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2013年02月11日

 ■ 「皮肉屋」

 一体どれほどの道のりを歩んできたか分からない。藁にもすがる思いで故郷を発った男は、三年、実に三年もの月日をかけ、一歩一歩、先へ進んだ。雨の日は編んだ草をかぶり、風の日は大地にはいつくばり、晴れの日は汗と泥にまみれて、男は止まることなく歩き続けた。何が男を駆り立てるのだろう。この道の先に何があるというのだろう。
 ひょっとしたら何もないのかも知れない。それでも彼は、止まれない。
 やがて旅路の果て、男はついに目指す場所へとたどり着いた。そこは遥か東方の小さな村。小さくとも落ち着いた村であった。よく手入れのされた道には、幾人かの通行人が見える。誰も彼もが上品な身のこなしに、清潔な衣を身に纏い、ただ整然と機能的に動いていた。ああ、と男は溜息を吐いた。どこからどうみても、「分かっている」人々だ。自分のこと、他人のこと、世界のこと、なんでもかんでもだ。
 世の中には二種類の人間がいる。分かっている人間と、分かっていない人間。分かっている人間は大樹のように落ち着いてどっしり構え、何事にも動じず己の道を進める。だが分かっていない人間は――そんな泰然自若とした態度を羨みながら、ただ、右にぶれ、左にぶれ、あてもなくさまよい歩くしかできない。
 つまり彼は、分かっていない人間であり、分かりたくてここまでやってきた。
 世界にその名の知れ渡った、悟り僧の修行場へと、だ。
 この村には多数の僧がいる。みな恐ろしい苦行を行う徳の高いおかたばかり。なかでも、ウジャーヒタッドという僧は、とりわけ素晴らしく悟っておられるそうだ。その高名は黄金街道を伝って内海地方にまで伝わっていた。男はただ、その僧に会いたくて、会って人生の道を説いてもらいたくて、それがために一心に道無き道を歩んできたのである。

 果たして、僧はそこにいた。道沿いの木陰で、あぐらをかき、傍らで寝息を立てる犬の背中を撫でてやっていた。その落ち着いたことといったら。いままで男が見たどんな「分かっている」人よりもなお「分かっている」のが一目で分かる。
 男は僧に近づくなり、いきなり膝を突いて祈りを捧げた。
「なにかご用かね?」
 僧が静かに問う。男はただもう、ひれふすばかりで、
「ウジャーヒタッド聖人とお見受けします」
「聖なるものなどなにもない。だが私は確かにウジャーヒタッド。もっとも、ウジャーヒタッドは私ではないが」
 素晴らしい。さっそく意味が分からない。これはまさしく、「分かっている」人だ。
 男は顔を上げ、僧にかねてからの疑問を口にした。
「あのう、お坊様。私はあなたに教えていただきたくて、はるばる三年も旅してきました。ずっとずっと西の国からです」
「なんと無駄な。それはそれは素晴らしい人生を送られたのですな。このうえ、拙僧如きに教えられることがあるとは思いがたいが」
「あなたでなければ、教えられる人などおりますまい。教えてくださいまし。善とは一体、なんでございましょう」
 僧は犬を撫でる手を止めた。その手が僅かに緊張し、犬に辛く当たりでもしたのだろうか。犬は突如目を覚まし、僧の手の下をすりぬけると、恨みがましく男の方を睨んだ。そして、どこなの家の影へと走って行ってしまった。
 その間、僧はずっと黙って考え込んでいたが――やがて、ぽつりと言葉を紡いだ。
「何故、そのようなことを訊くのかね?」
「分からぬからです。一体何が善行なのか」
「では、何が善かを知って、あなたはどうするのか?」
「善を行います」
「何のために?」
「何のためって……そりゃあ、善は、すればするほどよいものでしょう」
「成る程」
 僧は組んだ膝の上に手のひらを載せ、背筋をぴんと伸ばしたまま、真正面から男を見つめる。そのハシバミ色の瞳を見ていると、男はなんだか、とんでもない罪を犯している気になってしまった。耐えきれず目を逸らす。
「つまりあなたは、こう思うのだね。この世には善なる行為が存在し、その行為はすればするほど良いものだ。そしてあなたは、善とは何かを知り、それを実践したい」
「そうです、そうです」
「あなたは既にそれを為した」
 男は息を飲む。
「三年間、あなたは何を行った? 旅をした。歩いてきたのだろう。途中で水を飲んだろう。食べ物も。野菜を煮込む鮭のケチャップは、一体いかにして手に入れたのか? 考えて見たまえ。誰かに恵んでもらったのだろう」
 僧はにこりと笑う。
「善のためなら何も為さぬ無益な旅も許される。それこそまさに、善の善たるものではないか」

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:苦い善 必須要素:ケチャップ 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年02月11日 03:02

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