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2013年01月22日

 ■ 「続、茶飲み話」

 税理士というのがどういう職業なのか、彼女は未だに分かっていない。彼女にとって、目の前で茶を啜っている黒一色の若い男性は、出自も目的も知れない未知の何者かだ。それと知りつつ彼女は話す。狂気とは――驚くべきことに、彼女は自分の狂気を認識していた――自己の本質から乖離したもう一人の自己だ。それゆえ、時に残酷なほど、彼女という人間の本質をありのままにさらけ出す。
 彼女は、饒舌に意味不明の言葉を語り続けるもう一人の自分を、前後左右上下全てを鏡に覆われた部屋の中から傍観するしかない。ああ、あの見知らぬ税理士だとかいう職業の彼が気の毒でならない。こんな狂った老人の相手をさせられて。いや、違う――彼は、初めは相手をするつもりなどなかったはずだ。でも、どこからか、いつからか、彼は腰を落ち着けて話を聞き続ける覚悟を決めた。漆喰壁の玄関で、板間に大きな体を折り畳むように、文字通り腰を下ろして。

 彼女の狂気は語る、語る。相手の疲れなどお構いなしに。だがそれでいて、茶が無くなることには敏感で、彼女はしばしば奥に引っ込み、新しい茶を煎れてきた。茶菓子も付いてきた。饅頭があった、煎餅があった、正月の餅のあまったのを油で揚げてたっぷり塩をまぶしたのもあった――彼はよく食べた。気持ちがいいくらい。体が大きくて、腹も減るのだろう。他にすることがなかったというのもある。
「これは美味しいですね」
 彼は、揚げたてを二つ三つ口に放り込んで言った。彼女の狂気は微笑む。
「お食べ、お食べ、みんなお食べ」
「よろしいので?」
「わたしゃ、油ものは、食べません」
「では、遠慮無く……ぬくもりますね。お腹の中から力が湧いてくるようだ」
 狂気は――不意に顔を曇らせた。彼は何も気付かず、無邪気に問う。
「でも、油ものをお食べにならないなら、どうしてこんなものを?」
 問うてから、狂気の顔色に気づき、後悔する。彼女はその顔を微笑ましく鏡の部屋から見守った。見よ、この無神経。そしてその無神経を自覚して、心から悔いている誠実さ。きっと、同じようなことを常日頃から繰り返しているに違いない。腹の立つ人。だが、面白い男。
「おじいさん、同じ事を言いましたです。ええ、言いましたですよ」
 二人の間に漂う無言は、しかし、冷たくはない。

「ありがとう」
 と、不意に狂気は切り出した。
 面食らって税理士が目を丸くしている。狂気は微笑んだ――それはすでに狂気の笑みではない。彼女の、彼女自身の微笑みであった。理性と記憶、数々の激情とほんのちょっぴりの悪戯心に彩られた、一人の凛々しい老女の微笑みである。
「全てあなたの言うとおりにいたします。手続きを教えてくださいな」
「は……?」
「あら、不思議かしら? そうね、わたくしも不思議ですよ。だって、ボケたおばあさんの筈なのにね」
 彼女はコロコロ笑う。税理士はようやく事態を察した。慌てて、土間に打ち捨ててあったアタッシェケースを拾い上げ、中から何枚もの書類を取りだした。一枚一枚、丁寧に彼女にそれを示し、内容をかいつまんで説明する。よほど、難しい契約内容を噛み砕くことに腐心したのだろう。説明はとても分かりやすかった。
「こことここにご署名と印鑑を。それで、全て完了します」
「はい、はい。お待ちになって」
 彼女は奥に引っ込み、実印と朱肉をタンスから出してくる。数カ所に押された朱い判は、さながら彼女の血痕のよう。契約は滞りなくすんだ。全て、彼女の息子達の――できのわるい息子達の――思うがまま。きっとこれで、彼女は一文無しになるのだろう。大した問題ではない。どうせ死に逝く身だ。
 彼は、書類を丁寧にしまいこむと、立ち上がり、深々と一つ例をした。
「ありがとうございました。それでは、これで。その……近いうちに、またお茶をいただきに参ります」
 彼女はそっと手を振る。
「いいのよ。ありがとう。お仕事を頑張ってね。あなたなら、きっと素敵な仕事ができるわ」

 日は暮れ、夜。今日も、明日も。

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:見知らぬ職業 必須要素:ぬりかべ 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年01月22日 01:55

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