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2013年02月16日

 ■ 「文章中における記号の使用についての考察」

「私が言いたいのは話には抑揚と区切りをつけるべきでありダラダラといつまでも長たらしく話を繋げるのは読みづらく聞きづらいことこの上なく聞いている人や読んでいる人にとっては拷問であるのだが世の中には息も吐かせぬ勢いで次から次へとまくし立てるそんな喋り方をする人間が随分多いのはなんとも嘆かわしいことでありやはり文章は短く区切りそのために記号を用いるのも良いということが分かれば本来読点や句点あるいは括弧の類は日本語に存在しない記号であって明治以降に西洋から輸入された概念でありこれを用いるのは日本語としての純粋性が失われ良くないという議論が罷り通ることにも私は異を唱えることが多いのは現代の日本においてもはや記号は日本語の一部として完全に取り込まれておりそれはさながら縄文人が米の栽培を文化として取り込み大和王朝が仏教を宗教として取り込み織田信長がキリスト教を取り込み昭和という時代が米国式合理性を取り込んだのと同様でありもはや我々の血肉となっているのであって今さら切り離すことは不可能であるばかりか一から十まで完全に間違っているのは明らかでつまり記号を用いることに文句を言うべきではなくむしろどんどん記号を使っていくべきで例えばこれまでに存在しなかったネットワーク世代が発明した記号表現すなわちアスキーアートや♪やハートマークの類に至るまで同様でありこんな記号は使うべきではないだの記号を使っているから話にならないだのそのようなことを述べるのは狭量と言うより他なくそのような考えを持っていては日本の文筆の世界はどんどん狭まっていき最終的に世界に対して完全に後れを取ることはおろか日本国内での文筆業の致命的なまでの衰退を招きかねずこれは非常に危険なことで私はそれを強く危惧するものなのだが無論記号とは著者と読者の間で交わされた一種の約束事という側面もあり文化的になじみのない記号を用いる場合には読者に受け入れられないことも考慮すべきで例えば愛それはもこもこなどと意味不明のことを言ったとしてそこに何らかの哲学的意味が込められていたとしてもそれを読み取ろうとする読者が存在しなければ全くもって無益なことでありそれと同様に記号を使ったとしてもその意味を正しく読者が読み取れるだけの文化的下地がなければならず文化的下地がない記号を敢えて用いる冒険を行うならば意味が伝わらないリスクは覚悟の上でさまざまな読み方を許容するだけの懐の広さを文章全体で表現する必要があると私は考えるわけであるがこれら全てを総合すると記号を用いることは決して悪ではないにもかかわらず記号の濫用は意味が通じないという文章にとって最悪の事態を引き起こすことになりかねず記号の使用には細心の注意が払われるべきでありそうした注意を払った上であれば臆することなくどんどん新たな記号の用法を開発していくことこそが日本文学ひいては世界文学の発展に寄与することであろうと私は考えるわけである」

「うるせえ、読点くらい打て」

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:愛、それはもこもこ 必須要素:読点なし 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年02月16日 01:09

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