ARMORED CORE 2 EXOR

 誰かが、彼女の体を抱きしめた。

 ユイリェンがそのことに気付くまで、どれほどの時を要しただろう。
 目を開ければ、深い谷に身を投げたはずの自分は、暖かな腕の中に抱かれていた。背中には、熱く、力強い何かが触れていた。心を駆けめぐるのはただ一つの言葉。本当は心の奥底で、ただ一つだけ望んでいたもの。
「どうして――」
 力を失い、くずおれようとするユイリェンの体を、彼の腕はしっかりと抱き留めた。
 今だけは、彼に全てを預けてもいい。
 ただ彼に、甘えてもいい。
 そう思えるくらい、確かに。
「どうしてあなたは、私を赦してくれるの――?」
 微笑み、彼は囁いた。
「そばにいたい。一緒にいたいんだ、ユイリェン」
 まっしろなせかいに刻まれた、ただ一つの望んだことば。
 ユイリェンは振り返った。背の高い彼の瞳を、真っ直ぐに見上げた。知らず知らずに、自分の腕が彼を誘っていた。誘われるままに、誘うままに、二人の心は近づいていった。柔らかな肌のふれあいが、暖かな心のふれあいが、二人を満たす全てだった。
「ありがとう」
 二人はそっと唇を寄せ合い、
「ウェイン」
 初めての口づけを交わした。

 あれから、もう13年。
 かつてのユイリェン・タオ・スギヤマ――成人したタオ・ユイリェンは、一人、満天の星空を見上げていた。今ここに、ウェイン・ルーベックの姿はない。彼の肉体は遠く離れ、火星の地で戦っている。
 それでも、なぜだろう。
 あの時交わした口づけの炎のような温もりは、今なお、あの時よりも鮮明に、ユイリェンの心に焼き付いている。


 SECTION#04
 ユイリェン再臨 Yulian's Second Advent


 ――所詮貴様らなど、俺のゲームを彩る登場人物に過ぎん。
 クルツはコックピットの中で、たった一人、シートにうずくまっていた。
 何もできなかった。何もしたくなかった。任務が終わったのだから、事後処理をしなければならないはずだ。失敗したのだから、反省をしなければならないはずだ。クルツはまだ死んでいない。生きている。生きているのだからしなければならないことがあるはずだ。
 だがそれが一体どうだというんだ。生きているなんていうことに何の意味がある?
 ――全てのAC用パーツを買いそろえる! それがこの俺の目的だ!
 おれは、負けたのだ。
 ミュート。
「……ふざけるな」
 固く、強く、拳を握りしめる。
「ふざけるなよ……ジョークのつもりかよ、それでっ」
 爪が手のひらに食い込んでも、クルツは痛みさえ感じなかった。痛みなんかに逃げ出したくなかった。
「冗談じゃねえよッ!!」
 握った拳をクルツはコンソールに叩き付けた。パネルが軋んで悲鳴を挙げた。モニタがエラー表示を吐き出した。
 ……いや。
 意味は、ある。
 いま生きていることに意味はある。
 クルツは顔を持ち上げた。歯を食いしばり、瞳を黒く輝かせ、モニタの真ん中を睨み付けた。もはや迷いも戸惑いもなかった。生きていることにはたった一つだけ意味がある。この世にたった一つの、やらなくてはならないこと。
 それが、クルツには見えていた。

 ティタニア・C・シーヴァはうきうきしていた。
 ジオシティ郊外に浮かぶ人工島上のフライトナーズ基地、そこへ足を踏み入れた時など、飛び上がりそうになった。ジギィに会うのも、一週間ぶりだった。経歴詐称でレイヴンになったジギィと違って、ただの学生に過ぎないティータが、わずか十数名の小部隊とはいえ軍の施設に踏み入るためには、並々ならない苦労があったのだ。
 簡単な話、役所でたらい回しにされていた。
 で、今日はようやく貰った許可証を片手に、意気揚々と恋人に会いに来たわけである。今夜は無理矢理にでもジギィを引っ張り出して、最近会えなかった分だけめいっぱいサービスさせてやらねばならない。そうでなければ割が合わないのだ。
 ティータは事務担当のフライトナーズ隊員に聞いた道筋どおり、ガレージへの経路を進んでいた。途中、何重にも敷かれたセキリュティのチェックを受けた。IDカードはもとより、指紋網膜声紋はては染色体に到るまで、ありとあらゆるガードに行く手を阻まれる。もちろん、許可を得て来たのだから問題はないのだが、いちいち道を塞がれるので面倒くさいことこの上ない。
 ようやくガレージにたどり着いた時には、ティータは疲れ果てて溜息を吐いていた。まあ、これから彼に会えるとなれば、この程度の障害はささやかなものだ。
 広いガレージの中には、5、6機のACが並んでいた。その中の一機、見覚えのある白い二脚型に目を留め、ティータは目を輝かせた。
「ジギィっ!」
 甲高い声で彼の名を呼ぶ。白いAC――マスターカードの足元にいるのは、間違いなくジークハルト・クルツマンその人だ。パイロットスーツがなかなか似合ってる。仕事に疲れた男ってかんじで、なかなか悪くない。
 手を振りながらぱたぱた駆け寄ると、ジギィはいつも通り、無愛想な返事をする。
「ティータ?」
「そうよ! ひどいじゃない、一週間も連絡一つしないで……」
「……悪い」
 ジギィの声は、小さく暗く沈んでいた。ティータは眉を跳ね上げ、彼の様子がおかしいのを敏感に感じ取った。ああやって、ぼそぼそと呟くようにして、視線をそらすのは何か隠している時だ。ジギィとの付き合いは短くない。その程度のことなら手に取るように分かる。
「……何かあった?」
「なんにもねえよ」
「嘘よ」
「そう思いたきゃ思えばいい」
 吐き捨てるようにそう言って、ジギィは――クルツは、はっと我に返った。クルツの中に、さっき再会したミュートの言葉が蘇った。そう思いたければ思えばいい。しかし、事実は変わらない。
 クルツは確信した。事実は、変わらない。それがクルツを打ちのめす。辛い。苦しい。でも、今ここでティータにそれをぶちまけて、一体何になるだろう。この辛さや苦しさを、ティータにも与えてしまうだけだ。それはただの、甘えだ。
「ジギィ……」
 すがるような目で見るティータを、クルツは鋭く睨め付けた。
「おれはクルツだ」
 彼女からの決別のつもりで、クルツは言った。
「今日は忙しいんだ。相手してられない。すまん」
 早口にまくし立て、クルツは大股に歩き出した。目指す先は一つ。ちょうどACから降りたばかりの、レミルの元へ。
「ジギィ!」
 ティータは叫び、しかし彼を追えない自分に気付いた。クルツの背中は広く、大きく、何かとてつもなく重い物を背負っているように見えた。その背中がティータに告げていた。来るな。ここは、お前のいる場所ではない。そう告げていた。
「ジギィ……」
 すでにジギィではなくなってしまったかもしれない彼の背中を、別の女の元へ向かう彼の背中を、ティータはずっと見つめていた。

 ガレージの空気を吸うなり、ストラングは敗北の臭いをかぎ取った。フライトナーズのガレージは、負けた者が放つ独特の臭気に満ちていた。気力を削がれ、苛立った戦士たちの臭い。ストラングは目を細める。あのフライトナーズが敗北とは、珍しいこともあるものだ。
 ストラングがフライトナーズ基地を訪れたのは、マヤ・クルツマンとの約束を果たすためでもある。クルツの面倒を見ると約束してしまったのだ。責任持って、非行に走らないよう見張っておかねばならない。なにせ、齢19とはいえまだまだ子供じみたあの男だ。無茶をしないとも限らない。
 クルツの姿を探して、ストラングはガレージの中を歩き回った。何基ものクレーンがごうごうと駆動音を立てながら、傷ついたACに取り付いている。あの太いボディラインは、ボイルの瞬狼。高熱の榴弾でも喰らったのか、分厚いその装甲がどろどろに融解している。その傷は浅くない。一体何と戦ったのだろうか。
 反対側のブースには、ステルスを装備した軽量級――レミルのメレル・ウルフが、ちょうど固定された所だった。彼女に聞けばクルツの居場所も、このありさまの原因もわかるだろう。そうふんで、ストラングはせわしなく動き回るクレーンの下を、メレル・ウルフの足元へ向かった。
「レミル!」
 コアの真ん中に開いたコックピットハッチから、レミルが顔を覗かせている。鋭く尖ったその顔を下から見上げ、ストラングは大声を張り上げた。レミルが驚いたような顔をして、こちらに視線を落とす。そのまま、ワイヤー伝いにするすると降りてきた。こんな何気ない行動さえ、様になっている。美しい女だ。クラインが重用したがるのもわかる。
「ストラング……あなたか」
「こっぴどくやられたな。どうしたんだ、このありさまは」
 レミルは歯を食いしばって顔を背け、
「……レイヴンに」
「レイヴン? 相手は一人か?」
 無言がレミルの答えだった。信じられない。ボイルとレミルの兄妹は、地球のアリーナでも上位十傑に入る実力者だったはずだ。その戦闘力は、ストラングを軽く上回っているはずである。それが二人がかりで、たった一人のレイヴンに翻弄されるなど。相手がナインブレイカー――火星ランキング1位のアレスだったとでもいうなら話は別だが。
「何者だ、相手は?」
「ミュート」
 声は、横手からかかった。
 ストラングとレミルの二人が驚いて振り向けば、そこには一人の青年が立っていた。乱れた黒髪を直しもせず、黒い瞳をぎらぎらと輝かせ、パイロットスーツが軋むほど強く足を踏みしめた、一人の青年が立っていた。
 ジークハルト・クルツマン。いや、今は――クルツェス・レーベン。
「ミュート・サイレントラインだ」
「……馬鹿な」
 知っている名前だった。たしか、今はアリーナランク42位。レイヴンになって以来、まだ活躍らしい活躍をしていない、下位に低迷するレイヴンのはずだ。ストラングはよく覚えている。ミュートのレイヴン試験のとき、試験官を勤めたのはストラング自身だった。
 たかが数機のMT部隊相手に、危うく撃破されそうになっていた男だ。
「レミル」
 クルツは呟くようにレミルの名を呼び、そして歯を食いしばった。大きく息を吸い込み、直立不動の姿勢を取って、それからひと思いに頭を下げた。上半身と下半身が直角を描くほどに深く。
「おれを強くしてくださいっ!」
 そして、ガレージ中に響き渡るほどの大声を、クルツは床に向かって吐き出した。クロム貼りの壁に反響したその声で、ストラングは肌がびりびりと震えるのを感じた。
「おれに訓練をつけてください」
 その声に悲壮な決意を感じ取ったのは、ストラングだけだっただろうか。
「クルツ……」
「明日からじゃ遅いんだ。今すぐに、もっと、もっと強くならなきゃっ……」
 レミルは答えあぐねているようだった。彼女に代わり、ストラングは溜息を一つ吐くと、クルツの頭の上から問いかけた。
「なぜ、強さを望む?」
 クルツはゆっくりと、頭を上げた。
 ストラングの目を真っ正面から睨み付け、クルツは固く拳を握りしめた。パイロットスーツのラバーが悲鳴を挙げていた。それが彼自身の悲鳴であると、ストラングは気付いていた。
「……絶対に勝ちたい」
 低く、静かな声。
「ぶん殴ってやらなきゃ気が済まない」
 一片の迷いも見えない声。
「そういう相手ができた」
 しばらく沈黙してから、ストラングはただ一度、深く頷いて見せた。

 きぃん。
 憎たらしいくらいに真っ青な西の空を、甲高い音が切り裂いていく。緩やかな曲線を描いて上へ上へと登っていくあの光は、宇宙港から打ち出された、軌道ステーション「フィニール」へ向かうシャトルに違いない。
 地球、北アメリカ大陸中央部、グレートプレーンズ。
 サウスダコタなんていう土地は、大破壊以前から田舎も田舎、かつての超大国アメリカの中にあってそこだけ数百年は文明が遅れていたようなところである。豊かな土壌と穏やかな気候に育まれ、麦の穂はたわわに実る。牧草も栄養満点、天高く馬も牛もよく肥える。機械化農夫がACなみに巨大なトラクター――通称『マッスル・トラクター』略してMT――でもって、農作物を収穫して回る。遠くから聞こえるその駆動音の他は、鳥の鳴き声と、牛の鳴き声と、あとはかわいらしい田舎娘を口説くとっぽいにいちゃんのかけ声、そのくらいしか聞こえない。
 一番近い大都市は、千数百キロはなれた西海岸のハイライン・シティ。食糧の集散地だけあって、軌道経由で世界中に食糧を届けるための宇宙港と、ミズーリ川からミシシッピ川を通って海に出るための航路は、しっかりと整備されている。逆に言えば、それらのおかげでなんとか街の体裁を保っている――ここはそういう場所だった。
 そんな田舎の、ちっぽけな街からさらに外れた郊外に、一軒のかわいらしいログ・ハウスがある。まるで大昔のテレビ・ドラマそのもののように、その家はちょこんと佇んでいた。
 がっちゃん。ごと。ががぱりーん。
 ログハウスの中、木製のテーブルに頬杖ついて、十歳くらいの少女は目を細めていた。金髪に青い瞳の、まるで人形のようにかわいらしい少女だ。ほんのりと桜色に染まった頬は、子供らしくふっくらと膨らんでいて、そのほっぺたの上で踊る指も、ぷにぷにとした柔らかい肉に包まれている。
 ああ、お肉。溜息が出るったらありゃしない。
「うちゅーこーのシャトルは、一日三便。じゅーじ、いちじ、さんじ」
 壁掛けの時計を見ながら、少女は指折り数を数える。
「ママがエプロンつけたときに、最初のがとんできました。ちょうど今、ふたつめがとんできました。さてここで問題です。何時間たったでしょーか?」
「……ちょっと黙ってて」
 キッチンでは、ユイリェンママが花柄のエプロンをつけたまま、右手に包丁を握りしめ、まな板の上のタマネギと格闘している。さっきから、包丁を突き立てようとしたらタマネギが転がっていくし、ようやく刃が通ったと思ったら涙が出てくるしで、ちっとも千切りは進まない。
 そもそも、今になってタマネギを切り始めたのも、ハンバーグだけでは食卓が寂しいと後で思いついたかららしい。このタマネギでオニオンスープを作るつもりらしい。へたくそなんだから余計なことすんなよな、と少女は思う。
 とうとうたまりかね、少女はばんばんテーブルを叩いた。
「ミャオはらへったー!」
「お願いだから静かにしてて! 今大事なところなのよ!」
 少女――ミャオはぶうたれて、テーブルの上にあごを乗せた。元はと言えば自分が悪い。それは分かっていた。冷蔵庫にはインスタントの食料品がいっぱいで、今日日それでも十分すぎるくらいのバリエーションが楽しめるというのに、欲を出して手料理が食べたいなんて言ったのが悪かった。生まれてこのかた十年来、ママが料理をしているところなんて一度も見たことがない、その意味をもっとよく考えてみるべきだった。
 ――はて?
 ミャオは鼻をひくひくさせる。何か匂う。お肉の焼ける匂いだ。ああようやくフライパンのハンバーグが焼けて――
 ……いやこれは。
「ママ、フライパン!!」
 ミャオが飛び上がって絶叫すると、ママは弾かれたように後ろを振り返った。火にかけっぱなしだったフライパンのフタの隙間から、黒い煙がもくもくと立ち上っている。慌ててママはフライパンに駆け寄ると、そのフタを取り外し、
「きゃっ!」
 一気に吹き出した煙に顔を包まれて悲鳴を挙げる。手探りでコンロのスイッチを操作して、なんとか火を消し止める。しかしその時肘が横の食器棚に当たって

 チーン。
 電子レンジが愛想の良い声をあげた。
 自分の分と、ユイリェンの分の食事を取り出しながら、ミャオはその香りに鼻をひくひくさせた。そう、インスタントは良い。人類が生み出した至宝だ。ほんのちょっと電力やらお湯やらの助けを借りるだけで、誰でも簡単に平等に公平においしくあたたかい料理が食べられる。こんな良い物はない。
 ミャオは齢九つにして、早くもその真理にたどり着いたのだった。
「はいママ、できたよー」
「……ごめんなさい」
 テーブルについてすっかり落ち込んでいるユイリェン――母親に、ミャオは横からインスタント・ハンバーグの乗ったトレイを差し出す。自分のぶんをテーブルの上に乗せると、ミャオはぴょこんと背の高い椅子に飛び乗った。これは、パパ用の椅子なので他より大きい。パパが火星に単身赴任している間、ミャオはこの椅子を愛用している。背が高いので普段と目線が変わって楽しいのだ。
「あやまるなら、牛さんとお皿さんにあやまろ」
 フライパンの中で消し炭と貸していたもと牛肉タマネギ卵パン粉の塊は、今は生ゴミ袋にぶちこまれている。ついでに食器棚から落ちて割れてしまったお皿の残骸は、燃えないゴミ行き。哀れ。
「ごめんなさい、牛さんお皿さん」
「もーやっちゃダメですよ、アーメン」
 懺悔室の神父気取りで、ミャオは両手を組み合わせる。それをいただきますの合図代わりに、目の前のハンバーグをがっつきはじめた。なにせもうはらぺこである。マナーなんか気にしてはいられない。
 沈痛な面もちで、それでもユイリェンはフォークを手に取った。ユイリェンだってお腹が空いているのだ。寂しそうな彼女の姿を見ると、母の元気がないのは料理に失敗したせいだけではなかろうと思えてくる。ちょうど昨日の夜、パパの映像メールが、火星から届いたのだ。それを見てる時のユイリェンの嬉しそうな顔といったら、こっちのほうがこっぱずかしくなってくるくらいだった。
「ねーママ」
 ミャオがフォークをくわえながら言うと、ユイリェンはゆっくり顔を上げた。ユイリェンの顔は細くてきれいで、ミャオも大人になったらこうなりたい、と思っていた。腰まで伸ばした栗色の髪は、風に吹かれると翼のように舞い上がる。ミャオが金髪を伸ばしているのは、その真似である。ようやく胸のあたりまで延びてきた。母親はミャオにとってあこがれの神さまだった。
「ミャオ、パパのハンバーグ食べたいなす」
 しかし、料理に関してはパパのほうが神さまだ。ああ、あの溢れ出る肉汁。赤ワインをベースにしたソース。思い出すだけでもよだれが出る。
「パパはお仕事なのよ。帰ってきたら作って貰うわ」
「ミャオたちもパパのとこ行こうよー」
 ミャオは最高の提案だと思っていたのだが、ユイリェンは一瞬だけはっとして、それから悲しそうに顔を伏せた。ミャオはじっと母の顔を見つめながら、考えていることを探ろうと神経を研ぎ澄ます。どんな気持ちなんだろう? 今、なにを考えてるんだろう?
「……無理だわ。火星はとても遠いのよ」
「んなこと知ってるもん」
「なら我が儘言わないで」
「ママもパパのお手伝いすればいいんだよ。ママ、昔すっごく強かったんでしょ?」
 ユイリェンはそれを聞くなり、あからさまに顔をしかめた。あんな恐い顔をすることは珍しい。ミャオにも、苛立ちのような感情が、びりびりと肌が震えるほどに伝わってくる。
「……そんなこと、誰に聞いたの」
「コーウェンのおじちゃん」
「これだからあの人は……」
「あとケンジおじ……おにいちゃん」
「ケンジにまで?」
「それとパパ」
「……」
 ユイリェンときたら、腕組みをして、眉毛をぴくぴく震わせている。恐い。怒ってる。ミャオにとって唯一救いなのは、自分に対して怒っているわけではないということだ。失敗した。コーウェンおじさんだけに罪をなすりつけておくべきだった。ケンジおじ……おにいちゃんとパパの名前は出すべきではなかった。
 あたふたしながら、フォローのつもりで、
「んーでも、かっこよかったって、みんな言ってたよ。ぶゆーでんって言うんでしょ?」
「昔のそういう話は、人に知られたくないものよ」
 ママの声は低い。だめだ逆効果だった。
 ミャオは青ざめながらハンバーグを一口にほおばると、背の高いパパ用の椅子から飛び降りた。ソファの上にはミャオのピンク色の鞄がほったらかしてある。それをひったくり、中身を確認。中に入っているのは勉強道具一式。今日は午後から、ファルマンさんちの塾に行く予定だったのだ。
「み、ミャオ、塾いってきなすー!」
「……行ってらっしゃい」
 まだドスの効いた声を出しているユイリェンを残し、ミャオはログハウスを飛び出した。

 ミャオには、ある種のテレパシー能力がある。物心ついた時には、ミャオはもうそのことに気が付いていた。
 意識すれば、目の前にいる相手の考えていることが分かることがある。しかしそれは確実にできることではなくて、何も分からないことも少なくない。そうかと思えば、特に意識もしないのに、遥か遠くの人間の意識を感じ取ることもある。意識や思考が言語化されていることはまれで、そのほとんどは、もやもやとわだかまる雲のような「何か」として、ミャオには伝わってくる。
 はじめは誰にでもできることなんだろうと思っていた。パパもママも、だいたい自分の気持ちを察してくれるからだ。しかし成長して、家から出て、友達もできるようになると、その能力が自分だけに与えられた神さまの贈り物――ギフトであることが分かってきた。
 大人たちは、さっぱりこちらの考えを理解してくれない。向こうの考えを積極的に伝えようともしない。同年代の子供たちなんて問題外だ。彼らはとにかく自分のことしか考えていない。自分のことだけで精一杯、という感覚だ。ミャオのように、他人と有機的な一つの連続体――ネクサスを構築することはできない。
「いろいろかなしいなす」
 自転車をきこきこ漕ぎながら、ミャオはぽつりと呟いた。自宅から街へ降りる坂道はもうおわり、ここからは自分の力で漕いで行かねばならない。しかし、太股に力を入れてペダルを踏むと、その分さわやかな風がほっぺたを撫でる。まだ短い髪も、ユイリェンみたいに、翼っぽく舞い上がらないこともない。自然は、力を込めればリクエストに応えてくれる。そういうものだ。
 なのに、かなしいことだ。人間はその種全体が、動作の連続によって境界線を定義した一種のオートポイエーシス的生命体だというのに。その個々の構成要素が、お互いを自分自身だと認識できないのはかなしいことだ。たとえて言うなら、ミャオの右手の細胞と、ミャオの左手の細胞が、おれたちは別物だいっしょにすんなばかあ! と主張しているようなものだ。
 ミャオから見れば、神さまにも等しいママやパパだって、そういう点では他のあらゆる人間と変わりがない。
 とても、かなしいことだ。
「おろろ――――ん!」
 腹の底から鳴き声をあげて――漫画でこういうふうに泣いてるのを見たのだ――ミャオはきゅっと右手を握りしめた。自転車のブレーキが、がっちりとタイヤを挟み込んだ。反動で一瞬前につんのめり、後輪と一緒にどすんと着地し、ミャオはふと考えにふける。
 さっきは、ユイリェンからびりびりと感情が伝わってきた。素直じゃないあのママときたら、要するにパパのもとへ飛んでいきたいのである。寂しいのだ。でも、パパと一緒になって、パパを護って戦うことを恐れている。そうすることで、自分の中の何かが変わってしまうのではないかと考えている。
 一体何がどう変わるというのか? それはミャオには分からない。きっと、昔何かがあったのだろうけれど……
 思い出すのは、昔家族三人で行った、どこかの観光名所。深い谷があって、そこに荒縄とボロボロの板だけで作られた、ものすごく頼りなさげな吊り橋がかけられていた。
 吊り橋を渡るのは恐い。実際、落ちるかもしれない。落ちないなんて誰にも言い切れない。でも、渡らないと渡れない。わかっちゃいるけど勇気がでない。それが吊り橋。
 ママはいま、吊り橋のこっち側にいる。
 あの時はどうしたんだっけ? 怖がるミャオに、パパはなんて言ったっけ。下を見ないようにして、前だけ見て、ゆっくり進め。確かそう言った。吊り橋の向こうには、先に渡ったママが待っていて、ミャオはそっちだけを見て一歩一歩――
 なるほど。
 吊り橋の向こうで誰かが呼んでいればいいんだ。
 ミャオはふと、西の空を見る。
 シャトルの冷却剤が蒸発してできた、真っ直ぐ上へ登る飛行機雲。まるで地獄の釜に垂らされたおしゃかさまの蜘蛛の糸みたいに、それはまだそこにあった。

 まるで蜘蛛の糸のような希望にすがって、ティータは深々と頭を下げた。目の前では、フライトナーズ隊長レオス・クラインと、その右腕レミル・フォートナーが目を丸くしている。
 フライトナーズの隊長室は、せまっくるしい上に金属質の色気のない壁に包まれていて、軍隊らしい威圧感に満ちている。その中にあって貧乏くさいアルミのデスクは、威厳漂うレオス・クラインには似つかわしくない。彼の大きな体は、デスクからはみ出しながら、狭そうに縮まっている。
「……ティタニア・C・シーヴァくんだったかな」
 クラインはあからさまに迷惑そうな声をだし、人差し指で後ろ頭を掻いた。
「私の聞き間違いではないかと思うのだが……」
「聞き間違いじゃありませんっ! わたしを、フライトナーズで雇ってくださいっ!」
 一瞬ぴょこんと頭をあげ、ティータは大声を張り上げると、また腰を直角に曲げた。雇ってもらえるなら、膝を床についてもいい。頼み方一つでなんとかなるならなんとでもするつもりだった。
 ティータは本気だ。もう、雇用契約書にサインするまでてこでも動かない気でいるのである。
「君はクルツの友人で、大学生だと聞いていたが……」
「大学は休学にできます! ジ……クルツだってそうしてますからっ」
「そうは言ってもね」
「掃除でも炊事でも洗濯でも雑用でも、なんでもいいです! とにかくここで働かせてくださいっ!」
 固く目を閉じ破れかぶれに叫ぶティータを見下ろして、クラインは小さくひとつ溜息を吐き、
「……困ったな」
 とうとう、そう悲鳴を挙げた。ティータは内心ほくそ笑む。この人は、こう見えて案外押しが弱い。人に真剣に頼まれたら、なんだかんだ言いながら断り切れないタチと見た。
 となれば、ここであと一押し。
「わたし、不安で……このままじゃ、クルツがわたしから離れて行っちゃうんじゃないかって……だからわたし、わたしっ……」
 泣き出しそうな声を出しながら、そっと顔を持ち上げ、ちらりとレミル・フォートナーを一瞥。もちろん視線は憎々しげに、だ。半分は演技で。もう半分は、紛れもない自分自身の正直な気持ちで。嘘は一言も言ってない。ただ、少し大げさに脚色しているだけだ。
 あんなおばさんにジギィ取られてなるものか。なりふりかまってらんないのだ。
 思った通り、レミルはぎょっとして、隣のクラインに視線を落とした。こちらの意図を読みとったと見える。よしよし、いいぞ、おおむね計画通り。
「雇ってあげてはどうですか」
 ついにレミルからその一言が飛び出した。疲れた声色だ。クラインは驚いて、レミルの顔を見上げた。
「本気か?」
「うちは今、人手が足りませんから」
「しかし、仮にも軍隊だからな……あまり学生を取り込むのも」
「……地球からスタッフを連れてきていれば、そんな心配もいらなかったんですが」
 ぎくり。
 クラインは肩を震わせて、びくびくしながらゆっくり顔をティータの方に戻した。事情はよくわからないが、何かレミルに引け目があるのか。見た目の印象よりはかわいい感じの人だ。サングラスの中からティータを見つめながら、クラインは腕を組み、
「何をさせる?」
「考えがあります。それは後で」
 そのまましばらく考え込む。狭い隊長室の中は、不気味な沈黙に包まれる。ティータの額に浮かぶ玉の汗が、一滴、鼻筋を伝って流れ落ちる。
 やがてクラインは、口元に小さな微笑を浮かべた。
「わかった、負けたよ。うちで働いて貰おう」
「あ……」
 ティータは頭を上げて、目を丸くしながらクラインの微笑みを見つめると、再び勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございますっ!」
「ただし、役に立たなければすぐに追い出す」
「はい、がんばります! とりあえずどうすればいいですか?」
「事務室でIDの登録だ。事情は話しておく」
「わかりましたっ」
 ガッツポーズを取りたくなるのを必死に堪え、ティータは小走りに隊長室を飛び出した。そのまま事務室に向かいかけて、ふと気付き、またドアのところに戻ってくる。右手を掲げて、頭の横でびしっと伸ばし、
「行ってくるであります!」
「ああ、うん……」
 呆れ気味のクラインに敬礼を飛ばすと、今度こそ隊長室を後にした。
 ……まるで嵐だ。クラインはサングラスを外すと、静かに目を閉じて、瞼を軽く揉んだ。クラインの耳は、あの元気のいい大声のおかげで、まだキンキン鳴っている。元気が良すぎるのも考えものだ、とクラインは思う。しかし一方で、
「恋人のためにああなるというのは、確かにいじらしくはある」
 とも思える。
「そうですか」
 隣でレミルが低い声をだすので、またしてもクラインはぎょっとする。
「それで? 考えを聞こうか」
「彼女にはオペレータをやらせます」
 それを聞いてクラインは口をつぐんだ。オペレータは、部隊全体を繋ぐ文字通りの要である。オペレータの腕次第で、優秀なレイヴンがあっさりと命を落とすこともある。誰にでも任せられる仕事というわけではない。
 もっとも、最大限に効率化された組織である軍隊に、誰にでも任せられる仕事など存在しないのだが。その中でも特に人選に慎重になるべきなのが、オペレータという仕事だ。
 だからこそ、クラインが地球から火星に移動する際、フライトナーズのオペレータは全員地球に残してきた。火星に行きたがるオペレータが一人もいなかったのである。わざわざ治安の悪い僻地に行こう、などという気になれないのは、至極もっともなことだ。地球政府からの正式の命令ならば話も違っただろうが。
 クラインの権限で、そんなオペレータを無理矢理引きずってくることもできた。しかし、モチベーションの上がらないオペレータに部隊の管理を任せるのは、あまりにも危険なことなのである。
「彼女なら、おそらくできます」
 クラインの考えを読みとったかのように、レミルは静かにそう請け合った。
「クルツのおかげでモチベーションは十分。工学部の学生ですから、機材の操作もすぐ覚えるでしょう。あとは頭が回るかどうかだけですが、それも多分」
「一番重要なところが推測だな」
「女の勘です」
 クラインは目を丸くした。あの理知の塊のようなレミルが、女の勘なんていう根拠を持ち出してくるとは、珍しいこともあったものだ。
「信頼できるのかな?」
「それはあなたが判断することです、クライン」
 さっきから、レミルが妙にとげとげしい。クラインはサングラスについた埃を吹き払うと、目を隠すようにそれをかけた。今更、レミル相手にこの程度の隠し方では、効果がないかもしれないが。
「どこかの企業から引き抜くか、LCCから回して貰う方が良いのではないか?」
「即戦力にはなりますが、裏切りの味を知っている人間は、肝心な所で我々の計画を裏切る恐れがあります。また、LCCの息がかかった人間は取り込むべきではありません。動きにくくなるだけです」
「そうか……そうだな」
「一ヶ月あれば、使い物になるようにしてみせます」
 不安要素はある。しかし、レミルがこうも強気でいるのだから、自信があるのだろう。どっちにしろオペレータは必要だ。いつまでもクラインが真似事をしているわけにはいかない。
 火星には、あの男――サード・ホーンと名乗るあの男がいる。つい先程は、ミュート・サイレントラインなどという名も聞いたことのない男に翻弄された。クライン自ら打って出ねば太刀打ちのできない相手が、計画の初期段階にしてすでに二人。
 そしておそらく、もう一人。
 あの女も、また。
「……わかった、任せよう」
 覚悟を決めて、クラインは小さく頷いた。
「ああいう可愛らしい子には、助力してやりたくもある。巧く伸ばしてやれ」
「……了解。では、早速行ってきます」
 低く呟くように答え、レミルはかつかつと靴を鳴らしながら、ティータの後を追ってドアをくぐった。あのレミルが敬礼もしない。クラインは申し訳のないような気分になって、その背につい声をかけてしまった。
「レミル」
「……はい」
 どう声をかけたものやら一瞬悩み、
「お前の勘、信頼している」
 出たのはそういう励ましの声だった。
「ありがとうございます」
 早口に淡々と礼を言うと、そのままレミルは去っていった。
 あとに一人取り残されたクラインは、安い椅子の背もたれに体を預け、天井を仰ぎ見た。
「……嬉しくないのか。怒らせると恐いな、女は」
 そして腕組み。
「しかし、一体何を怒っているんだ?」
 さっぱりわからないクラインだった。

『敵は、LCCの管理下にある工場を占拠した、テロリスト集団』
 ストラングの声が、目を閉じたクルツの耳に、忍び込んでくる。
 あの後、強くなりたいなら実践あるのみ、というストラングに従って、クルツはクラウド・シティまでやってきた。ここで次の任務が待っている。そう、たくさん戦って、強くならなければ。強くなったその先に、待っている奴がいるのだから。
 輸送機に揺られ、ここに到着するまでの三時間、たっぷりと睡眠は取った。クルツを優しく包み込む愛機マスターカードは、傷こそ癒えてはいないものの、弾薬も燃料もたっぷり補給してある。戦える。連戦になるが、大丈夫だ。
『敵戦力は、改造MT5機』
 その声と共に、輸送機の後部ハッチが解放された。下には、クラウド・シティの街並みが見える。ジオシティから遠く離れた、LCCのお膝元。治安は悪いが、LCCによる管理は一番行き届いている。そういう街だ。
 つまりそれは、LCCによる治安維持活動がまともに機能していないことを意味している。ほとんど企業によって自治が敷かれているジオやザングチのほうがはるかに豊かで安全だというのは、情けない話だ。
 郊外のあたりに、高い壁で囲まれ、夜だというのに明々と照明に照らされている区画がある。カメラアイを収束させ、画像を拡大。見えてきたのは、エムロード製の二脚型MTをドリルやら大砲やらで武装した改造品だ。
『タイミングを見て降下しろ。あとは任せる』
「あんたはどうするんだ」
『私は君の監視役として同行する。手助けは一切しない。そのつもりで』
「監視役?」
 ちらりと後部カメラに目を向ける。ストラングのAC「ツェーンゲボーテ」は、格納庫の闇の中で、カメラアイをぎらぎらと光らせている。手に持ったバズーカは、いつでも火を噴けるようになっているはずだ。それがただの監視役とは。
『これは本来、私が受けたミッションなのでな。お前が失敗するようなら、私は後始末をする羽目になる』
「そりゃ災難だな。で、失敗したらおれはどうなるんだ」
『その時は、死ぬだけだ』
 ……そりゃ災難だ。クルツは顔をしかめ、目の前に集中した。操縦桿を握り、そっと息を吐く。初めての任務ほどの緊張はない。これなら、落ち着いて本当に七分の力でできる。
「できるよ、レミル」
 ストラングには聞こえないよう小声で呟き、クルツはペダルに足をかけた。
「オーケイ。次に真上に来たとき、降下する」
『了解した。クルツ、実戦で最も大事なのは、位置取りだ』
 クルツは思わず舌を出す。
「位置取り?」
『そうだ。状況をよく把握して、自分にとって最も有利で、相手にとって最も不利な位置に、それを持ち込むことだ。地形的なものだけでなく、精神的にも肉体的にも、ありとあらゆる要素を包括した、位置にな。強くなりたいなら意識することだ』
「位置ね」
 小さく口の端を釣り上げ、クルツはペダルを踏み込んだ。マスターカードが数歩進み、ハッチの間際で立ち止まる。ほぼ、目標の工場の真上に来ている。覚悟はとっくにできていた。
「ストラングさんよ」
『ん?』
「あんたの手助け、ありがたく受け取っとくぜ」
『むっ……』
 言葉に詰まるストラングを残して、
「クルツェス・レーベン、『マスターカード』降下するっ!」
 クルツとマスターカードはひと思いに空に飛び出した。猛烈な上空の風がマスターカードの装甲を叩く。意外な存在感をもった空気の層を泳ぐように、輸送機から充分離れて、ブースターを軽くひと噴かし。姿勢制御して落下速度を殺し、真下の状況を観察する時間を作る。
 いくつかあばら屋に近い工場施設が建ち並ぶ中に、見えているだけで改造MTが3機。残りは建物の中にいるのか。馬鹿な奴らだ。あんなふうに工場を照らしていたのでは、上から狙ってくれと言わんばかりだ。
「被ロック警告は聞こえてるだろ」
 右腕に貼り付いた、楯のような形のミサイルポッドを真下に向ける。狙いは手近なMT1機。ロックオンする時のFCSの鳴き声を聞きながら、クルツは舌で唇を湿らす。
「祈れよッ!」
 そして発射の直前、微妙に狙いをずらしてトリガー。真上からMTに降り注いだ2発のミサイルは、MTの右半身に着弾する。右腕に握られていた厄介な近接戦闘用兵器――作業用の大型ドリルが、右腕ごともぎ取られて地面に落ちる。
『んなぁー! てっ、敵だ!』
 MTパイロットの叫び声。それを聞いた他のMTが、一斉に索敵を始める。しかしこの闇夜、予想外の空からの襲撃だ。見つかるまで時間はあるはず。
 ――行ける!
 マスターカードはそのまま一気にブースターを噴かし、速度を増して降下する。地面すれすれでもう一度ブースト、両脚をサスペンションにして難なく着地すると、目の前で藻掻いているMTに向かって、左腕のレーザーブレードを一振りする。赤いプラズマが迸り、MTの片足をぶった切る。バランスを崩したMTは、見事に転んで動かなくなった。
「まず一つっ」
 自分に気合いを入れるため、クルツは大声を張り上げた。腹膜が自分の声でビリビリ震えている。首元が熱く火照ってくる。
 世界が加速していく。
 そのままクルツはペダルを踏み込んだ。マスターカードがそれに応え、次のターゲットへ向かって突撃しようとする。だがその瞬間、モニタの端に映った光景が、クルツの体を押しとどめた。
 いま倒したMTのコックピットから、パイロットが這いだしてくる。頬のこけた、無精髭の中年男。髪はぼさぼさで、この距離では画面を拡大してもよく見えないが、歯に黄色くヤニが染みついているような類の男だ。彼の着ている作業服は、すすに汚れて継ぎ接ぎだらけになっている。
「なんだよ……」
 クルツは頭上を仰ぎ見た。ストラングの乗っている輸送機は、まだそこを旋回飛行している。
「ストラング! 何がテロリストなんだ、ただの作業員じゃねえかっ!」
 ややあって返ってきた答えは、
『……テロリストとはそういうものだ』
 クルツは言葉に詰まった。
 相手はテロリストだ。自分の主張を押し通すために、力に訴えるクズみたいな連中だ。そう思っていたから迷わず戦っていたのに、こんな、ただの人間が――
 歯を食いしばり、クルツは手のひらで頬を叩く。何考えてんだ。ただの人間に決まってるじゃないか。テロリストだって。
『嫌なら代わってもいいが、私は躊躇わずコックピットを撃つぞ』
「ああ、わかったよっ」
 やるしかない。ストラングが言葉通りコックピットを狙うかどうかは分からないが、確実に彼らを生かしたいのなら、自分の手でやるしかない。だがはたして、残る4機、全てパイロットを生かしたまま無力化できるだろうか。
 まだ初心者に毛が生えた程度の、自分に。
 ……いや。
「なんとかするんだろ。それ以外ないんだろ、クルツ」
 小さく自分に言い聞かせ、
「一人ずつ相手してやる! 行儀良く並んでろ!」
 クルツは目一杯、ペダルを踏みしめた。

「ミャオが来てない!?」
 電話の相手の言葉を聞くなり、ユイリェンは珍しく大声を出した。反射的に顔を上げ、壁掛けの丸い時計に目をやる。うちを出てからもう一時間。塾にはとっくについていなければおかしい。
 ところが、塾のファルマン先生は、ミャオがまだ教室に来ていないという。あまり遅いので、心配して電話をかけてきてくれたというわけだ。
『もう、お家は出られました?』
「ええ、一時間前には……」
『変ですねえ、道草食ってるのかな?』
 普段はそんな子ではない。好奇心は旺盛だが、常にどこか一歩引いて構えているあの子は、大人に心配をかけるようなことはしない。電話くらい持っているのだから、遅れるなら遅れるで、塾に自分で連絡を入れる子だ。
 ということは。
 突発的な事件か事故に巻き込まれたのでないとすれば――
「わかりました」
 ユイリェンは早口にまくし立てた。
「私、探してみます。ご心配かけて申し訳ありません」
『いいえ、何かあったらご連絡ください。いざとなればわたしも探しに出ますから』
「ありがとう。それじゃ」
 受話器を置くと、そのまま数秒考え込み、それからユイリェンは駆けだした。奥のクローゼットから上着を取り出し、そのポケットに車のキーが入っていることを確認する。ログハウスから飛び出して、裏のガレージに回りながらも、頭の中では次々と可能性を模索している。
 事件か事故に巻き込まれたのでないとすれば、これは、意図的なものだ。
 あの子は自分の意志で行方をくらませた。
「勝手だわ」
 車に乗り込み、一息に発進させて、ユイリェンはぽつりと呟いた。ふと気付いて、ミャオの携帯電話にかけてみる。しかし返ってくるのは、電源が切られているという案内音声のみ。衛星とリンクして位置を特定するGPS機能を使ってみると、案外近い所に反応がある。
 ユイリェンの家がある丘を降りたところだ。車なら一分とかからずたどり着く距離である。そこで車を停めると、草の中に埋もれた、ピンク色の目立つ鞄が見える。車を飛び降り、その鞄を拾い上げる。ミャオのものに間違いない。中には、勉強道具一式と、携帯電話。
 位置を特定されないように、鞄を捨てていったらしい。なかなか気が回る娘だ。
「どこへ行こうというの」
 もう一度、よく考えて見なければならない。
 ミャオが誰にも何も言わなかったのは、言えば止められるとわかっていたからだ。ここまでして、一体どんな悪事を働こうというのか。なぜ今日に限ってこんなことをするのか。ミャオの様子におかしい所はなかったか。
「あ」
 チーン。
 頭に浮かんだのは、電子レンジの鳴き声。
「ハンバーグ……」
 ユイリェンは西の空を見やった。次第に色を変え始めた空の向こうに、宇宙港の姿がゆらゆらと揺れていた。

「ふふんふんふふーん」
『ネオアイザック行き373便は間もなく発進致します。ご利用のお客様は』
 軽快に鼻歌を歌いながら、ロビーのソファにどっかり腰掛け、ミャオはじっと機会を待っていた。家を出てからもう一時間。そろそろ、ママにもこの企みがばれている頃だろう。急がねばならない。
 宇宙港のロビーは、人々でごったがえしていた。旅行者らしい親子連れは、にぎやかに騒いでいる。田舎の別荘にでも来ていたらしい宝石の塊のようなマダムは、馬鹿でかいセントバーナードの頭を節くれ立った指で撫でている。警備員が一人、天井を見上げながら通信機でなにやら話している。
 このロビーだけで数十人は詰め込まれているだろうか。有象無象の客たちなんて、目がついていてついていないようなものだ。ミャオのテレパシー能力をフル活用して、こちらに意識が向いていない瞬間をつけばどうとでもなる。厄介なのは、警備員と、あの搭乗口のゲートだ。あのゲートは赤外線かなにかで護られていると見て間違いない。
 ふとガラス窓の向こう側を見ると、そちらは作業員用のスペースになっていて、ジャガイモがめいっぱい詰め込まれたコンテナが、ゲートの走査を受けている。あれはだめだ。密航防止のために、あちらにはそうとう厳しいチェックが敷かれているはず。ジャガイモの中に潜り込んでいたって、走査ですぐに見つかってしまう。貨物用の他に動物用のゲートもあるが、大して変わりはない。
 さて、どうするかな。ミャオは腕組みして、頭を捻る。ふと顔を上げると、マダムに嫌々撫でられているセントバーナードと目があって、ミャオは思わずにひひと笑った。疲れた目のセントバーナードもちょっぴり笑ったような気がした。
『5、6、7番ゲートよりご搭乗ください』
 マダムがセントバーナードを連れて立ちあがった。
 よし、今だ。
 ミャオはソファから飛び上がり、マダムの横を駆け抜けて、警備員の足元に飛びついた。
「うぇーんうぇーんうぇーん」
 そして大声を張り上げて泣き真似をする。演技は得意ではないが、必ずしも泣いているように見えなくたって、この場合は大丈夫だ。子供はこういうときに泣き真似をするということを、大人はよく心得ている。
「おわっ、なんだい、どうしたんだきみ」
「ママいないぃー」
「なんだ、迷子か。お名前は?」
「ミャオ」
「ママの名前は?」
「ユイリェン」
「ようし、ちょっと待ってなよ」
 警備員はミャオの頭を撫でると、腰のホルダーに収めていた通信機を取り出し、明後日の方を見ながら話し始める。よし。電話を掛ける時よそを向くのがこの警備員の癖だ。続けて周囲に意識を拡散させる。ミャオの意識が、このロビーの中にいる全員の意識と触れ合う。セントバーナードを連れたマダムがゲートに向かって歩いていく。さっきの泣き声でミャオに注目していた人々が、一人また一人と意識を逸らしていき――
 全員の意識が、ミャオから離れた。
 ――今だ!
 ミャオは猛然とダッシュすると、マダムの連れていたセントバーナードの上に飛び乗った。巨大な犬は、九歳児の体重を乗せてもびくともしない。何も気付かずリードを引いているマダムに連れられ、そのまま犬と一緒にゲートをくぐる。とたんにけたたましく鳴り響くサイレン。ミャオは犬から飛び降りて、ゲートの向こうの物陰に隠れる。
 あっちこっちからわらわらと駆け寄ってきた警備員たちが、マダムの行く手を塞いだ。
「お客様、困ります。犬は動物用のゲートをお通しください」
「んまっ! 犬だなんて失敬な! たくのエリザベスはわたくしのパァートナァーでありますことよ?」
「いえ、そう言われましても、ルールですから……」
 完璧。
 犬と一緒になってゲートを抜けてしまえば、人間はとっさにあのばかでかい犬のせいでエラーが出たと思うに決まっている。機械の吐き出すエラーコードを確かめもせずに。人間の目なんてアテにならないのだ。
 ミャオは物陰からそっと顔を覗かせた。あのセントバーナードのエリザベスが、疲れた目でこちらをじっと見つめている。
「わんちゃん、さんきゅーりー」
 小声で呟くと、エリザベスが瞬きをした。どういたしまして、の意識がミャオに伝わった。
 さあ、ここから先は時間との勝負だ。警備員に気付かれる前に、ミャオは物陰から飛び出し、一直線に目的の搭乗口へ向かった。

 ゲーム・オーバー。
 モニタいっぱいに表示されたその文字列を睨み、ラスティ・フレイオンはぴくぴくと眉を震わせた。何かむかむかしたものが、へそのあたりから込み上げてくる。ラスティは両手を振り上げ、そのむかむかを吐き出しながら、コンソールに思いっきり拳を叩き付けた。
「ちっくしょうッ!」
「あーだめだめ、お客さん台叩きは困りますね」
 言いながら半開きのコックピット・ハッチを開いたのは、蛍光レッドの短髪をかき乱した女――レッドハートだ。その手にはノートタイプのパソコンが抱えられている。パソコンから延びたケーブルは、コンソールの端子に差し込まれている。
 外部端末を繋いでの戦闘シミュレーションである。一時的にACの駆動系とコックピットとを切り離し、その代わりにパソコンとリンクさせて、様々な状況のミッションを再現する。すこし機械に強いレイヴンなら誰でもやっていることだ。
 ラスティはもののみごとにミッション失敗した鬱憤を、つばのしぶきと一緒にレッドハートに叩き付けた。
「何がゲームオーバーだっ! ふざけんなよ!」
「はいはい、荒れない荒れない。あんた、いざってときに定石を忘れすぎなんだよ。だから素人につけこまれたりする」
「くっ……!」
 奥歯をぎりぎり鳴らし、ラスティはぷいと顔を背けた。見透かしたようなことをいうレッドハートは気にくわないが、言われていることはもっともだ。戦闘が佳境に入って、熱くなってくると、どうしても見境がなくなってしまう。身に付けているはずの戦闘のセオリーを、守らなくなってしまうのだ。それは前々から自分でも感じていた。
 だが自覚しているだけに改めて指摘されると腹が立つ。
「動く前に、もっとよく考えてみるこったね。今何が一番必要なのか」
「考えるだって?」
 しばしラスティは押し黙り、
「考えるって、どう考えるんだ」
「……あんた、今考えた?」
「考えたさ! 分からんと言ってる!」
「静かにしてただけさね。まったく」
 呆れ気味にレッドハートが肩をすくめる。このチビめ、とラスティは内心毒づいた。ラスティより頭二つも三つも背が低くて、子供にしか見えない癖に、実はラスティよりずっと年上だという。しかもレイヴンとしてのキャリアも長くて、ランキングも上。知名度も高い。
 この童顔で、知った風な口をきかれると、ラスティはプライドを傷つけられたような気分になるのだ。
 苦笑してレッドハートは続ける。ほらみろ。この苦笑が腹が立つ。
「まあいいさ。もっかい最初ッからだ。ビシビシ行くよ、覚悟しな!」
「……上等だ」
 必ず見返してやる。このレッドハートもだ。ラスティはぺちんとほっぺたを叩くと、気合いを入れて再び操縦桿に手を掛けた。
「来いッ!」

「いいなあ、ああいうの」
 コバヤシコーポレーション火星支社の本部ビルは、アドイニア海沿岸のジオ・サテライトシティにある。それに対して、フライトナーズ本部のあるジオシティはアドイニア海のど真ん中。ラスティ・フレイオンが先走ろうとしても、そう簡単に行ける場所ではない。しばらくは大人しくしておいてくれるだろう。
 事実、彼は新しく雇われたレイヴン、レッドハートの熱心な指導を受けている。サード・ホーンは、地下ガレージのキャットウォークに立ち、手すりに体を預けながら、その様子をじっと見つめていた。ちびっこい女の子と背の高い若造とが、お互いじゃれ合うようにして訓練している様子は、ほほえましくって思わずにやにやしてしまう。
「いい傾向だよな、きっと」
 ラスティの訓練が順調に進行しているとは思えない。それでも前へ進もうとするその姿勢は、決して悪くはないはずだ。これを機に、少し素行を改めてくれれば――具体的にはあんまり先走らないようになってくれれば――サードとしては大変仕事が楽になるのだが。
「こらァッ! だから一人で突っ込むんじゃないよ! 何度言ったらわかるんだい、あんたは!」
 ばきっ。景気のいい音がする。またラスティが、レッドハートにどつかれたらしい。
「……ちょっと望み薄か?」
 サードが頭を掻いたその時、ガレージにけたたましいアラームが響き渡った。戦闘態勢へ移行、の警報だ。ガレージ中の整備員がすぐさま配置に付き、フレースヴェルグのコックピットからは、ラスティが顔を覗かせる。
 手近な壁の通信端末に駆け寄り、サードは社長室へのホットラインを繋いだ。
「ケンジ? どうしたんだ」
『サードか。クラウドシティで、LCC傘下の第三セクターが暴動を起こした。作業員が改造MTで工場を占拠してるらしい』
「クラウドって……どうすんだよ、そんなの」
 クラウドシティはジオシティから最も離れた中核都市である。そんなところまで、輸送機が最高速で向かったとしても軽く三時間はかかる。
『さっき、ジオシティのフライトナーズ基地から、クラウドシティに向けて輸送機が出た。チャンスだろう?』
 確かに。たかが工場の暴動一つで、ボイルやレミル、ましてクラインなどが出てくるとは思えない。下っ端のパイロットに任せて終わりのはずだ。そういう兵隊を分散させたところを逃さず一つ一つ潰していけば、いずれクラインに決戦を仕掛ける時に有利になる。
 最近増長気味のLCCを、ここらで少し叩いておくのは戦略的にもよい判断だ。
「了解、行けばいいんだろ。レッドハートは守りに残す。俺とラスティで……」
『いや、君が残ってくれ』
 サードは目を丸くした。壁の端末に顔を寄せ、小声で呟くように、
「……新入りと問題児だけで出すのか?」
『今、地球から連絡が入った。問題が起きたらしい』
「地球? 地球って……」
 ケンジの遠回しな言い方に、サードは少し頭を捻り――
 やがて、弾かれたように目を見開いた。
「まさか、ユ……!」
『おっとストップ。誰が聞いてるか分からないよ。とにかく、君とすぐに相談したい。上に来てくれ』
「……わかった。二人を出撃させる」
 通信を切断し、サードはキャットウォークの手すりから身を乗り出した。下を見れば、ラスティとレッドハートが、命令を待ってこちらを見上げている。ホントに大丈夫かな、あの二人だけで。不安になるサードだったが、今は期待するしかない。
「ラスティ、レッドハート、出撃だ! クラウドシティの暴動を支援して、フライトナーズを叩け!」
「……はっ」
 ラスティは命令を聞くなり、顔一杯に歓びを表し、小さく息を吐いた。
「任せとけ! 今度こそぶっ殺してやる!」
 そのままラスティは跳ねるように駆けていくと、フレースヴェルグの足元のリフトに飛び乗った。コックピットまでリフトで登ると、開けっ放しだったハッチの中に躍り込む。
 やる気が十分なのは、頼りがいがあるのだが。サードはぐったり肩を落とすと、まだ下でこっちを見上げているレッドハートに目をやり、
「レッドハート」
「なんだい?」
「あんたには期待してるよ。あいつをちゃんと尻に敷いててくれ」
 レッドハートはにやりと笑い、
「はん! そうさせてもらうよ。座り心地は悪くなさそうだ」
 そのまま、自分の愛機『レッドフューリー』に向かう彼女の背中を見送り、サードは手すりにあごを乗せた。
「座り心地は悪くないのか……そう思えるのって、すっげえなあ」
 心底感心するサードだった。

 あと一人っ!
 クルツは潰れそうな肺から息を吐き、すぐさまペダルをキックした。重たい機体をブースターの推力がはじき飛ばす。4機目の脚をレーザーブレードで切った隙を狙って5機目が放ったカノン砲の一撃は、マスターカードの背中をかすめて、向こうにある工場の屋根に着弾する。榴弾の炸裂で吹き飛ぶ屋根を背部カメラに見ながら、クルツはオーバードブーストをコマンド。
「くそっ、中に人はいないのか!?」
 子犬の鳴き声のような甲高い音が響き渡り、マスターカードは背中から吹き出すプラズマに押し出され、一気に最高速まで加速する。一直線に目指すのは、改造MT最後の1機。
「あんたたちの工場だろ!」
 改造MTがこちらにカノン砲の砲口を向ける。クルツが操縦桿をひねり倒すと、マスターカードは地面を蹴って、OBの勢いを殺さぬままに横へ飛ぶ。一瞬遅れて放たれた砲弾が今度はマスターカードの肩をかすめて過ぎる。
『うわああああ! 来るなあああっ!』
「無理な相談だぜ」
 一瞬でマスターカードは改造MTに肉薄する。OB停止、流れるように時間を確認。カノン砲のリロード時間は最低でも1秒以上。あとコンマ5秒は余裕がある。クルツの左手が滑らかに走り、マスターカードの左腕にコマンドを送る。左腕に接続されたレーザーブレードが唸り、赤いプラズマを撒き散らしながらMTのカノン砲身を両断する。
「どおりゃぁあ―――っ!」
 武装を失ったMTに、マスターカードは両手でつかみかかり、そのままブースターを全力噴射する。重たいMTがバランスを崩し、オートバランサーが重心を移動させた瞬間、マスターカードは逆方向へブースター噴射。重心が移動してしまったせいでかえって機体バランスをとれなくなり、MTはものの見事に横倒しになった。
 よしっ!
 クルツは胸にため込んだ息を吐き出し、ペダルを軽く踏み込んだ。マスターカードがそれに反応して小さくジャンプ、倒れたMTの上に着地する。これでもうMTは動けなくなったはずだ。
「はあー……」
 これで、5機。
 クルツはほっと胸を撫で下ろし、シートに深く背中を預けた。なんとか、全機パイロットを殺さず片づけることができた。まあ、コックピットすれすれにミサイルを叩き込んでしまった3機目とか、いまの上から派手に踏みつけた5機目とかは、怪我の一つや二つはあるだろうが。
『ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……』
 目を瞬かせ、クルツは入ってきた通信の発信源を探す。マスターカードの真下、踏みつけている5機目のMTからだ。疲れた男の声は、散々悪態を撒き散らし、
『おらぁどうなっちまうんだよう……女房も子供もいるってのに、ちっくしょう』
 クルツは小さく舌打ちすると、発信ボタンを押し込んだ。
「勝手なこと言ってるな! 手前のやったことで、誰かの女房子供が死んだかもしれないとは思わねぇのかよ!」
『そっちこそ知ったふうな口をきくな、レイヴンのくせに! おれらがどんなに苦しい思いをしてたかなんて、どうせわかっちゃいねえんだ!』
 ざわり。
 クルツの首筋で、怒りがざわざわと蠢いていた。食いしばった歯がぎりぎりと音をたてていた。操縦桿を握る指に、白い色が浮かんでいた。
「わかってないのは手前だろ……」
 ともすればトリガーを引いてしまいそうになる自分の指を必死に押しとどめ、
「苦しいのが、悲しいのが、守りたい人間抱えてるのが、自分だけだとでも――!」
 その時。
 マスターカードのコックピットを、けたたましいアラームが包み込んだ。
 反射的にレーダーに目を落とし、そこに敵を示す反応を見て取ると、すぐさまクルツは操縦桿をひねり倒した。一瞬遅れて被ロック警告がモニタに灯る。真上から降り注いできた赤いプラズマ砲弾が、間一髪横へ跳んだマスターカードのそばをかすめて過ぎて――
 倒れていたMTに着弾、炸裂した。
『うっうわ……』
 パイロットの悲鳴は雑音に掻き消され、さらに降り注いだプラズマ砲弾の炸裂音がそれを上塗りする。クルツは操縦桿をがむしゃらに倒し、マスターカードにランダム機動を取らせながら、手近な工場の影に逃げ込んだ。マスターカードを見失ったのか、上からの砲撃が止む。
 工場の影からのぞき見れば、無残に四散したMTの姿がそこにある。
 あれではパイロットは絶望的だ。
「……くそっ」
 なんてことをするんだ。まだ生きていたのに。腹が立つ奴だったが、死ぬ理由なんてなかったのに。
『いいこと言うよな。苦しんでる人間はお前だけじゃあない』
 ――この声は!
 クルツは聞き覚えのある声に反応して、コンピュータに機体照合を命じる。
『あれからずっと、オレは苦しくって切なくって胸が張り裂けそうで……』
【敵AC確認】
 コンピュータの声に導かれるように、黄色いそのACは、ふわりと優雅に舞い降りた。全体から張り出した、骨組みそのままのようなフロート・シャフト。腕部に内蔵されたプラズマ・カノン。
『運がいいよな。会いたかったよ。そうだろ、クルツェス・レーベン!』
【レイヴン『ラスティ・フレイオン』所有、『フレースヴェルグ』】
 だが、その名前がもはやクルツの心を乱さないことに、クルツ自身も気付いていた。

 ラスティのフレースヴェルグのはるか上を、ゆっくりと降下しながら、レッドハートは眉をひそめた。彼女の愛機レッドフューリーは、重量級なみの装甲を持つ中量二脚型だ。その分機動力が殺されていることは否めず、また武装は軽量だが扱いの難しいロケット砲と火炎放射器のみ。玄人向けの機体構成である。赤く塗られたその機体の中で、レッドハートは静かに息を吐く。
『勝負だ、クルツ! 今度こそお前を生かしちゃおかん!』
 例によって先走って、一人で先に降下したラスティが、敵の白い中量二脚AC――クルツェス・レーベンのマスターカードとかいうのに突っ込んでいく。ラスティ動きは悪くない。しかしクルツは、その猛攻から冷静に身を引き、工場の外壁を遮蔽にとりながら、ラスティとの間合いを測っている。
「まずいな……ああいう恋は男を殺すぞ」
 呟き、レッドハートは操縦桿を操作する。レッドフューリーは空中で姿勢を制御し、真下にロケット砲の砲身を向けると、落ち着いて狙いを定めた。クルツは、まだこちらの存在に気付いていない。今なら効果的な援護ができるはず。
 と、その時だった。
 けたたましいアラームがレッドフューリーのコックピットに響き渡る。反射的に側面モニタに目をやれば、そこには自分と並んで降下する黒い重量級二脚ACの姿がある。自分にバズーカの砲口を向けた、あの機影には見覚えがある。
「ツェーンゲボーテ!? 火星十傑のストラングか!」
 背筋に悪寒が走るのを感じながら、レッドハートはペダルを蹴りつけた。ブースターが慌ててプラズマを吐きだし、放たれたツェーンゲボーテのバズーカ砲弾をすんでのところで回避する。舌打ち一つ、レッドハートはペダルを断続的にキック。レッドフューリーはジグザグ機動を取って一気に下まで降下する。
『ランキング20位……レッドハート、か』
 聞こえてくるのは低い男の声だ。これが、ツェーンゲボーテのパイロット、ストラングの声。アリーナのトップ10人、火星十傑に名を連ね、ナーヴスコンコードの上層部とも繋がりがあると言われる、火星レイヴンの調停者。
 紛れもなく、火星最強の男たちの一人だ。
「はっ……こいつぁ運がないや。えらい奴と会っちまったもんだ」
『そうだな。君の不幸は同情に値する』
 軽口を返しながら、ストラングのツェーンゲボーテが降りてくる。敵の射程に入るより早く、レッドフューリーは工場の影に身を隠した。あのバズーカは一撃必殺の兵器。まともに戦っては勝ち目はない。遮蔽を巧く使って、機動力で劣る敵の背後を衝かなくては。
「そっちこそ。天下のストラングが、新人の子守りかい?」
 ラスティと戦っているクルツとかいうレイヴンを思い出し、レッドハートは嘲るように言った。半分は自分の気持ちを落ち着かせるため。もう半分は、作戦を練る時間を稼ぐためだ。
『子守り? さて、何のことだかわからんな。私はただ』
 わざとらしくそう惚けて、
『近所を通りかかっただけだよ、レイヴン!』
 ツェーンゲボーテが空中に飛び上がった。レッドハートはすぐさま操縦桿を捻る。

 クルツは短く強く息を吐き、ペダルを断続的にキックする。マスターカードはバックステップで敵との距離を取り、着地ざまにもう一度ジャンプ。工場の屋根を飛び越えて向こう側の道に着地する。目視はできないが、レーダー上ではフレースヴェルグが急停止している。こっちを追うつもりが、工場に阻まれてやむなく止まったのだ。
「……見えるぞ」
 落ち着いてよく見れば、ラスティはただ突っ込んでくるばっかりだ。たしかに近距離なら、機動性で優るラスティに利がある。しかしこう直線的に追ってくるばかりなら、容易に有利な地形に誘い込むことができる。
 有利な地形、位置取り――障害物の多い地形がいい。そういう場所なら、動ける範囲が狭すぎて最高速を生かし切れないはず。
 おまけに向こうは怒っている。いきり立って、何が何でも勝とうと突っ込んでくる。少し逃げ回ってじらしてやれば、さらにその怒りを掻き立てることができるはずだ。冷静さを失わせれば――
 敵は七分の力で戦えなくなる。
「ストラング、レミル」
 フレースヴェルグの位置を示すレーダーの光点が動いた。左へ。工場を回り込んでこっちに向かうコースだ。クルツは左右の側面モニタに素早く目を配ると、すぐさまペダルを踏み込み、操縦桿を倒す。再度のジャンプで工場の屋根を飛び越え、今度はクレーンや重機が並べられた駐車場に移動する。
「助かってるぜ、ありがとよっ」
 周囲を壁で囲まれた駐車場に降りたって、クルツはマスターカードを旋回させる。正面に捉えたレーダーの光点を睨み付け、目視の状況から敵の位置を判断する。フレースヴェルグはあの壁の向こうを、猛烈なスピードで迫ってくる。どうやってあの壁を乗り越える? 飛び上がるか、迂回するか、それとも――
 瞬間、轟音と光が迸り、フレースヴェルグとマスターカードを隔てていた壁が破裂する。舞い上がる赤いプラズマの残滓。砲撃で破壊したか。もう一度、クルツは短く強く息を吐き、ペダルを踏み込み飛び上がる。上からフレースヴェルグを捉えて、右腕のミサイルをロックオン。
『逃げ回りやがって! 面倒をかけるなよ!』
「勝手なことばかり言ってんじゃねえよッ!」
 トリガーを引く。放たれた4発のミサイルが、蛇行しながらフレースヴェルグに迫る。しかし相手は高機動のフロートタイプ、容易く真横にスライドしてミサイルを全て回避する――
『うっ!?』
 かに思えたその時、フレースヴェルグの横に停められていたMTが、その行く手を阻む。
『邪魔だ、くそっ』
 慌ててフレースヴェルグは後退し、MTを迂回する。しかし回避の遅れを見逃さず食らいついた1発のミサイルが、フレースヴェルグの肩に食い込んだ。防御スクリーン越しの衝撃に煽られ、黄色いフロートタイプは大きくはじき飛ばされる。
 その間にマスターカードは大型クレーンの上を飛び越え、その向こう側に難なく着地。
『きっさまあっ!』
 ラスティが叫びながら放った反撃のプラズマカノン砲弾は、そのクレーンに着弾して炸裂する。マスターカードには傷一つついていない。
「行ける!」
 思わずクルツは声を上げ、横っ飛びしてクレーンの脇に躍り出た。ちょうど敵はこちらを捕捉しようと障害物の外に飛び出したところ。今なら黄色いフレースヴェルグの機影まで、一直線に進路を結べる。
 クルツはオーバードブーストのコマンドを入力し、

「ええいっ! なんでこう邪魔なんだ!」
 そういう地形に誘い込まれたとも気付かず、ラスティは苛立ちながら障害物の影から飛び出した。苛立ちの余り、敵の機動を確認することすらせず。気が付いた時にはもう遅い。視界の隅で、マスターカードがこちらを睨み付けている。
 背中に青いプラズマを蓄えて。
「しまっ……!」
 次の瞬間、子犬の鳴き声と形容される音を吐き出して、マスターカードの背中でプラズマが破裂した。オーバードブーストの猛烈なスピードで、瞬きするより早く白い巨人が迫ってくる。ラスティは慌てて操縦桿を捻る。しかし間に合わない。マスターカードは左手を振り上げ、
『でぇらああああああああっ!』
 レーザーブレードを真っ正面から振り下ろす。身をひねったフレースヴェルグの右肩を、赤いプラズマの刃が切り落とす。ラスティは衝撃に叩きのめされながら、反射的にペダルをキック。ブースター全開で後退するが、オーバードブーストの勢いに乗ったマスターカードは振り切れない。
『こいつで終わりだ!』
「嘘をつけ、嘘をつけ! お前なんかに……」
 残った左のプラズマカノンをマスターカードに突きつけて、ラスティはがむしゃらにトリガーを引く。瞬間、白い巨人の姿が視界から消失する。赤いプラズマは空しく空を貫いて、遥か彼方で爆発を起こす。そうだ、敵はオーバードブースト中。こちらを追い抜いて――
「お前なんかに……」
 後ろに。
「お前なんかに、この、オレがああああっ!?」
『祈れ! ラスティ・フレイオンッ!』
 衝撃。
 背後から繰り出されたプラズマの刃が、フレースヴェルグの脚部フロートシャフトを貫いた。

「よしっ」
 クルツは小さく呟くと、オーバードブーストを停止し、左手を引き戻した。フロートシャフトによる浮力を失ったフレースヴェルグは、力無くその場に墜落する。狙ったのは脚部と腕だけだ。パイロットは死んではいない。
 殺す必要は、もはやない。
 ラスティは酷いやつだ。こいつのせいで何人も死んだ。殺してやりたいと思うほど憎んだこともあった。
 それでも、本当に殺すっていうことは、そういうのとは無関係だ。そう思う。
 と、その時だった。レーダーに突然別の光点が灯り、敵ACの接近を告げるアラームが、コックピットに鳴り響く。思わず身構えたクルツの目の前に、真っ赤な中量級ACが飛び降りてきた。フレースヴェルグに手を添えるその機体は、コンピュータの照合によれば、ランキング20位、レッドハートの「レッドフューリー」だ。
『ラスティ、こっちもヤバい。逃げるよっ!』
 ラスティは何も応えない。レッドフューリーのカメラアイが、一瞬クルツの方をぎらりと睨み付けた。悪意でも敵意でもない、しかし激しい感情が伝わってくるのを覚え、クルツは小さく身震いした。
「……行けよ」
 クルツは呟くように通信を送った。レッドハートとかいうレイヴンの溜息が聞こえ、
『……甘いね。あんたみたいのが、ずっと甘ちゃんでいられる世の中ならいいんだが』
 女のハスキーボイスとともに、レッドハートはフレースヴェルグを抱えて、ブースターを全開にした。しばらくおくれて、フレースヴェルグもブースターに火を灯す。二機は寄り添うように、頭上で待っていた輸送機に飛び乗り、去っていった。
 甘い、か。クルツはシートに背中をあずけ、ポケットから煙草を取り出した。不健康な白い煙を肺いっぱいに吸い込みながら、クルツは静かに目を閉じる。確かに甘い。でも、それがいいっていうんなら、無理してそうじゃなくなる理由なんてないじゃないか。
 仕方なくそうじゃなくなってしまう、その悲しい分岐点までは。
 そのままうとうとしかけたクルツを、アラームが起こす。見れば、レーダーに味方機の反応がある。さっきレッドハートが飛び降りてきた位置に、それを追うように降りてきたのは、真っ黒な重量級二脚――ストラングのツェーンゲボーテだ。
『クルツ、赤い二脚型を見なかったか? 追っていたのだが……』
 思わずクルツは、背面モニタで逃げていく輸送機の姿を追う。言えばどうするだろう。こっからでも輸送機を狙撃すると言い出すだろうか? そのほうが賢明な判断だろうか?
 しばらく逡巡したあと、クルツはふっと微笑むと、明るい口調でこう言った。
「いや、全然。こっちの敵にも、うまく逃げられちまったよ」

「……はあ!?」
 ケンジの話を聞くなり、サードはすっとんきょうな声をあげた。
 コバヤシコーポレーション火星支社本部の社長室に、その声は何度も何度も反響する。何がなんだか、もうサードにはさっぱり理解できない。ケンジは溜息を吐きながら、もう一度地球から入った報告を繰り返した。
「……だから、火星に来ちゃったんだよ。ミャオライちゃんが。一人で」
 ミャオライ・タオ・ルーベック。9歳。女の子。
 サード・ホーンと、その妻タオ・ユイリェンの間に生まれた、たった一人の愛娘である。
「なんで!?」
「知らないよ、そんなこと。本人に聞いてくれ。とにかく、さっきユイリェンから届いたメールによると、つい三時間ほど前に地球を出発した火星への貨物輸送船に、ミャオちゃんが乗ってしまったことが確認された。この船が火星に到着するのは約一ヶ月後」
「引き返さないのかよっ、船はっ!」
「火星連絡船は一隻出すだけで、燃料だけでもおおごとなんだよ? 密航者の一人くらいで引き返したりしないよ」
「な……」
「しかも、まずいことにこの船がLCCの輸送船なんだな……」
 なんてことだ。サードはがっくり肩を落とし、ぺたりと社長室の絨毯に座り込んだ。もう何をする気力も起きない。ミャオのことだ、一ヶ月かくれんぼを続けたままで餓死する……なんて間抜けなことはしないだろう。しかし、無事火星に生きてたどり着いたとして、その後一体どうするのだ。相手はLCCである。密航者ということで処分されたりしないだろうか。そもそもどうやって助け出すのだ。
「それでね、サード、おーい、生きてる?」
「生きてるよっ! なんだよ!」
「ユイリェンがミャオちゃんを追って、別の連絡船で火星に向かっている。計算上は、ミャオちゃんと同じ日にこちらにたどり着く予定だ」
 ユイリェンが。
 なんてことだ。二つ目の衝撃に、サードは歯を食いしばった。結局、ユイリェンを火星に呼ぶことになってしまった。火星に来れば、ユイリェンは戦わざるを得ないだろう。ミャオは、LCCの手の中にあるのだ。あの子を助けるために、ユイリェンが立ちあがらないわけがない。
「……大丈夫だ、ウェイン。ユイリェンが来れば、LCCからミャオちゃんを助け出すのなんてわけないさ」
「わかってるよ、そんなことは」
 痛いくらいに。
「わかってる」
 小さく呟き、サード・ホーンは――ウェイン・ルーベックは、固くこぶしを握りしめた。

 火星連絡船の客室は、豪華とは言い難い。部屋の内装は簡素なもので、広さも、ベッド一つ置くのが精一杯といったところだ。それでも、値段だけで言えばこの世のどんな豪華客船よりも高額なのである。
 ユイリェンは、その世界一高価なベッドの上に倒れ込み、じっと天井を見上げていた。遠心力によって生み出された擬似重力に背中を引かれながら、ユイリェンはいつまでも羽ばたけずにいる自分に思いを馳せる。
 私は一体、何をやっているんだろう。
 ミャオの意図は明らかだ。ユイリェンを、火星に引っ張り出そうと言うのである。子供にはそんな風に見えていたのだろうか。戦いの最前線から身を引き、僻地で悶々としているように。そう見えたというのだろうか。
 私は一体、何をやっていたんだろう。
 自分の中にある力を恐れ、自分が人間でなくなってしまうことを恐れ、ただあたりまえの一人の人間として、13年もの間隠れ暮らしてきた。夫は優しかった。娘は可愛かった。暖かな日差しと、緩やかな田舎の時間に囲まれて、ユイリェンは――
「私は――」
 幸せ、だった?
 本当に?
 寝返りを打ち、ユイリェンは胎児のように丸まった。
 火星に行けば、自分は戦うだろう。ミャオを助け出すために。ウェインを、夫を守るために。いまだ人類を支配しつづけている「意志」の手から、人類を解放するために。
 でも――
「私、恐いの」
 誰にともなく、ユイリェンは呟いた。
「自分の中に住んでいる怪物が。私が、何かおかしなものになってしまうのが。でも、私――」
 自分を、偽っているのではないか?
 力を恐れるあまり、本当の自分を見失っているのではないか?
 そんな漠然とした不安感は、今なおユイリェンの中にある。
 自由を得た代償。
 変化することへの恐れ。
 それを抱いたまま、ここにユイリェンは再臨した。

つづく