パッチワーク・ナイト
地球(アース)においては、十字軍遠征のころ。
邪悪な悪魔どもを地上から一掃し、キリストの聖地を取り戻すべく、欧州じゅうから兵という兵が集まった。それはさながら、巨大な民族のミキサーであった。戦争という一つの目的のために集められた無数の人々は、生活の中で(戦争の最も大きな要素は、当たり前だが「攻撃」でも「防御」でもなく「生活」だった)各地の文化や風習を否応なくお互いに見せつけ合い、そして混ぜ合わせていった。
数多くの有効な文化が、十字軍をきっかけに欧州全土に広がった。その中にパッチワーク・キルトの技術もある。
元々は欧州北部の寒冷地で発達した技術である。二枚の布の間に綿を挟み、縫い合わせて固定する。綿を間に挟む構造上たいへん保温性に優れており、なおかつ小さな布片を一枚の大きな布に仕立て直せるという利点もあった。戦地の厳しい冬を乗り切るため、戦場の騎士や兵士たちは好んでパッチワーク・キルトを用いた。
この優れた技術は、あっという間に欧州全土に定着し、ずっと後の時代には、はるばる大西洋を横断して、アメリカ大陸の開拓者たちを夜の寒気から守ってくれた。そして今でも、婦人のたしなみとして世界中で愛されている。
戦争は、他の何よりも多くの物を破壊する。
しかし一方で、他の何よりも多くの物を創造する。
なぜなら戦争は命のやりとりであり、そして命のやりとりである以上、全ての人々が必死になるからだ。
さて、これから語られる一人の騎士の物語は、舞台を地球(アース)とは異にする。
しかし創造と破壊に関する上記の原則が、この少し変わった世界においても有効である以上、パッチワークもまた地球同様に愛されているとみて良いだろう。
見てくれは悪いかもしれないが、少なくとも温かい衣服ではあることだし――
そしてまた、見てくれも、思ってみたほど悪くはないかもしれないし――
The ORIGIN world's tale : A.D.1178
パッチワーク・ナイト -Patchwork Knight-
「そんなに好きなの? 夜中にさ……ん」
執拗に乳房を舐められて、17の少女は身をよじった。瞬間、自分が集中の世界に入ったことを、プロの嗅覚によって感じ取っていた。粗末なベッドは世界中の全ての娼館のベッド同様、汗の臭いが染みついて取れなくなっているはずだった。今朝もそれに顔をしかめたばかりだった。でも今、その臭いはどこにあるんだろう?
いや。臭いは依然そこにある。一生懸命少女を愛そうとする男の体臭もそこにある。でもそれがなんだろう? 窓の外に見える月の光がなんだろう。静まりかえった夜に鳴く、フクロウの声がなんだろう。感覚は一つ一つ消え去って、少女は漆黒の世界に堕ちる。心地よい虚無。何もない。何の感覚もない。暗闇の中、ただ一点だけ差し込む光。針の穴のような一点から。まっすぐ伸びる一条の灯り。
少女はそこに目がけて泳いでいった。しなやかな体を男の体の下でうねらせながら。男は動きを感じたか、少女の手首をそっと掴んだ。手をベッドに押しつけて、生きた手枷で彼女を縛る。
動けない。(うそつき。くねってる)逃げられない。(逃げる、なんで?)首筋を吐息にくすぐられ、悲鳴を挙げてのけぞって、でも男は逃がしてくれないと知ったとき。少女は滅多に出さない声を出した。
今夜は――
「もうダメ――」
男も同じ意見みたいだった。
不慣れそうな男を少女はさりげなく導いてやった。磔にされたままだったから、腰を僅かに動かすだけで。ただそれだけで、不思議なほど滑らかに、男は少女に滑り込み、そして瞬間――
フクロウが鳴いている。
何もかも戻ってきた。自分が戻ってきたんだろうか? みんなが戻ってきたんだろうか? どちらかは分からなかったが。
満月というには数日早い月。フクロウの声。ベッドに染みついた汗の臭い。臭いといえば、自分を抱いたまま、ベッドでもぞりと動く男の体臭。あれほど愛おしかった男の臭いが、今ではもう、鼻につきはじめていた。
しかしこうして、この男の胸におでこを押しつけ、自分が鼻息を吹くたびに男がくすぐったがって身をよじるのを観察するのは、悪い気分ではなかった。つまるところ、けっこうこの男のことが気に入っていた。
「そんなに好きなの? こんな夜中に」
「ん……まあ、事情があって」
ふっ、と少女は鼻息を吹いた。男はきゅっ、と、少女を抱く腕に力を込めた。
娼館といえば夜の商売、と思われがちだが、意外にもそうではない。今日のような明るい月夜ならともかく、ちょっと曇れば、あるいは月が欠けていれば、夜は漆黒の闇に閉ざされる。自分の鼻の先も見えない、というのは、あながち誇張表現でもない。
そんな中で愛を交わすのは、たとえ手慣れた娼婦といえどたいへんな困難である。かといって仕事の間じゅう灯りを灯すなんていう暴挙をすれば、油代だけでとんでもない出費になる。オーダーがあれば夜の仕事もするが、当然、そのときの油代は客持ちである。
だから、夜中に娼婦を抱きに来るような男といえば、夜中だけどどうしても我慢できなくなった余程の好き者……でなければ、昼間おおっぴらに来られないような、事情か身分か妻を持つ者くらいのものなのだ。
それを承知で少女は訊いた。プロらしからぬ、配慮不足だった。おかみさんに聞かれていたら、たっぷりお小言をくらっても文句は言えない。
にもかかわらず、少女は、多くを語ろうとしないこの男に、へそを曲げた。人差し指で、男の胸をカリカリと掻いた。男が我慢できなくなって身をよじり、少女の手を握ってやめさせようとするまで。
それでもしばらく少女は手をモゾモゾさせて、男とじゃれあっていた……が、やがてそれにも飽きたのか、男の胸を枕にして少女は溜息を吐いた。
と、耳の下にコツコツした感覚があった。
「これ……傷跡?」
「ああ」
少女は男の胸から頭を持ち上げた。頭を乗せていては痛むんじゃないかと思ったのだ。でも男は笑って少女の頭を抱き寄せた。
「別に痛かないよ」
「そうなんだ。戦争?」
「そんなとこかなあ……もう少し個人的なんだが」
「決闘でもしたの?」
「決闘……でもないなあ。まあ戦いは戦いなんだけど、どっちかというと……狩り? かな」
「熊とでも戦ったの?」
「熊なんてもんじゃない。もっとすごいよ」
男は急に上機嫌になって話し始めた。さきほど少女の内に滑り込んだ時と同じく、巧みに導かれたとも知らず。男がどんなことを好んで女に話したがるか、少女はよく心得ていた。
「あいつら強いからなあ。だいたいやられっぱなしで……実は俺の体も、もうつぎはぎだらけなんだよね。ほら、ここにも縫い目があるでしょ」
「うん」
と、男は右腕を持ち上げて少女に見せびらかした。
「この腕は、シュヴェーアで『竜殺し』の再来だとか言われてた剣士のやつなんだ」
「……え?」
「左の肩から二の腕までは魔法学園の先生、肘から先は古い狩人仲間。あとね、お腹のこの辺はエズバーゲンで知り合った女の子から貰ったやつで、それから太股の……」
体のあちこちを持ち上げながらペラペラとまくしたてていた男は、ふと、少女が冷たい目をして自分を見ているのに気付いた。男がぎょっとして見つめると、少女はくわぁーっ、と大口開けてあくびをする。
「……で、次はお前の体を貰っちゃうぞ、ていう?」
「いや……その……」
「そういう話で女の気を引こうとする男って」
男は死んだように崩れた。少女の声は、凶悪な曲線を描く大刃のナイフみたいだった。
「ゴメンナサイ……ちょっと盛り上がるかなって思いまして……」
「小心者」
「うう」
泣きそうな顔をする男を、少女はニヤニヤしながら見つめた。なんだか癖になりそうだった。
少女はふいに、男を仰向けにすると、その上に自ら跨った。男はびっくりしていたが、体は正直なものだった。氷の笑みを浮かべたまま、少女は男の手首を握る。さっきとは逆の立場になって、男の体をベッドに磔にする。
腰を軽く震わせると、男が鼻声で呻いた。
「ばか。あんたはわたしを買ったんだから、好きなように楽しめばいいのよ。ね?」
「そ……」
少女の手が滑り降り、傷跡だらけの男の腕をくすぐっていく。僅かに指を滑らせるたび、男がぴくり、ぴくり、と体を震わせ、期待に体を熱くしていく。胸を、肩を、首筋を。男の全てを手のひらに収め、少女はゆっくり昇っていく。
やがて少女の手は男の頬を包み込み、意外なまでの力で、その頭を固く押さえつけた。
男は抵抗すらしなかった。少女に組み敷かれ、腰と腰とを擦り合わされながら、まだか、まだかと期待ばかりを膨らませ、いつまでもなすがままに待ち続けていた。動けなかった。魔術に堕ちたかのように、少女の指の動き一つ一つに逆らえなかった。
少女は低く身を屈め、桜のような唇を、そっと男のそれに寄せた――
そして唇が停まる。紙一枚ほどの距離を隔てて。
唇が僅かに触れあった――気のせいか? 少女の吐いた温かい吐息が、自分の唇を撫でただけか? 男は震えた。必死に頭を持ち上げ、少女の唇を奪おうとした。だが動けない。白い指に、頭をしっかと握られて。
少女が囁く。
「キスしてあげない」
頭が真っ白になった。熱いものが体を駆けめぐった。
「うそ」
再び囁き、少女は男に口づけた。
眠い。
というか、半分夢を見ながら、ゼナギィルは天下の往来を歩いていた。
シュヴェーアの城下町ともなれば、さすがに賑やかだ。城を中核にして作られた街には、幾重にも城壁が張り巡らされ、まるで迷路のような構造になっている。シュヴェーアを旅する者は日に三度道に迷う、というのはよく言われる冗談である。
もちろん外敵からの防衛を考えて作られているのだが、ゼナたちのような旅行者にとっては困ったものである。とはいえ、住人たちは全く不便を感じていないらしい。子供達は壁と建物の間を巧みにすり抜けて縦横無尽に駆け回り、時には兵士たちが、ロープを伝って城壁からスルスルと降りてくる。目の前に降ってきた兵士に「どーも」と会釈され、ゼナはどうしてよいか分からず硬直した。
「びっくりした……ダメだな、寝ぼけてちゃ」
「……昨日の夜、どこ行ってたの?」
下の方から声がする。ゼナはそっちを見ないようにした……が、下の方のチビは、彼の耳に飛びつくと、
「わー!」
「んがー!? うるせえよ!」
声を裏返しながら、ゼナはチビを振り払った。チビ……といっても、もう14になるか。似合わない旅装束に身を包んだ、一目では男だか女だか分からないようなチビ。と、取り立てて言われるということは、つまり女である。
名前をリッタと言う。ゼナの旅の仲間である。
リッタは鋭い視線でゼナを見上げ、ぶーたれながら同じ質問を繰り返した。
「どこ行ってたのよ? 『狩り』でもなさそうだし……」
「なんでもねーよ、ちょっと調査だ」
「調査ァア〜?」
うるさいなあ、と思いながらも、さしてそれが気にならなかった。それほど昨夜見た夢は素晴らしかったのだ。もちろん、本当に夢だったわけじゃない。夢のようだったというだけだ。
あんなに、燃えるように女を愛したのはひさしぶり……いや、初めてかもしれなかった。思い出すだけでゼナはにやついてしまう。ふと大通りの露店を見れば、桜色の丸々とした果実が積まれている。その桜色に、ゼナは娼婦の唇を思い起こす。
「これ、いくら?」
「一山で三鉄」
「お買い得だね。貰うよ」
懐から出した鉄貨と果実四つを交換すると、ゼナは鼻歌を歌いながら、そのうち二つをリッタに投げてよこした。
「おわ。た」
取り落としそうになってよろめいたものの、なんとかリッタは果実を受け止めた。その頃にはもう、前を行くゼナは、シャクシャクと気味の良い音を立てて、果実を半分ばかりもかじり取っている。むむむ、とリッタは唸った。
「なんでそんな機嫌いいのよぉ」
「機嫌よくなんかねーよ」
ゼナはみずみずしい桃色の果実を飲み下しながら、
「一生の思い出かもしれんなあ……」
と、呟いた。リッタに聞きとがめられていたら、えらいことになる所だった。
と、その時。
ぶうたれながら果実にかぶりついたリッタの肩を、誰かの指がトントン、と軽く叩いた。それは実に優しい叩き方で、声を挙げて呼び止めるのは事情があってはばかられるのだけれども、なるべく驚かせないよう、なるべく失礼にならないよう、よく気を使っているのだということが、ありありと感じ取れる叩き方であった。
きっと、お忍びの貴公子か何かだろう。リッタはうだつの上がらない浮気性の(だいたい昨夜何があったかは見抜いていたのだ)ゼナなんて見捨てて、どこぞのジェントルな貴公子の元へでも行こう、と画策していた所だったので、もっけの幸いとばかりに目をキラキラさせて振り返った。
だがそこにいたのは、さっぱりしない老人だった。リッタの落胆たるや推して知るべし。
「やあ、お嬢ちゃん、お兄さん。いい体をしてるね」
理不尽な落胆にうちひしがれているリッタの後ろで、ゼナは肩をすくめた。この手合いには慣れている。賑やかな街では大抵出くわすことになる、傭兵専門のスカウトだ。ほとんどの大商人は常に危険と隣り合わせの商売をしている。野盗、押し込みの類がこの世に絶えた例はない。だからこういううさんくさいのを使って、用心棒を雇おうとするのである。
「見たところ、あんたは傭兵くずれか何かだろう、なあ兄さん」
ゼナは沈痛な表情をした。とっさにリッタが何か言おうとしたが、彼女の頭を抱きかかえて、手のひらで口を塞いだ。手のひらの所で歯と唇がもぞもぞしてくすぐったい。が、余計なことを言って欲しくはないので我慢する。
どうせリッタは、「違うわよ!」とでも言おうとしているのだろう。そしてそっから先、「じゃあどう違うのか」と突っ込まれた後の対処のことなんて考えてない。まあ、ゼナの商売を評価してくれていて、そこらの傭兵とはわけが違うと主張せずにはいられなかった、という辺りは正直に言って嬉しいが。
「まあ……そんなとこ」
「単刀直入に言おう。仕事をする気はないか?」
「ん? あー、まあ……うひ!?」
リッタがゼナの手のひらをれろりと舐めた。くすぐったくて、思わず彼女を手放してしまう。自由になったリッタはゼナの前に進み出ると、偉そうに腰に手を当て胸を張る。
「ちょーっと待った! そーいうことなら、このあたしにキッチリ話通して貰いましょーか!」
「……あんたはこの兄さんの何なんだ?」
不思議そうに頭を掻く老人に、リッタは迷いのカケラもない口調で、
「マネージャー兼主治医兼幼な妻よっ!」
老人が目を丸くした。
ゼナは人知れず溜息を吐く。
(押しかけ女房……)
香草を添えたデュイル風のソテーは絶品だった。
全てが調和しているとはこのことを言うのだ。テーブルクロスのレース細工は見事の一言、黄金のシンプルな模様に彩られた青磁の皿は夏の暑さを忘れさせるほどの涼しげな音色を立て、水晶のワイングラスに注がれた美酒は一口でこの世のあらゆるごたごたをすっきりと流し去る。
思わず流されそうになって、はっ、とテラージバートは我に返った。
テラージバートは有名な人物であり、この国の要職にある人物である。ということはつまり、品行方正な役人ではありえない。国を取りまとめる中枢にあって一角の人物と認められるには、善良と正直だけではあまりにも不十分だ。どころか、返って邪魔になることすら多い。
そんなわけでテラージバートもご多分に漏れず、大小さまざまな悪事に手を貸してきた。その課程でそれなりに懐も暖めてきた。が、当たり前の野心こそ持っていたものの、基本的にテラージバートもまた国と民を思う一個の人間であり、国のためにならない悪事は決してやってこなかったつもりだ。
しかし、悪は時として、産みの親の手を離れて暴走する。あらゆる子について言えることかもしれないが。
「もうこれ以上は庇いきれん」
沈痛な声を挙げた。だが、テーブルクロスの向こうに腰掛けた、まるで一枚の絵画のような男は、旨そうにワインを呷っただけだった。そののど仏の動きが、どことなく異様に見える。食への異様な執着を感じさせる。何もかも飲み込んでしまう不気味な怪物……そんな印象をテラージバートは受けた。
「聞いているのか――バロッツ」
「この世で一番旨い肉は、なんだと思います……?」
一瞬眉が震えたが、テラージバートは辛抱強く続けた。
「娼婦を集めて他国に売りさばいているそうだな。娼館の元締めが訴えてきた。汚い商売の女とはいえ、影響力は計り知れんのだぞ」
「南方大陸では、牛の肉は戒律で食べないそうです。東方異国には肉食そのものを禁じる宗教もあるとか……もったいない話ですよね」
「もったいないのはこっちのほうだ! やりすぎたんだ、お前はな!」
テラージバートがテーブルをぶっ叩く。がちゃん、とテーブルじゅうの皿が飛び上がった。メインディッシュに代わって運ばれてきたばかりのスープが、素晴らしいレースの上に黄色く醜いシミを作る。後ろに控えていたメイドが、顔色一つ変えず、代わりのスープと取り替えた。
「わしの言うとおり動いていれば、数十年に渡って利益を生み続けたものを……」
「やめませんか、閣下。もう少しランチを楽しみましょうよ」
「貴様……」
「信じる神が異なれば食の戒律もまた異なる。当たり前の話なんです。南方でどう言われていようと牛は美味ですし、食べてはならないものでもない。そこが一個の人間が持つ世界観の狭量なところ……」
テラージバートの怒りの視線をさらりとかわし、バロッツはスープを一口、口に運んだ。スープの中には小さな肉片が煮込まれている。実に味わい深いスープであるのは、この肉が骨ごと入っているからだ。
テラージバートはなんとかこの男に話を聞かせる糸口を探そうと、頭を巡らしながらスープをすすった。歯にコツンとあたる肉の感触。骨の多い肉だ。不作法にも口の中に指をつっこみ、骨張った肉をつまみ出す。
「常識に囚われてはいけない。囚われれば、最も美味なるものを食い逃す――」
指。
「うっ!?」
テラージバートは思わず手の中の肉片を投げ捨て、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。レースの上に転がった肉片を、信じられない物でも見るような目で呆然と見つめた後、やっと何をすべきか思い当たる。即ち……口の中に残る肉の感触をツバと一緒に吐き出したのだ。
「べっ! ぶっ……バロッツ! お前、これは……」
「なんです」
「これはなんだ!?」
バロッツは、舌の上で転がし旨味の全てをしゃぶり尽くした骨を、バリッ、と不気味な音とともに噛み砕いた。
「指の肉です――人間(あなたがた)の」
瞬間、悪寒が胃の中からせり上がってきて、テラージバートは派手にぶちまけた。指が震えている。唇が冷たい。頭の中が真っ白になる。自分は何を食べていた? いや、そんなことはどうでもいい。過ぎたことだ。もう吐き出したことだ。そんなことはどうでもいい!
この男は一体何だ!?
「率直に申し上げて、娼婦たちは売りさばいたわけではないんですよ……」
静かに。
椅子を引いた音すらなく、バロッツはいつのまにか立ち上がっていた。その華奢な脚、脚だけが見える。テーブルに両手を突き、ぜいぜいと肩で息をするテラージバートからは。バロッツ。商人だと思っていた。どこにでもいる悪徳商人と。ひどい人間の一人だと。
違う。
これは、違う。
「どうでもいいですけどね。確かに、そろそろ潮時だと思っていたんです。
だから最後は……盛大にパーティでもして」
脚。
すぐそばに。
バロッツ。人間などではない。
「血を《悪意(ディズヴァード)》に捧げよう」
テラージバートは弾かれたように顔を
老人に案内されてきた屋敷の広間には、それはもう、見るからにガラの悪い連中が詰め込まれていた。
彼から聞くところによれば、ここはシュヴェーアでも指折りの豪商が持つ屋敷……のうちの一つ、わりと小さめの奴、だそうだ。呪われろ。とゼナはひがんだ。
その広間は何十人もの人を招いて盛大なパーティが開けるような広さがあったが、そこに詰め込まれたゴロツキどもの数は、おそらく百は下るまい。どいつもこいつも、野盗なんだかヤクザなんだか傭兵崩れなんだか分からないような連中ばかりだ。もちろん、ゼナも、疑いようもなくその同類である。
普段体も拭かないような男たちが、百人以上も一つの部屋に閉じこめられているのである。熱気もさることながら、臭いがすごい。ゼナの鼻がひくついた。
「すごいな……用心棒っていうから、せいぜい十人くらいかと思ったけど」
「これだけの人数を雇えるんだ。ご主人様の財力の保証みたいなもんだろう」
「そのご主人様って、ちょっとロリコンのケとかないかしら?」
リッタが腕組みして真剣に検討している。何をだバカ。とゼナは思った。
「お嬢さんなら可愛いから、本当にご主人様に気に入られるかもしれないよ」
「あら、ありがと。すごく紳士的なのね、誰かさんと違って」
老人の歯の浮くようなお世辞に……いや、彼の瞳を見るに本音で言っているのかもしれないが……リッタはまたわざとらしく喜んで見せた。あてつけにもほどがある。
「あのなあ……さっきから何なんだよ、つっかかりやがって」
「別につっかかってないけどぉ。あ、そっかー。あたしがいなくなったら寂しいもんねー、だからそんな風に物事を見ちゃうんだ?」
「ばーか。お前がどっかの男に貰われてくれりゃ、身軽になっていいぜ」
「何よ! 怪我の手当とか洗濯とか、アレとかコレとかソレとかドレとか! 色々やったげてるのはどこの誰よっ!」
「頼んじゃいねーよ!」
「あ。そーすか。そりゃまたシツレーいたしました! バイバイ! サヨナラ! アディオス! アデューウ!」
「はいはい、じゃーな! 玉の輿に乗るつもりで変な男にかつがれんなよ!」
ぶうっ、と頬を膨らませ、リッタはどっすんばったんと広間を出て行った。その背中が遠ざかるのをゼナはじっと睨みつけていた。と、リッタがふと足を止める。なんかちょっとほっとする。
が、リッタは振り返るなり、
「べ」
舌を出した。
ゼナは奥歯を噛んでそっぽを向いた。
ふん、と鼻息吹いて遠ざかるリッタ。適当なとこでまた立ち止まり、
「いー」
歯茎を剥いた。ゼナは忍耐した。
そのうち、リッタの姿は長い廊下の向こうに溶けて消えた。
しばらくゼナはじっと押し黙っていたが、やがて、荷物を降ろすことも忘れていたのに気付くと、肩に担いでいた荷物袋を広間のすみっこに降ろした。その隣に座り込み、剣を鞘ごとはずして膝に乗せ、すっかりくつろいだ様子で壁に背を預ける。
そばで頭を掻いている老人に向かって、
「あんなヤツのことは心配しなくていい」
「わしは何も言っていないぞ」
「え、そう?」
老人は肩をすくめた。
「まあいい。指示があるまでは、屋敷の中にいてくれ。食事だとか、何か困ったらそのへんの女に言ってくれればいい」
ゼナが頷くと、老人はゼナを置いて去っていった。取り残されたゼナは、なんとなく体にかゆみを感じて、あちこち掻きむしった。取り残された? いやいや。別に何からも取り残されてなんかいない。ゼナは立派な一人の大人だし、別に、リッタがいないからといって、どうということはない。
全く全然どうということはないが、やけに喉が渇いた。
丁度そのとき、近くを世話役らしい女の子が通りかかった。ゼナは軽く手を振りながら彼女を呼び止めた。
「あのう。すいません、なんか飲み物貰えませんか」
「あ、はぁい。ちょっと待っ……」
振り返った女の子は、目を丸々と見開いた。
「……あ!」
その顔、忘れるはずがない。なにせ一生の思い出だ。ゼナもまた目をくりくりと見開いた。
「あっ! きみは……」
「あなた……ゆうべの!」
覚えててくれた。なんだかちょっと、胸が熱くなる。
「キス寸止めが好きなひと!!」
ゼナは一発で茹で上がった。真っ赤になったということだ。
また大きい声で言うのだ、これが。
ゼナはフィンチャーチのお尻を支えて、彼女を屋根の上に登らせてやった。手のひらに触れる感触があまりにも柔らかくて、さわさわしていて、全身が火を付けた見たいに燃え上がった。
汗を掻き掻き、ゼナも彼女を追って上に上がる。屋敷は高台の上にあったから、屋根に登れば夕日に燃えるシュヴェーアの街が一望できる。連なる瓦屋根とうねる城壁の描く、美しい幾何学模様。そこに二つの影がまっすぐ伸びていく。一つは大きく。もう一つは小さく。小さい方の黒い影が、大きい方の影に、そっ、とよりそった。
心臓が爆発しそうだ。
娼婦は名前をチャーチ、フィンチャーチと言った。昨夜は暗い夜のことだったので、お互い顔もほとんど見えなかった。でも、今こうして夕日の中見つめ合っていると……それだけで夢の中にいるような気さえしてくる。とろけるような美人だった。少なくともゼナは為す術なくとろけた。
彼の額に浮かぶ汗を、登ってくる時四苦八苦したせいだとでも思ったのだろうか。チャーチは白いシャツの袖口をそっと伸ばして、汗を優しく拭ってくれた。
「こんな所でまた逢えるなんて」
チャーチは、にこ、と笑って、持ってきたワイン瓶のコルクと格闘を始めた。どこか眺めのいい、二人きりになれるところで、一杯やろう、とゼナが誘ったのだ。彼としてはグランベルギア山脈の大地裂帯から飛び降りるような覚悟だったのだが、彼女はあっさり首を縦に振ってくれた。
「娼婦って言っても、体を売るだけが仕事じゃないのよ。臨時雇いの下女みたいな仕事も多くって、たとえばここの旦那様とかはお得意先の一つなの」
「へえ」
「ほら、大商人ともなれば、色々危ないこともあるじゃない? そういうときには、十人二十人っていう腕自慢さんを雇うから、そのお世話は普段勤めてる下女だけじゃ足りないし……
体だけが自慢の娼婦なんて二流よ。一流は、炊事、洗濯、お裁縫、なんでもできなきゃね」
「ふうん」
「興味なさそ」
「えー?」
チャーチは隣の男の顔を見上げて、ぷっ、と思わず吹き出した。彼女がコルクに手こずりながら、世間話をしていた間、この男はずっと、チャーチの横顔をうわのそらで見つめ続けていたのだ。
「興味津々?」
「うん」
「今日はだめ。今度、お店に来て」
これを聞くと、ゼナはがっくりと肩を落とした。正直と言おうか。子供と言おうか。いじけて景色に視線を移した彼に、チャーチはワインを注いだグラスを手渡してやる。渡しながら一瞬、指を絡めて。さりげなく膝と膝を触れあわせて。
「うそつき」
悪戯な声でチャーチは囁いた。
「狩人なんかじゃないんでしょ。やっぱり傭兵なんじゃない」
「いや。この仕事は副業……っていうか、『獲物』が見つかるまでの繋ぎ、っていうか……」
ゼナはワインを呷った。恐るべき勢いでアルコールが体を駆けめぐった。と思ったが、おそらく気のせいだと気付いた。饒舌なのも頭がふらふらするのも、やけに体が熱いのも、全部酒のせいなんかじゃない。
そこでゼナは寒気に震え上がった。喋りすぎだ。喋れば喋った分だけ、この美しいフィンチャーチを巻き込むことになる。
「獲物ぉ〜? 街の中で?」
「ああ」
低く押し殺した声でゼナは言った。
「奴らは人間の中にいる。ひょっとしたら――人間そのものかもしれない」
「……?」
すっかり酔いの醒めた顔で、ゼナは再びチャーチを見つめた。その、心地よい夜の寒気のような態度に、チャーチは小さく身震いする。彼女の小さな手が、ゼナの頬へと伸びる。
暮れゆく夕日。夜のとばりが疾風のように頭上を駆け抜け、街は夜へと装いを変えていく。昇り始めた月の光と、没していく日の光が、一纏めになってゼナの瞳に吸い込まれていく。
と、その時だった。
寂しくてリッタに逢いたくなったら、そのときはトイレの戸を叩くこと。
トイレは一人きりになれる個室であり、鍵も備わっていて、なおかつ急な生理的要求に困ることなく長時間立てこもることができる。お腹が空いても、食べ物を少しばかり膝の上に抱えていれば大丈夫。よって、リッタはいつもトイレの中にいる。
トイレというのは都市にとって非常に重要な設備である。考えてみるがいい。糞便処理システムがなければ、排泄物がどこに落ち着くことになるか……言うまでもなく、道ばたである。
異世界地球(アース)においては、これらの汚物が道路に10cm以上も積もり、都市は耐え難い悪臭に常に包まれていたという。香水などの香りの文化はそのために発達し、ハイヒールは汚物の上を歩くために発明された。貴婦人の大きなスカートは、人に見られずに道ばたで排泄するための衣服である。当然、伝染病はたびたび流行し、中世欧州における人口抑制に一役買っていたくらいだ。
幸いこの世界には、古代魔導帝国が整備した、素晴らしい上下水道があった。優れた魔法・機械文明を誇り、その力で世界征服を成し遂げた魔導帝国は、世界各地にその遺産を残していったのだ。その技術の多くは魔導帝国の滅亡と共に失われたが、当時の設備は、数百年経った今でも現役で使われている。
後生大事に食べ物をかかえて便座に座り、それでもリッタは不機嫌だった。遅い。あんまりにも遅い。
普段なら、とっくにそわそわして、リッタの名前を呼びながらウロウロし始めても良い頃だ。そして、迷うことなく(お互い慣れたものだからだ)トイレに直行し、木のドアをためらいがちに叩いて良い頃だ。もちろん、ゼナのことである。
あの寂しがりの小心者が、まだ謝りに来ない。
自分でも知らず知らずのうちに、リッタの顔に暗い影が差した。ひょっとして、何かあったのだろうか。自分がいない内に『獲物』が現れて……ことによると、やられてしまったとか――
ぶんぶんリッタは首を振り、必死に自分に言い聞かせた。
「いーもん! あんなヤツ知らんっ!」
その時、重い金属音が脳天を貫いて、リッタは思わず飛び上がった。続いて聞こえる足音。金属と金属が、あるいは金属と石が、けたたましくぶつかり合っている。鎧や剣を身につけた男たちが石畳の上を大勢で動く時、こんな音がする。それに混じって話し声や怒声も聞こえるが、物音に掻き消されて中身までは聞き取れない。
何かあったのかな、何か……
恐る恐る、リッタはトイレの戸を開いた。僅かな隙間から外の様子をうかがう。だがあたりはしんとして、妙な気配はない――
いや、違う。
人の気配がなさすぎる。
さっきまでは、広間に詰め込まれた傭兵たちの騒ぎが聞こえていたのだ。それが今では水を打ったように静まりかえり、笑い声一つ、怒鳴り声一つ、衣擦れの音一つ聞こえてこない。みんなして、どこかに移動したのだろうか? と言っても、一体どこへ……
と、その時だった。
爆発。
ゼナは弾かれたように立ち上がった。ワイングラスが屋根瓦に転がり落ちて、煌めきながら三つに砕ける。
「な……なに!?」
チャーチは腰が抜けて立ち上がれないようだった。意味もなくワインの瓶をしっかと抱きしめ、突然遠くの屋根を吹き飛ばした爆発に、小さく振るえ続けている。
あれは……傭兵達のいる広間だ。
驚愕。恐怖。そして混乱。全てをないまぜにして、すがるような視線をゼナに送れば、彼は額に冷や汗を浮かべ、自分の脇腹を抉るように押さえていた。その苦しげな脂汗は、まるで血の滴のよう。
「《悪意(ディズヴァード)》――」
岩の擦れるような声を、ゼナは挙げた。彼の体中を悪寒が駆けめぐる。
「いきなり大当たりか、くそっ! リッタがやばい!」
叫ぶなり、ゼナは身を屈めてチャーチの肩に手を置いた。その真剣な眼差しに貫かれ、チャーチはぴくりとも動けなくなる。
「いいか、夜が明けるまでここにいろ。絶対、下に降りちゃだめだ」
辛うじて瞬きした。
「夜が明けたらすぐ逃げろ。それから、今日ここで見たことは誰にも喋るな。ここにいたってこと自体もだ。特に教会にだけは知られるな。分かった?」
分からなかった。何が何だか。でも今は、大きな体でのし掛かるようにしてチャーチの肩を掴んでいる、この男だけが頼りだった。この男なら頼っていいかもしれない。そう思った瞬間、金縛りが解け、僅かに体を動かせるようになった。全力で首を縦に振る。
「よし……怖いだろうけど、頑張って。大丈夫だから」
優しく言うと、ゼナは自分の剣を引っ掴み、下の廊下へ飛び降りた。チャーチは這うようにして、屋根のすそから下を覗き込む。下ではゼナが、にこっ、と頼もしい笑みを浮かべて、軽く手を振っていた。
「今度、またお店行くよ」
そしてあとは、ただ一心不乱に駆けていくだけ。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、チャーチはまた、屋根の上へずりずりと這い登っていった。手に持っていたワインの瓶を直接呷る。そして小さく溜息を吐く。
「リッタ……リッタ、かあ」
足下に手頃な屋根瓦の破片があったので、それにやつあたりした。瓦の破片は、コロコロと不平不満の声を挙げながら、どこか見えないところへ飛んでいった。
「恋人かな……」
慣れているつもりだった。修羅場にも。
だがリッタは堪えきれず、石造りの床に胃の中身をぶちまけた。四つんばいになり、吐瀉物を見つめている方がずっとマシだった。そこにそびえ立つ、おぞましい塊を見ているよりは。
それはさながら活火山のようだった――そびえ、呻き、赤いものを滴らせている。死体ばかりではない。百の傭兵の成れの果てには、まだ息のある者もいる。彼らの蚊のような呼吸が重なり合って、山全体の不気味な蠢きとなる。
だがそれすらも、この臭いの前では子供だましのようだった。
むせ返るような死の臭い。血と、腐肉の。
何故だろうか? 死体の臭いを嗅いだとき、人が吐き気を催すのは。
気持ち悪いから――などではない。死のイメージを自分に重ね合わせ、猛烈なストレスを感じるから――でもない。
ただ、人は吐く。
なぜなら、脳が認識しているからだ。
『これは腐って食べられないな』――と。
「『常識』とは」
涼やかな声。
リッタは膝が笑うのを必死に抑えつけながら、なんとか立ち上がった。広間中に反響する声の主を捜して、リッタは油断なく視線を巡らせる。そして見つけた。広間の奥、椅子のような物の上に優雅に腰掛けた男の姿を。
剣のように睨みつけても、男は身じろぎすらしない。ただ、女のような脚線美をゆったりと組んだだけだ。長いまつげの下に伏せられた瞳は黒水晶のごとく煌めき、指先は獲物を求めるしなやかな蜘蛛の脚のよう。
「人が自ら決めるものでしかない。倫理しかり、禁忌しかり、正義しかり……
その根底にあるものは、『常識』や『正義』などというものが存在している、という信念……言わば『妄想』だ」
「あんた誰っ!?」
震える声でリッタは叫んだ。相手が一体何者であるのか、分からないリッタではなかった。魔族。それで充分。それ以上のことに興味があったわけではない。ただ、打ち払いたかった。
恐怖を。
体の震えを。
不可知という最も恐るべきものを。
そんなリッタを嘲笑うかのように、男の声は澄み渡る。
「――バロッツ」
男が……バロッツが立ち上がる。手に何かをぶら下げて。リッタは身構え、目を凝らした。あれはなんだ? バロッツの手に握られている、細長くて歪な物は……
「さあ、お嬢さん。『常識』も『倫理』も捨てて」
恭しくバロッツは手にしたそれを掲げた。王女に花を捧げるがごとく。
「ご一緒に――」
人の腕。
瞬時、震えが吹き飛んだ。
リッタは弾かれたように印を結び、可能な限りの早口で訳の分からぬことをまくし立てる。すなわち――法語の呪文を。
「《光の矢(アイ・ニー・ラキア)》!」
産み落とされた光の渦が一条の輝く矢となって、広間の暗闇を引き裂いた。光の矢がバロッツの胸を貫いた瞬間、目も開けられないほどの閃光が辺りを煌々と照らし出す。
生み出した膨大な量の光を矢と変えて敵を撃つ、攻撃の魔術である。リッタが全力で放った光の矢は、一撃で城壁すらも破壊する。それが直撃したのだ。たとえ相手が魔族といえど、これで命のあるわけがない。リッタはにやりと笑みを浮かべた。
きっと爆発の音を聞きつけて、ゼナも駆けつけてくるだろう。でもその時は笑ってやろう。どーだ参ったか! とか踏ん反り返って、後で肩でも揉ませてやろう。
「そーよ。役に立つじゃん、あたしだって――」
と呟いたその時。
リッタの側にあった死体の山が弾け飛んだ。
膨れあがる血と死の臭い、恐怖と殺意の雄叫びに、リッタの体が凍り付く。傭兵達の亡骸が、リッタ目がけて飛びかかってくる。
――《動く死体(アティス・コーグ)》!?
リッタは声にならない声で叫んだ。死体を操る暗黒の魔術。だがそれが分かったところで、リッタにはどうすることも出来なかった。二匹。三匹。群れを成して迫り来る死体ども。振り上げられた拳。折れた剣。それらを前にして為す術もなくその場にへたり込む。
「ぜ……」
最後の気力を振り絞り、
「ゼナァーッ!!」
ただ一言、悲鳴を挙げて――
そしてリッタは目を閉じた。
いつだってそう。
そろそろ付き合いも長い。いつだってそうだということは、もうすっかり分かっているのだ。
弱くて、情けなくて、浮気性で、甲斐性なしで、全然頼りにならなくて……
でも最後の最後というとき、これでもう終わりだっていうとき。
そんなとき、そんなときだけは、絶対あいつは――
弧を描く煌めき。
目を開いて最初に見えたのはそれだった。それが見えた瞬間、リッタの全身を鋼のように硬くしていた圧倒的な恐怖の全てが、朝日に融ける氷のように消えていった。肩の力が抜け落ちていく。汚れた床にへたり込んだまま、目の前に立つ男の背中を見上げる。
剣を手に肩で息する、汗でびしょぬれのゼナの背中を。
「うちのに手ェ出すなっ!」
ゼナの一喝に、辛うじて残った生への執着を吹き飛ばされたかのように、動く死体どもは崩れ落ちた。見ればその脇腹に、あるいは頭に、ゼナの鋭い剣で斬りつけられた傷跡がある。
来てくれた。
リッタは何も言えず、ただゼナの顔を見上げていた。
ちゃんと助けに来てくれた。
「ぜ……」
顔を赤らめて愛する彼の名を呼びかけたリッタに、ゼナは半目の視線を送り、
「ばか。」
むかっ。
百年の恋が冷めた。
「あほう。むこーみず! ちんちくりんっ!!」
「ち……ちんちくりんは生まれつきよっ! 何よあんたこそっ! もっと早く助けに来んかいっ! この……泣き虫のへたれのかいしょーなしっ!」
「あ、そーいうこと言うか? 危ないって分かり切ってる所に自分から突っ込んでったくせにっ! 一体何考えてんだよっ!」
「あたしだって、あんたの役に立ちたかったのよっ! 悪い!?」
「……が……」
ゼナは息を飲んだ。
掴みかかってくるリッタの目に、涙が浮かんでいたのだった。
こう迫られるとゼナは弱い。ここまで走ってきた時の汗が、一気に冷や汗に変身した。ぶるぶる震えながらゼナの服のすそを掴むリッタ。その涙と震えと小さな肩を見ているだけで、ゼナの心の中はざわつく罪悪感で一杯になる。
なるべく優しく彼女の肩を抱き、ゼナはおろおろと囁いた。
「い、いや、あの……ごめん、ちょっと言い過ぎた……俺はただ、お前が心……」
べちーんっ!
ゼナの必死な弁解を、リッタのビンタが吹き飛ばした。もうリッタの目に涙はない。ビンタした手で涙の残り滓をぬぐい取り、痛そうに頬を押さえてうずくまるゼナを、早口で焚きつけた。
「敵はあそこよっ! さあ戦うのだー!」
「お、お前なー……後で覚えてろっ」
と、広間に涼やかな笑い声が響き渡る。そこにあるのは心からの愉悦。嘲笑うでもなく、失笑するでもなく、ただ目の前にある物を楽しむ、朗らかな笑い声だった。それがかえってゼナたちの耳には不気味に響く。
この広間に入った瞬間から、ゼナは片時も注意を逸らしていない。一瞬でも気を緩めれば即座に殺されることは分かり切っていた。リッタと悪口合戦していようと、頬の痛みに涙を浮かべていようと、意識は常にそこにあった。
広間の奥に佇む、華奢な、しかし背後に無限とも思える漆黒の闇を背負った男。
バロッツを睨みながら、ゼナはゆっくりと立ち上がった。その手に、僅かに湾曲した片刃の剣を握りしめて。
「お前か。これをやったのは」
ゼナが顎をしゃくって死体の山を指すと、バロッツは静かに頷いた。
「素敵だね、実に仲が良さそうで――仲睦まじい二人……私は好きだよ」
「嫌いな奴はいないさ」
びくり、とリッタは肩を震わせた。バロッツを睨みつけるゼナ。その背中にすがりついていた自分の手を、そっと放す。手のひらを通して、焼け付くような感情が伝わってきたのだ。
怒り。
そして憤り。
「ここに積み上げられてる兄さんたちにも、多分そういう女とか……友達とかがいただろうぜ。あんたはその素敵なものを、一瞬でこれだけ奪ったんだ」
「そうでなくてはならない」
バロッツの顔に浮かぶ色は――恍惚。
「それでこそ、《悪意(ディズヴァード)》復活の生け贄に相応しい」
空気が、変わった。
リッタは敏感にそれを感じ取り、静かに一歩身を引いた。戦いはもう始まっている。ゼナが怒りを抑えることをやめた、この瞬間から。これ以上彼の側にいても足手まといになるだけだ。今リッタがすべきことは……
「リッタ」
敵を射抜く視線をぴくりとも動かさず、ゼナが囁いた。
「渡り廊下の屋根の上に、チャーチっていう女の子がいる。合流して逃げろ」
「うん……ゼナ」
「ん?」
「死んだらお仕置きだからね」
ゼナは笑った。
ゼナは思う。笑えるというのは幸せなことだ。命を賭けた戦いに臨みながら、それでも今、リッタは自分を笑わせてくれる。何でもいいのだ。言葉尻が面白いとか、見た目が愉快とか、ただなんとなく、楽しいのだとか。
何にせよ笑いというものは、湧き水のように滾々と、胸の奥から湧き出してくる。
そういうもののためなら、命を賭けるのも悪くない。
「じゃ、死んでも生きて帰らなきゃ」
その答えを聞くなり、リッタは弾かれたように駆け出した。今リッタに出来ることは一つ。一刻も早く戦場から離れ、ゼナの憂いを無くすことだけだ。果たして憂いは去り、そして……
後には静寂のみが残される。
破られると分かり切った静寂だった。一瞬だろうと永劫だろうと、そこに大して意味はない。意味を持つのは、機。ここしかない、今しかない、そう思える瞬間。
汗の石畳に滴る音が、しんと響く。
――来る。
柄を握る手が軋み、
――今!
瞬時、二人が同時に跳んだ。
とっぷり日が暮れた夜の景色を眺めていると、視界の端に不気味な何かのうごめきが映った。チャーチは思わず身をすくめ、屋根の嶺にすがりつく。はじめは飲み干してしまった酒の見せる幻覚かと思った。だが違う……宵闇の中で目を凝らし、よくよく観察してみれば、それは小さな白い指だった。屋根瓦の端に指をかけ、どうやら、上に登ろうと必死に藻掻いているらしい指。
おそるおそるチャーチは屋根の外に身を乗り出し、下を見下ろす。
顔を真っ赤にしてジタバタしている、リッタの姿がそこにあった。
一目見た瞬間、チャーチにはピンときた。何も言わず、手を差し伸べて彼女を引っ張り上げてやった。自分の身長の倍はあろうかという屋根の上まで登ってきたリッタはもちろん、チャーチもまたリッタを持ち上げるのに散々苦労して、二人はしばらく抱き合うようにしてぜいぜい息を吐いていた。
やがて呼吸も落ち着いて、まず真っ先にリッタがしたのは、チャーチの顔をじっと見つめることだった。
チャーチも負けじと見つめ返す。
そして二人が同時に思ったことは、
(こいつが……)
おおよそ、相手の素性は……殊に重要なゼナとの関係については、お互いに察していた二人だった。気まずい、と言えば気まずい。だが二人は互いに、相手が自分にない魅力を持った女であると見抜いてもいた。
(きれーな人……あの面食いっ)
(かわいい子……食べちゃいたい)
気まずさを通り越して、奇妙な仲間意識のようなものすら生まれてくる二人であった。声を掛けたいという衝動に駆られて、リッタは恐る恐る切り出した。
「チャーチさん……よね?」
「そういうあなたはリッタさん」
「ど、どぉも……初めまして」
「あ、うん……なんか、初めて会ったような気がしないけど」
リッタは全力で頷いた。考えることは一緒だったのだ。
「あたしたち、友達になれそう。そうしない?」
「いいわよ。後で彼、二人していびってやろ」
「それ名案」
二人はカラカラと笑った。
しかし、いつまでも笑っていられる状況ではなかった。リッタはチャーチの手を引き立ち上がらせると、
「さあ、チャーチさん。一緒に逃げよう。ここにいるとゼナの戦いの邪魔になる」
だがチャーチは首を横に振った。
「その前に聞かせて。何が起こってるの?」
鋭く見つめるチャーチの眼光には、声なき言葉が込められていた。ゼナはああいう性格だから言葉を濁したけど、同じ女のあなたなら教えてくれるよね、と。リッタは唇を小さく結んで困り顔を浮かべた。教えれば彼女を少なからず危険に巻き込むことはよく分かっていた。だが、事情も分からないまま、手を引かれるままただ逃げる、なんてことが、女にとって……いや、人にとって耐えられないものであることも、よく分かっていた。
やむなくリッタは頷き、なるべく簡潔に伝える手段を探りながら、口を開いた。
「大魔導帝国って知ってる?」
いきなり出てきた突拍子もない名前に、チャーチは目を瞬かせる。
「かつてこの世界を数千年に渡って支配し続けた巨大帝国……その支配種族だった魔族は、700年前、教会が召喚した天使の軍勢に殲滅されたと言われてるわ。
……でも本当は違う。魔族は今でも生き続けている。人間社会に溶け込んで……ある儀式のために、密かに活動を続けている……」
「儀式?」
リッタは唇を噛みしめ、犬歯で僅かに傷を付けた。口許から流れ落ちる血に驚いて、チャーチがリッタの頬に手を伸ばす。だがこうしなければならないのだ。傷は太陽。痛みは星。精神世界という混沌の海を旅するために、欠かすことのできない道しるべ。
体に傷を作り、その傷の疼きを感じ続けることが、絶対に必要だった。言い換えれば、自分自身を識り続けるということが。
ゼナのように、魔法的な勘が皆無に等しい人間なら、どうということはないだろう。
しかしリッタのように、魔術を得意とするものにとっては、致命的な精神の傷となりうるのである。
『彼の者』の名を口に出すことは。
意識を囚われないように。『彼の者』の内へと溶け込んでしまわないように。唇から滴る血の温もりに、自分の歯が刻んだ傷の痛みに、意識の全てを集中しながら、ようやくリッタはかすれた声でその名を喚んだ。
「魔神《悪意(ディズヴァード)》の復活――」
ぞわり。
ただ一言、リッタが唱えたたった一言の名前が、辺りの空気を凍り付かせたような気がした。背筋を駆けめぐる寒気に震え、チャーチは僅かに身をよじる。
「でも、それを阻止しようとする人たちもいる。《あのおかた》の命を受け、魔神復活を止めるため、魔族たちを狩り続ける者……それがあたしたち」
彼女を安心させようと、リッタは柔らかく笑みを浮かべた。安堵とは言えない。だが、信頼とは言える。そういう力ある笑みを。
「『狩人』なのよ」
と。
遠くの屋根が夜空に吹き飛んだ。二人は弾かれたようにそちらに目を向ける。広間の屋根だ。最初の爆発に耐えて僅かに残った屋根瓦が、跡形もなく消し飛んで、無惨な破片を周囲に撒き散らしている。
「ゼナ!」
思わず叫んだリッタの目に、放物線を描きながらこちらへ跳んでくる黒い影が映った。
黒い影はそのまま為す術もなく、リッタたちからそう遠くない屋根の上へと落ちていった。嫌な予感がリッタの中を駆けめぐる。チャーチの手を引くことも忘れ、リッタはそちらへ駆けていった。
屋根から屋根へ二度飛び移り、彼女の目に飛び込んできたのは、衝撃で崩れかけた屋根の中に埋まるようにして、ぴくりとも動かず倒れているゼナの姿だった。リッタは息を飲んだ。愛用の剣は彼の側に寄り添うように転がり、本来その柄を握っているはずの右腕は、肩口から大きく抉られ、半分とれかかっている……
「ゼナっ!」
彼の側に跪いて再び呼べば、果たして呻き声が帰ってきた。よかった、生きてはいる。リッタはほっと胸を撫で下ろす。生きてさえいればなんとかなる。腕の一本や二本、どうとでもなるのだ。
一方、遅れて駆けつけたチャーチの目に飛び込んできたのは、ナイフでゼナの右腕を切り取ろうとしているリッタの姿だった。悲鳴を挙げて、その肩に掴みかかる。
「ちょっと! 何してるのっ!」
「腕がとれかかってる。このまま動いたら傷口が開くばかりよ。いったん切断して、あとで縫い直すわ」
冷静に……医者の声で言うリッタに、チャーチは言葉を失った。切断して、縫い直す? 何を言っているんだか理解できなかった。取れた腕を縫い直す、だなんて。お裁縫じゃあるまいし。
「う……」
と、ゼナが呻きながら目を開いた。そばにリッタとチャーチの顔があるのに気付くと、目を丸くする。そして思い出したかのように、悲鳴を挙げて右肩の傷口に手を当てた。
「いてて……リッタ、チャーチ」
血まみれの左手で二人を順に抱き寄せ、ゼナは真摯な目で二人を見つめた。その目の輝きにチャーチは思わずどきりとする。昨夜の交わりの中にも、二人並んで杯を傾ける中にも、ついぞ見えなかった男の目。
静かで、熱く……そして刃のように研ぎ澄まされた、戦いに臨む男の目だった。
その目を二人にじっと向け、ゼナは自信たっぷりにこう言った。
「逃げよう! 地の果てまで!」
思わずチャーチはすっ転んだ。
屋根の上に転がったまま動きもしないチャーチに代わって、リッタが切り取ったばかりのゼナの右腕で、彼の頭をひっぱたいた。自分の手に頭をはたかれる機会など、そうあるものではない。
「いでぇ! 何すんだよ!」
「やかましー! この状況でよくそーいう冗談が出てくるわねっ!」
「冗談じゃないって! 相手はものすんごい化け物なんだぞっ! 俺もーやだ! 帰る!」
「化け物の相手はいつものことでしょ!? 泣き言言ってないで頑張んなさいっ!」
「いや今回はほんと、いつもと違うんだって! 見れば分かる、ほんとに化け……」
そのとき。
夜空の下に広がる屋根の野原をぶち破り、それが姿を現した。
『分かち合おう――内から湧き出る悪意(よろこび)を――』
黒い、黒い影。足下から沸き上がるように、天空へと徐々に膨れあがっていく。どこまでもどこまでも、果てしなく膨らんでいく。人の背丈の五倍はあろうかというところまできて、ようやく勢いは弱まりはじめ、七倍のところで辛うじて止まった。
『委ねよう――谷底へと堕ちるように――』
こちらに向けた側は、背中……だろうか? 歪んだ縦の線に沿って、ゴツゴツした塊が体の内側に並んでいるのが見える。恐らくあれが背骨。だがその周囲からは、柔らかな細いものが無数に生え並び、何かを求めるように……何かを抱きしめようとしているかのように、絶えず戦慄き続けている。
すなわち、無数の人の手と足が。
『捧げよう――心と体、己の全て――』
今となっては、その巨大な『何か』が、広間にいた傭兵たちの肉の成れの果てであることは、疑う余地もなかった。『何か』が、脚のようなものを動かして、地響きを立てながらゆっくりと振り返る。
『《悪意》こそ』
やがて誰の目にも明らかとなった。その『何か』の、言わば頭にあたる部分に、腰まで埋め込まれた男の体。
『人の心の行き着く先だ!』
――バロッツ。
「ばけ……」
「もの……」
「だろ? な?」
得意気にゼナはにやついた。
あまりのことに、チャーチは声も出なかった。その場にへたりこまなかっただけ……逃げようという意志を放棄しなかっただけ、常人よりも遥かに気丈だったと言えよう。ともかく今はその意志の強さが救いだった。ゼナは手早く自分の剣を拾い上げ、それをチャーチに握らせる。
「しっかり握ってて! チャーチ!」
「あ……」
放心状態ながらも、チャーチは無意識に、渡されるままに剣の柄を握りしめた。これでいい。ゼナは空いた左腕を彼女の腰に回した。リッタは何も言わずとも、彼の意図を悟っている。後生大事にゼナの右腕を抱え、同時に、彼の腰に抱きついた。
『探したぞ、狩人どの。こんなところまで吹き飛んでいたのか……』
バロッツのくぐもった声に応える余裕はなかった。ゼナの意識が両足に集中する。己の体を操ることは、思いの外難しい。まして体に不自然な細工がしてあればなおさらだ。逃げ出したい。戦いたくない。むくむくと頭をもたげる臆病な心を押し殺し、ゼナは瞳を光らせる。
バロッツが振り上げた巨大な拳。助かる道は、そこにしかない。
『死ね! 狩人!』
瞬間、
「行けェっ!」
音が弾けた。
一瞬遅れて屋根瓦が砕け散る。バロッツはそれを見た瞬間、思わず振り下ろしかけた拳を止めた。ない。瞬き一つする前までそこにいたゼナたち三人の姿が、赤い瓦屋根の上から忽然と消え失せている。後に残ったのは、まるで馬に踏み割られたかのような瓦の破片のみ。
バロッツの耳元を過ぎる風音。
弾かれたようにバロッツは振り返った。背後の屋根の上を跳ぶ黒い影が一つ。女二人を抱えたゼナである。まるで弩から解き放たれた太矢のごとく、屋根から屋根へと飛び移り、見る間にその姿はシュヴェーアの城壁の向こうへと消えていく。
『大した逃げ足の速さだ……』
誰にともなくバロッツは呟いた。ただそれだけで、夜が震える。
『だが逃がしはしない。我らの悲願を阻む者は……』
「きゃああああああ!?」
初めての経験にチャーチは今度こそ悲鳴を挙げた。無理もない、さっきの化け物に比べればよほど身近な恐怖だっただろう。馬が駆けるよりも早く、屋根から屋根へ、城壁から城壁へ、次々に飛び移っていく。速さ。高さ。頭が知らずとも、体は恐怖を知っている。
ゼナは苦笑しながら、きゅっ、と彼女の腰を抱く腕に力を込めた。支えがあると気付いて、少しは安心したものだろうか。チャーチの悲鳴は徐々に衰えていき、やがて潰えた。
ともかく少しでも距離を取りたいところだが、ゼナの脚は限界に近づきつつあった。最後に一足、一際高く大きく跳躍し、シュヴェーアで最も高い城壁の上に着地すると、そのままゼナは倒れ込んだ。
「つつつ……も、もうだめだ」
「大丈夫よ。これだけ離れれば……」
リッタは彼の体の下から這い出すと、素早く懐から七つ道具を取り出した。包帯、軟膏、糸と針、その他諸々。慣れた手つきでそれらを床に整理しながら、その傍らに右腕をそっと置いた。
右腕。
それを見た瞬間、茫然とするばかりだったチャーチの心に、ぞっとする冷たい感覚が蘇った。右腕。リッタが切り取った、ゼナの右腕。はっとした。自分の手の中に握られている、剣の柄に気が付いて。思わずチャーチは剣を投げ捨てる。
乾いた音と、小さな火花を散らしながら、剣は石の上に転がった。
「丁寧に扱ってくれよ、これでも銘入りの業物なんだぜ。弧雷刀っていって……」
また得意気に剣の自慢を始めたゼナは、チャーチの青い唇に気付いて、はっと口をつぐんだ。ゼナの脚と格闘していたリッタが、小さく「ばか」と呟く。ばかばか言うな、とゼナは思う。一応自覚はしてるのだから。
「なんなの……」
チャーチがぽつりと言うと、ゼナは微笑みを作った。
「死体から摘出した筋繊維を、脚に埋め込んでおいたんだ。筋繊維っていうのは、バネみたいなもんでね。それを一気に伸ばせば、さっきみたいに飛び跳ねることができる。ただ欠点は……いでー!」
思わずゼナは悲鳴を挙げた。リッタがすそをまくり上げ、脚の傷を露わにしたのだった。思った通り、脚にはいくつもの裂傷が走り、血は滴となってしたたり落ちている。
「つ、使う度に肉が弾けちゃうことなんだよなあ! いたいよー!」
「我慢しなさい! 男の子でしょ」
「ずるいぞ! 男だって痛いのは痛いっ!」
「やせ我慢が男の美学っ」
「言うのは簡単なんだよな……」
リッタはこう見えて、医師として充分以上の心得を持っている。こうしてお互い文句を垂れ合うのも必要なことだと、よく知り抜いていた。沈黙は毒だ。何気ない会話が痛みから意識を逸らさせる。もちろん、話しながらもリッタの手が淀むことはない。軟膏を塗る指は素早く、糸と針は生き物のように傷口を縫い合わせていく。
嘘のようにぴたりと血は止まり、続いてリッタは右腕に取りかかった。切り取った腕を肩口に添え、数カ所仮縫いをして止めていく。
「腕、まだいけるかな?」
「どうかしら……そろそろ限界かもよ。半年になるでしょ?」
「どっかそのへんに新鮮な死体でもありゃあなあ……」
「死体……?」
チャーチの声はかすれていた。ゼナは苦笑した。慣れたものだ、こういう反応は。
「化け物みたい……か?」
チャーチは絶句した。
「そうだよ。俺は一度死にかけた……いや、一回俺は死んだんだ。奴ら魔族に殺されてね。
でもその時、寂しんぼの性悪『魔女』に命を救われて……気が付けば、生きてるんだか死んでるんだか分からないこんな体さ。失った体の部品を、死体から取った部品で補う化け物。もう、元の体なんてほとんど残っちゃいないんだ」
「不死身……?」
ゼナはからからと笑った。そして大げさに首を横に振る。
「まさか! 死ぬときゃ死ぬよ、多分ね。
でも、不死身だったらいいなあ……卑屈にならなくて済むもんなあ」
「……逃げなさい!」
凛と。
チャーチの声は、夜の空を両断した。遠くでお城のかがり火がチラチラ燃えている。兵士達が鎧を鳴らしながら駆けていくのが聞こえる。月はいつも空にある。フクロウが寂しげに泣いた。でもその全てが、三人の周りから消え失せた。
そうさせるだけの何かが、堂々とした彼女の声の中にあった。
「逃げなさい。そんなになってまで、戦うことなんてない」
「……そうかな」
「そうよ。初めて会った時から思ってた。あなた、戦いなんて向いてないわ。傭兵だって似合わない。まして復讐なんて、しても仕方がないことよ」
「復讐じゃないよ」
ゼナの声は落ち着いていた。
嬉しかった。戦うな、逃げろ、と言ってくれたことが。チャーチは優しい、すばらしい女性だった。彼の燃えるような恋心は、きっと正しい感覚だったのだ。そう、だから……
「『竜殺しの英雄』みたいに鉄板を振り回して戦うなんて、俺にはできっこない。『天使』みたいに、人並み外れた魔力を持って生まれたわけでもない。まして『不死身』なんて夢幻(ゆめまぼろし)さ。
俺にできることって言えばせいぜい、あり合わせの部品をつぎはぎ(パッチワーク)して、なんとか乗り切っていくことだけなんだ」
「なら!」
「だから」
いつまでも逃げ隠れしてはいられない。
「この化け物みたいな体を、他人(ひと)のために使えた時は……こんな体になってよかったって、そう思えるんだ」
静寂が響いた。チャーチの胸に。
自分でもなぜそうしたのか分からない。ただ、気丈なチャーチは跪き、リッタに針と糸を貸すように促した。
「わたしがやる。お裁縫は得意なの」
小さい、小さい。
バロッツは笑いながら3人踏み潰した。潰れた兵士たちの体が、足の裏から体内に吸収されているのが分かる。さぞかし足下を取り巻く兵士たちは、恐怖に駆られていることだろう。恐怖、それも素晴らしい。人を悪意に駆り立てる、最も単純で、そして効果的なものだ。
自分の屋敷を踏み潰し、堅牢を誇るシュヴェーアの城壁をたたき割り、射掛けられた太矢を吹き散らし、集まった無力な兵たちを薙ぎ払って、バロッツは笑い続けた。悪意が膨らんでいく。人々の怨嗟の声が聞こえてくる。化け物め。殺せ。よくも!
その全てが、《悪意》への供物とされていることも知らず。
『所詮は神々の糧に過ぎんよ、人間など……』
その時、ちくり、とお尻が痛んだ。バロッツは興を削がれ、不機嫌に振り返った。魔術師の一団が建物の屋根の上に登り、そこから《火の矢》を撃ってきたのだった。くだらない。人間の魔術などこの程度のものだ。バロッツは《悪意》の信徒ゆえに、己の中に膨れあがった殺意を抑えようとはしなかった。
殺したくなれば、
『死ね』
叩き潰す。
ただ、それだけ。
なんたる心の自由。なんたる精神の解放。くだらぬ常識、くだらぬ倫理、くだらぬ縄に縛られて、人はなんと不自由に生きていることか。この不自由な世界を滅ぼし、新たなる自由の世界を築くため、魔族の悲願たる大魔導帝国復興のため、そして何より己自身の欲望のため、バロッツは所構わず暴れ回った。
だが一つ、心にちくりと刺さる棘がある。
気がかりなものはただ一つ。
『《あのおかた》のしもべども……』
狩人。
火の海と化したシュヴェーアの街の真ん中で、バロッツは咆哮した。
『出てこい、狩人! さもなくば……この街は一夜の内に焦土と化すであろう!』
治療を終えたリッタは、城壁の上に飛びつくようにして、街の惨状を凝視した。あちこちで上がる火の手。怒声と悲鳴。雨のように降り注いでは、虚しく虚空に散っていく矢と魔法。陽炎の中揺らめく黒い影……バロッツ。
美しさで知られた城塞都市の姿は、もはやそこにはない。自慢の城壁も、二割以上が瓦礫と化していた。
「酷い……滅茶苦茶やってる!」
「もうこの街に潜む気はないみたいだな。殺せるだけ殺して生け贄にするつもりだ」
苦々しげに言ったゼナの側で、チャーチが小さく悲鳴を挙げた。見れば、彼女の器用な指先によって縫いつけられたばかりの右腕が、見る間に腐り、白骨化していく。やがては辛うじて肩にひっかかっていた骨も、風に吹かれて転がり落ちた。
「ど、どうして……」
「限界だったんだ。魔法で腐りにくくはしてたけど、死体は死体だからな……」
「どうするの? 左手だけじゃ剣は……」
リッタに問われると、ゼナは脚の痛みを堪えて立ち上がった。今はとにかく、じっとしていられない。なんとか右腕を手に入れて、あの化け物を倒さなければ……遠からず、シュヴェーアの街は壊滅する。
「今なら、奴に殺された兵士の死体とかがあるだろ。なんとか右腕を調達する」
「ないわよ! 死体を吸収して膨らんでいく奴なのよ。殺した兵士をそのままにしとくわけないじゃない!」
「いやあ、意外にけっこーあるかもよ? 分かんないけど」
「『意外にけっこー』に命賭けるなぁっ! ここは一旦逃げて、体勢を立て直す……」
「ダメだ。それじゃ街中皆殺しにされる」
「んもー! さっき逃げよう地の果てまでって言ってたのはどこの誰よっ! 腕がなきゃどうにも……」
「腕があればいいのね?」
痛みはほとんどないという。かつてお客として相手した、腕のない傭兵から聞いたことがある。
弾かれたように振り返ったゼナとリッタは、震えもせずそこに立った女の姿に、思わず見とれてしまった。なんたる美しさだろうか。決意を胸に秘め、迷い一つない瞳で、じっと自分の手の内にある刃の煌めきを見つめている。
ゼナの剣……銘剣「弧雷刀」の曇り一つ無い刃を。
痛みはほとんどないという。充分に研ぎ澄まされた名剣でありさえすれば。
たとえ腕を切り落とされても。
「わたしをあげる。だから街を守って」
制止する暇さえ二人には与えず、チャーチはひと思いに刃を滑らせた。
『滅びよ、滅びよ、滅びよ――』
謡うようにバロッツは言う。
『滅びよ、細々のもの。滅びよ、鬱陶しきもの』
その腕が城壁を砕く。その脚が命を蹴散らす。多くの輝き、無数の煌めき、それらは闇夜に融けるように、儚く脆く消えていく。圧倒的な《悪意》にねじ伏せられて。
『滅びよ――我が意に沿わぬもの、全て――!』
しかし。
「それであんたはどうする気だ? 荒野の中に一人っきりで生きるつもりか!?」
それを妨げる一つの声があった。
「憎み続け、殺し続け、周りに何もなくなっても、まだ虚空を相手に憎み続ける! それがお前の望みか!」
バロッツは振り返った。足下を見下ろした。砕けた石畳の上に、屹立する一つの影。手にした剣の煌めきも、額に浮かぶ恐怖の汗も、全てが目映く輝いている。
ゼナ。
バロッツは眼を細めた。眩しそうに、そして憎々しげに。
『それもいい――それも悪くは――』
「《悪意》に取り憑かれたな、バロッツ」
僅かにバロッツは眉を動かした。
「確かに《悪意》は力を与えてくれる。でもな……《悪意》に取り憑かれた心じゃ、何も創れやしないんだ!」
『……ゴチャゴチャと』
震えが、
『小うるさい蟲がァーッ!!』
地を裂く!
だがバロッツの拳が石畳を打ち割った瞬間、すでにゼナは宙にいる。筋繊維の全てを解き放つ。家の壁、バロッツの頭、足場になりうるあらゆるものを、力強く蹴りつけながら、ゼナは矢のように飛び回る。そのたび脚が破裂していく。だがこの程度の痛みなど、とうに遠くへ消え失せた。
思いやれば。
美しいチャーチを気絶させた、この腕の痛みを思いやれば。
――脚の僅かな痛みなど!
「おおおおおッ!」
飛び降りざまに、バロッツの巨大な背に刃を叩き込む。よろめくバロッツ。その腕が破城槌さながらに振り回される。だが視認すらせず振り回しただけの拳を喰らうほどゼナも馬鹿ではない。バロッツの背を蹴り、地面へと急降下して回避する。
それが敵の策と気付いたのは、頭上の影を見てからだった。
バロッツの巨大な足。ゼナを踏み潰そうと、蠢く奇っ怪な足の裏が迫ってくる。反射的にゼナは地を蹴った。半ば転がるように、辛うじて足の一撃を避け、なんとか体勢を立て直す。
目の前には、石畳を叩き割り、その下の地面にまでめり込んだバロッツの足。
思うが早いか、ゼナは飛び込み剣を振るう。
研ぎ澄まされた銀の刃がその関節に食い込んだ。途端に響く獣の叫び。痛みに狂ったかの如くバロッツは足を振り回し、噛みついた蟲のごときゼナを振り払った。ただそれだけでゼナの体は人形のように宙を舞う。やがて崩れた瓦礫の中に落下すると、土煙の中にその姿は埋没した。
『お、おのれ……貴様ぁ……!』
バロッツの叫びが夜の街を震わせた。痛み。猛烈な痛みが、背中の傷から、足の傷から、バロッツの体を蝕んでいく。ただの刀傷ではない。傷口がどす黒く変色し、徐々に徐々に周囲の肉を侵食していく。
『魔剣か!? その剣……いや、この力は……!』
並大抵の攻撃など、ものともしないはずのバロッツの体。それをあっさりと、こうもあっさりと傷つける。
傷口から死が食い込んでくる。
『この力はまさか……《あのおかた》の!?』
「そうさ……」
か細い声と共に、瓦礫の一角が音を立てて崩れた。剣を杖代わりに突きながら、ようやくその場に身を起こしたのは、紛れもない。
「俺の名は死の騎士(パッチワーク・ナイト)……剣も力も借り物だ!」
バロッツの叫びは嘆きに代わった。誰も傷つけられるはずがない、誰にも殺されるはずがない、彼はそう思いこんでいた。《悪意》の力に守られた自分を、殺せる者などいるはずがない。無責任にも、己を守る魔力に頼り切っていた。
だが今、初めて彼は立ったのだ。生と死の境。戦いの場に。
『嫌だ……死にたくない……死ぬわけには……』
「そうだろ……誰だってそうさ。死にたくない。生きていたい。幸せになりたい。みんながそう願ってる。
だがあんたはそれを思いやれなかった。あんたはそれを踏みにじった」
死を撒くゼナの剣が。
「覚悟はできたか! 魔族バロッツ!!」
真っ直ぐバロッツの心臓を捉えた。
『笑わせるな……お前が死ねばそれで済むことっ!』
怒りに任せたバロッツの拳がゼナの頭上に振り下ろされる。ゼナは地を蹴り駆け出した。たった二足で飛び込んだ先は、さっき斬りつけたバロッツの足。でかぶつ相手に力負けするのは分かり切っている。まず足を殺すのが先決。
飛び込みの速度を刃に載せて、ゼナは剣を――
叩き込もうとした、瞬間。
バロッツの足が内から弾け、無数の触手が姿を現す。肉の塊は剣を持つゼナの腕を絡め取り、そのまま彼の体を高々と宙に振り上げた。そして手近な城壁に、ゼナの背中を叩きつける。
鉄の棒で殴られたかのような衝撃が、ゼナの体を駆けめぐった。
『同じ手を食うと思うのかァ……狩人……』
触手によって剣を持つ腕を塞がれ、城壁に縫いつけられたかのようにぶら下がるゼナに、巨大な怪物は一歩一歩歩み寄った。バロッツの心を過ぎるのは愉悦。死など所詮は縁遠いもの。魔族は永久に生き、永久に栄えるもの。
勝利と生存という二つの快楽に駆られ、バロッツは敗者を、ゼナの顔を間近に見つめようと、ゆっくり頭を彼に近づけていった。
『偉そうなことを言っていたが……ダメだったねぇ、ゼナくん……』
「そうかな……?」
呻くように、最後の力を振り絞り、ゼナは囁いた。
「見えないか……? あんたが押さえてるの……」
言われてバロッツは、視線を上へと持ち上げる。
「左腕だよ……」
瞬間。
バロッツを、喩えようのない恐怖が貫いた。
左腕。そう、ゼナは右手で剣を握っていた。なのになぜ今、剣はそこにある? 左腕の先に。バロッツの触手が押さえつけた、ゼナの左腕の先に。
それにバロッツが気付いたときにはもう遅い。
ゼナの右手が奔り、ナイフで左肩を切断する!
『な!』
自由になったゼナの体と。
左の手のひらから零れた剣が。
同時に虚空へ解き放たれた。
『しまっ……!?』
空中で剣を引っ掴み、ゼナは城壁を蹴りつける。
矢のように。弾丸のように。ゼナの体は飛び上がり、一直線に肉薄した。
恐怖に歪んだバロッツの頭へ。
「おおおぉぉぉぉおああああッ!!」
閃光。
確かに奔った。そう思える閃光を最後に――
バロッツの歪んだ肉体は、地響きと共に石畳に沈んだ。
「こんじょーなし。」
冷たい視線で、リッタはゼナを見つめた。
全く、道行く人々のいい物笑いの種である。いい年した男が、とある娼館の前でしゃがみ込み、樽にしがみついて離れないのである。リッタがいくら襟首を引っ張っても、ゼナは頑としてその場を動こうとしない。
「そ、そんなこと言ってもさあ……俺のせいで、チャーチは腕を無くしちゃったんだぞ。どの面下げて会いに行けるんだよ……」
「あの人が、ンなことでウダウダ言うような人ぉ? もうこの街出るんでしょ! 最後にお別れくらいしてきなさいよっ!」
「ンなことって、お前軽く言うけど、腕だぞ腕! やっぱ並大抵のことじゃないって! ……あーだめだ。いたたまれない。帰ろう」
――やっぱり他にもっといい男探そう。
あまりの情けなさに、腕組みして真剣に検討するリッタであった。
だがもし運命の神というものがいるのなら、そいつは実に気が利いた奴だと言えるだろう。なぜならこの時、チャーチは娼館の女将の言いつけで買い出しに出かけており、なおかつ今、その仕事を終えて丁度帰ってきたところだったからである。
そういうわけなので、娼館の前でチャーチがゼナたちと出くわしたのは、偶然にして全くの幸運……ゼナにとっては最悪の不運であった。
「あ、ゼナ! ……何してるの?」
買い物かごを左腕にぶら下げたチャーチは、樽と抱き合うゼナを見下ろし、不思議そうに小首を傾げた。途端にゼナが飛び上がる。よせばいいものを、服の埃なんぞ払い落とし、貴公子か何かを気取って白い歯を覗かせると、
「いや、実に芸術的な樽だったものでね」
「わたしと会うのが気まずかったんでしょ?」
ハナから、このチャーチを相手に隠し事などできた例のないゼナであった。
仕事部屋に招き入れられたゼナは、粗末なベッドの上に腰を下ろし、小さく身を強ばらせていた。目の前では、チャーチが手際よくもてなしの準備を進めている。二つ並べられたグラス。安物ではあるが酔うには充分な、真っ赤に輝くワイン。
目に痛いのは、その全てが左腕一本で扱われていたことだった。
「ありがとう、ゼナ」
涼やかな彼女の声は、ゼナの心の中を覗き込んでいるかのように、静かに……しかし奥底まで響いてきた。
「あなたがいなかったら、今ごろどうなってたか……」
「いや……俺がもっとしっかりしてたら」
まるで痛みでもするかのように、ゼナは目を固く閉じながら、右腕をそっとさすった。ついこの間までは、チャーチのものであった右腕。戦うにはあまりに細い。だが器用で、柔らかで、そして美しい、チャーチの腕。
「そんなこと言わないで」
声は、耳元で聞こえた。
いつの間にか、チャーチは音もなくベッドに腰掛けていた。継ぎ接ぎだらけのゼナの体に、自分の柔らかな曲線を押しつけるかのように。二人の間に隙間はなかった。線という線がぴたりと重なり、二人合わせて一つのものとなる。ただそれだけで、歓びがゼナの体を駆ける。
「腕一本くらい、なくたって……わたし、平気よ。一流の娼婦には、そんなこと関係ないの。だってわたしの武器は他にもいっぱいあるもの。足も、胸も、肌も、唇も、声も、視線も、なんだって――」
その言葉に嘘はなかった。嘘がないということは、誰よりゼナが知っていた。彼女の武器に貫かれていたから。為す術もなく、融かされていたから。
その時彼に思えたことは、たった一つしかなかった。このベッド。今腰掛けているこのベッド。粗末ではある。埃っぽくもある。染みも、そして臭いもある。
だがしかし……愛を交わすには充分だ。
「そうかな……」
わざと疑いの声を挙げたゼナの唇に、チャーチは吐息を吹きかけた。
「証明してあげる」
そして二人はもつれ合う。
チャーチの言葉が真実であると、疑いようもなく証明されたのは、それからほどなくのことだった。
(終)