And he was rich――yes, richer than a king――
And admirably schooled in every grace:
In fine, we thought that he was everything
To make us wish that we were in his place.

So on we worked, and wait for the light,
And went without the meat, and cursed the bread;
And Richard Cory, one calm summer night,
Went home and put a bullet through his head.

それに彼は金持ちだった――そう、王様なんかよりずっと――
物腰から何から、みごとに磨きがかかっていて、
つまりはああなりたい、あのひとになりたいと
ぼくらにそう思わせる、あらゆるものを備えているように思われた

そうしてぼくらは働き、いつか光が差すのを待つ。
肉なしで食事を済ませ、まずいパンに毒づいた。
そうしてリチャード・コーリーは、ある静かな夏の夜に、
うちに帰って、頭に弾をぶち込んだ。

 ――エドウィン・アーリントン・ロビンソン『リチャード・コーリー』

T           第6街区 アシュベリー・ブルヴァ―ド 17:42 04/21

 コーテックスのオフィスから出たときには、もう日が沈みかけていた。
 黄昏はあたたかで、淡いオレンジ色ですべてのものを染め上げている。地上300メートルの総ガラス張りのビルはなにかの硬質な結晶のようだが、このときばかりは、一瞬だけその形態を固体から液体へと変化させるように見える。
 地上の街はなにか巨大な飴細工のようだ。腕のいい職人が、丹精こめて作り上げた精緻なお菓子。ぱっと見はすばらしく綺麗で見るものを圧倒させるが、結局はそれはただの食べ物以上のものではない。息をのむほど美しいのに、人間の持つ本質的な美的感覚を揺り動かさないのはそのせいだ。人を驚かせるためだけで、それ以外にはなんの目的意識もない装飾。夕日に照らされて飴色になった高層建築群は、その思いをいっそう強く刺激する。
 技術≪アート≫ではあるが、芸術≪アート≫ではない。エクレールはそんな皮肉を思いついてほくそえんだ。
 アシュベリー・ブルヴァードを、人波の間隙を縫うように歩いていく。その動きは、一部の猫科の動物の持つ独特な丸みを帯びた、隙のない合理的な動きだ。生まれた時からスーツを着こなしているような、色彩のない企業サラリーマンの認識されない顔たちの中で、赤いタイトなレザーパンツと、ブラウンの重たげなレザージャケットを着こなした長身の白人女は、「タタミ」の上のタバコの焼け焦げのようだ。それに加えて、後頭部を短く刈り上げ、前にいくにつれて傾斜している奇抜なショート・ボブは、彼女の回りを歩く人間を呆然とさせている。彼らにとってみれば、彼女は異星からこの星を侵略しにやってきたエイリアンか、あるいはどこかの対立企業が彼らの風紀を乱すのを目的にした新手のファッション・テロに思える。
 もっとも、彼女はファッション・テロリストではないにしても、真性のテロリストであることだけは間違ってはいなかった――彼女はレイヴンだ。レイヴンのことを企業にたかるダニ、腐肉をあさるうすぎたないカラスと呼ぶ人間もいるが、彼女にしてみれば、自分たちは企業経済の掃除屋、企業同士の調停人だ。レイヴンというのは弁護士みたいなものだ、と彼女は思う――少々荒っぽいやり方をするのは認めるけれども。第一、レイヴンたちがいなかったら企業たちはどうやって悶着をまとめるのだろう? まさか、あのいけ好かない幹部連中がシャツを脱いで殴り合うわけでもないだろうし。レイヴンをテロリストと定義するのは厳密には間違っている、とさえ彼女は思う。レイヴンたちには実現すべき理想も、そのための闘争もないからだ。依頼するのは企業。目標は何かしらの経済的利益――そして、手段はレイヴンで。そこに一体、誰のための、何の為の理想があるというのだろう?
 結局のところ、彼女は彼女のまわりにひしめき合っている間抜け面をしたスーツ星人の利益を代表しているわけだ。そう思うと、彼女は奇妙な感覚におそわれる。腹立たしいような、情けないような、複雑な感情だ。いまやこの世界はいくつかの怪物じみた巨大複合企業なしではやっていけない。かつての人類の子宮だった地下世界は、いまは地図上に記されるいくつかの人類進出圏の一つでしかない。たしかにはじまりは「そこ」で、揺籃の主だった母親がいた場所だった。しかし人類にはもう、庇護者たる母親はいないのだ。かつてはその母親たる「管理者」を失って、悲嘆に暮れた人間もいたという。だが、それが何だというのだろう――ゆりかごからはなれ、母親のもとを去っていくのはどんな生き物だっておんなじだ。子供をなんの理由もなく虐待する親なんてのも、べつに珍しい存在じゃない。むしろ、そんな親のもとから去っていくのは当然の事ですらある。
 それなのに、このスーツ連中と来たら。
 人類の歩みをになうべき企業が、こんなさえない風体をした人間たちの集合だと思うと思わずため息がでる。彼等は本当に、そんな自覚があるのだろうか?
 彼女は一瞬立ち止まり、わざとらしく大きなため息をついた。彼女の後ろに並ぶように歩いていた人ごみが彼女の動きに合わせて一斉にストップする。彼女は真後ろのスーツ男の、彼女に対する不快さと当惑にみちた複雑な表情を睨み付けた後、もう一度飴色細工のビル群を眺めた。

U               第17街区 ヘイト・ストリート 19:03 04/21

 この17街区は仁清シティのなかでも特殊というか、奇妙な場所だ。この街は基本的に綿密な都市建設プロジェクトに従って建設された筈なのだが、なぜか総合レクリエーション施設の集合地区になるはずの予定だった場所に、こんないかがわしい街区が出来あがってしまった。いつのまにやら低所得者層のスラム街ができあがり、しかも隣の第6街区の企業サラリーマン相手の歓楽街と融合して、全体としてはとても奇妙な、有機的な結合体になってしまった。中層の建築物と大小様々な地下施設が、ときには独立し、時には連結しあって、まるで一つの総合建築物のように機能している。そして何より奇妙なのは、ここから街区を隔てるリニアの高架の向こうは、整然としたオフィス街であることだ。西の夜空には、定期的に赤い誘導灯を不気味に瞬かせる高層ビルの群れが見える。空から見れば、多分この場所は影のように見える事だろう――巨大な高層ビルがコンクリートの大地に落とした、薄く、だが深みを持ったゆらめく影に。そしてその巨大な影は、当初予定されていたものとは別の形で、都市の一部として機能し、その役割を見事に果たしている。

 『レイヴンズ・レスト』は、そのスラムの手前、ホテル街と歓楽街の境のけばけばしいネオンに照らされた雑居ビルの地下にある。ネーミングとしては最悪の部類に入るわね、とエクレールはいつも思う。店の外観とか、コンセプト・バーに見合っていないとかそういうレベルではなく、純粋に「ダサい」のだ。中途半端な韻の踏みよう、加えてその『レイヴン』という名詞の持つどうしようもない意味が、いつも彼女を呆れさせる。俗語で「レイヴン」という言葉には様々な意味がある。「傭兵」「うす汚いやつ」「アウトサイダー」「悪人」――どれもこれも安直で気に入らないが、とりわけ彼女が気に入らないのは「自由主義者」という意味だ。こういう呼ばれ方をすると、どうにも鳥肌が立ってくると同時に、言いようのない怒りを覚える。何が気に入らないかといえば、それがまさしく自分自身そのもののことのように思えるからだ。勘違いした自由主義者、という頭の悪い側面を見事に言い当てている。その正しさが、何にもまして気に入らない。

 街路にできた水たまりに、青白いネオンサインに照らされた彼女の顔が映る。彼女は足を止めて、自分の顔を観察した。いつの間にやら眉根にしわを寄せてしまっている。良くない兆候だ。ここのところツいてないせいか、何に対してもネガティブになりつつある。それは昔からの彼女の性格だったが、いつか改善しなければならないと思いつづけてきたものでもある。禅の思考によれば、悪気は悪気を呼びこみ、それを循環させて際限のない無限の地獄を醸成させる。生産性のないネガティブさは、何物も生み出す事はない。
 彼女は目を瞑り、深呼吸して肺の空気を搾り出す――いけない、これだって充分ネガティブな思考だ。
 眉間に手をやり、軽くこすって皮膚を伸ばす。あらゆる形態には意味があり、それが存続しているということは、それはそれなりに固有の意味を保持しているという事だ。自分の預かり知らないだけ。自然――すなわち環境をそのままに受け入れる事が、禅の思想の根底だ。
 彼女は懐からB-O錠剤を一錠取り出して飲みこんだ。常習性をもたらすラセミ性の物質を軽くしてある、彼女特性のレシピだ。アップ系の流行は今は下火になってきているが、この感覚の方が彼女は好きだ。ついでに、煙草の赤いパッケージを取り出してセロファンを焼き、一本取り出した。かつて人類が地上で暮らしていた頃から存在していたことを売り文句にしている、数少ないオールドファッション・シガーだ。「人はいつも愛を思いかえす――ロマンスしかない故に」。真偽のほどは確かではないけれど、この煙草の名前の由来は嫌いじゃない。いささか陳腐すぎるとは思うけれど。
 乾いた金属音を立てて、オイルライターで煙草に火をつける。この小気味よい音と最初の煙の美味しさ、そして煙草の陳腐な名前――この為にだけ、彼女は煙草を吸う。その細部の奇妙な合一が好ましく思える。結局のところ、そうした細部の積み重ねこそが、生きることを補強しているのだろうと彼女は思う。
 薬が効いてきたのか、彼女は気分が切り替わっていくのを感じながら、バーへと続く馴染んだ階段を降りていく。「Man always remember love because of romance only」と彼女は声にならない声で呟いて、微笑した――その微笑が多分に自嘲的な笑みだったことは、この際気にしないでおこう、と彼女は思った。
 
V                    第21都市外郭地区 23:15 04/19

 ノクトビジョンの緑色の世界で、エクレールは下唇を軽く舐めた。戦場特有の絶え間ない緊張感が、彼女の感覚をいっそう鋭いものにする。ヘッドセット・ディスプレイは擬似的に世界と彼女の感覚を切り離し、意識を独立した別の場所へと追いやる。視界はACのカメラアイからの世界を受け取っていながら、身体感覚はいまだ窮屈なコクピットの感触を送りつづける。この感覚にはいつまでたっても慣れることはない――だが不快ではない。擬似的な解放感覚とでも呼ぶべきだろうか、彼女はACのコアに格納されていながら、同時にACという兵器そのものでもある錯覚を覚える。ジェネレーターの高周域のかすかなタービンの振動音と、ディスプレイのスピーカーから漏れてくる外部センサーが拾う音は、何の矛盾もなく彼女の意識の中で一体になっている。それは彼女が慣れ親しんだ戦いの音楽――彼女の原始の野蛮な感情を呼び覚ます。
 緑色の瞑想のなかで、彼女は次の目標を探し始めた。視界の隅では、すでに残骸と化したMTが白い炎をあげている。末端の駆動部分が誤作動を起こして、死んでいく蜘蛛のように無意味な動作を繰り返している。彼女はその部分を無慈悲に踏み潰した。火花とともに、MTの動作は完全に沈黙した。
 ――目標は、あと三機。戦闘の心地よい昂揚感が彼女を支配する。
 彼女は素早くコンソール周辺のデータを読み取った。頭に叩き込んだ第21都市外郭地区周辺の地形を、現在表示させている周辺の地形と照合する――障害物の位置、遮蔽の場所、破壊するべきターゲットの予測位置を確認し、彼女は表情にならないような薄い笑みを浮かべる。状況の全てを自分が支配しているような感覚、戦闘兵器を操るものならば必ず感じる、ある種の全能感が体の中でざわめいている。
 紫をベースにした濃い都市迷彩を施された彼女の機体は、中央街区から届く微かな光を効率良く遮断しながら、闇の中を影から影へと滑っていく。
 視界が目標の護衛MTを捉える。MTは、何らかの異常に気づいてはいるが、それが何かが分かっていない。MTはただカメラアイを左右に動かすばかりで、まともな警戒行動は取れていなかった――つまりは、絶好のカモだ。
 エクレールはエクステンションのステルスデバイスを展開させた。骨組みでできた怪物があぎとを開くような不吉な動作で、ステルスデバイスは紫色のECM粒子を散布し、ACの存在の痕跡を電子的に抹消して、彼女のAC≪ラファール≫を不在の怪物にする。
 背部のオーバード・ブーストを起動し、腕部のレーザーブレード収束装置に負荷をかけていく。カタナ状の高圧エネルギー帯が実体化し、鮮やかな紫色の刀身が鈍く輝く。背後では高圧のオーバード・ブースト・タービンが凄まじい回転を始め、甲高い音を立てて周辺の酸素を一気に取りこんでいく。それはまるで、肉食獣が獲物を狩るために飛び出す一瞬の予備動作、その獣の一瞬の呼吸に似ている。
 エクレールはもう一度、形にならない微笑を浮かべた――恍惚。この戦闘の感情を、彼女はそう呼ぶことにしている。
 ――目標は、あと三機。

W               第17街区 レイヴンズ・レスト 21:02 04/21

「つまり、そのときまでは上手くいっていた?」とヴィシャスは言った。
「そう。そのあたりまではね。悪くなかったし、ノってたわ」
「わかるよ。自分が神様かなんかになった気がするんだ。機械仕掛の神様てわけだ」
「それ、皮肉で言ってるでしょ?」
「ただのジョークだ。そう思うんなら、それはお前がそう思ってるってだけのことだ」
「わたしは少なくとも、機械じゃあないわよ。あんたはどうか知らないけど」
「俺だって一応は機械じゃないぜ。一応はな」ヴィシャスは唇の端を吊り上げる皮肉な笑いを浮かべた。「そうじゃないやつも何人か知ってるがね」
 ヴィシャスは『レイヴンズ・レスト』で、エクレールの数少ない顔なじみの一人だった。短い髪を逆立て、わざと薄汚れた金髪に染めていて(わざと「染めた」事がわかるようにしているのが重要なんだ、と彼は言った)、ボロボロのTシャツに穴の開いたビート・アップ式ジーンズ、その上に擦り切れた皮製のブルゾンをだらしなく羽織っていて、しかも、そこかしこにクリップやら鋲やらがあしらわれている。
 端的に言って、彼は今や消費し尽くされていて誰も見向きもしないようなスタイルを選択しているのだ。知識としてそんなスタイルがかつて流行った事を彼女は知っていたが、それは気の遠くなるくらい大昔の事のはずだった――まだ人類が地下に潜ってはいなかった時代の、誰にももはや見向きもされない、体制への怒りを象徴したライフスタイルをあらわしたものだ。まるでコーラの赤と白のストライプの広告みたいに、流行に後れているとか、奇抜だとかそういうものではなく、ただ単純にあまりにも世間に流布しすぎて化石のようになってしまったものだった。
 ――すなわち、パンク・スタイル。彼が言うには、その名前もかつてのパンク・ミュージシャンの名前と同じだとも言っていた――しかし、その名前も、その歌も彼女は見た事も聞いた事もなかった。
「いつも思うけど、あんたのその格好、なんとかならないの?」
「突然だな。なんとかって?」
「バカみたいに見えるわ。ぜんぜんクールじゃない」
「そうでもないぜ。少なくともバカじゃないさ、俺はな」
「全然根拠がないわね。まあ、わたしのことじゃないから別にいいけど」
「レイヴンらしい格好をしろって?」
「そういうんじゃないけど。だいたい、レイヴンらしい格好ってのも勝手にホロが流してるイメージだし。でも、あんたのは確かにそれからは程遠いわね」彼女はグラスに注がれたブランデーを飲み干す。「もっとも、あんたがレイヴンだってのも怪しい話だけど。ヴィシャスなんて名前、聞いた事もないわ」
「そうかい。自分では、結構有名なつもりだけどな。うん、たしかにあんたの名前は結構聞くな」彼はポケットから煙草を一本取り出して火をつけた。深呼吸して、肺の深くまで煙を吸いこんだ。「評判いいぜ、なかなか」
「ベテランみたいな口を利くのね。なんか気に入らないわ」
「実際ベテランなんだよ、俺は。まだ歯を通して息をしてるだろ?」彼は空になったショットグラスを軽く振って、カランと氷の音を鳴らした。彼の目が一瞬――気づかないほどのほんの一瞬だけ、鋭く細められた。「今のところ、依頼を失敗したなんて話は聞いた事はないが、さっきの話は違うみたいだな」
「そうでもないわ。依頼は一応、成功したのよ――一応ね。その過程が問題だった」
「で?」
「あんたに話してもしょうがないんだけど……」彼女はポケットから錠剤を取り出して、もう一度飲み下した。テーブルをコツコツと二回軽く叩いて、ブランデーをもう一杯注文する。
「まあ話せよ。黙って酒飲んでても、ここの陰気な音楽を聴くことぐらいしかすることがないぜ」
「話して、慰めて、お酒をおごって、最後はベットまで?」
「酒はおごらねえよ。ベットまでは考えてもいいけどな」
「まあいいわ。どうせする事もないし――」そう言って、彼女は目を閉じてバーの騒音に耳を傾ける。そう広くはない店内で、押さえられた笑いと話し声が耳に心地よかった。店に流れているゆっくりしたサックスとピアの音楽が、この時間になにか神秘的で秘術めいた色取りを付与していた。
「確かに、あんたの言うとおりかもね」と彼女は言った。
「何が?」
「この店の音楽。悪くはないけど、ちょっと陰気すぎる」
「『ラウンド・ミッドナイト』」と彼は言った。「マイルス・ディヴィスの演奏。昔の音楽だ――2、3世紀ぐらい前の」
「知ってるの?」
「ああ」
 彼女はじっと目の前の男の顔を見つめた。黒々とした、鋭い目。その目はなんの感情も浮かんでないように見えるが――しかし、どこか優しげなようにも見えた。彼の格好や名前や仕草はどれも彼女の気に要らないように思えたが、この目だけは悪くはないかもしれない、と彼女は思った。もしかしたらこの男は、わたしの知らないなにかを見てきたのかもしれない。
「多分、散々今まで言われたと思うけど――」と彼女は言った。「あんたって、変な男ね」
「そうでもないさ」と彼は言った。「他の奴が変なだけだ。俺が思うには」
「本気で言ってるの?」
「ああ。割とな」彼は言って、煙草を揉み消した。二本目に火をつける。「なんなら、無<ナダ>に誓ったっていい」
「ナダ?」
「何もないってことさ。それを知ってるだけ、俺はまともだ」
「話が見えないんだけど」
「まあ聞けよ。俺たちはみんなナダなんだ。お前も、俺も、その辺にいる奴らも。けど、それでも俺たちはナダに対抗しなきゃいけないんだ――対抗、とはちょっと違うか」彼は目を閉じて考え込んだ。「つまり、上手く受け流す事がな」
「で、どうすればいいの?」
「アダムス叔父さんが言うには、清潔で、とても明るいところで酒を飲むんだそうだ」
「ここがそうだっていうわけ?」
「そうだな。悪くないところだと思うぜ。で、そういうところで話をするんだよ。酒を飲みながら」
 エクレールは店の中を見わたした。確かに明るい。地下にしつらえてあるようなバーにしては、不自然なほど照明が充実していた。もしかすると、これは意図的なものだったのかもしれない――オーナーのセンスが悪い、などというものではなくて。それに、カウンターの上も良く磨いてあるようだった。真上からの照明を受けて、明るい茶色が目に心地いい。
「そうかもね」と彼女は言った。「それで、そのアダムス叔父さんてのは?」
「どっかの酒飲みさ。最後は、ライフルの弾を頭にぶち込んで死んだ。プット・ア・ブレット、スルー・ヒズ・ヘッド」
「それは、あんたの言うナダってやつに負けたわけ?」
「負けた、か。そうかもな。多分、ナダに追いつかれちまったんだろう」と彼は言った。「さあ、話しちまえよ。ライフルをこめかみに押し当てる前に」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」彼女は盛大にため息をついた。「そんな大層な話じゃないわよ。この話」

X                   第21都市外郭地区 23:16 04/19

 月明かりを遮って、MTにAC≪ラファール≫のかすかな影が落ちる。目標のMTまで一直線に落下しながら、ACは右腕の「SAMURAI」レーザー刀身を振りかぶった。そのまま落下速度を充分に乗せた、強力な威力の斬撃をふるう。紫色のレーザー刀身の残像は、意志を持たない冷たい輝きを有しながらもなお美しい。その輝きはまるで本物の日本刀の持つ無機質な美しさのように、冷たい恐怖を伴ってなお、目を離すことができない輝きのようだった。
 時間が無限に引き伸ばされたような感覚の中で、本来ならば目にする事のないその紫の弧の輝きを、エクレールは確かに目にする。
 一瞬にしてMTの右腕と右足を両断する。着地の衝撃もそこそこに姿勢制御操作。フットペダルを押しこみ、ブースターを急速展開させる。莫大な推力を得て、ACの巨体はMTの左側面を素早くすり抜けるように加速した。すれ違いざま、今度は左腕の刀身を横薙ぎにふるってMTの胴体部分を深く抉り取る。装甲を剥ぎ取り、コクピット部分を焼き焦がしながら、刀身はジェネレータにまで達して、それを引き裂いた。そして、ACはそのままMTから離脱する。MTは一瞬送れて内部から爆散した。
 ACは――ACと一体化したエクレールは――それを一顧だにすらしない。ディスプレイ上のレーダーから、最後の敵勢力を示す赤いマーカーが消えた。
「目標の護衛MT、全6機の沈黙を確認しました」スピーカーの向こうから、オペレーターのマリアが言った。
「増援は?」
「特に確認されていません」
「かかった時間は?」
「4分13秒。六機の戦術型MTを相手にしてこの時間は、優秀の一言です」とマリアは言ったが、その声は水晶みたいに、何の感嘆の色も見えない透き通った声だ。そして、それはいつものことでもある。
「4分13秒?」
「はい。何か問題でも?」
「冗談みたいな数字ね」4と13。偶然にしてはできすぎね、と彼女は思った。世界はたまに、この種の驚嘆すべき悪意ある冗談をもたらす事を彼女は知っている。しかも往々にして、その冗談は笑えないものなのだ。「くそったれ。なんかむかつくわ」
「この種の迷信を信じるのですか、あなたは?」マリアがスピーカーの向こうでくすりと笑う気配がする。これはちょっとした事件だった。
「あなたも笑う事があるんだね、マリー」
「それは何かのジョークですか?」
「……何でもないわ。忘れて」
「次の目標は、目標物が積載されている車両です――映像を送ります。確認を」
「オーケイ」
 ディスプレイ上に表示された目標車両は、何の変哲もない中型車だった。この型は、市街でもたまに目にすることがある。前世紀に生産されたといわれるモデルを、クレスト系の車会社CMIが復刻した最新モデルだ。確か、クライスラー・インペリアルとか何とかいう、MTが一機買えそうなほどのお値段の超高級車。乗っているのは当然、企業のお偉いさんに違いない。
「レーダー上に表示して」
「了解しました」コンソールを操作する乾いた音。「送信完了」
「オーケイ。表示されたわ」位置を素早く確認する。現在の地点から、さほど離れてはいない。「で、これに乗っているお偉いさんってのは誰なの?」
「情報によれば、クレスト系企業の重役のようです」
「? この車、移動してないわね」もう一度、レーダーでスキャンする。間違いなく、目標車両は静止していた。さっきの場所から動いていない。「観念したのかな。作戦目標は、その重役さんの所持しているマイクロチップってことだったけど、変更はない?」
「現時点までに、依頼目標の変更、ならびに追加依頼の情報は入っていません」
「そう。じゃあ目標にむかって移動するわ」
 エクレールは注意深くレーダー上のマーカーを確認して、フットペダルを押しこんだ。相手が止まっているというなら、アンブッシュの可能性もないわけではない。企業の重役というのは、彼女の経験からすれば、一種の権力の怪物、欲望という観念を体現した存在だった。身奇麗で高級そうなスーツの下には、何を着こんでいるか知れたものじゃない。彼女はそんな彼らに対して、一種の嫌悪と驚嘆の念を隠せない。あれほどまでに形のない権力という幻想に取りつかれているその姿は、確かに馬鹿馬鹿しく滑稽にさえ見えるのだが、それでもその生への情動を隠そうとしない様は、善悪や好悪を越えた何かを感じさせる。
 そんな人種が今、逃げようとすらしないのだ。必ず何かあるに違いない。エクレールは悪寒めいたものを感じた。4と13。自然と目つきが鋭いものに変わっていく。
 警戒しろ。エクレールは喉の奥でつぶやいた。警戒しすぎてしすぎることはない。エクレールはブースターを展開させずに、注意深く建造物の陰に機体を潜ませながら目標に接近する。
「乗ってる重役のプロファイル、ある?」
「2秒待ってください」素早くコンソールを叩く乾いた音が響く。「テリー・レノックス。性別男、年齢32歳。クレスト系列企業ミン・インダストリアル社の取締役の一人です。父親はジェイムズ・レノックス。ローダス・シティの合同評議会の評議会議員で、クレスト本社の利権を調整する役職についています。テリー・レノックスはジェイムズの次男。結婚歴はなし、逮捕歴、投獄歴ともになし。簡単に言えば、こんなところでしょうか――完璧な経歴ですね。しみ一つありません」
「確かに完璧ね。なるほど、対立企業から狙われそうな人間ではあるみたいだけど」エクレールは低く呟いた。「写真、ある?」
「送信します」
 送られてきた画像の人物は、柔和な笑みを浮かべた青年だった。白人で、外見年齢は20代半ばのように見える。濃いブラウンの髪を一部の隙なく撫で付けていて、顔は彫りが深い。すっきり線の通った鼻は、青年の意志の強さを感じさせが、どこか無機質で画一的な印象が残っていた――おそらくは、整形してあるのだろう。この手の個性のない顔は、テレビをつければどこにでもいる。彼は顔をやや斜めに向けて、となりにいる誰かと談笑している風だった。おそらく、どこかの企業主催の合同パーティか何かの映像だろう。公式に公開されている写真は古いものが多い上に、CGで上書きされていることもままある。むしろ、こうしたどこかのメディアが報道した顔の方が、真実に近い事が多いのだ。
「この画像は?」
「昨年10月の、ミン・インダストリアル社とキョウセイ化学社との技術提携決定記念パーティの席上での写真です」
「半年前の写真ね。この顔をした奴が乗ってるってことか……」
 目標を遠隔スコープで視認する。目標の車は動いてはいなかった。エクレールはそこで一旦ACを停止させる。もう一度、周辺を外部センサーでスキャンする。音声反応、熱反応ともに、目立つ痕跡はない。「そっちで、何か反応はある?」
 コンソールを叩く音。「いえ、上空を旋回している偵察機からの情報からも、何もありません」とマリアは言った。「半径1km以内で、熱反応があるのはあなたのACと、目標車両だけ」
「ECM反応は?」
「ありません」
 まさか、本当に観念したのだろうか?
 「確認するけど、目標はマイクロチップの奪取で、そのテリー・レノックスの身柄に関してはなんの指示もないの?」
「はい。おそらくは、目標物はその人物が所持しているとのことですから、あまり手荒い真似はできないでしょう」
「最悪の場合、ACを降りて活動する事も考えないといけないわけね」
 車ごと破壊することはできない。かといって、もし例のレノックスが受け渡しを拒否したら、力ずくでもチップを奪わなければならない。そうなると、ACでは任務を遂行することはできない――チップごとレノックスを殺害するなら容易い事ではあるけれども、そうもいかない。
 それになにより、殺さずに済む人間を殺したくはない。今更人を殺す事に大して後ろめたい感情を持つ事はないが、それでも殺人が好きだというわけでもない。無差別破壊だとか、大規模テロとか、そういう依頼はまっぴら御免だったし、そもそも彼女のACはそんな目的を遂行するための装備を施してはいない。我ながら甘いなと彼女は思う。
 そう思うのだが、それこそが彼女の矜持だった。
「そうなります。充分注意してください」とマリアは言った。相変わらず、その声には何の感情も読み取れなかった。
 鉄の女ね、とエクレールは思った。その無感動ぶりが自分にも備わっていればいいのにと思う事が何度かある。エクレールは軽く舌打ちをした――諦めと、決意の舌打ち。「じゃあ、状況を開始する。できるだけサポートをお願い」
「了解。幸運を」

 息を殺して、5秒待つ。その間にすばやく状況をシミュレートする。車両の位置、周辺の建造物、遮蔽、光量、その他一切合財を検討しながら、最も合理的で柔軟性のある行動を模索する。
 ステルスデバイスを展開させる。再び、ACの周囲を紫色の粒子が覆う。次いで、オーバード・ブーストを展開。
 ――タイミングが全てだ。エクレールは操縦スティックをきつく握り締めた。
 ACを跳躍させ、OBデバイスの出力を解放する。OBブースターによって莫大な推力を獲得したACは、凄まじい勢いで空中を疾走する。目標到達まではたった数秒。OBデバイスをカットし、通常ブースターで加圧された推力を調整しながら、鋭い弧を描いて目標に接近する。
 あと2秒、1秒……。
 轟音を立てて、ACは着地する。ショック・アブソーバが悲鳴をあげる。エクレールはミリ単位でスティックを動かし、崩れる姿勢を超人的なバランス感覚で制御して、ACの姿勢を回復させた。ACは目標の車からほんの5メートルほど手前に着地していた。
 上出来だ。エクレールは内心で会心の笑みを浮かべた。すべてが計算通り。
 左肩部ハード・ポイントに装備したロケットの砲口を車に向ける。と同時に、右腕のレーザーブレードを展開させて、フロントガラスのすぐ手前に、その切っ先を突き付けた。
 外部スピーカーのスイッチをオンにして、エクレールは叫んだ。
 『チェックメイトだ』
 外部スピーカーには音声偏向装置がセットされている。スピーカーから出る声は、低く野太い男の声。こういうとき、彼女自身の女声だと迫力に欠けるからだ。
『命までは取らない。5秒以内に車から出ろ』
 反応はすぐにあった。運転席から、一人の男がドアを開けて姿をあらわす。その顔は確かに、にこやかに笑っていた写真の男の顔だった。ディスプレイの向こうでは、彼は今も柔和な笑みを浮かべていた。
『オーケイ。お前はなかなか賢いようだ』とエクレールは言った。この分だと、事は簡単に終わりそうだ。意識して、言葉を乱雑で粗野なシティ・スピークで喋る。『俺の目的は分かってるな? そのくそったれなチップをそこにおいて、さっさと失せろ』
「いやだね」と男は言った。
『命が惜しくないのか?』くそったれ、とエクレールは内心で歯軋りした。どうも、このお偉いさんは想像していた以上にやっかいな相手かも知れない。『もう一度言うぞ。死にたくなければ、ブツをおいてさっさと消えろ。それとも死にたいのか?』
「そうだな、まあ、そう言われると思っていたよ」とレノックスは言った。状況に不似合いな、明るく快活な声だった――恐怖なんて、微塵も感じていないような声だ。「とりあえず、ACから降りてきてくれないか? そうしたら、チップを君に進呈してもいい」
『ふざけるなよ』彼女はブレードを振り上げてみせた。『本当に死にたいのか?』
「君も分からない男だな。チップが欲しいんだろう? それが依頼内容だったはずだ。僕を殺したら僕の体と一緒にチップは粉々に砕けてしまう。残念ながら、このままじゃ君は僕を殺すことはできないんだ。分かってるだろう?」
『依頼なんてどうでも良くなることだって、あるんだぜ』低い声でどすをきかせる。だがこの言葉がきかなければ、後はもう降りていくしかなかった。
 彼は軽く首を横に振った。「そうか。だったら仕方ない。僕を殺すんだな」
『どういうつもりだ?』
「どうもこうもない。僕は君がACから降りてきて、話し合いをしてくれる事を望んでいるんだよ」と彼は言った。相変わらず、その声には焦燥も恐怖もなかった。その喋りかたはまるで、公園で散歩をしているときに、たまたまベンチで出会った人間に対して話しかけているような感じだった。「ああ、もしかして待ち伏せとか罠とかを警戒しているのかい? 安心していい。そんなものはないし、僕は武器らしい武器だって持っていない。この辺りには、君と僕しかいないよ。それは保証する」
 エクレールは押し黙った。この男の真意がまったく分からなかった。声の調子からして、嘘を言っているようには見えない。
 外部スピーカーのスイッチを一時的にオフにして、マリアをコールした。「どうすればいいと思う、これ?」
「確認しましたが、やはり、周辺には何の反応もありません」マリアはいつでも冷静だった。「レノックスの言う事は、どうも本当のようですが」
 エクレールは諦めの舌打ちをした。「ちくしょう、あのくそレノックスの言うとおりにしなきゃならないわけ?」
「そうですね、あとは、あなたの判断です」と彼女は言った。その言い回しはつまり、「好きにしろ」という意味の婉曲表現だ。
 エクレールはシートの脇のレバーを倒した。コクピット開閉装置のスイッチだ。AIがシステムをコンバットモードからノーマルモードに移行する旨を継げる。ACは展開していたブレードユニットを格納し、一旦棒立ちになった後、膝を沈めて背を丸めた膝立ちの姿勢に移行する。ディスプレイからは最低限の表示を残して、すべての情報がシャットアウトされていく。エクレールはディスプレイ一体型のヘルメットを脱ぎ、顔を露出させた。同時に、ACの背面装甲が複雑に変形し、コクピットユニットからシートを音を立ててゆっくりと排出する。夜の空気が彼女の体をゆっくりと包み込み、彼女のなかにあった戦闘の昂揚感を徐々に薄めていく。
 エクレールはため息を一つついたあと、シートに格納してあるオートマチック拳銃を取りだし、残弾を確かめた。マガジンには15発、チェンバーに一発。セイフティを外して、予備のマガジンをパイロット・スーツの胸ポケットに押し込んだ。次いで、スーツの首もとに設置してある通信装置のスイッチを入れる。
「聞こえる、マリー?」
「はい。スーツのカメラも正常に動作しています」
「じゃあ、モニターしといて。サポートお願い」
「了解しました」
 シートから乗降用のワイヤーを伸ばし、一気に滑り降りる。
 エクレールは油断なくオートマチックを構えて、レノックスのもとに歩き出した。
 辺りは静かだった。都市の喧騒も、都市外郭部であるここまでは届かない。昼間は都市ユニット建造の騒音が響いているのだろうが、今は深海の底のようにすべてが静止していた。外気は思ったより暖かく、風も吹いてはいない。パイロット・スーツはごく薄手なので、それは彼女にとってはありがたかった。
 ACの影から出て、レノックスの姿を確認する。周辺はそれほど暗くはなかった。遠い都市の明かりと月明かりが周囲を淡く照らし出している。けれどその光は微弱で、どこか非現実めいてもいた。
「やあ、いい夜だね」とレノックスは言った。「ああ、しかも君は女だったのか。いや、ACの声の調子からてっきり――」
「うるさいわね。両手を頭の後ろで組みなさい。おかしな真似をするとぶっ放すわよ」
「そう恐い顔をしないでくれないか? 僕は何もしないさ――」彼は穏やかな笑みを浮かべていた。敵意のまったくない、優しげな笑み。それは魅力的といってもいい笑みだった。ただ、あまりにも場違いなだけで。「――ただちょっと、話がしたいんだ」
「わたしはしたくない」
「まあそういうなよ。僕は今日一夜限りの命なんだから。話ぐらいしてもいいだろ? それぐらいの権利はあると思うね」
「何を言ってるのかさっぱり分からないわ」彼女は低い声で行った。銃を強く握る。「あなた、きちがい?」
「そうかも知れないし、そうでないかもしれないな」と彼は言った。「オーケイ。単刀直入にいこう。僕の望みは一つだけだ。つまり、君に殺してもらいたいんだ。他でもない、この僕を」
「あなた、正真証明のきちがいだわ。どういうこと? わたしに、あなたを殺せって言うの?」
「そう」
「なぜ?」
「なぜって、僕が死にたいからさ」そう言って、彼はにっこり笑った。一部の隙もない、完璧な笑み。母親に取っておきのプレゼントをするような――あるいは、秘密の宝物を見つけた無邪気な子供のような笑み。
 エクレールは一瞬、その笑顔に心を奪われそうになった。
「……わからないわ。全然分からない!」エクレールは大声で叫んだ――彼の微笑みの魔力から逃れるように。その声は辺りに奇妙な反響を残した。「わたしの目的はあんたの持ってるチップだけ。命まで取ろうとは思ってない」
「わからないかな。つまり、この依頼は僕が依頼したものなんだよ。まあ、間接的自殺と言って言えないこともない。僕はチップを渡す気はない。なら、君は力ずくでチップを奪わないといけない。だったら、僕を殺すしかないじゃないか」
「あなた、本気なの?」
「もちろん。百パーセント本気さ。ただまあ、最後に僕を殺してくれる人間の顔ぐらいは、見たいと思ってね」そう言って、レノックスはACを指差した。「ああいう鉄の塊に押しつぶされたり撃たれたりするのにはぞっとするんだ。どうもああいうものには、人間性ってものが希薄な感じがしてね。やっぱり死ぬなら、誰かの手にかかって死にたいし、そいつの顔が見れればなおのこといいと思うんだ。しかもそれが、なかなかに美人な女性とくれば、言うことはない――まあちょっと、あまりに貴族趣味的な気がするけどもね。シェイクスピア的と言えば、聞こえはいいかな?」
「だったら!」もう一度、彼女は叫んだ――今度は前よりも大きく。目の前の男の、不可思議な魔力に抗うようにして。「だったら――黙って一人で死ねばいいじゃない? それこそ、毒薬でも飲んで」
 レノックスは軽く眉をしかめた。間違いを指摘する教師のように。「ダメだな。それじゃあ面白くない。僕が望んでいるのは、こんな時間なんだよ。そう、いま君とこうして話しているような時間だ」
「理解できないわ」
「そうかな、まあ自分でも少々特殊かもしれない、とは思うがね。さあ、引き金を引いてくれないかな? レイヴンっていうのは、依頼を遂行するためには何だってやると聞いているんだが」
「いやよ」と彼女は低い声で言った。「あんたみたいな奴の思惑に振りまわされるのは、心底吐き気がする」
「困ったな。そうか、君は別に金のためにレイヴンをやっているというタイプじゃないみたいだね。そうだったら話は早かったんだが――そうだな、君みたいなタイプは正直、結構好きだな」
「馬鹿にしてるの?」
「いや、とんでもない。今みたいな時代、君のような人間は希少だ。珍しい」
 沈黙が流れた。薄明かりの下、静かな風の音だけが聞こえてくる。まるで亡霊みたいだ、とエクレールは唐突にそう思った。このテリー・レノックスという男は、この奇妙に現実感がないこの場所で、何より非現実めいている。彼の話し方、仕草、なによりその場違いな魅力的な笑顔――それは決定的にこの場所、この状況からずれていた。
 本当に、彼は人間なのだろうか? エクレールは言いようのない寒気が背中を下っていくのを感じた。レノックスに向けていた銃を下ろす。戦闘の恍惚は微塵もなく、ただ悪寒だけが背筋に残っていた。
「なぜ?」と彼女は言った。
「何が?」
「どうして死にたいなんて思うわけ? あんたは金も持ってるし、地位もある。ハンサムだし、まだ充分若い――しかも、若すぎるってわけでもない。何がご不満なの?」
「そうだな。まあ色々と理由はあるんだが――理由の一つとして、僕には莫大な保険金がかけられているんだ」
「誰がかけているの?」
「僕自身さ。そして、受取人は僕の父親だ。父はね、いまちょっとしたトラブルにはまり込んでいる――企業と権力の泥沼の底にね。それを救うには、できるだけ短期間に、数千万コームの金が必要なんだ。それを調達できなければ、父だけじゃなく、僕等一族の問題になる。兄や弟、そして彼らの周りにいる何百人かの人間の問題にね。それだけの額を用意するには、どうしたって複雑なプロセスと時間がかかる。これは厄介なトラブルなんだ。企業ってものの、いや、社会的なシステムにおける暗い落とし穴、ってところかな。今ここで父をその沼から引っ張りあげるのが、一番手っ取り早くて傷口が広がらない方法なんだよ。それで――僕が死ぬことにした。僕のついている地位からすれば、僕にかけられてる保険金はそう莫大なものじゃない。多少多めではあるけどね。こんなご時世だろう? それぐらいの用心はしてしかるべきだ。それで、最も効果的で痕跡が残らないやり方を選ぶことにしたんだ。つまり、レイヴンを使うってやり方をね。それで選ばれたのが、たまたま君だったわけだ」
「つまり、保険金殺人てこと?」
「そうだな。そういうことになる。ちょっと俗っぽい言い方をするとね」
「あなたは、それで満足なの?」
「ああ。実を言うと、別にその保険金云々の話しはそんなに大きな理由じゃないのさ」とレノックスは言った。その顔から笑みが抜け落ちていく。その青い瞳が、エクレールの目を静かに見つめる。「疲れたんだよ。色んな事に。父のトラブルのことも含めた、このどうにもならない時代の、どうにもならないすべての連鎖にね。一言で説明するのは難しいがね、嫌になった」
「……つまり、現実から逃げたいってこと? 負け犬の論理だわ、それ」
「そうだな。君みたいな人から見ればそうだろう。向いてなかったんだろうな、多分」
「企業社会を支配していく事に?」
「いや、生きていく事にね」
 エクレールは押し黙って、ただ一言、「そう」とだけつぶやいた。他に言うべき言葉はなかった。
「僕が話すのはこれだけだ。いい加減、ちょっと喋りすぎたな」そう言って、もう一度、彼は笑みを浮かべた。だがその笑みはさっきまでのような快活な笑いではなかった。空虚な、乾いた笑みだった。「さあ、もう充分だ。充分すぎるほどだ。君みたいな人と最後に話せて良かった。君も、多分どこかでうんざりしてるみたいだったからね――この世界に。まあ、決定的に僕とは違うなにかの部分で、だと思うけど」
「……そうかもね」
「さて、じゃあ僕を殺してはくれないかな? 簡単な事だ、その銃口を僕に向けて、引き金を引けばいいだけだろ?」
 エクレールはゆっくりとレノックスに銃口を向けた。距離は3メートルほど。左胸を狙う。この距離なら、外しようがなかった。彼女はゆっくりと引き金に添えた指に力をこめて――

 ――そして、撃たなかった。

「……やれやれ。困った人だな、君も。……じゃあこういうのはどうだ?」彼はスーツの懐から拳銃を取り出した。口径の小さいオートマチック・ピストル。「君が僕を殺さないと、僕が君を殺す」
「……あんたの腕じゃ無理よ。どう見ても拳銃を使ったことがある手つきじゃないわ」
「そうかな? これでも映画を見て研究したつもりだが――」レノックスは銃を構えたまま、左足を一歩前に突き出した。そのまま一歩一歩、エクレールに向ってゆっくりと歩きはじめる。「さあ、早く撃たないとまずいことになる」
「エクレール。撃つべきです」とマリアが言った。「それが最善の選択です。レノックスは本当にそうするかもしれない」
 エクレールは答えなかった。
「ひとつ、聞きたいことがあるわ、レノックス」
「何だい?」
「あんたを護衛してたMT――あれに乗ってたパイロットたち、あれもあんたのこの狂言に付き合わされてたの?」
「ああ、あれか。そいつは心配しなくていい。MTにパイロットは乗ってない。全部AIだ。こんな僕のわがままに付き合ってもらう人間は必要ないからな――君を除いてはね」
「そう、それを聞いて安心したわ。馬鹿馬鹿しい。本当に、馬鹿馬鹿しい。撃ちたいなら撃てばいいわ」エクレールは手にした拳銃を地面に投げ捨てた。「わたしはね、レノックス、あなたを殺したくないの。あなたは悪い人間じゃないし、それほど馬鹿でもない。あなたが死ぬっていう以外の選択肢、ないわけじゃないんでしょう?」
 レノックスは歩みを止めた。一瞬の空白が、彼の意識の中に生まれた。彼はエクレールに向けた銃口を力なく下ろした。
「君はずいぶんと強情だな。どうしてだ?」
「わたしわね。つまるところ、できる限り自由でいたいの」エクレールは答える。しっかりと、レノックスの両目を見据えながら。「あなたのいう、この時代の、どうにもならないことの連鎖からね。そういうのから、自由でいたい。それがわたしの信念。そのためにレイヴンでいる。だから、あなたみたいな人間にいいように利用されるのは、まっぴらご免なのよ」
 レノックスは答えなかった。変わりに彼は左手に嵌めていた指輪を取って、それを握り締めた。「依頼では、この指輪の中にチップが入ってる事になってる。でも、もともとチップなんてなかったんだ」彼は指輪をエクレールに向って投げた。「受け取ってくれ」
 指輪は、何の飾りもないプラチナのリングだった。チップなどはどこにもなかったし、埋めこんだ形跡もなかった。リングは月明かりを受けて、うっすらと金色に輝いている。エクレールは初めて、レノックスに笑いかけた――皮肉でも嘲笑でもない、それは純粋に好意から出た微笑みだった。
「……ありがとう。そうだな、君の名前を聞いていなかった。なんて名前なんだ?」
「エクレール」と彼女は答えた。
「エクレール――お菓子の名前か?」
「そう。甘いお菓子よ。フランス語の元の意味は、『稲妻』って意味」
「そうか。礼を言うよ、エクレール――」彼は振りかえった。エクレールに背を向けながら、手にした拳銃をこめかみに押し当てる。

 一瞬だけ、世界が動きを止めたように、エクレールには思えた。

「君に会えてよかった」
 彼は小さく呟いて、オートマチックの引き金を引いた。
 彼が最後に浮かべていた表情は、エクレールには見えなかった。

Y              第17街区 レイヴンズ・レスト 0:01 04/22

「これが、そいつの指輪」エクレールはポケットからプラチナのリングを取り出して見つめた。よく磨かれていた表面が、彼女の触った辺りから白く曇る。リングは店の風景を忠実に反射して、琥珀色に輝いていた。笑い声を上げるボックス席のカップル。忙しく動き回っている黒人のウェイター、カウンターの向こうで寡黙にシェイカーを振っているバーテンダー。
 エクレールはリングに映った自分のグレーの瞳を凝視した――その奥に、自分でも知らない何かの光が見つからないだろうかと。
「で、その後は?」とヴィシャスは言った。
「別に。マリーが言う通りに、レノックスが持ってた銃を回収して、任務完了よ。きちんと報酬は振りこまれてたし、マリーも何も言わなかった。彼が死んだこと、そろそろ報道されるんじゃない?――今は規制がかかっているみたいだけど」
「レノックスの銃はどうしたんだ?」
「川に捨てといたわ」と彼女は言った。「でも、この指輪はなんだか、捨てられなくてね」
「そうだな。それは多分、お前が持ってたほうがいい」彼はバーテンダーを呼んで、新しい飲み物を注文した。
「これで、この話はおしまい。大した話じゃなかったでしょ?」
 話は終わった。ヴィシャスは感想らしい感想を何も言わなかった。彼は黙って、十何本めかの煙草に火をつけた。エクレールも何も喋らない。コトン、と小さい音がして、バーテンダーがヴィシャスの前に新しいウイスキーを置いた。彼もまた、何も喋らない。洗練された最低限の動きで、自分の場所へと戻っていく。店のなかにかかっていた音楽も止まっていた。店の他の客たちは相変わらずだったが、そのさざめきは彼女の周りの静かな沈黙を強調するだけのものだった。けれども、彼女はその沈黙に苛立ちはしなかった。凪のように静かな、安定した安らぎがそこにはあった。ヴィシャスは沈黙というものを知りぬいているのだ、とエクレールは思った。そして、あのバーテンダーも。エクレールも自分の煙草に火をつけた。フリントのたてる乾いた音は、この沈黙を乱しはしなかった。この沈黙、二人分の煙草の紫色の煙、そして明るい照明。それらすべてが、奇跡のように調和している。

 救われたわね、と彼女は思った。

「ヴィシャス?」
「何だ?」
「あなた言ってたわね。ナダに対抗しなきゃいけないって?」
「ああ」
「レノックスは、そのナダってのに負けたのかしらね?」
「多分な」
「けっこう、いい男だったわ、彼」
「そうだろうな」と彼は言った。「そいつも多分、まともなやつだったんだ」
「そうね。そうかもしれない」エクレールはもう一度リングに店の光景を映した。清潔で、とても明るいところ。彼をここに連れて来てみたかった――彼女は脈絡なくそう思った。それは自分が意識した以上に、強い感情だった。
「エクレール」とヴィシャスは言った。「お前は、世界の神秘をその目で見ちまったんだ。完璧で氷みたいに冷たい、一部の隙もない、世界のありのままの姿を」
 エクレールは指輪を強く握り締めて、黙って頷いた。
「その指輪、見せてくれないか?」とヴィシャスが言った。
エクレールは手にしたリングを彼に放る。
 天井の明かりにリングを透かす。「内側に、何か彫ってあるな――To the everything――すべてに」
「何なのかしらね、それ?」
「さあな。俺には分からない」と彼は言った。「いや、そうだな、婚約指輪だったのかもしれない」
 エクレールはくすりと笑った。それはあの時以来、はじめてみせた純粋な微笑みだったかもしれない。
「あなたって、本当に変な男ね。外見はバカみたいで、なのに話し方はまるでできそこないの詩人みたいだし」
「そんなことを言われたのは初めてだな」
「ねえ、ヴィシャス?」と彼女は気楽に言った。「今日、わたしを抱いていかない?」
 彼は一瞬だけ黙りこんだ。「いや、やめとくよ」と彼は言った。
「そう? 残念」
「指輪、返すぜ――大事にしとけ」
「そうね。うん、ありがと、ヴィシャス。あなたと話せてよかったわ」そう言って、彼女はスツールから立ち上がった。まだ火のついている煙草をくわえて、ヴィシャスにむかって手を振った。
「ああ。おやすみ、エクレール」
「じゃあね」と彼女は言った。

 外に出る。彼女は短くなった煙草を水たまりに投げ捨てた。この時期にしては冷たい風が、彼女の頬の火照りを冷やしていく。その感触が肌に心地いい。もう一本煙草を取り出した。彼女はその赤いパッケージの文字をしげしげと眺めた。ロマンス。そう、たしかにあれはロマンスだったかもしれないわね、と彼女は思った。ただ、彼女にとってはそれだけがすべてでもなかった。
 彼女はペンを取り出して、新しい煙草に小さく文字を書いた。「To the everything」。
 ――ちょっと馬鹿げてるわね。彼女は小さく苦笑した。それに感傷的すぎる。
 煙草に火をつける。深く息をついて、肺の奥まで煙を吸いこむ。ジジ、とかすかな音が聞こえて、煙草の火が鮮やかに赤くなる。
 エクレールはポケットのなかで指輪を弄びながら、そのままくわえ煙草で夜の街へと歩き出した。



                                                                         了