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2013年01月06日

 ■ 「ユリーカ」

 お湯を張りすぎたお風呂からは、私の体の分だけ濁流が溢れ出る。アルキメデスの原理――熱の中に身をうずめた私は、一体どれだけのかけがえないものをそこから追い出してしまったのだろうか。
 きっと溢れたお湯の一部は、私の体液でもあるはずだ。切なく潤んだ私の裡から染み出したもの。私の欠片、そのひとしずく。つい数日前にも私はここで、彼と一緒で、色々なことをした。考え得る限りの色々なことを、だ。その時壁や床に付着した、あるいはお湯の中に混ざり込んだ私は、何度かの風呂掃除を経ても尚、数万分の一、数兆分の一、10の18乗分の一に量を減らして、でも確かにここに残っているはずだ。定量的に測定できないどころか、定性的にすら存在を感知できないほど小さくても、少なくても、必ず、きっと――
 私は鼻先までお湯に浸かった。またしても、湯が少し溢れ出て、渦巻きながら排水溝に消えていく。
 寒い寒い冬、人恋しくなるこの季節に、私は一人になったのだ。
 放り出された――とは表現したくない。私は彼の所有物ではない。一対一、対等の人間として渡り合っていたはずだ……いや、それは私の思い上がりか。思い返せば、連絡をするのはいつも私の方だった。彼は一度だって自発的に私を求めたことはなかった。必死になってスケジュールを調整したのも私。彼をベッドに――あるいはここに――誘い込んだのも、私。
 尖らせた唇の間から息を吹くと、小さな泡が水面に浮かんで弾けた。
 頭の中にあるのは、まっすぐ無限に広がるユークリッド平面のような、歪み一つ無いまっしろな虚無そのものだ。
 しばらく頭をカラッポにして、私はそこにいた。何も感じず、何も思わず、何も考えず。
 どれほどの時間が過ぎただろう。ふと、頭の中の虚無に一つの疑問が浮かぶ。
 一体なんであんなに必死になってたんだろう。
 思うと同時に感覚が蘇ってきた。体が熱い。体を包む湯が熱い。息を吹く。泡が弾ける。そんな単純なことを、私は確かめるように何度か繰り返した。二つ三つの泡が浮かんでは弾け、私の鼻とほお骨を濡らした。
 連絡、スケジュール、愛の誘い。まあそれは良い。自分が望んだことでもあるし。だが二人でいるときも、彼は笑いもせず、愉しみもせず、ただ私だけが懸命になって場を盛り上げようと言葉を紡ぎ、それに彼は頷くばかりで、時には私を批判さえする。私はそのたびそれを真に受けて、落ち込んで、悩んで、藻掻いた末に立ち直って。
 アホらしい。どうして私ばかりがそんなことをしなければならなかったのだ。それとも、私が彼よりそんなに劣った人間だったとでも?
 小さな泡が連続して浮かび、ぶつかり合い、まとまって、一つの大きな泡となり、膨らむだけ膨らんだ挙げ句に音を立てて爆ぜた。
 よく考えてみよう。何がいけなかったのか。私は多くのサービスをした。私に考え得る限りのサービスを。あるいは、私にはとても考えつかないほどのサービスを――様々な文献、ネット上で発掘した資料、彼の要望などから学びつつ――行ったのだ。それはただ、彼に喜ばれたい一心であった。だがそれがいけなかったのか? 私は与えた。あらゆるものを与え、そして与えることを当然と思い込んでいた。彼も同じであろう。与えられて当然と。
 人がいちいち酸素や水に感謝などしないように、当然のサービスを有り難がる者はいないのだ。
 分かり切ったことのはずなのに。
 何故?
 泡はもう出なくなっていた。それもそのはず、私は水面から顔を出し、唇は湯気の中で固く結ばれていたからだ。
 理由は簡単だ。
 怖かったのだ、私は。
 自分を信じられなくて、だから他人の愛が信じられなかったのだ。
 思う存分甘えさせることでしか、繋がりは維持できないと思い込んでいたのだ。
 馬鹿馬鹿しい。
 私は立ち上がった。
 白い裸体が湯気の中に聳え立ち、私は鏡に映った自分を見る。さほど良くはない。だが悪くもない。胸も、おへそも、それ以外のさまざまな部位も、全てさらけ出すように鏡の前に向き合って、私は腰に手を当て仁王立ちした。
 そう、悪くない。
 いつのまにか、お風呂のお湯は、ずいぶん目減りしていたのだ。アルキメデスの原理によって。

THE END.


※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:せつない液体 必須要素:お湯 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2013年01月06日 01:21

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