ……あんたがボダか?」
「ひっ……ち、違う! 俺じゃねぇよ!」
 ヨシュアは怯える男を放り棄てた。男は床を這いずるようにして逃げ去っていった。
 肩をすくめ、リンファは追加注文をした。それにしてもヨシュアも物好きだ。見ず知らずの女を助けるとは……ひょっとして口説くつもりだろうか? だとしたらさっきの偽ボダよりたちが悪い。
 マスターがリンファのグラスにジンを注ぐ。早速リンファはそれに口を付けた。
「大丈夫だったか、シェリー?」
 ぶっ。
 思わずリンファは酒を少し吹き出した。
 ――知り合いですか……
「余計なことしないで」
 シェリー、と呼ばれた女は席を立ち、ヨシュアと正面から向かい合った。リンファも酒を飲むふりをして様子をうかがう。よく見るとかなりの美人だ。リンファの相棒のエリィという女性も相当なものだが、シェリーにはそれとは異なる魅力があった。
 長く伸ばしたストレートヘアの金色の中で、口紅の鮮やかさが引き立つ。滑らかなボディラインの見える革のパンツ、その上に羽織った革のジャケット。少し吊り上がった目尻が整った表情にアクセントを添える。
 どこか陰があるその姿には、むしろ女の方が憧れを抱きそうだった。
「一度は惚れた女だ。放っておけるかよ」
「昔にこだわり過ぎるのはあなたの悪い癖ね。私はもう、あなたとは何の関係もないわ」
 シェリーはテーブルの上に代金を置くと、ヨシュアの横を通り抜けてバーから出ていった。しばらくヨシュアはその背が消えたドアの方を眺めていたが、やがて溜息をつくとリンファの横の席に腰を落ち着けた。
「なに、昔の女?」
「うるせぇよ」
 リンファがからかうと、ヨシュアは小さく吐き捨てた。どうやら機嫌が悪いようである。無理もないと言えば無理もないのだが。
「付き合えよ」
「え?」
「飲まずにいられるか」
 ヨシュアはグラスを軽くカウンターに叩き付けた。こんこんと小さな音が響き、それを聞きつけたマスターがすぐに酒を注ぐ。
 酒に口を付けるヨシュアに向かって、リンファは意地悪く微笑んだ。
「おごってくれる?」
「先に潰れた方がな」
 
「ほらっ……もう、しっかりしてよ!」
「う……ぐぅ……」
 地下都市特有の湿った空気が肌にまとわりつく。薄汚い裏通りを吹き抜ける風が、酔って火照った顔を撫でていった。
 酔いつぶれて相手の肩を借りているのは……ヨシュアである。彼も酒には相当強い方だが、リンファはそのレヴェルを遥かに越えていた。
 ヨシュアはもうリンファに支えられながらでないとまともに立つことすらできないほど酔いが回っていた。結局あの後、二人でジンのボトルを六本空けてしまったのである。ヨシュアのようになるのが当然だが、リンファは全く平気そうだった。
「なんで……俺と同じペースで飲んでて平気なんだよ……お前は……」
「は、『俺』ね。いつもは『僕』なんて言って気取ってるくせに」
 ヨシュアはリンファの肩にしがみついたままふらついた。おかげでリンファもバランスを崩し、転びそうになる。リンファは何とか足で踏ん張った。こんな汚い通りに転んだら、せっかくのドレスが台無しになってしまう。
「……うっ」
「きゃっ!? やだ、ちょっとこんな所で戻さないでよ!?」
 ヨシュアが呻くと、リンファは大げさに叫ぶ。戻しはしなかったが、気分が悪くなったヨシュアはその場にうずくまった。その背をリンファがさする。
 ――悪寒。
 バッ!
 ヨシュアは突然リンファを突き飛ばし、自分も転がってその場を離れた。次の瞬間、黒い影が二人の間を駆け抜けた!
 銀色の煌めき……刃物の僅かな反射光に、黒い糸が照らし出された。リンファの髪の毛が数本斬り取られていた。もう一瞬、ヨシュアの行動が遅ければ……真っ二つにされていたのはリンファの首筋だっただろう。
 ヨシュアは舌打ちを一つした。
「酔いが醒めちまった」
 コートの内側から拳銃を取りだし、闇の中に潜む影に狙いを定める。
「顔を見せろよ、坊や」
 リンファは慌てて立ち上がった。ドレスの中に隠していた小型拳銃を構え、目をこらす。
 影はゆっくりと動いた。街灯の薄暗い光の中に入る。影が光の帯によって拭い去られた。
 立っていたのは一人の男だった。まずやたらと高い身長が目を引く。二メートルは超えているだろう。引き締まった獣のような筋肉。金属でできた左腕。その前腕から突きだした、湾曲した銀色の刃……
 噂に聞いた通りの姿……殺人鬼、ボダ。
 どうやら、この辺りに潜んでいるという情報は間違っていなかったようである。
「あんたがボダね!?」
 ボダは何も答えず、代わりに口の端を吊り上げた。氷のように冷たい笑みがリンファに身震いをさせた。
 次の瞬間!
 ギィンッ!
 甲高い音が響く。一瞬にしてリンファの眼前に近付いたボダが、彼女に刃を叩き付けた。かろうじて拳銃で受け止めたが、銃は手を離れ、はじき飛ばされていた。
 衝撃で尻餅を付いたリンファに、銀色の刃が迫る!
「動くなっ!」
 叫びながらヨシュアは引き金を引いた。弾丸はボダの刃に命中する。軌道をそらされた刃はリンファの耳の横を通り過ぎた。すかさずボダの腹にリンファの蹴りが入る。
 ボダは派手に吹き飛んで地面に転がった。しかし、すぐに立ち上がる。蹴られたときに自分で後ろへ飛んだせいで、大したダメージにはならなかったのである。
 それでも一瞬の隙は生まれる。リンファとヨシュアは一瞬ずつずらして弾丸を撃ち込んだ。同時よりこの方がかわしにくいのだが……
 ボダの左腕が動く。
 バヂッ!
 リンファは火花が飛び散るのを見た。二つの弾丸は、腕の刃によって叩き落とされていた。
「…………ッ!」
「化け物め!」
 憎まれ口を叩く暇もなく、ボダは再び走った。呆然とするリンファの頭をつかみ、放り投げた。壁に背中を打ち付け、呻くリンファ。
 ボダはそのままの勢いで左腕を振るった。目標はヨシュア。
 ――刃が来る!
 ヨシュアの意識が殺人鬼の左腕に集中する。しかし次の瞬間、ヨシュアに叩き付けられたのは右の拳だった。
 予想外のフェイントに、銃を取り落として地面に倒れ込む。そこを狙って今度こそ刃が煌めいた。
 ……手に触れる硬い物。
 ガッ!
 刃はヨシュアの顔の目の前で止まった。彼の命をすんでのところで救ったもの……それは、地面に転がっていたワイヤーケーブルだった。両手でワイヤーの端を持ち、全体重を乗せたボダの刃を受け止めたのである。
 手のひらに激痛が走った。ワイヤーを伝って血がしたたる。重みに耐えきれず、手のひらの肉が裂け始めていた。
 ヨシュアは冷たい笑みが張り付いたままのボダの顔を見上げた。狂人は今まで何人も見てきたし、自分がそうでないという保証もない。しかし、こいつは普通の狂人……というと妙だが、ともかくそういった連中とは一線を画していた。
 勝負は次の一瞬で決まる。ボダが次の一撃を繰り出すために刃を引くその一瞬が全てである。
 ふっ、と手のひらの痛みがひいた。
 ガッ!
 刃は、こんどは地面に突き刺さった。倒れたまま身を捻ったヨシュアの頭のすぐ側に。
 流れるようにヨシュアは落とした拳銃を拾って撃った!
 弾丸はボダの頬をかすめて上空へ突き抜けた。
 勝った。
 彼はそう思った。
 ボダが刃を引き抜く。体勢を崩したヨシュアに、次の攻撃をかわすのは無理である。
 そして!
 ごっ!
 鈍い音が響く。空から降ってきた植木鉢が、ボダの後頭部を直撃した。さすがのボダもこれにはたまらず倒れ伏した。
 ヨシュアが狙ったのはボダではない。横の建物の壁から突きだした不安定な木板。それを支える支柱を撃ち抜いたのである。
 支えを失った板は傾き、その上に載っていた植木鉢も当然下に落ちる、というわけである。
 ヨシュアはゆっくりと立ち上がった。いくら殺人鬼ボダといえど、こんなものを食らっては生きてはいないだろう。小さく息をつくと、未だに呻いているリンファに歩み寄った。
「生きてるか?」
「まあね……! 後ろ!」
 リンファは慌ててヨシュアの背後を指さした。弾かれたように振り返ると、そこには笑みを浮かべて立ち上がったボダの姿。
 そのとき、突然上空が明るくなった。朝日……ではない。地下都市の天井についた強力な電灯の光である。地下都市には本来夜も昼もない。しかしそれでは人間の時間感覚は麻痺してしまう。そのため、地上の日照時間に合わせて人工の昼夜を作り出しているのだ。
 まぶしさにヨシュアの目が眩んだ。
 まずい、と思うよりも先に……
 ボダは踵を返し、何処かへと消え去っていった。
 
「まけちゃいましたぁ〜。あはははは」
『負けてないッ!』
 珍しくリンファとヨシュアの声はぴったりと一致した。
 青いビニールシートが被せられた山。転がる何かのスクラップ。手入れだけはしっかりしているAC用のパーツ。テーブルが一つと、その周りに椅子代わりに置かれている木箱。散らかるゴミ。先週の女性向け写真週刊誌。それとテーブルの上のパソコン。
 ここにあるのは言ってしまえばそれだけである。薄暗く汚れた倉庫の一階……リンファがACを格納するガレージとして使っている場所である。ちなみに、二階は寝床になっている。
 そこで木箱に腰掛けているのはリンファとヨシュア。そしてもう一人、腰まである赤毛で大きな三つ編みを作っている女性。小さな眼鏡を高い鼻にかけ、へろへろした笑顔を浮かべている。
 リンファ専属メカニック、エリィ。過去の経歴は何もわからないが、腕は本物である。
 憮然とした表情を浮かべながらも、ヨシュアは手のひらを差し出した。エリィの手で消毒薬と包帯による処置がなされる。一体どこで身につけたのか、エリィは機械の扱いのみならず医学の心得も多少あるようだった。
「それにしても、なんなのよあいつは……銃弾はたき落とすわ、植木鉢脳天に食らって平気な顔してるわ……」
「なんだ、知らないのか?」
 ヨシュアは手を握ったり開いたりして調子を確かめた。さっきまでの痛みはほとんどない。処置が確かな証拠だった。
「ヴェスタル・ファナス社の人間兵器……ネストで公然と流れてる噂だ。どうせ見てないんだろ」
「うっ……」
「えりぃもみたよ〜! あはははは」
 レイヴン達が所属する『レイヴンズ・ネスト』は、コンピューターネットワーク上に存在する組織である。特定のレイヴンを指名しない依頼の紹介や、ネットを介したAC用パーツの販売、アリーナ管理委員会と連携した『バトルアリーナ』運営など、その活動は多岐にわたる。三年ほど前に一度、突然消滅したことがあったが、引退したレイヴン達によってその後再結成されたようである。
 ネストにあるレイヴン向け公開ノードでは、企業や依頼、レイヴンに関する様々な噂が飛び交っている。そんな噂の中の一つに、賞金首ボダに関するものもある。
「ヴェスタル・ファナス社は知ってるか?」
「それくらいはね。キンドル造ったとこでしょ?」
 キンドルとは、化学工業系企業のヴェスタル・ファナス社が製造した能力強化薬物、アダードラッグの一種である。人間の反射神経を研ぎ澄ます効果があるが、あまりに慣習性・中毒性が強いために使用が禁じられ、ヴェスタル・ファナス社自身もより巨大な企業によって潰されてしまった。
「そのファナス社が極秘に製造していた兵器……それがボダだ。お得意のアダードラッグや人工器官によって肉体の能力を極限まで高めた生体暗殺兵器ってやつだ」
「にねんまえにぃ〜、けんきゅうじょをだっそうしちゃったです〜」
「なるほど……強いわけよね……」
 リンファは足をテーブルの上で組んだ。目を閉じて、なにやら深く考え込む。その横顔にヨシュアが声をかけた。
「で、どうするんだ?」
 目を開けてリンファは立ち上がった。
「決まってンじゃない」
 
 
 地下都市アイザック・シティの外れに、大きなプラントがある。いくつかの工場施設とタンク、倉庫が建ち並び、人々がその間を忙しく駆け回っている。
 シェリーはそのプラントの中を見回っていた。
「監督!」
 背中にかけられた声に、彼女は振り返った。黒いレザージャケットの上を長い金髪が流れる。青い瞳が相手を見据えた。
「何?」
「シェリーさん、三番倉庫の商品は今日搬出でしたよね。まだ受取側から連絡がないんですが」
「おかしいわね。わかった、連絡してみるわ」
「お願いします」
 シェリーは男と別れて歩き出した。その背を見つめながら、男は心の中で呟いた。
 ――大したものだ。あの若さで工場監督とは……
 
 突然、外が暗くなった。それに連動して室内の灯りが付く。地下都市に疑似の夜がやってきたのである。
 シェリーはノートパソコンの画面から目を離して、窓の外を見つめた。事務室の奥にある工場監督室の隣は丁度三番倉庫になっている。結局受取側はやってこなかった。再三連絡したにもかかわらず、である。
 おかげでこんな時間まで工場に残っていたのが無駄になってしまった。これでいて、監督というのも辛い仕事である。まあ、辛くない仕事なんていうものがあるのかどうかは疑問だが。
 シェリーは溜息をついてパソコンを閉じた。バッグにパソコンを詰め込み、立ち上がる。
 もう今日は帰ろう。シェリーは部屋の灯りを消した。そのままドアから外へでる。
 外の冷たい空気が頬をなでる。地下都市はその広大さから、あまり空調設備が行き届いていない。空気は地上からファンで取り入れているのだが、汚染された空気を洗浄するのが精一杯で、気温や湿度の調節までは手が回らないのである。従って、地下都市の気候は地上に左右される。夜は寒くなってしまうのだ。
 シェリーは徐に歩き出した。側には彼女自慢の赤いスポーツカーが止めてある。工場にマッチした車ではないが、趣味なのだから仕方がない。工場の職員の中にもカーマニアは沢山いる。お互い様、である。
 スポーツカーのドアを開く。助手席にバッグを放り込んだ時、シェリーは妙な感覚を憶えた。
 背筋を冷たい汗が流れていく。悪寒、というやつである。シェリーは辺りを見回した。暗いプラント。動くものは何もない。
 その時、誰かが彼女の頭をつかんだ。
 
 リンファは注意深く辺りの様子をうかがった。暗く、人通りもほとんどない道路。昨日ボダに襲われた場所からそう遠くない地区である。この辺りはどこぞの企業のプラントが立ち並ぶ工業地帯だ。
 ボダは夜にしか殺人をしない。これもネストでつかんだ情報である。だからこそ、昨日は朝が訪れると同時に姿を消したのだ。
 リンファとヨシュアがとった作戦……囮作戦である。おそらくボダはそう遠くへ行っていない。ならば夜にこの辺りをうろつけば、また襲ってくるだろう。そこを返り討ちにする、というなんとも力押しの作戦である。
 右手には通信機の端末が握られている。エリィにもヨシュアにも、これ一つで連絡が取れる。できれば助けを呼ぶ為には使いたくないものだ。
 ピピッ。
 通信機が小さな電子音を立てた。端末のスイッチを押して口許に持っていく。
「誰?」
『僕だ。異状は?』
「まだ、ない」
 聞こえてきたのはヨシュアの声だった。そういえば、決めておいた定時連絡の時間を過ぎている。リンファの方から連絡を取るはずだったが、すっかり忘れていた。
『今どこだ?』
「えーと……なんか、プラントの前よ。ブラックスミス……ケミカルズとかいう企業の」
『ああ、あの辺りか。大体位置は……』
 その時。
 甲高い悲鳴が、闇を切り裂いた!
 
「!?」
 通信機から聞こえてきたのは、間違いなく女の悲鳴。声が遠いことからしてリンファではなさそうだが、どこかで聞いたことがあるような気がする。
 ヨシュアは通信機に向かって叫んだ。
「どうしたんだ?」
『悲鳴よ! 工場の中から聞こえた!
 探ってみるわ!』
「お、おい! ちょっと待……」
 通信は一方的に切られた。溜息をつき、ヨシュアは端末をコートのポケットに放り込む。
「無鉄砲な奴だ……一人でボダをなんとかできるとでも思ってるのかよ」
 ブラックスミス・ケミカルズのプラントは……ヨシュアは西の方に目を遣った。確か、あっちだ。
 思うが速いか、ヨシュアは走り出していた。
 
 カチャッ。
 リンファは拳銃のスライドを引いた。ムラクモ・ミレニアムという企業の名銃である。小型で扱いやすく、リンファはこれが気に入っていた。しかしその企業が三年前に滅びてしまったため、蓄えてある千発の弾丸を使い切ったらもう弾が補充できないのが難点である。
 プラントの中は暗く静まりかえっていた。とりあえず近くにあるのは、そびえ立ついくつものタンク。それぞれがパイプで繋がっている。知識がないリンファには何の設備だか見当も付かないが、隠れるには最適な場所であることは確かだ。
 足音を殺し、リンファはゆっくりとタンクの一つに近付いた。注意深く様子をうかがう。
 ヒュッ!
 銀色の煌めきが、リンファの目の前をかすめた。もし一瞬早く後ろにのけ反っていなければ、リンファの頭は今頃ナイフに貫かれていただろう。
 ナイフが地面に突き刺さった直後に、上から一人の男が落ちてきた。空中で一回転し、器用に衝撃を緩和する。まるで猫か何かのような身の軽さである。
 言うまでもない。ボダである。
 リンファは銃を彼の方に向けた。
「出たな、妖怪」
 別にリンファの科白に笑ったわけではないだろうが、ボダはいつもの冷笑を浮かべ、走った。一瞬にしてリンファの懐に飛び込む!
 ――そう何度も食らうかッ!
 慌てることなくリンファはバックステップし、握っていた左手を放した。空中に舞うもの……砂。
 ざぁっ!
 これはかわしようがない。ボダは正面からまともに砂を食らった。当然、目の中にも砂が入り込む。
 たまらずボダは目を閉じた。その動きが一瞬止まる。
「そこだぁっ!」
 ダンッ!
 リンファの銃が火を噴く! 銃弾はまっすぐにボダに迫り……
 叩き落とされていた。ボダの左手の義手からのびた銀色の刃によって。
 ――本当に目が見えてないのか!?
 疑問に思う間もなく、ボダが再度迫る! 目は、確かに閉じられたままである。
 刃がリンファの首を襲う!
 ダンッ!
 その時、一発の銃弾がボダの左腕を貫いた! 衝撃で刃の軌道が逸れ、リンファの鼻先をかすめる。リンファは銃声がした方に目をやった。
 煙を立ち上らせる拳銃を両手で構えた男……ヨシュアが、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「く……か……」
 ボダが声をあげる。リンファは慌てて距離を離し、隙なく銃を突きつけた。
 穴の空いた自分の左腕をまじまじと見つめ、ボダはしばらく呆然としていた。しかし次の瞬間、大きく口を開いた。
「くくくくくかかかかか、けひゃはははははっ!」
 笑っている――
 リンファは背筋を冷たいものが流れるのを感じた。この男は、痛みすらも感じてはいない。まさに戦うためだけに生まれた兵器。
 勝てるのだろうか。こんな機械に。
 次の瞬間、ボダは地を蹴った。リンファの頭上を飛び越え、その先へを走り去る。
「あっ!? 逃げた!」
「追うぞ!」
 二人はボダの後ろ姿を追った。奴がまっすぐに走る先にあるのは、一つの工場施設らしき建造物である。壁のいたるところからパイプが飛び出し、他の建物と繋がっている。
 ボダはその工場の入口から中に入ったようだった。
 二人も工場までたどり着いた。入口のドアの前で頷きあい、互いに拳銃を構える。リンファがドアノブに手をかけ、開くと同時にヨシュアが中に飛び込んだ。
 視線を銃口と一緒に左右に振る。暗い工場内。タンクやパイプが複雑に絡み合っている。暗くて奥の方までは見渡せない。
 ヨシュアは手招きをした。リンファが銃を構えながら中へ入る。途端に彼女の顔が歪んだ。
 ――鼻を衝く不快な刺激臭。
「何……この臭い?」
「アンモニアだな。
 ……全く、スマートじゃないぜ。こんな所に逃げ込むとは」
 さすがのヨシュアも眉を歪めている。一体何のプラントだか知らないが、面倒なことになったようである。
 臭いを堪えて二人は工場内を見回した。一体どこにボダが隠れているかわからない。一瞬たりとも気は抜けない。
 その時、リンファは闇の中に何かが蠢くのを見た……ような気がした。ヨシュアに手招きで知らせ、遠くのある一点を指さす。
 二人は目を凝らした。しかし何も……
 いや、確かに何かいる!
 二人はすぐに走り出した。やがて蠢くものがはっきり見える場所まで近付いた。
 リンファが見たものは、ボダの背中と、地面に転がる一人の女だった。ボダはその女の頭を鷲掴みにしている。とても生きているようには見えなかった。
 そしてヨシュアはもう一つのものを見た。ボダに頭を掴まれ、力無く倒れている女。即ち……
「シェリー」
 ヨシュアの口を、その名がついて出た。
「シェリー……って、まさかあの!?」
 ようやくリンファも思い出した。確かに前にここの近くのバーで会った女である。
 ボダは声に気付いて振り返った。その口は大きく裂け、狂喜の笑みを浮かべている。そして彼は、左腕を振るった。
 ごとり。
 重い音。リンファは思わず目を反らした。
 首を切り離されたシェリーの肉体が、支えるものを失って床に転がった。
 
「ねえ」
 その声はか細く、まるでそよ風のようだった。しかし甘えの色はない。風はヨシュアの体を優しく撫でていった。
「どうして?」
 暖かいものがヨシュアに触れた。また風が動いたのだ。風の視線は彼に向けられているようだった。気付いてはいたが、彼は目を合わせようとはしなかった。代わりに腕を曲げて風を抱き寄せた。
「さぁな」
 風はその答えに満足したようだった。一体何が聞きたかったのだろう。彼にはわからなかった。
 また風が動いた。彼は風と自分の境界線がわからなくなってしまった。
「どうしてだ」
 彼がはじめて風を見つめた。金色の糸の束が妖しく自分にからみついているのが見えた。風は青い瞳を輝かせていた。
「どうして、ここにいる」
 風は彼に酔った。そして唇を触れ合わせた。
「風は、流れなければ生きていけないのよ」
 
 憤怒 殺意 悲哀 絶望 懐古 同情
 風。
 ヨシュアの中に渦巻いていたのは、そのどれでもなかった。その全てをあわせた、その全てを越えたもの。それを形容する言葉を、彼は知らない。
「ボダァアアァァァアァァァァッ!!」
 ヨシュアは走った。銃を連射しながらボダに迫っていく。
 全ての銃弾を叩き落とし、ボダは突っ込んでくるヨシュアの頭をつかみ取った。腕一本でヨシュアの体を持ち上げ、地面に叩き付ける。
 く……はっ……
 ヨシュアの口から呻き声が漏れた。
「お……マ…え……」
 ヨシュアの眼前に顔を近づけ、ボダは喉からひねり出すように声を出した。アクセントも発音もおかしい。まるで質の悪い機械のような声だった。
「おま……エ……オもし……ろイ……ぞ」
 両目を見開くヨシュアに向かって、銀色の刃が振り下ろされる!
 ……と、その時!
 ゴバァッ!
 轟音を立て、工場の壁に大穴が空いた! 砂煙を突き抜けて、一台のトラックが工場に突っ込んでくる。
 それを見たボダはすぐさま立ち上がり、闇の中へと消えていった。慌てて追いかけようとするリンファの背中に声がかかる。
「りんふぁちゃ〜ん!」
 振り返るとそこには、トラックの運転席から上半身をのぞかせたエリィの姿があった。そういえば、トラックの荷台にのっている、ブルーシートを被せられたものは……
「おまたせc」
 
[戦闘モード起動]
 愛機『ペンユウ』のコックピットの中で、リンファはコンピューターの声を聞いていた。自ら機体を覆うシートを剥がし、トラックの荷台から立ち上がる。
「エリィ、聞こえる?」
『きっこえま〜す。りんふぁちゃん、ここくさいね〜』
「我慢して。それよりヨシュアは大丈夫?」
『うん、だいじょぶだよ。わーむうっどにのるって』
「わかった。エリィは早く逃げて」
『りょ〜かい!』
 リンファはレーダーに目をやった。すぐ近くにある光点はエリィが乗ってきたトラック。遠くから近付いてくるのはヨシュアのACワームウッドだろう。
 そして、レーダーに新たな点が表示された。
[AC確認。アイザックシティ・ガード所有、『トラッカードッグ』]
「やっぱこの近くに隠してたのか……」
 レーダーによると、どうやらボダは隣の倉庫にいるようである。エリィから受け取った地図と照合する。
 第三番製品貯蔵庫……何が貯蔵されているのかまでは書いていないが、暴れ回るスペースは存分にありそうだった。
 エリィはもうトラックで外へ逃げ出している。結構逃げ足は速い。リンファもペンユウを操作し、その穴から工場の外へ出た。三番倉庫は少し北にある。レーダーの反応に注意しながらペンユウは倉庫に忍び寄った。
 おそらく製品の搬出にMTか何かを使っているのだろう。ACが余裕で通り抜けられるくらいの大きな扉がついている。鍵が閉まっているだろうが、今は緊急事態である。きっと、ヨシュアがコネがあるというガードのお偉いさんが弁償してくれるだろう。
 ガガガッ!
 リンファはトリガーを引いた。ペンユウのマシンガンが火を噴き、扉を粉々にうち砕いた。
 工場の中を覗き込む。レーダーの光点と同じ位置に、銀色の巨人が仁王立ちしていた。
 ガード所有の威圧用AC『トラッカードッグ』……塗装は変わっているが、間違いない。バズーカと追加弾倉のみ、などといいう意味不明な武装をしたACは他に聞いたことがない。
 ペンユウのマシンガンが再び火を噴いた。高速の銃弾が雨あられとトラッカードッグに迫る!
 しかしトラッカードッグはバズーカを地面に向かって放ち、その爆風で弾丸を吹き飛ばした。どうやらボダは、兵器の巧い使い方を知っているようである。
 砂煙を煙幕代わりにして、ペンユウは工場の中に飛び込んだ。レーダーの光点はこちらとの距離を一定に保って移動している。中距離……バズーカが最も効果を発揮する間合いである。
 しかし、今は砂煙のおかげで視界が悪い。こういう状況ではマシンガンの方が有利!
 レーダーから相手の位置を算出し、火器制御機関にデータを入力する。あまり正確ではないが、だいたいの位置にロックオンすることはできる。
 ガガガガガッ!
 マシンガンの銃弾が煙を貫く! しかし……手応えはない。そのかわりに、レーダーの光点が大きく右に動いた。回避行動をとった証拠である。
 その軌道を頼りに敵位置をより正確に算出する。これを繰り返せば、いずれは相手に当たる!
 エリィ特製FCS補助ソフト、『ビンゴくん三号』である。なかなか便利な代物だが、名前がいまいちなところが難点だ。
 リンファが再度トリガーを引こうとした、その時!
 レーダーの警告音が鳴った。トラッカードッグが猛スピードで近付いてくる!
 収まりかけた砂煙を切り裂き、銀色の巨人が姿を現す。そのままトラッカードッグは、ペンユウに体当たりを仕掛けた!
 かわしきれずにはじき飛ばされるペンユウ。ブースターで体勢を立て直すも、その目の前にはバズーカの弾丸が迫っていた。
 ――直撃!?
 リンファは覚悟して目を閉じた。
 ドグォアァァッ!
 ペンユウの眼前の空中で、突然バズーカ弾が爆発を起こした。衝撃がペンユウを震わせるが、直撃ほどではない。
『気を付けろ、手強いぞ』
「ヨシュア!」
 青い蜘蛛……ヨシュアの四足AC『ワームウッド』が、壊れた扉から滑り込んできた。どうやらさっきは、ヨシュアが敵弾を撃ち落としてくれたようである。
 ペンユウが体勢を立て直している間に、ワームウッドはトラッカードッグに攻撃を仕掛けた。肩に装備しているレーザーキャノンを乱射しながら相手を追いつめていく。
 しかしトラッカードッグは、避けるどころか真っ正面から弾幕に突っ込んでくる! 身を低くしてキャノンの弾丸をかわし、そのままワームウッドに迫る!
 バズーカの銃口は真っ直ぐにワームウッドのコアに向けられている!
 バズーカの弾丸はワームウッドの足下に着弾した。慌てて回避するも、爆風からは逃れられない。安定性のないワームウッドは大きく吹き飛ばされた。
 そこを狙ってさらにトラッカードッグのバズーカが火を噴く!
 ――させるかっ!
 ペンユウはすでに体勢を立て直している。マシンガンを構え、右から左へと掃射する!
 ガガガガガッ!
 マシンガンは狙い違わずバズーカ弾を撃ち落とした。同時に後ろのトラッカードッグにも弾丸が迫る。
 トラッカードッグは空中に飛び上がりそれをかわすと、自分の肩に手を遣った。左手でつかんだものは……バズーカの追加弾倉。
 規格品通りなら、あの中には十発分のバズーカ砲弾が入っているはずだ。必要に応じて弾丸を補給できるわけだが……
 ……ということは、まさか!?
 リンファの予感通り、トラッカードッグは追加弾倉をもぎ取り、ペンユウに向かって投げつけた!
 足下に転がる幾つものバズーカ弾……そして、トラッカードッグはそれを狙ってバズーカ砲を撃つ!
「やばっ……!?」
 慌ててリンファは操縦桿をなぎ倒した。しかし……間に合わない!
 ゴガァァアアアァァンッ!
 
 爆発の衝撃が、コックピットを襲う。機体が激しく揺れ、いくつものレッドランプが一度に点灯した。警告音はさっきから鳴りっぱなしである。
 頭が痛い。揺れのおかげで打ってしまったようだ。額に当てた手に赤黒い血がこびりついた。
 ヨシュアは舌打ちをした。損害を確認する。動かないことはないが、機動性能は30%以下にまで低下しているだろう。さすがはバズーカ砲。威力は半端なものではない。
 その時、不意に通信が入った。
『ヨシュア、大丈夫!?』
 リンファである。かなり大丈夫ではないが、無駄に心配させてもしょうがない。それに……リンファをかばったのはこっちなのだ。
 ペンユウにバズーカ砲が命中する直前、ワームウッドが飛び出したのである。砲弾はワームウッドの胴体に食い込み、床に散らばった追加弾倉には誘爆しなかった。
「喋っている暇があったら自分の心配でもするんだな」
 そう言いつつもその声には余裕がない。それもそのはず、操縦桿を倒しても、出力がほとんど上がらなかったのである。
 ヨシュアは外部モニターを見遣った。トラッカードッグがこちらに迫ってきている。止めを刺すつもりだろうか。
 その時、突然視界の外から赤いACが飛び込んできた。マシンガンの掃射でトラッカードッグを追い払う。言うまでもなくペンユウである。
『ヨシュア、どうせもうまともに動けないんでしょ?
 今のうちに撤退しなさいよ』
「冗談じゃない。
 それより……」
 ヨシュアはモニター越しに倉庫の中を見回した。立ち並ぶ何かのタンク。そこにうがたれた内容物を示す文字。
「時間、稼げるか? できるだけ奴を動き回らせて、だ」
『簡単に言ってくれるよね』
 文句を言いながらも、ペンユウはトラッカードッグを追い始めた。マシンガンで牽制し、わざとそれをかわさせている。さすがに巧い。
 ヨシュアはまだ生きている動力を全てレーザーキャノンに回した。慎重に標準を合わせる。あとはタイミングを計るだけ、である。
 彼の額から汗が流れた。汗は血と混ざり合い、髪をべっとりと顔に張り付けた。
 ヨシュアはトリガーに指をかけた。
 
 ガガガガッ!
 マシンガンを放つ。ヨシュアは時間を稼げと言ったが、別にこのまま倒してしまっても良いわけである。もちろんリンファは手加減などせずに本気で狙っているのだが……当たらない。
 トラッカードッグの動きには予想以上にキレがある。下手に手加減などしようものならこっちが危ない。実際、さっきからいくつものバズーカ砲弾がペンユウの装甲をかすめている。
 リンファはさらにトリガーを引いた。トラッカードッグは、弾丸をかわしてこちらに突っ込んでくる!
「馬鹿の一つ覚えっ!」
 リンファは叫んだ。トラッカードッグのこの動きは予想済み。レーザーブレードの出力を最大まで上げ、突っ込んでくる敵に斬りつける!
 しかし、直前でトラッカードッグは方向を変えた。ブレードの届かないペンユウの右手に回り込み、そして……左の拳を、そのままペンユウに叩き付けた!
 ごっ!
 コックピットが揺れる。まさか、ブレードも装備していない素手で殴りかかってくるとは……ダメージは大したことはないが、一瞬機体が揺らいだ。
 その隙に、もちろんトラッカードッグはバズーカを構える!
「目には目をっ!」
 ペンユウは左腕を振り回し、トラッカードッグのバズーカの銃身を弾いた。ことわざの使い方は間違っているが、効果はある。弾丸はペンユウから大きくはずれ、床で爆風を撒き散らした。
 ブースターを噴かし、ペンユウは飛びすさる。バズーカをかわしにくい近距離での戦いは不利である。
 ――まだ!?
 リンファはワームウッドに目を遣った。レーザーキャノンを構えたまま、ぴくりとも動こうとはしない。
 そうこうしている間にもトラッカードッグは再び近付いてきた。バックジャンプしながらマシンガンを掃射し、距離をとる。
 その時、トラッカードッグが天井に向かってバズーカを発射した。瓦礫と砂埃で視界が封じられる!
 リンファはすぐさまレーダーを確認した。しかし、レーダーに映るのは妙なノイズばかり。
「!?」
 リンファは天井の、バズーカで撃ち抜かれた辺りを見上げた。へし折れた鉄骨が巨大な怪物のような影を作り出す。電気配線のコードは絶縁体がとけて、そこから青白いスパークを飛び散らせていた。
 ……スパーク?
 まさか!?
 気付いたときにはもう遅い。ボダは、電磁波によってレーダーを攪乱し、同時に視界を煙で遮って、そこに襲いかかるつもりなのである。条件は向こうも同じのはずだが、あの妖怪野郎ならこちらの駆動音で位置を特定する、なんていう技が可能かもしれない。
 リンファの予感は的中した。砂煙を突き抜けて、銀色のトラッカードッグが突如姿を現した。位置は……ペンユウの真後ろ!
 どうやらペンユウの後ろにあったタンクに上り、そこから飛び降りてきたようである。
 とても回避が間に合う状況ではない!
 ……と、その時。
『伏せろっ!』
 ヨシュアの声が、コックピットの中に響き渡った。
 
 がっ!
 ワームウッドのレーザーキャノンは、狙い違わずそれをぶち抜いた。
 即ち……トラッカードッグが乗っていたタンクである。
 タンクは大きく裂け、そこから内容物が吹き出してきた。無色透明な液体。見ただけでは水と区別がつかないかもしれない。その液体は、トラッカードッグを押し流した。
 ペンユウは、タンクの真下にいたせいで液体はほとんどかからなかった。しかし、背筋に悪寒を感じたリンファは慌ててその場を離れた。
 タンクの外壁には、大きくこう記されていた。
 《Nitric Acid》――《硝酸》、と。
 
 ギアの駆動音が響く。ペンユウは片膝をついた。コアにあるコックピットの扉が開き、そこからワイヤーが垂らされる。
 リンファはワイヤーについた足場をつたってペンユウから降りた。先にワームウッドを降りて溶解していくトラッカードッグを見つめていたヨシュアの隣に並ぶ。
 ヨシュアは珍しく煙草を吸っていた。紫煙が立ち上り、リンファはむせた。それに気付いたのか、ヨシュアは煙草を吐き捨てた。
「終わったわね」
 ヨシュアは何も答えなかった。ただじっと、硝酸の海に飲み込まれていく銀色の機体を見据えていた。瞳は研ぎ澄まされた刃のように輝いていた。
 リンファも彼と一緒にその光景を眺めていた。もし死体が残らなかったら、ガードは賞金を支払わないかもしれない。そんなのは嫌だな、と漠然と考えていた。
 その時、酸の海の中で何かが煌めいたような気がした。最初は銀色の装甲板かとも思ったが、それとも多少違って見えた。
 ずぶりっ。
 鈍い音がここまで届いた。間違いない。溶け去っていくACの外装を突き破って、誰かの左腕が姿を見せた。リンファはあんな腕を持つ男は一人しか知らない。刃が付いた義手。
 ばじゅっ!
 跳ね飛ばされた装甲板が、酸に触れて音を立てた。ACの残骸から這い出てきた男、ボダはその装甲板を足場にして酸の海を飛び越えた。
「生きてる……」
 ふとヨシュアを見ると、彼の額には脂汗が浮かんでいた。
 ひゅー、ひゅー。
 ボダの荒い息づかいが聞こえてきた。肩を上下させ、生きているのすら辛そうだった。
 リンファは息を飲んだ。ボダの顔面は、酸のせいであちこちが焼けただれていた。全身の皮膚が黄色く変色し、いくつもの水ぶくれが生まれては弾け、また生まれてを繰り返している。
「野郎」
 ヨシュアが唸った。血に濡れた手をコートの中に入れる。拳銃を取り出すと、すぐさまボダに向けた。
 ボダはきびすを返すと走り出した。向かう先は倉庫の入口。逃げるつもりだろうか。
 リンファがそう思ったときには、ヨシュアはすでに走り出していた。
 
「ボダ!」
 ヨシュアは叫んだ。冷たい闇の中、殺人鬼の動きが止まる。そいつは、ゆっくりと振り返った。
 工場の外の空気は思ったよりも冷たかった。しかしヨシュアの身震いは、寒さのせいではなかっただろう。そのまま彼は右手の拳銃を持ち上げた。
 銃身がまっすぐボダの方を向く。黒い小さな鉄のかたまりが、彼の手の内で死を振りまく時を待っていた。
 対峙する二人を、リンファは遠くで見つめていた。何か言葉をかけなければ。頭ではそう思っているのに、言葉は喉でただの吐息となって流れてしまう。リンファは漠然と感じた。自分は今、やっとヨシュアのかけらを見た、と。
 時間が流れた。永劫にも等しい時間の流れだった。
 やがて、風が吹いた。風はヨシュアの左の頬を撫でていった。
 ボダが走る。真っ直ぐ、ヨシュアに向かって。
 ヨシュアは引き金を引いた。
 しかし殺人鬼ボダにとっては、銃弾をかわすことなど造作もないことだった。
 
「風?」
 彼は風の言葉を繰り返した。何を言っているのか、彼にはわからなかった。自分と今、身を重ねているこの風は詩人だ。でも自分は違う。そう思った。
「あなたは水」
 風は彼の胸に指をはわせた。お互いがお互いの暖かさを感じあっていた。それはきっと、肌の暖かさではなかっただろう。
「水は鴉の足を捕らえる。でもやがて、鴉は水で喉を潤す」
 彼は黙って風の言葉を聞いていた。何のことだかわからなかった。
「ある時、水は滝となって流れ始めるわ」
 彼は笑った。それが風の気に障ったようだった。風は頬を膨らませた。似合わない表情だ。でも、それでもいい。風は、似合わない表情を他人に見せることは決してないのだから。
「まるで占い師だな」
 彼は言った。昨日二人で出かけたとき、暗い裏道で出会った老婆がこういう雰囲気のことを口走っていたのを思い出した。老婆が言うといわくがあるように思える言葉だが、風はそれには少し若すぎる。そして美しすぎた。
「わたしはそんなに偉くないわ。だって、風なんだもの」
 風の言葉は、彼の胸の中に忍び込んできた。でも、これはどうでもいいことなのだと思った。風にとってはどうでもいいこと。彼にとっては大事なこと。だから彼は、聞いていないふりをした。
 今はそれでいいだろう。今は、この温もりだけで十分だ。
 
 重い音が響いた。
 彼は自分についた傷に手を遣った。べとべとした赤い物が手にこびりついた。信じられない。それだけが、彼の心の中にあった。
 ボダは倒れた。胸板を、銃弾に貫かれて。
 それをヨシュアは黙って見下ろしていた。左手に持ったもう一丁の銃は、彼の左側に回り込んだボダを確実に捕らえていた。
 わかりきっていたのだ。一発目をかわされることは。
 わかっていて、あえて撃った。そして一瞬遅れて左側に銃弾を放ったのだ。
 ――あ――
 ボダのうなりが聞こえた。わからないのだ。なぜ、左手に回り込むことがわかったのか。
 ボダは息を吐いた。そして、ゆっくりと目を閉じた。もう二度と動くことはできない。生まれて初めてだった。こんなに、怖いのは。
 何も言わず、ただヨシュアはその場に突っ立っていた。しばらく地下都市の天井を見上げていて、そしてふとあることを思いついた。
 なぜ、風が吹いたのだ。
 地の底にあるこの都市に、風が吹くわけがないではないか。
 さっき吹き抜けた風。自分の左の頬を撫でていった風。ボダが回り込む方向を、教えてくれた風。
 あれはなんだったのだろう。
 その答えが見えた時、ヨシュアは地面に膝をついた。拳銃が手から滑り落ちる。コンクリートの床とぶつかり合って、それが乾いた音を立てた。
「シェリー」
 もう一度、風の名を呼んでみた。何も起こらなかった。風は吹かなかった。呟きは冷たい夜の空気に吸い込まれて、こだますることもなかった。
 リンファは遠くでずっとそれを見つめていた。何もできない。それはわかっている。これはヨシュアだけの問題なのだ。リンファには何もできない……わからない。
 悲しみを背負ってやることも、怒りを分かち合うことも。
 一つだけあるとすれば、それはきっとこの姿を目に焼き付けることだけだろう。
 リンファは初めて、男の涙を美しいと思った。その姿をじっと見つめて、いつまでも憶えておこうと思った。
 自分が死んだら、誰かがあんな風に泣くんだろうか。
 そう考えたとき、リンファは今まで封印していたことを認めざるを得なかった。
 ――子供だな、あたしって。

THE END