LOVE LETTER FROM MARS


 赤道上3万6000q――新しい航海の港がそこにはあった。
 重力と摩擦から解放された、本当の意味で物理的自由な世界は、人々の探究心をくすぐり続けていた。
 暗黒に散らばる星は底知れず、膨らみ続ける空間の明と暗が、砂漠とは桁違いの温度差を作り出している。
 星の海はあるがままに全てを受け入れる。人が裸で飛び出せば血液が沸騰し、フリーズ・ドライのミイラになろうとも、それは無慈悲ではなく明快な事実なのだ。
 ――新しい人類の海。残酷なほど無が支配する世界への、処女航海が始まる。



 Prologue [MaidEN voyAGE]



『こちらマジック・パンプキン。ラプチャー00、応答せよ』
 ビターチョコに粉砂糖を振ったような景色の中で、太陽だけが寂しく光と放射線の風を吹かせていた。
 今となっては古風な液体水素の爆発が船を滑らせている。火のオールを伸ばして進む船は、盛大な別れを受けて青空を飛び出し、大気の化粧を落とした月を一瞥して旅を続ける。
 地に足のつかない感触と、突き当たりも地平線も無い世界に舵取りは困惑するが、船は炎をしまって速度を保ち、慣性飛行で目標へと確実に向かっていった。無骨な燃料タンクとジェットノズルの圧倒的迫力も荒涼とした宇宙の前ではオモチャに等しく、前進という安らぎを与えてくれた炎も消え失せてしまった。
 船の胴長で図太いデザインは、それなりの年代物だということを事を示していた。黒ずんだ輝きは何度と無く大気をくぐり抜けた証である。だが、巨大なタンクに挟まれた角張った船体の、丁寧に塗り重ねられた【EMERAUDE】のロゴだけは嫌味なほど新しかった。
 舵取りは一人でこの巨大な宇宙船を操縦していたが、本当に称賛を受けていたのは舵取りでも、この古い宇宙船でもない。
 丸っこい先端に格納された白銀に輝く飛行機、このスペース・プレーンが新たな人類の希望。曲面を意識し、機能性を兼ね備えた先進的デザイン。大気摩擦を一度も受けずに輝くボディ、華奢な翼に何気なく振られた【ZIO MATRIX】のロゴが船の中で確かに存在していた。
『こちらラプチャー00、ドッキングアームを作動します。レーザー照準を合わせてください』
『スティーブ、相対速度を落としてアームと同調しろ……ハンマーヘッドにぶつかったら洒落にならねぇ』
 何もない空間を進む恐怖も、気付いてみればあっという間だった。幸い漂流する宇宙ゴミにぶつかることもなく、巨大な輸送船はほんの少し地球を回って目標地点に着いたからだ。
 真空を駆ける光を受けて、巨大な塔が半分だけ浮き上がっていた。影に目立つ赤い点滅が示すのはこの輸送船ですらも相手にならない大きさで、どこまでも、眼下の青い惑星に向けてチューブ状の通路が吸い込まれている。その六角形のチューブは、途方もない自重に耐え、曲がることなくそびえ立っていた(ぶら下がっているという方が本当は正しい)。頂上に君臨する金槌頭は沈黙を守りながら漂い、その下の巨大な筒が眩いばかりに輝いている……それは回転する円筒形に、脊椎に似た通路がぶら下がる静止衛星。
 筒の縁から洩れる生活の明かりや、赤い光点が一直線に伸びるシャフトの美しさ。帰ってきた――緩やかに回転する灯台を見た舵取りは思った。
 彼の早く巨大な筒の中に入りたいという衝動と裏腹に、宇宙船はいったんゆっくりと高度を上げてから前に炎を吹き出し、衛星と足並みを合わせた。一見すると船と塔は止まっているように見えるが、実は地球の自転と同じ角速度で回っているのである。
 上昇した船は、重心のバランスをとる聖域【ハンマーヘッド】をくぐり抜け、シャフトと平行に向きを変えながら、ゆっくりと円筒の回転と伸ばされた腕に合わせて体をひるがえす。
 レーザー光線に導かれて緩やかな螺旋を描きながら、輸送船は降下していく。
『こちらラプチャー00。アームとの同調を確認』
『――そっちはどんな眺めだい、スティーブよぅ?』
『ああ……最高の観覧車ってとこだな』
 星の海に浮かぶ青い離島に、回転する円筒の輝きが止めどなく流れていた。星の散らばる闇を覆う、青い惑星の輝きは心を射抜いてならない。回り続ける観覧車。赤い光は決して消えることなく導き、窓から漏れる明かりに微かな人影が揺らいでいる――こんな光景は、例え10兆コームを積んでも見れるものじゃない。
『これだけでも、宇宙に来た甲斐があるってもんだ……接触まで後10秒』
 音もなく下っていく輸送船はとうとう伸ばされた腕に取り込まれ、船底を外に向けて円筒の回転の一部となった。
『――収容完了、エアロックを解放します。お疲れさまでした』
『あんがとよ、政府のお嬢ちゃん! これでやっとビールが飲めるぜ』
 これで舵取りの仕事は終わった。彼が巨大な腕に振り回される船を下りると、宇宙服に身を固めた作業員が現れ、輸送船の先端を機械の腕で開いて白銀の飛行機を取り出しにかかった。
 舵取りは熱いシャワーを浴び、冷たいビールを飲むために筒の中にへ意気揚々と入り、揺らめく影の一つとなった。



「おいおい、俺の乗っていたエムロードの鈍亀をばらすのか!」
 窓の向こうの宇宙船に多くの人が取り付き、レーザー・バーナーで鈍色の船体を焼き切っている。閑然とした遠心重力区で、シャワーを浴びた男が言った。今日のラプチャーの中には、月へと向かう鉱夫もいなければ、窓にへばりついて地球を見下ろす旅行者もいなかった。
 ラプチャー00がクロームとムラクモによって独占されていた月の資源を解放し、格安の宇宙旅行を可能にしてから人が途絶えることは一度もなかったのに……今は軌道エレベーターに滞在して作動を維持する職員の他に、宇宙船から散らばるゴミを片付ける掃除屋が少々だ。
 しかし後四日もすれば、この広間は関を開いたように人でごった返すだろう――それも全員がスーツと宝石を着こなした、とびきりの紳士淑女で。
「あのオンボロはラプチャーの外でバラして、リニア・エレベーターで名誉の御帰還とエムロード公はおっしゃったそうだ。確かにこれ以上宇宙ゴミが増えちゃたまらない」
 元舵取りの男に、別の男が答えた。
 舵取りの帰還を心待ちにしていた人々は掃除屋でも職員でもなかった。来るべく有人火星飛行に備えて自分たちの宇宙飛行機を最終点検に来たジオ・マトリクス社の宇宙技術者である。盛大に開かれるパーティのために、まさにこうして裏方が走り回っているというわけだ。
「だったらわざわざあれに乗ることはなかったじゃないか!? 一人乗りのスペース・プレーンぐらいならリニア・エレベーターでも大丈夫だろう――宇宙ゴミにビクビクしながら飛んでいた俺は一体何なんだよ?」
「スティーブ、そう大声を出すな。デモンストレーションだよ」
「何だって?」
「まだまだ小者の俺たちジオ社が、政府の火星飛行に大きく抜擢されたんだ――しかも政府は直属の宇宙飛行士まで預ける惚れっぷりだぜ」
「そういうことさね。天下のエムロード様を無視してシンデレラを俺たちに与えた政府に、エムロード様はご立腹。そして抜擢された俺たちジオ社に逆恨み。そんなお怒りを沈める生贄があの鈍亀ってわけ。わあわあ手を振られて、古兵はエムロードの旗を背負って名誉の御出陣――最もそんなバカげたお祭りは、エムロードのプライドを傷つけたようにしか思えんがね……なあ、ジェニファー嬢?」
「あなた達は良くヘラヘラしていられること、ホントに揃いも揃って唐変木ね! このままエムロードが引き下がると思って? まだ結婚前なのに……明日は我が身なのよ!」
 元舵取りの一言に女のヒステリーが始まり、静かなラプチャーの中にどよめきが起こったが、彼はビールを飲むと満面の笑みを浮かべずに入られなかった。彼にとって何より嬉しいことは重力の下で飲むビールが美味いことなのだ。無重力で飲むビールやコーラは泡だらけでスカッとしない。実にのんき者の彼は、地球の観覧車を思い出してビールを飲んだので、ついさっき感じていた怒りのことなどフイと忘れてしまっていた。
「まあまあ、とりあえずエムロードがどうだろうと、三十路のジェニファー嬢が未だにバージンだろうと――」
「何ですって!」
 男の禁句に三十路の女が叫ぶ。
「――とりあえず俺の仕事はシンデレラのためにカボチャの馬車を用意すること、それが終わったからこうして酒が飲めるってわけだ。ああそうさそうとも。発泡酒は邪道だぜっ!」
 これからの仕事を控える周りの冷めた顔など目にも入らず、男はビールを飲み干した。
「とんだアル中の魔法使いもいたもんだな……ところでシンデレラは今どうしているんだ?」
「……確かバルバスシティの宇宙研究所を出て、フォーシンズシティ郊外で最終調整をしているはずだぜ。もちろんあの命知らずで有名なワインダーズの警護を受けてさ」
 
 大破壊以前から進められていた火星地球化計画は、皮肉にも国家では無く暴利をむさぼっていた企業によって発見された。
 激動の時代に淘汰された企業に代わり、人の住める環境へと生まれ変わった赤い星に降り立つ、政府に選ばれた最初の人間はたった19歳の女の子だという。政府がジオ・マトリクス社に託した地球のシンデレラは、四日後の地球と火星が最も近くなる二年に一度の季節に、太陽の重力を帆に受けて航海するのだ。
 それが戦争終結祭の真っ直中とはまさに奇跡と言えた。地球政府による世界統一を祝うカーニバルの最高潮に、選ばれた宇宙飛行士が時代を象徴するラプチャーで星の海辺に立ち、エムロードの船が運んだジオ社の最新機に乗る。地球のシンデレラはシルクにガラスの靴ではなく、テフロンやカーボンチューブで折り重ねられた極上のドレスに、合成樹脂のヘルメットをかぶって火星へと向かうだろう。

 ラプチャーの中もざわめきはもう無い。ジオ社の技術者達は、取り出された飛行機が作業機に引っ張られていくのを見て、とりあえず邪魔が入らず作業が進むことに安堵した。少なくとも、自分たちは狙われていない、と。
「エムロードだって大手を振ってシンデレラの邪魔をするわけには行かないさ、何せこのプロジェクトは政府の公認だ。やるにしてもおそらくレイヴンを使うだろうが……今の世の中じゃ凄腕のレイブンはみんなアリーナ行き、ワインダーズの敵じゃない」
「そうそう……お前等もさ、何もこんなとこまで来てうじうじしてるなよ。
 ――ほら、地球がとっても綺麗だぜ」
 のんきな男の一言に全員が窓辺へ歩き、宇宙に浮かぶ青い地球に溜め息を付いた。
 薄蒼い大気に包まれた地球。太陽に照らされて輝く母なる星を見れば、確かに争いのことなど忘れてしまう。海はまだ魚が住めるほど浄化されていないが、サファイヤの様に深い青であり、互いに溶け合う雲はホワイト・ランドの上に渦巻き、見ていて決して飽きない。そしてそのまにまに映る陸は赤茶けて戦争の傷跡が残っていたが、都市からの緑が確かに生い茂ってきていた。いつかすさんだ荒野も大破壊のクレーターも緑が包み込み、全ての地上が人間の住める場所になることを誰もが望まずにはいられなかった。



 ――地球暦0197年――
 大破壊と呼ばれる最後の国家戦争で地上を失った後、企業の支配する地下世界での混沌の時代を経て、再び結成された政府が地球全体を統一した。
 資金も乏しく、未だに不安定な政府は地下から地上への移住を急務としていたが、再び人々を引き込もうとする企業との間に緊張が走っている。
 発見された新たな新天地の火星に有望な企業を進出させて、やがて君臨するエムロード社と共食いをさせる――そのうちに地球の地上を浄化して移住させようと言う計画が政府の水面下で実行されようとしていた。
 
 だがそれは多くの人々が知る由もない。
 久々に訪れた平和と、戻りつつある大地。
 そして新天地の火星に多くの人々が期待をはせていた。