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2013年01月11日

 ■ 「奴を殺してやる」

 枯れかけた漆(ピスタチオ)の林が、目の前にどす黒い壁となって立ちはだかっている。彼は跪いた。体にのし掛かるような疲労のためか。腸を直接鷲づかみにするような重圧のためか。睡魔と混乱からくる致命的なまでの倦怠感のためか――
 奴隷は人ではない。物だ。
 賢い農場主は、奴隷をきちんと手入れする。体を綺麗にしてやり、充分に食べさせ、愉しみも与えてやる。その愛情を注ぐことといったら、牧場の駿馬、庭の能犬、はたまた黒檀のアンティーク家具にするが如くだ。そうして手間暇をかけてやることが、めぐりめぐって仕事の能率を上げることだと知っているからだ。だが、この世に賢人がどれほどいよう?
 食事をろくに与えられず――どころか、睡眠する暇さえまともに取れず、彼の疲れは極致にあった。学のない彼にもはっきりと分かるほど。つまり、これから自分は死ぬのだと。
 そう悟った瞬間、彼の裡から凄まじい怒りが間歇泉のように湧き出した。
 ――奴を殺してやる。
 目の前に実る漆の実。採取して、煎って、塩をまぶして、袋に詰めるのが彼の仕事。聞いたところによると、この豆はたいそう滋養が豊富で、街に行けばなかなかの値段で捌けるのだという。それを彼は、手当たり次第にむしり取り、強靱な指先で殻を割って、中の種子を口に放り込んだ。煎ってもいない豆は生臭く、とても食えたものではない。だが彼にはそんなこと関係なかった。一つ。二つ。まどろっこしい。一握りの豆を一度に口に放り込み、殻を奥でかち割って、その破片ごと胃に送り込む。
 ああ! 舌の上を転がる豆の脂分の、なんと甘美なことか! やせ細り、骸骨さながらの彼にとっては、豆の一粒一粒が体中に染み渡り、忘れかけていた活力を呼び覚ましていくかのよう。涙を流して彼は豆を頬張り続けた。一掴み。また一掴み。途中で奥歯が欠けた。知ったことではなかった。腹いっぱい食えるこの歓び!
 やがて、彼はようやく手を止めた。
 充分に彼の空腹は満たされ――そして、怒りは決意に変わる。
 ――奴を殺してやる。

 農場主は、ケチでクズなりに用心深い男である。利に聡いからこそ、冷酷に奴隷を使い潰せもするのだろうか。長い目で見ればそれが無用の危険を招き、能率を下げることは明らかであったが――そこまで考えない男ではあったのだろう。目先の利こそ全てなのだ。
 そのために、農場主は護衛を雇っていた。恐るべき魔物。火を噴く魔犬だ。かつて魔王が兵隊として用い、数多くの兵士を焼き殺してきたといういわくつきの魔獣である。農場主はこの怪物を息子のように可愛がり、よだれをたらす奴隷達の前で、骨のついた肉片を手ずから与えていたものだ。
 おかげで魔犬は農場主を慕い、片時も側を離れようとしない。どうしたものか。
 答えは簡単。
 奴隷は屋敷の中に忍び込み、ある場所に身を潜めた。

 さて、農場主は居間で晩酌を愉しみ、時折、机の上の薫製肉を魔犬に投げやっていた。しかし酒を飲めば大自然の呼び声に招かれるもの。農場主は席を立ち、部屋を出る。魔犬がついてこようとするが、手で制した。なにほどのこともない、ちょっと野暮用だよ、と。
 農場主は、廊下に出て、屋敷の奥の厠のドアを開け――
 その中に先客のあることを見て驚愕する。
 驚愕は怒りに変わり、怒りは敵意に変わった。農場主は怒鳴り散らす。何をしている、お前如きがこんなところにいていい理屈はない! と。
 そこで彼は――厠の中に身を潜め、じっと農場主の現れるのを待っていた彼は、こう応えた。
 そうとも。お前如きがこんな世界(ところ)にいていい理屈はない。
 彼は躍りかかった。狂気は意志。凶器は石。それで充分。農場で拾ったちょっと尖った石だけで、充分に人は死ぬ。何度も彼は頭に石の一番とがったところを叩きつけた。農場主は悲鳴を挙げた。だが助けは呼ばせない。口を塞ぎ、叫び声をあげさせない。魔犬は命令に忠実。待てと言われれば待ち続ける。農場主が別の命令で過去の命令を上書きしない限りに於いて。
 やがて農場主の抵抗は弱々しくなり、彼の心は徐々に暗い歓びに満ちていった。自然と顔がほころぶ。笑いが漏れはじめる。あと少し。もう少しでこの下らない男をこの世から葬り去れるのだ!
 と。
 彼はぴたりと動きを止めた。ふと気付くと、後ろから誰かが彼の腕にしがみつき、凶行を止めようとしているのだった。それは女の子であった。彼と同じ境遇の、つまり奴隷の女の子だ。彼は眼を細めた。知っていたからだ。この奴隷の少女が、その身の美しさゆえに、農場主によって恐るべきしうちを受けていたことを――
「止めないでくれ。こいつだけは殺さなければ気がすまない」
「いいえ、止めるわ。あなたはこんな罪を犯してはいけない。暗い欲望にかられて、全てを台無しにしてはいけない」
 少女は泣いていた。
「だって、私たちは――幸せになるために生まれてきたんじゃないの」
 彼はふと、体の力を抜いた。
 それから彼らがどうしたかは――誰ぞ知らざる。

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:どす黒い壁 必須要素:ピスタチオ 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年01月11日 01:22

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