夢の世界

                 プロローグ

『まもなく、四番線に列車が入ります。危ないですから黄色い線の内側まで下がってお待ちください』
「はぁ……はぁ」
 カツカツカツと忙しく階段をかけ降りる赤いハイヒール。
 桐生渚は小さく口を開けたまま息荒く階段を降りていた。額には化粧が取れそうなほどの大粒の汗が滲み、その粒が下顎まですらっと流れ落ちていた。顎に溜まった汗は彼女の満ち足りた胸の間に落ち、暗い底へと流れ落ちていった。
 ――まったくもう、初日から遅刻なんて……!
 全ては母親と目覚ましのせいだ。まだ二一の渚に対してあの母親は「いつ結婚するんだい?」と、まるでどこかへと連れていかれる牡牛の鳴き声のような声でそれを繰り返し言ってくるのだ。何度も言ってくるので最近では呪文に聞こえてしょうがない。
 渚の実家は東北の牧場なのだ。今は渚の母親と父と知り合いの春日井さんだけで営まれている。渚には兄がいるのだが、その兄は海外の名門の学校に留学中で、未来にはバラ色の人生がまっている予定なのだ。流石にそんな兄に対して退屈な牧場とともに人生に終止符を打たせるのはあまりにも酷だ、と母親も思ったのだろう。
 ――そこで、自分である。
 渚には特別に夢もなく、才能もなく、普通のOLなんて目指しているごく普通の娘である。可愛い牛達を託すにはもってこいの生贄だったのだろう。
 だから昨日も、「明日は会社初出勤だろ? いい男を見つけてくるんだよ」とか「なるべくスポーツとかやってる子がいいね、ほらあの子達を扱うのって力とか体力がいるからねー」とか「元空手家とかいいかも。お母さん、一度でいいからナマで瓦割りみてみたいし」とかを電話越しにさんざん、正直、受話器を切りたくて仕方がなかった。
 そしてその日は当然のごとく疲れ果て、目覚ましはセットしたが、時刻調整がずれていた。……役に立たない目覚ましほど腹が立つったらありゃしない。おかげで朝食なんて食えたものではなく、現在急ぎながら微妙に眩暈を覚えていた。
 カツカツカツと赤いハイヒールが階段を蹴る……が―――
「あーもう、歩きにくい!」
 未だに慣れない靴、それぞハイヒール。見た目はかわいくて気にいっているのだが、こう急いでるときははっきりいって邪魔だった。
 渚は急いでいた足を止め、両手を使ってハイヒールを一足ずつ掴んだ。ストッキングだけの状態で階段の上に立つ。すーっと冷たい階段の感触が伝わってきてちょっと気持ちよかったが、そんな事を気にしてる暇はなかった。
 うざったい靴を脱いでスピードアップ。はやいはやい。だが勢いありすぎて、周りで同じく急いでいたスーツの人がびびった声をあげて一歩引いたり、道をあけたりした。
『まもなく四番線の列車が、発車します。駆け込み乗車は――――』
 まずい! と思ったが、階段はあと一段。このまま駆け込めばぎりぎり間に合う。その素晴らしい未来が確信にかわり、自然と顔が幸せへと逆転した。よかった、私は目覚ましに勝ったのだ、と意味の分からない喜びも沸いてきた。
 最後の一段を踏んだ。
 つるっ……
「え?」
 ふっ、といきなり足の冷たい感触がなくなったと思ったら、なぜか身動きが取れなくなり、上半身が駅の床に近づいていた。
 うそ、こけた……。まだ地についてもいないのに、渚はこけた事を感じ取っていた。なぜか、そのとき、すごく周りがスローになったのだ。別に死に際ってわけでもないのに、ある意味死に際だけど……。
 駅の硬い床が迫っていた。きっと痛いだろうなー、お尻に痣とかつくかもしれない、嫌だなー、というかこけたタイムロスで電車には間に合わないだろうな、あーあー、初日から遅刻か、やっぱり目覚ましは許せないな……。
 お尻が先に地についた。
 ……でも痛くなかった。
「あれ?」
 渚は目をぱちくりとさせる。なんで痛くなかったのだろう、にではない。
 目の前の砂だらけの光景にである。
 そこは、駅の中ではなかった。

             一章 ここに私はいない……

 確か、今日の天気は晴れだったはずだ。汗がダラダラでるくらいの日射が照っていたから間違いない。
 だけど上を見上げれば真っ黒で曇天の空模様。今にも雨が降りそうどころか、雲の流れの速さがハンパではなく、雨どころか嵐がきそうな天気だった。
 ……というかたぶん、そういう問題ではない。
 足元はさらさらと乾いた砂、やや冷たい。周囲を見渡したが全部同じ、砂だらけである。
 立派なビル群も、たくさんの人々も、寂れた牧場も、母親も、父も、春日井さんも……なにもないし、いない。
「どこ、ここ……」
 声は震えていた。行った事も見た事もない、こんなところ。分からなかった、どうして自分がこんなところにいるのかが。……嘘だ、そんなことは考えてはいない。
 怖い……すごく怖い。
「だ、だれか、だれかいませんか……」
 なんでこんなに声が震えるんだ。別にホラーとか苦手じゃないだろ渚よ。遊園地のおばけ屋敷のおばけをぎゃあー! と叫びながらぶっ壊すくらいホラーは得意だろう。恐怖なんて母親以外にしたことはないはずだ。
「だ、だれか……」
 なんでこんなに人が欲しいのだろうか……。だれか傍にいてほしい。だれかがいないと、恐怖で、凍えてしまいそうだった。
「それはあなたが、人を真剣に好きになったことがないからでしょう」
 人の声。はっきりとした澄んだ男性の声だった。渚は頭を動かしてあたりを忙しなく探した。
 目の前が白く光った。最初は小さかったその光は突然太陽みたいに発光した。渚は両手で光を遮りながら目を閉じた。しばらくすると光は納まり、渚もちかちかする目をゆっくりとあけた。
「う……」
 光にあてられたのか、やや視界がぼんやりした。だが目の前に人の姿をした誰かがいるのはわかった。
「こんにちは」
 再び男性の声。目の前からである。しかし、なにかおかしい。声は男性ではっきりと耳に届く大人の声だ。だけど目の前にいるのは……。
 そして視界がやっとはっきりした。
「え? こ、子供?」
 自分よりも明らかに低い身長。顔は声のように老け込んでいるどころか、遠くからでもわかるすべすべの素肌をさらしていた。……と思ったが、右目のコメカミのあたりに大きな傷跡があるのが見えた。
 傷の少年は、ボロボロの黒いローブみたいな服をなびかせながら渚に近づいてきた。渚はびくっと体を震わせ、思わず後ろに下がる。
 その反応に少年は首をかしげ、右手にもつ古臭い杖みたいなものをどすんと砂の上に突き刺して止まった。
「恐怖は、まだありますか?」
「え?」
 言われてあれ? と思う。さっきまで異常に震えていた声が、元に戻っていた。右手を掲げてみても、まったく震えていない。
「ここは孤独の世界。真に頼れるものがいない者は生きていくことはできません。今は一時的にボクがあなたの支えになってあげています」
「は? なにいってるの君。……! ってそうよここどこ? ああ、ちょっと待って整理するから。……ええーあー私は確かまぬけな話だけど駅の階段ですべってこけ―――」
「それは分かっています。ボクは全てみていましたから」
 せっかく頭でまとめた説明をぴしゃりと止められた。
 言うことが一つしかなくなった。
「単刀直入に、ここから出る方法は?」
「時間です」
「時間?」
「しばらくすれば元の世界への入口ができます。あなたは元の世界の空間が不安定になったことで、この世界にきたのですから」
「空間が不安定って、わ、わたしの世界ってやばいの? あ……」
 なんでこんな質問をしてるんだろう……。おまけにここから出るとか、別世界って意識が完全についちゃってるし。私ってそんなにファンタジーマニアだったかな……。
「それは今、ボクがあなたの支えを行っているからです。無意識の常識があなたに根付いてしまっているのです。説明が楽なぶん、ボクはこちらのほうが楽ですけど、嫌ですか?」
「心が読めるの!?」
「ここはボクの世界ですから。この世界での事象は全て意のままです」
 表情をまったく変えずに淡々と言った。
 変な子だ……って、最初っからおかしいとは思っていたけど。しかし、彼が言うとおり、こんな変な事を自分はしっかり理解していた。まるで、何かの物語を見て共感するような感じで自然と頭に入ってくる。
 違和感は多少あるが、別に嫌な感じはしない。渚は頷くと、少年も無表情ながら頷き返してきた。……心を読まれるのだけはあまり気分がいいものではないと思った。
「それで、えーとなんだっけ……そうそう空間の不安定っていうのは?」
「あなたの世界は決して完璧とは言えない状態で維持されています。所々に陰があり、穴がある。そこから他の平行世界と干渉することが度々あります。そういった干渉の穴にあなたは偶然たまたま入り込み、この世界にきているのです」
「……私、運が悪かったってこと?」
「この世界にきてしまったことは、運の問題ですね」
 とほほ、やっぱり今日の私は運が悪かったのか、空間の穴なんかに落ちるからには相当悪いのだな。ああーやっぱり目覚ましのせいだ、目覚ましが悪い、目覚ましめ。
「……一応いっておきますが、目覚ましは関係ありません」
「そんなことより! 私はどうしていればいいのよ! 時間がたてば戻れるってさっき言ってたけど具体的に何時間何分何秒なのよ。一時間? 二時間? 30分? 5秒? 関係ないけど私今日は会社初出勤日なんですけど」
「無理やり空間に穴をあけるのはボクにもあなたにも危険を伴います。自然にできるのを待つことが賢明です。正確な時間は、今はボクにもわかりませんが、時間が近づけば感知できるようになります」
「なんかけっこう長そうね……それで私はなにしていればいいの?」
「ここには何もありません。退屈がお嫌いではあれば、ボクから提案がありますが」
「え? なになに?」
「物語に参加してみませんか?」
「ああ、本読んでくれるの? あーでも子供みたいな君に本なんて読まされるのはちょっと恥ずかしいかなー、って……どういう意味?」
「一時的な仮想世界へとあなたを案内します。そこであなたが何をするかは好きにしてください。参加しますか?」
 なんだかよくわからないが、演劇の舞台に立て、みたいなことをいっているのだろうか。そういうのなら多少興味があるがうさん―――
「そうですか。ならば体験してください。時間になればちゃんと声をかけますから」
 少年は右手の杖を高く掲げ、くるりと一回転させた。すると杖の先端が小さく光りだし、その光はどんどん大きくなっていた。
「って誰もまだOKとか言ってない! なに送ろうとするようなことをしてんのよ! 私は興味があるとしか思ってない! ていうかその心読むのやめろ!」
「ここに迷い込んでくる者にはだいたい行っている処置です。大丈夫です、痛い目に遭うことは……多分ないですから」
 光はすでに少年の姿を埋め尽くすほど広がっていた。目を見開いたまま一歩、逃げるように後退したが、無駄だったようだ。
「多分ってなに!? わっ……」
 光のせいだろうか、言葉はもうでなくなり、急に地面から足が離れる。移動してるのかさえも分からないまま、渚は真っ白になってしまった世界に……心中で暴言を放った。
「あのガキ――――! 戻ったら絶対あんなことやこんなことして私のことを「お姉さま」と言いたくなるほど苛めて忠実なしもべにしてやる――――――――!」
 白かった世界が急に眩しくなり、渚は意識を失った。

 少年はなにもない場所をしばし見つめたあと、くるっと踵を返しながら言った。
「がんばってください。お姉さま」
 その時はじめて、少年はくすりと笑みを浮かべた。

                  *

 つくづく思う。自分の運の悪さはきっと絶対やっぱり……目覚ましのせいだと。
 全体的に灰色の景色。というか、周囲を囲む建物が灰色だったのだ。なんとなくパリかイタリア? みたいな場所を想像させるが、行った事がないのであくまで憶測である。
「はぁ……」
 まずはため息がでた。不思議なことばかり起きて、いい加減つかれたのだ。変な少年に出会い、変な場所にとばされ、いつのまにかスーツから私服姿になってる。私服姿といっても、こんな使用人が着ていそうな豪華なエプロンみたいな服、自分は持っていない。……ちょっとふりふりしてて可愛いからまあいいかな。
 悩んでてもしょうがない。彼女はあたりをキョロキョロと見渡し、やや警戒の意をこめながら慎重に歩を進めた。
 しばらく歩くと、ちらほらと人の姿が見えてきた。みんな顔立ちからして日本人とは異なるのだが、なぜかみんな日本語で会話していた。喋り方もなんだか片言だし気味が悪い。自然と足が急ぎ足になった。
 適当なところで脇道へと入る。とにかく、大通りにでればなにかが分かるかもしれない。ここは建物が密集してて人の数も少ないから、きっと裏道なのだろうと彼女はふんでいたのだ。
 だが……。
「うっ」
 途端に雰囲気が変わる。たくさんのビル群が並び人々がごったかえしてて暑苦しい感じ、ではなく、薄暗くじめじめしてて人の姿もさらに減り、小数の人々の雰囲気がいかにも不健康そうな奴らばかりという、これぞスラムですね、あははといったところに……。
「も、戻ろう」
 くるっとユーターンし、カチコチした動きで早々に移動する。背中に嫌な視線がささるのがわかって冷や汗が流れた。
「美和!」
 この場にふさわしくない、さわやかな男性の声が聞こえてきた。日本人の女の人の名前を呼んでるので気にはなったが、振り向くのが末恐ろしいので彼女は無視して歩を進めたが、
「あ、待ってくれ美和!」
 なぜか男がこっちに駆けてくる音が聞こえたので、彼女はえ? と思い振り向いた。思ったとおりさわやかな雰囲気を持ったわりと美形の男がそこにいた。
 男は彼女の前で立ち止まった。けっこうな距離を走ってきたのか、はたまた運動が苦手なのか、男ははあはあと前かがみになって呼吸を整えていた。
 彼女はどうしたらいいのか分からず、まだ息を荒くしている男を見た。お風呂はちゃんと入っているらしく、茶色っぽい髪はさらさらしてて汗に濡れていてもべたついた感じはしない。しかしヘアスタイルには興味がないらしく、長くなった髪を適当にまとめているだけのお粗末なところに笑ってしまった。服装もなんだか古着みたいな感じで、お金をかけているようには見えない。
「やっと、止まってくれたね。美和」
 息が回復したらしく、男はすっと背筋を正しながらそう言ってきた。
「え? それってどういう……」
「会いたかった。ずっと会いたかったよ……」
「え?」
 男が近づいてきた。
 気がつけば男の胸の中にいた。
 はっと慌てて上を見上げれば、とても優しそうな男の顔があった。不純な感じは、なぜかまったくしなかった。
 身体が熱くなるのをはっきりと感じ取り、さらに手足も動かなかった。
 ――なにがおこったのか……。
 それは分かる。だけど理由がわからない。
「……いや」
 抵抗の意志としてはあまりに弱い声だった。
 普通、他人にこんなことされれば嫌悪感に強烈な悲鳴がでるはずなのだ。だけど……。
 自分はおかしい。
 嫌じゃ、なかったのだ。
 ……だけど、
 男の腕がぱっと離れた。途端に温もりが失われ、彼女は思わずあっと声をあげた。さきほどの抵抗の声よりもあきらかに大きな声で。
「ご、ごめん! あまりに嬉しかったからつい……」
 男は可哀想なくらいに申し分けなさそうにしていた。あんな大胆な事をやっていきなりこれなのだ、相当嬉しかったのだろう。
 彼女は少し男と距離をとり、じーっと相手を睨み付けた。別にさきほどの行為に怒ってのものではない。ただ、どこかであったかを確かめるためだっただが、男にそれがわかるわけもなく、一層恐縮してしまった。
「あ、あ、えーと……」
「……どこかで、会いましたか?」
「え?」
 男が疑問の声をあげてはっとする。そういえばここは、自分が元々いた現代ではないのだ。なにを過去に出会った同級生の顔なんかと照合してるのだろうか。ここは違う世界のはずだ。あの少年はそう言っていたし、自分もそう理解しているのだ。
「み、美和、僕のこと覚えてないのかい?」
「覚えてないっというか……美和って誰です?」
 男の表情が途端に青くなった。いきなりちょっと待って、といって後ろを振り返り、なにやら一人でぶつぶつ言っている。
 どうやら自分はその美和という女性にとても似ているようだ。ひと目見ただけでそう錯覚してしまうということは、相当なもののようだ。そしてその美和という女性はこの男の恋人か、妻なのかもしれない。
 ……ん? だけど彼は会いたかったと言っていた。とても長い間会ってなかったということは、美和という女性は行方不明かなにかになっていたということだろうか。そんな女性が帰ってきたときたら、それはとても嬉しいことだろう。
 だけど、残念だけど自分は美和という名前じゃない。自分にはちゃんとした名前が……。
「……え?」
 自分の名前……あれ、なんでだろう、ははは……とうとう私もボケが回ってきたのかなはははは……嘘……やだ、やだよ、なんで……。
 なんで自分の名前が思い出せないの!
「あれ、なんで……おっかしいな」
 笑みを見せながら考えるが思い出せない。いつのまにか、冷たい地面の上に跪いている自分にはっとする。それが自分の現状を物語ってるみたいでもの凄く嫌だった。
「嘘……嘘よ……ほらあれよ、私、わたしは……」
「? 美和?」
 彼女の異変に気づいた男は、慌てて駆け寄った。彼女は頭を抱えてぶつぶつと、わたし、わたしはと呟いている。普通じゃない彼女の様子に男はまた彼女を抱きしめてきた。
「急にどうしたんだ美和! しっかりするんだ!」
「わたし、わたしは……ねえ、ねえ、わたし、だれ?」
「美和……」
「わ、わたしの名前……名前なんだったかな、うぁ……わかんないよ、ねえ教えて、教えてよ、ねえ……おし……うううぁ―――」
 そこで彼女の言葉は止まり、男の胸をぐっと掴み泣き叫んだ。子供のような終わりのない泣き方に対し男は何もいえず、ただ彼女の好きなようにさせていた。
 だけど、途中から人がよって来る気配を感じ、慌てて未だ泣いている彼女を抱え上げながらこの場をあとにした。
 しばらくすると彼女は、自分の腹の音とともに泣きやみ、男の腕の中でじたばたと暴れたあと、男が言った食事を奢るという言葉に素直に従った。

                  *

 さっきまでいた場所とは打って変わってさわやかな青い空とやや暑い太陽。
 たくさんの人々でごったかえす大きな道はとても綺麗に舗装されており、見てて気持ちよくなってくる。
 こんなに人が多く、建物も都会って感じで多く、車もたくさん走ってるのになんでこんなに綺麗なんだろうと、やや目元を赤くした彼女は思った。
「適当におすすめのやつを持ってきたよ」
 男はテーブルに笑みを見せながら両手に持った料理を置き、向かい側の席に座った。
 ここは男がよくつかうらしいカフェテリアだ。店の中と外で食事が楽しめて、料理もうまく安いというなんとも素晴らしい店だそうだ。ちなみに彼が持ってきたのはミートスパゲッティとハンバーガー、彼のお腹はそんなに減っていないようだ。
「あの……すいません。見ず知らずのはずなのに、こんな」
「なにを言ってるんだ美和。見ず知らずどころか、ボクと君は家族じゃないか」
「いや、だから私は美和って人じゃなくてですね……」
「わかってるさ」
 男は手元の水を一口飲み、やや苦笑いで言った。
「なにがあったのかわからないけど、君が記憶を失っているのはよくわかったよ」
「は?」
「しかもかなり重症みたいだね、この辺の地理も忘れてるみたいだし、君があのあたりをうろつくなんて普通ありえないからね。あそこはタチの悪い奴らがたくさんいてとても危ないってことは周知の事実だから」
「そ、そうなんですか……って違う! そうじゃない!」
 いきなり口調が変わったことで男はえ? と声をあげて彼女を見上げた。彼女は無意識に上がった腰を下ろし、こほんと一つ咳をした。
「どうやったらそういう想像に働くんですか。私は別に頭を打って大怪我とかしていませんよ? 記憶喪失なんておこす根拠なんてないはずです」
「別に無理して敬語で話さなくていいよ」
 ――余計なお世話よ。
「ふむ、だけど君は僕の知っている美和にそっくりだ。これはどう説明するんだい?」
「世の中、瓜二つの人間なんか何人かいますよ」
「なるほど、それを言われたら僕はなにもいえないね」
「やっとわかってくれましたか……あ、これ戴きます」
 目の前にあったスパゲッティの皿を近くに持ってきて、慣れた手つきでパスタをフォークに括り付けていく。まとまったそれを口にもっていき、咀嚼し、飲み込んだ。
「! うわ、おいしい……」
 歯ごたえのあるパスタが食欲をそそり、よく味のついたミートが飽きを生じさせない絶妙なバランスでパスタに馴染んでいる。
「ここのミートスパゲッティは絶品なんだ。腹が減っていればいくらでも入るよ」
「確かに、それくらいおいしいかも……おいしいですね」
「ところで、君はこれからどうするんだい?」
「え?」
 手を止めてしばし考える。そりゃあもちろん自分の家に……って、ここには自分の家はないのだった。
 そういえば全然行くあてがなかった。ここは得体の知れない場所だし、自分は名前も忘れてしまった不完全な存在だ。一人でまともに生きて行けるとは到底思えない。
 彼女が顔を青くしていると、男が口を開いた。
「行くあてがなければ、僕の家に来るのはどうだい?」
「え? あ、いやだからあの、だから私は」
「分かっている。君が自分は美和じゃないと主張するのは仕方ないことだ。勝手にするといい。
 ただし、行くあてがなくこのままだと路頭に迷うというのなら、話は別だ。無理やりにでも君を保護する」
「…………」
「美和としてくることはない。そうだな、身寄りもお金もないみたいだから、しばらく居座る居候、という形で来ればいい。家のことは心配しないでくれ。僕はしがない画家をやっているんだけど、それなりに儲かっているからね、生活に支障はないと思うよ。部屋もちゃんと君の分がある。元々二人で暮らしていた家だからね」
「……あの」
「なんだい?」
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「……君には悪い気分にさせるかもしれないけど、僕は君のことが美和だ、ということを諦めてはいない」
「あ……」
「しばらく暮らしていれば君が記憶を取り戻し、僕を思い出してくれることを信じている」
 ……美和という人は、なんて幸せな人だろうか。
 彼の思いが、言葉では語れないほど優しいものなのだと彼女は思った。男の人にここまで思われたら、女性ならどんな嬉しいことだろうか。
 正直、羨ましかった。
「……もし、違っていたら? 私が、その、美和さんじゃなかったら」
 自分で言ってなんだか悲しくなった。彼にとっては一番おこって欲しくないことなのに……。
 予想通り彼は表情を曇らせて、考え込むように黙ってしまった。嫌な沈黙があたりを包む。彼女は手元の水の入ったコップを手に取り、窮屈になった喉に無理やり流し込んだ。
「……そうだね。もし君が美和ではなく、別の女性で別の生き方を持っていたら、僕も素直に諦めると思うよ、きっと。
 でも、そうはなってほしくないな……」
 はははは、と笑う。全然笑いにはなっていない苦しい笑みだった。
 ……見ていられなかった。
「……わかりました」
 彼女はすくっと腰をあげ、男を見下ろした。
「あなたの提案、喜んでうけます」
 彼女は屈託のない笑みでそう答えた。
「ほ、本当かい!」
 男も立ち上がり、嬉々に満ちた顔で彼女に聞き返してきた。その際にやたら顔が接近し、彼女はうっと呻いて頬を赤らめながら一歩さがり、こくこくと頷いた。
「やった! やったよ! ありがとう、ほんとにありがとう!」
「ええ、ちょ、ちょっと別にそんなに喜ばなくても……」
 周囲の人の視線が一点にこちらに集まるのがわかった。皆一様に笑みを浮かべ、おめでとーという祝福の言葉まで飛んで来た。勘違いで彼の告白が成功したと思っているようだ。
「じゃあ早速僕の家に案内するよ!」
「あーもう、ちょっとまって! 私まだスパゲッティ食べてないって!」
「あ、そうだった。僕もハンバーガーに手をつけてない」
「早く食べてここを出よ!」
「別に残してもいいと思うけど……」
「なにいってるの! 食べ物粗末にしてどうするのよ! 残したら私許さないからね!」
「わ、わかった」
 未だ周囲の視線を感じながら、彼女は一心にスパゲッティを平らげた。彼女に急かされ、男も懸命に食べた。
 先に食べ終えた彼女が口元を拭きながら言った。
「ところで、あなたの名前は?」
 いつのまにか普通の口調で話せていた。さっきまで敬語だったのに、今は敬語で話す気がまったくおきなかった。
「……ん、ああそうだったね。僕は高坂昭二っていうんだ」
「それじゃあ私は……。
 今日から私は、高坂美和と名乗ることにするわ」
 昭二は目を見開いた。そして今にもまた抱きつきそうな雰囲気だったので、彼女は……今日から美和と名乗る女性は早々に席を立ち、逃げた。
 どうせ彼は自分の事を美和としか呼べない。ならば美和になってしまえばいろいろとやりやすいだろうと思っての考えだった。
 それに……。
 美和と呼ぶとき、彼は必ず私を見る。それがたまらなく気持ちがよかったのだ。

                二章 二人の生活

 カフェテリアから数分歩いた場所に、昭二の家はあった。この距離なら確かに行きつけのおすすめの店になるのも納得できる。
 彼の家は大きくも小さくもない、ごく一般の洋風の家といった感じだった。特徴といえば石作りの外壁と平らな屋根、等間隔で並んだ壁の窓が一箇所だけ不自然にないことぐらいだ。
「どうしたの? 早くあがってあがって」
 視線を前に戻すと、入口の鉄製のドアの前で昭二が手招きしていた。
 慌てて昭二の前に駆け寄り、昭二を見た。彼はにっこり笑い、
「どうぞ」
 彼の了承を再びうけて、やや安心感を得ながら美和はゆっくりと中に入った。
「おじゃまします……」
 中は静かで、窓から入る光にとても満ちていた。うわーと思わず声を出しながら靴を脱いで中に入り込む。
 その時つんと鼻につく匂いがした。だいぶ昔に嗅いだ事のある匂いである。これは……。
「絵の具の匂い……」
「階段の先はすぐアトリエになってるんだ。ドアがないからここまで匂いがくるんだよ」
 確かに目の前には階段があり、匂いもそこからきているようだ。
 なんとも興味がそそられた。あとで見せてもらおうと楽しみを一つ追加しながら階段の先をしばらく見つめた。
「部屋を案内するより、まず僕の絵を見るかい?」
「いいの?」
「もちろん。それに、そんなに見たそうにしてたらこっちも見せたくなっちゃうよ」
 昭二は先導するように先に階段を昇った。美和もその後ろに続く。ぎしぎしいって危なっかしい階段がちょっと恐かったが、それよりもわくわくする気持ちでいっぱいだった。
 階段を昇りきると一番奥にドアのない部屋があるだけの一方通行の道があるだけだった。
「元々はもう一つ部屋があったんだけど、アトリエを広くするために改造したんだ」
 なるほど、と頷く。確かに途中不自然に色違いの塞がった壁があった。たぶんここに部屋があったのだろう。
 アトリエの中が少し見えてきた。絵の具の匂いも強くなりなんだかドキドキしてきた。
 入口の前までくると昭二は急に立ち止まり、脇に移動してこちらに振り返った。右手を入口にむけて、どうぞお通りくださいといった感じにポーズを取った。美和はくすっと笑い、素直に足を進めた。
「わあー」
 部屋の中を見て、思わず声がでた。
 二階をまるごと使ってるだけあってかなり広く、中学校の教室くらいはあった。入口の近くにはたくさんのキャンバスに描かれた絵が、一つ一つ壁に預けて置いてあった。少しではあるが、イーゼルに乗せたままの絵もあった。
 部屋の奥にいけば描きかけらしき絵を乗せたイーゼルがあり、足元には画材道具が置いてあった。奥の窓からは眩しいばかりに赤くなった光が差し込み、とても綺麗だった。
 床が少し汚れているのが気になったが、それを無視すればとても素敵な場所だと美和は思った。
 昭二が視界に入り、美和はそちらに振り向く。こちらの顔を見て昭二は嬉しそうに笑った。
「ここを見て。元々はこっちにも窓があったんだけど、絵を置く場所を考えて撤去したんだ。家の見た目が変になるからだめだ、だけどあそこの窓は邪魔だ、って討論で美和と喧嘩したのを覚えているよ。最後は僕が土下座して頼んで終わったんだけどね」
 そう言って楽しそうに笑った。
「……そうなんだ」
 彼が『美和さん』のことを話すとなんだか悲しかった。違う、きっと違うんだと分かっていても、やっぱり考えてしまうからだ。
 ――所詮自分は、彼女の代わりなんだと。
 実際、少なからずそうなのだ。どこから来たのかさえわからない自分に対し、彼は自分を見て話すが、どこかその奥、違う誰かをみている気がしてならないのだ。
 ……って、なんでこんなこと考えてるんだろうか。別に関係ないではないかそんなこと。自分はここに記憶が戻るまでの間居候で来ていて、便利だから美和と名乗っているだけのただの『他人』なのだ。
 ふうとため息をつく。いつのまにかひどく俯いている自分にさらにため息。
 その時、
 床に置かれた一枚のキャンバスが目に入った。
 思わずそれに駆け寄り、勝手に手に取る。
「これは……」
 キャンバスの中には、自分がいた。
「ああそれは、昔美和を写生したやつだよ」
「これが、美和さん……」
 椅子の上に座り、夕焼け色の背景のなか優しく微笑む姿。よく見ると髪形は自分と違って後ろで結っておらず、長髪をしなやかに下ろしていた。
 キャンバスから目を離し、美和はキョロキョロとあたりを見渡し探った。
 あっ、と声をあげて発見したものは目当てのもの。
 壁にかかった鏡だ。
「うわー……」
 見比べて見ると、まるで冗談みたいにそっくりだった。目鼻立ち、輪郭のライン、胸の大きさまで(ちょっとあっちが大きい気が……)と完璧なドッペルゲンガーだった。
 ははは……、と思わず苦笑いがでた。
「そうだ! 久々にモデルになってくれないか美和」
「え? わ、私?」
「君がいなくなってから数ヶ月たつけど、やっぱり君の絵を描くのが一番楽しかったんだ。お願いだ、描かせてくれないか」
「あいや、でも……私なんかじゃ」
「君じゃないとだめなんだ! お願いだ美和!」
「…………」
 謙遜の念は消えなかったが、断る理由もなかった。
 美和は素直にうん、と頷いた。

                  *

 シュ、シュ、シュ……。
 流れるような動きで下絵を描きこんでいく音。じっと聞いていたら眠くなりそうだった。
「あの絵と同じで軽いデッサン程度だから、そんなに時間はかからないよ」
「うん」
 椅子に座り、すでに沈み始めている夕日に照らされながら美和は答えた。両膝におかれた手は硬く握られている。
「あまり緊張しないで。身体を楽にして、自然に」
「わ、わかった」
 絵に集中しているときの昭二の言葉は優しいけど、なんだか鋭さがあった。おかげで余計に緊張してしまう。
 モデルの経験なんてほとんどなかった。あえて言えば中学校の美術くらいだが、あれは描く側の男子が絵よりもこっちの身体ばかり見てるのに気づいて、自分が切れて終わったのが最後だった気がする。モデルの経験として未達成で意味がない。
 だめだ、このままだとボロがでそう……。
「ね、ねぇ!」
「なに?」
「黙ってると退屈だから、少し話しできないかな?」
「いいよ」
「えーと、じゃあ……」
 考えてみて聞きたいことが山ほどあることに気づいて思い悩む。うーん、と深く考えてあっと一番気になっていたことを思い出したので、美和は何の躊躇いもなく口にしていた。
「美和さんはどうしていなくなったんですか……って」
 言って気づく。そして顔を真っ青にした。
「…………」
 絵を描き続ける昭二から答えは返ってこない。
 もの凄く気まずい空気があたりに満ちた気がした。
「……わからないんだ」
「え!」
「なぜかいなくなった。いや、消えてしまったと言っていい」
 昭二は下絵が終わったのか、鉛筆を置いて絵筆に持ち替えた。筆に絵の具をつけてなめらかな筆捌きで塗っていく。
「美和はあの日、夕飯の材料を買いに買い物いったんだ。いつものことで料理を楽しみni
しながら僕は仕事の絵を描いていた。
 だけど陽が落ちても美和は帰ってこなかった。心配になり、彼女がよく買い物にいく店にいったが、彼女は来ていないと答えられた。他の店も回ったが結果は同じ。僕は恐怖に駆られながら家に戻ったが、美和の姿はなかった……」
 話しに聞き入っていて気づかなかったが、彼の筆は止まっていた。
「そのあと警察に通報したけど、何日たっても見つからなかった。最初は行方不明という話しで同情されていたけど、あまりにも見つからないおかげで途中から『嫁に逃げられた』と言われるようになったよ」
「……もういいよ」
「それから僕はしばらく絵を描かなくなった……実をいえば、今描いてるこの絵はほとんど数ヶ月ぶりなんだよ」
「ごめんなさい……」
「君が謝る必要なんかないさ。それに―――」
 昭二は再び筆を動かし、笑みをまぜながら言った。
「美和は帰ってきた。僕は今、たまらなく嬉しいんだよ」
「! でも私は!」
「君は美和だよ」
 昭二は筆を止めてこちらを見ると、にこりと笑った。
「僕が描いている女性は、美和だ」
「…………」
 筆を動かす音が聞こえてくる。優しく撫でるように塗る音。彼はキャンバスの自分に優しくしてくれている。
 涙が出そうだった。
「……私、最低だ。昭二さんが私を『美和さん』の代わりと思ってるんじゃないかって、ずっと考えてたんだ」
「そう考えるのも無理ないよ」
「だから『美和さん』を少しだけ……いや、すごく妬んでた。昭二さんが見ているのは私じゃなくて、『本物』のほうなんだ、って……。
 だけどそれは、私の誤った先入観が生んだもの。わ、私、不安だったんだ……」
 今ここで、もしくはその先で……。
 彼に嫌われることが、捨てられることが。
 模造品に未来があるわけない。たまたま道で出会った当人に似てるだけの女に、未来があるはずない。そんな嘘臭い現実に、幸せがあるはずがない。
 だけど……。
「あなたは、私の絵を描いてくれている……」
 それはただの先入観。
「私はあなたの美和だった……?」
 確証がないことに対する、絶対的な鎖だったのだ。
「もちろん」
 少ない言葉に、彼の真剣な意が篭っているのがよくわかった。
 不安がすーっと解けていくのを身体で感じた。
「私は……あなたが好きです」
 出会った時からわかっていたような気がする。どんな障害があろうとも自分は彼にこう告げるはずだ、と。
 当然のように頬が上気してくる。心臓が高鳴った。それでも彼から視線はそらさない。じっと彼の言葉を待った。
 しばらくすると昭二は筆を置き、腰をあげて美和を見た。
「ここに誓うよ。僕は君を、今度こそ君を守ってみせる。二度と離さないと」
 美和は立ち上がり、昭二のもとに歩みよった。
 そして今度は自分から問答無用で抱きついていた。
「……嘘でもいい。私は今を感じていたい」
 背中に昭二の手がまわるのがわかった。温かさが全体を包み、とても気持ちがよかった。
「嘘なんかじゃない、これは現実だよ」
「不思議だね。私の時間ではまだ一日も立ってないのに……」
「不思議じゃないさ。僕と君の時間はずっと前にすでにあったんだから」
「……そう、そうなんだね」
 美和は昭二を見上げた。昭二も美和のことを見ていた。
 二人は目を閉じて距離をつめた。
 窓から差し込む夕日の光のおかげで、二人の唇は一部では影をつくり、一部では美しく橙に染まっていた。
 数十秒の時間がたち、二人はやっと重なりを解いた。
「…………」
 信じられないくらい身体が熱かった。おそらく顔は熱を出したみたいに赤いのだろう。夕日が出ていて助かった。こんな興奮した状態の顔なんて彼に見られたくなかった。
 昭二を見るが、別段おかしくなった感じはしない。いつもどおりの安心させる笑みをうかべ、今にもこう言いそうだった―――。
「さ、絵を完成させようか」
 ……やっぱり言った。なんとなく、彼の考えが読めるようになった気がする。今さら思うが、抱きしめてキスなんかよく出来たなーと思えてならない。
 ……ふとさきほどのことを想像してしまった。また身体が熱くなってきた。やめよう、美和は首をぶんぶん振って雑念を振り払った。
「どうしたの?」
「あ! い、いや、うん大丈夫、平気」
「もうすぐ陽が落ちそうだ。あと少しだから、がんばろ」
「うん」
 美和は素直に陽がよくあたる椅子の上に座った。彼もイーゼルの前に座り、筆を取った。
 ほんの十数分で、絵は完成した。

 ……細い線で描かれた椅子に座る女性。夕日に照らされた表情は明るく、そして優しく幸せそうだった。

              終章 夢の世界、そして未来へ

 昭二と美和が一緒に生活しだして、三ヶ月がすぎた。
 いろいろな事があった。まず一番に驚いたことは、ここがイタリアとかフランスみたいな国ではなく、日本だということだ。世界地図をみせてもらったら、イタリアのある場所が日本になっていた。
 そして次に驚いたことは、昭二の画家としての価値だ。彼は風景画がメインなのだが、彼の絵には安くて数十万、高くて数百万の価値があるのだ。前に言った『それなりに儲かってる』どころの話しではない。
「風景画もいいけど、やっぱり美和を描いてるのが一番かな」
 絵のことを質問するとこんな嬉しい答えが返ってくるが、彼の風景画は素人の自分が見たかぎりでもとても魅力的な作品だと思った。他人が見ればすごく感動するんだと思う。それを考えれば自分の絵よりも、みんなに喜ばれる絵をたくさん描いて欲しいと美和は思った。
 最後に、彼と初体験をすませた。ほんの一ヶ月前という、一日で一緒に暮らすようになったわりにはずいぶんと遅いと美和自信も思っていた。実際は一緒に暮らし始めて数日後あたりから自分だけがムラムラしていたのだが、彼はどうにもそういうのに鈍感というか、積極的じゃないというか、こっちが意識やそういう態度を見せて見たりしても、まったく反応がなかったのだ。しかし最後は自分が我慢できなくなり、隙をみて無理やりベッドに押し倒し、彼に自分の全てをあずけた。さすがにここまでやれば彼もスイッチが入り、あとは流れから言って大成功と言える結果に終わった。
「だけど、どうしてもっと早くしてくれなかったの?」
「ああ、ちょっとね。今はもうない話しだけど、むかし隣の廃墟の家に人が住んでたんだよ。で、初めて美和とするときに、その日は暑くて窓をあけてたんだ。だから、さ……おかげで窓から声とかが駄々漏れしてお隣の耳にまるまる入ってたみたいなんだよ。
 で、そのお隣が若い男なんだけどこれが最低な奴で、その日から男は美和に……犯罪ぎりぎりのストーカー行為を働き出したんだ。
 それから美和は恥ずかしい声を出すのを極端に嫌ってね、ストーカーが聞いてるとかですごく嫌がったんだ。ストーカーがやることも、家の前に立って中を覗こうとしたり、お隣から聞き耳を立てたり、いたずら電話とかの地味でささいなことばかりだから、警察も注意程度しかしてくれなくて解決方法がなかったんだ。
 で、そのままずるずるとその生活が続いて……まあ簡単に言えば、無意識に禁止してたと言っていいかな」
「そ、そんなマニアックなエピソードが……でもキスはちゃんとしてくれるじゃん!」
「キスはしてたから」
「うそー!」
『美和さん』の方には理由があるからわかるけど、よくこの人は理性を保ったものである。男の中に元来ある狼の血(本能)を持っていないのだろうか。
「ああ、言い忘れたけどこれは家の中での話しだから。美和がやりたいときはどこかホテルを借りてちゃんとしてましたよ」
 それを早く言え! まったく……ん?
「だったら私もホテルに誘ってくれればいいじゃないか―――――――――――――!」
「ええ? だってそんなこと一言も……」
「初体験でそんなこと言うわけなんでしょうが!」
「……ああそっか」
 その時はじめて彼の顔面に拳を叩き込んだ。大きな欠点とか隙がない人と思っていたが、こんな所に落とし穴があった。
 しかし、この日から彼と一緒のベッドで寝る事も多くなったし、彼の欠点も知り、美和としては満足だった。
 ……こんな日が、彼と過ごす日々がずっと続けばどんなに嬉しいことだろう。最近はそんなことをなぜか考えるようになっていた。
 それがとてつもなく不安だった。

                  *

 事件は起こった。
 なんの前触れもなく、偶然とは思えないタイミングで……。
「じゃ、昭二ー、買い物行ってくるから」
「ああ、行ってらっしゃい」
 リビングでテレビを見ている彼の返事を聞き、美和は手提げバッグを肩にかけて入口へと向かった。
 靴を履き、いってきまーすと声をあげて玄関のドアを押そうとした―――。
 だがドアは勝手に入口の方に押された。
 いや押されたのではない、外側から誰かが引いて開けたのだ。
 そこにはありえない存在が立っていた。
 自分である。
「な!」
「あれ?」
 美和は驚きの声をあげると、もう一方の美和はきょとんとした顔で見返してきた。
「どうしたんだ美和。大きな声をあげ……」
 リビングから出てきた昭二はドアの前で対峙する二人を見て目を見開いた。
「美和……」
「昭二さん、これはいったい……」
「昭二……」
 同じ声、同じ顔、同じ雰囲気……全てが同じ存在の二人にみつめられ、昭二は表情を青くさせていた。
 突然現れた『美和』は昭二のただならぬ様子を見て、おっとりした表情を急に厳しくし、美和をやや睨む目でみてくる。
「すいません、私には双子はいなかったはずなんですが、どちらさまですか?」
「あ、その、私は……」
 どうすればいいのか分からなかった。彼女は自分とまったくいっしょで、しゃべり方が微妙に違うが、素はたぶん同じなんだと思った。ほんとに、自分の鏡を見ているみたいに感じるからだ。
 だけど、
 彼女と自分が絶対的に違うところがあった。
 彼女は自分の事をはっきりと『美和』と認識していることだ。
 その時点で自分は負けていた。『美和』としての存在意義が。
 耐えられなかった。
 美和はもう一人の美和をやや突き飛ばすような形で押しのけ、無我夢中で走った。昭二が叫んだが、聞かなかった。
 とにかく離れたかった。ずっといたいとさっきまで思っていた場所から、ちょっとでも遠くへと離れたかった。
 涙を流しながら、他人にぶつかりそうになりながら、転びそうになりながらも、美和は必死で走った。

                  *

 いつのまにか全然知らない場所に来ていた。滑り台やブランコなどがあるからきっと公園なのだろうと、なんとなくあまり働いてない頭を動かして美和は思った。
 自分がいる場所なんてどうでもよかった。それよりも、これからどうしようという生活問題が重要だった。
 もうあの家には戻れない。『本物の美和』が戻ってきてしまったのだ、所詮は代わりだった自分に居場所なんてあるわけない。何も言わず出てきてしまったけど、これだけは自分なりによく出来たと思う。情けない話だが、これが一番だったのだ。
 美和は二人もいらない。
 夢物語はもう終わってしまったのだ。
 美和はとぼとぼと目的もなく公園の中を歩く。公園にいた子供が不審にものを見る目で砂場からこちらを見ていたが、どうでもよかった。全てを失った自分を見たいのならば見ればいい。
 だけど、そういえば。
 ……私は、結局誰なんだろうか。
 三ヶ月たっても記憶なんて芽生えることはなかった。正直今までの生活が幸せで、別に思い出さなくてもいいと思っていたのも原因だと思うが、だからって大きなケガもせずに起きた些細な記憶喪失ぐらい、時間がたてばすぐ治るだろう思う。専門じゃないからはっきりとした答えはわからないが……。
 ふと正面に視線をやると、なんの変哲もない青いベンチがあった。少し疲れたなと思い、美和は少しペンキが剥げたベンチに座った。
「ふう……」
 ため息をつき、なんとなく地面を見ながら次に頭に浮かんだのは、本物の美和のことだ。
 どうして、今頃になって帰ってきたんだろう……。美和は考えた。そしておかしな点があることに気づいた。
 彼女と初めてドアの前であった時、なぜか不思議そうな顔をしていた。そして、これが一番問題なのだが、あきらかに何ヶ月も行方を晦ましていたとは思えない、あまりにも普通な態度。まるで行方不明の間、彼女の時間は止まったままだったといわんばかりのおかしな態度だった。
「実際その通りなんですけどね」
「ああ、やっぱりか……え?」
 驚いて顔を上げる。見ると知らない、ぼろぼろの黒いローブという妙な格好をした少年が立っていた。……なんだかどこがで見た事があるような……。
「お久しぶりです。……桐生、渚さん」
 ――その瞬間。
 視界が爆ぜたみたいに真っ白になり、頭を強く殴られたみたいな衝撃が襲った。そして、さまざまなものが自分に流れ込んできた。自分のこと、家族のこと、生活のこと、家で飼ってるハムスターのこと、世界のこと、日本のこと、東京のこと、駅でこけたこと、謎の世界にきたこと、ここが仮想の世界だということ、この少年が何者なのかということ……。
 さまざまな情報が一瞬で、『桐生渚』の中に流れ込んだ。
「……あ……あ」
 少年は渚の唖然とした顔を見てくすりと笑う。
「思い出しましたか?」
「あ、あなた! このクソガキ!」
「おやおや、久々の再会なのにいきなりな台詞ですね。まあ少し落ち着いてください」
「うるさい! どうしてあなたがここにいるの? ってじゃない! どうして私の名前を奪ったの! なぜ記憶を奪ったのか答えろ!」
「物語を成り立たせるためには必要なことでした。『桐生渚』としての人格を持ったままだと、まずハッピーエンドはありませんからね」
「……物語? 私の今までの生活が全て物語だっていうの?」
「そうです。あなたはこの世界の一部のヒロインとしてこの場に立ち、一部の主人公である高坂昭二と結ばれた。見事なヒロイン役でした、ボクは感動しましたよ」
「……あなた、さっきハッピーエンドっていったよね」
「いいましたね」
「どこがよ」
 きっ、と少年を睨みつける。
「今日までの三ヶ月は確かに幸せだったし、そこで終わればハッピーエンドだったと思う。だけど今日、『本物の美和』が帰ってきた。おかげで偽者をやっていた私は出て行くしかなかった。……どう考えてもこの物語は悲劇じゃない」
「そんなことはありません」
 少年はローブを翻しながら内側から杖を持った右手を突き出し、高く掲げながら言った。
「この物語には『今日』は含まれていませんから」
「ど、どういうこと?」
「忘れましたか? あなたは、この世界の人間じゃないんですよ」
 掲げた杖の先端あたりになにかの映像が浮かびあがった。映像は見覚えのある砂だらけの世界、この少年の世界だった。その中心に、大きな黒い穴の渦が不気味に存在していた。
「あなたの世界に帰るための穴は開きました。いつもより時間がかかりましたが、物語をハッピーエンドにしたあなたは別に退屈はしていなかったでしょう」
「帰れる……私の世界に帰れるの?」
「ええ、そのために後処理としてこの世界の因果を元に戻しました。本物の美和さんが戻ってきたのはそのせいです。まあ、いろいろ心配しなくて大丈夫ですよ。しばらくすればこの世界であなたが過ごした全てのことが『なかったことに』なります」
「なかったこと、か……」
 渚は空を見上げた。飛び出してきたとき時刻は昼前だから、今はちょうど真昼なのだろう。太陽は気持ちよさげに光と熱を放っていた。
「あんた、なんのためにこんな物語なんてことを」
「あなたのようにボクの世界に迷いこんでくる人々に、楽しく時間を潰してもらうためですよ。三ヶ月もあんな世界で時が過ぎるのを待つなんて、あなた方には耐えられない話でしょう」
「確かにね。……でも、時間になれば終了って、そんなゲームみたいな扱いで人の関係を遊ぶなんて、あんたは楽しいの?」
「楽しいですね」
「そう……あんた最低だよ」
「面白い答えです。やはり価値観の違う人間と会話するのは楽しいですよ。その人間の物語をみるのはもっと楽しい」
 子供とは思えない歪んだ笑みだった。渚はもう話す気がなくなり、帰るのだったらさっさと帰らせろと思いながら少年を睨みつけた。すると少年ははいはい、と子供っぽい答え方をわざとらしくして杖を大きく掲げた。
 その時、
「美和!」
 もう聞く事もないと思っていた声が聞こえた。


 昭二はぜえぜえと息を荒くしながら彼女、今は『桐生渚』の女性を見つめてきた。
「おや、まだ記憶を保っていましたか。さすがは主人公です」
 なめたガキは無視して、渚は昭二のもとへと駆け寄った。
 昭二は全身汗まみれで、衣服がはっきりと濡れていた。両膝に両手をあてて、渚が近くにいても苦しさでその体勢を崩せないようだ。
「昭二、どうして……」
「はあ、はあ、はあ……君が、飛び出して、いったからね。追いかけないと、まずい、だろ」
「あなたが元々知っていた本物の美和さんは帰ってきたんだよ。それなのにどうして」
「……美和は二人もいない」
「そうよ。だから―――」
「あれは美和じゃない、美和は君だよ」
 昭二はいつもとは違う、ひきつった笑顔でそう答えた。
 渚は絶句した。
「なにを、いってるの……」
「それはこっちの台詞だよ。君はどうしてあれが本物だと思うんだ。どこからどうみても、偽者だったじゃないか。まったく、美和になって僕の大切な美和を惑わすなんて、なんて奴だとつくづく思うよ……」
「どうやら、因果の調律が彼の精神に変異を与えているようですね。あなたが戻ればすぐ治ると思いますが、いやいや痛々しいですね」
 少年の言葉に腹をたてる余裕はなかった。自分のせいで、いつもの自分を保てない昭二のことが、可哀想でしかたがなかった。
「……ごめん、ごめんね、昭二」
 渚は昭二の頭を抱きしめた。壊れたおもちゃのように、本物の美和を愚弄していた昭二がぴたりと言葉を止めた。
「私の本当の名前は、桐生渚っていうの、さっき思い出したんだ。そしてこの世界とは別の世界からやってきた、あなたとはまったくの他人なのよ」
「う、嘘だ!」
「嘘じゃない。そこにいる子供が私をもうすぐ元の世界に連れて帰るわ。しばらくすればあなたも私の事は忘れて、本物の美和さんを、美和さんと普通に認識できるようになって、世界も元々あった世界へと戻るわ」
 少年から流れる知識を棒読みしながら、渚は腕の力を強くした。
「な、なにをいって……あれ」
 昭二は急に引きつった表情を消して、ぽかんとした顔になった。
「彼にも因果の調律がきたようです。ではそろそろ帰りましょう」
「うん、わかった」
 少年は杖を大きく振りかぶり、高く掲げた。するとどこからともなく大きな音がバチバチと鳴り響いた。しばらくすると少年の隣に映像で見たやつと同じ、人の平均的高さほどの黒い穴が現れた。
「これに入ればあなたの世界へと帰れます。場所は入ってきた入口と同じ駅の中です。時間はほぼ同じ時間に設定しました。
 ちなみにここを抜ければこの世界のこと、ボクの世界やボクの事は全て忘れます」
「わかった……昭二」
 黒い穴の前で渚はくるりと踵を返し、昭二を見た。表情はいつも彼にだけ見せていた愛しさに満ちたものだった。
「もう、私の事がわからなくなってるかもしれないけど、
 私はあなたの事が本当に好きだった、愛していた。これだけは偽者でもなんでもないよ。
 だから、ね……
 私、忘れないから! 絶対あなたのこと忘れないから! ぐっ……忘れて、たまるもんか!」
 途中から涙が出てきて渚は目を背けた。そのまま踵返し、穴の中へゆっくり入って行くと、
「待ってくれ!」
 もう完全に名前も忘れているはずだ。話すことなんてもうないはずだ、少年ばかりか渚もそう思っていた。
 渚が穴の中へと消え行く瞬間、彼は一言こう言った。
「……ありがとう」
 渚の耳にはそれだけの言葉が届いた。
 そして穴は渚を呑み込んだあと、一瞬にして公園の木々を揺らすほどの轟音を残して消えてしまった。
 そして全てが元に戻った。

                 エピローグ

 気がつくと駅の電車のドアが閉まり、自分を置いて発車していた。
「ああああああ、待って――――――――――――――――!」
 声は無常にも届かず、電車は今日も安全に線路を走っていった。
 痛いお尻を右手でさすり、左を突き出したまましばらく固まる。周囲の人々が変なものを見る目で彼女をちらちらと見ていた。
「……ああ」
 体勢を平常にし、渚は深くため息をついた。
 なんでこけちゃったんだろ、いやそれよりもなんで今さっきぼーっとしていたのだろう。いくらこけたとしてもさっきのは無理やりドアに突っ込めば間に合ったはずだ、絶対に。
 さてこれからどうしよう。初日から遅刻か……またお母さんにぐじぐじ言われるんだろうな。……ああーいやだいやだ、考えたくない。
「あれ? 渚?」
 聞き覚えのある男の声だった。
「お前なに地べたに座ってんの? おまけに靴履いてないし、家出か?」
「ああ、なんだ……昭二か」
「なんだじゃねーよ。ほら恥ずかしいから立てよ」
 素直に彼が差し出した腕を掴み、よっと声をあげ立ち上がった。
「えへへへ、こりゃどうも」
「お前はあきんどか。ほら靴履けよ。で、どうしたんだ?」
「入社初日に電車逃して遅刻確定で地面にへばりついて絶望していたところ」
「なんじゃそりゃ、お前ほんと見た目にそぐわないアホなことしてるよな。見てて飽きれるよ」
「ほう、というと私の見た目は知性的ということ?」
「バカ。バカなお前の顔のどこが知性的なんだ。俺が言いたいのはその身体だっての。なんとも人を喜ばす大人の力をもってそうじゃないか。触っていいか?」
「ははははーなるほどー。……死にたい?」
「いやいや生きたいです」
「ところでさ、昭二。私さっき夢を見てたんだよね、いつみたのか忘れちゃったんだけど、たぶんついさっき」
「おお奇遇だな、俺も電車の中で爆睡してたら夢みたんだよ」
「その夢がさー、これまた変な夢で」
「俺の夢もすげー変だったよ。やべ思い出したら笑えてきた」
「私が記憶喪失になったヒロインで」
「俺が記憶喪失になった元妻のヒロインを助ける画家の主人公でさ」
「私はその主人公を好きになっていって」
「俺はヒロインの女性を心から愛して」
『二人は永遠に結ばれ、幸せに暮らす物語の夢』
                                    完