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2012年12月10日

 ■ 「《混沌》は彷徨う、蒼月の下を」

「《混沌》は彷徨う、蒼月の下を」

「ぼくは誰なんだろう?」
 《混沌》は己の何たるかを知らぬ。
 遙か遙か遠い昔、この世界がまだ、巨大な鍋の中でまぜこぜになった煮えたぎる《可能性》の集合体に過ぎなかったころ、何者かが《混沌》に声を掛けた。お前の名は《混沌》だよ、と。それで彼は気が付いた。自分というものがこの世に存在すること。自分以外のものが何一つこの世に存在しないこと。当たり前のその光景が、あまりにも寂しく思えて、《混沌》は簡単な意志を持った――もっと何かあればいいのに。
 瞬間、世界は爆発した。
 以来40億年、《混沌》は今でもひとりぼっちだ。
 大地が生まれ、天が生まれ、光が、水が、植物が、動物が、ヒトが生まれ、ついに神々が生まれるに至っても、《混沌》は望むものを何一つ手にいれていなかった。何かあればいいのに、と願いながら、それが何であるかを彼は知らない。物質も、エネルギーも、生き物たちも、神々も、《混沌》の欲しいものとはかけはなれていた。
 それゆえ彼はさまよい歩き続けた。広い広い大地の上を。寒風の吹きすさぶ空の上を。日に日に拡大していくヒトの巣の集合体――街を。行く先々で、出会うさまざまなものたちが、しかし一様に彼を遇した。すなわち無関心と無理解を以て歓迎したのであった。
 彼は何かと出会う度に訊ねてみた。
「ぼくは誰なんだと思う?」
 あるものはこう答えた。
「さあ、知らないね。少なくとも俺の胃袋に入りそうなものではないな」
 またあるものはこう答えた。
「君は君だよ。かけがえのないたったひとつのものなんだ」
 時にはこう答えるものもあった。
「お前がいけないのだ。お前さえ創造を望まなければ」
 《混沌》は彷徨う。時に膝を突き、煮えたぎる《可能性》に臓腑を灼かれ、届かぬ慟哭を天に投げかけながら。
 何故彷徨っているのか――
 何時から彷徨っているのか――
 一体、何処へ行こうというのか――

 ある時、彼は《死》と出会った。
 黒衣に身を包み、炎を纏う大犬を連れた、月のように鋭い目つきの女であった。ああ、と《混沌》は息を吐いた。丁度、傷つき、倒れ、のたうちまわっていたところだったから。いよいよ自分も最期の時が来たのだろうか。後ろ暗い爽快感が身を支配して、《混沌》は嗤った。だが彼女は言う。
「お会いしとうございました」
 あまつさえ、《死》は《混沌》に跪く。
「何故?」
「貴方様は万物の父。この世の全てをお創りあそばされた御方ゆえ」
「この世の全ての苦しみを」
「この世の全ての歓びをも」
 《混沌》は茫然とした。このようなことを言うものに出会うのは、40億年余りの旅路ではじめてのことであった――
「貴方様に贈り物を持って参りました」
「それは何?」
「《死》」
 《死》は、《混沌》を抱き上げた。その柔らかな胸に彼の頭を抱き、そっと、優しく、白磁のように繊細な指で撫でさする。ただそれだけで体の痛みが消えるようだ。何もかも、消え去り、潰え、痛みも苦しみも、幻のように遠ざかるようだ。
「いつかこの世界は、我が剣によって《死》するでしょう。
 苦しみも痛みも、もはやそこには在りませぬ」
「それが怖い」
「怖くなどありませぬ」
 《死》が、美しい微笑みを向けてくれた。ただ、彼のためだけに。
「誰が貴方を見捨てようとも、ただわたくしめだけは、貴方を決して見捨てませぬ。いつまでも永久に、おそばにお仕えいたしましょう――」

 そうして《混沌》は今も彷徨っている。蒼く輝く満月の下を。

THE END.

※この作品は、「即興小説トレーニング」http://webken.info/live_writing/にて書いたものです。
お題:混沌のセリフ 必須要素:鍋 制限時間:30分

投稿者 darkcrow : 2012年12月10日 01:18

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