ARMORED CORE 2 EXOR
独語のWachhundは、英語ではWatchdogとなり、つまり「番犬」を意味する。
彼、ヴァッハフントにとって、その名前は誇りだった。彼の愛機「ルーキーブレイカー」は、その名の通り何人もの新人レイヴンを挫折させ、時にはその命さえも奪ってきた。上位に食い込めるだけの実力を持ちながら敢えて下位を維持し、調子に乗って上へ上がろうとする若造どもを門の所で蹴り落とす。上位に昇れるのは、相応の実力を持った選ばれし者のみ。その選別をうやむやにしてしまっては、上位のバトルが間延びしたものになるばかり。それでは秩序は保てない。
火星アリーナの入口を守る番犬――彼は、そういう、秩序を守るための必要悪を、自ら演じてきたのだ。
誰に頼まれたわけでもないのに、一人で勝手に。
「っはあっ、はあっ、はあっ」
荒い息を吐いて操縦桿を握りしめる。敵は、あの男は、静かに忍び寄ってくる。現れては姿を消し、まるではじめからそこにいなかったかのように巧みに潜伏し、隙を見て一気に攻撃を仕掛けてくる。ヴァッハフントの額の汗が、これまでの激戦を物語っている。一方的な激戦――ただ攻撃を受け、それを紙一重で回避するだけの、そんな激戦を。
それ以上、ヴァッハフントに何ができたというのだ。
「ちくしょうっ、一体なんなんだ! なんで俺が! なんで俺が! こんな目に!」
相手はただの下位ランカーだったはずだ。地球から火星にやってきて、半年の間、最下層の雑魚どもと戦って、勝ったり負けたり、低迷を続けていたはずだ。そんな奴が突然人が変わったかのように連勝を重ね、あっというまに番犬たるヴァッハフントと対戦カードが組まれるまでに順位を上げ――
瞬間。
何もかもが消えた。
アリーナを埋め尽くす観客の声援も、けたたましいコックピットのアラームも、低いACの駆動音も、何もかもがだれも知らない遠い場所に行ってしまった。
ヴァッハフント一人が取り残された。
なんの音もない静寂の世界に。
『……乱れているな。騒がしい心だ』
来た!
ヴァッハフントは反射的に操縦桿を捻り、ペダルをキックした。白で塗装された逆関節型AC「ルーキーブレイカー」が、怯えたように地を蹴って飛び上がる。高速旋回で敵の気配を感じた方向を向き、ロックオンしたかどうかも確かめず、ただがむしゃらにトリガーを引く。
ルーキーブレイカーの腕部に内蔵されたガトリング砲が火を噴き、無数の徹甲弾をばらまいた。
何もない空虚な空間に。
「なっ、にっ……気のせい……」
『それでは俺には勝てない』
唐突に、音が帰ってきた。まるでダムが決壊したかのように、音の洪水がヴァッハフントを襲う。どれがなんの音で、音になんの意味があるのか、ヴァッハフントには分からなくなる。これはモニタ。モニタ? どうしてこれはモニタなんだ? モニタっていうのは何か別の物ではなくてこれだったのか?
意味がわからない。音と意味と存在が、乖離して膜のようになってヴァッハフントを包み込む。モニタ。操縦桿。ペダル。コックピット。手。服。汗。自分――ヴァッハフント。名前は分かる。言葉にできる。でも本当にその名前で良かったのか、彼には自信が持てなくなる。
どうして?
ヴァッハフントはただ混乱していた。
どうして?
『理由は簡単』
突如、ルーキーブレイカーをミサイルの群れが襲った。背後から飛び込んできた多弾頭ミサイルは、背中の薄い装甲板を貫き、軽量級のルーキーブレイカーを衝撃で抑え込んだ。体が自由に動かなくなり、為す術もなくなり、ヴァッハフントはぎらぎらと光る目で背部モニタを睨み付けた。
いる。そこにいる。緑色の、逆関節型AC。装甲も武装も極限まで切りつめ、瞬間的に近寄り、破壊し、瞬間的に退避する、ただそれだけの能力を追求した機体。それは机上の空論のはずだった。一発も攻撃を受けず、必殺の一撃を確実にたたき込めるなら、確かに装甲も豊富な弾倉も必要ない。機動力と攻撃力だけがあればいい。しかしそんなことは――
そんなことは……
「そんなことはぁーッ!」
ヴァッハフントが叫んだその時。
頭上から、高熱の榴弾がルーキーブレイカーを襲った。
「うおわああああああ!」
半狂乱になって、ヴァッハフントは操縦桿を無茶苦茶に引きまくった。ガチャガチャと金属パーツが触れ合って、奇妙なリズムを刻んだ。しかし機体は動かない。榴弾の熱でオーバーヒートした機体を冷まそうと、ラジエータが悲鳴をあげている。衝撃で駆動系に影響が出て、歩くことすらままならない。
死ぬ。
ついに、ヴァッハフントはそれを確信した。
確信してしまった。
「ああああああッ、ああっ、うあああああああ!」
衝撃が、コックピットに広がる。
ルーキーブレイカーは、頭上から敵に踏みつけられ、無様に倒れ込んだ。
「――まず、心を落ち着ける」
彼は、眼下でもがくルーキーブレイカーの姿を見つめ、ぽつりと呟いた。静かな、何もかもを凍り付かせてしまうような、冷たい声で。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
「世界を静寂に包み込む。己はその世界を貫く一本の直線。始まりもなく終わりもなく、ただどこまでも世界を貫き真っ二つに両断する、ひとすじのライン……」
『どうして……!』
敵の――ヴァッハフントの声が聞こえる。
彼は口の端に、悪魔のような笑みを浮かべ、その声に応えた。
「俺は唯一無二の絶対的価値観を持っている。それを相手としては――」
銃口を、ルーキーブレイカーのコックピットに向け、
「迷う者は、為す術を知らないからだ」
ミュート・サイレントラインは躊躇い無くトリガーを引いた。
SECTION#03
静寂の琴線 Silentline
クルツは教えられるがままに、操縦桿にそっと手を添えた。
そう、クルツである。ジギィは結局、ストラングの勧めに従った。このあいだ死んでしまったレイヴン――クルツェス・レーベンになりかわり、レイヴンとしての彼の資格や機体の全てを受け継ぎ、フライトナーズの一員となることを決めた。
ジギィに――いや、クルツに迷いはなかった。力が欲しかった。あの真紅のACのような力。ラスティ・フレイオンを容易く退けたフライトナーズのような力。大切なものと大切なひとを守りきるだけの力が。
認めてくれるかどうか気懸かりだった母親も、いつものようににっこり笑って賛成してくれた。大学はしばらく休学扱いにしてもらえばいい。あとは名前を変えるのが少々ややこしいくらいだが……じきにしっくりくるだろう。愛着なんていうのは後から湧いてくるものだ。
「クルツ、なにをぼうっとしている?」
耳元で、涼やかな女の声がした。はっとしてクルツは首を巡らせる。すぐそばには、ぴたりと肌を密着させたレミルの顔があり、思わずクルツはどきりとする。集中していなかったという罪悪感で冷えた心に、レミルの温もりが忍び寄ってくる。ああ、だめた。余計に集中できなくなる。
「いや……大丈夫だ。聞いてた」
「なら始めからもう一度だ」
頷き、クルツは操縦桿とコンソールを、教わった通りの順序で操作した。
ここは、マスターカードの狭苦しいコックピットの中である。開きっぱなしになったハッチの向こうには、フライトナーズ基地のガレージの風景が見える。何機ものACが立ち並び、それぞれに整備を受けているさまは壮観ですらある。向こうから順に、クラインの「メタルウルフ・カオス」、ボイルの「瞬狼」、レミルの「メレル・ウルフ」、その向かい側には一般隊員用の「アサルトドッグ」、「マーダードッグ」、それから……
「よし。正確で速い」
またしても意識がよそへ飛んでいたらしい。耳元にレミルの息がかかって、クルツは体を震わせる。ほとんど自動的に動いていた自分の手足は、ちゃんと間違いなく教わった動きをトレースしてくれていたようだ。
クルツはACの操縦に関しては素人だ。なんとか動かせないことはない、という程度の腕前しかない。そこで、クラインの命令で、こうしてレミルから操縦を教わっている。
教わりながら、クルツはレミルの特徴を、一つ残らず観察しようとしていた。歳はたぶん30くらい。髪はきれいな金髪のセミロングで、目はブルー。肌はさらさらして、少し冷たい感じ。やせ形で胸はあんまりない。クルツの背中に当たる感触は、どっちかというとごつごつしているから、間違いない。
態度はぶっきらぼうだが、よく周りをみて、親切にしてくれる。
一目見た時から思っていた。好みのタイプだ。
「とりあえずこれだけ覚えていれば、普通に戦うぶんには問題ない。まだ覚えることは山とあるがな」
「ああ、ありがとう、レミル」
クルツの礼など聞いているのかいないのか。レミルは腕時計に視線を落とし、
「予定より少し早かったか……作戦開始まで休んでおけ。体調は万全にな」
この後は、すぐに任務が待っている。エムロードの工場に、立入検査を行うのだ。メインで働くのはボイルとレミルで、クルツはただくっついているだけでいい。しかし、それでもクルツにとっては初めての任務だ。
「わかってる。大丈夫だ」
クルツは操縦桿に手を添え、固く握りしめた。指の関節が白く浮かび上がる。操縦桿のラバーがぎゅっと小さな音を立てる。
それを見た瞬間、レミルが大声を張り上げた。
「張り切るな!」
びくりとして、反射的にクルツは操縦桿から手を放す。見れば、レミルが初めて見せる険しい表情で、こちらを睨み付けている。意味がわからず、クルツがただ呆然としていると、レミルはそっと、クルツの手のひらを握った。
「がんばろうなんて思うな。七分の力でやれ。でなければ死ぬぞ」
始めは冷たかった手のひらが、少しずつぬくもるのがわかる。クルツは必死に思考を巡らせた。レミルの言葉の意味。レミルの手のひらの意味。レミルの表情の意味。全ての意味を、意図を探ろうと、クルツは静かに奔走する。
ようやく簡単な答えを見つけて、クルツはゆっくりとそれを吐き出した。
「……平常心ってことか?」
「そうだ」
レミルの顔に笑みが浮かんだ。
「一番優秀なのは、どんな任務からでも生きて帰るレイヴンだ。生きてさえいれば、失敗のフォローもできるし、屈辱も雪げる。そのためには、必要以上に力むことなく、常に落ち着いていることだ」
聞き終えてから、クルツはただ一度、重く頷いた。胸の奥にあった緊張が、少しずつほぐれていくのがわかった。
「必ず生きて帰れよ、クルツ」
ぽんと肩に手を乗せたのを最後に、レミルは狭いコックピットの隙間を縫って、ハッチの外に躍り出た。金髪が広いガレージに解き放たれて、ふわりと舞い上がる。彼女の横顔は鋭く、美しい。その姿に見とれながら、クルツはさっき肩に乗せられた、レミルの手の温もりに身震いする。
「あ、あの、レミル」
気が付けば、下へ降りようとする彼女を呼び止めていた。
レミルが不思議そうに振り返る。クルツは思う。一体何を言おうと思っていたんだろう。この人は、今まで全然知らなかった人だ。今までクルツに――ジギィに、がんばるななんて言った人は一人もいなかった。新鮮で、そして、魅力的だった。
「なんだ?」
問われてまたどきりとする。
まるで子供だ。情けない。
「その……帰ってきたら、また教えてくれないか」
必ず生きて帰るという、意思表示のつもりでそう言った。
「強くなりたいんだ。おれは、もっと……」
「そうだな」
しかしそれに対するレミルの答えは飽くまでも冷静で、
「任務の後は事務処理があるから……明日でよければ」
「あ、うん……頼むよ」
レミルは頷き、今度こそワイヤー伝いに降りていった。
一人コックピットに取り残され、クルツはどっかりとシートに体を投げ出した。どうもうまく行かない。ぼりぼりと後ろ頭を掻きむしり、
「そういう意味で言ったんじゃねぇんだけどな……」
レミルは満足しながらガレージの中を進んだ。なかなか覚えが早い。あのストラングが強く勧めるだけのことはある。
一人でにやついていると、後ろからとんと背中を押される。数歩たたらを踏んで、憎々しげに振り返れば、やはりそこにあるのはボイルの姿。壁のようにそびえ立つ筋骨隆々の兄を見ていると、小柄で細い自分の体が情けなくなる。
「よう、レミル姉さん。ご機嫌だな」
「この顔が機嫌よく見えるか」
「見えるねえ。おふくろの腹ン中からのつきあいだ」
ただの軽口ではなく、ボイルはなにかにつけて、人の頭の中を読みとってしまう。やはり双子だから、共感するところもあるのだろうか。しかしそのわりに、レミルにはボイルの考えがよくわからないのだ。
「あの子は素質があるようだ」
マスターカードの巨体と、コックピットの中でまだ何か確認をしているクルツとを順に見上げ、レミルは小さく微笑んだ。さっきのは、短いながらも楽しい時間だった。勤勉な生徒に手ほどきするのは、楽しいものだ。
「そうかい?」
「そうさ。覚えも早いし、真面目で熱心だ。教え甲斐がある」
「そうかい」
「そうさ?」
何か言いたげなボイルの口調に、レミルは思わず語尾を上げた。しかしボイルはぴくりと片方の眉を跳ね上げただけで、にやついたまま何も答えない。レミルが不信の目で睨み付けると、ボイルはようやく、ひょいと肩をすくめた。
「そう睨むな。かわいい奴だな、レミル」
「やかましい! 怒るぞ!」
「怒ってから言うない」
ぽん、というより、どすん、という感じでボイルの手がレミルの肩に乗せられた。思わず膝を曲げるレミルに、ボイルはけらけらと笑い声をあげ、
「ま、悪くない傾向だと思うわけだ。がんばれよ、妹よ!」
ばっしばっしとレミルの背を叩く。ふらつくレミルを残して、ボイルは高笑いしながら去っていった。何が言いたいのやらわけがわからない。兄の広い背中を憎たらしそうに見つめると、レミルは吐き捨てるように言った。
「忌々しい……兄と弟を使い分けてっ」
ストラングは病院の正門を出ると、眩しい太陽に目を細めた。
海上都市ジオシティは、その名の通りジオマトリクス社が主導で建設した、火星最大の都市である。火星開発の当初、ジオマトリクスは半ば独占的な火星の開発権を持っていた。火星で最も重要な資源――水を最も多く蓄えたこのアドイニア海に本拠地を構えられたのは、その当時の特権あればこそである。
他の都市では水も作らねば得られないというのに、病院の前を流れる運河には、大量の水がゆったりと流れている。優雅な流線型を描く橋の下を、一艘の船が静かに進む。さざ波が河岸のコンクリートにぶつかり、小さな音を立てて水しぶきを上げる。微かな雑音に満ちた、穏やかな風景がそこにあった。
ようやく医者のお墨付きももらえて、晴れてストラングは自由の身だ。この爽やかな昼下がりの中、どこへ行くこともできる。だいたい、軽い脳震盪程度で入院する必要もなかっただろうに、医者というものは何かにつけて費用をせしめたがる。気にくわない連中だ。
大きく深呼吸を一つすると、ストラングは晴れ晴れした気分で、大学病院の構内から一歩を踏み出した。
と、その時だった。
「あら、マーカスさん!」
横手から声がかかって、ストラングは驚きながら振り向いた。マーカス・ロングという彼の本名を知っている人間は、そうはいない。振り向いた先は病院前の広い幹線道路。トラックがモーターを唸らせながら走り抜けていく。その喧しい音が遠ざかった後に見えてきたのは、反対側の歩道で手を振るマヤ・クルツマンの姿だった。
マヤは道の左右をきょろきょろ見回し、こちらへ渡ってくるタイミングを伺っているようだ。しかしなかなか途切れない車の群れに、恐ろしくて一歩を踏み出せないと見える。
ストラングは脳内の機関に意識を集中し、強化人間の能力の一つ、拡張視覚を発動させる。右に左に走り抜ける車を走査し、その正確な速度を割り出す。あとは位置関係と自分自身の脚力から計算して、確実に安全に渡りきれるタイミングと進路を見計らう。
ストラングは迷わず足を踏み出した。マヤが両目を手で覆う。彼女には、わたれるはずがないと思えたのだろう。事実左から迫る車は、もはや目前にある。しかしストラングは予定通りのコース、予定通りのタイミングで、それを見事にかわしてみせた。
「やあ、マヤさん。もう目を開けても大丈夫ですよ」
その声を聞いて、マヤは恐る恐る手のひらを退ける。目の前に無事な姿のストラングが壁のようにそびえているのを見ると、ほっと胸を撫で下ろす。
「無茶をしちゃだめですよ、マーカスさん……ぶつかりそうでした」
「なに、大丈夫。百万回やってもぶつかりはしません」
にこりと笑うストラングに、マヤは嬉しそうに笑みを返して見せた。
「もう退院なさったの?」
「医者を脅して許可証を書かせました。そういう仕事は得意ですから」
「まあ。冗談ばっかり!」
マヤはくすくす笑っている。ストラングは髪の薄くなった頭を、ぽりぽりと掻いた。別に冗談で言ったわけではないのだが……無理に説明してわかってもらうことでもないか。
「ちょうど、お見舞いにうかがうところだったんですよ。無駄足になっちゃったけど、でも、良くなってよかったわ」
「それは申し訳ない……お帰りになるなら、せめてお宅まで送りましょう」
「あら、ありがとう。でも、これじゃなんだかあべこべみたい」
そしてまた、顔を見合わせて二人で笑う。よく笑う女性だ。ストラングまでつられて笑顔になってしまう。そばにいると心が落ち着く類の人。あのジークハルト……いや、今はクルツと呼ぶべきだが、彼の母親とは思えない。
二人はそのまま、バス停まで並んで歩いた。ストラングの住処も、マヤが泊まり込んでいるクルツの自宅も、ここからバスで十五分ほどのクラーク通りにある。世界は狭いものだ。
「ねえ、マーカスさん」
道すがら、マヤはふとこう切り出した。
「ありがとうございました。あの子に、道を示してくれて」
「いえ、大したことは……」
ストラングは目を背けた。クルツのことは、道義的には誉められたものではあるまいと、ストラングは思っていた。なにしろレイヴン――世間ではテロリストと大差ないように考えられている連中の中に、引きずり込んでしまったのだ。フライトナーズ隊員とはいえ、レイヴンであることに変わりはない。
息子がレイヴンとして戦場に立つ。母親にとって、それは辛いことだろう。命の保証はどこにもないのだから。マヤが今、心中どんな思いでいるか、察するにあまりある。
それでもマヤは、気丈に首を横に振った。
「ジギィは行き詰まっていたんです。目的を見失って、いらついて……でも、フライトナーズに入ってからは、目がきらきらして、生き生きしてるんです。そりゃ、ちょっとは心配だけど、あの子が自分で決めたことだから」
ストラングはその一言一言の重みに、胸が押し潰されそうだった。強い。この母親は強く、そして重い。
「だから、ほんとうにありがとうございました」
足を止め、マヤはぺこりとお辞儀をした。ストラングは思わずしどろもどろになり、
「よ、よしてください、そんな……頭を上げてください」
たっぷり時間を掛けて、マヤが深々と下げた頭を持ち上げるまで、ストラングは自責の念と格闘していた。ストラングはなにも、彼のことを考えて勧めたわけではない。ただこれから混乱を深めていくに違いない火星の事情をみるにつけ、強い力を持った若者の登場が望まれていただけなのだ。
ストラングの意図は汚れていた。打算にまみれていた。それが彼の罪悪感になる。
ようやくマヤは頭を上げた。
「実はわたし、仕事もありますし、そろそろサテライトの家に帰らないといけないんです」
サテライトといえば、ジオサテライトシティのことだ。アドイニア海の沿岸部にある都市で、事実上ジオシティの一部のようなものだが、それでも数十キロの隔たりはある。そうそう気軽に行ける場所ではない。
「だからもう、あの子を見ていてあげられない。この上こんなことをお願いするのは勝手だと思うんですけど……ストラングさん、どうかジギィを見守っていてくださいませんか」
マヤの目はまっすぐだった。まっすぐにストラングを見つめ、マーカスではなく、ストラングの名を呼んだ。レイヴンとしての彼の名を。
そうだ。ストラングは思う。罪悪感があるのなら、マーカス・ロングではなく、レイヴン・ストラングとして、できることがあるはずだ。ストラングにはその力があり、そしてその権利と義務もある。
「わかりました。私に任せてください。息子さんは責任を持ってお預かりします」
とたんにマヤの顔がぱっとあかるくなった。まるで少女のように無邪気な顔をして、
「よかったぁー、ありがとう! ほっとしちゃったっ」
跳ねるような軽快さで、バス停に向かう。ストラングは笑ってそれを追いながら、安らぎに満たされていく心を感じた。地球から火星に移住してもう二十年。こんな気持ちはついぞ感じたことがなかった。
マヤはぴょんと飛び上がり、くるりとこちらを振り返ると、楽しそうに頬を赤らめる。
「ほんとはね、ちょっと変なの。わたし、あの子のことが好きになっちゃったみたい!」
「は?」
「一生懸命になってる顔が、主人にそっくりなの。だめだなあ、子離れできない母親かなあ、わたし」
主人。
舞い上がりかけていたストラングを叩きのめすその一言。そりゃそうだ。人間は残念ながらゾウリムシではない。母親がいるんだから父親も当然いるはずだ。何考えてたんだ俺は、とストラングは心の中で自分の邪心を蹴っ飛ばす。
あっちいけ。老いらくの恋。
落ち込むこころを奮い立たせて、ストラングは極力平静を装った。
「ははは……そういえば、ご主人はサテライトにお住まいで?」
「ううん、亡くなりました。十三年前に……」
ストラングの顔がすっと青ざめた。マヤはというと、悲しそうに――夫の死という事実よりは、むしろストラングの顔色に対して――微笑んだ。
その時ようやく、ストラングはマヤの強さの秘密を知った。彼女は母親であり、同時に父親であり続けたのだ。優しさと強さの両方を必要とされながら、この十三年を生きてきたのだ。そんな女性の存在が、重くないはずがない。
「申し訳ない、無神経なことを……」
「気にしないで、昔のことですから。ね、マーカスさんは結婚とかしてないの? お子さんは?」
ストラングは自嘲気味に微笑んだ。
「結婚はしていませんが、娘は一人おります。しかし、なかなかうまくいきませんで……仕事上、顔を合わせることは多いのですが」
彼にはできなかったのだ。
父親であり続けることも。
母親になることも。
「簡単な話、嫌われています」
「そうなんだ……」
だから余計に、彼にはマヤが大きく見える。
落ち込みを見せるストラングの腕に、マヤはそっと指を這わせた。服の上から伝わるその感触が、ストラングには力強く感じられる。こんなに細い指なのに。
「大丈夫……勇気を出せば、きっとうまくいきます。だって親子なんだもの」
彼女が言うと、それが真実のように聞こえるのだ。
「ええ……きっとそうですね。そう信じます」
かん。
空虚な静寂を、音が貫いて過ぎる。なんて落ち着かない音なんだろう。10メートルの高さがあるガレージの中に、金属音は何度も何度も反響する。たとえて言えば、それは真っ白な紙に描かれた無数の同心円だ。整然と並ぶ幾つもの曲線を見ていると、頭がくらくらしてくる。それと似た感覚。
色々な線が、あるいは線ですらない点が、無秩序に紙を埋め尽くす――それが世界の自然な姿だ。音も同じ。無数の雑音があって初めて、世界は人肌の温もりを感じさせてくれる。音楽なんていうのは、そのために作られた雑音の塊に過ぎない。
こんなに静かな空間は、ネル・オールターにとっては落ち着かない。落ち着けるミュートのほうが異常なのだ。
「ストラングが退院したらしいな」
ミュートは、彼のAC「アナザーエイジ」の足元で、端末のコンソールを操作していた。あれはアナザーエイジが乗っているリフトの制御端末でもあり、整備や補給の依頼を送信するためのものでもある。彼がその端末をいじりはじめてからもう五分になるが、一体熱心になにをやっているのかと思えば、これだ。どうせレイヴン向けのニュースでも読んでいたのだろう。
ネルはぴくりと眉を動かし、またいつもの冷静沈着な顔に戻った。ミュートはあてつけているのだ。人が触れたがらない話題に触れて、こちらが動揺するのを楽しんでいる。ネルは憎々しげに、一方的に自分の言うべき言葉を吐き出した。
「上からクレームが来ています、ミュート・サイレントライン」
「あの男は強い。そう簡単に死にはしないと思っていたが」
「ヴァッハフントは有能なレイヴンでした。それが死ぬことはコンコードにとって大きな損失です。なのに、あなたの戦いぶりはまるで……」
「なによりだったな、ネル。父親が無事で」
その一瞬。
ネルの堅固な理性を、彼女の激情が凌駕した。
気が付けば、静かなガレージにまた一つの音が響き渡っていた。ネルがミュートに喰らわした張り手の音は、何度も何度も壁に反射しながら、やがて減衰して消えていった。残響が唸るたびに、ネルは自分の手のひらの痛みに襲われる。生まれて始めてだ。本気で人にビンタを喰らわせたのなんて。知らなかった。こんなに手が痛いなんて。
なのに、ミュートは大して痛がっているふうもない。余計に悔しい。
「……あなたのっ、戦いぶりは、まるで」
ともすれば吐き出しそうになるいらつきを、必死に喉元で抑えつけ、ネルは一言一言確かめるように喋らねばならなかった。
「彼を殺すことが目的のようでした」
ミュートは目を細め、頭二つ分上からネルの目を冷たく見下ろし、叩かれた頬をゆっくり撫でる。一体何を考えているのか、ネルには見当も付かない。静かで不気味で落ち着かない、この男。
「事故だよ、あれは」
「そんな言い訳が通用するものですか! あなたがこの一週間のアリーナ戦で、一体何人殺したと思っているんです」
「さてな……俺は腕が今ひとつなので、手加減が効かないのだ」
「とぼけてばかりで改めないなら、コンコードから暗殺者が差し向けられてもおかしくありませんよ」
それを聞くと、ミュートは人を馬鹿にしたような笑みを漏らした。この半年の間、ミュートが人を馬鹿にする以外の目的で笑う所を、ネルは見たことがない。ネルは拳を握りしめ、太股のわきで静かに震わせる。もし私が男だったら、もし私に力があったら、このままこの拳を叩き込んでやるのに。
「ほう……俺の心配をしてくれるのか?」
「勘違いしないでください。あなたが死んでも代わりはいくらでもいますから」
「それはそうだ」
「ただ、口で言って聞くなら、その方が楽だというだけです」
「なるほど、合理的だ」
だめだ、この男は。
ネルは諦めた。この男には何を言ったところでのれんに腕押し。行動を改めるつもりはないようだし、遅かれ早かれコンコードの送り込んだ暗殺者――おそらくはレイヴン――によって、闇に葬られることになるだろう。もう、そうなったってかまうものか。私の懐が痛むわけじゃない。ネルは心中でそう吐き捨てた。
その時、ミュートのそばで端末がアラームを鳴らした。思わずミュートを睨み付けていた視線を、そちらに降ろす。画面に表示されているのはどうやら依頼文らしい。どこかの企業から、彼に依頼が回ってきたということだ。
「エムロードか……まめだな」
ぽつりと呟くと、ミュートは事務的な口調でネルに指示を飛ばした。
「タレントの工場に、LCCが接近しているそうだ。補給が済んだらすぐに出るぞ。オペレートは任せる」
「……はい」
ネルはすぐさま踵を返し、ガレージの出口へ向かって歩き出す。仕事が入ったのは幸いだった。これ以上、一分一秒たりとも彼と顔を合わせてはいたくなかった。
レイヴンなんていうのは、どだいクズの集まりだ。親父だって。こいつだって。死んだヴァッハフントも、正直な話クズと呼んでいい男だと思っていた。みんな金にしか興味がなくて、そのために人を踏みつけにするのも全く厭わないで、自分のことしか考えない。そんなクズばっかりだ。
もういい。深く関わり合いになるのはよそう。こいつらはただ、自分の糧の種として、利用できるだけ利用するに留めよう。ネルはそう心に決めて、一直線に出口へ急いだ。
「ネル」
しかしその背にミュートの声がかかる。溜息を吐きながら、やむを得ずネルが立ち止まると、
「お前の考え方はとてもいい。俺の価値観からすれば、非常に魅力的な女だ」
何が言いたいのかわけがわからない。
私の考えていることがわかるとでもいうのか。
「全く嬉しくありません」
冷たく端的に言い放ち、ネルは大股でガレージから逃げ出した。
――行くな、ハスラー!
あの日、レオス・クラインは叫んだ。
あの頃、まだ人の生きる世界は地球の地下にしかなくて、その支配権を巡って企業たちは血みどろの争いを繰り広げていた。いつ終わるとも知れない二大企業の抗争――それは一人の男の手によって決着を見た。
しかしそれは、仮初めの決着にすぎなかった。
人類は、企業よりももっと大きな「何か」によって統治されていて――企業も抗争も、全てはその「何か」が統治の為に生み出した一つの手段に過ぎなかったのだ。
「何か」に守られた永久の平和。
――「あれ」は、俺を人間にしてくれたんだ、クライン。
いつものように、楽しそうに笑って、ハスラー・ワンはそう言った。
――戦うことしか知らなかった俺に、人間らしい目的を与えてくれたよ。統治者とか、計画とか、イレギュラーとか、難しいことは俺にはわからん。だが、ドリットに壊された可哀想なコピーどもは、世の中をうまく動かしていたはずだ。それは俺には正しいことだと思える。
――それが理由だっていうのか……
それが理由で、殺されに行くっていうのか。
思えばクライン自身も、何度となく同じ事をしていたのだ。自分の中だけにある真実、その真実に殉じる道を進む。その背中は、見送る者から見ればどれほど辛い姿だっただろう。
――時間がない。お前の相棒が……エーアストが相手じゃ、あんな戦力は戦力のうちに入らないさ。
――だからって!
――この期に及んでナインボールが壊されずに残ってたのも、なんかの縁ってもんだろうよ。
――だからって……
だからって、死にに行く理由にはならないのだ。
たとえこの作られた平和が、どれほど素晴らしいものであったとしても。
たとえこの作られた世界が、どれほど輝かしいものであったとしても。
――だから壊す。
エーアストはそう言った。
――だからぼくは、この作られた世界を壊す。
お前は。
――人間の歩む道は、人間の手で選ばれるべきなんだ。
お前は……
「クライン?」
突然名前を呼ばれて、クラインはびくりと肩を震わせた。低い振動が体を突き抜けていく。ここは輸送機の中にある人員用のスペースだ。いくつか並んだシートの一つに腰掛け、クラインはじっと過去の思い出に浸っていたらしい。顔を上げれば、横のシートには怪訝そうな顔のクルツェス・レーベンがいる。
「具合でも悪いのか?」
ずれたサングラスを直しながら、クラインは小さく首を横に振った。それは突然自分を襲った過去の記憶との決別のサインでもある。あんなのは、思い出す必要のないことだ。もうあれから七十年近くが過ぎ、もはやクラインはあの頃のクラインとは別物になってしまったのだから。
「いや……」
後ろのシートでは、レミルとボイルが仲良く並んで座っている。アイマスクをして寝息を立てるボイルの巨体を、レミルは鬱陶しそうに肘鉄で押しのけようとする。だが重い筋肉の塊は、ちょっとやそっとでは動かない。レミルの溜息がここまで聞こえた。
「疲れているのかもしれん。少しうとうとしていたようだ」
「……へえ。あんたでも疲れることがあるんだな」
サングラスの奥で、クラインは目を瞬かせる。横に目を送れば、クルツの表情は単純な感心に満たされている。何を馬鹿なことを言っているんだ、この少年――いや、少年という歳ではないか――若者は。
「私だって人間だよ、クルツ。君と同じくな」
「そりゃそうだ。安心したよ」
そして二人は黙りこくる。
AC三機――「マスターカード」「瞬狼」「メレル・ウルフ」――と人員四名を乗せたこの輸送機は、オートパイロットでタレント地下工場に向かっている。LCCからエムロード社への査察という名目だ。しかしそれは事実上の強制捜査であり、エムロード社の軍事的抵抗は避けられないだろう。
政府直属の組織からの査察を素直に受け入れない企業……ただそれだけで、火星の治安がどのようなものかは手に取るように分かる。大破壊から大深度戦争までの暗黒時代と大差ない。せっかく政府というものを再び生み出したのに、また抗争の時代へ逆戻りだ。愚かな人は何度でも同じ事ばかり繰り返す。
クラインは深呼吸した。眠りかけていた脳に、興奮剤の分泌を命じる。クラインの脊髄にはある種の装置が埋め込まれており、必要に応じていくつかの化学物質を精製できるようになっている。覚醒剤や鎮静剤はもちろん、簡単な病気や怪我にも即座に対応できる。強化人間の特権だ。
ようやく目が覚めてきて、クラインは横で退屈そうに座っているクルツに、低い声で話しかけた。
「クルツ」
「なんですか、隊長」
押し殺した声が、改まって聞こえたらしい。ガラにもなく丁寧に返すクルツに、クラインは微笑んで見せた。
「君はどうして入隊する気になったんだ?」
「なんでそんなことを?」
「ストラングに誘われた時は、あまり乗り気ではないように見えた」
それを言えば、クラインの方も、なのだが。
ストラングに勧められた時は、正直に言って彼を入隊させるつもりは毛頭無かった。たとえクルツが強く望んだとしてもだ。確かに、経験の少ない新人としては、大学での戦いぶりは悪くなかった。しかし彼の強さは、感情の強さだ。怒りにまかせてただ力を叩き付けているに過ぎない。そのような強さは、感情一つで容易にひっくり返る。
フライトナーズ隊員になるには、まだ未熟すぎる強さだった。
気が変わったのは、クルツの目を見た時。
「……答えなきゃダメか?」
後ろ頭を掻きながら、クルツは気まずそうに呟いた。
「是非とも知りたいな」
「言いふらさないってなら」
「よかろう」
鷹揚に頷くクラインに、クルツは覚悟を決めたと見える。深呼吸をすると、どっかりと背もたれに体を預け、ぽつりぽつりと語り始めた。
「ガキの頃、おれは何かの戦闘に巻き込まれて、死にかけたことがあった。覚えているのは、森を焼く炎の熱さと、初めて目の前に迫ってきた死の恐怖……」
そう、この目。
「恐くて、震えて、体がすくんで……死にたくなかった。生まれて初めて、そう思った」
語るクルツの、まるで少年のような、きらきらとした羨望の眼差し。
「その時おれを助けてくれたのは、真っ赤なアーマードコアだった。でかくて、強そうで、でもどこかきれいで……今でもはっきりと姿を思い出せる。あんたの『カオス』が持ってるばかでかいバズーカ、あれと同じの持っててさ。よく似てる。かっこよかったよ」
クラインは話を聞きながら、自分も背もたれに体を埋めた。柔らかくもないシートが、今は背中に心地よい。
あの時のクルツの目――メタルウルフ・カオスを見上げる彼の目の輝きは、それが理由か。あの素直で、心の奥底から沸き出してくるような憧れの表情は、まるでクラインが――
クラインが初めてあの女に出会った時のそれのよう。
それが、理由。クラインがクルツを招き入れた、唯一にして絶対の理由だ。
「おれはあんな風になりたい。あの紅いACのように、強くなって……それでたぶん、あの頃のおれを助けてやりたいんだ」
「……そうか」
「ガキみたいだろ。言いたくなかったんだ」
小さく笑いを漏らし、クラインは横目にクルツを見た。冗談めかして、
「私が君くらいの頃は、どうやって金を稼ぐか、どうやって女を口説くか、そのぐらいのことにしか興味がなかった。それに比べれば立派なものだ。恥じることはない」
そして体を起こし、首を巡らせ、真後ろの席のレミルに顔を向ける。さんざん兄の巨体と格闘したあげく、彼の体を退かせることを諦めたレミルは、クラインの視線を受けてきょとんとする。
「聞いていたか、レミル?」
「はい、聞いていましたが」
「クルツは強くなりたいのだそうだ」
「知っています」
「協力してやれ」
「そのつもりです」
淡々としたものだ。何もかも先回りして準備してくれる。頼りになる女だ。それにひきかえ、彼女の横でまだいびきをかいているボイルは……場合によっては頼りになる、ということにしておこう。
「それから、そのでかいのを起こせ。もうすぐ着く」
「蹴ってもかまいませんか?」
レミルに問われ、クラインはしばらく考え込んだ。やおらクルツに向かい、
「クルツ」
「……あ?」
サングラスのずれを指先で直しながら、
「キックは、得意か?」
もう何機目だろうか?
ミュートは、羽虫のような飛行マシン「ロータス」を叩き落とし、自らも床に着地した。周囲には燃え上がる残骸が山と積まれ、ビニールの焼ける黒い煙を立ち上らせている。
エムロードのタレント地下工場は、LCC部隊の潜入によってその機能を失い、各所を守るロータスは容易く暴走させられた。侵入者を排除するための警備機械が、今や敵味方の区別なく攻撃を仕掛けるだけの邪魔者だ。ミュートは数え切れないほどのそれを撃破し、ようやくここまでたどり着いた。
地下工場の最奥部、機密情報を守る独立型計算機群。その目前へ。
査察が聞いて呆れる。単に、欲しい情報を強奪しに来ただけではないか。もっとも、そのおかげでこうしてミュートに仕事が回ってきたと考えれば、腹が立つ話でもないが。
『ミュート』
ロータスの残骸を踏みつぶしながら、ミュートはネルの声を聞く。通信機から流れてくる彼女の声は、先程までの激しい怒りを微塵も感じさせない。ますます良い、とミュートは一人ほくそ笑む。自分の感情を律することができる女は魅力的だ。その堅固な理性が崩れる瞬間が、たまらない。
『エムロードの雇った別のレイヴンが先行しています。合流してください』
「わかった。そいつの名は?」
『アリーナランク33位、カストルです……急いでください。彼が敵と遭遇したと連絡が……』
その時だった。突然アナザーエイジの通信機が、雑音混じりの悲鳴を拾い取る。ネルの言葉を掻き消すようなその大声に、ミュートは眉をひそめる。この独特の雑音は、電波妨害されている証拠だ。敵は少なくとも電子戦向けの機体を一機用意している。厄介だ。
『この反応……味方のレイヴンか? 早く来てくれ!』
「カストルだな? 2分で向かう、持ちこたえろ」
『無理だ! こ、こいつら、ただ者じゃない!』
小さく舌を打ち、ミュートはペダルを踏み込んだ。一刻の猶予もないらしい。マニピュレータを動かして、部屋の奥にあるリフトに乗り込む。このリフトで最下層まで降りれば、目的の計算機群は目と鼻の先だ。
『ふ……』
カストルの声とともに、向こうの雑音が入ってくる。爆発音。銃声。コックピットに鳴り響くアラーム。カストルの体の動きまでもが、その筋肉の軋む音で分かるように思える。戦場の全てが音になり、ミュートにその様子を如実に伝える。
昂揚していく。少しずつ。
『フライトナーズ……もう火星に……』
それを最後に、カストルの声は聞こえなくなった。
悪くない。悪くない相手だ。
ボイルは唇を舌で濡らし、鼻で深呼吸しながら、一歩一歩「ユニヴァーサルスター」を追いつめていった。敵はランキング33位のカストルとかいう男。乗機のユニヴァーサルスターは、細身の軽量級二脚型だ。腕にはパルスライフルとシールド、肩にはパルスカノンを背負っている。よほどパルス曳光弾がお気に入りと見える。
敵の動きは素早く、正確だ。鈍重なボイルの瞬狼では、どれほど上手に立ち回ったところで、敵の動きを完全に捕らえることは不可能。それゆえボイルはむやみに動かず、壁を背にして、敵に背後を取らせない作戦を採った。一歩間違えば逃げ場もなく集中砲火を喰らいかねない作戦だ。
ほんの一歩。わずかな偶然や、ミスによって全てが覆る。
しかしボイルには、その一歩を踏み外さない自信があった。
「楽しいな、おい」
気が付けばボイルはにやにやと笑みを浮かべていた。
「世の中のゲームってやつは、全て自由を制限することで成り立ってる。不自由はルールであり、ゲームを面白くするものだ。しかるにお前との戦いは――」
飛んできた何発目かのパルス曳光弾を、瞬狼はブーストダッシュで回避する。ブースターを停止した瞬間には、わずかな隙ができる。それを狙おうとするユニヴァーサルスターの動きを見て取り、ボイルはトリガーを引いた。狙いもなしに放たれたエナジーマシンガンの閃光は、敵の接近を妨げるには十分な効果を上げる。
ブースター停止による硬直中に、ボイルはすかさず武装の切り替えをコマンドする。腕のマシンガンから、両肩に背負った双砲身プラズマ・カノンへ。
「素敵な不自由だ! B判定をくれてやるぜよ!」
カノンの双砲身の間に、アーク電流が走る。中央で精製されたプラズマ砲弾は、二本のリニア砲身に加速され、鋭い矢となって放出される。
『イヤだイヤだ死にたくないっ』
叫びながら、ユニヴァーサルスターはオーバードブーストを発動する。この狭い室内の、端から端へ、一瞬で移動し、プラズマ砲弾を回避する。よい反応だ。こちらの動きを想定していたのか。
カストルの思考が攻めから守りに転じたのを機に、ボイルは一気に瞬狼を加速させる。
『やめてくれ、助けてくれ! 俺が意地張ってたんだ、ごめんよ……』
カストルは錯乱している。戦闘のストレスで参ってきた精神が、ボイルには確かに感じられる。哀れだ。これを楽しめないなんて。最期の瞬間までこの戦いを楽しめないなんて、心の弱い人間はなんて哀れなんだろう。
『兄ちゃんが悪かったよ……俺は、本当は』
むやみな後退を始めたユニヴァーサルスターを、瞬狼が追う。ボイルに見せたその背中に狙いを定め、
『お前の……ウワァーー!』
ボイルは引き金を引いた。
プラズマ砲弾がユニヴァーサルスターの脚部を貫き、ゲームは、それで終了した。
「凄い……」
クルツはただ、ボイルの戦いぶりを後ろで見ていることしかできなかった。ボイル自身が手を出すなと言ったのだ。それでも、彼が危なくなったら助けようと、密かにミサイルの準備だけは怠っていなかった。
結局、ボイルの戦いには危ない所など一切無く、終始一方的に、敵の攻撃をいなし、反撃に転じて、片づけてしまった。ロックオンし、いつでも撃てるように掲げていた右手のミサイルポッドを降ろし、クルツは息を吐く。
静寂を取り戻した格納庫の中で、クルツはカメラアイを操作して辺りを見回した。ボイルが派手に暴れたせいで、周囲に並んでいたMTたちはきれいに残骸と化している。まるで掃除をしにきたみたいだ。少々乱暴な掃除ではある。
呆れ返っているクルツの耳に、通信機のアラームが届いた。モニタを見上げ、通信相手の名前を確認する。クラインだ。
『ボイル。レミルの方は作業を完了した。そちらが片づき次第、合流して撤退だ』
その時、奥のゲートが開き、レミルの「メレル・ウルフ」が姿を現した。メレル・ウルフは軽量級の二脚型。電子戦向けの装備を詰め込んだ機体で、奥にある記録装置から目的の情報を吸い出すのは、彼女の役目だった。
『よう、レミル。調子はどうだい』
『問題ない。帰還しよう』
冷たく言い放ったレミルの機体が、こちらに頭を向ける。防護バイザーの奥に隠れたカメラアイが、クルツのマスターカードをじっと見つめている。クルツは見えないと分かっていても、ついつい親指を立てて彼女の方に向けてしまう。心配しなくたって大丈夫だ。ちゃんと七分の力でやってる。怪我なんかしてない。そういう意味で。
『オーケイ、これにて……』
と、ボイルが言いかけた時だった。
格納庫にあるいくつかのドアのうちの一つが、音もなく開いた。
『……任務完了』
ミュートは小さく舌を打った。
格納庫の中にいるACは四機。鈍重そうな重量級二脚、電子戦装備の軽量級二脚、それから白い中量級二脚と……
すでに残骸と化した、カストルのユニヴァーサルスター。
「間に合わなかったか」
なんの感慨もなくミュートは呟いた。ただ、これで報酬に減算が課せられはしないかと、それだけが気懸かりだった。カストルとかいうレイヴンが生きようが死のうが、ミュートにとっては知ったことではない。ランクの上の席が一つ空く分、得といってもいい。
しかし。
『なお、レイヴンと思われる所属不明機を確認。これを排除します』
この三機のACを、生きて返すわけにはいかない。
理由は簡単。倒せば、堂々と追加報酬を請求できるからである。
現れたのは、緑色の逆関節型ACだった。軽い機体の腕にはグレネードカノンが貼り付いていて、肩には強力な多弾頭ミサイルが装着されている。素早くて攻撃力の高い機体構成に見える。
「敵……もう一人?」
クルツの呟きに、コンピュータが応える。無機質で冷たくて、愛想のないコンピュータ・ヴォイスが冷酷に告げた。
【敵ACを確認。レイヴン『ミュート・サイレントライン』所有、『アナザーエイジ』】
クルツの心臓が大きく脈打つ。
『作戦タイムオーバーだ、ボイル』
クラインが何か言っている。
『……了解』
ボイルはつまらなそうだ。
『運が良かったな、レイヴン』
レミルはほっとしているようでもある。
『知らんな。そちらの都合など』
そして。
『貴様等を倒せば、追加報酬を請求できるだろう。悪いが、これも仕事なものでな』
声。
聞き慣れた声。
腹を立てた時もあった。気にくわないのなんてしょっちゅうだった。それでも――
それでも心の奥底では信頼し、憧れていた、あの声。
「ミュート……?」
今のは――
ミュートは目を見開いて、電波の発信源を探した。あのAC。あの白い中量二脚型だ。聞き覚えのある声がした。この半年、何度も何度も聞いた声。まるで犬のように自分の周りをうろちょろして、笑ったり怒ったり、忙しかった奴の声。
鬱陶しい奴の声だ。
「ジークハルト……」
『やっぱり……やっぱりそうなのか! 生きてたんだなミュート!』
『どうしたクルツ、知り合いか?』
ジークハルト・クルツマン。ミュートが隠れ蓑としていた大学で、同級生だった男。
「なぜ、お前がそこにいる」
『おれ……フライトナーズに入ったんだ。強くなりたくて……護りたいものを護れるようになりたくて……あんたもドクトルも、死んだと思っていたから……』
ミュートは小さく、笑みを浮かべた。
「そうか」
ジギィへの嘲笑を。
「死んだか」
ボイルはその鋭敏な感覚で、ミュート・サイレントラインの言葉の裏に潜んだ感情を読みとった。
「いかん!」
慌ててペダルを踏みしめる。しかし瞬狼は鈍重な重量級。すぐに機体は動かない。その隙に子犬の鳴き声のような音が響き渡る。オーバードブースト。「アナザーエイジ」とやらのコアから光が漏れる。とても瞬狼のスピードでは庇いきれない!
「逃げろ、クルツッ!」
『……え?』
クルツが訳も分からず声をあげた瞬間。
光が、弾けた。
「うわああああああっ!」
クルツの悲鳴。振動がマスターカードを襲う。突如OBで突撃してきたアナザーエイジのキックを食らい、マスターカードは吹き飛ばされる。なぜ? どうして? 混乱する意識の中で、レミルに教わったことが呼び覚まされる。落ち着いて――
そうだ、落ち着け!
ペダルを踏み込み、ブースターを全力で噴射させる。マスターカードは、あわや壁に激突というところで速度を殺し、躓きながらもなんとか地面に着地する。モニタを見上げれば、こちらにグレネードカノンの銃口を向けるアナザーエイジの姿。避けられない。そう思った瞬間、横手から飛び込んできた瞬狼が、その巨体を生かしてアナザーエイジに体当たりする。アナザーエイジは横に飛ばされ、そのままブースターを吹かして後退。さらに崩れた体勢を狙ってレミルのスナイパーライフルが火を噴く。アナザーエイジは機敏にそれを回避し――
『なにぼさっとしてる! 動け、クルツ!』
ボイルの怒声が聞こえてくる。動けって、動けって言われたって……
「どうだっていうんだよ! 何するんだ、ミュート!」
『寂しかろう! ドクトルの元へ送ってやろうと言うのだ!』
ミュートの声。確かにミュートの声なのに。
「なんで……そんなこと……」
『まだわからんのか!』
叫ぶボイルの瞬狼が、マスターカードの楯になってくれる。その間にレミルのメレル・ウルフは高機動力でアナザーエイジの側面を取り、マスターカードに近づけまいと、必死に牽制する。だが敵の動きは速い。必中を誇るスナイパーライフルが、ただの一度もかすりもしない。
……敵? クルツは自分の頭の中で、その言葉に違和感を覚えた。
『ドクトルとやらを殺したのは』
敵?
『あの男だ!』
「……ミュートが?」
アナザーエイジの瞳が煌めく。
『左様』
まるでクルツをあざ笑うかのように。
『俺が殺した!』
瞬間。
全てが蘇った。
ドクトル・サイモン。ティタニア・C・シーヴァ。たくさんの友人たち。楽しい時間。辛かったこと。苦しかったこと。嬉しかったこと。
ミュート・サイレントライン。
爆縮された思い出が、クルツの脳で破裂した。
「う……」
気が付けば、体が勝手に動いていた。
「あああああああッ!!」
『クルツッ!?』
OBの発動をコマンドし、風のように駆け抜ける。楯となっていたボイルの瞬狼をすり抜け、レミルのメレル・ウルフを追い抜き、一気にアナザーエイジに突撃する。ミュートは……逃げない。真っ正面から受け止めに来る。
『だめよ、退きなさい! お前の敵う相手ではない!』
レミルの声も聞こえない。ただ一直線に、アナザーエイジに体当たりをぶち込んだ。もみ合いになって一緒に壁に激突し、その衝撃で震える頭でクルツはなんとか言葉をひねり出す。
「なんなんだよっ」
声にはいつの間にか涙が混ざっていた。
「嘘なんだろ!? そうだろミュート!」
『そう思いたければ思えばいい。しかし事実は変わらない』
「どうして!?」
アナザーエイジのブースターが火を噴いた。逆関節型の強靱な脚部で壁を蹴り、ブースターの推力も加えて、オーバードブーストの出力を跳ね返す。体勢を崩したマスターカードを引きはがすと、そのままミュートは後退し、ボイルとレミルの攻撃を避けながら距離を取って対峙した。
『俺は俺の人生の主人公。所詮貴様らなど、俺のゲームを彩る登場人物に過ぎん。俺の持つ唯一絶対の価値観、我が大目的を前にしては、その他の何事も塵芥にも等しい』
「目的だと!?」
『そうだ! 金だ!』
陽炎が揺れる。戦いで加熱したマスターカードの装甲板が、周囲の空気を、光の進路を歪めている。モニタの向こうの世界は揺らいでいて、目の前の世界は涙に濡れていて、もうクルツには何も見えない。何も聞こえない。
『この世で唯一の価値基準は貨幣。ならばレイヴンにとって、最も価値のあることとは何か? 答えは一つ』
本当の意味では何も分からない。
『全てのAC用パーツを買いそろえる! それがこの俺の目的だ!』
もう、何も分からない。
「そんな……」
許されていいのか。
「そんな理不尽なことが……」
許されていいわけがない。
それでもクルツは、再び迫ったミュートの前に、為す術を知らない。
クラインは輸送機の中で、じっとモニタに目をこらしていた。
戦況は悪い。クルツはともかく、ボイルとレミルの二人がかりでも、ミュートとか言うこのレイヴンは止められない。まさに圧倒的な強さ。クライン自らが出向いたとしても、果たして互角の勝負ができるかどうか。
「まるで」
握りしめたクラインの拳に、青白く血管が浮かぶ。
「まるであの時のお前のようだ。エーアスト」
意を決して、クラインは三人に命令を飛ばした。
「レミル、クルツを連れて逃げろ。ボイルは二人の背中を護れ」
『了解っ』
苦しげなボイルの声が応える。クラインはすぐさまモニタに地図を表示した。最短で、もっとも安全に、ここまでたどり着ける経路を案内しなければならない。全てクラインの責任だ。ボイルとレミルならなんとかするだろうとたかをくくっていたクラインの。あるいは、クルツの知人らしいこのミュートという男と、きちんと再会をさせてやりたがったクラインの。
『すまない、クライン……わたしがついていながら』
レミルの痛恨の声が届く。彼女は、しっかりクルツをエスコートして、クラインの指示した経路を素早く進んでいる。自分の仕事はきちんとやっている。
「お前が気にすることではない」
『……すまない』
気にするなと言っているのに。
クラインはサングラスを外し、疲れた目を閉じ、軽く瞼を揉んだ。
ちくしょう。
ラスティ・フレイオンは一人、暗闇の中で天井を見上げていた。ここはコバヤシ・コーポレーション本社ビルの地下にある、懲罰房だ。天井も壁も床も、冷たいコンクリートで囲まれていて、中には便器一つ以外に何のインテリアもない。殺風景もここに極まれり、といった感を受ける。
結局、再三に渡る勝手の代償は、一週間の懲罰房入り。あの若い社長、綺麗な顔して容赦がない。サード・ホーンはというと、一度だけ、懲罰房を覗きに来て、ラスティを励ましてくれた。つい、余計に惨めだからもう来るなと言ってしまったが、二度目は果たしてあるだろうか。
「ちっくしょう」
もうここに入って五日になる。ひょっとしたら四日か六日かもしれない。その間、思い出していたのは、クルツェス・レーベンのことだ。まだ顔も見たことはない。ただ、白いACの姿を借りて、クルツェス・レーベンはラスティの前に現れる。いつもいつも、ラスティをあざ笑っては、消えてしまう。
ACのヘッドパーツだが、笑っているように見えるのだ。そういうイメージだ。
「絶対にぶち殺してやる」
声が漏れる。もう何百回と繰り返した言葉だが、ラスティはまだ初めてのつもりでいる。
「殺してやるっ」
「へえ。威勢がいいこったね」
突如外から声がして、ラスティはびっくりして飛び起きた。懲罰房のスチール製ドアには、小さな窓がついていて、きちんと格子がはめてある。そこから女が顔を覗かせている。あの位置の窓から肩が見えるとなると、かなり背の高い女だ。少なくとも170cm以上はある。少ししゃがんでいる様子だから、ひょっとしたらラスティより高いのかもしれない。
「誰だ、お前っ」
「そうとげとげしなさんな。あたしはレッドハート。ランキング20位。名前くらい知ってるだろ? 39位のラスティ・フレイオンさん」
わざと聞こえるように大きく、ラスティは舌を打った。たかがランキングが19位違うくらいで、姉御風を吹かせるな。
「知らん。他人の順位にゃ興味がないんだ」
「そうかい。でも、あたしの立場には興味があるだろ。あんたが情けないから、あたしが追加でコバヤシ社長に雇われたってわけ」
「……そうかよ」
ラスティは再び、横になった。レッドハートとかいう女に背中を向けて、もう顔を見ないようにする。その新しく雇われたレイヴンさまが、へまをやらかした男を笑いに来たってことだ。気にくわない。いつかぶちのめしてやる。
「ねえ、あんた、生まれは地球?」
背中にレッドハートの声がかかる。面倒だったが、ついラスティは答えてしまった。
「火星だ」
「よかった、なら仲良くできそうだ。そこから出られたら、あたしが手ほどきしてやるよ。楽しみに待っときな」
知ったことか。
答えないラスティに、キスを送って、レッドハートは立ち去ったようだった。
ラスティは人知れず、近くの壁を蹴りつけた。つま先がじんじん痛んだ。何もかもが気にくわなかった。クルツも。ケンジも。サードも。レッドハートも。自分自身も。何もかもが。
「よっ、と」
かけ声一つ、レッドハートは踏み台の上から飛び降りた。高さが30センチ以上はある踏み台である。レッドハートの身長は140cm少々しかない。何もなしでは、あんな高い位置にある窓になんて、とても頭が届かないのだ。
踏み台を持ち上げ、腕の先でぶらぶらさせながら、レッドハートは看守のいる部屋に顔を覗かせた。
「終わったよ」
「あ、ああ、はい」
なぜか困ったような顔をして、看守がのこのこ出てくる。レッドハートから、貸していた踏み台を受け取り、照れ笑いを浮かべる。
なんに照れているのやら。レッドハートはぜんぜん出っ張っていない胸を張り、しゃがみがちな看守を睨み付けた。
「ありがとさん。また来るかもね」
「ええまあ、いつでもどうぞ」
看守は、格好付けた仕草で出ていくレッドハートを見送りながら、ぎこちない手つきで頭を掻いた。
「……中学生くらいにしか見えんな」
サードが通信室に足を踏みいれた時、そこには既に先客がいた。備え付けの椅子をわきにどけ、車椅子の上で通信機をいじっているのは、間違いなくケンジ・コバヤシその人である。
ケンジはしばらく考え込んでから、
「こちらにフライトナーズが来ているのは間違いのない事実だ。サードの目は確かだ。君も知っての通り。フライトナーズが到着してからというもの、LCCはその武力を背景に、企業に大して急に態度を硬化させている。おそらく近い内に、エムロードかジオマトリクスか、どちらかと激しい衝突があるだろう。その時僕は企業側を支援するつもりだが、かまわないな? パワーバランスを保つには、それが一番良いように思う。一応、ガブリエラ2にお伺いを立ててみて欲しい。
それから……彼女は、絶対に戦わせたくない。火星はもちろんだが、地球でも。理解してくれ。頼む」
最後は溜息混じりになりながら、送信ボタンを押し込んだ。
「……よう、使ってもいいかな?」
いきなり背後からかかった声に、ケンジはびくりと肩を震わせた。車椅子の上で首だけを巡らし、サードの方に顔を向ける。
「やあ。聞いていたのか」
「録音中だったみたいだから、静かにしてたんだ。立ち聞きしてたわけじゃない」
「分かってるよ。彼女に送るのかい?」
「いいのか?」
「かまわないよ。どうせコーウェンの返事が届くのは、早くて30分後だ」
と、ケンジは肩をすくめる。コーウェンというのは、コバヤシ・コーポレーション地球本社の社長である。地球と火星との間の距離は、時々刻々と変化するが、今はかなり離れている時期にあたる。その距離は片道で約15光分。送った電波が帰ってくるには往復30分かかる計算だ。
これでもまだマシな方である。遠い時期なら、片道が20光分以上にもなる。逆に2年に一度の接近時なら、片道5分まで短縮できるのだが。
ケンジに代わって席に着き、サードは慣れない手つきであれこれ端末を操作する。こういうのは苦手なのだが、いちおう、家族にメールを送る方法くらいは、なんとかマスターしている。
「コーウェンの話だと」
文面を考えて頭を捻るサードに、ケンジが横から話しかけた。
「地球にはまだフライトナーズが残っているそうだ」
「……え?」
目を丸くするサードに、ケンジは重く頷く。
「君を疑っているわけじゃない。おそらく、クラインは信頼できるわずかなメンバーだけを連れて火星に来たんだ。火星に来るかどうかで、地球政府とクラインが揉めてたって噂もあるらしい」
「……どういうこった? 火星の平定に本腰を上げたんじゃないのか?」
「違うようだな。政府はまだ、地球再興を主眼に据えた路線を変えていないんだ」
サードはまたもや頭を捻る。よくわからない。政府とケンカをしてまで、あのレオス・クラインが火星に来たがった理由はなんだろう。彼なりの正義感だろうか。火星の動乱を見るに見かねての行動か。あるいは……
「何かたくらんでるのか……?」
「……それで、君には言っておきたい」
ケンジは申し訳なさそうに、顔を俯けた。
「クラインが不気味な動きをしている以上、彼女を駆り出すべきではないか、とコーウェンは言ってる。火星に呼ぶつもりがないなら地球の方で使いたいとも」
彼女。
サードの妻にあたる女性。
「それは」
「分かっている。僕もそれは止めた。コーウェンなら分かってくれるさ」
そう信じたいが。
サードは目を閉じ、椅子の背もたれに体を預けた。メールを送ったら、ビルの屋上に行こう。あそこからなら、星空がよく見える。地球と火星は遠く離れているが、同じ太陽系の惑星だ。星座の形までは、変えられない。
きっと彼女も今ごろ、星を見ているに違いない。
違いないのだ。
風が吹いていた。
風は止まらなかった。
風は自由だった。
草原を揺らし、過ぎ去っていく風の中、一人の女性だけが立ち止まり、夜空を見上げている。幾万幾億の星の中、女の想いは自由に空を駆けめぐる。まるでそれは、彼女の頬を撫でていく風のよう。
腰まで伸ばした彼女の栗色の髪が、風に吹かれて舞い上がった。
月光を浴びて輝くそれは、一対のまっしろなつばさ。
あの星々の中に、どこかに、火星はある。
その煌めきの中で、彼は戦っている。
彼女を護るために。
そう思うのは、傲慢だろうか。
ただ一人地球に立ち尽くし、かつて少女であった女は、小さく、自嘲気味に呟いた。
「――馬鹿みたい」
つづく