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2013年01月10日

 ■ 「冥界に妻を恋う」

「無理を言うものではないよ。人に法あり、世に理あり、空に果てあり」
 と、老婆は呆れ半分に言った。しゃがみ込み、庭の草花を手入れする手を止めようともしない。だが断られたといってあっさりと引き下がるつもりはなかった。その程度の覚悟であれば、こんな山奥まで、全財産を処分して作った金銀を手に、わざわざ訪れたりはしない。青年は淡い黄色の花を挟んで老婆と向かい合い、庭土に膝を突いて懇願する。
「お願いします。あなたは当代最高の魔女と聞き及んでおります。きっと、冥界から我が妻を連れ戻してくださると」
「死んだ者は《死》のものさ。定命の者共に何が出来よう?」
「《死》の御許へ足を踏み入れることが。そのうえで、彼女を捜し出し、手を引いて連れ帰ることが」
 老婆は溜息を吐いた。
「確かに、不可能ではない」
「そうでございましょう。過去にそうして死者を連れ戻したと、ちまたではみな噂しております」
「噂などアテにはならぬ」
「魔女様! 私には彼女しかおらぬのです。彼女なくしてはこの命、長らえるものではありません。何を犠牲にしても私は彼女を連れ戻したいのです。どうか、どうか!」
 彼の声は悲痛そのものであった。悲鳴にすら似たその声に、さしもの魔女も心を動かされたものと見える。魔女とて木石ではない――というより、元来が心優しい魔法使いであったのだ。その優しさゆえに、死者との邂逅という危険な望みに突き動かされる青年を諫めようとしていたのだ。だが老いたる自分にはとてもそれが叶わぬと悟ったものであろうか。魔女は慰めるように青年の肩にしわくちゃの手を乗せた。
「ついておいで」

 連れられて訪れたのは魔女の館の地下。床に赤い塗料で魔法陣を描いた、寒々しい石造りの部屋であった。壁にも床にも不気味な品々――正体不明の死体、薬品、髑髏――が転がっていたが、それすら青年の決意を揺るがすことはできぬ。青年は堂々と魔法陣の真ん中に立った。
「よいかね、彼女とそなたとで無事に現世へ戻りたいのなら、これから儂が言うことをよく守らねばならぬ。まず、冥界で髷を結うてはならぬ」
「そのようなこと、するはずもない」
「ならばよい。そして、冥界の衣を着てもならぬ」
「決して」
「最後に、冥界の女を抱いてはならぬ」
「言われるまでもない」
「よいか。必ずだぞ」
 魔女は、充分に青年が禁忌を覚え込んだと納得するまで、何度も繰り返し言い含めた。それからようやく呪文を唱えはじめ、美しい歌声のような呪が徐々に薄れていき、やがて青年は――冥界へと立っていた。

 そこはなんとも寂しい世界であった。空は岩のようなものに覆われ、星も月も見えぬ。大気は黒く汚れ、大地はどこまでも灰色に広がるのみ。ただ立ち並ぶ巨岩の群が、まるで森の木々のように不気味に青年を見下ろしている。
 このどこかにいるはずだ、彼の妻は。
 彼はあてもなく冥界を彷徨った。時折、冥界の住人とすれ違った。彼は驚き、目を丸くする。冥界の住人といえば、肌の爛れた腐乱死体か、でなければ白い骸骨、しょぼくれた悪霊の類ばかりだと思っていた。だがどうだ。実際は、男も女もみな美しく、色とりどりの鮮やかな衣に着飾って、女ばかりか男まで綺麗に化粧をしている。あちこちから漂ってくる冥界の食べ物の香りは実にすばらしく、青年のからっぽの胃袋をどうしようもなく悩ませた。
 だが青年にとって大切なのは妻を見つけ出すこと。ただそれ一つ。
 彼はあでやかな冥界の街をうろつきまわり、妻を捜した。時には冥界の住人に尋ねてみることもあった。冥界の人々はみな親切であった。青年の衣が薄汚れているのを見ると、こう言った。
「ああ、なんと可哀想。もっと良い服を着るといいのに。そうすればあなたも美しくなるのに」
 青年は首を振って断ったが、ただ、親切心には礼を述べた。
 またある住人はこうも言った。
「きみの髪は埃まみれだよ。洗ってあげよう。そして素晴らしい形に髷を結ってあげよう。そうすればきみはこびりついた土を削ぎ落とした金塊のように輝くことだろう」
 これも青年は断った。何も礼が出来ないことを詫びた。だが親切な冥界の住人は、そんなことはいいのだよ、と優しく言うばかりだった。

 そして青年は、ついに妻を見つけ出した。
 ああ、夢にまで見た亡き妻。彼の記憶の中の彼女そのままに美しい――いや、それ以上に美しい。妻は冥界の衣を纏い、冥界ふうの髷を結い、その姿は女神さながらであった。青年の顔を見るなり、妻は驚きに目を丸め、次には自分を迎えにこんなところまで来てくれた夫に、感謝し、感激し、歓びの涙を零した。
 だがその涙の理由は歓びばかりではなかったのだ。
「ああ、妻よ。なぜそんなに泣いているのだね。私が迎えに来たのだよ。一緒に帰ろう」
 青年は妻を抱きしめ、優しく彼女の髪を撫でながら、そう囁いた。だが彼女は赤子のように首を振る。
「いけないのです。もういけません。私は冥界の衣を纏い、冥界の髷を結い、そして」
 震えながら妻は告白した。
「冥界の男に抱かれました――私はもう冥界の女なのです」
 言われて青年ははっとした。
 三つの禁忌。ようやく分かった。

 もう、戻れぬのだと。

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:地獄の君 必須要素:ちょんまげ 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年01月10日 01:28

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