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2006年09月01日

 ■ 神矛、海へ

オーダーメイドCOM
東京怪談・草間興信所
8月30日納品作品

 このページに掲載している作品は「木許慎」が、(株)テラネッツが運営するオーダーメイドCOMにて製作した物です。作品の著作権は(株)テラネッツが留保します。

神矛、海へ

 ふうっ。
 クール・ビズに身を包んでいながら、総理の額から流れる汗は留まることを知らなかった。開け放たれた首相官邸の窓からは、道を行く無邪気な子供達の姿が見える。
 そう……子供達は夏休みなのだ。羨ましい。
 残念ながら、政治に休みはない。政治とは敵との戦いであって、敵はこちらの休みの都合など考えてはくれないからだ。山のように積み上げられた難問に、うんざりしながら総理はぐったりと椅子に体を埋める。
「……このように、非常に切迫した状況です」
 朝から押しかけてきた官房長官が、無表情に言う。この男はいつも表情を動かさない。おかげで、本当に切迫しているのかどうか、顔から読み取るのは難しい。
 幸い総理はそのノウハウを身につけていた。彼の額にも浮かんでいる汗。あれが全てを物語っている。
 だが、官房長官は切れる男だ。無策で報告にやってきたわけもあるまい。総理は、ギッと椅子を鳴らして官房長官の顔を覗き込み、
「それで、どうする?」
「《矛》を使います」
 総理の顔が凍り付いた。
「封印を解く……のか?」
「極秘裏に……」
「隣国の目は欺けても、魑魅魍魎の目は欺けん。《矛》を奴らに奪われでもしたら、それこそ世界は終わりだ!」
「然るべき護衛を付けます」
 然るべき。
 その言葉が意味するものを、理解できない総理ではなかった。
 つまり……超能力、霊能力、そういった類の能力者たち。その手を借りると官房長官は言っているのだ。
 総理はじっと目を閉じた。勝算のことなど、考えたくもなかった。相手は人間より遥か上位に位置する、それこそ神や悪魔に等しい存在となるだろう。そんなものたちを出し抜いて、《矛》を『あの場所』まで運べるのか?
 しかし……
 やらなければ、我が国は滅ぶ。
「成し遂げられる者は――?」
 にぃっ、と官房長官は笑みを浮かべた。
 滅多に見せることのない、自信に満ちあふれた会心の笑みを。
「この手の事件を専門に扱う探偵がおります。人材集めにはうってつけかと」
 ああ、大いなる勘違い。あの興信所が怪奇専門という既成事実は、もはや政府公認か。
 ふうっ。
 総理は二度目の溜息を吐き、そしてすっくと立ち上がった。
「分かった、任せる。《矛》を『あの場所』へ護送せよ! 目的地は北緯20度25分、東経136度4分31秒……」
 首相官邸の壁に貼り付けられた、青く輝く日本地図の一点を、首相の指が貫いた。
「小笠原だ!!」

 吸い込まれるような青空。
 空にそびえ立つ、純白の入道雲。
 潮の香りも香しく、波は穏やかにうねりゆく。
 まるで現実から切り離された、おとぎ話の世界のように、だだっぴろい静寂の海に船はぷかりと浮いていた。ここには何もない。都会の喧噪、けたたましい電話、口うるさい妹……揺りかごのような波の上で、時間はゆったりと流れていく――
(……最ッ高だ!)
 と草間武彦は思った。
 政府なんていううさんくさい所から依頼を持ち込まれ、最初はどうしようかと思っていた。だが来て正解だった。仲間と共に大型クルーザーに乗り込み、東京湾を出航。小笠原諸島を横手に見つつ、船は進むよ、南の海へ。二日かけて数百キロを南下し、硫黄島を経由、さらに南西を目指していく。
 これほどの長い間、静かぁぁぁぁな環境にいられるというのは、彼にとって、ほとんど生涯初めての経験である。
 なんといっても、電話だ。あのうるさい電話が鳴らない「天国」で過ごすのは、ジャパニーズ・サラリーマン5000万人共通の夢と言ってもいい。サラリーマンじゃないけど。
 というわけで、怪奇探偵草間武彦は南国クルージング・リゾートを満喫中であった。
 クルーザーの甲板にデッキチェアなんぞ引っ張り出して、のんびり昼寝としゃれ込む。絵の具をぶちまけたみたいに真っ青な空に、ぷかりと浮かぶタバコの輪っか。芸術だ。
「でも、こんなにのんびりしていて、いいんでしょうかねえ」
 船室の中から聞こえてきた、どことなく覇気のない声が、せっかくのリゾートに水を差した。武彦はサングラスを少しだけずらし、声の主に怒りの視線を送る。
 甲板に現れたのは、無精ヒゲのむさ苦しい、痩せた中年のおっさんだった。体つきはがっしりしていて、上背もかなりあるというのに、どうにも印象が頼りない。恐らく原因は、童顔気味の細面と、なんとなくナヨナヨした物腰だろう。
 まあ、ホストでもやっていれば、お金持ちのおねーさま方にモテそうな感じではある。
 名前を、シオン・レ・ハイという。今回の仕事を手伝ってくれる、仲間の一人である。ご多分に漏れず彼も特異能力者……火と氷を操る能力を持っている。
「世は並べて事もなし――」
 サングラスを直しつつ、武彦はポカッとタバコの輪っかを吐き出した。
「休める時には休んどくのが玄人のやり方、だ」
「でもホラ、アレを狙ってる人もいるんでしょお……」
 チラチラとシオンが不安げな視線を向ける先には、船室の窓。その奥のソファの上に、無造作に置かれた一本の矛がある。
 なんとも場違いなモノが場違いな所にあったものである。が、あれこそが今回の依頼の要。日本政府から託された神話級の霊的物品、《天之沼矛》なのだ。
 あの矛を、指定された地点――小笠原諸島の南端に届けるのが、今回の仕事である。しかしただ輸送するだけではない。なんでもあの矛にはものすごーいパワーが秘められているとかなんとかで、道中、悪魔だの妖怪だののバケモノ連中が襲ってこないとも限らない、というわけらしい。
 ……全く具体性のない話である。
 シオンが不安がるのも分かる。が、しかし。
「ふん。ま、来るなら来いってもんだ」
 武彦は慣れたものである。普段から半分バケモノみたいな連中とばっかり付き合っているおかげで、すっかりそういう事件に免疫が出来てしまっている。
「なーるほど! さっすが草間さん、襲われたときの対策があるんですね!」
「そんなものはないっ!」
「えええええ!? そんなんで大丈夫なんですか!?」
 青ざめてすくみあがるシオン。が、武彦は自信満々に言い放った。
「大丈夫だよ。そんな時のためにお前らがいるんだろーが。」
「あ、なーるほど。」
 ぽん、とシオンは手を打った。
 ……こいつが騙されやすい性格で助かった。えんえん不安がられてたらどーしようかと思っていたのだ。
「大丈夫だから、少しどっしり構えてろよ。俺はお前の力を誰より買ってるんだぜ。だから連れてきたんだ」
「草間さん……!」
 ぐすっ、とシオンは涙ぐんだ。
 やはりシオンも男である。人に認められたい、力を示したいという思いは、いつだって彼の中にあった。しかし、不幸なことに、普段のシオンを認めてくれる人間は、あまりいない。だからこそ、言葉だけの賛辞でなく、ちゃんとこの大事な仕事に誘ってくれた武彦の気持ちが、シオンは何よりも嬉しかった。
 武彦は短くなったタバコを既に満杯の灰皿に擦りつけ、次の一本を懐から取り出す。慣れた手つきでフィルターを加え、お気に入りのジッポーをひと擦り……が、空しく飛び散る赤い火花。
「あ、オイル切れた。おいシオン、火ィー」
「ハイ! どうぞ~」
 ぼしゅっ。
 武彦の目の前に差し出されたシオンの指から、青い小さな炎が燃え上がった。
「いやほんっと便利だなー、お前」
「やだなあっ、そんなに言われると照れますよぉ」
(こいつがいるかぎり、タバコの火には困らん。)
 という武彦の本心は、ナイショの話である。

「うーん、なんか違うのよねぇ~ん」
 クルーザーの船室は二階構造。下には倉庫と二人分の寝室が、上にはくつろぎのリビングに、運転席が備わっている。窓から見える青い景色も、吹き込んでくる潮風も、快適な海の暮らしの良いパートナー。
 そんな気持ちいい運転席で、人型退魔兵器R-98Jは、無表情にハンドルを握りしめていた。
 見た目には思春期の女の子にしか見えないR-98J、通称Rは、実は戦闘用の人型ロボットである。武彦達の案内と作戦協力のために、政府側から派遣されてきた唯一のスタッフだ。
 どこを見ているのだかよく分からない、ぼーっとした目で運転しつづけるR。
 その頭に、かぽん、と麦わら帽子がかぶせられた。
「やっぱり似合わないわねぇん」
 Rを着せ替え人形代わりにしているのは、若く豊満な白人女性だった。その体を覆うのは、申し訳程度の薄布と、軽くウェーブの掛かった長い髪のみ。はちきれんばかりのそのボディに、普通なら唾を飲み込む……ところであるのだが……
 普段からそんな格好ばかりしてるので、武彦もシオンもあんまり反応してくれないのが寂しい。
 そんな彼女は、名を桜塚詩文という。武彦が連れてきた仲間の一人。こう見えてルーン魔術の達人である。
「みそのちゃーん、そっちのリボン取ってぇ」
「リボン、リボン……はい、どうぞ」
 衣装が山と積まれたテーブルの中から、赤いリボンを探り当てたのは、年の頃なら13、4の少女である。年齢の割には発育の良い体を、黒のワンピースに包んでいる。名前は、海原みその。武彦が連れてきた仲間、最後の一人だ。
 ということは、もちろん彼女も、ただの人間ではないのだろう。
 キュッ!
 慣れた手つきで、詩文がRの髪をリボンで彩った。どうでもいいが、何されても眉一つ動かさないRは、本当にばかでかい人形のようで不気味である。
「うっふっふーん♪ やっぱコレがいいかしらん? ねー、みそのちゃん」
「まあ。とっても素敵ですわ――」
 ぺち、と胸の前で手を叩いて、みそのはにっこり微笑んだ。
 上機嫌の詩文は、おそらく生まれて初めて可愛く着飾ったであろう、Rの背中にしなだれかかり、
「ね、Rちゃん♪ どーおー?」
「はい。あと数時間で目標地点に到着します」
 ずるっ。
 そのまま床にずりおちた。
「そ、そーじゃなくてぇ……まーいっか……」
 一体何を考えているのやら。Rは無表情に、運転に集中した。詩文は後ろ頭を掻きながら、みそのに向かって苦笑する。みそのはというと、さっきRがかぶっていた麦わら帽子を頭にかぶり、くるりん、とその場で回って見せた。どうやらお気に入りらしい。
「やっぱり女の子は、かわいい格好のさせがいがあるわん♪
 Rちゃんだって、とーってもかわいいのにねぇー」
「……はっ!」
 その瞬間、Rの全身に戦慄が走る。
「このわたくしが……かわいい!?」
 ……どうやら、やっと話の流れを理解したらしい。
 と思った途端、Rが耳から煙を吹き出しながら、異様な角度にハンドルを回転させた。クルーザーが無駄に急速旋回し、その場でグルグルと渦を巻き始める。バランスを崩して倒れる二人。外から武彦たちの悲鳴も聞こえてくる。
「きゃー! ちょっとRちゃん、落ち着いてぇー!!」
「カワカワッカワワイワカワカワワイワ!」
 いつまでもいつまでも、その場で回り続けるクルーザー――
 玄人が5人、揃いも揃って、すっかりリゾート気分なのだった。

 丁度その頃、東京都内、草間興信所――
「へちゅっ!」
 本棚にはたきをかけていた草間零は、ちっちゃくくしゃみをした。
 失敗した。はたきをかける前に窓を開けておくべきだった。お掃除用のエプロンをひらりと揺らし、零はパタパタと部屋の中を駆け回る。窓、全開。換気扇、OK。
 興信所の中にスッと明るい陽射しが入り込んできて、普段の混沌とした様子が信じられないほど、清潔で片付いた部屋の様子が照らし出される。
 零は細腕を腰に当て、
「うん!」
 と大きく頷いた。
「やっぱり、兄さんがいないとお掃除がはかどるなぁ。きれいで気持ちいっ」
 にぱっ、と零の顔に笑みが差す。
「もっときれいにして、兄さんをびっくりさせちゃおっと。早く帰ってこないかなー?」

「なーんて、今ごろ言ってるわよん。せっかく零ちゃんの服も用意してきたのに」
 ようやくクルーザーのコントロールを取り戻し――
 運転席で、武彦はハンドル握りながらタバコを噴かしていた。後ろにぺたぺたくっついてくるのは、言わずと知れた詩文。どこに隠していたのやら、花柄のパレオを手元にヒラヒラさせている。
「なんでンなもん……」
「うっふっふーん♪ 時間の許す限りの情報収集及び前準備をしておくのが、玄人のやり方なのよん♪」
「仕事の準備をしろ。仕事の。」
 頭掻き掻き、呆れ半分に武彦はぼやく。
 ちなみに、Rは船室のソファに転がり、まだ耳から煙を噴いている。
 感情や自意識もあるとはいえ、まだまだ人間社会に不慣れなRにとって、かわいいなんて言われるのは余程刺激が強かったらしい。
 ……そこまでおだてに弱いのは、兵器としてどーなんだ、と武彦は思う。
「あら。ちゃーんと仕事の調査もしてきたわよん?」
「ほーお。どんな?」
「そーねえ。たとえば、政府の目的は排他的な……」
 と。
 詩文がふいに、口をつぐんだ。
 おい、と呼びかける武彦にも、人差し指一本たてて黙らせるのみ。彼女が神経を研ぎ澄ましているのが、霊的感覚ゼロの武彦にもはっきりと分かった。ルーン魔術師のカンを働かせているのだ。
 いつになく真剣な眼差しで、詩文はじっと北側の窓を見つめ……
「……来る」
「!」
 その一言で全てを悟り、武彦は船室から飛び出した。

 海は、海原みそのの故郷である。
 彼女は海神に仕える海の巫女、その正体は人魚なのだ。海で生まれ、ずっと海で生きてきた。
 しかし30ノットで巡航するクルーザーに乗り、海上を風切って進むというのは、初めての経験だった。真っ青な海に一筋、すぅっと伸びていく白いのライン。船が描く、美しい鋭角の波紋。船が巻き起こす風に乗っているのだろうか、後をずっと追いかけてくる海鳥たち。
「素敵です……海にこんな姿もあったなんて――」
「あは。かわいーですねぇー」
 にへら、と、みそのの隣でシオンは笑った。子供や小動物には目がないシオン・レ・ハイ、懐には常にお菓子を欠かさない。慣れた手つきでパッケージから取り出したビスケットを、小さく砕いて空中に放り投げる。
 と、数羽のカモメが矢のように突っ込んできて、器用に空中でビスケットをキャッチする。
「まあ!」
 みそのは胸の前で、ぺち、と手を叩いた。
「海の上も面白いものですのね。御方にお話して差し上げなきゃ♪」
「御方って誰です?」
「わたくしがお仕えしている、海を統べる御方ですわ。海の底でずうっとお眠り遊ばしてますから、退屈なさってるの――」
「はあ、海を統べる……」
 神様みたいなもんかなあ、とシオンは思う。実際、正解である。
 ふと、カモメが一羽、すぅっとクルーザーに近寄ってきて、船縁にちょこんと留まった。ずいぶん警戒心が薄い。この辺りには外敵が少ないから、鳥もおおらかになれるのだろうか。
 ともかくカモメは、ぴょんぴょんと跳ねながら、みそのの方に近寄っていった。どうしていいか分からずきょとんとしているみそのに、シオンはそっとビスケットを手渡す。みそのの手が、おずおずとビスケットを差し出し……
 カモメはそれを強奪して、バサバサと慌ただしく空に帰って行った。
「まあ! 全部持って行っちゃった――」
 シオンはその横顔を、ぼうっと見つめていた。
(可憐だ――)
 さっきビスケットを手渡すとき、指先が、ほんの少しだけみそのに触れたのだった。
 純情おっさんシオン。ただそれだけで、頭がぼーっとする。
「あ、あのう、みそのさん……」
「はい?」
「えーそのー、よ、よろしければ、こっ、こここ今度ご一緒にィー……」
 その時だった。
 船室のドアを蹴り開け、武彦が飛び出してきたのは。
「気をつけろっ! 来るぞ!」
「え?」
「はい?」
 二人は何事か分からず、反射的に武彦に振り返り……
 ざばあっ!!
 二人の背後で海面が盛り上がったかと思うと、そこから巨大な影が青空目がけて伸び上がった!
「でかい!?」
「ひえええええっ!?」
「あらまあ。」
 三者三様に叫び声を挙げ、武彦たちは「それ」を見上げる。海面から付きだした、まるで樹齢千年の大木のような巨大な影。全身を覆う分厚い鱗。海水だか体液だかを滴らせる、シオンの太股ほどもあろうかという太い牙。そして……額に一つ、不気味煌めく血走った単眼。
「ななななななんデスかこれはぁああああ!?」
 ガタガタ震えながら、思わずみそのの後ろに隠れるシオン。武彦は額に汗を浮かべ、
「俺に聞くな、俺にっ」
「この方は、クラーケン様ですわ。御方に仕える眷属のおひとかた――」
「海原?」
 いつも通りの落ち着き払った声で言いながら、すがりつくシオンを優しくほどき、みそのは前に歩み出る。
「わたくしが交渉してみます。みなさま、お静かに――」
 言うとみそのは静かに両腕を広げ、その瞳を閉じた。クラーケンとかいう巨大なウミヘビは、単眼でじっとみそのを見つめている。辺りを満たす静寂。武彦やシオンには何も聞こえないが、おそらくは彼女ら人外の者にしか分からない言語を交わしているのだろう。
「だ、大丈夫でしょうか……」
 シオンが武彦の耳元で囁くと、武彦は頭を振った。
「さあな。だが海原は海神に仕える巫女だ。たぶん……」
 さて、みそのとクラーケンが交わした言葉はこうである。
 ――わたくしは御方にお仕えする巫女。あなたの行いは御方の眠りを妨げるものです。おやめ遊ばせ――
 ――断る――
 ――御方を畏れぬと仰せですか? 畏怖を知らぬ者には相応の報いが下りましょう――
 ――知ったことか。余はクラーケン、神矛を得て新たなる海王と成る者なり。忘らるる古き者など海底の淀みで静かに朽ちておればよい――
 ――まあ。それマジでおっしゃってますの?――
 ――マジなり――
 ――取り消さないとヒドいですわよ――
 ――その前にそのほうの五体を引き裂いてくれる――
 ――では「よーいどん」で戦闘開始ですわね――
 ――よかろう……よーい――
 ――どん!――
 ふうっ!
 みそのは額に浮かんだ脂汗を拭いつつ、にこやかに武彦たちに微笑んだ。
「あの方、コテンパンにやっつけちゃってOKですわ♪」
『ダメじゃねーかー!?』
 二人のツッコミが見事にハモった。
 しょげええええええっ!
 交渉決裂したが早いか、クラーケンが一声吠える!
 その長いからだが不気味にくねり、横手から船上の武彦達に襲いかかった。シオンは半ば本能的に身を縮め、なんとか鋭い牙から逃れるが、運動音痴のみそのはまだぼうっと突っ立っている。
(みそのさん!)
 シオンの体中から冷や汗が吹き出した。あのままではみそのがクラーケンに噛み殺される。なのに体が動かない。助けなければと思うのに、男の自分が盾にならなきゃと思うのに、巨大な敵の姿に威圧されて、脚が一歩も動かない。
(なんて情けないっ!)
 自分自身のていたらくに、シオンは愕然とする。
「チッ!」
 瞬時。
 武彦が甲板を蹴りつけて、みそのを素早く押し倒した。間一髪、みそのは難を逃れるが、その代償に武彦の背中を牙が抉る。
「がっ……!?」
「まあ! 草間様っ」
 自分の上に覆い被さったまま、苦悶に顔を歪める武彦を、みそのは両腕で抱きかかえる。肉が破裂するかのように吹き出した鮮血が、その腕を赤く染め上げた。
「大丈夫ですか、草間様」
「なぁに……薄皮一枚さ……!」
 薄皮一枚なわけがないのは、誰の目にも明らかである。それでも武彦は痛みに耐えて、みそのを心配させまいと笑顔を作る。
 その間にもクラーケンは海に戻り、体勢を立て直して、再び鎌首をもたげてくる。武彦が傷を負い、みそのが戦力外となっているこの状況で、船自体を攻撃でもされれば一巻の終わりだ。
 ――死ね、小さき者ども! 矛は頂く!――
 みそのにだけ聞こえるクラーケンの声。
 再び、クラーケンの顎がクルーザー目がけて迫る。
 逃れる術は……ない!
(これまでかっ……!?)
 武彦が覚悟を決めた……次の瞬間。
 ぎいんっ!
 空中から七色のいかづちが迸り、クラーケンの首を絡め取る!
 ぎぃああああああっ!
 爆発のような絶叫を挙げながら、クラーケンは苦痛に身をよじり、
 フィンッ!
 間髪入れず、船から一筋の光が飛び出した。
 背に翼を持つ天使のようなその姿は、飛行ユニットを装着したR-98J。細腕に大太刀を携え、亜音速でクラーケンに突っ込んだRは、ソニックブームもろとも刃をその首筋に叩き込む!
 一太刀に首を両断されて、クラーケンは海中へと倒れ込んだ。その巨体が巻き起こした大波が、クルーザーを木の葉のように揺らす。武彦は必死になって船縁にしがみつき、
「なんだ今のっ!」
「うっふっふ~ん♪ ごめんなさいね、ちょっと結界の準備に手間取っちゃったわん♪」
 普段と変わらぬのんびり声も頼もしく、詩文が船室から姿を現した。一体どこに隠していたのか、その手には、悪魔の腕を模した禍々しい杖が握られている。こうして見ると、いかにも魔術師といった装いだ。
 武彦はみそのに支えられながら立ち上がった。焼け付くような痛みが走る。背中をガスバーナーで炙られている気分。だが、立てるということは大丈夫ということだ。第一、大丈夫じゃないからといって、寝ていていい状況でもない。
「やったのか、詩文?」
「いいえ!」
 答えたのは詩文ではなかった。クラーケンを仕留めたはずのRが、武彦のそばに滞空しつつ、いまだ油断のない目で真下の海を睨みつけている。
「霊紋ソナー、ピン・タイムアウト! 霊波吸着反応!」
「な、なんです、それ?」
 ようやく金縛りから立ち直ったシオンが問うと、
「敵本体は船体直下距離200……浮上開始、来ますっ!」
 海が……揺れた。
 と同時に、クルーザーの真下に巨大な黒い影が現れる。巨大……さっき見えたウミヘビ・クラーケンの巨大さなどとは比べものにならない。クルーザーの周囲数百メートルを覆う漆黒。
 海が山のように盛り上がり、武彦たちの乗ったクルーザーは滝を滑り降りるように落下していった。その下から現れた巨体。全長数キロメートル。高さ数百メートル。えんえんと連なる真っ黒な鱗。体のあちこちで不気味に蠢く、数百本の触手……ウミヘビ・クラーケン。遠目には大蛸に見えなくもないが、生物だの怪物だのというより、もはや一つの生態系を持つ島のようなそれが……
「ご覧ください、みなさま。あれがクラーケンさまの本体ですわ」
 まるで観光案内でもするかのように、みそのが事も無げに言い放った。
 武彦は、愕然とその光景を見つめつつ、
「た……たぁーすけてくれぇー! 零ーっ!!」

 丁度その頃、東京都内、草間興信所――
「――!? 兄さん!?」
 ひょい、とつまみ上げる汚い布きれ。零はぷうっと頬を膨らませた。
「もお! またこんな所にパンツ脱ぎ捨てて……だらしないんだから!」

「なんて祈ってもダメだよな、やっぱ……」
 涙目の武彦は、クルーザーの運転室でハンドルにしがみついていた。
 しょぎゃごげぐげがばべぴょにょけえええええ!!
 重なり合う数百の雄叫び。コレが全部、さっきのウミヘビ・クラーケンの声だという。
 あんなバケモノ相手に、戦って勝てるワケがない。逃げの一手である。が、所詮はただのクルーザー。全速力で追いかけてくる「島」から逃げ切れるはずもない。後部甲板で詩文とRが攻撃を食い止めてくれているが、いつまで保つか――
「どうするんです、草間さんっ」
 青ざめた顔で叫ぶシオンに、武彦は小さく頷いた。こんなちょっとした動きでも、背中に電流が走るようだ。武彦は苦痛に顔をしかめながら、
「目標地点に直行する。《矛》を使っちまうんだ」
 ちらり、と武彦はシオンに視線を送った。彼の腕は、後生大事に《天之沼矛》の包みを抱えている。
「詩文の分析じゃあ、そいつはエネルギーのチャージに数千年も掛かるらしい。クラーケンの狙いは矛そのものというより、その中のエネルギー。てことは、一発どかんと使っちまえば、ヤツはもう狙ってこない」
「な、なるほど!」
「では急ぎましょう。わたくしもお手伝いいたしますわ――」
 みそのが静かに言いつつ、両の瞳を閉じる。クラーケンと対話していた時のような、不思議な祈りの仕草。その瞬間、急にクルーザーに振動が走った。よろめきながらシオンが窓の外に目をやると、周囲を取り囲んでいたウミヘビ・クラーケンたちの姿がみるみる遠ざかっていく。
 クルーザーが速くなった?
「お船の周りの海流を操作しましたわ。クラーケン様から逃げ切れるほどの速度ではありませんけど――」
「いいさ。時間は稼げる」
(ああ……)
 シオンはこの緊迫した状況の中、ただ一人、蚊帳の外に取り残されたような気分だった。
 自分が持っているのは、タバコに火を付ける程度しかできない発火能力と、まともに発動するかどうかさえ分からない氷結能力。ケンカの腕にはそれなりの自信があるが、クラーケンが相手では何の役にも立たない。
 何も出来ない、自分。
 その現実が、シオンに重くのし掛かっていた。
(私は、このままじゃいけない……このままじゃ……!)

 マッスル・シャフトを収縮させて、鋼の太刀が翻る。宙舞うRの四方から、同時に迫る四つの蛇。下から来たのを蹴りつけて、高く空中に舞い上がり、竜巻のような回転斬りで追いすがる二つを両断する。
 しかし最後の一つが避けられない。ウミヘビ・クラーケンの醜い顎が、Rに頭から齧り付く。
 と、クラーケンの口の中でRの体が爆発し、虹色のいかづちを撒き散らした!
「あら残念。そっちはニセモノよん♪」
 詩文の仕掛けたトラップである。内部から焼かれたクラーケンは、焦げた臭いを振りまきながら、それでも血走った単眼で船上の詩文を睨め付ける。しかし次の瞬間、背後から亜音速で迫った太刀が、クラーケンの首を貫いた。
 絶叫を聞きながら刃を引き抜き、「本物」のRは詩文の隣へと舞い降りる。
「ありがとうございます、助かりました」
「いーのいーの。お互い様よん♪」
 言葉を交わしながらも、二人は油断なく辺りに目を配っている。
 今の一匹を最後に、取りあえず視界内のウミヘビは片付けた。とはいえ、何十匹切ったところで氷山の一角にすぎない。あの島のような本体は、いつのまにか海中へ没してしまっている。何を企んでいるのか――
「あーあ、なんだか心配だわぁ」
 珍しく不安そうな詩文の言葉に、Rは頷いた。
「はい。戦術的には、一般に敵が後退した場合、第二波において第一波以上の困難が予想されます。そこで既に衛星軌道上から増援を……」
「そーじゃなくってぇー、シオンくんがね~」
「シオン・レ・ハイ様が?」
「なんか、落ち込んでるみたいだったし。役に立ってないのと、みそのちゃんを守れなかったのが、ちょーっとショックだったのかな~?」
「といいますと?」
「だからさー、男の子ってみーんなそういうものなのよねぇ。意地ってゆーか、居場所が欲しいってゆーか、そういう気持ちがいつもあって、女の子はその象徴ってところもあるの。おねーさん、そんなシオンくんがシ・ン・パ・イ♪ まっ、シオンくんのことだし、きっと……
 ……んー?」
 ブスブスブスブスブ……
 Rが耳から煙を噴いている。
「きゃー! どーしちゃったのRちゃーん! 頭が炭火焼きみたいよぉーん!」
「処理能力おーばー処理おーばおーばばばばばば」

 海の上を、風のようにクルーザーは走り続ける。
 五分、十分……やがて、水平線の真ん中に、灰色の何かが見えはじめた。
「あれかっ!?」
 武彦はサングラスをずらし、肉眼をすっと細めてそれを凝視する。
「島……か、あれは?」
「でも島にしては小さいですねえ」
 隣に並んだシオンも、目をシバシバさせている。まるで薄っぺらい板のように、灰色の塊が海から顔を覗かせていた。自然の岩にしては、やけに綺麗な円形をしている。それにシオンの言うとおり、島と呼ぶには小さすぎる。
「……あれって、どっかで見たことが……」
 武彦は呟きながら、記憶を辿っていく。そう、あれはまだ子供の頃、小学生とかそのくらいの歳だった頃だ。何かであれの写真を……そうだ、教科書に確か載って……
「あーっ! そうだ、ありゃあ沖の……」
 と。
 ざばばばばばっ!!
 クルーザーの行く先に、無数に立ち上る水柱。ウミヘビ・クラーケンの群れ!
「なっ!?」
「まあ。先回りしてらしたようですわね」
「チッ! ここまで来て!」
 相変わらず呑気なみその。武彦は慌ててハンドルを切った。
 クルーザーが大きく弧を描いて90度転回、林のようにそびえ立つクラーケンたちを迂回しようとする。だがそれを見逃してくれるクラーケンではない。触手たちは、雄叫びを挙げながらクルーザーを追ってくる。
 後部甲板の詩文とRも、それに呼応して即座に攻撃を始めている。が、いくらなんでもこの数のクラーケンの中を突破するのは不可能だ。
「これじゃあ島まで行けませんよ!」
 叫ぶシオン。武彦は顔をしかめた。全くその通り。
「仕方ねえ……あの手で行くか。シオン! 運転代わってくれ!」
「あの手って……?」
 武彦はにやりと笑い、シオンの握りしめた《矛》に視線を送った。
「そいつを持って、泳いで島まで行く。悪いが、船の方でヤツを引きつけといてくれ。上手くすれば、ノーマークで島までたどり着けるはずだ」
「なっ!?」
 シオンは絶句した。特に感慨もなさそうなみそのでさえ、目をぱちくりさせている。
「それは無理だと思いますわ。その傷では――」
「仕方ねーだろ。あのバケモノを出し抜くには、少々の無理も通さなきゃ、な。
 まあ見てな、なんとかしてみせるさ」
「仕方なくありません!」
 思わず……
 シオンは叫んでいた。
 二人の視線が、シオンに向けられる。
「私が――」
 詰まる、言葉。
(動け!)
 シオンは念じる。
 口も。体も。
 何より、心も!
「私がやります! 私は無傷ですから!」
「……一歩間違えばクラーケンの前で無防備になる、危険な役目だぜ。分かってんのか?」
「ハイ!」
 シオンの言葉に、迷いはなかった。
 武彦は、ほんの少しの間、じっとシオンの目を見つめると、船の前方へ視線を戻した。クルーザーの運転に全ての神経を集中させた証。それが無言の回答だったのかもしれない。
 ただ一言、武彦の言葉がシオンの背を押す。
「死ぬなよ!」

 ウミヘビ・クラーケンに追い立てられて、クルーザーが遠ざかっていく。
 海に首から下を沈めて、シオンはじっと時を待った。背中には、ロープで縛り付けた《矛》の感触。重い。気を抜けば沈んでしまいそうなほど。
 でも。
 だからこそ、背負わなければ。
 自分に託された役目を。
 クルーザーは遥か彼方に遠ざかり、辺りは不思議な静けさに包まれた。どうやら、クラーケンはシオンの方には気付かなかったようである。詩文に「心理的な死角になる呪い」をかけてもらったおかげか。それとも単なる運か……いずれにせよ。
 シオンは大きく息を吸い込み、力一杯のクロールで、島に向かって泳ぎ始めた。

「いやーん! もーダメー!」
 さすがの詩文も、クラーケンの猛攻に泣き言をこぼす。もちろんRはよく戦っているし、武彦とみそのによる操船も的確、クラーケンの攻撃を巧みに回避している。それでもあまりに敵が膨大すぎて、魔術による援護が追いつかなくなってきている。
「耐えましょう。もう少しです!」
 Rは太刀を振るいながら、弱気の詩文を励ました。
「そうね……シオンちゃんも頑張ってるんだもん! 私だって負けないわよん♪」
「そうですとも!」
 と。
 Rが太刀を振り切った、一瞬の隙を突いて、一体のクラーケンが突進した。完全に彼女の死角からの攻撃、しかもその速さはこれまでと比較にならない。その全力の突撃は、さすがのRも避けきれず、胴をまともに食いちぎられる!
「!!」
「Rちゃんっ!?」
 宙を飛び散る機械の破片。その内の一つが放物線を描きながら、すとんと詩文の腕の中に落下した。
 Rの生首。
「ギャアー!! 生首コワイー!?」
「まだです。たかがメインボディがやられただけです」
「それ『たかが』じゃなーい!」
 もともとロボットのR。首と胴体が離れたくらいで死にはしないが、いくらなんでも首から上だけで平然と喋っているのは不気味に過ぎる。それ以前に、さすがにこれではもう戦えない。
 Rを倒したクラーケンは、数本のウミヘビをクルーザーに殺到させた。いくつかはクルーザーの速度に振り切られ、いくつかは詩文の結界に阻まれる。が、しかし――
「数が多すぎる! 結界が保たないわよん!」
 と詩文が叫んだ、まさにその時。
 バキィィィィンッ!!
 心臓を潰されそうなほどの轟音を響かせ、詩文の結界が崩壊する!
 愕然とする詩文に。
 首だけになってもまだ敵を鋭く睨むRに。
 舌打ち一つ、奥歯を噛みしめる武彦に。
 そして一心不乱に祈りを捧げるみそのに。
 クラーケンの牙が、迫る。

「あ!」
 シオンは思わず泳ぎを止めた。
 クルーザーに殺到するウミヘビ・クラーケンの群れ。シオンにもその光景が見えていた。
(みんながっ!)
 と、思うよりも早く――
 シオンの体が動いていた。
 海上に突き出した左腕。その手に封じられた炎の獣。普段ならタバコに火を付ける程度の火力しかない青い炎を、シオンは最大限に調節する。熱は要らない。炎のエネルギーの全てを、光に変える!
「クラーケン! 《矛》はこっちだ!!」
 閃光が太陽よりも目映く輝き、その瞬間、クラーケンの動きがひたりと止まった。
 ず……
 まるで地震のような重低音を海中に響かせ、クラーケンの本体がまっすぐシオンの方へ転進する。これでクルーザーに乗っているみんなは狙われずに済むはず。してやったり……と思う反面、シオンは目尻に涙を浮かべ、
「あああああ! やっちゃった! こここここっち来るよおおおお!」
 バタバタと全速力で泳いで逃げるが、クルーザーさえ追い抜くクラーケンから、そんなもので逃げられるはずがない。島まではまだまだ距離があるうえに、遥か遠くのクラーケンは、みるみるうちに迫ってくる!
「仕方がない……一か八か!」
 シオンは海の中、右の拳を握りしめ、海面を撫でるように前へ突き出す。
 制御不能、何が起こるか分からない、右手に封じた氷結の力。
 上手く海を凍り付かせることができれば……
「上手くいって……くださいよぉっ!」
 祈るようにその力を解放する。
 びきっ!
 固い何かが割れるような音が、海の上に響き渡り……
 次の瞬間、シオンの元から島までの、白い氷の道が生み出されていた。

 武彦は呆然と、外の光景に見とれていた。背中の痛みさえどこかに消えてしまいそうだ。
「や……りゃあがった、あの野郎っ! 黙ってりゃ自分一人は助かったもんを!」
 みそのはその後ろにすっと寄り添い、
「海流の方向を変えますわ、草間さま」
「あ?」
「シオンさまをお助けしなければ――」
 そうだった。呆然として、やるべき事を忘れるところだった。武彦はニッと口の端に笑みを浮かべる。それと同時に戻ってくる背中の痛み。そう、これでいい。この方が集中できる。武彦はそういう男だった。
「そうだな。頼むぜ、海原っ」

「っていってもぉー、どーやってシオンちゃんを援護しよーかしらん?」
 胸にRの頭を抱いたまま、詩文は首を傾げた。ほとんど胸の谷間に埋もれているRが、視線だけを上へと向ける。真っ青な南海の空。白く立ち上る入道雲。その隙間に輝く、煌びやかな光――
 太陽では、ない。
「大丈夫です。今……到着しました」
「到着? 何が?」
 にこり、とRが笑う。たぶん、この旅に入って初めての笑顔。
 それもつかの間、Rの表情に戦慄走る。
「全機、戦闘展開!」
 空の光が美しい幾何学模様を描き出し、
「一斉射!!」
 きゅごごごごごっ!!
 突如、砲撃の雨がクラーケンの頭上に降り注いだ!
 退魔処理を施した、対物機銃に対潜爆雷、ATSM、レールカノン。一粒ごとに死を振りまく恐怖の雨滴が、無数のウミヘビ・クラーケンたちを見るも無惨に蹂躙していく。海中に没した本体さえもが突然の攻撃に身をよじり、海に大波が走った。
「なになになんなのよぉーん!?」
「砲戦仕様、脱装! 師団……」
 ぱきんっ!
 小気味よい音を響かせて、宙舞う無数のR-98Jたちが、一斉に大砲を切り離す。
「突入!!」
 瞬時――
 R-98J師団は、超音速の塊となってクラーケン本体に殺到した。その途端、南海に咲く大輪の花。赤く燃えさかる爆発と、不気味に蠢く触手たちが、空を抉るかのようにもつれ合う。
「あれって……」
 ぽかんと大口開いたまま、その光景を見つめる詩文。Rはいつもの冷静な声で、
「衛星軌道上にある工場衛星に、私の同型機を投下するよう要請を出しておきました。ほんの百機ほどですが」
「ほんの……」
 詩文の口がもっと大きくなる。
 Rは再びにこりと微笑み、
「戦いは数ですよ、桜塚詩文様」

 一体何が起こったのか、シオンにはよく分からなかった。ただ、Rと同じ顔、同じ姿をした無数の味方が、クラーケンの足止めをしてくれていることは紛れもない事実。
 なら今のうちに走るのみ!
 氷で出来た道の上、シオンは息を切らせて走り抜けた。背後ではクラーケンが全ての触手を動員して、Rの大軍を蹴散らしている。その内の一本が、Rたちの作った防衛線をくぐり抜け、シオンの足下、氷の下へと潜り込む!
「うっ!?」
 しかし次の瞬間、下からシオンに噛みつこうとしていたウミヘビ・クラーケンが、不自然なほど強力な海流に押され、遥か彼方へと流されていった。
 この力は……
(みそのさん! ありがとうっ)
 心の中で援護に応え、シオンはただ、ひた走る。
 と。
 バキイッ!
 シオンの行く手を阻むように、数本のウミヘビ・クラーケンが氷をぶち割り現れる!
 はっとしてシオンは背後を振り向いた。見れば、防衛線の一角が破られ、そこから大量のウミヘビ・クラーケンが接近していたのである。
 みそのの起こした海流がその巨体を阻もうとする。が、数が多すぎてそれも追いつかない。流れに耐えた数匹が、シオンの元へ辿り着いたのだ。
「くっ……」
 反射的に立ち止まり、クラーケンを見上げるシオン。
 その時。
「どおおおおおおおりゃああああああああ!」
 突如聞こえてきた絶叫。
「草間さんっ!?」
 横手から猛然と突っ込んでくる、みんなの乗ったクルーザー。ハンドル握る草間武彦は、背中の痛みもなんのその。シオンの行く手を阻むクラーケンどもを、体当たりで根こそぎ薙ぎ倒した!
 だがそんなことをして、タダで済むはずがない。クルーザーは空中でボロボロに分解し、みそのが、詩文が、Rの生首が、そして武彦が宙を舞う。それでも武彦はシオンを睨め付け、
「行けえぇぇぇっ、シオーンっ!」
 絶叫。
「は……ハイッ!!」
 それに応えてシオンは走る。
 島まであと数十メートル。氷に脚を滑らせながら、転がるようにシオンは駆けた。あと10メートル。島を囲むコンクリートに脚が掛かる。阻むもの全てを蹴散らしたクラーケンが、触手をシオンに殺到させる。あと5メートル。黒い岩、島の中心が目に見える。迫る牙。飛び上がって身をかわすシオン。あと3メートル。2メートル。シオンは。
 跳んだ。
「たああああああっ!!」
 背負った矛を両手に握りしめ、
 その先端を、島の中心へと突き立てた!

 瞬時――
 海が裂けた。
 海水が凄まじい勢いで引いていく。いや……海中から、巨大な何かがせり上がってくるのである。クラーケンではない。あれほどの巨体さえ比較にならないほどの、黒く固い大岩が、海上へと姿を現す。
 新たな大地が誕生しつつあるのである。
 大地だけではなかった。最初こそただの岩の塊だった新たな島を、みるみるうちに肥沃な土壌が包み、数多くの植物と、無数の動物たちが、無から創造されていく。まさしくそれは神の力。世界を創造する力そのものである。
 しばらくして……
 気絶していたシオンが目を開いたとき。
 彼の前には、穏やかに息づく緑の島が、そびえ立っていたのである。

 ――ちっ――
 海底で、クラーケンは歯がみしていた。
 ――人間どもめ……貴重な霊力を使ってしまいおって――
 もはやあの矛に力など残ってはいない。数千年の時を待ち、ようやく巡ってきた好機だというのに。海神に取って代わるという彼の夢は、ひとまず潰えた。別の方策を探すか、あるいはさらに数千年待ち続けるか。いずれにせよ……
 ――くだらん。余はしばし眠る!――
 ふてくされながら、クラーケンは海底へと没していったのだった。

 日本の南の海の果て、矛の力であらたに誕生した、大きな島。その砂浜に、ざくっ、と棒きれを突き立てて、武彦は溜息を吐いた。
「やれやれ……」
 棒きれと見えたものは、力の全てを使い果たした《天之沼矛》そのものだった。霊力のあるなしで、これほど物は違ってみるのだろうか。さっきまでは美しい矛のように思えていたものが、今では単なる、テントの支柱くらいにしか思えない。
 そう、テント。
 ぶっ壊れたクルーザーの中から引っ張り出した、サバイバルセット一式。支柱が折れていたので、その代わりに《矛》を使わせて貰うとする。バチが当たるって? 大変結構。もう前払いで充分当たった。
「結局、どういうことだったんだ? こりゃあ」
 疲れた声で問う武彦に、砂浜に転がるRの首が答えた。
「つまり……日本政府の目的は、沖ノ鳥島を守ることだったのです」
 沖ノ鳥島。
 北緯20度25分、東経136度4分31秒。日本最南端の島である。
 元々小さな島だった沖ノ鳥島は、長年の海流による浸食で、見るも無惨に削り取られていった。たかが島一つと言うなかれ。太平洋のど真ん中にポツンと位置する沖ノ鳥島は、周囲12海里の領海と、200海里の排他的経済水域を日本にもたらす。それらは日本にとって、欠かすことの出来ない海産資源――水産物や、海底鉱山――を与えてくれるのだ。
 というわけで、島がこれ以上削られないよう、ほとんど岩一つと化した島の周りに、コンクリートの分厚い防波壁が建造された。
 ……と、ここまでが社会の教科書やなんかに載っているお話。
「最近になって、沖ノ鳥島を『島』ではなく単なる『岩礁』と見る政治的な圧力が高まり……広大な経済水域の喪失を恐れた政府は、沖ノ鳥島を、誰が見ても文句のない『島』に造り替えることを計画した……」
「神様の力まで借りて、か。よくやるぜ、まったく」
「ご面倒をおかけしました。救助の船は呼んでありますから……」
「数日待てってんだろ? まあいいさ。たまには楽しい無人島キャンプとしゃれこもう。
 ……保存食、残ってっかな」

 一方。
 みそのは、砂浜から夕日の沈む海を見つめていた。
 黒いワンピースに麦わら帽子、砂浜にぴったりの夏の装いで、みそのはんーっと背伸びをする。今日は貴重な体験ができた。見たことのないものも見られたし、島の創造などという、御方以外の神様の業にも立ち会えた。御方のための、いい土産話になるだろう。
「あ、あのー……」
 後ろから、おずおずとかけられる声。
 振り向けば、そこにシオンがいる。
「よ、良かったです! みそのさんが無事で……」
「ええ。シオン様のおかげですわ。あの時クラーケン様を引きつけてくださらなかったら、わたくし達、みんな死んでいましたもの――」
「い、いやあ。当然のことをっ!」
 照れるシオン。褒められると嬉しい、純情おっさんである。
 ああ、とシオンは心の中で溜息を吐いた。未知の無人島に閉じこめられたふたり。青くどこまでも広がる海。目映い真紅の夕日――綺麗だ。こんな状況、二度と来ない。行け、なけなしの勇気を出して!
「あ、あのお、みそのさん、良かっ……」
「わたくし、シオン様のような素敵な『お友達』を持って光栄ですわ――」
 ぐさっ!!
 シオンの脳みそになんか突き刺さった。
「地上に出てきてたくさんの《お友達》ができましたけれど、シオン様みたいな面白い“お友達"がたくさんいて、わたくし幸せですの。【お友達】のことを話して差し上げたら、きっと御方もお喜びですわ! だからシオンさま、これからもずーっと、わたくしの[おともだち]でいてくださいね♪」
 ぐさぐさぐさぐさ。ぐさ。
 気分はハリネズミ。
「あ、は、……ハイ……喜んで……」
「ありがとう、シオンさま♪ じゃあわたくし、草間様のお手伝いをして参りますわ♪」
 ひょおおおう……
 海風が、呆然と佇むシオンを撫でる。
 ざざーん……
 波の音が、空しく木霊する。
「うっふっふーん♪ 元気出して、シオンちゃん」
 不意に背中から聞こえた声に、シオンははたと振り返った。いつのまにそこにいたのか、詩文がにこりと微笑みながら、シオンを優しく見守っていたのである。
「シオンちゃんは、みんなを守ってくれた。それでいーんじゃない?」
「詩文さん……」
 ぽんっ。
 詩文の手が、優しくシオンの肩を叩く。
「かっこよかったわよん♪」
 苦笑して、シオンはぽりぽり頭を掻いた。
「おーい! シオン、火ィ付けんの手伝ってくれーっ!」
 その彼を呼ぶ、遠い声。
「ハイ! 今いきまーす!」
 元気よく答えて――
 シオンは、砂浜を駆け出した。

(終)

投稿者 darkcrow : 2006年09月01日 22:28

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