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2013年01月08日

 ■ 「茶飲み話」

 頭の天辺からつま先まで、余すところ無く黒一色に身を包んだ税理士は、人知れず溜息を吐いた。たどり着いた場所は街から片道三時間を要する山村で、為すべき仕事は古い農家の主との交渉であった。複雑な税務を肩代わりするのが税理士の仕事。無論、相続税の取り扱いだって仕事のうち。弁護士に依頼されることが多い案件ではあろうが、なにしろ動く金額が大きいものだから、税理士としてもこっそり高めの報酬を請求しやすい。美味しい仕事だ。
 だが、肝心の相続人の棲まいが、こんなド田舎とは。そうと知っていれば、知り合いの弁護士を紹介して、体よく依頼を断ったものを。
 税理士にとって、ここは未知の世界、異国、さもなければ別の惑星にも等しかった。アスファルト舗装さえされていないぬかるんだ坂道。枯れ果てて薄汚く積み重なった雑草。正体不明の虫が這い、それをどこからか駆けてきた鶏がつつく。税理士は鶏にぎょっとして飛び退き、うかつにもぬかるみに足を踏み入れてしまった。手入れの行き届いた革靴は僅か一秒の判断ミスで泥まみれになり、それどころか、スラックスの裾にまで白い斑点が穿たれる始末。
 溜息も出ようというものだ。全く。
 こうなっては、一刻も早く仕事を済ませて帰るしかない。
 大股に家の玄関へ歩み寄る彼を、鶏が小首を傾げて見送った。引き戸の前に立ち、税理士は茫然とする。インターホン、が、ない。ああ、もう驚くものか。文明の利器がなければ、ないなりにやればよいのだ。模様付き硝子のはまった戸を叩く。ガシャガシャとけたたましい音がする。
「すいません、いらっしゃいませんか」
 しばしの沈黙の後、か細い返事が戸の向こうから聞こえてきた。
 恐る恐る彼が戸を開けると、中には仕事相手が、行儀良く腰の前に手を揃えて、ぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。もう、ゆうに90歳は越えているであろう老婆。依頼主の母親であり、彼が交渉を行うべき相手であった。
 税理士に名を確認されると、老婆は懐かしい名前でも聞いたかのように、にっこりと笑いながら、はい、はい、と澄んだ声で答える。そのぼんやりとした夢見心地の口調が、税理士に不安を抱かせる。大丈夫か、この婆さん、と。
「私は、あなたの息子さんに依頼されまして――あなたのご主人が亡くなられた。その財産の1/2はあなたが相続なさるわけですが、ご主人の財産のほとんどは不動産で、息子さんがたと分けにくい。そこで家屋敷を競売にかけ、そこから相続税の支払いを行った上で――」
 ふと、税理士は気付いた。老婆がじっと、家の漆喰壁を見つめていることに。藁やら土やら、正体不明のキラキラした銀色のものやら、何もかもごちゃまぜにぬりかためてしまった壁の一点をだ。税理士は苛立った。話を聞いているのか。
「あのう?」
「はい、お茶を煎れますから」
「ああいえ、お構いなく、そのような……」
 早く終わらせたい一心の税理士は慌てて断ったが、老婆はそんなことお構いなしに、家の奥へと消えてしまった。再び税理士は溜息を吐く。だめだ。完全にボケている。こちらの話を聞いているときの、あの虚ろな目。なんと面倒な仕事を引き受けてしまったのだろうか――
 しばらくして、老婆はきゅうすと湯飲みを盆に乗せ、玄関先へと持ってきた。一歩一歩、確かめるように歩きながら。やむなく、税理士は老婆の勧めに従って、玄関に腰を下ろす。
「あのですね」
「ええ、おじいさんとはもう60年になります」
「そんなことは……」
「戦争から帰って来て、すぐお嫁にいきました」
 税理士は口をつぐんだ。
 茶が、目の前で注がれていく。
「わたしゃ、もう、ひとりですが」
 三度目の溜息。
 茶を啜り、税理士はぽつりと呟く。
「ええ、ええ」

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:黒尽くめの税理士 必須要素:ぬりかべ 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年01月08日 02:04

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