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2006年06月19日

 ■ 土くれの塔

 乞食にはかつて名前があった……が、既にその名は記憶から追いやられていた。乞食の脳は、余りにも長い時を生きすぎて、生きながらにして腐り始めていたのか。あるいはもっと別の何かが、乞食にそれを忘れさせたのか。
 ただ乞食は、見渡す限り生き物らしい生き物さえない不毛の砂漠の真ん中で、土くれを積み上げ続けていた。来る日も来る日も、ボロボロのローブを引きずり、やせこけた腕で地面を掘って土を掻き集め、土くれの塔を造る。
 石と、硬い土と、熱い砂とが、混ざり合って形作る脆弱な塔。それは塔と呼べるほど立派なものではなかった。単に土が積み上がっただけの、人の背丈ほどの小山に過ぎなかった。しかし乞食は何の疑念も抱かず、朝から晩まで同じ行動を繰り返した。一欠片のパンも口にせず。一滴の水すら飲まず。寝もせず。瞬きもせず。
 だが、塔の基部がようやく完成を見た頃、乞食はふいに手を止めた。ある月の晩のことだった。
「はて……これは果たして塔と呼べようか?」
 言葉など、乞食の脳からとうに消え失せているはずだった。とすれば、彼が発したのは言葉ではなく……いわばこぼれ落ちた「魂」そのもの。肉体の器の中でたゆたっていた精神が、僅かに揺らいで器から漏れたのだった。
「そして、私は一体何者だ? いつからここでこうしていた?
 なぜこんなことをしていたのだ?」
 疑問に答える者はなかった。人の姿こそ見えねど、天の月は彼の疑問を聞いていただろうに。ただ月は無慈悲に青く輝くのみだった。月なるもの、死の皇女、ドゥザニア殿下はお忙しかったのか。未だ全能の力を持っていないこの頃であれば、そういうこともありえたかもしれない。
 ともかく、誰も答えてくれないので、乞食は塔のそばに座り込んだ。そして考え始めた。脳は腐れ、考える力など失っていた(あるいは始めから持っていなかった)ために、その思考は長きにわたり続き、かつ何一つ答えを生み出すことはなかった。それでも乞食は考え続けた。十年……二十年……百年……それ以上の時間が過ぎた。ないしは、それだけの時間に匹敵するほど長く、この一夜が続いた。
 何の甲斐もない時間の浪費の果てに、変化は突然訪れた。
「何をしているのです、不死王よ。手を休めるなどお前らしくもない」
 乞食は言葉が分からなかったが、それでも女の方を振り返った。月の光を浴びて、異様な気配を放つ女がそこに立っていた。ふくよかな美しい肢体。慈愛と叱咤を同時に秘めた瞳。座り込んだ乞食のそばに自ら跪き、そっと乞食の肩に手を触れる。それだけで乞食は女の胎内に吸い込まれたような気がした。
 あるいは、世界そのものが女の胎内にあったのか。
「お許しください、高貴なひと」
 乞食は呆然と言った。魂の声で。
「私はあなたを良く存じ上げている。片時もあなたの存在を忘れたことはない。だがどうしたことか……あなたを表す言葉だけが、私には見つからない」
「言葉などに何の意味がありましょう。あなたは幾百年をかけて、私を表してくださったのよ」
「もったいないお言葉でございます……」
 《地》の皇オウム・ミムは優しく微笑み、母の暖かさでもって乞食を抱きしめた。
「何を悩んでいたの、不死王。あなたは、他のあらゆる生命同様、可愛い我が子。あなたの悩みは私の悩み」
 乞食は抱かれながら、魂を振り乱し続けた。器から零れ続けた魂は、さながら吹き出す血のように大地を汚していった。しかし大地は揺るがない。どろどろした血に汚されて、深く傷ついていたかもしれない。穢されていたかもしれない。あるいは世界のどこかで地震が起きていたかもしれないが、少なくともこの場では大地は平穏を保っていた。
「私は一体何者なのでしょうか。いつからここで塔を積み上げていたのでしょか。なぜこのような無益なことを繰り返していたのでしょうか」
 ほう、とオウム・ミムは溜息を吐いた。悲しんでいたのか。呆れていたのか。でなければ、大地の奥底でマグマがたぎるとき噴煙が地を割るように、深すぎる愛が口から漏れ出たというのか。
 その温かい溜息に首筋をくすぐられ、乞食は融けたように体重の全てをオウム・ミムに任せた。地の皇たる母は、それをしっかと抱き留めた。乞食は愛を感じた。もう何百年も熱を感じたことのない体が、内側からわき起こる炎に燃えていた。細腕で狂ったようにオウムを抱きしめ、押し倒そうとした。
 が、しかし――
「愚かなる不死王よ。私はあなたを愛しております」
 静かにそう伝えると、次の瞬間、乞食の腕の中からオウムの姿は消え失せた。
 乞食は……支えを失い、砂漠に倒れた。
 そのまま何年もそうしていた。
「私は……?」
 消え入りそうな声。
 苦しい。
 乞食は少しずつ過去のことを思い出し始めていた。
 かつて乞食は王だった。幾多の家来にかしづかれ、巨大な……比喩も誇張もなく、本当に山よりも大きな宮殿に、ずっと住んでいた。乞食が腕を一振りすれば、数千万の軍勢が大陸を駆けめぐった。数億の人間がその足に踏みつぶされた。乞食は一人の男として、理想を追い求め、前へ、ただ前へ、止まることなく進み、ついに世界の全てを手中に収めた。
 数百年の時をかけて。
 そう、世界征服などという偉業が、人間の一生の内に叶えられるわけがない。乞食は契約を交わしたのだ。《命》の皇たるものと。契約によって、永久に前へ進み続けるための、不死を賜ったのだ。
 なぜそんなものを手に入れてしまったのだ?
 乞食には……不死王にはもう分からなくなっていた。尽きることのない生。訪れることのない死。月は頭上で見守るのみ。決して彼の元に降りてきてはくれない。苦しみからも、痛みからも、死は救ってくれない。
 頼みにしていた我が子に裏切られ、地位と財産と夢の結晶の全てを奪い取られ、それでも死ぬことすら許されぬ。
 ただこうして、かつての宮殿を懐かしみ、土くれの塔を積み上げ続けるのみ。
 懐かしみ?
 栄華を懐かしみ、私は土を掘っていたのか? 砂を積み上げていたのか?
 不死王は、立ち上がった。
「愛しております、我が君」
 囁いて、大地を削り取る。
「愛しております」
 ローブの裾に土を載せ、休んでいる間に風雨で削られてしまった土くれの塔に運び、
「愛しております!」
 それを積み重ねる。
「ですから……ここに造りましょう。私と……あなたさまの子を……愛の証を……我が夢の証を……
 移ろいゆく魂の……証を……」
 不死王は、今日も土くれの塔を造り続ける。

<設定覚え書き>

●不死王ヴァーネンタリウス
 種別:魔物・歴史上の人物(マグスフォーク)
 浸透度:古老の昔話級
 不死王ヴァーネンタリウスは、神代末期の実在の人物である。当時は北方の小国に過ぎなかったヴァーナン王国の王子として生を受け、若い頃より学問・軍事・魔術に才能を発揮した。父王が夭折した後、跡目を継いで国王となる。王位を継いでからは世界征服の野望に取り憑かれ、類い希な軍才を以て周辺諸国を次々と制圧。大帝国を造り上げ、その初代皇帝となった。
 これが後の「大魔導帝国」であり、ヴァーネンタリウスはその始皇帝である。
 大魔導帝国は着実にその版図を広げ、数百年後(200年から500年を要したと言われている。当時はまだ《時》の皇が存在していなかったため、正確な時間経過が計測不可能だった)には、世界の98%を支配するに至った。
 ヴァーネンタリウスが不死王と呼ばれるのは、その数百年、死にもせず歳も取らなかったという伝説に由来する。マグスフォークは人間よりも長い寿命を持ち、延命の魔術も開発していたが、それでも120年が限界である。
 ヴァーネンタリウスの不死の秘密は、十二皇の一柱たる《命》の皇ラグル・ドル・ゲルグムとの契約にあった。彼は何かをラグルに捧げ、それと引き替えに死なない体を得たのだ。ヴァーネンタリウスの捧げたものが何であったかは伝承に残っていない。
 不死の体と己の才能によって、栄光を極めたヴァーネンタリウスであったが、世界統一後はみじめな没落を味わうこととなる。
 彼は、最も信頼を置いていた第395子ヴァーン・テレフタルアミドに譲位することを、世界統一直前の時期にはすでに決めていた。ところが、他に100人近くもいるヴァーネンタリウスの子ら(彼は数百年の間に400人以上の子をもうけたが、この頃にはそのほとんどが寿命で先だっているというありさまだった)たちが反発。「ヴァーネンタリウスが死なない限り、帝位を継いでも実権を握ることはできない」と、テレフタルアミドをそそのかし、ヴァーネンタリウスの追放に走らせる。
 まだ幼い息子を心から可愛がっていたヴァーネンタリウスは、あっさりとテレフタルアミドの仕掛けた罠に掛かった。ヴァーネンタリウスは全身の皮を剥がされ、どこかの砂漠に追放された。以後、魔導帝国の帝位は、テレフタルアミドの血統を含む五つの王家によって、持ち回りで護られることとなる。
 砂漠に追放されたヴァーネンタリウスは、息子に裏切られた失意によって、発狂。不死の体を持っているために死ぬこともできず、砂漠の真ん中で永久に奇行を繰り返し続けることとなった。

 民間伝承において、ヴァーネンタリウスは「信頼を裏切る者に災いをもたらす魔物」として語られている。古老たちは、嘘をついたり、人を騙したりした子供に、「不死王が来るぞ!」と脅すのである。そのためか、ヴァーネンタリウスをモチーフとした絵画や彫刻は、肌が焼けただれ、あるいは腐り落ち、関節が異様にねじ曲がった、見るも無惨で恐ろしい姿をしていることが多い。不死王は、この世界における恐怖の象徴なのだ。


●《地》の皇オウム・ミム
 種別:神。十二皇。皇子教における「五大」の一柱。
 浸透度:啓示教の浸透前は広く信仰を集めていた。啓示教によって邪教認定され、極度に知名度が落ちた。
 《地》の皇オウム・ミムは神格第一位の神であり、この世界で最も大きな力を持つ十二皇の一柱である。象徴するものは《大地》。大地母神的な性格を持っており、豊穣や子孫繁栄に関係しているほか、《死》や《命》と深い関わりを持っているとされる。人の前に姿を現す時は、豊満な30際前後の女性の姿を取ることが多く、服装は薄衣一枚などの軽装、ないしは半裸や全裸であることがほとんどである。
 他にも数多くの神々と交わったことで知られており、《死》の皇ドゥルムとの間に《埋葬》の霊を、《命》の皇ラグル・ドル・ゲルグムとの間に《草木》の霊を、《火》の皇フランダとの間に《火山》の霊を、それぞれ生み出したという。その他、男性関係は幅広く、生み出した神は数知れない。
 これらの伝承からか、オウム・ミムは成熟した大人のエロスの象徴として、芸術のモチーフになることが少なくない。
 なにかと影を感じさせる《死》の女皇ドゥザニアとは対照的に、明るく奔放な女神である。これに《美》の皇フィーネーを加え、「三大女神」と称されることもある。

投稿者 darkcrow : 2006年06月19日 02:59

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