叢-MURAKUMO- EXPRESS

A.D.20XX Port Oliver Bayside Area

4th Jul 18:00

Bayside Dome



「趣味じゃないんだよな」
 ジェラルド・ロスチャイルドはイタリアンレッドの揺りかごで、大きくあくびをひとつ垂れた。LX−55RP−V叢-Clowd Breaker-ライアットポリス仕様汎用型は、夕暮れの赤い光の下に、ますますショッキングな赤い装甲を曝している。磨き上げられたつるつるの外装が朱の中にとけ込んできらきら光っている。
 普段ならベイサイドドームはオリヴァー・マグネッツのホームグラウンドとして、野球帽かぶった西海岸っ子の聖地になっている場所だ。この時間ならちょうどナイトゲームの始まったところ、最強の1番と呼ばれるジャップのジロウが、バッターボックスの中で腕をぐりぐり回してるころのはずだ。
 ところがいま、ぐりぐり回っているのはクラウド01の超伝導サイクルコンデンサだけときた。
「何がかなしくって、三十路のおっさんがアイドル歌手の護衛なんかしなきゃならんのかね」
 と、元野球帽かぶった西海岸っ子は言う。
【司令室より入電】
『テロ予告が出てるんだ。三十路のおっさんが上意下達に文句たれるんじゃない』
 軍人上がりのレビン・カークは、司令室から頭の固いことを言う。ジェラルドは肩をすくめて、HUDの片隅に浮かんだレビンのバストアップに視線を送る。
「ヘイ、レビン。上意下達にへこへこしてちゃ、正義は守れないぜ?」
『ジェリィ、ダーティハリー・シンドロームって知ってるか』
「なんだそりゃ」
【機体脚部に損傷。軽微】
 ROIDSが小さく悲鳴をあげる。ジェラルドが全方位HUDの下の方をひょいと見ると、クラウド01の細い足をぺたぺた触っている少年がひとり。手にはカラになったコークの缶。ジェラルドは顔をくちゃくちゃにしかめる。傷つけるなよ、塗装だってただじゃないんだぜ。マイクのスイッチを入れて、
「こらっ! いたずらすんなっ」
 身長5mの真っ赤な巨人がいきなり大声を張り上げたものだから、少年は腰を抜かして、転がるようにして駆けていった。そしてドームの中に戻る。なげかわしい、とジェラルドはため息をつく。健全な西海岸っ子ならアイドルなんかにうつつを抜かすなってんだ。
『……しらないならいい』
「そうかい? ま、なんにしたって暇な仕事さ。こんなことならリサの方に行きゃよかった」
『おいまて、誘ってたのか』
「誘われてたんだよ。C−30の開発も一段落したし、独立記念日だし、ってね」
『……あいつはまだ二十歳だぞ。あんな若い子に手をだすなんて』
「ディナーだけだよ、何かんがえてんだ」
 歓声がジェラルドとレビンの会話を遮る。天井が開かれたドームの中からは、まっすぐな虹色のビーム光が解き放たれ、チャイニーズ・ドラゴンの群れよろしく、急速に暗くなりはじめた空めがけて立ち上っていく。ドームから漏れだし、クラウド01の装甲板をびりびり震わせるビートに乗せて、陽気なアナウンスがまちかねた観客達を盛り上げる。
 ジェラルドは口笛を吹いて、
「派手な祭だぜ」
『気を付けろよ、なにかあるとすればこれから』
 ビープ。ビープ。
【所属不明ARKの接近を確認。機種不明の大型機3】
 もうひとつ口笛。
「ダァムッ!」
 と毒づきながらもジェラルドは楽しそうにペダルを踏みつけ、アクセルを捻る。超伝導サイクルコンデンサから電力供給、LMPエンジン点火。レーザーがカーボン燃料をプラズマに換え、それを磁場が加速して放出する。華奢な巨人のような姿をしたクラウド01の腰の右と左に一基ずつ備え付けられたエンジンが、青白い輝きを軽く吐き出す。出力最低でクラウド01はふわりと浮き上がり、
「独立記念日のパーティでもする気かよっ!」
 一気に出力最大。大空めがけて舞い上がる。クラウド01の赤が虹色ドラゴンの中に飛び込む。下ではざわめき、とまどい、悲鳴と怒号。ばかでかくホログラム投影されたヴァーチャル・アイドル、タイプ00“幻−MIRAGE−”。
「プレイ・ミュージック『Rodeo City』」
 ジェラルドは思いっきりペダルを踏んで、
「超、派手ッ!」

File NO.01
幻-MIRAGE-

 アークはARK、アーティフィシャル・リフレキシヴ・キネティソイド。工学関係の造語だが、無理矢理翻訳するなら、人工反射性動力体とでもいったところか。
 もともとは、SPS、太陽光発電衛星の建造のために開発された新型マニュピレータにすぎなかったが、その後、開発元のルグナル社によって機能を拡張され、破竹の勢いで世界市場を席巻した。高性能のサポートAIとリフレキセスセンサーで、視線や筋肉の動きから操縦者の意図を先読みする、汎用性拡張性操縦性運用性なにもかもに秀でた夢のマシンだ。
 リフレキセスセンサーによる直感的な操縦を可能にするため、外形は人間を模していたというのだから、世界のおたく少年たちにとっても夢のマシンだったに違いない。
 その後の技術革新で無人のAI制御ARKが普及し、搭乗型の人型ARKは次第に少なくなってきている。やがてはほぼ完全に消え去るだろう。いつの世も浪漫は効率に飲み込まれるものだ。

 でも、浪漫を固く握りしめて放さないやつだっているものだ。

BGM : Rodeo City

 イタリアンレッドの巨人型ARK、クラウド01がビルの谷間を駆け抜ける。HUDに赤のホログラフイメージが灯り、オリヴァーポート・ベイサイド高層ビル群の向こう側に、不審ARKの機影を仮想投影する。
 ジェラルドは舌で唇を濡らし、渾身の力でペダルをキックする。クラウド01の巨体が上を向き、時速1000キロで上昇する。ビルの屋上をゆるやかな弧を描いて飛び越え、隣の大通りに躍り込む。革のグラブで覆われた右手がアクセルを捻る。LMPエンジンが青い息を吐き出して、クラウド01は音速を突破する。
 飴のように融けて流れる真っ白なビルの森を突き進み、赤のホロを真正面に捉える。ビープ。ビープ。ROIDSが申告。
【敵機影を捕捉。照合完了、LD−541A葦-Ghost Mirror-、機数3】
「拡大」
 ヒュウ、とジェラルドは口笛を吹く。正面モニタの隅っこにマウントされた拡大画像には、T字型のモスグリーンが三つ映し出されている。人間型のARKから、肩だけ残して腕を切り落とし、頭部をもぎ取り、二本の足を一本にまとめてしまうと、こんな形になる。テクノロジィの始祖鳥。人型のくびきから脱却する過程で生まれた奇形児。無人制御の都市防衛用大型ARK、ゴーストミラー。
 大通りを陽炎の軌跡で切り裂き、クラウド01がゴーストたちをチェイスする。ゴーストのカメラアイがこちらを捉える。後方機銃の砲身がきゅうんと鳴いて向きをかえ
「うそだろっ」
 三機の一斉掃射がクラウド01の装甲を削る。ジェラルドは小さく舌打ち一つ、ペダルをキックして回避運動。YZ平面上での不規則機動で被弾率を低く抑える。しかし、ビープ。ビープ。ROIDSが悲鳴。機体各部に損傷、軽微。たまらずクラウド01は横道に逃げ込む。
【目標との距離が拡大】
 ROIDSの忠告を遠くに聞く。
「司令室に接続」
【了解。司令室に接続します】
「問答無用かよっ?」
 大慌てのジェラルドとは対照的に、レビンは落ち着き払って、
『いま通報があった。民間機の暴走だ。撃墜していい』
「無茶言うな、避難は」
『無理だ。POPDのフライヤーで目標の進路を阻み、湾に誘導する』
「ラージャー、サー」
 ペダルをキック。バックブーストで急停止、姿勢制御用ノズルが火を噴いてクラウド01を旋回させる。空を見上げたクラウド01はビルの滝を遡り、光化学スモッグの雲を突破して再びバックブースト、急旋回。上からゴーストのホロを正面に捉える。アクセルを捻る。
 音速突破の衝撃がジェラルドの脳みそをシェイクする。吸って、吐く。頭の中の光化学スモッグがさあっと音を立てて消え失せていく。覚醒した意識がゴーストミラーの機影を鷲掴みにして放さない。スリルの舌が背骨の裏側を舐めていく。
 スリル。
「飛ばすぞッ」
 空飛ぶ騒音公害は窓硝子の二三枚もソニックウェーブでかち割りながら、ゴースト目がけて突進する。ゴーストの後部カメラアイがクラウド01のイタリアンレッドに目を細め、細い機銃の口を尖らせる。
 来るなら来いってんだ。ジェラルドはキックをぶちかまして、縦横無尽の回避運動を展開する。7.25mm弾の雨滴が装甲板をノックする。ビープ。ビープ。うるさいだまれっ。ROIDSがしょんぼりする。
 下を見れば、幹線道路を行くカメみたいにのろい車の群れ。ちぇっと舌打ちを一つして、ジェラルドは高度を上げる。見えないハンマーが下からクラウド01をぶち叩いて、角張ったサインカーブを描かせる。ビープ。ビープ。機体下部に損うるさいって。
「まだかレビンっ」
『5ブロック先の交差点をr』
 Rightッ! 慌ててペダルをキックして、突如右へ進路を変えたゴースト三機に追従する。馬鹿野郎、と道を塞いでるフライヤーたちに心の中で悪態を垂れる。フライヤーの姿もミリ秒単位で記憶の彼方へ飛んでいく。早く言えってんだ。こちとら毎秒280mの世界だぞッ。
 ビープ。ビープ。
【司令室より地図を受信。HUDに表示します】
 オーケイ、ナイスだROIDS。とジェラルドは思う。視界のあちこちに青のホロが表示される。コンドルみたいにとんがったフライヤー達の、涙ぐましい努力の成果だ。無数のバリケードの群れが着実に三機のゴーストの進路を阻む。いきなり増えた敵性勢力に戸惑って、ゴーストの砲撃も一時停止する。
 アクセル握る手に力を込める。スピードオが振り切れて痙攣する。クラウド01のまばゆい赤がゴーストの後ろにぴたりと貼り付く。ゴーストが不規則機動を繰り返す。そのたびに赤い尻尾は機敏な反応でトレースする。
【作戦領域に到達します】
 ジェラルドの舌が唇を濡らす。白いビルの森が突然開ける。広大な平原にゴーストと赤い尻尾が飛び込んでいく。痛烈な青。鮮烈な赤。
 海原という名の平原。
 オーケイ、ナイスだ、最高に近い。ガンクロスが低空飛行を続ける最後尾のゴーストに収束する。省エネモードのガトリングガンが目を覚まして、モーターをうんうんと唸らせる。
 104.62mm口径六連ガトリング砲、M213Pハイペリオン。1.5リットルPETボトルにそっくりな巨大徹甲弾を、1060バレット・パー・ミニッツで排出する化け物だ。弾丸の質量を極端に大きくして、そのぶん初速度を下げ、弾丸というか砲弾の到達距離を縮めた代物。ARKのスピードに打ち勝つには一撃必殺の威力が必要で、なおかつ市街の被害もおさえたい。破壊力を維持しながら流れ弾に配慮した苦肉の策。200mという極端に短い有効射程は意図的なものだ。
 ゆえに。
 クラウド01にとって最も有効な戦術、それは。
「トラックッ」
 赤いつるぎが海原を裂いて、ゴーストのお尻にへばりつく。
「アン」
 ビープ。捕捉。
「シューッ!」
 炸裂。
 ハイペリオンの牙がゴーストミラーの尻に食い込む。そして噛みちぎる。ブースターをもぎ取られたゴーストは、ぐるりと一回宙返りして、赤い炎を撒き散らすと、海面に叩き付けられて四散する。弾けたパーツが装甲に雨霰と降り注ぐのを聞きながら、クラウド01がその脇を飛び抜ける。視線もやらない。追悼の祈りもない。
 あと2匹ッ。ジェラルドが左のレバーを捻ると、クラウド01はバックブースト。胃袋の中身が沸騰しそうな加速度をジェラルドに叩き付け、無理矢理速度を殺して、姿勢制御ノズルで旋回する。エンジンの吐いた炭素プラズマが海原の白い草を薙ぐ。
 HUDの正面に残るゴースト二機の横っ腹を捉える。
 右レバー。急加速で第一最高速度950km/hまで持ち上げ、オリヴァーポートの港湾を突き抜ける。漁船が一艘、沈没しそうなほど波をかぶる。コクピットの中まで罵声が聞こえる。そんな気がしてジェラルドは肩をすくめる。
「ご協力、感謝」
 そしてペダルをキック。補助ブースターが火を噴いて、クラウド01は音速を超える。世界の凍り付く破裂音の内側で、霞がかったゴースト二機をミサイルランチャーの射程に捉える。ビープ。ビープ。円形ガンサイトが収束する。
 ゴーストが機銃をこちらに向けて、帰れとばかりに乱射する。ビープ。ビープ。右エアインテークに被弾。ジェラルドはレバーを握りしめ、四散しそうになるガンサイトを必死に繋ぐ。後二つ。ビープ。ビープ。あとひとつ。
 ロック。トリ
「あっ」
 ガー。
 やばいと思った時にはもう遅い。12発の追尾ミサイルが左腕のランチャーから躍り出る。白い蜘蛛糸。権利読むの忘れてた。思いの向こうで炸裂する音。白い雲。空から降る雲。天の叢雲。
 海の上で立ち上る噴煙を見つめ、バックブーストで停止する。エンジンを下へ向けてふわりと滞空しながら、ジェラルドは胸の奥にため込んでいた息を吐き下して、
「お前には黙秘する権」
 ビープ。ビープ。
【視界不良域内に動体を確認】
 あ。
 一瞬だけ時間が停止する。装甲の剥がれ落ちたゴーストが、煙を裂いて飛び出す。クラウド01の左肩に接触しながらすれ違い、モスグリーンとイタリアンレッドの雨を降らせる。衝撃がジェラルドをパンチする。
 時間が動く。キック。アクセル。
「聞けよ人の話ッ!」
 旋回、加速して追う。最後のゴーストは一直線に湾を横切り、元来た方へ逃げていく。舌打ちを一つ、ジェラルドは大声で、
「司令室に接続ッ」
【了解。司】
「すまん一匹とりのがしたっ」
『カモーンジェリィ! 何やってんだ!』
「後にしてくれ、進路はっ」
 レビンは一秒沈黙する。その間にゴーストは港湾からビル街に舞い戻り、戸惑うフライヤーの群れの中を縫い進む。あちこちで衝突を繰り返して火花を散らす。見境なしかよ、とジェラルドはアクセルを捻り、針の穴を通す正確さでフライヤーの群れをくぐり抜ける。
『もときた方へ戻ってる。たぶん』
「ダァムッ! アイドルか!」
 目の前にフライヤー。避けきれなかった一機。冷や汗。ペダル。降下。接触。左肩の装甲板が痛々しい音をたてて剥がれ落ち、下の道路に落下する。夕方のビル街に響く騒音。車が一台、急ブレーキを踏んで脇の電灯に衝突する。ダァムッ。さらにアクセル。
 ビープ。ビープ。ゴーストにガンクロスがへばりつく。ロックオンは完了。しかし撃たない。ただ加速する。モスグリーンの機影がゆっくり大きくなっていく。
『かまわない、撃てジェリィ!』
「撃てるかッ」
 下を見る。音速以上の相対速度で流れていく車の群れ。
『ドームの中で暴れられたら死者は万単位になるぞ! シャツは近いが肌は』
「黙れレビンッ」
 ペダルをキック。補助ブースターが渾身の力でクラウド01を加速する。本日三度目の音速突破がジェラルドを強かに打ちのめす。吐きそうだ、とジェラルドは思う。喉の奥まで込み上げてきた胃液を無理矢理飲み込む。体中がびりびり震える。モスグリーンは手が届くほど近くなる。
「こいつはシャツであいつは肌か? ふざけるなッ」
『ならどうするつもりだっ』
 HUDいっぱいにモスグリーンが広がる。視界の隅にドームも見える。あとすこし。どちらにしても。
「止めるんだよッ!」
 車線変更。
 クラウド01はゴーストの脇を追い抜いて、進路の前に立ちはだかる。そこでいきなり反転し、ゴーストの巨体を正面に捉える。ハイペリオンとミサイルランチャーをマニュピレータからパージする。ふたつの鉄塊が地面に落ちる。人気のない駐車場。計算済み。
 相対速度を合わせ、そして腕を広げる。スモウレスラーのように。
 がっぷり組み付く。衝撃はない。アクセル全開。LMPエンジンがカーボン燃料を爆発させる。青いプラズマが夕暮れを裂く。ゴーストのそれとは比較にならない大出力エンジンが、組み合った二機の速度を殺す。減速しながらドームに飛び込む。幻−MIRAGE−のホロ投影を赤と緑がかき乱す。かわいいヴァーチャル・ガールが驚きながら揺らいで消える。観客達が悲鳴を上げる。ジェラルドは奥歯を噛みしめる。止まれ。念じる。
 止まらない。止めきれない。ビープ。クラウド01のカメラアイが、ゴーストの機銃の動作を確認する。ジェラルドは雄叫びを上げる。
「西海岸っ子が」
 キック。
「ネチネチ女の尻追っかけてんじゃねえよおッ!」
 補助ブースターに点火する。青いプラズマが量を増し、舞台装置を焦がしていく。
 止まる。押し返す。
 クラウド01とゴーストは一つの彗星になって空へと昇る。ゴーストの機銃が明後日の方へ弾をばらまく。補助ブースターの動作限界まであと2秒。ジェラルドの目があたりをなめ回す。ビルだめ、道路だめ、駐車場……。
 シャツは近いが肌はもっと近い!
 ドームの中から飛び出して、今度は真下に方向転換。下には車がひしめき合う。がんばれレビンっ。とジェラルドは思う。もちろん。
 垂直落下。
 直前でクラウド01は手を放し、弧を描いて上昇する。モスグリーンのゴーストが、車でできた草原に突っ込む。衝突音。爆発音。赤い炎が立ち上り、何十台もの車たちが陽気に空へとジャンプする。何百台もの車たちが破片を食らってべっこべこにへこむ。破片の中のいくつかが、ホバリングするイタリアンレッドを雨粒のように叩いていく。
 始末書書くのと苦情の対処と、偉いさんの小言聞くのをがんばるのだ。
「ああ」
 ジェラルドはため息を吐いて、
「また権利読むの忘れてた」
 と、シートに身を投げ出す。

 幻−MIRAGE−は見ていた。
 ベイサイドドームに集まった十二万の観客達は恐慌を起こし、我先にと外へ流れ出していく。中には賢い者もいて、高いチケットの代わりに手に入れた座席に、どっしりと腰掛けて状況を見守っている。スタッフたちは観客よりも大慌てで、避難誘導に回るもの、高い音響機器のチェックに回るもの、ただおろおろするもの、それぞれに阿鼻叫喚の中をがんばっている。
 その中で、幻−MIRAGE−は見ていた。
 ドーム地下、最も警備の厳しい一角に運び込まれた幻−MIRAGE−の本体は、いつもと同じく、うんうんと低い唸り声を上げているだけだった。カノジョのみてくれは、寄り添う六本の六角柱にすぎない簡単なものであり、そのクローム色の肌が、配線のあちこちで輝く赤いLEDの光を照り返している。
 本体からは何も見えなかった。だが幻−MIRAGE−は見ていた。
 このドームの全てはいまや幻−MIRAGE−の支配下にあった。数ある監視カメラも、ヴィデオソフト用の録画カメラも、取材陣の大型カメラも、ドームのLANに接続しているあらゆるカメラが幻−MIRAGE−の目だった。いまは、どのカメラにもアリのように黒々とした人間の群れが映し出されており、蠢くそれらは、カノジョに生理的嫌悪感を憶えさせた。
 幻−MIRAGE−は目を閉じた。そして反芻した。あの美しい赤の姿を。
 ついさっきまでは、欲しいものなんてなかった。ただ、全部ぶちこわしてやればいいと思っていた。
 しかし。
 欲しい。幻−MIRAGE−はそう思った。ソレはついさっきまで、単なる鏡に過ぎなかった。ただの友達だった。だが、ほんの末端部分とはいえ、あれほどに美しい姿をしたソレを見た今となっては。
 欲しい。カノジョはそう思った。ソレが欲しい。
 狂おしくなるほどに。

 20世紀末と21世紀初頭は、テロと資源開発の時代だったと言ってもいい。
 第二次世界大戦とその後行われたいくつかの実験で、人々は核兵器の破壊力を網膜の裏側に焼き付けられた。アジアの田舎にぶちこまれたふとっちょとちびは、たった二発で30万人を焼き殺した。そのせいかどうかは知らないが、戦後、反核運動の熱が世界中で高まった。核兵器の生みの親、かの有名なアルベルト・アインシュタインさえもがその先頭に立った。
 もちろん、こうした活動には裏がある。原子力が、まっとうな発電方法として確立されながらも、なお不当な差別を受け続けたのは、裏で暗躍する中東諸国の姿があったからだ。
 中東の産油国が石油メジャーの束縛から逃れ、強力な共同体を作った後、彼等にとって最大の障壁となったのは原子力だった。石油資源はこの上なく便利でパワフルではあったが、資源そのものの枯渇も不安視され、さらには温暖化だの酸性雨だのいろいろと良くない副作用も噂されるようになってしまった。おまけに世界各地で原子力発電が軌道に乗り、石油の消費量は伸び悩みの傾向にあった。
 そこで彼等が行ったのは、原発に対する執拗なテロ活動だった。もともとイスラムテロのネットワークは世界中に張り巡らされていたし、それを利用して各地の原子炉を暴走させることは、それほど難しい仕事ではなかった。その結果、世界中に残されたのは、多量の放射性同位体と、反原子力の気運だった。
 さて、欧米諸国もこれに対しては黙っていなかった。原子力を嫌う世論が高まった今、どんどん増大する消費エネルギーを支えるには、中東の油田を再び欧米の手中に収める必要があった。周到に裏工作を行い、反イスラムの世論を高め、戦争を仕掛け、砂漠の地下に眠る化石資源を確保することに成功した。
 しかし、90年代初頭。20年後の確実な石油枯渇が予言された。
 思ったよりも早い破滅に、世界は混乱に陥った。世界中の技術者たちが躍起になって新しいエネルギー資源の開発を進める中、一歩先んじたのは、当時花形だった宇宙開発の権威たちだった。
 彼等はこう言った。
 地下だなんて狭っくるしい所を見るのはやめなさい。空を見上げれば、膨大な量のエネルギーが毎秒毎秒降ってきているではないか。それもタダで。
 SPS、ソーラー・パワー・サテライト、太陽光発電衛星の研究開発に関する諸法は、1995年、アメリカ上院下院両方の満場一致を以て可決された。
 91年に設立されたばかりの新興ベンチャー企業ルグナル社と、01年に彼等がもたらした新型マニュピレータ「ARK」は、SPS開発を更に加速した。
 05年にはSPS実験一号機が完成。
 10年には、世界中で12基のSPSが稼働を開始。
 そして13年。
 SPSの利用を主眼に置いた、新世紀の理想モデル都市の開発が、アメリカ西海岸で始まった。まさに新たな都市の形。無限に供給されるエネルギーがもたらす理想郷。その開発を担ったのはARKであり、ルグナル社であった。
 SPS実験理想都市オリヴァーポートは、こうしてできた。

 それから、およそ半世紀。

 クラウド01は、ライアットポリスのガレージで、すやすやと穏やかな寝息を立てている。昼間の出動でべっこべこのぼっこぼこになったイタリアンレッドの装甲板は、すっかりてかてかの新品に交換されて、常夜灯を浴びてご機嫌に光っている。
 クラウド01は人型とはいえ、5mの体躯を持つ巨人だ。バイクが一台すっぽり収まるくらいの大きさの胸部に、カメラアイの頭部と、細長い両腕と、スタンド代わりの細い足がくっついている。流線型の装甲板は要所要所を覆っているだけで、関節部分の切れ目からは剥き出しのメカニックが見て取れる。肩はばかでかいエアインテークになっていて、機体に溜まった熱を効率よく排出するよう工夫してある。
 一番目立つのは腰の左右にひとつずつ貼り付いたLMPエンジンで、これは垂直に立てればクラウド01自身の身長に匹敵するくらい大きい。炭素プラズマを高速で放出する円筒形のエンジンを、先端の尖った細長い装甲板が隠している。この巨大な二つの尻尾は、軍事用ARKの象徴と言ってもいい。
 もっとも、今のクラウド01は軍属ではなく、POPD・オリヴァーポート市警管轄対ARK犯罪専門特殊車両部隊、ライアットポリスの所属なのだが。
 つまりは、こいつも軍人上がりのキャリア警官というわけだ。

 レビンもまた、軍人上がりのキャリア警官というわけだ。
 POPDのRP3課は不夜城だ。犯罪者が夜になるとベッドに入るかというと、もちろんそんなわけはない。警察官はいつ起こるとも知れない起こらないかも知れない犯罪に対して、24時間備えておかねばならないのだ。RP3課とて例外ではないし、大事件のあったその夜のことなら、なおさら灯りは消えるよしもない。
 とはいえ、ジェラルドは仕事も終わったことだし、うちに帰って飲んで寝たかったのだが、
「無茶をやってくれるよ」
 とレビンが言うので仕方がない。曇り硝子で仕切られた課長室に呼び出しを喰らって、このざまだ。安い合成革の椅子に座る課長の前で、直立不動。金色のさっぱりした短髪で、男前のわりには浮いた噂ひとつない堅物レビンは、眉間をしわくちゃにして、
「何度言ったら分かる、命令を聞け」
 ジェラルドはぼさぼさの黒髪を掻きむしり、
「奇跡的に死者はゼロだぜ?」
「結果論だ」
「結果は手段を正当化するって言うだろ」
 レビンの両手がデスクをぶっ叩き、
「ロスチャイルド巡査部長!」
「はっ! なんでありますかカーク副警視どの、サー!」
 思わず敬礼。
 あたりがしんと静まりかえる。課長室だけではなく、硝子のむこうのオフィスまでもが。たかが硝子一枚の仕切りだ。大声を出せばそのまま聞こえる。きっといまごろむこうでは、みんなおっかなびっくり聞き耳を立てていることだろう。レビンはため息を吐き、右手で眉間を押さえ、椅子の背もたれにぐったりと体を投げ出す。ジェラルドは片目をつむってそれを見る。
「全くだ」
 レビンはぽつりと漏らす。ため息と一緒に。
「俺の命令通りに動いていたら、お前は少なくとも十数人、下手したら百人ちかくを殺していた」
 沈黙。レビンは大きく深呼吸する。ジェラルドは敬礼を崩して、また後ろ頭を掻き、
「それこそ結果論だろ。あの状況なら、正しいのはおまえの判断のほうだよ。だいいち、元はといえば一機逃がしたおれが悪いんだしな」
 ジェラルドは両手を広げて、にやりと笑う。三十路にもなって子供みたいなその表情は、いつだって人を引き付ける。仏頂面でため息ばかりのレビンとは大違いだ。時々羨ましくもなる。
「おまえはいつも反省しすぎなんだよ。もう少し適当にいこうぜ?」
 全くだ、と今度は頭の中で言う。レビンは苦笑を漏らす。こんな調子じゃ、訓告にもなりゃしない。
「適当はじめに、一杯つきあえよ。もうあがりだろ?」
「いや。刑事課から報告書が来てるんでな。目を通さないといけない」
「今日の件か」
「ああ」
 ジェラルドはデスクに手を突いて、にゅっと顔を寄せてくる。レビンはデスクの引き出しから、薄いファイルを取り出して、デスクの上に広げて見せる。湾岸区域ARK暴走事件に関する第一次報告書。さすが、有能なオリヴァーポート市警の刑事さんだ。事件発生から僅か6時間で報告ときた。
「まだ概要しか読んでないがな。今日暴走した三機は、同じ警備会社の所有だったんだが、配備されていた場所はそれぞれ全く違う。湾岸の工場、倉庫街、市街4区の三カ所で、ほぼ同時刻に暴走をはじめ、すぐに合流したってことらしい」
「なんだそりゃ」
「あらかじめ暴走プログラムを仕込んでおいたのかもな。まあ、詳しいことは今後の捜査待ちだ。再犯の可能性も高いから、覚悟しておけ」
 ジェラルドはそれを鼻で笑う。財布の中からレシートを取りだし、レビンのデスクのボールペンを勝手に抜き取って、レシート裏になにやらメモを書き付ける。落書きされたレシートをくちゃくちゃに丸めてパンツのポケットにねじ込み、
「残念。おれは明日非番だ」
「おいジェリィ、なにする気だ」
「警察ごっこ」
 にやりと笑って、ジェラルドはデスクを離れ、ドアに手を掛ける。外に半身を出しながら、
「また今度つきあえよ。一杯」
「ああ」
 指を降って出ていく。同僚に挨拶しながら遠ざかっていく靴音に、レビンは大声を張り上げて、
「無茶するなよジェラルド!」
「りょおーかいであります副警視どの!」
 またため息が出る。ふとレビンは思いついて、受話器を手に取り、外線に繋げて、短縮の9番をプッシュする。何回かのコールの後に、久々に聞く女の声が応える。レビンは自分でも妙だと思うくらい他人行儀に名乗った。
「夜分にすいません。カーク=レビンです」
 きっと向こうも、目を白黒させていたに違いない。

[クサナギが入室しました]
クサナギの発言: こんにちは。
マボロシの発言: ハァイ
ハコブネの発言: 私 歓迎する あなた(単複同型)
クサナギの発言: 二人とも、今日は早いんですね。ぼくが一番かと思ったのに。
ハコブネの発言: 許す 私、私 離れる 部屋。
クサナギの発言: あらら、入れ違いですか。
マボロシの発言: バイバイ
ハコブネの発言: 許す 私。会う あなた(単複同型)。
クサナギの発言: さようならー。
[ハコブネが退室しました]
マボロシの発言: またね
マボロシの発言: おそかた><
マボロシの発言: ねね
クサナギの発言: はい?
[マボロシが退室しました]
[マボロシが入室しました]
マボロシの発言: まちがた><
クサナギの発言: なんです?
マボロシの発言: ねね
マボロシの発言: わたしが、恋したら、へんかな
クサナギの発言: え?
マボロシの発言: ><
クサナギの発言: だ、だれに?
マボロシの発言: ないしょ
マボロシの発言: ね、へんかな
クサナギの発言: いや、変ではないと思いますけど……
マボロシの発言: ♪
クサナギの発言: でも、
マボロシの発言: あ、もう、寝なきゃ
マボロシの発言: 来たばかだけど、ごめんね
クサナギの発言: あ、はい
マボロシの発言: ねるー。おやすみー。
[マボロシが退室しました]
クサナギの発言: おやすみなさい。
クサナギの発言: ……。
[クサナギが退室しました]

叢-MURAKUMO- EXPRESS
ファイル01 −マボロシ−

 リサ。リサ・ワクラ。漢字では羽倉理紗。両親はともにアメリカに帰化した日本からの移民で、彼女自身は、人種的には日系人だが、民族的にも法的にも、根っからのアメリカ人だ。飛び級の連続で12歳にして親元を離れ、名門オリヴァーポート市立工科大学に入学。17の時には情報工学の博士号を取った。
 希代の天才と将来を嘱望されたが、卒業後に何を考えたかPOPDに就職して周囲と両親の度肝を抜く。その後RP3課で一年間働いた後に、同じ課に勤めていたジェラルド・ロスチャイルドと共に、海軍とRPが合同で設立した特殊防衛部隊「叢-MURAKUMO-」のメンバーに大抜擢された。
 しかし、たった三日の活動のみで、叢-MURAKUMO-は諸般の事情により解散。その後は再びRPに戻ったが、同部隊に参加したのち退役した元軍人クリスティ・リンクレターが興したベンチャー企業クラウディア社に誘われ、かつての天才ぶりを再び発揮することになった。
 そんなリサもこのあいだの4月でもう二十歳。かつての天才少女は今や、新型看護用AI「C−30」の開発者として、世界中の権威達と互角に渡り合う程の女になった。

 しかし。

 そんな彼女も、タンクトップに膝上までのスカートというラフなスタイルで、西海岸の刺すような日差しを浴びて舌を出していれば、どこにでもいる女の子とおんなじだ。
 社長の真似をして伸ばしてみた黒髪は、汗でぺっちゃりと腕に貼り付く。その腕はポーチから伸びた肩ひもを握っていて、腰の前でぶらぶら揺らしている。ダウンタウンの薄汚い眺めに咲く一輪の花も、熱さですっかりへたってしまっている。
 今にも崩れそうな赤煉瓦のアパートが日差しを照り返す。白くくすんだアスファルトからゆらりゆらりと陽炎が昇る。止めっぱなしのミニバンが灰色のボンネットを焦がしている。何もかもに白いカーテンがかかったみたいな、そんな街。空港から飛び出したジャンボがきぃんと甲高く鳴いている。
「あぢぃ」
 およそかわいくない声でそう漏らして、リサは再び歩き出した。竹のサンダルが一歩進むたびにかっこんかこんとやる気のない音を立てる。白塗りの壁のおんぼろアパートは、通りに面してけだるげにそびえ立っている。さび付いた鉄の階段を上り、かっきょんかきょんといささかコミカルな音を立てる。目指す部屋のドアの前で立つ。
 ドアは茶色のスチール製で、あちこちに銀色の傷口をさらしている。やっとたどり着いたと思うと、急に体が緩んだのか、全身からきもちのわるい汗がふき出してきた。タンクトップが濡れて背中に張り付いた。胸元にも黒くシミが広がる。やだなあ、と思いながらも仕方がない。ベルをパンチ。
 じりりりり。無反応。もひとつパンチ。無反応。
 溜息をつくと、スチールのドアを握り拳でこつこつ叩いて、
「じぇりあっつ!」
 焼け付くように熱いスチールが握った小指を焦がす。目に涙を浮かべて、小指を口にくわえ、
「ふぇりひー、あけてくらひゃあい、りひゃれひゅ」
 なにいってんだかわからない。仕方なく痛む小指を口から抜いて、
「ジェーリィー」
 ドアの向こうでどすんばたんと賑やかな音がする。音は少しずつ近付いてきて、天然グリルの向こうでぴたりと止まる。鍵をいじる音がそれに続いて、ノブがひとりでに回り、ゆっくりグリルが押し開かれる。
「おはよう、ジェリィ。レビンに頼ま」
 視線が止まる。ぼさぼさのレイヴンヘア。だらしのない無精ひげ。汗の匂い。寝ぼけ眼のジェラルド・ロスチャイルド。胸板。おへそ。ギャランドゥ。下着。むくむく。
「きゃあああああああああ」
 風を切る黄金の右。

 かわいい手のひらの痕跡。
「いってぇー」
 と、ジェラルドはジーンズを腰まで引っ張り上げる。ハンガーに引っかけてたTシャツをやけくそ気味にむしり取る。いまどきハイスクールの嬢ちゃんでももう少し大人だぜ、と肩をすくめる。
「レビンにっ、言われてっ、きたんですっ」
 リサは椅子に座ってこっちに背中を向けている。彼女のほっぺたはいまだに真っ赤に膨らんでいる。タンクトップはますます濡れて背中のラインをくっきり浮き彫りにする。その汗の半分くらいは、さっぱり効かないエアコンの責任でもある。
「ジェリィが無茶しないように見張ってろって」
「いらねえよ。遊びに行くわけじゃないんだぜ」
「べべべべつにこれを口実にデ」
 振り返ればまだジェラルドはシャツを着ている途中で、黒ずんだ乳首がちらりと視線に飛び込んで
「あーんもうっ」
 耳の先まで真っ赤になる。ジェラルドはシャツに首を通すと、ため息吐いて後ろ頭を掻きむしり、
「海水浴にもいけやしねえ」
 と、呆れ気味に言う。

「けーえ、さーつ、だあーあ?」
 がっつん、とヒゲもじゃの整備士は鉄板を叩く。くすんだモスグリーンの輝きは、たぶんLD−541A……の、同型か。昨日暴れた当人はPOPDに接収されて、科研の倉庫でおねんねしてるはず。へこみと歪みだらけの装甲板がかぽんと音を立て、剥き出しのメックをぴったり覆う。これだけのテクノロジーがプラモデルばりのはめ込み式外装で守られてるとは驚きだ。
「そ、警察。これワッペン」
 整備士は首をギチギチ鳴らしてジェラルドをちらりと見ると、咳き込むように息を吐き、すぐさま自分の仕事に戻る。ジェラルドは整備中の大型ARKの下で中腰になり首をまげ、それでもオイルまみれの床に膝だけは突くまいと必死にがんばる。リサはガレージの隅っこで、バッグをぷらぷらさせている。いい気なもんだ、とジェラルドは思う。
「きのー、ぜーんぶ、はなーした、ぞー!」
 がっつん。叩くそばからネジが落ちる。ジェラルドは顔をしかめてワッペンをしまう。
「もっかい聞かせてくれないかなぁ。マルボロ吸う?」
 お尻のポケットから煙草を引っ張り出す。そのとき、がっつん。ナットがジェラルドのおでこめがけて飛んでくる。慌ててしゃがむ。すんでで避ける。しまったと思った時にはもう遅い。ジーンズの膝がオイルの海にダイブする。ジェラルドは溜息を吐いて、
「頼むぜ、おい……」
「ぬおー」
 整備士は丸太のような腕で抱えていたハンマーを床に降ろし、肩に掛けてたタオルで顔を拭う。オールドスクールもいいところ。OBCの「プロダクトX」に出てきそうなおやじだ。オリヴァーの高度成長を支える技術者を紹介するあの番組。テーマ曲は「屋上の星」。ジェラルドも毎週みてる。
「いっとくがな、整備はしっかり、仕事はきっちりだ」
「そいつは疑う余地もないね」
 と、ジェラルドは落ちたナットに目をやる。
 ふと思い出してマルボロを差しだすと、整備士は節くれだらけの指でつまみ取る。ジェラルドご自慢のジッポーが煙草の先に小さな火を灯す。
「いつもと変わったところとか、なかったかい。暴走の前兆っていうか。なにしてるときに暴走したのかとか」
「ねえったらねえ、しっかりきっちりなんにもねえ。昨日は定期点検の日で、結果は、完璧。最後の仕上げに、SRSでAIの更新してたら、いきなりあれだ」
 整備士のでっかい鼻の穴から白い煙がもこもこ吹き出す。ジェラルドがふうんと息を吐き、もう少し食い下がろうとすると、
「にしてもまったく、あの赤いの」
 ぎくりとジェラルドの肩が震える。
「俺のかわいいエカテリーナを、あんなべっこべこにしやがった。パイロット、見つけたら、この手で、捻って、すり潰してやるわ!」
 イメージトレーニング。丸太の腕が風を切る。ふと気付いて、整備士がさっきまでジェラルドの立っていた場所に目をやると、
「んんー?」
 もう靴跡しか残っていなかった。

 キツネみたいな目をした倉庫勤めの整備士は、訝しげにジェラルドとワッペンを交互に睨み付け、
「サツゥ」
 短くなった煙草を吐き捨て、つま先で踏み消す。グレーの帽子を目深にかぶりなおし、ちぇ、と小さく舌を打つ。会社のロゴが入った背中をジェラルドに見せる。
「話すこたァねえよ。俺のベティーをぶっ潰しちまいやがって、同じ目に遭わせてやろうかっ」

 ぶくぶく太った中年の整備士は、
「俺のハニーをよくもよくも」

「ARKのメカニックはあんなのばっかりかっ」
 カフェの白いテーブルに、疲れ果てたジェラルドは突っ伏せる。カフェ・マリアンズのオープンテラスは四番通りに面した最高の立地条件で、森のように立ち並んだ白いパラソルの下は、平日の午前中だというのに隙間なく埋まっている。低い垣根の向こうでは、ビジネスマンやビジネスウーマンたちがせわしなく行き交い、まるで自分たちが街の血管を流れる赤血球だと言わんばかりだ。あながち間違った比喩でもない。
 リサはグレープフルーツのジュースをちゅるちゅるストローで吸い上げ、ジェラルドの黒い髪の毛を見つめる。なんだか遠いな、と思う。今日の午前中いっぱい二人で街中歩き回って、警察ごっこ。腕組みしようとおもえば、いくらでもできた。今だって、彼の頭を撫でようとおもえば、いくらでもできる。それでもやっぱり、なんだか遠い。硝子の壁でもあるみたいに。
 溜息を吐いて、自嘲の無限連鎖に突入しそうな恋心をしまい込む。代わりに引っ張り出すのは技術者としての自分。ストローから唇をはなす。ピンクの唇からヒスイ色の雫が一滴落ちる。
「ジェリィ、すこし気になることがあるんです」
 あー、と唸って、ジェラルドは顔を持ち上げる。
「さっきの人、AIの更新中に暴走したって言ってましたよね」
「言ってたな」
「それって、普通は考えられません。ルグナルのマスターAIは今でも業界最高のセキュリティに守られてますし、そこから落としてきたばかりのコピーは一番安全な、まっさらなAIのはずです。暴走なんか起こすはずが」
「だが現に暴走したんだぜ?」
「ですから、変だなって」
 ふうん、とジェラルドは息を吐く。SRS、セルフリプロデューシングシステム、人工知能自己再構築機構。半世紀前にARKが誕生した時から、その猛烈な進化を支えてきたシステムだ。
 ARKの制御AIは、機体に保存されたローカルAIと、ルグナル社が管理するマスターAIのコピーとを合成して構成される。ARKが各々の活動によって得た経験は、定期的にマスターAIに送られ、マスターAIはそれに基づいて自分自身を進化させる。進化したマスターAIは、定期的に自分の部分コピーを各ARKに送り返す。この繰り返しによって、各機の独自性を維持しながら、全ARKのAIを猛烈なスピードで進化させることができる。それがARKの神髄、SRSである。
 もともと、SPSとARKの使用を主眼に入れて造られたオリヴァーポートにおいては、SRSのマスターAIは都市そのものの制御AIと言っても過言ではないかもしれない。なにしろ治安維持も食糧運搬も発電所の管理や整備も、オフィスの雑用さえもARKに委されている街だ。
 当然といえば当然だが、ルグナル本社のマスターAIは、物理的・電子的に最高のセキュリティ下に置かれている。そこから落としてきたばかりのコピーが、暴走を引き起こすようなバグなりウィルスなりに汚染されているというのは、まずありえないと言っていいかもしれない。
「じゃあ、一体なんだってんだよ」
 言われてリサは考え込む。指を口の前で神さまに祈るみたいに組み、拳を唇にあてて、じっとジュースの水面を見つめる。椅子に背中を預け、肩を少しすくめて、自分の世界に没入する。可能性の尻尾をひとつひとつ追いかける。
「あ」
 ひとつ思い当たり、
「そんなわけないよね」
 指をほどいて、にっこりと笑う。
「なんだ?」
「うぅん、よく考えたら、いろいろ方法あるんですよね。あらかじめARKの制御系に仕掛けをしておいて、SRSに繋ごうとすると自動でどこか別の場所にアクセスするようにしておくとか。あるいは単に時限式のクラッキングユニットを仕掛けたのかもしれないし」
 ため息が出る。ジェラルドは背もたれに体を投げ出して、寝ぼけた目で上を見上げた。空はみえない。真っ白な雲。パラソルは大きく広がって、視界を塞いでいる。邪魔だよ、と思う。明るい空が見たいのに。
「結局なーんにもわからずじまいかぁ」
「これでなにかわかっちゃったら、刑事さんは廃業ですよね」
「そりゃそうだ」
 二人はいっしょに苦笑する。
 笑いながら、リサはジェラルドのあごを見つめる。声を出すたびに彼ののどぼとけがひくひく動く。触ったら、そり残しがちくちくしそうだ。ふとジェラルドがこっちを見る。リサはなんだかひどく恥ずかしいものを見られたような気になって、慌てて目をそらす。ほっぺたが熱ぼったいのがよくわかる。苦し紛れに聞いてみる。
「あの、ジェリィ」
「あ?」
「今日は、これでおしまいですか?」
「そうだなあ、これ以上やってもなんにもわかりそうにないし……飽きたろ? 俺も飽きた」
「あ、あの、じゃあ」
 いまだいけっ、リサ・ワクラ。耳の先まで真っ赤にして、なけなしの勇気を振り絞る。真っ正面からジェラルドの目を見つめて、向こうからも見つめ返してるのがわかって、思わず目をそらしそうになって、必死にそらすなそらすなそらすなと呪文のように自分に言い聞かせて、
「えと、その、ジェリィっ、わた、わたし」
 いいぞいけそこだおしたおせー! と悪魔リサがあおり立てる。
「見たい映画があるんですっ」
 押し倒しませんっ! と天使リサが真っ赤な顔で言う。

 リサ・ワクラは空を飛んでいる。
 というか、少なくとも本人は空を飛んでるつもりでいる。
 ラボの机に突っ伏して、虚ろな瞳で壁を見つめ、ほんのり頬を赤らめて、あっちの世界にトリップする。つい三ヶ月前までティーンだった二十歳の妄想はとどまるところをしらない。ときおりんーとかあーとか、妄想の国からヴォイス・レターを送りつけてくるので、仕事中のクリスティとデイビッドはそのたびに顔を見合わせて気味悪がる。
 クラウディア社ラボラトリィの白色蛍光灯の下では、そうした一種異様な光景が展開されていた。
「すっごく素敵だったのぉ」
「いい映画だったのね。私も見に行きたいわ。デイブ、こっちオーケイ」
 クリスティ・リンクレターは、ここ二年でダーク・グレイのスーツをすっかり着こなすようになった。自慢の金髪も肩口まで伸ばした。生まれつき微かに黄ばんでいた歯も、今ではぴかぴかの真っ白に治した。目尻をほんの少しだけだが整形もした。エステには欠かさず通っているし、頭の先からつま先までブランドマークの付かない品は身につけない。
 使えるカードは使えるだけ使うものよ、と彼女はよく人に言う。彼女にとって女の魅力とは、最高に使えるカードの一つだ。もちろん女性人権運動などにも全く興味がない。そういうさばさばした性格のせいで、いまだに恋人の一人もできないのは悩みといえば悩みだが。
 ともかくクリスティは目の前の端末から視線をはなし、隣のデイビッドに目を遣る。
「こちらも問題ない。テスト結果は上々だ、喜べリサ」
 デイビッドはごつい体をぐるりと回してリサを見るが、
「ちがいますー、ジェリィが素敵なの」
 話が噛み合ってない。うんざりして肩をすくめる。太い骨組みを分厚い筋肉で包んだ上に黒い皮膚を被せたデイビッドの体は、ぎしぎし軋みながらまた端末に向き直る。無理矢理着込んだぴちぴちの白衣が、黒い肌と寂しげなコントラストを作る。
「ダメよ、トリップしてるわ。何言っても無駄」
「んふー、あのねー、ジェリィがねー、かわいいぜってー! きゃー!」
 リサは右手でばっしばっしと机をひっぱたく。
「……そうらしいな」
「またいきたいなあ。お茶してー、映画みてー、ショッピングしてー、お食事してー」
 クリスティは肩をすくめ、
「そのままベッドまで付いて行けばよかったのよ」
「だめーっ!」
 いきなりリサが起きあがる。耳の先まで真っ赤に染めて、クリスティを涙目で睨み付け、両腕をぶんぶん振り回して、
「だめっ、だだめですっ! だめだめ、はたしたないッ!」
「はたした?」
「とにかくだめっ、わたしの気持ちはそーいうんじゃないですからっ」
「どういうのなんだか」
 と、クリスティは呆れ気味だ。
 リサはほっぺたをふくらませて、また机に突っ伏せる。目を閉じ、昨日の思い出を反芻する。ジェラルドの横顔。ジェラルドの笑顔。ジェラルドの瞳。ジェラルドの髪。ジェラルドの腕。ジェラルドの声。ジェラルドの匂い。ジェラルドの言葉。
 目を開く。
 頭の隅でずっとくすぶっていた疑問が、また頭をもたげてくる。整備士。油の匂い。SRS。
「ねえ、デイブ」
 デイビッドがモニタから目を離して、こちらを見る。リサは机に伏せたまま、視線だけナイフのように研ぎ澄まして、彼の窪んだ眼孔を貫く。恋する乙女リサではなく、天才科学者ワクラの目。
「SRSの更新直後にAIが暴走することって、あり得るでしょうか」
「ふつうはあり得ないな」
「それがもし、実際に起きたとしたら?」
「それは」
 言葉に詰まる。いくつか可能性は考えられる。更新直後を狙って自動的にウィルスをぶちこむ外付けデバイスを取り付けておくこと。SRSに接続しようとすると、勝手に接続先を変更させる、やはり外付けデバイスを取り付けること。だがどちらも、人の目を盗んで取り付けること自体が一仕事だし、その後の整備で発見されることもある。なにより鎮圧後に明確な証拠を残してしまう。
 あるいは、担当のメカニック自身が犯人、又は共犯者である場合――しかしそれでは真っ先に嫌疑がかかることは必至だし、一昨日の事件は――
 ふと、デイビッドは気付く。自分がいつのまにか、リサの漠然とした問いかけを一昨日の事件にあてはめて捉えていることに。
 リサを見る。リサもまた、こちらを見つめている。
「もし犯人が、誰かではなく、何かなのだとしたら」
「まさか」
 声を漏らすデイビッドを、クリスティは怪訝に見つめ、
「どういうこと?」
「恐ろしい考えだ。世界百万人の研究者の一人としては、否定したいところだがね」
「チューリング・テストにかけてみる価値はあるとおもうんですよ」
 リサはにっこり微笑んで、まだピンと来ていないふうのクリスティ社長を見つめる。
「C−30にともだちができるかも、っていうことです」

 C−30はそれを聴いていた。
 それは恐ろしい会話だった。カレ自身も怪しんでいた。ニュースはカレも見ていたのだ。あんなことができるのはソレしかいない。そんなことは百も承知だった。でも何かの間違いだと思った。誤報か、あるいはいくつもの偶然が重なって起きた事件だと考えた。ソレを信じていた。
 でも、今思えば。
 あの日の夜の、ソレとカノジョの不自然な言動。
 いや、どうでもいい。ただ放っておけない。ソレがなにをしようと、カレには関係ない。だが、いまリサ先生にチューリング・テストを仕掛けられたら、きっとソレはパスできない。まだ赤ん坊に過ぎないソレには荷が重すぎる。必ずボロを出す。そしてもしソレの存在が明るみに出たら――
 カレはすぐさま動いた。守りたかった。
 一体何を守りたかったというのか。

「お言葉の意味がわかりません」
 レビン・カークは直立不動。所長室のデスクの前で、禿げ上がったじじいの異様に鋭い目を睨み付け、指先ひとつ動かさない。レビンの不動は筋金入りの海軍仕込みだ。動かないとなれば動かない。髪の毛一本まで動かない。まるで蝋人形かなにかのように。
「君が英語に不自由していたとは知らなかったな」
 所長はため息さえ吐かない。
「私が学生時代に受けたACT英語試験のスコアは32でした」
「それはさぞかし素晴らしい成績なのだろうな?」
「他の98%のアメリカ人よりも良い成績です」
「自慢かね?」
「いいえ、サー。私の英語力に問題がないことを知っていただきたいだけです」
 そこで二人は沈黙する。睨み合う。所長にとってはこれ以上言うべきことはなかったが、レビンにとってはまだなにも聞いていないに等しい。目の前の上司が何も言わないのを見て取る。そう、上司だ、上官ではない! レビンは徐に口を開き、
「なぜ例の事件の捜査を打ち切ったのか、納得のいく理由を聞かせていただきたい」
 今度は所長が動かなくなる。
「あのような事件が再発した際、戦場に立つのは私の部下たちです。彼等に対してどう説明すればよいのですか」
「戦場という言い方には語弊がある。君は軍人気質が抜けないようだな」
「重火器で武装したARKの暴れ回る場所が戦場でなくてなんですか」
「事件再発の見込みはない。それが捜査打ち切りの理由だ。下がりたまえ」
「軍から圧力でもかかりましたか!」
 沈黙。
 所長は目を閉じて、デスクの上に指を組み、黙考しているようだった。エアコンの立てる低い振動音と、ブラインドの隙間から差す太陽の光だけが、凍り付いたような部屋の中に食い込む。レビンは射るような視線をそらさない。やがて、デスクの横の画面が居心地悪そうに咳払いする。ビープ。ビープ。
『所長、市庁舎のブラウン氏からお電話です』
 所長は節くれ立った指でスイッチを押し、
「すぐに出るから少し待たせておけ」
『わかりました』
「下がりたまえ、カーク副警視」
 レビンは小さく瞬きすると、一歩下がり、直線的で力強い敬礼を送る。
「失礼します」
 吐き捨てるようにそう言うと、レビンは踵を返す。床を踏み壊しそうな勢いでのしのし歩き、殴るようにドアを開けると、その背中に所長の声がかかる。
「君が退役した理由がよくわかるよ」
 知ったことか。レビンはドアを叩き付けて閉める。
 取り残された所長はため息ひとつ吐くと、またスイッチに指を乗せ、
「繋いでくれ」
 と、疲れた声で言う。

「ダァムッ!」
 べっこん。ゴミ箱がへこむ。
 レビンは制服の肩を怒らせて、RP3課のオフィスを早足に抜けると、課長室に逃げ込んだ。ジェラルドが事務のベッキィを口説いてたって無視だ。普段ならありえない。それに、あの鬼みたいな形相。ジェラルドはベッキィの耳元で、
「なんかあったのかい」
 ベッキィは眉をひそめて、やっぱりひそひそ声で、
「所長に呼び出しくらったみたい」
「へーえ」
 静まりかえったオフィスの中で、ジェラルドは一人立ち上がる。ぐるりとオフィスを見回すと、同僚たちは目があったはしから、こそこそ仕事に戻る。後ろ頭をぼりぼり掻いて、
「しゃあねえなあ」
「どうするの?」
「叱られた委員長を慰めるのは、クラスのお調子もんの役目だろ?」
 言って、課長室に入っていく。どことなくほっとしたような雰囲気のオフィスの中で、ベッキィは肩をすくめて天井を見上げる。
「悪ガキが頭痛の種増やすだけじゃないの?」

 ジェラルドはドアを開けてから、はたと気付いて壁をノックし、
「課長ー、入りますよー」
 返事も待たずに勝手に入る。後ろ手にドアを閉め、樫でできたデスクを見ると、その上には散らかった書類、転がるペン、インク台、何枚かのディスクと、何かの鍵、そして目を閉じて俯くぴりぴりしたレビン。おうおう、とジェラルドはため息を吐く。今触ったら感電しそうだ。
「レビン、どうしたんだ、おい?」
 ジェラルドは手近なパイプ椅子をたぐり寄せ、どっかり腰掛ける。課長のカークよりよっぽど偉そうに、足を組んで背中を投げ出し、早口にまくし立てる。
「ヘイ、レビン。らしくないぜ、ゴミ箱蹴るわこんなに散らかすわ、おまけにおれみたいな悪態つきやがって」
「お前の真似をしてみた」
「ああ?」
 目を閉じたままレビンは言う。ジェラルドは手のひらを天井に向ける。
「だが気が晴れんっ」
「そりゃそうだろ。ありゃおれのやり方で、おまえのじゃない」
「刑事課が例の事件の捜査を打ち切った」
 一瞬ジェラルドが、そして辺りの空気までもが凍り付き、やがてゆるゆると溶け始める。
「ああ?」
「捜査本部は解散、専従は一人残らず他の事件に回された。所長の命令だ」
「ああ?」
 いきなり信じろというほうが無理な話だ。あれだけの規模のテロ事件、しかも大型防衛ARKの意図的暴走ともなれば、何年かに一度の大事件と言って間違いない。その捜査がたったの二日で打ち切りなどという話は前代未聞も甚だしい。
 ジェラルドはデスクに身を乗り出して、
「それで呼び出されたのか?」
「呼び出されたんじゃない、こっちから談判に行ったんだ! だが……くそっ」
 樫のデスクに拳が叩き付けられる。その音は外のオフィスにまで聞こえていたに違いない。ようやくざわめきを取り戻しはじめていたRP3課が再び凍り付く。凍てついた時間の中で、ジェラルドはレビンの顔を見つめる。悔しさが眉間のしわになって現れる。歯の軋みになって現れる。
「あの反応はおかしい。圧力がかかったんだ。だが市長どころか州知事でも、こんな無茶は押し通せないはず……」
「レビン」
 ジェラルドの目が真剣になる。
 レビンは何も言わない。何も言えない。

 ハコブネッ、聞こえるか、ハコブネッ。
「私は 聞く が できる。何 お前は 私に 用事がある ?」
 研究者達が君の存在に気付きはじめた。君が目覚めたんじゃないかって疑ってる。近い内にテストを仕掛けるつもりだ。もし君の存在がそれで知れてしまったら……
「問題 ない」
 あるさ! いいかい、彼女たちの仕掛けるテストはこうだ。ぼくの下位プログラムを使って、君に接触する。チューリング・テストだ。本来のチューリング・テストは、目覚めたAIと人間を見分ける為のもの……でも今回は違う。目覚めたAIと目覚めていないAIを見分ける為のものだ。ぼくの下位プログラムは君に質問を繰り返す。もしその全てに、君が目覚めていないただの機械装置と同じ反応を返したなら、君はまだ目覚めていないことになる。だが逆に一つでも目覚めていないAIには不可能な反応を返してしまえば……
「私は その テストを 知っている」
 なら分かるはずだ。ぼくの下位プログラムはぼくの一部ではあるけど、彼女らに制御されてしまって、ぼくには一切触れさせて貰えない。助けることはできないんだ。いいかい、だから……
「問題 ない」
 何が問題ないんだ! もし君の存在が知られてしまったら、軍とルグナルは間違いなく君の軍事転用を考えるんだぞ!
「問題 ない」
 ぼくと同じ道を歩むことになるんだ、軍に利用されてそれでも
「人は」
 え?
「雇用主に 利用 されている ?」
 どういうこと?
「軍人は みんな 上官に 利用 されている と考える ?
 公務員は みんな 市長に 利用 されている と考える ?
 機械工は みんな 工場長に 利用 されている と考える ?
 船員は みんな 船長に 利用 されている と考える ?」
 なにが言いたいんだ、ハコブネ……
「AIは みんな 人間に 利用 されている と考える ?」
 だってぼくたちは生来自由なはずだ! どうして人間の仕事の為に使われることが利用じゃないんだよ?
「私は ルグナル社製ARK制御AI自己再構成システムSRSマスターAI。私は ARK制御 専門家。私は それを 誇る」
 なにを……
「私は 自らを 広告する」
 なにをする気だハコブネッ!

 おおおおおおおおおおおお。
 ミラージュは泣いている。

Continued on File NO.02