赤とんぼ

 僕は無機質で無愛想だけど、どこか暖みのある廊下を抜けて、曇り硝子が張られたクリーム色の引き戸をずらした。
 安物の皮靴のゴム底が、ペタペタと緑色の黒板にこだまする。
「誰もいないや」
 誰もいない教室で僕は独り言を言った。今まで多くの人にこの癖を指摘されたけれど、別に直そうとは思わない。仕事でくたくたの体で誰もいない教室に入ると、独り言の一つも呟きたくなるものだ。そして独り言を吐くことで、心につかえた感情が魔法のように消えていくことを僕は知っていた。
 きっとこんな年にもなって高校の教室に立ち入る僕は、結構な物好きなんじゃないだろうか? それでも、同窓会を目前に忘れかけていた教室の空気を吸いたかったんだ。
 思い出の2年4組には、いつも光が溢れていた。窓際に座っていた僕は授業もそっちのけで、汗が染込んだグラウンドに浮かぶ、水をたっぷりと染込ませた水彩絵の具のような空と、汚れていない画用紙のような雲を眺めていた気がする。
 そして僕は部活が終わると、いつもこんな風に教室にやって来ていた。山の端に沈みかける、つぶれた夕日が誰もいない教室を優しく包んで、町の方からぼやけた赤とんぼが流れ込む。
 夢中でかいた汗に濡れたTシャツを風で膨らませ、いい加減な掃除のせいで埃っぽく白ずむ教室の匂いを嗅ぎ、五時を知らせる赤とんぼを聞いて高校の毎日を振り返っていた――僕は夕焼けの教室が大好きだった。
「西内澄子」
 僕はまた独り言を言った。その名前は、僕の教室の決して消えない染みになっている。澄子は真っ白な夏服にいつも怒っているような瞳を一生懸命開いて、僕の隣の席にいた。
 可哀想なくらい細くて、消えそうなほど真っ白な西内澄子を思い出しながら、僕は机の足元に落ちていた綿ゴミを拾った。
 背広の袖から覗く腕時計を見れば4時55分、もうすぐ赤とんぼが流れ込む。
「にしうち……すみこ」
 僕は呪文のようにゆっくりと呟く。いくら独り言を言っても、澄子が僕に残した気持ちだけは消えることがないのに。
『北中君なんて大嫌い、あんたなんて大っ嫌いよ!』
 あの頃のままの澄子が言った。
 そうなんだ、澄子は僕のことが大嫌いだった。









 秋の空には雲がない。どこまでも透き通る青さが高く突き上がるほど濃くなって、西の方へゆっくりと転がっている。そんな空の見つめていると地球が回っていることは本当だと思えた――まるで「そんな日は、授業なんて聞かないで空を見ていたほうがいい」と教科書のコペルニクスやガリレオが僕に語りかけるようだった。
「さて、今日は緑綾祭について話し合うが、その前に……」
「みんな、一年ぶりに西内が復学した。仲良くやってくれ」
 いつもは騒がしい2年4組がしんと静まり返り、何だか嫌な沈黙が流れたことからあの日が始まる。
 確か学園祭の内容を話し合う学級会だったろうか、白津先生に僕の知らない女の子が紹介されたのは。
 真っ白い顔につり上がった大きな目を抱え、もう衣替えが済んだのにまだ夏服を着ていた女の子――それが西内澄子だった。澄子は別にすこぶる美人でもなく普通の子だったが、恐ろしくなるほどの白い肌が印象的で、大和撫子に憬れていた僕は妙にドキドキしてしまったことを覚えている。
 とは言えこれは初めて見る人に対して抱くちょっとおかしな感情で、実際僕も転校してきた当初は、やれクールだの、やれ東京のスポーツマンだのと騒がれていたそうだ(別に興味はなかったけどね)。けれど、結局バレンタインは義理チョコももらってなかった。転校生は初めだけ過剰にみなされ、あとは諸行無常の教えの元に馴染んでいく……兵どもが夢の跡だ。
 僕が澄子に抱いた第一印象は、つまりそういうものに近かった。
 僕は妙に静まり返ったクラスの空気に気付きながら、自分の緊張を気付かれないように、窓際の景色を遮りながら空いていた僕の隣に座る澄子に、立ち上がって「北中正和、よろしく」と短く言った。
「へぇ、4月に転校して来たの……北中君っていうんだ。わたし西内澄子」
 そういうと澄子は、つり上がった目を緩ませてくすくすと笑い出した。正直言って僕は女の人に遠慮されがちの男だけど、こういう風に上品に笑いかけられるのはそんなに悪い気がしない。
「どうして笑っているの?」
「ええと……北中君って何だか黒人みたい。もう秋だって言うのに真っ黒だわ」
 涼しくなり始めた風を真っ白な夏服に受けて、澄子は僕の太ももより細そうな腰を下ろした。まるで清々しい詩を朗読した後のような表情で、つり目を輝かせて僕を見つめる。そして彼女はきょとんとした僕を見てまた吹きだした。
 確かに僕はそのころ陸上に命を懸けていて、昼も夜もなく狭いグラウンドを走り周っていたような気がする。おかげでインド人とか黒坊とか部活の悪友達にバカにされて慣れていたが、2−4の人間の、更に会ったばかりの女の子に全く物怖じもせずこう言われるのは正直どう反応すればいいか分からなかった。
 僕達のやり取りが筒抜けの静まった教室に、校門のコスモスと金木犀の混ざった匂いが流れ、もうその年で定年を迎える白髪頭の白津先生が、微笑んでいる澄子を深いまなざしで見つめる。
「……それでは話を戻そうか。今年の緑綾祭の出し物は何がいいか、意見がある人は手を上げてくれ」
 夕立の前のような雰囲気をさりげなく払うように先生が言った。それでも、まるで誰も何も言わなかった。
 正直二年生の学園祭などは得てして気合が入らないものだ。一年のころのフレッシュな緊張感もないし、三年のような思い入れもない――どうせまた来年があるのだから今年は適当に流そう、とみんなが思っているだろう――だが、僕にはこの奇妙に捻じれた沈黙がそれだけの理由からとは思えない。
 僕の隣の窓際から白い手がすっと挙がる。飛行機雲のように真直ぐ伸びた白い指先を誰もが見つめる――それは澄子の手。
 そう。僕はこの西内澄子に、クラスのみんなが物凄い緊張感を出していると確信していた。
「……西内か」
「はい先生、劇をやりたいです」
「ほう、演劇……どんな劇だね?」
 すぅ、澄子がゆっくりと息を吸い込む。
「……あの壁の蔦の、最後の一葉が落ちたら私も死ぬんだわ」
 大げさな声で演技して、澄子は少し照れながら無邪気に笑った。その声は、とても澄み渡って歯切れがよく、僕は不覚にも聞き惚れてしまっていた。
「――O・ヘンリの『最後の一葉』がやりたいです」
 凛とした澄子の声にクラス中がヒソヒソとざわめく、気を取り直した僕も澄子が正気か疑った。
 いったい何の理由があって演劇なんて下らないものをやるのだろうか? ただセリフを覚えるだけで、配役以外は面倒な大道具を作るだけの雑用である。それなのに、澄子の提案に誰も表立って非難しようとはしない。さっきのやり取りからその理由は何となく想像がついたけど、インターハイでの予選突破を真剣に考えていた僕は普段挙げることのない手を挙げる。
「おお、珍しいな北中」
「――先生、僕は反対です」
「あら、どうしてよ?」
 澄子は立ち上がった。白い肌と対照的な黒髪を揺らし、気の弱い白津先生を全く無視して、釣りあがった目で正面から僕を覗き込む。普段は無愛想で通っている僕にここまではっきりと物言う澄子に、僕はまた戸惑った。
「西内、とりあえずだな……」
「すぐ終わります。白津先生、少し黙っていてください」
 澄子は消しゴムのクズを払うように、年老いた白津先生にはき捨てる。
「どういうことなの、北川君」
「僕は北中だ」
「そうだったわね北中君、きちんと理由を説明して」
 白津先生は心配そうに僕達を眺め、みんなも黙っていた。
「……演劇なんて面白そうじゃないし、みんなが楽しんで取り組めるとは思えない」
「どうしてあなたにそんなことが分かるの、クラス全員の意見を聞いたの?」
 クラスのみんなは黙っていた。もう少しクラスメイトにも愛想を振っておけばよかったと僕は自分勝手に後悔する。
「確かにそうだけど……正直O・ヘンリが好きではないし、僕は部活で忙しいし」
「それじゃあ、何がやりたいの?」
「それは……お化け屋敷とか、喫茶店とかもっと楽なやつが」
「ふぅん、北中君って子供なのね。お化け屋敷や喫茶店なんてきっとどこのクラスでもやっているわ。それに結局北中君の都合じゃない」
「部活で忙しいなら別に来なくてもいいわよ。せっかく仲良くなれそうだったのに……つまらない理由を付けてごまかす北中君って、わたし正直嫌いだわ」
 そう言うと澄子は席へ座り、僕がいつも眺めていた青空を独占して睨みつけた。唖然として立ち尽くす僕を、クラスの沈黙が焼きくすぶる。つまり西内澄子とはこういう人間なのだ、一年前にこの学校にいなかった僕は澄子を知らずに手を出した。
 触らぬ神に祟りなしを破った僕が悪い、とクラスの人達は無言で言っていたのだろう。僕は自分が消えるような空しさと、西内澄子に対する憎しみが湧き上がるのを感じながら、「ラクで楽しい事をして何が悪いんだよ」と独り言を言った。
 すると澄子は「独り言を言う癖は止めたほうがいいわ」と言った。僕のもやもやをかき消してくれる独り言の魔法は、この日初めて失敗してしまった。
「それでは意見も無いようだし、西内の案を採用しよう。私も実は、O・ヘンリのファンなのだよ……出来る限り協力しよう」
 白津先生がそう言うまで、僕は怒りで自分の席に座ることすらも忘れていた。
 雲ひとつない秋晴れを見つめ続ける台風女――西内澄子との出会いは最悪だった。



「北中、お前緑綾祭の準備はいいのか?」
「ああ、僕はもう少し走ってから行く」
「なんだぁ、付き合いが悪いやつだなぁ」
「別に来ないでいいって言われたし、正直言って走ってるほうが楽しいからさ……冬になったら体育館で筋トレしか出来ないし、今のうちに走り溜めしておきたいんだ」
「相変わらず精が出ることで、そんなんだから真っ黒になるんだよ」
「うるせいやい」
 いつもは静まっているはずの放課後の学校が、その日はやけに騒がしかった。学園祭への準備に向けて、下校時間が延長されているからだ。でもそんなことは全く構わずに、僕は傾いた太陽を背に少し色褪せてきた桜を見ながら、白い砂利で敷き詰められた校庭を走っていた。
 荒くなった息を必死で呑み込み、あごを引いて前を見つめ続ける。持久走は己との戦いだと言い聞かせながら、肘の動きに細心の注意を払い、膝を高く上げ、桜の葉が寂しくなりだした校庭を走る。僕はインターハイで、転校したての僕を嫌な顔一つせず受け入れてくれた先輩達と、喜びと涙を分かち合った。そして僕はあの感動をもう一度、もっと強く感じたかった。
 金木犀のいい匂いと一緒にどこかのクラスからとても楽しそうな笑い声が流れ込み、時計はもうすぐ五時を回ろうとしていた。いつもなら僕は何気なく教室に向かうのだが、きっと今日の2年4組は多くの人たちで賑わって、あの優しい夕日と赤とんぼを味わうことが出来ないだろう。
 そして僕は、教室に行きたくないもう一つの理由があった。
『独り言を言う癖は止めたほうがいいわ』
 澄子だ、また澄子の凛とした声がこだまする。結局あの女はクラスの沈黙を逆手に取って、自分勝手に配役を決めて何もかも一人で進めてしまった。西内澄子は肺炎を患う悲劇のヒロイン、そして僕はその他大勢のいてもいなくてもいい舞台作り。澄子の病人と言う配役は恐ろしいほどにはまっていたけど、あの気性で悲劇のヒロインを演じるのは腹立たしい。でも、もし僕が澄子に向かってそう言ったら、きっと僕はまた完膚なまでに叩きのめされただろう。
『部活で忙しいなら別に来なくてもいいわよ』
「誰が行くもんか」
 僕は独り言を言ってペースを速める。せっかく保ち続けた呼吸が一気に乱れて、巡りまわる澄子の言葉が頭の酸素を食いつぶしていく――そして澄子が真っ白い制服をはためかせて言った。
『北中君って子供なのね』
 僕はラストスパートよりも激しい勢いで白い砂利を蹴り飛ばした。ガタガタに崩れたフォームで、あごを無様に上げたまま、誰もいないグラウンドを何周も何周も疾走する。考えるたびに、声に出すたびに、あの憎たらしい言葉が甦る。
『どういうことなの、北川君』
 僕は北中だって言っただろ!
『そうだったわね、北中君』
 もう僕に話しかけるな。
『どうして劇がやりたくないの?』
 面倒くさいからに決まっているだろ。
『やっぱり北中君って子供よね、結局北中君の都合じゃない……つまらない理由を付けてごまかす北中君って、わたし正直嫌いだわ』
「僕だって、お前のことが大嫌いだよ!」
 僕は気違いみたいに叫んだ後、誰もいない校庭にしゃがみ込んで空気をむさぼった。胸の鼓動が独りよがりに荒れ狂い、拭いても拭いても汗が流れ続けた。そして僕は、これから窓際から見える空の代わりに、あの澄子が居座ることにうんざりしながら校庭を眺める――すると先駆けて色が枯れ抜けた桜の葉が、幼い北風にゆらゆらと揺れながら僕の目の前に落ちてきたのだった。
『あの壁の蔦の、最後の一葉が落ちたら私も死ぬんだわ』
 舞い落ちる最初の一葉に、僕は何故か声が良く通った澄子の『最後の一葉』を思い出した。
 最後の一葉……確か貧しい画家の女性が肺炎にかかり、窓に見える枯葉が全て落ちたとき自分も死ぬと思い込む話だったはずだ。女性は自分が死ぬときを待っていたが、春になってもとうとう最後の一葉が落ちなかった。やがて生きる希望を取り戻した女性は、その一葉が同じアパートに住む老人に描かれた油絵だったと気付く。
 真冬の風が吹きすさむ中、老人はパレットを片手に毎日蔦の葉を書き直し続けていた。生きる喜びに気付かせてくれた老人に感謝の気持ちをを伝えようと女性が駆けつけたとき、老人は肺炎で死んでいた。彼は女性の命を救うために自分の命を落とし、名もない名画を残したのだった。
 悪い話ではなかったが、僕は他人の命を救うために老人が命を落としたことが嫌で仕方がなかった。
「最後の一葉だなんて……馬鹿馬鹿しい」
 そういうと不意に、澄子の白い顔が僕の脳裏に浮かび上がる。とても無邪気な笑顔を浮かべ、まぶしそうに瞳を細めて。
 橙色に染まった校庭で呟いても、やっぱり何だかもやもやした気分が抜けなかった。
 西内澄子には僕の独り言の魔法が通用しない。
 だからなのだろうか? 真直ぐに伸びる自分の影を見送って、嫌いなはずの澄子と向かい合うために、僕が2年4組の教室へと歩いていったのは。



 夕方の学校も、ほんのちょっとでガラリと雰囲気が変わる。僕は暖かな光が差し込む廊下が大好きだったのに、今日は僕の知らない教室から蛍光灯の冷たい明かりと知らない人たちの声が雪崩れ込んで、静かで優しい気持ちになれない。きっと2年4組も蛍光灯で完璧に照らし出されていると思うと、ここまで来てしまった事実と澄子に会いたいと今でも願っている自分自身に後悔する。
 この澄子を一目見たいと思う気持ちは何なのだろう? あの最後の一葉の一節を唱えた澄子が、僕には気になって仕方がなかった。
「分かってくれ……私は、お前の味方だよ」
「いいから出てって! わたしに構わないで!」
 2−4の表札が僕の視線に浮かんできたとき、女の子の必死の叫びが聞こえた。みんなが学園祭の準備をしているはずの教室は、電気がついてなくて、曇り硝子がオレンジ色にぼやけている。あまりに痛々しい声に僕は咄嗟に足を止めて、コンクリートの壁に静かに寄りかかった。
 ドキドキしながら息を潜めて耳を澄ます――二人は沈黙していた。女の子の激しい息遣いがただ小さく聞こえるだけで、後は何も聞こえない。とても苦しそうで、消えてしまいそうな吐息は、僕が昔かわいがっていたウサギが僕の腕の中で死ぬ直前のそれに近かった。
「西内、分かっているだろ……お前は、学校に来るべきじゃないんだ」
「うるさいわ! わたしの事はわたしが決める、戻りたくなんかない!」
 このとき僕は、言い争っている二人が澄子と白津先生だと分かった。先生は何かためらっているような雰囲気があった。そういえば白津先生は澄子に対してずっと何か遠慮めいたものがあったことを思い出した。
「西内……私には何もしてあげることが出来ない。だが、クラスのみんなには私からよく言っておく」
「さぁ、机の本をどけて……その落書きを消そう」
 いつもよりずっと優しい声を出して、白津先生のゆっくりとした足音が聞こえた。
「わたしに――わたしに構わないでって言ってるでしょ!」
 ガシャーン!
 ガラス細工の沈黙を打ち壊すように、水が激しく叩きつけられる音と空っぽの金属が転がる乾いた音が鳴り響く。
 もろくて繊細な静寂が砕けてしまった後、ただ澄子の泣き声だけが一人ぼっちで残されていた――本当に、本当に弱々しくて、悲しい泣き声だった。
「出てって……出てってよ!」
 彼女はそれだけを言うと静かに泣きむせび、しばらくした後で教室のドアがガラリと開く音がした。
 少し体をずらして覗き込んだ僕は扉から出てきた白津先生と目が合った。だがそんなことよりも、白津先生の全身がびっしょりと濡れていたことに驚いた。
「……白津先生」
「――北中?」
 僕は声を潜めて白津先生のそばによった。先生は実際の年よりもずっと老けて見える体に、容赦なく滴る水もそのままに、かなり疲れきった顔をしている。僕は何も言わず先生に汗臭いタオルを差し出す、僕はこれでも本気で生徒達を愛してくれた白津先生が好きだった。
「ありがとう」
 先生は一言だけ言うと、教室に背を向けた。僕に澄子との言い争いについて何も話してくれずに。
「先生、いったい何が――」
「北中……西内に優しくしてやってくれ、ほんの少しでいいんだ」濡れた老眼鏡をかけ直しながら、先生は言った。
「――頼む、西内に優しくしてやってくれ」
 それだけ言うと、白津先生は日の差し込む廊下に濡れた足跡を残して去っていった。
 取り残された僕は、曇りガラスが張られた、クリーム色の扉を見つめる。
 もう泣き声すらも消え失せてしまって、どこからか遠い笑い声が聞こえた。
 中に澄子がいる、ただそれだけの理由のために、僕は閉ざされた扉の向こうへ飛び込む。



「西内?」
 扉を開けると、窓いっぱいに連なる山に沈む夕日が目を焼きつくした。その日の空は雲一つない秋晴れだったせいか、真正面からの光が教室じゅうに跳ね返り、何十個も並んだ机が、一つ一つ僕に向かって輝く。
 誰もが優しい気持ちになれるような教室で、真っ赤に燃えた太陽に溶ける、動かない白い影。
 窓の隅に隠れるように立ってる人影は、季節外れの夏服で、なのに冬をみたいな白い肌で……ただ一つ真直ぐな黒髪だけが、涼しい風に踊っている。澄子が背中を向けた2年4組を見たとき、僕はそれ以上近づくことが出来なかった。その光景はまるでガラスの額に入れられた絵のようで、いつしか別の教室の笑い声も、秋風の掠れ音も、揺れ動く澄子の黒髪すらも、全ての音と動きが油絵の具で塗り固められたように止まっていた。
「……誰、北中君なの?」
 閉じ込められた風と、それになびく黒髪がやっと自由に動き出す。秋の夕焼けとは何か混ざり合わない澄子に話しかけられて、僕はどうにか忘れかけていた現実感を取り戻した。
「北中君は陸上部で忙しかったんじゃないかしら? わたしは来てなんて頼んでないわよ」
 髪を揺らしながら夕日を見続ける澄子が、ぼんやりと力の抜けるような声で呟く。さっきまで泣いていた自分を押し隠して、あくまで憎たらしい姿勢をとり続ける澄子は、やっぱりあの澄子だった。
「でもどうしてもやりたかったら、少しは舞台の製作を進めてちょうだい。人手がないの」
 澄子は振り向かないまま、後ろのペンキがまばらに塗られたベニヤ板を指差した。誰もいない教室に何十本の金槌と材木が置かれ、ぴかぴかの釘がめちゃくちゃに転がって、あちこちが橙色に光っている。
「西内、みんなは?」
「みんな来てないわ」
 澄子は早口でそっけなく答えた。
「来てないって……そんな」
「ほんとにみんな勝手よね、誰も私の意見を聞かないんだから……こうなったらわたし一人でやるわ」
「――わたし一人でやる、だから北中君も別に帰っていいわよ」
「一人でやるったって……無理だよ」
「一人じゃ何も出来ないよ」
「出来るわ」
 あんなに泣いていたのがまるで嘘のように、澄子ははっきりと言った。澄子は席を埋め尽くしている山積みの本から一冊の台本を拾い上げ、背筋を伸ばして大きく広げる。それでも、澄子は僕のほうを振り返らなかった。窓際の席の、机を覆い隠すように敷き詰められた本と誰もいない教室。そして言い争って、びしょ濡れで去っていった白津先生。
 『さぁ、机の本をどけて……その落書きを消そう』
 白津先生の言葉の後、澄子の叫びが弾けて、水と金属がこぼれる音が鳴り響いた。
 澄子が振り向かない理由があの机にあるような気がして、僕はゆっくりと足を進めた。
「西内」
「何よ?」
「さっき僕は、白津先生がびしょ濡れで教室から出て来たのを見たんだ」
 一瞬電気を浴びたみたいに、台本を見ていた澄子の頭がびくりと上がる。僕は少しずつ、いっせいに光る机を横切っていく。
「それがどうしたって言うの?」
「その前に先生は言い争いをしていた、何かを必死で説得しているようだった」
「そして僕は女の子と叫び声と、泣き声を聞いたんだ」
「――わたしに近づかないで」
「あの声は……西内の声だった」
「わたしじゃないわ」
「あれは君の声だった」
「わたしじゃないって言ってるでしょ!」
「一体何があったんだ?」
「いや、来ないで!」
「白津先生に何をしたんだ? クラスのみんなは?」
 背を向けた澄子へ、ほとんど小走りになっていた僕は足を止めた。上履きのゴム底が濡れた床に滑って、耳障りな音を立てる。
 澄子の席の辺り一面に水が散らばり、ブリキのバケツと濡れた雑巾が転がっていた。あの教室に響いたガシャンと言う音は、白津先生がびしょ濡れになって出てきた理由は、この水浸しに違いなかった。バケツを持って澄子に向かった先生に、澄子が抵抗してこうなったのではないだろうか。
 近づかないでと叫び続ける澄子を無視して、僕は水溜りを蹴散らしながら窓際の席へ足を進める。
 迫るような後ろめたさと残酷な好奇心を抱きながら、机に山積まれた本を振り払った。

 そして僕は澄子が泣いていた訳と、自分がしたことの酷さを思い知らされた。

 学校へ来るな、ガリガリ女、気持ち悪い、いい加減にしろ、どうして今頃戻ってきた、死んでしまえ……夕焼けに染まる澄子の席に、心を切り裂く言葉が呪いの呪文のようにチョークで書き殴られている。その文字一つ一つが、見覚えのある筆跡で、僕以外のクラスメイト全員が、澄子の机に一つずつ言葉を刻んでいた。表立って澄子を非難することがなかったクラスメイト達が、心の奥で持っていた感情を隠れながら澄子にぶつけたのである。
 2−4に澄子の味方はいなかった。それは人の言うことなど聞きもせず、最後にこの文字を消そうと優しくしてくれた白津先生も跳ね飛ばした報いかもしれない。
 それでも僕は、あの誰にも負けず他人とぶつかっていく澄子のすすり泣く声を聞いた。ハッとして目を上げれば頭を大きく下げて、小さな肩を震わせて。そのとき僕は、澄子が本当は僕達と同じで、か細くて、弱々しい存在なんだと知った。
 何もいえないままで時計がちょうど五時を回り、街からぼやけた赤とんぼが流れ込む。消えそうな泣き声も、こぼれ落ちる涙も、赤とんぼが流れる夕焼けに溶けていく。
「最低だわ」
 涙をこぼしながら呻くように言って、澄子が振り向いた。
 こっちを向いた澄子の顔は、異様に真っ白だった。夕日を浴びて不自然に紅く染まる頬、やつれきった表情と涙で腫れた目、そして青ざめた唇。澄子が振り返らない訳が分かった。あの屈託なく笑う釣り目や、朗々とした声が跡形もなく消えうせて、死を連想する顔だけが無情に流れる赤とんぼに泣いている。
「何も知らない振りをしてわたしに近づいたのね」
「わたしが……わたしが叫んだり、泣たりしてたのを聞いていたのね」
 僕の目の前で、澄子の釣りあがった瞳から止めどなく涙が流れ続けた。僕は「保健室へ行こう」の一言すら言えずに、このまま消えてしまいそうな澄子を見つめていた。ただ喉だけが渇ききって、手の平が蒸れて、止まらない赤とんぼのメロディが頭を狂わせていくだけで……。
「わたしの様を見るために、知らない振りして近づいたのでしょう?」
「最低よ、北中君」
「大嫌いだわ」
 倒れそうな体を振り絞って、澄子は叫んだ。
「北中君なんて大嫌い、あんたなんて大っ嫌いよ!」
 そう叫ぶと、澄子はフラフラともつれる足を押さえながら、燃え盛る教室から消えていった。
 僕は何もすることが出来ず、ただ……ただずっと立ち尽くしていた。



 その日を境に、西内澄子は学校から消えた。
 そして3ヵ月後の12月、いつも通りの朝礼で西内澄子の死が伝えられた。
 澄子は先天性の白血病を患っていて、直接の死因は肺炎だったという。
 静かに執り行われた澄子の葬儀でも、僕は涙を流すことなどなかった。










「北中君なんて大嫌い、か」
 誰もいない教室で僕は呟いた。今の2−4には僕を知っている人間も、あの頃のクラスメイトも、そして西内澄子もいない。
 右手にやけにずっしりと堪える鞄を下ろして、僕は背広のポケットに手を突っ込んだ。
 もうすぐ近所の宴会場で同窓会が始まるのだけど、僕はなかなかここから動く気になれない。燃えるように沈む夕日と、それに輝く机たちはあの頃と全く変わってなかった。
 白津先生は澄子に学校に来るべきでないと言った、先生は澄子の体のことを知っていたのだろう。澄子が患っていた先天性の白血病を……思い起こせばあの真っ白な肌も、やせ細った体も、間近に訪れる死の象徴だった。だから先生は僕に澄子に優しくするように頼んだのではないだろうか。
 でも僕には、もうその答えを知ることが出来ない……白津先生は3年前に、癌で他界したからだ。
「西内、君はどうして白津先生の優しさを受け止めなかったんだ?」
 僕は結局、澄子に優しくするどころか、むしろズタズタに傷つけてしまった。澄子は誰にも頼ったり泣き言を言ったりしなかった。悲劇のヒロインを決して演じようとせず、自分の考えを貫いて多くの人を敵に回して、限りある命を燃えるように生きていた。
 決して人を受け入れようとしなかった西内澄子。
 それでも、澄子は学園祭を目前に学校に戻ってきた。
 どうしてみんなと協力してやり遂げる、学園祭にやってきたのだろうか?
 なぜ病から救われる、最後の一葉のヒロインを演じようとしたのか?
 澄子もまた、人の暖かさと最後の希望を求めて学校に来たのではないだろうか。でもとても弱い本当の心を開こうとしない澄子に、誰も寄り付こうとはしなかった……近づくほどに傷つける、悲しい山嵐のジレンマ。
「けれど、僕は……あんなに本気で誰かとぶつかったことはなかった」
「あそこまでひたむきに、感情をぶつける人と出会ったことはなかった」
「西内、君は僕が、君の無様な姿を見に来たと言ったけど、それは違うんだ」
「僕は心底君に会いたいと思って、2−4に入ったんだ。爽やかに笑う君の笑顔が見たくて君の側へ行ったんだ」
 呟く言葉が誰もいない教室に跳ね返っていく。目を閉じれば、あの頃のまま真っ白な夏服を来た澄子が浮かび上がってくる。金木犀が香る風に髪を揺らして、初めて出会った頃の最高の笑顔を浮かべて。
 きっと同窓会では、澄子の話題なんて出てこないだろう。でも僕は誰よりも澄子と過ごした時間を一番鮮明に覚えている。
「へぇ、4月に転校して来たの……北中君っていうんだ。わたし西内澄子」
「北中君って何だか黒人みたい。もう秋だって言うのに真っ黒だわ」
「はい先生――O・ヘンリの『最後の一葉』がやりたいです」
 何も変わらない、真っ白に光る澄子が、綺麗に輝くつり目を緩ませて微笑む。
 澄み渡る笑い声を上げながら、燃えるような夕日に溶けていく。
「君ともっと違う形で出会うことが出来たら……あの頃は分からなかったけど、僕は不器用でひたむきな君が好きだった」
 澄子の影が僕の目の前で、光の粒へと昇華していく。誰も覚えていない日々の瞬間が、純粋すぎて素直な気持ちになれなかった僕達が、微熱のようにくすぶっていた想いが、その全てが燃える夕日に混ざり合って本当の気持ちを呟く。

 僕は、西内澄子が好きだった。

 目の前の景色が涙でゆがむ。初めて澄子に対して流れる大粒の涙を、僕は決して拭わない。
 もっと色々なことを話したかった、ケンカもしたかった。一緒に笑いたかった、ずっとあの笑顔を見ていたかった……真直ぐに流れ落ちる涙は、決して恥ずかしいものでも無様なものでもない。
 泣き続ける僕の耳に、腕時計の短針がカチリと鳴る音が聞こえる……時計は、五時を指し示す。
 真っ赤に燃えた教室、ぼやけた優しい赤とんぼが包み込んでいく。

 誰もいない教室で、僕は赤とんぼを聞きながら泣き続けた。