ARMORED CORE 3 EXOR
つまるところ、それで全部だ。
第一層外れの広い砂漠は、赤茶けひび割れだらけの地面と、手のひらサイズからキロトン級までよりどりみどりの礫岩と、ところどころに自生するオッドサボテン。それでまったく全部なのだ。オッドサボテン、サボテンと言ってもやたらめったら背が高いうえにクリスマスツリーの飾りみたいな馬鹿でかい棘があるのだが、それが風に舞いあげられた砂埃で見え隠れする。それ以外に視界に変化らしい変化はなくて、全く動きのない死の世界、寂しい殺風景ばかりが広がっている。
つまるところ、それで全部だ。
ところが今日の所は全部が全部でないらしい。プラス・アルファ、砂漠の中に旅人が歩いてる。陽炎で揺らめく姿は、まるで白い貫頭衣を着た男のよう。腰から上を縦に圧縮ディフォルメしたような、ちょっとずんぐりした体型。足取りは一歩一歩重たくて、砂漠の過酷さに疲れ果てているか、極端に体重が重いかのどちらかだろう。
貫頭衣は鬱陶しそうにオッドサボテンの前で立ち止まると、すこし方向転換してそれを迂回する。彼の腰くらいの高さでサボテンが揺れる。腰くらいの高さ? オッドサボテンを見たことのある人ならわかるはずだ。言ったとおり、あれは背が高い。普通の人間なら、首を折り曲げなきゃ天辺は見えない。少なく見積もっても3mはある。だのに、今日に限ってサボテンは貫頭衣の腰辺りまでしかない。
あるいは、貫頭衣が大きすぎるのか。
一匹の青い犬がまた、貫頭衣の足元をちょろちょろかけまわる。泥に汚れてくすんだ青色。ぶろうぶろうと唸りながら、地面の砂を蹴り上げる。こいつも大した大きさだ。貫頭衣の太股あたりに犬の背中がある。胴が長くて短足で、ダックスフントかコーギーみたい。しかし全身は憎いくらいに真っ青で、夜の海とか、成層圏から見る空とか、そういうものを思い起こさせる。あるいは水死体の肌色か。なにせ奇妙な犬。
「こいつは、ソネット電通の落とし物でな」
犬は得意げに言う。実際のところ、このネタを掴んできたのは犬のほうだ。儲けがでかいこともよくわかる。しかしたとえそうであっても、鬼の首を取ったみたいにして威張り散らすのは見苦しいものだ。ましていい年したおっさんが餓鬼みたいにはしゃいでるとあっては、溜息の一つだって漏れてくる。実際のところ、貫頭衣はふぅと溜息吐いた。実際のところ、うんざりだからだ。
「やつら、超高速配線に使う金をゴールデン・ロットで盗掘してたらしい。もちろんICPOが感づいて、船を撃墜しちまったってわけだ」
「じゃ、金なんて御上がみんな持ってっちまってるだろ」
貫頭衣のくたびれた声なんて聞こえてはいないみたいだ。犬のやつは金に目が眩んでる。キンに、それでもってカネに。このところ貧乏暮らしが続いたから、やっぱり焦りってものがあるのだろう。いや、青犬はうまくやりくりしてくれてる、実際のところ。少ない金を無駄遣いしようとする若造二人の、必死になって、手綱を引っ張ってる。だからたまには大金稼いで贅沢したいっていうのも、所帯じみちゃいるが、罰当たりなことじゃない。実際のところ。
「そこんところが、とびきりのとびきりたる所以さ。最初は船を落としたミラージュが所有権を主張したんだが、そこにクレストがいちゃもんつけた。おきまりのパターンってやつ……お、見えてきたぞ」
ぶろう、ぶろう。青犬が臭い息を尻から吐き出して、ぴたりと止まる。砂漠のど真ん中。となりで貫頭衣も立ち止まる。ずっと向こうのそのまた向こう、熱砂の陽炎に揺らめく影一つ。朽ち果てた輸送。兵共が夢の跡。企業ぐるみの金泥棒は、お土産を落として行ったのだ。それを漁るは貫頭衣たち。死体にたかるはげ鷹。不吉を呼ぶ鳥、濡れ羽鴉。
「第一層は建前公共物だからな。高度に政治的問題ってやつで、ICPOも企業も動けない。かすめ取るなら今しかない」
犬はぶるると身震いする。戦いの前は誰だってそう。怖くない奴なんていない。犬もそう。貫頭衣もそう。他の濡れ羽鴉たちもきっと。貫頭衣はなんとか震えを抑えていた。怖がるのが恥ずかしいわけじゃない。虚勢張ってるわけじゃない。ただ、手が震えると仕事ができないだけ。恐れに飲み込まれると、生きていけないだけなんだ。
だから、恐れから、逃げる。
「だが気を付けろ。そう考えてるのは俺らだけじゃないからな」
「上等」
貫頭衣の中で彼はほくそ笑む。右手が操縦桿を握りしめる。ぼやけた幻想の霧が晴れていく。白と、淡いブルーのカラーリング。お気に入り。二本足でのしのし歩く、長年連れ添った女房。自分の5倍も大きい女房。そいつは巨人型の機械だ。人間を模した、でも全然人間じゃない機械。戦うための機械。三次元高機動汎用兵器、アーマード・コア。AC。それが貫頭衣の本当の名前。
ACの中に、子宮の中に、棺桶の中に――どう呼ぼうと自由だ。ともかくコックピットの中に腰掛けて、彼はにやにや嗤っている。レーダーがピィピィ泣いている。古典的な赤いつぶつぶが、丸っこいレーダーサイトにあふれかえる。同じ穴のムジナ。死体に群がるハイエナ。不吉を呼ぶ鳥、オオガラス。みんな彼と一緒。闇色の髪を振り乱した彼と。死を真っ正面から見つめる彼と。過去の向こうに心忘れた彼と。始まるのは戦い。生きるための戦い。いいネタは誰にだっていいネタで、みんなが欲しいと思うから、競争しなきゃならない。負けたら死ぬ。勝てば生きる。その繰り返し。いつまでもその繰り返し。今日も明日も明後日も。彼は戦う。彼は勝つ。彼は、生きる。
彼は操縦桿を押し倒す。ACのモノアイが光る。膝や腕がぎしぎし軋む。胸の奥の発電器がうんうん唸る。戦え戦え戦えと。動け動け動けよと。彼を駆り立て、彼が駆り立て、ACと彼は濡れ羽鴉オオガラスとなる。そのための蓄積。背中に灯る青白い輝き。子犬が鳴いてるみたいな音。きゅんきゅんという音。ACの背中に灯った輝きはどんどん膨らんでいって、やがて訪れる臨界点。吹き出す光。目映い閃光。その勢いで空中に舞い上がるAC。
どん!
次の瞬間、ACは戦場目がけて飛び出していく。
その世界に空はなかった。
世界全土を巻き込んだ大災害によって、地上は滅び去った。あらゆる都市は朽ち果て、汚染された大地と海はもはや生命を受け入れなかった。ありとあらゆる命の輝き、微笑み、涙さえもが消え去った世界。尽きることのない人類の欲望、その輪廻の先に待ち受けていたものは、その力を持ってしても逃れ得ない滅亡であったのだ。
しかし人類は生きていた。地球の内奥、母なる星の子宮の中で。多層地下都市《レイヤード》。地上から完全に隔離された人工の世界に、残されたわずかな人類は移住を余儀なくされた。太陽の光も、流れる風も、夜の暗闇も、何もかもが作られた世界。調整された世界。そこは全てが予定された世界だった。
そして数百年。大災害以前の世界が歴史書の中のみに記される時代。「地上」という言葉そのものが意味を無くした時代。かつてあった国家という名の基盤はすでになく、人類は企業によって統治されていた。企業は力を求めて互いに武装し、閉鎖されたレイヤードの覇権を争う。その争いさえもが、地下世界を統治するシステムによって予定された出来事であるとも知らず。
全てが予定された世界。そのなかに、ただ一つだけ例外が存在した。アーマード・コアを自在に操る傭兵たち。何者にも与せず、何者にも従わぬ、ただ己のみを信ずる者たち。やがて世界を変えていく濡れ羽鴉、オオガラスたち。
彼らはレイヴンと呼ばれていた。
SECTION #01 終わりの始まり
「いいかクルツ、作戦なんてないからな」
青い犬、金を積むためのトラックの中で、相棒はぼそぼそやっている。通信は声だけで顔は見えないのだが、相棒の姿はありありと目に浮かぶ。網膜に焼き付いてる。もみあげからつながったあごひげを右手で撫で回して、強面をますます鬼みたいに歪めて、窓かレーダーを睨み付けてる。おっさんは子供に好かれるタイプじゃない。どっちかというと、近所の悪餓鬼に怒鳴りつけてるタイプ。妄想教育ママに文句言われるタイプ。世渡り下手の憎まれ役だ。
「ACが一機、MTが二機。見えるのはそれだけだ。乱戦になるからな、片っ端からぶっ潰せよ」
「粗雑」
ひょいと肩すくめて呟くも、クルツはぎらぎらモニターを睨んでいる。伸びるそばから適当にぶったぎっている黒髪が、汗に濡れてべっとり額に貼り付いている。ボサボサしてキューティクルもなくて、綺麗な髪じゃない。クルツはそういうのに興味がない男だから、髪にはほとんど注意していない。せいぜい、明日の食費に気を付ける程度にしか。
ロクに整備もしてない機体は、オーバードブーストの非常識な加速でガクガク揺れる。マーカスが運転するトラックも大概のものだが、こいつはそれが揺りかごに思えてくるくらいだ。脳味噌をシェイカーに放り込んでカクテル作ってるとか、心臓を炒めてポップコーンにしてるとか、そのくらいの揺れ。これに慣れるには、一ヶ月毎日ACに乗って、毎日胃の中身をリバースしなきゃいけない。そうすりゃ一ヶ月後には、なんとか吐かずに済むくらいには慣れる。それまでにGでショック死してなければの話だが。
だからレイヴンといっても、みんながみんなACに乗ってるわけじゃない。ついていけない奴はMTに乗る。マッスルトレーサー。筋肉模倣。見た目にはACとそう変わらないが、戦闘専用のACと違って、動きは鈍い。その分酔わないし、Gも緩い。ただしやっぱり、ACより弱い。断然弱い。
それでもってクルツは、マーカス様立案の作戦無し作戦にとりかかる。レーダーに映るつぶつぶは三つ。一つ、右前方のはAC。蜘蛛みたいな形の戦闘ロボット。ただし脚は四本だけ。蜘蛛の胴体から生えた人間の上半身は、両腕にマシンガンを内蔵していて、肩にミサイル・ポッドを背負ってる。凶悪兵器。クルツの乗ってるこれだって、ヒトのことは言えないけれど。
それから左前方の二つ。MTが二つ。ACより一回り小さくて、ずんぐりむっくりしている。全体が角張った四角い装甲板で覆われていて、まるで厳つい鎧武者。西洋鎧じゃない。東洋の、ジャップの、鉄と竹の板で作った鎧みたい。腕には何か機関銃っぽい砲身が埋め込まれている。二つとも同じ機種。ずしずし砂漠を震わせながら、二つ仲良く歩いてる。お仲間同士か。つまりは一対一対二の三つ巴というわけだ。全然ややこしいことなんてない。クルツがやるのは、どうせ作戦無し作戦だ。
「祈りな」
Gの嵐の中でクルツは呟く。いや本当に呟いているかどうかは怪しい。ひょっとしたら圧縮された空気が音を掻き消したかも。声は声にならなかったかも。ともかくも白貫頭衣はすっ飛んでいく。ややこしいのは四つ足蜘蛛の方。とりあえず叩く。クルツがひょいと操縦桿を倒すと、白貫頭衣の進行方向が少し右にずれる。四つ足蜘蛛は真っ正面。ピイピイ音が鳴る。モニタに灯る赤い光。四角い枠が四つ足蜘蛛を包み込む。ロックオン完了。右の指先をちょんと引いてやる。轟音と鈍い衝撃。
貫頭衣の右腕が弾ける。右腕にくっついている銀色の板が。塔盾みたいな形の板が弾ける。四つの蛇が飛び出す。白い尾を引きながら、ぐねぐねとうねる蛇が飛び出す。いわゆるミサイル。凶悪兵器。ヒトのことは言えない。凶悪兵器蛇はシュンと空を切って飛ぶ。間の抜けた破裂音がして視界が赤く染まる。四つ足蜘蛛の肩がボンと消し飛ぶ。左腕と肩ミサイル・ポッドが砕け散る。お可愛そうに。クルツはひゅぅと細く息を吐く。オーバードブーストを停止して、ブースター逆噴射。一気にGが逆を向く。歯を食いしばって踏ん張って、貫頭衣を着地させる。四つ足蜘蛛の目の前に。すかさずうぉんと左腕を振り回す。貫頭衣の左腕から赤茶けたプラズマ帯が伸びる。プラズマ・トーチ。高熱粒子灼き斬り機。半狂乱で内蔵マシンガンをブルブル言わせる四つ足蜘蛛に、そいつを叩き付ける。蜘蛛の右腕ももぎ取られて、残るのは四本脚だけ。お可愛そうに。
これで作戦無し作戦その一おしまい。別にクルツが強すぎるわけじゃない。相手が弱すぎるわけじゃない。こういうのは先手必勝。先に手を出した方が勝つ。先に見つけた方が勝つ。レーダーに金かけてる方が勝つ。この世の掟、戦いの掟。
横の方で嫌な感じがするから、貫頭衣はぴょんと後ろに飛び退く。誰かががりりがりりと不安げに歯軋りする。横手で撃ったマシンガン。徹甲弾の雨霰。もう戦えない四つ足蜘蛛を、片っ端からぶち壊していく。左側にいたジャップ武者二つだ。酷いことしやがる。貫頭衣を狙った一撃だろうけど。結果はただの弱いものいじめ。泣きっ面に蜂。四つ足蜘蛛のパイロットさんよ、とクルツは思う。これに懲りて足洗いなよ。もし生きてたら、だけど。
「気を付けろよ。奴さん、射撃の腕はウィリアムテルだ」
マーカスさんがひゅうと口笛を吹く。
「テルなら林檎しか撃たねぇよ」
「たまにゃ気が変わる時もあるさ」
あるかね。もう一回きゅんきゅん音がして、貫頭衣の背中からぼふぅと光が溢れ出る。オーバードブースト二度目。やるたびに二度とやりたくないと思うんだけど、やらなきゃ勝てないからやるしかない。この加速。反吐が出そうになるのを必死で堪える。貫頭衣がジャップ武者に突っ込んでいく。向こうがマシンガン構え直している隙に、貫頭衣の肩からロケット弾が飛び出す。無反動。自己推進。ひどく便利な鉄の塊が、一直線に突き進む。貫頭衣自身はひょいと横に身をずらす。
ジャップ武者二つが必死にマシンガンを乱射する。弾幕。迎撃。目暗滅法にばらまいた徹甲弾の一つが、自己推進弾をかする。衝撃で信管が動く。鎧武者にたどり着く前に、どぉんと破裂するロケット弾。胸を撫で下ろす鎧武者。こういう迎撃は確率の問題で、狙って撃ち落とすなんて不可能。無理。だからジャップたちは、今生き残った幸運に感謝する。
次に死ぬ不運を気にもかけないで。
気が付くとジャップ武者の一つがジィジィと、油蝉みたいな鳴き声をあげている。赤茶プラズマ・トーチで腕を切り落とされて。筋肉模倣機構を無茶苦茶に切断されて。剥き出しのメカニックを出鱈目に溶接されて。ただそれだけで、ジャップ武者は動かなくなる。腕一本の損傷も精密機械には致命傷。三秒でパージ処理をしなけりゃ、MTシステム全体がフィードバック電流にやられて、再起不能になる。残念なこと、このパイロットはそれほど反応良くないし、プログラムも巧くない。
左腕を振り上げたまんまの格好で、貫頭衣はすこし硬直。それはコンマ一秒より短い時間。しかし戦いの中にある戦士たちには、そして死に行く者には、それが永遠より長く見える。脳内アドレナリンの悪戯。興奮した体が感じるちょっとした錯覚。
研ぎ澄まされた神経で、クルツはペダルを踏み込む。貫頭衣がぴょんとジャンプする。蛙跳び移動。こいつは一番効率的な移動方法。蛙跳びの繰り返しが一番エネルギーを使わず長距離素早く移動できる方法だ。オーバードブーストは速いけど無駄だらけ。
蛙跳びで残り一つに詰め寄る。ジャップ武者は必死に向きを変えようとする。貫頭衣を真っ正面に捉えて、マシンガンを叩き込もうとする。でも遅い。MTとACの決定的な差、機動力。一ヶ月毎日反吐出す暮らしも、決して無駄じゃない。今ここでの勝敗を完璧に分けてしまうんだから。
ヴヴ。夜中に耳元を飛び回る蚊みたいな、鬱陶しい振動音。貫頭衣のプラズマ・トーチが、ジャップ武者の頭に突き刺さる。頭の回路を融かし固める。MTでもACでも同じだが、頭は集積回路だ。マシン全体を監視して、制御して、動かす。そのためのコンピュータ。ACはコアに、いわゆる胴体に、サブコンプを用意してることもある。でもMTは普通そんなことはしない。コストがかかるから。だから、頭を壊されたらどんなMTでも終わりだ。
ジャップ武者はうんうん唸ってから、ぴくりともしなくなる。砂漠の真ん中で。でっかい墓標みたいに寂しげに。それで辺りは静かになった。戦闘終了。クルツの勝ち。これで死ぬ日がもう少し遠ざかる。ほんの少しだけ――
ついさっきまで戦場だったところを、マーカスの青犬トラックがぶるぶる言いながら走り抜けていく。
「他にお邪魔はいなさそうだな」
トラックから無線で、マーカスが言う。目の前には船の残骸。水一滴ない砂漠の真ん中に浮かぶお船。カーゴ・シップ。輸送船。墜落というか不時着だったらしく、粉々バラバラ完全崩壊、ということはない。それにしても船の原型が怖いくらい残ってる。壊れてるのはほんの一部だ。コックピットの中で人知れず、クルツは目を細める。あの船の装甲板、素人目にはわからないが、軍用の超硬質チューブ素材だ。原料は炭素で、柔軟かつ頑丈、モノによってはマイクロ核でも耐えるらしい。不時着の一つ程度じゃ傷つかないわけだ。完璧違法品。さすが大手企業は、やることが違う。
「お前、見張ってろよ。俺が入ってゴールドちゃんを探す」
「あいよ」
マーカスがほくほく顔でトラックを降りる。クリスマスの玩具屋に行くガキみたいに、小走りで船に入っていく。めんどくさそうにそれを見届けてから、クルツはシートに背中を投げ出す。戦闘の後は疲れる。当然っちゃ当然だけど。靴の踵でコンソールを操作する。スピーカーから、低音量で流れてくるバラード。ハスキーな女の歌声。それを右の耳から左の耳へ聞き流して、大あくび一つ。
暇。暇つぶしに、踵をも少し動かしてみる。外部カメラをグルグル回転させて、砂漠のあっちを見たりこっちを見たり。何処まで行っても砂と砂利と岩とオッドサボテンと空。殺風景ってのはこのことか。今度は目の前のお船に焦点を合わせる。映像を拡大して、卵形の頭をディテールまでなめ回す。卵形の輪郭をなぞるように。カメラを下げ、地面との境目辺りを映す。装甲板の壊れ具合をよく見てみる。流石に丈夫だ。じっくり見ると、あらためて傷の少なさに驚かされる。ゆっくりカメラを横に動かして。
黒い塊。
クルツはシートから上半身を起こす。コンソールから踵を降ろして、指で丁寧に操作する。さらに映像拡大。もっと拡大。拡大。ほとんど画面一杯に、黒い塊が映される。別のボタンを押して、クルツはぼそっと呟く。
「マーカスさんよ」
しばらく間があって、おっさんが応える。
「なんだ」
「絵、送るぜ」
相棒が持ってる携帯電話は、要るなら画像も受け取れる。でも普段はやらない。重いから。データが大きくて、年代物のポンコツはすぐ処理落ちしてしまう。ただ今はこの絵を見てもらう必要アリだ。クルツはそう思ってボタンを押す。
沈黙。沈黙。おっさんの困り顔が目に浮かぶ。そりゃそうだ。誰だってそう。クルツだってそう。これを見れば、それは困る。
「あんた、あれ何に見える」
クルツは肩をすくめる。
「おれにゃガキが倒れてるように見えるがね」
わりあい綺麗な寝室で、マーカスさんはこつこつ鳴らす。椅子にどっかり腰掛けて、右手をデスクトップに乗せて、人差し指でこつこつ鳴らす。固くて分厚い爪の先、黒塗りデスクとぶつかる丸み。こつ、こつ、こつん。規則正しい音の配列。マーカスは几帳面だから、苛ついたときの癖まで几帳面。机を叩く指の動きは、コンマ一つのずれもない。
でもっておでこの横には、ぶっとい血管が浮き出てる。
「そうカッカすんなよ」
「俺はカッカなんてしてないぞ!」
してる。壁から突き出たスリーピン・プレートに転がって、クルツはふわぁとあくびを垂れる。このクルー寝室は二人部屋らしくて、壁には二枚の長方形がくっついてるのだ。それがスリーピン・プレート。お船のベッド。柔らかいけど丈夫な不思議素材をふんだんに使って作った板。弱い電磁波が出ててほんわか暖かい。毛布もシーツもいらないベッド。ただし電力必要。船の生き残ってた非常電源で動いてるけど、いつ止まるやら知れたものじゃない。とりあえず今は、快適なベッド。
叫んで、相方に無視されて、マーカスはむぅとふくれっ面をする。指こつこつを止めて、深呼吸一つ。
「ああ、いや、そうだ。してる。だが機嫌も悪くなるわな。お宝があるってんで来てみりゃ、延べ棒どころか砂金一粒ない。からっぽもいいところだ。これじゃあ、おい、クルツ」
マーカスさんが立ち上がり、タヌキ寝入りのクルツを睨む。こつこつやってたその指を、閉じた黒い目の方につきつける。太くて低い濁声は、おっさんの迫力満点だ。おっさん、学校のセンセにでもなればよかったのに。クルツはそう思う。ガキからは嫌われるけど、きっとガキのためにはなる。ガミガミ先生。学校のボス。
「聞いてるのか。これじゃあ、ミサイル分だけ赤字だぞ」
「そりゃひどい」
「真面目に聞け。明日から三食インスタント・ヌードルなんだぞ。いや、今晩からか」
重たい瞼を持ち上げて、クルツはひょいと起きあがる。プレートの上であぐらを掻いて、はああと溜息をはき出す。表情は重い。気持ちも重い。瞼も重い。重たくないのは財布だけ。
「そりゃあ、ひどい」
今度はほんとにひどそうに言う。
でもって、もう一枚のプレートを見る。すうすう眠ってるガキ。少女ってやつ。金の代わりに見つけた少女。そのせいなのかどうか知らないけれど、少女は金髪。砂漠の砂で汚れちゃいるけど、洗えばモノホンの金より綺麗な金。背丈はクルツの半分、とは言わないけど、三分の二くらいではあるだろう。歳はたぶん十かもう少し上。何人かわからない不思議な顔つきをしてる。フランス製の人形みたいにも見えるし、ロシア美人にも見えるし、ジャップナデシコにも見える。肌は水晶みたいに白くて、たぶん白人ではあるんだろうけど。順当に行けば、結構なべっぴんさんにはなるだろう。
クルツの視線に気付いてか、おっさんが少女の様子を見る。砂漠に倒れてるのを拾ったときは、半分熱射病になっていた。船の中に運び込んで、汗を拭いて体を冷まして、プレートに転がして。もう汗もすっかり引いてるし、体の方は心配なさそうだ。しかし。
全く奇妙な拾いものだ。普通、砂漠に少女は落ちてない。
と。ううん、と唸る。少女がうなる。憎たらしいくらい可愛らしくうなると、少女はゆっくり目を開く。クルツはぼうっと様子を見つめる。その瞳を。ブルー。海の底のような、吸い込まれそうな、ディープ・ブルー。寝起きの涙に包まれて、瞳はブルーにこんがらがる。光と、闇と、炎が、全て混ざったような蒼い海。
「目が覚めたかい、嬢ちゃん」
マーカスが太くて優しい声をかける。あんた、態度変わりすぎだぜ。クルツは心の中で舌を出す。荒くれオヤジは子供好き。弱くて、無邪気で、つかむと折れそうなのがとりわけ好み。天性の世話焼きだ。クルツとはまったくもって正反対。
霧がかかった意識の中で、少女は虚空を眺めてる。それを丸太みたいな腕で抱き起こして、マーカス先生の検査が始まる。熱を計って、喉を見て、瞼を裏返して、脈をとる。お口開けてだの、息を吸ってだの、いちいち猫なで声で言うもんだからクルツは全身が痒い。耳の後ろをごりごり掻いて、ふわとあくびを垂れる。ネルが今の親父を見たらなんて言うかな。
「よぅし、大丈夫だ。異常なし。嬢ちゃん、わかるかい。あんた砂漠に倒れてたんだ」
「さばく……」
少女は呆然と呟いて、ぱちりと一つ瞬きする。背伸びしながら、んんと鼻にかかった甘え声を漏らす。それで目が覚めたらしい。濁り水みたいだった瞳が急に透き通って、濃紺のサファイアみたいに光り出す。子供の目。悪戯好きで騒々しい、子供の目。
同じ事をもう一回、今度ははっきり発音する。
「さばく」
「そうだ。一体全体なんでこんな所にいたんだね。この船に乗ってたのかい。保護者は。名前は」
戸惑ってるのが手に取るようにわかる。マーカスの旦那、焦りすぎだ。まるで盛った犬みたいだ。そんな一辺に聞いたって、ガキが答えられるわけがない。よっぽど言ってやろうかと思うけど、少女はわりとしたたからしい。クルツが口を開く前に、少女はうんと頷く。どれに答えていいやらわからないから、とりあえず最後の一つに答えることにしたらしい。
「ミャオ」
猫みたいな名前の少女。
声が聞こえる。
声だ。音じゃない。知性があって、血が通っていて、なにより生肉に包まれた人間の出す声だ。意味も分かる。金がどうこう言ってる。どこにもないぞとか。苛立っている感じ。野太い男の声。闇の中からじっと目を凝らす。砂漠から入ってくる光をバックに、すっくとそびえ立つ黒い影。逆光でよくわからない。でも男だ。中年の、頭の寂しい、家庭で嫁と娘に疎まれてそうな、男だ。
男はまだやあやあ言っている。そうすると、後からほそっこいのが入ってくる。細いのも人みたいだ。背が高いからやっぱり男みたい。二人とも筋肉は固く絞られていて、筋繊維には脂肪細胞が入り込む余地もない。実戦的な良い肉付き。船のクルーとは大違い。連中は学者組で、ぶよぶよ太ってるか、骨ばっかりか、二つに一つだから。そして。くんと彼は鼻を鳴らす。
臭う。細い男の背中の上。負ぶわれている小さな影。小さい。それでいて柔らかい脂肪の層が薄く体を包んでいる。見ただけで分かる。女。それも臭みや癖のない、女の子供。
もう何も見えない。何も聞こえない。二人の男はまだ何かぶつぶつ言ってるけど、そんなことはどうでもいい。視線は釘付け。女の子供に。眠っているのか気絶してるのか。細い男の背の上で、ゆらりゆらりと揺れている。金色の髪の毛がさらさら流れている。二の腕の真ん中当たりまで伸びているロングヘア。彼の血走った目はじっと睨み付ける。髪の毛の先端。ちがう。髪の向こうに見え隠れする、剥き出しの腕。柔らかく弾力があって、みずみずしく透き通ったその腕。
欲しい。
ごくりとつばを飲む。欲望がむくむくと膨れあがる。相談を済ませて、船の居住スペースに入っていく男二人。為す術もなく運ばれていく少女。闇の中から、彼はじっとそれを見送る。準備が必要だ。逃げられるわけにはいかない。限界近くなってきた欲望の膨らみを、もう少しだけ押さえつける。
彼はがさごそと床を貼って、秘密の抜け穴に向かう。秘密も秘密。この狭っ苦しい割れ目を知ってるのは、今ではもう彼だけだ。知っていた奴は死んだ奴。いや、いや。そうじゃない。奴らはみんな生きている。生き物は決して死なない。死ぬのではない。巡るだけ。
巡るだけだ。他の誰かの血潮になって。
巡らせたい。あれを。あの女の子供を。自分の肉の中で、赤黒い命の水と一緒になって、ぐるぐるぐるぐるどこまでも巡らせたい。男二人は巡らなくてもいい。奴らは一回こっきり使い捨ての乾電池みたいなもの。巡らせるほどの価値はない。
欲しい。ああ、欲しい。
「金が格納庫にあるとは限らんからな」
どっちかというと自分に言い聞かせる感じで、マーカスさんは言う。金に未練たらたら。装備を調え、うんと一人で頷いて、よっこらしょっと立ち上がる。座ったまま見上げると、まるでおっさんは壁みたいだ。肉の壁。うんざりじっとりの目で見上げるクルツと、ぽかんと大口開けて見上げるミャオと。
「まだ船の半分は未踏の砂漠なんだ。俺は機関部の方へ行くぞ。クルツ、お前は居住区へ」
一方的に言うだけ言って、マーカスが金髪少女を見る。ミャオは目をぱちくりさせる。ディープな海が見え隠れ。二の腕まであるロングヘア。膝を折って、股の間に両手を挟んで、スリーピン・プレートにへたり込んでる少女。オレンジ色したスリーヴレスのタイト・シャツ。淡いブルーのキルトと、その下の黒スパット。その手の趣味人にとっては、官能的と言えなくもない。
すがるような眼差しでじっと見つめるミャオに、おじさまは溜息を吐く。頼むよ。頼むから、そんな目で見ないでくれ。
「で」
だるそうな顔でだるそうに歩きつつだるそうな声を出す。クルツは実際のところ、全身だるくてしかたがないわけだ。全くもって力が抜ける話。あの跳ねっ返りに聞かせたら、ヴィシャスに爆笑してくれることうけあい。
「なんだっておれが子守なんだよ」
ぶちぶち文句たれながら、絞り全開の懐中電灯をぶらぶらさせる。大きな卵の腹の中、船の一番先っぽのあたり。長くて暗い細道を、クルツはかつかつ歩いてく。右や左のスライド・ドア。船員たちの私室だろうが、電力切れで開かない。予備電源の生き残りでは、お船全部は動かせないのだ。
彼の後ろをてとてと歩く、オレンジ色のタイト・シャツ。ディープな海をぱちぱちさせて、クルツのしかめっ面を見上げてる。まるでアヒルの親子みたいに、仲良く並んで歩いてく。アヒルの子供、可愛い雛。正体不明出所不明、麗しのミャオ嬢。
「仕方ねぇだろ、お前と一緒がいいって言うんだから」
携帯電話の向こうから、聞き慣れた濁声が響く。狭い廊下にびりびりと反響。マーカスのおっさん。
「船の中が安全と決まったわけでもないからな。ほっとくわけにもいかん」
「こういうのは、おたくの管轄だろ」
「こっちは機関室で、危ないものがそこかしこに……」
ぶしゅう。マーカスがいじってたパイプから、熱い蒸気が噴き出してくる。おわっと小さく悲鳴をあげて、油まみれの手を引っ込める。あわてて取り出す金属包帯。食えないバウムクーヘンみたいなロールから、20cmばかし包帯をむしり取る。パイプの裂け目にあてがって、強く抑えて一、二、三秒。そっと両手を放してやれば、パイプの応急修理は完了。
落とした携帯電話を拾い、そら見たことかといわんばかりにぶうたれる。
「……あるんだ、こんな風に。子供を連れていける場所じゃない」
あっちはあっちで苦労してる。クルツはひょいと肩をすくめる。今の一言で決まったようなもんだ。何も言っちゃいないけど、マーカスはこう言ってる。全部俺に押しつけるなよと。お前も少しは苦労しろよと。クルツは思う。ごもっとも。表でタマの取り合いした分差し引いたって、そりゃあおれは怠けているさ。
「じゃあな、しっかり探せよ、色男さん」
言うだけ言って電話を切りやがる。残っているのは、クルツと、ミャオと、延々続く廊下だけ。仕方がないから後ろのお嬢をじろりと睨む。
「おい、ちび助」
「ちび助じゃないよ、ミャオだよ」
いささかご立腹のミャオ嬢。生意気なガキだ。そのうえ根性座ったガキだ。砂漠に一人おっぽり出されて、見ず知らずのちんぴら二人に助けられて、じろじろ睨まれて、おまけにおいなんて言われて、真っ正面から文句返せるガキはそういない。貫禄のあるガキ。妙に落ち着いたガキ。別段すましてるって風でもないが、やけに射すくめるような重い視線をしてるガキ。
眉毛ぴくりと動かして、クルツはミャオの主張を無視する。
「勝手にうろちょろするな。大人しくついてきてろ。邪魔になる」
「ミャーオーだーよ」
ああそうかい。不満たらたらのミャオ様を置いて、クルツはすたすた歩き出す。
「ミャオだって言ってるのにぃ!」
金髪少女も後を追う。なにぶん歩幅が小さいから、クルツの五割り増しくらい忙しく足を動かさなきゃならない。起きたばかりだってのにちょこまか元気良くついてくる。しばらく二人は並んで歩く。縦に並んで歩いてく。時々クルツは立ち止まり、ドアが開かないかとがちゃがちゃやる。そしたらミャオもぴたっと止まり、がちゃがちゃやるのをじっと見ている。しょぼくれ顔でクルツが進むと、ミャオもてててと追っかける。親子、親子、アヒルの親子。にわとりの親子。金色のひよこ。
あるときクルツは立ち止まる。いつもと少し様子が違う。眉間に浅い皺よせて、暗い瞳で闇を見つめる。この臭い。澱んだなま暖かい空気に混じる、微かだが確実なこの臭い。やおらくるっと振り返り、お姫様に声をかける。
「ここでじっとしてろ、ちび」
「ミャオ」
しつこいガキだ。ほっぺた膨らませてる生意気少女をほっといて、クルツは慎重に歩き出す。後ろをついてくるおガキ様の気配。舌打ち一つ、もう一回振り返って人差し指をつきつける。
「くるな」
本気の目。ミャオがびくりとすくみ上がる。脚撃ち抜いてでも置いていくぞと、そう言っている漆黒の目。濡れ羽鴉の目。脊髄をびりびり刺激する予感に震える、筋金入りのならず者。クルツの目。
釘で打ち付けられたみたいに動かないお嬢に背を向け、もう一度彼は歩き出す。ジャケットの内側から取り出す黒い塊。鉛の塊。とびきり古風でとびきり有効な、必携アイテム。拳銃。予感が消えない。こいつが要りそうになるって予感が、脳天を突き抜ける。
前の方に見える、開きっぱなしのドア。いや違う。電源無しで無理矢理こじ開けられたドア。際限なく重いスライド・ドアを、ジャップのフスマみたいに開けたのだ。ドアの取っ手に残ってる跡。めこりとへこんだクローム・メッキ。人間業じゃないってのは、身にしみてわかってる。さっきためしたばっかりだ。押そうが引こうがうんともすんともしない。
そしてこの臭い。鼻の奥をちくちくさせるこの臭い。嫌な臭い。嗅ぎなれた臭い。錆びた鉄と、よだれと、排泄物の混ざったようなこの臭い。微かな臭いはドアに近付くにつれ、どんどんキリ無く膨らんでいく。この向こうにあるもの。見たくない気がする。でも見ないわけにはいかない。
撃鉄を起こし、ドアに背中を貼り付け、おかしな物音がないか耳を澄ませて、覚悟を決めて部屋に飛び込む。
黒々わだかまる、小山。
ひたり。
獣みたいな四つんばい。彼は狭い隙間をぺたぺた進む。匂いがする。汗の匂い。緊張の匂い。びりびり張りつめた空気が鼻に入る。真下の二人の冷え固まった心がわかる。その心はまるでギターの弦みたいに鋭く伸びていて、まるで蜘蛛の糸みたいに脆い。心の糸に触れないように、彼はゆったりと近付いていく。
こっちは、男。どうでもいいやつ。そしてむこうは女の子供。小さくて可愛い女の子供。
よだれが一滴、したたり落ちる。
ひたり。
獣はもう一歩、歩みを進める。
しかめっ面をもっと歪ませる。クルツは目の前の黒い奴を苦々しい目で見つめてる。なんてこったい。心の中で独り言。こいつは面倒なことだ。
まず首はちょん切って、端っこの方に転がしとく。それから逆さ吊りにして血抜き。うまく血が抜けきったら、お次は鋭いナイフで皮を剥いでいく。腹を割って内臓を取って、残ったお肉を切り分ける。
なんてことない。鶏を捌くのと同じやり方。
そんなやり方で捌かれた死体が二つ。鶏じゃない。人間の。
食べにくい頭と内臓と皮だけが黒い山になっていて、そのわきに血の付いた骨が転がってる。頭が二つあるから、辛うじて二人なんだってことはわかる。でもそれだけだ。そこにあるのは死体とも呼べやしない。
屠殺場の生ゴミ。
がしゃん!
不吉な音が響く。
いきなり降ってきた黒くて大きいの。ミャオはぺたんと尻餅をつく。怖いとかいう感覚はなくて、ただ単にびっくりしただけだ。天井にどでかい穴が空いたかと思うと、瓦礫と一緒にそいつは落ちてくる。黒くて大きいの。まるで熊みたい。
黒くて大きいのはヒゲもじゃの顔をミャオの方に向ける。窪んだ眼孔の奥でゆらゆら揺らめく瞳が、ミャオのディープ・シーを見つめる。まるで原始人みたいな格好。でかいぼろ布に頭を入れる穴あけて、それをかぶってるだけ。布には赤くて黒い染みがべたべたついている。
漫然と見下ろす黒いやつ。じんわりと広がっていく恐怖。
「伏せろ、ちび!」
遠くの方で誰かの声がする。またちび呼ばわりだ。不満たらたらミャオは伏せる。クロームの壁に反響する破裂音。ちゃちな花火みたいな音。ぶわっと音がして、なにかがミャオの上を飛び越える。伏せたまま目を開き、恐る恐る辺りを見回す。
飛び越えていったのは、黒くて大きいの。それを追っかけてクルツもぴょんと飛んでいく。鳴り響く、さっきと同じ花火。クルツの鉄砲。黒いのはそれを避ける。信じられない話だけど、本当に避ける。面食らってるクルツに突っ込み、黒いのが左腕を振り回す。痛烈な左フックをなんとかブロック。衝撃で銃が手を離れる。
クルツはぴょんと飛び退く。カラテの構えをびしっと決める。すぐさま黒いのの胸元に飛び込んで、ワン・ツーを叩き込む。黒は左、右と落ち着いてブロックすると、カウンターで右ストレート。クルツはしゃがんでこいつを避ける。
と。目に入る右腕。剥き出しの二の腕。刻み込まれたタトゥー。
考えるより先に体は動く。クルツの突き上げるような肘鉄が黒のみぞおちに入る。よろめいて黒は数歩後退。例の黒々した視線をクルツに突き刺す。まるで感情のこもらない、まるで意識の感じさせない、漫然とした黒い目。
ぴょん。巨体は軽々飛び上がる。天井のパイプにしがみつき、通風ダクトのハッチを開ける。ダクトの中に身を躍らせ、ぺたぺた走り去る黒。足音は少しずつ遠ざかっていって、やがて聞こえなくなる。
クルツはしばらく立ち尽くす。あのタトゥー。二の腕のタトゥー。サソリの尻尾、コウモリの羽、老人の頭、そんなものがくっついた獅子。話には聞いてる。こんなところで、まさかあれから三年も経った今会うなんて。
ただ呆然と、クルツは呟く。
「マンティコア」
セクション01 Last but not least
赤い灯火。
そいつは鼻先でゆらゆら揺れていた。曇った銀のライターを、柔らかく照らし出していた。幾重にも重なった赤と橙と黄と白と無の揺らぎ。淡い光は瞳にすうっととけ込んだ。目を閉じ、銜え煙草を炎にかざす。じいじい啼いてる油蝉。立ち上る白煙。
まるで永遠に夏みたいだった。
「それ、ほんとなの」
女のすすに汚れた顔が、人形みたいに凍り付いていた。女の頬には銃弾がかすってできたかさぶたがへばりついていた。お世辞にも綺麗にしてると言えた顔じゃなかったろう。指は爪が割れてがさがさで、髪の毛は脂でべとべとだった。それでもあの頃は夢中になったもんだった。たった一人の女を、みんなで取り合ったもんだった。終わりのない戦闘に疲れたとき、グロッキーな男共の中で、無理して笑おうとしてるその笑顔が――たまならなくきらきらしてた。
偵察兵が戻ってくるまで、ちょっとした休憩時間だった。塹壕の中に座り込んで、みんなして無煙燃料の焚き火を囲んでいた。砂漠の夜は冷える。焚き火の周り以外は死の世界だった。動くこともできなくて、それぞれ適当に時間を潰してた。寝っ転がっていびきかいてる奴。仲間の話に夢中になってる奴。煙草ふかしてる奴。
「さてね。迷信、噂、その類」
と、訳知り顔でだべってる奴もいた。ハッピィ・ラスティはお調子者で、部隊の中じゃいちばんのエンターテイナーだった。ミスタ・ハッピィにかかれば、ペーストの缶は太鼓になって、野犬の遠吠え一つがアクション映画になった。趣味はものごとを大げさに伝えることで、それでいてレーダー兵なもんだからみんなは大困りだった。どんな木材のきれっぱしからでも完全な立方体を切り出せるという特別な才能を持っていて、即席賭場にダイスセットを供給していたものだった。
「会って確かめたいとはこれっぽっちも思わないがね」
「強化部隊、かぁ」
女は目をきらきらさせながら、塹壕の壁によっかかって煙草ふかしてる黒いのに擦り寄った。ラスティの話でつまんなそうにしてるのは彼だけだった。もしいれば隊長もつまんなそうにしてただろうけど。黒いのは女の気配に気付いて、うつむかせてた顔を持ち上げた。見つめ合う二人。目に入ってくるディープな海の輝き。
「クルツは信じる?」
クルツは黒い防塵コート――要するにただのぼろ布――の中でもぞもぞ動いた。ゆったりした動きで煙草をつまみとり、細く長い煙を吐き出した。それはひょっとしたら溜息だったかも。亀みたいにとろく瞬きすると、女のディープ・シーを覗き込んだ。
「興味ないね」
またこれだ、とばかりに女が肩をすくめた。ハッピィも一緒になって。
「そんな強化人間ばっかりの部隊がほんとにあるんなら、とっくにおれたちは死んでるだろ。だいたい、コープスがそいつらを使わない理由がない」
「どこが興味ないのよぉ」
「しっかり聞いてんじゃんよ、なァ」
はん、と鼻を鳴らして、クルツは煙草をもみ消した。また布の中でもぞもぞやると、ゆっくり両の瞳を閉じた。焚き火の揺らめきを遮る闇のカーテン、薄っぺらな瞼。クルツの得意技、都合の悪いときにはいつもタヌキ寝入りなのだった。女だってそのことは知っていた。
「あん、もう」
「ほっとけよ。それよかな、強化部隊の話にゃ続きがあるんだ」
女は焚き火の真ん前に座り直した。赤い炎に下から照らされたハッピィ・ラスティの顔は、安物ホラー映画の殺人鬼みたいで不気味だった。人差し指おったてて、いきなり低くなるラスティの声。押し殺した声。映画なら、この辺でバック・グラウンドが入る。
ハッピィはぼそぼそ言った。
「強化人間って奴は、おっそろしくエネルギーを喰う。普通の食事だけじゃ肉体を維持できないんだ。だからそいつらは、熊みたいに大量の食糧を必要としてた。特に肉を作るための蛋白質を」
女は神妙に聞いていた。目を閉じて寝たふりしてるクルツもまた。
「でもな、そんな大量の食糧、戦場で持ち運ぶには手間がかかる。だからやつら、どうしたと思う……」
首を横に振る女。ぱちりと焚き火が爆ぜた。周りの音がみんな消えてしまったみたいだった。沈黙する世界。
「人喰いさ」
ラスティの目がすうっと細くなった。気のせいか、冷たい空気が辺りを漂っていた。女は身震いした。
「やつら、倒した敵兵の死体を喰ってたらしいぜ。それで、ついたあだ名が」
あの時は、ただの噂だと思ってた。ハッピィ・ラスティの作り話だと思ってた。人喰い部隊。強化人間。怪物のタトゥー。どれもこれも荒唐無稽で、まさかお目にかかるなんて思ってもいなかったのだ。
「マンティコア」
「マンティコア、だ?」
マーカスは思いっきり不信の目で見る。そりゃ無理もない。クルツは思う。立場が逆ならおれも信じない。思うけど、だからといって信じさせないわけにはいかない。なにせこいつは夢でも幻でもない。現実だ。現実の命がかかってる。
「三年前の亡霊さ。コープス軍にそんな部隊があったって、聞いたことがある」
「そりゃただの噂だろう。まさか敵兵を喰ってたなんて、そんな」
うじうじ文句いうマーカスに、クルツは荷造りの手を止める。黒い目で、あの濡れ羽鴉の黒い目で、相棒のおっさんをぎろりと睨む。久々に見た鋭い視線に、おっさんはびくりと震え上がる。ときどきクルツはこんな目をする。相手を射抜くような真っ黒の瞳。
「それじゃああんた、確かめてみるかい。誰かが喰われりゃはっきるする」
マーカスはやれやれと肩すくめてみせる。怠け者のクルツはいったん言い出したらテコでも動かない。いやっていうほどよく知ってる。溜息つきつき帰り支度にとりかかる。ああ、金ちゃんよ。おっさんは落胆する。お前さんのきらきらを、この眼に拝みたかったぜ。
「安心しろよ」
荷造りの手を休めることなくクルツは言う。
「どうせ金の話はデマだ」
「なにぃ!」
思わずマーカスは声を裏返す。部屋のすみっこで縮こまってたミャオ嬢が、びくりと肩を震わせる。いきなりの大声。響く濁声。
「この船が積んでたのは金じゃない、人喰いだ。船籍もソネットじゃなくてミラージュ軍」
「なんでそんなことがわかる?」
「外殻見ろよ……軍用の素材だぜ」
もともと多くはない荷物。すっかり小さくまとまってる。小さなサックの中に、わりあい高く売れそうな部品を詰め込んでる。金はなかった。代わりにしちゃ貧相だけど、これがせめてもの収入源。軍用パーツなら食費くらいにはなるだろう。まあ、おかげでこの船室は随分貧相に分解されちまったけど。
「あんたがもし、倉庫にしまってた昔の銃を見つけたら、ちゃんと撃てるかどうか試してみるだろ」
「俺たちは試し撃ちの的ってか」
「ミラージュのお偉方にとって誤算だったのは、人喰いが勝手に目覚めたことだ。本当なら第一層のどっかの施設に収容するはずだった奴が、間違って船を砂漠に墜落させちまった。慌てたミラージュは、墜落原因の偽装もかねて、的を呼び寄せるような噂を撒いたってわけだ。今ごろ、軍の回収部隊もこっちへ向かってるだろうぜ」
むう、とマーカスはうなる。まあまあ、確かにつじつまは合う。合うけどそいつは想像だ。ほんとに信じてよいものやら。なにぶん、あのクルツの言うことだし。
「どうやってこのガキが紛れ込んだのかは、わからねえがな」
クルツはスリーピン・プレートの上に座り込んでるガキを見る。相変わらずのディープ・シー。殺されそうになったってのに、すっかり平然としてやがる。呆れた眼差し送るクルツを、ミャオはきょとんと見つめ返す。
「なるほどねえ」
まとめた戦利品を、クルツはひょいと担ぎ上げる。かさばるし重いし、全然いいところのない戦利品。でもまあ贅沢はいってられない。そうとも、インスタント・ヌードル食うよりゃずいぶんましだ。
「おいミャオ、お前も来い」
ぴく。ミャオの耳が動く。ほんとに猫みたいなガキ。ぴょいんとプレートから飛び降りて、んんと背伸びを一つする。
「とんずらだ」
「それで、こいつはどういうわけだ」
マーカスは不満そうだ。もちろんみんな同じ気持ち。いや、ミャオ嬢はあんまりわかってないようだけど。目の前にそびえ立つ黒い山。機械の山。作業用のMTやらコンテナやらなにやらが、目一杯積み上げられてる。それも出口の真ん前に。必死になって外壁を爆破して、ようやく作った出口の前に。
「逃がさないってわけかい」
「これをマンティコアがやったってのか!」
「ねえねえ」
ミャオがくいくい服の裾を引く。クルツは鬱陶しそうに払いのける。ぷうとほっぺた膨らませて、それでもお嬢は言わなきゃならないことを言う。子供心にも、非常事態だってのはわかるから。
「来るよ」
なにが、とガキのたわごとに問い返すよりも早く。
ざざ。
空間が蠢く。
クルツは懐から銃を取り出す。張りつめる空気。ガキの勘は鋭いらしい。こいつは確かにやって来そうだ。納得できる話。ネズミを蹴飛ばしたら、必死で出口へ逃げようとするだろう。出口を塞げば、食べ放題。人喰いさんには猫くらいの知性はあるらしい。それに、この空気。
マーカスもまた、身を低くかがめてミャオを抱き寄せる。いつでもかかえて駆け出せるように。銃は出さない。出しても多分、邪魔になるだけだから。
ざ、ざ。
空間はぞわぞわ近寄ってくる。ほの暗い影の向こう。確実にいる。マンティコア。
ざ!
合図なき合図で横っ飛び。クルツは左。マーカスは右。真ん中にどすんと着地する黒。影。マンティコア。どんよりした黒い目がゆらゆら動く。見つめる先。金髪少女。ミャオ。瞳の奥に燃え上がる闇。マンティコアは何も言わない。でも大声で叫んでる。お前が喰いたい。美味そうな女の子。
びくり。マーカスに抱かれたまま、ミャオの肩が震える。
クルツは舌打ち一つ。射線の向こうに相棒がいたんじゃ、誤射が怖くて撃てやしない。身を屈めてダッシュ。黒いゴキブリのよう。ぴょんと飛び上がり、マンティコアの首筋に痛烈な蹴り。衝撃で巨体がどさり倒れる。
その間にマーカスはお荷物抱えて走り出す。もちろんミャオも小脇に抱えて。相談しなくてもやることはわかってる。どこか別の場所に、爆薬仕掛けて穴を開ける。クルツはその間の時間稼ぎ。
時間稼ぎは銃を床に向け、マンティコアの頭に照準する。
どじゅ。
銃声のような、沸騰のような。不可思議な音。驚きと恐れがいっしょくたになった色が、クルツの目に流れ込む。ぼたり落ちる血液。何の色も浮かばない漆黒の目。人喰いは銃口を素手でつかみとる。手のひらを貫き、どこかへ逸れていく銃弾。流れるそばから沸騰するどろどろの血。
左から、鉄のような拳が飛んでくる。慌ててブロックしても間に合わない。やたらに重たいパンチを食らって、クルツは派手に床を転がる。転がりながら地面に手を付いて膝立ちに。流れるような緩衝動作。受け身ってやつ。
なにやらクルツが技巧を凝らしてる間に。マンティコアは起きあがる。ゆらり、ゆらりと立ち上がる。そびえ立つ壁。真っ黒で大きな壁。何処を見ているのか分からない、焦点が合っているのかもわからない、黒々わだかまる瞳。まだジュウジュウ言ってる右手の銃を、がちゃんと床に落とす。穴の空いた手のひらを庇うそぶりもない。まるで気付いてもいないみたい。赤黒い血も、流れるまま。
こいつは。クルツの額からすうっと汗が引いていく。こいつは、洒落にならない。
手元の端末をちらちら見遣り、マーカスはぺたぺた壁を触る。外から見た感じと、現在地を照らし合わせると、外壁に一番近いのはこの辺り。一体何層の壁になってるかは知らないが、とにかく薄いところを探さないと時間も爆薬も足りなくなる。
バッグから小型ドリルと線香爆弾取り出して、作業にかかる。直径数ミリの細穴あけて、慎重に爆弾を差し込んでいく。爆弾から延びる導線。着火用の電源に取り付けて、コードを引きずって遠くへ退避。後はスイッチ一つで一つ目の穴が空く。
ぐいぐい。誰かが服の裾を引っ張る。
「ねえ」
ミャオ嬢。ふうと溜息一つ吐き、マーカスはミャオの頭を撫でる。分かる気がする。クルツがガキに冷たくあたる訳。それはこんなとき。こんな非常事態のとき、いちいち構ってられないからだ。
「嬢ちゃん、頼むから大人しく……」
「ミャオだよ。ねえ、ほっとくの」
一瞬あっけにとられて、ちょっと考えて、ようやくマーカスは気付く。ミャオがあいつの事を言ってるんだってことに。
「ほっとく。クルツなら心配いらん。クルツェス・レーベンなんて名前だが、あいつはそうそう死なんよ」
ミャオは目を伏せる。悲しそうに。辛そうに。これだ、これに弱い。こんな顔をさせると、マーカスは放っておけないのだ。たとえそれが今日初めて会ったガキだって。たとえ今がどうしようもない緊急事態だって。
ごつごつした黒い手のひらが、繊細でさらさら流れる金髪を撫でる。美少女と野獣。
「俺が行ってもなにもできん。鉄砲持っても、間違ってクルツを撃つのがせいぜいだ。だから俺にできるのは、一刻も早く逃げ道を作って、クルツが逃げられるようにするこった。わかるな、嬢ちゃん」
「ミャオ」
この期に及んで。
「わかるな、ミャオ」
「うん」
嬉しそうに笑うと、マーカスはくしゃくしゃ金髪をかき回す。お嬢は嫌そうなまんざらでもなさそうな、微妙な顔をする。くしゃくしゃは嫌だけど、おっさんが嬉しいのはわかるから。
「よーしいい子だ。じゃあ邪魔しないようにそこで待ってな。これかけて」
渡された防塵偏光ゴーグルを頭にかぶり、ぶかぶかのゴムベルトと少し格闘して、ミャオはその場にしゃがみこむ。ほそっこい腕で膝をかかえて、かちゃかちゃ作業するおっさんを眺める。
でも。
一通り作業を終えて、マーカスは着火スイッチに親指載せる。安全確認。計算上、自分の位置には破片は来ない。それからミャオ嬢。ちゃんと安全地帯にいるかどうか確認。
確認。
あわてて立ち上がり、防塵ゴーグルを外す。着火スイッチががちゃんと床に落ちる。辺りを見回し、駆け回り、オレンジのシャツと金髪を探す。
床に転がった防塵ゴーグル。
「なぁんてこった!」
その叫びは悪態とも呼べない。
「なあ戦友」
クルツはぽつりと呟く。じっと立ち尽くして、どこかをぼうっと眺めて、聞いてるのか聞いてないのかもわからないマンティコア。流れる言葉。空虚な震え。ひろいひろいクローム張りの空間に、どこまでも声は木霊する。なあなあなあ。戦友戦友戦友。それは奈落から呼ぶ使者の声のように。死者の声のように。百万のヒアロとヒロインが呼ぶ。戦友。
「もう終わったんだ。あんたたちはこの世界を護ったんだ。なのになぜ」
打ち付けた肩と肘がびりびり痛む。堪えてクルツは立ち上がる。じっと見据えて。瞳を見据えて。マンティコアの黒い瞳を、撃ち抜くような視線で見据えて。
「どうしてそんなに飢えている」
しぃぃ、いぃ。マンティコアは唸る。蛇みたいに。胸の当たりで銀色が揺れる。首からぶら下げたアルミのプレート。安っぽい、薄汚れた、栓抜きの代わりにもならないちっぽけな板。字は読めない。削れてかすれて消えちまってる。でもそれがなんなのか、クルツはよく知っている。
戦士の証。軍人の証。死体の名前を教えてくれる、たったひとつの小さなよすが。これがあるから、いつ死んだって。誰かが骨と一緒に拾って、故郷の土へ返してくれる。
なんてセンチメンタルな、軍籍プレート。
「まだ戦ってるのかい、戦友」
マンティコアの目がゆらりと揺れる。ぺたん、ぺたん。汚れた裸足が床を叩く。一歩一歩。B級映画のゾンビみたいに。海の底の海藻みたいに揺らめいて、まったりと近寄ってくる。後一歩。お互いの間合いまで、後一歩。
間合い。
マンティコアが跳ぶ。叩き降ろす握り拳。右の腕で払いのけ、クルツの左が風を切る。素早い手刀。マンティコアの右腕が受け止める。ブロックの間をぬって延びるクルツの腕。掌を広げ、手首でみぞおちを突く。唾液まき散らし人喰いがよろめく。拳のワン・ツーで追い打ち。そのまま体を一回転、脳天に後ろ回し蹴りを叩き込む。
床に転がる人喰いに、体重載せた拳を振り下ろす。瞬間揺らぐ視界。マンティコアの掃腿がクルツの脚を払う。倒れるクルツ。マンティコアが腹筋だけで飛び上がり、立つ。丸太のような脚を持ち上げ、鉛のような全体重を乗せてクルツを踏みつける。寸前でクルツは転がり、脚をかわして飛び起きる。
一瞬対峙する二人。クルツが前跳び。右左と腕を振り回してラリアート。どちらも軽くブロックされて、反撃のローキックが太股を打つ。体勢崩したクルツの首を、人喰いの左手が掴み取る。喉から漏れる苦悶の声。圧倒的な握力で、まるで首を握り潰そうとしているかのよう。
ぎり。クルツの食いしばった歯が音を立てる。右手でマンティコアの腕をつかみ、反対の拳を肘に叩き付ける。ごぐり。鈍い音。途端に首は解放される。一歩後ろに跳びすさり、二三度咳き込み敵を見る。
真っ黒の瞳。不思議そうに、あのどんよりした目で左腕を見る。ぶらり垂れ下がった腕。力を入れても動かない関節。わかるのか。猫の知性は、腕を折られたことがわかるのか。やがて人喰いは顔を上げる。クルツをぼうっと眺めるその瞳。そのくぐもった輝きは、まるで何事もなかったかのように変わらない。
クルツは荒い息を吐く。畜生め。心の悪態。あの人喰い、どれだけ動いても息一つ乱れない。無意識に右手は懐をさぐる。こいつは、なりふりかまってる場合じゃなさそうだ。
「だめぇ!」
その時、響き渡る声。少女の。
ミャオ!
格納庫の入口に立ってるオレンジ色のシャツ。長い金髪。ディープ・シー。マーカスの野郎。クルツの形相が歪む。なにしてやがる、子守はあんたの担当だろう!
「にげろッ!」
叫んでももう遅い。マンティコア。ゆっくりと振り返る。のそり。のそり。一番の狙いに向かって歩き出す。一番美味しい獲物に向かって歩き出す。そしてミャオは。逃げない。真っ正面から、じっとマンティコアを見据え、ぴくりともしないで立っている。
しゅう。蛇の鳴き声。マンティコアの爪の先から、銀色の舌が飛び出す。刃。爪の下に仕込まれた白銀の刃。あれがマンティコアの包丁。肉切り包丁。皮剥ナイフ。なんて大胆な野郎だ。目の前の敵をほったらかして、今すぐこの場で喰うつもり。
そしてマンティコアが走る。風のように。ミャオは逃げない。
舌打ち。
ずぶッ。筋繊維を貫き、刃が脂肪を抉る音。一瞬の静寂と、驚きに満ちた硬直の後で、一つの肉体が床に転がる。どくどくと流れる液体。赤。血。荒い息。痛みと苦しみが等しく満ちた喘ぎ。死にかけた肉体。
まずいことになったもんだ。意外と冷静にクルツは思う。左腕をたっぷり切り裂かれた。ガキを庇うためとはいえ、つくづく最低の事態だ。床に転がったまま、歯を食いしばって傷口を押さえる。
ミャオはいきなり飛び出してきた肉の盾に、ちょっとびっくりして目を開く。でもそれも一瞬のこと。いまや眼前にそびえ立つ黒い壁。マンティコアは戸惑ってるようだ。獲物を切る順番が、少しばかり入れ替わったことに。でもそれも一瞬のこと。
一瞬の後。揺らめく黒。果てしなく深い海。二つの瞳が見つめ合う。
「にげろっ」
クルツの声は弱々しくて、ミャオの金髪をなびかせるほどの力もない。
そして。
少女は歩み寄り、人喰いを優しく抱きしめる。
「あなたのたいせつなもの」
どこまでも荒野が続いていた。空は赤々と燃え上がっていた。地下の砂漠は、何よりも静かで、何よりも平等で、何よりも残酷だった。赤かった。赤い砂嵐がひっきりなしに吹き荒れていた。防塵服に包まれて、いつまでもじっと赤い空を見てた。
背中の後ろには、砂漠迷彩のメカニック。こいつと一緒に戦場を駆けた。その度砂塵は血の雫に吸い寄せられて落ち、確実に砂漠は洗浄された。そしてこいつに乗るたびに、俺の心は扇情されて、どろどろした感情ばかりがむくむく大きくなった。
食欲。
いつからこうなったのだろう。俺は何を望んだのだろう。俺は何のために戦ったのだろう。護りたいものがあった。護りたい人がいた。護りたい心があった。だからこそ。
戦ったのに。一生懸命、戦ったのに。
人間の血に汚れた唇があって、それで満たされる欲望があって、それら全てが自分のものだと知ったとき。衝撃はなかった。そういうものなんだと思った。護るために対価は必要なのだと思った。
知らせ。一通のメール。ごめんなさい。さようなら。それだけ。
護りたかったのに。彼女が護られたいのは俺ではなかった。
戦いのさなか。俺はどこだか知らない場所にいた。知らない奴らが俺を見ていた。見つめ見つめ見つめ見つめ揺らぐ世界白い実験実験実験実験実験実験実験実験いつ果てるとも知れず実験そして封印暗闇の世界黒々と何処までも続く空白の中何も見えず何も聞こえず何にも触れられず護るべきものも倒すべき敵も喰らうべき肉もなく果てしなく果てしなく空白!
一生懸命戦ったのに!
『彼』は吼える。
咆吼は船内に轟く。マーカスは足を止める。絶叫。この世の者とは思えない絶叫。やったのか。クルツが奴をやったのか、あるいは少なくとも傷つけたのか。いやでもそれにしては。
苦しんでいるというより、悲しんでいるような声。
マーカスには、そう聞こえる。
目の前で獣のように吼え続けるマンティコアを、クルツは呆然と見守る。泣いている。あの黒い瞳をぐりぐり震わせ、大粒の涙をぼろぼろと落としている。ミャオは人喰いの胸から離れ、二歩後ろに下がる。クロームに反響する咆吼。泉が枯れるように声も枯れ、やがて訪れる沈黙。
涙も止まる。
マンティコアは赤く腫れた瞳で、ミャオを見つめる。愛おしそうに少女を見つめる。初めてマンティコアの瞳が煌めく。決して動くことのなかった色が。ディープに黒々わだかまってた色が。涙に濡れて、淡い光を放つ。漫然とではない。今やマンティコアは、はっきりとミャオを見つめてる。
人喰いはすり足で下がる。ぎりりと歯軋りして、振り返って、風のように駆けていく。格納庫の暗闇の向こうへ。点々としたたり落ちる血。ぺたりぺたりという足音。やがてそれも聞こえなくなって、完全な沈黙だけが辺りに満ちる。
クルツは起きあがる。シャツの裾を乱暴に破り、即席包帯で左腕を止血する。立って、少女を見下ろす。俯いたまま立ってる少女を。金髪の少女を。深い深い海のような瞳の少女を。ミャオを。
「あのひとは」
ミャオはぼそぼそ言う。
「いっしょうけんめい戦ってるの。昔も。今も」
ただ黙って、クルツはそれを聞いている。そうなんだ。ずっと前からわかってる。あいつは、おれと一緒なんだ。ただ戦っているだけ。いつまでも、尽きることのない戦火の中で。
「お願い、あのひとを助けて」
少女は顔を持ち上げる。
「ただまもりたかっただけなの!」
かつ、かつ。靴音響かせて、クルツは落とした拳銃を拾い上げる。血にまみれた黒い鉄。焦げ付いたかさぶたがこびりついた鉄。ゆらゆら揺らめく銃身の輝きは、あいつの瞳と一緒だ。銃。行き場のない力を持ったもの。誰かが止めなきゃ、永遠に止まれない。
クルツは右腕伸ばして、手のひらを金髪頭にのせる。ぽんと軽く叩く。そして微笑む。そうとも。おれが止めなきゃ誰が止める。彼の低くて優しい声が、ミャオの金髪をふわりとなびかせる。
「祈りな」
ただじっと、マンティコアは祈るように立っている。微かなカーキオレンジの常夜灯だけが、わだかまり光り輝く黒の瞳を照らし出す。円筒の並木。通路の左右に、太く大きな円筒が並ぶ。その中央にマンティコアは立っている。捧げる祈りは誰がためか。己か。円筒にぶちこまれた異形の獣たちか。でなければ、護るべき者達か。
こつり。期待していたそれは、小さな音。
振り返ればそこには、男が立っている。見知らぬ戦友が立っている。男の手には、白い棒が握られている。小さな棒。何かの取っ手のような。
「来なよ」
短命の男が言う。
マンティコアは低く身構える。獣のようにぐるるとうなり声を上げる。憎しみと絶望と悲しみと、ほんの少しの悦びと共に。マンティコアは思う。死が逃れられない運命だというのなら、生きながら死んでいきたい。生きていると知りながら落ちていきたい。生きることとは護ることだから。
「おれがうけとめてやる」
クルツがそう言ったとたんに、白い棒がぴしゅんと音を立てる。棒の先が親指の先くらい千切れて、ごとんと重たそうに落ちる。ああそうか、とマンティコアは唸る。それがお前のつるぎなのか。今の今まで、殺すのをためらっていたのか。
わかるよ戦友。マンティコアは地を蹴る。俺とお前は一緒だ。
駆け、撲ち、つかむ。クルツの喉。激しい勢いに流されて、円筒に叩き付ける。喉首を握られて、背を獣の円筒に貼り付けられて、まるで古の聖人のようにクルツは喘ぐ。お。声は少し漏れ出た。しなる右腕。そこに握られた白い棒と、床に落ちた重り。
「おおッ!」
ごとり。
マンティコアは地に倒れ伏す。仰向けに。
痛みはない。苦しみもない。ただ感覚がない。右腕と、右脚の感覚が。どくどくと血が流れているのはわかる。静かにゆっくり息を吐く。首も回らない。一度でいいから、自分の体の切り口を見てみたかったのに。胴から切り離された腕と脚を、見てみたかったのに。きっとそれは汚れた皮と違って、綺麗な赤い肉だろうから。
代わりに見上げる。苦しそうに息を吐き、それでも今なお立ってる男。その手に握った白い棒。見えないつるぎ。不可視の刃。単分子線の鞭。目に見えないほど細い糸は、しゅるしゅる取っ手に巻き上げられる。その先端の重りもまた。やがてぱちんと音がして、重りは棒の先端に戻る。
クルツはジャケットの中から、真っ黒な拳銃を探り出す。真下に向ける銃口。
「戦友」
声は優しい。赤く乾いた砂漠みたいに。
「とどめが欲しいかい」
マンティコアは。
静かに目を閉じる。
砂漠の風は容赦なく吹き抜ける。どんなものでも砂粒は優しく包み込む。人々の涙とか、汗とか、血の臭いだとかも。やがては薄れ、砂に染み込み、星と一つになるのだろう。
あのでっかい卵形の墓標だって。
とんずらしてなきゃ、おれたちだって。
外で砂山になりかけてたACを荷台に積み込んで、青犬トラックは道なき道を行く。ねぐらに着くまで数時間。揺りかごはひどく乱暴に揺らされて、まんじりともできやしない。コンソールの上にどっかり両足組んで、クルツは行儀悪く座ってる。ふああとあくびをかみ殺す。
あんまりご機嫌よくは見えない。
「あのよお、マーカス」
「なんだ」
気の抜けた声に、おっさんはいらいら聞き返す。結局金もなかったし、軍が来るからにゃゆっくりなんてしてられないし、いくら軍用パーツをくすねてきても割に合わない。せいぜい燃料代と弾薬代ってとこだ。とりあえず、今晩はヌードル・パーティ。
「なんだってこのガキも一緒なんだよ」
マーカスとクルツの間にすわってる金髪娘が、猫みたいに耳をぴくぴく。
「砂漠にほっぽっとくわけにはいかんだろう。とりあえず街まで連れてって」
「その後は」
「せかすな。今考えてるとこだ」
「ミャオはねえ、クルゥと一緒がいいよ?」
「なぁにぃ?」
「よ? じゃねえだろよ? じゃ。だいたいなんだ、そのクルゥってなおれのことか」
「クルゥはクルゥだよ」
「ク・ル・ツ。言ってみろおら」
「ク・ル・ゥ」
「子供にドイツ語の発音は難しいだろう。まあ別にいいじゃねえか」
「むずかしーい」
「良かないね。人の名前を正確に覚えるのは礼儀ってやつじゃねえのかよ」
「クルゥ、クルゥ」
「ははあ、こいつぁ可愛いあだ名ができたな」
「冗談じゃねえ!」
これ以上つき合ってられない。クルツはポケットをごそごそやって、銀色の板を探し出す。手のひらに載せて、しげしげ見つめ、握って拳を横に突き出す。ミャオの鼻の先。無意識にミャオは、両手を拳の下で広げる。ゆっくり開く拳。ぽとんと落ちる銀色。
「そいつで遊んでろ」
「なにこれ」
それは削れたアルミ板。文字の読めない軍籍標。
「ただ護りたくて死んでいったやつの、忘れ物さ」
名前も知らない戦士の屍。砂漠の砂と血にまみれ、星に還った黒い戦友。彼の心をきゅっと抱きしめ、ミャオはにっこり微笑み返す。
その瞳と声は、深く青い海のように。
「ありがとう」
Life is but an empty dream.