ネクロマンサー
−独−1
『お嘆きなさいますな、我が君』
ネクロマンサーは氷の視線を以て炎の犬を射抜いた。草原の街道を往くエンレイは、主の光なき刃にはひるみもせぬ。エンレイは呼気を漏らした。唾を吐けるならば唾を吐いたであろう。街道沿いの花が身を縮こまらせて炎の呼気を忍んだ。
『恐れながら、君、あなたさまは今やみどり児のごとくあらせられます』
「黙りおれ」
『黙りませぬ。お諫めすべきはお諫めいたすが臣道にありますれば。君をお慕い申し上げ、また君と道行きを共にいたさんとする者は夜の星のごとございます。それを御自ら切り捨て、避け給うて、なお孤独を嘆き給うとは如何なる所存にあらせられるか』
「控えよ! 汝は余の苦しみの如何ばかりかを知らぬ!」
『知り申さぬ!』
エンレイの声は千里先まで届かんばかりであった。空が震え、地が凍えた。彼の主たるネクロマンサーさえもがその声に足を止め、恐れの目を犬に向けた。その瞳はいまや暗く澱んだ雲に覆われ、奥に輝く日輪の光は僅か一条すらも漏れ出なかった。
『君の御心は君のみぞ知るものにございます。臣にはその一欠片さえ窺い知る事は能いませぬ。また、幼稚極まる君の御心など知りとうもありませぬ』
ネクロマンサーは刃を抜き放った。白銀の片手半剣がエンレイののど元につきつけられた。赤い犬の毛が数本地に舞い落ちた。エンレイは身動きひとつしなかった。ただ主の目を見据え、口を固く結んでいた。
「暴言じゃ」
ネクロマンサーの声は震えていた。
「暴言じゃ! そちは何故余を斯様に辱めるか!」
『臣は真のことを申したまで』
エンレイの毛が一本一本燃え上がった。犬は炎の狼へと姿を変え、怒りの火を噴きながら、
『お暇をいただきまする。長らくお世話になり申した』
「おお、往ぬがよい、往ぬがよい! 切って捨てるべき所を捨て置くは余の慈悲と知るがよい!」
炎は天へと昇り、熱気へと姿を変えて、昼の草原に融け消えた。ネクロマンサーはしばしその天を見つめ続けていた。やがて地に膝をつき、剣を腕に抱え、崩れ落ちた。草原は静かに喪に伏し、風は威光を失ったネクロマンサーの背を撫でて過ぎた。
「おお」
それは嗚咽であったのか。
「剣よ。余の供は遂にそなたのみになってしもうた」
ネクロマンサーは剣を見た。そして目を見開いた。白銀の輝きを放っていた刃は、今や黒く濁り、幾重にも錆を浮かせて、醜く脆く朽ち果てていた。驚き、ネクロマンサーは剣を投げ捨てた。手にこびりついた赤さびが、さながら血のようであった。
「おお」
魂の抜けた剣の前に跪き、ネクロマンサーはいつまでも声を漏らしていた。
それは嗚咽であったのか。
2
ネクロマンサーが山間の人里にたどり着いたのは、それから二月を経た宵のことであった。その傍らに赤い大犬の姿はない。ぬけがらとでも言うべき錆びた剣のみが、ネクロマンサーの腰にただぶらさがっている。
折しも里は祭のさなかであった。夏祭りは宵口に始まり、人々は炎を囲んで舞い、魔皇を讃え豊作を祈る祭文を村一番の年寄りが読み上げた。本来質素たるべき祭ではあったが、昨年は気候よくたわわに作物の実る年だったので、秋を前にしたこの時期にあっても、食い物と酒はたんまりためこんであった。人々はよく食い、よく歌い、よく舞い、そしてよく酔いしれた。
ネクロマンサーは村はずれのあばら屋を宿にさだめ、剣を月影のあたる場所に立てかけ、自分は外の叢に寝ころんだ。あの日より二月、月光の剣に力を喚び戻さんと、毎夜こうして剣を月影に曝していたのだった。
効果が有るや否やは知れない。ただ、依るべきものをなくしたネクロマンサーは、他に為す術を知らなかった。
ネクロマンサーの耳に、祭の喧噪が届いた。あるときは笑い声であった。あるときは怒声であった。あるときは泣き声であった。わけのわからぬ奇声であることもあった。ネクロマンサーは膝を曲げ、草の寝床にみどり児のごとくまるまり、両の手のひらで耳を塞いだ。
「聞きとうない」
か細い声は、夜に呑まれて消えた。いま使っている肉体が女のものであったから、震える声は悲鳴のようでもあった。あるいは真の悲鳴であった。しかし消えた。どのような声であろうと、夜は冷淡に飲み込んだ。
「余は聞きとうない」
『ならば何故里を離れ給いませぬ』
エンレイの声が聞こえた。ネクロマンサーは弾かれたように起きあがり、声のした方を見ようとした。しかしどこから声がしたやら思い出せなかった。仕方なく闇雲に見回した。月に照らされた夜の下で、草は震え、木は眠り、風は転がった。求める犬の姿はなかった。
余は遂に狂うたのか。ネクロマンサーは小さな笑い声を漏らした。叢から立ち上がり、あばら屋に寄った。崩れかけた木の壁に背を預け、膝を抱えて座り込んだ。見上げれば、空には無慈悲な月と星の姿があった。かつて僕に、月の無慈悲を説いたのはいつのことであったか。あるいはこれから起こる事であるのか。
たまらなくなってネクロマンサーは膝に顔を埋めた。何もかも忘れて眠りたかった。
草を踏む音がした。顔を持ち上げ、見れば、そこには若い男の姿があった。村の農夫であるらしかった。若者は面食らってネクロマンサーを凝視しており、ネクロマンサーもまた、澱んだ瞳でそれを見つめ返した。若者は声をかけながらネクロマンサーに歩み寄った。
「やあ、なにしてるの、こんなところで」
やがて顔が判る場所まで来ると、
「村のもんじゃないのか」
ネクロマンサーは微笑した。己の体が見目麗しい乙女である事は知っていた。悪戯心が起きたのだった。この田舎で生まれ育った、邪なる事をしらぬ若者を、からかってやろうと考えた。
「旅をしている。今宵はここに宿らせて貰えぬか」
「それは、かまわんが」
若者はなめ回すようにネクロマンサーを見つめた。珍妙ないでたちであったし、彼の概念を超えた美女でもあったから。
「一人旅かい。女が」
「わけがあるのだ。どうしても行かねばならぬ」
「ふうん。おれは、バシュオ。きみは」
「余――」
ネクロマンサーは躊躇った。バシュオとやらは、ネクロマンサーの隣に腰掛け、その薄桃色の唇、白亜の肌、流れ水のうなじを、順に見た。視線が擽るようであった。ネクロマンサーはふと思いつき、この肉体の生前の名前を口にした。
「わたしは、ドゥザニア」
「ザニア」
と、若者は繰り返した。姓を省き、名のみで呼ぶは並々ならぬ親愛の表現であった。
「シュオ」
ネクロマンサーもまたそれに応えた。
「こんなところにいないで、村に来ないか、ザニア。ちょうど祭の最中なんだ。よそ者だって大歓迎だ。おれの踊りの相手をしてくれよ」
「そなたは、舞に疲れてここに来たのではないのか」
ネクロマンサーは微笑した。若者の肩に手を伸ばし、強く引き寄せ、耳元に唇を寄せて、小さく震わせる。
「わたしは、舞をよくする。祭と炎を前にしてもよく舞を舞う。しかし、寝床と闇夜を前にすれば、その舞の燃え上がること烈火のごとし。そなたの塔は炎に煽られ、たちどころに天を貫くであろう」
若者の肩が小さく震えた。ネクロマンサーは不意に立ち、あばら屋に入って、乳白の外套を寝藁の上に敷き伏せた。柳の枝の如くしなやかに、その上へあぐらを掻き、呆気にとられて覗き見る若者に、伏せがちな視線を遣る。
「我が舞をとくとご覧じよ。さあ、近う寄って」
若者は何かに引き寄せられるが如くネクロマンサーに這い寄って、その折れんばかりに細く白い腕を掴んだ。ためらいがちにその体を床へ押し倒した。ネクロマンサーは微笑しながらなされるままに背を倒し、若者の気付かぬ間に衣服の裾から指を忍び込ませた。若者はびくりと震えた。
「恐れておるな。乙女のようじゃ」
若者は応えなかった。ネクロマンサーの貫頭衣を脱がせる事に必死だった。
彼の指がようやく貫頭衣の裾を探り当て、その奥へと這い進んだ。指先が脛、膝、腿に触れた。若者はネクロマンサーの胸に頭を埋め、指先に己の意識の全てを注ぎ込んだ。ネクロマンサーは薄布越しに伝わる若者の体温を心地よく感じていた。そのまま目を閉じれば彼の懐に没する事ができたやもしれぬ。
ネクロマンサーは目を開いた。口先で小さく呪文を唱えた。
「オン」
最後のためらいを、奥歯を噛む事でかなぐり捨てた。
「ザライマデバラクネッカンイルオリオザエセイ
オンエシッチリウォラーマエミータラカルヴァナ ラーマウリヴォウォビッティ ソヴァカ」
若者は太股のざらりとしたものを、果たして何と思ったであろうか。何れにせよ、怪訝に思い顔を上げた彼の見たものは、自分が両腕に掻き抱く大蛇の姿であった。太股と思って触れていたものは、ざらつく鱗に覆われた尾であった。若者は悲鳴を上げ、腰を抜かして、入る時と同じく這うようにしてあばら屋を飛び出した。
後に残されたのは、外套の上で身をくねらせる白い大蛇のみであった。
やがて「叢揺らす蛇への恐れの精」は用の済んだことを知ると、ネクロマンサーの体から離れ、何処とも知れぬ虚空へ融け消えた。ネクロマンサーは幻影が消え、もとの見目麗しい姿に戻った後も、しばしそうして寝ころがっていた。若者が裾をめくり上げて露わになった脚もそのままであった。
やがて何人かの足音と、ざわめく声が聞こえてくると、ネクロマンサーは徐に体を起こした。そして外套と月光の剣を手に取り、あばら屋を後にした。あの若者が酔った友人たちにからかわれ、笑われるのを、背に聞いた。
「幻」
ネクロマンサーはぽつりと呟いた。
「幻じゃ。余は蛇ではありえぬ」
闇雲に森を歩き、蕩々と水を蓄える泉にたどり着くと、外套も貫頭衣も脱ぎ捨て、月光の剣も投げ捨て、水を浴んだ。泉の中で、腰から下を水に浸けたまま、上を見上げた。下を見るのははばかられた。波紋さえもが逃げていくようであった。
「幻じゃ」
濡れた瞳でただ月を見上げた。
「幻なのじゃ。だのに、何故」
月は今宵も無慈悲に大地を見下ろしていた。
3
結局、泉の傍らに臥して夜を明かした。小鳥がさえずりはじめるのを聞き、ネクロマンサーは再び肌を曝して体を洗った。白亜の体を伝い落ちる水が傷を塞ぐように思えた。一時の血止めに過ぎぬとは容易に知れた。しかし知らぬふりをした。
乳房を洗おうと手を胸にやり、ネクロマンサーはふと昨晩の若者を思い起こした。火照った肺から出た吐息が、貫頭衣を貫いて肌を撫でたのが思い出された。どのような手練れの指にも舌にも感じられぬ熱であった。水を掬い取り、乳房に垂らした。水は曲線を伝い、水面に戻って波紋を生んだ。あの熱も、水が流し去ってしまった。
ネクロマンサーは泉のそばの叢が、がさりと音を立てるのを聞いた。露わになった背を見つめる視線を感じた。視線の主は戸惑っているようであった。ネクロマンサーは振り返りもしなかった。足音のみで何者かは知れた。
「そなたか」
朝霧を貫くようにネクロマンサーは言った。
「ザニア」
バシュオと名乗った若者の声であった。
「声に魂が感ぜられぬ。寝ておらぬな。さぞ祭を楽しんだと見える」
「一晩中きみをさがしてた」
ネクロマンサーは声をあげて笑った。朝の泉より冷たい笑いであった。小鳥の殆どはすでに逃げ去っていたが、運悪く逃げ遅れた数羽は、木々の合間に身を潜め、小さく身を縮こまらせた。
「これは有難き男よ。鱗のある女を好むか」
「きみは、魔女なのか」
「いかにも、余は魔術をよくするもの。されど女かと問われれば否と答えねばならぬ。これは仮初めの姿なれば」
「男なのか」
「やもしれぬ。あるいは蛇やもしれぬ」
ネクロマンサーは振り返った。見た事のない女の裸に、若者は顔を赤らめ、目を伏せた。ネクロマンサーは泉からあがり、濡れた手で若者の腕を握り、その胸を押して、手近な木に押さえつけ、強引に唇を奪った。粗野な唇の隙間から舌を差し込んだ。すくんで動かぬ若者の舌や歯の裏を、丹念になめ回した。若者が苦しそうに呻くのを聞くと、ようやく唇を解放した。唾液が糸を引いて滴り落ちた。
「この口づけ一つでそなたの寿命を三十年奪った」
若者の顔が一転して蒼白になった。ネクロマンサーは高らかに笑いを響かせ、
「戯れじゃ。安心せい。そなたは齢八十まで生き、子と孫とひ孫に囲まれ、床に伏して安楽な死を遂げるであろう」
そう言うと、ネクロマンサーは黒く艶やかな髪を両手で絞った。泉の水が足元に滴った。濡れた体を乾かそうと、
「エ……」
僕の名を呼びかけ、口をつぐむ。もはやおらぬ。炎の犬はここにはおらぬ。仕方なしに、犬のように体を振って水を切り、湿った体のまま衣服を纏う。麻が濡れて肌に貼り付いた。不快だった。顔をしかめ、月光の剣を拾い上げる。
「待って」
若者がようやく声を出した。乾いた布を更に絞るようなかすれた声であった。
「どこへ行くんだ」
「言ったはずじゃ。余にはゆえあって行かねばならぬ場所がある」
「待て!」
若者は声を荒げた。月光の剣を腰に差し、ネクロマンサーは肩越しに振り返る。氷のような視線を送る。一瞬、ほんの一瞬だけ躊躇い、しかし若者は堂々とその視線を受け止め、やがて言った。
「行くな。おれと一緒になってくれ」
そして再び沈黙した。ネクロマンサーはまばたきすらしなかった。できなかった。しばしの黙考の後、ネクロマンサーは答えた。
「ならぬ」
「なんで!」
「余は死なぬ。齢も重ねぬ。今は知らずともいずれ知るであろう。余は魔物じゃ。いずれそなたは余を恐れ、余を疎み、余を憎むであろう。
また、余は命を生むことを知らぬ。屍の担い手であるがゆえ。この体はとうに朽ち果てた屍の幻であるがゆえ。命を生むことは能わぬ。そなたの血はそなたの代で途切れよう。
そしてなにより」
ネクロマンサーは若者に背を向けた。もう二度と顔を向けるつもりはなかった。
「汝など路傍の石とも思うておらぬ。まして愛するなどということがあろうか」
もはや語るべき言葉を持たなかった。ネクロマンサーは徐に足を踏み出した。
「嘘だ」
足が止まった。
「嘘だ!」
それは根拠のない叫びであったろう。しかしネクロマンサーの胸を、あるはずもない心を、深く深く貫いた。理の鎧はもはや魂を守らなかった。ネクロマンサーにできたことはただ一つであった。
逃げ出すこと。
脱兎の如く駆け、森に飛び込んだ。若者もその後を追おうとしたが、かなわなかった。森に一歩踏み込んだところで、ネクロマンサーの背を見失った。言うまでもなく魔術のなせる技であった。「獣を包み隠す森の精」は、ネクロマンサーの呼び声に答え、その姿を暗い木々の狭間にしまい込んだ。
若者は先程までネクロマンサーの立っていた場所に腰を下ろした。絞った髪から滴り落ちた水が、点々と草の上に露を作っていた。若者はその一つを指で掬おうとした。露は指先に融け、何処へとも知れず霧散した。
若者は泣いた。
4
そのまま夜が更けた。ネクロマンサーは木の根本に、ただ一日中うずくまっていたのだった。答えの出ない自問をえんえん繰り返した。なぜ余はここから離れぬ。目指さねばならぬ場所があり、余を引き留めるものもないというのに。なぜ余は離れようとせぬ。問いかけの一つ一つが涙の一粒一粒であった。森は、ネクロマンサーの涙なき涙に畏れを抱き、ひっそりと息を潜めた。
今宵もまた月が空にかかる。無慈悲で青白い月が。
その時であった。凍り付いたように静寂を保っていた森が、にわかにけたたましく騒ぎ立てた。鳥、獣、虫、脚や翼を持つあらゆるものどもは、みな我先に逃げ出した。動く事を許されぬ木々や草花は、我が身に災難が降りかからない事を一心に祈った。
ネクロマンサーもまた己の肌で異変を感じ取った。木の葉の隙間から、青白い月光が真っ直ぐな剣のように地面に突き立っている。ネクロマンサーはやおら立ち上がり、剣の前に自ら体を投げ出し、木々の切れ間から空を見上げた。月光に目を細めた。その月光が突如として遮られ、月が一瞬だけ姿を隠した。
肌がちりちりと焦げるようであった。この世ならざる力の波動を感じた。
――闇の獣。
僕もなく、また剣も錆び付いたこのようなときに。ネクロマンサーは奥歯を噛みしめた。やつばらは、いまだ森の精がネクロマンサーを包み隠しているために、こちらを見いだせずにいるのだろう。運がよい。いまならば、逃げ出す事も不可能ではない。
ふと、ネクロマンサーは思い当たった。ネクロマンサー自身が見つからぬならば、果たして闇の獣は何を道しるべとするか。
口づけ。
糸を引く唾液。
残り香。
5
若者バシュオもまた、日の暮れるまで湖畔にうずくまっていた。いずれあの娘が、魔女が戻ってくるのではないかと思った。時折腹が空けば、木に登って実をもぎかじりついた。そしてしばしば湖に手を浸け、水を掬って飲んだ。気のせいか、魔女の匂いが水から感ぜられるように思えた。
やがて日は沈み、星が瞬き、月が昇った。
その時であった。若者もまた森のざわめきを聞いた。鳥も獣も虫も湖の魚も、みな逃げ、あるいは息を潜め隠れた。草花はしおれ、木々は今にも立ち枯れんばかりに生気を失い、若者自身もまるで何かに縛られたかの如くその場を動けなかった。何かの獣の咆吼が天より聞こえた。月を見上げた。
翼を持つ巨大な鬼が、月の光を遮った。
「ひ!」
若者の悲鳴は風音に呑まれて消えた。突如鬼の翼がその背から切り離され、鬼は地に降り立った。ただそれのみで地が裂け泉が溢れ大木が音を立てて倒れた。鬼の体躯は立ち並ぶ森の木々よりも大きく、鬼の頭は禍々しい角を持つ雄牛のそれであった。右の手には大木の幹からそのまま削りだした棍を握っていた。
また、鬼の背より離れた翼は、空中で四つに裂け、べたりと地面に落下した。四片はそれぞれに丸まって肉の団子となり、団子からは脚が生え尾が生え頭が生え、ついには四頭の野犬となった。ただし野犬の頭は醜悪な老人のそれであり、野犬の尾は百足であった。
鬼と野犬は暗闇の中で目を光らせ、若者を睨み付けた。四頭の野犬がじりじりと若者に寄せた。若者は恐怖に身もすくみ、逃げ出す事すらかなわなかった。
一頭が遂に若者に飛びついた。若者は死を覚悟して目を閉じた。
「オン」
澄み切った女の声色。
「シッチリウォデフェイゴウタルエセイ アビラウォオンサク ソヴァカ!」
巻き起こった突風が、四頭の犬を吹き飛ばした。「身を吹き飛ばす強風の精」はひょうと勝ち鬨を上げると、そのまま夜の大気に混じり融けた。若者は恐る恐る目を開き、自分に食いかからんとしていた犬が、木に叩き付けられ絶命しているのを見た。また、残る三頭は地面に這いつくばって若者の方を睨んでいた。鬼もまた牛の目を以て見下ろした。
若者は振り返った。
乳白の貫頭衣にその身を包んだ魔女が、白亜の像のごとく立っていた。
「醜き獣どもよ。主の顔が窺い知れる」
若者が口を開きかけると、ネクロマンサーは優しく微笑み、言葉を以てその口を塞いだ。
「去るがよい。獣どもは余の残り香を追ってそなたを襲ったに過ぎぬ。余から離れればそなたの命は救われよう」
「そんな……」
若者はきっと口を結び、辺りの地面を見回すと、小石をいくつも拾い上げ、ネクロマンサーが制止する間も与えず、野犬めがけて投げつけた。野犬はのたりと一歩下がるのみでこれを避けた。野犬の醜く黒々とした視線はネクロマンサーから離れ、若者のみに注がれた。
「愚か者! なんたることを!」
「おれは、まもるぞっ」
若者の声は震えていた。己に言い聞かせるようでもあった。
「まもるぞっ。おれの嫁だ、鬼にくれてなるもんか」
「よさぬか! 人の身にて敵う相手では」
ネクロマンサーの言は地響きに阻まれた。見れば、鬼が棍を振りかざし、地に幾筋ものひびを走らせながら、駆け来るのであった。ネクロマンサーは若者を抱き、横へ飛び退いた。棍は虚しく地を叩き、そこに大穴を穿った。
若者を地面に寝かせてネクロマンサーは立ち上がり、月光の剣を鞘より抜きはなった。剣は今なお赤く錆び付き、無惨な姿を曝していた。歯がみするネクロマンサーを横なぎの棍が襲った。棍は強かに華奢な女の体を捉えた。ネクロマンサーは五間ばかりもはじき飛ばされ、壊れた人形のごとく倒れ伏した。身の裂けるような痛みが体を走った。肋の二三本も折られていたであろう。
若者はそれを目の当たりにすると、狂ったように叫びながら立ち上がり、拳ほどの石を掴んで鬼に殴りかかった。石はちょうど鬼の脛を打った。鬼は牛の声で悲鳴をあげると、足元でちょろちょろと動く若者をぎらりと睨み付け、叩き潰さんとして棍を振り上げた。
ネクロマンサーは目を見開いた。身を起こそうとした。指先一つ動かなかった。
鬼は棍を振り下ろした。
嫌じゃ。ネクロマンサーは叫んだ。声にならぬ叫びであった。魂による叫びであった。嫌じゃ! 余は失いとうない!
「オン……」
それは無意識のうちに口を吐いて出た呪文であった。
「……エンレイラ アビラウォオンサウン ソヴァカ!」
或いは悲鳴であった。
6
エンレイは常にネクロマンサーと共にあった。
無論の事、今も尚。
魂の奥底より引きずり出された呼び声を忍ぶ事などできようか。
7
赤犬は虚空より現れ鬼の右腕を噛みちぎった。雄牛の咆吼を心地よく聞きながら若者の首根っこをくわえ、地を蹴って飛ぶ。無論行く先は主の袂であった。哀れにも倒れ伏し、痛みを忍ぶ主に駆け寄り、若者を放して、主の首を舐める。主は口の中で小さく「血を止め傷を塞ぐ癒しの薬の精」に助けを求める呪文を唱えていた。やがて立ち上がる力を取り戻した主は、犬の首を抱き、優しくその頭を撫でた。
エンレイは尾を振りそれに応えた。魂位霊第三「炎霊」たるエンレイが、まるで真の犬のようであった。
「エンレイ」
ネクロマンサーは僕の名を呼んだ。
「今こそわかった。そちもまた余と同じであったのじゃな」
『数々のご無礼お赦し給いませ』
「よい。よくぞ諫めてくれた」
ネクロマンサーはエンレイを放し、気を失った若者に手をさしのべた。その頬を優しく撫でた。恐れ多くも担い手なるネクロマンサーを娶るなどとぬかした男であった。恐れを知らず、また単純にして明快な男であった。
「余はこの者を愛しておるのやもしれぬ。しかし判らぬ。余には余の心が知れぬ」
『ならば刻み給いませ』
エンレイは立ち上がったネクロマンサーの瞳を見上げた。
『御劔以て御心のままに刻み給いませ』
「しかし剣は――」
『妙なる剣は妙なる鋼をその芯に孕むもの。一度錆び朽ち果てようとも、炎以て禊ぎ給えば再び輝きを取り戻しましょう』
ネクロマンサーは剣を手に取った。剣は赤い涙を流して泣いているようにも見えた。何故儂を振るわぬ。そう言っているようでもあった。僅か数瞬前までは決して聞こえなんだ声だというに。耳を澄ませば、いつでも聞けた声だというに。
『いざ、求め給いませ』
ネクロマンサーは目を閉じた。
『今こそみどり児の如くただ求め給いませ!』
剣を天に掲げる。ただ真っ直ぐに、無慈悲な月へ突き立てる。閉じた目で、刻むべき夜、斬り捨てるべき敵を真っ向から見据え、肺に息を詰め込み、ひと思いに吐き出した。
「参れエンレイ!」
エンレイの肌が炎と化した。炎は夜空に燃え上がり、猛り暴れ狂いながら、月光の剣に吸い込まれた。剣が赤く青く輝く。炎は月影と混じり合い、錆を灼き切り、鋼を鍛え、刃に法字を刻み込んだ。やがて狂おしい輝きの消え去りし後、月光の剣はその身を露わにした。青白く美しく真っ直ぐな片手半剣であった。そしてエンレイは狂える炎となってその刀身を包み込んだ。
目を開く。
ネクロマンサーの瞳もまた、黒く、夜色の輝きを放っていた。
ネクロマンサーは駆けた。三頭の野犬が唸りながら飛びかかった。地を蹴り飛び上がり、宙返りしながらそれをかわした。野犬の後ろに降りたって、振り向きざまに斬り付けた。一頭が首を落とされ血を吹きながら倒れ伏した。再び飛びかかる二頭に、ネクロマンサーは身を屈めて走った。犬の腹の下をくぐりながら、天に向かって剣を振り上げ、一頭を頭から二枚におろした。最後の一頭は着地した瞬間に、振り下ろされた剣に胴を断たれた。
最後に残った鈍重な鬼を見据える。鬼は棍を左手に持ち替え、噛み切られた右腕から血を滴らせながら、狂ったように咆吼した。やがてその恐るべき膂力を以て棍を振り下ろした。ネクロマンサーは鬼の懐に飛び込んでこれを避け、飛び上がり、鬼の膝を蹴り、振り下ろした腕を蹴り、肩を蹴り、鬼の頭上の空を舞った。
月の輝きが無慈悲にその肢体と剣とを照らした。
「醜き下賤の咎人よ」
剣を大上段に構える。
「炎以てその身を灼き浄め、次こそ清く生まれるがよい!」
振り下ろした剣が、鬼を頭から両断した。
8
若者が目を覚ましたのは半時の後、昨夜のあばら屋の中であった。起きあがり、己が乳白の外套の上で眠っていた事を知った。すぐそばには、魔女が寄り添っていた。魔女の白く細く優しく暖かい手が、若者自身の手を握っていた。
「そちは夢を見ていたのじゃ」
或いは余もそうやもしれぬ。ネクロマンサーは人知れず思った。
「全ては夢じゃ。忘れるがよい」
若者は俯いた。言うべき言葉を知らなかった。
ネクロマンサーは微笑し、
「今なお、余は余の心を知らぬ。そなたを愛しているや否やも。されど余は余の為すべきを為す。余はそなたの妻となろう。ただし今宵一夜のみじゃ。いずれは離れねばならぬ定めなれば、一夜も百年も同じことゆえ」
驚く若者の肩に腕を回し、ネクロマンサーは彼を押し倒した。優しくその頬を撫でた。
「さあ、余の舞を愛でてたもれ。今宵は蛇にはならぬゆえに――」
そしてネクロマンサーは若者の唇に己のそれを重ねた。
9
あばら屋の戸の前には赤い大犬がうずくまり、静かに眠っていた。眠りながらもその耳はぴんと立ち、いかなる不心得者の足音をも聞き逃さぬ所存であった。しかし彼の耳に聞こえてきたのは足音などではなく、彼の主と若者の、歓びの声ばかりであったという。
みどり児のように素直で無垢な、歓びの歌であったという。
10
「やはり、罪は罪。相応の罰を科さねばならぬ」
街道を往きながら、ネクロマンサーは言った。傍らを歩くエンレイは、ぴくりと耳を震わせ、しかし平静を装い、押し黙っていた。草花が風に揺られてくすくすと笑い声を漏らした。木々は遠くで豪快に笑った。
「枕の刑と温石の刑、いずれが所望じゃ?」
『……我が君、お赦しを。ひらに、ひらにご容赦を』
「よし。余は慈悲深い。枕と温石はやめじゃ。此度は馬の刑としよう」
『恐れながら、馬の刑と申されるものは先例が御座いませぬ』
「今考えたのじゃ。そちは犬とは申せ小さな馬の如き体躯であるゆえ」
『わたくしめは今宵の獲物を狩って参りまする然からば』
「待て! 待たぬか! 逃亡は罪と知るがよい!」
逃げ去るエンレイの背を見送り、ネクロマンサーはふと息を吐いた。そこは小高い丘の天辺であった。草花が楽しげに歌った。夏の風が空を吹き抜けた。ネクロマンサーの黒く艶やかな髪が、染め上げられた絹糸の如く、青く白い空を彩った。
エンレイの姿は丘のはるか下で、赤い小さな点と化していた。エンレイが吠えるのが聞こえた。ネクロマンサーは微笑んだ。
今、大地にその一歩を踏み出した。