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2006年04月28日

 ■ 記憶

「で、あのマンションの、管理人のおばちゃんがさ」
 と言われて、チャーハンを口に運ぶ俺の手が、ぴたりと止まった。
 ダイニングテーブルの向かいに掛けた母が、首を傾げる。首を傾げたいのは俺の方だ。宙ぶらりんになっていたスプーンを口の中に突っ込み、無理矢理チャーハンを咀嚼する。
「どしたの?」
「いや……なんか……あんまり、覚えてないんだよなあ」
 さすがに母も、顔いっぱいに呆れの表情を浮かべた。
 二年ほど前まで俺が住んでいた、大阪のマンションの話である。そこには管理人のおばちゃんがいて、なんだかんだと、口やかましく世話を焼いてきていたのである。母は僅か一二度顔を合わせたことがあるだけだが、どうもその時の印象が強烈に焼き付いているらしく、目の前にいるかのように、そのおばちゃんの事を語った。
 だが、そこに三年も住んでいた当の俺はというと、そのおばちゃんの印象そのものが、もうすっかり薄らいでしまって、ほとんど顔も思い出せないのだ。
「ちょっと、ほんとに忘れてるの?」
「もう二年も前のことだし……」
「あんたねえ……いくらなんでも、管理人さんに悪いわよ」
 そうかなあ。
 などと思いつつも、俺は母の刺すような視線から目をそらし、残りのチャーハンを掻き込んだ。別にいいじゃないか。もう二度と会うわけじゃなし、俺が忘れてしまったということが、向こうに知れるわけじゃなし。言い訳がましく考えながら、俺は目の前でぶらぶら揺れる、鬱陶しい前髪を掻き上げた。
「そろそろ散髪行かなきゃなー」
「また、誤魔化してからに……」
 わざとらしい話題転換は、コンマ数秒で見破られたのだった。

 行きつけの床屋がある。
 大昔、俺がまだ幼稚園にも入らない歳のころは、両親がバリカンで頭を刈っていたらしい。が、俺にその当時の記憶はない。物心ついた時には、もうその床屋に通っていた。そしてそれは、俺が高校を卒業して大阪に出て行くまで、十数年に渡って続いたのだ。
 床屋のおじさんは、俺の伯父の同級生で、今ではもう60近い歳になる。まず店の前でパンチパーマの看板がお出迎え。店内は狭くて薄暗く、奥の方に黒ずんだブラウンの席が二つあるばかり。部屋の手前側は待合席になっていて、ひんやりとした空気が漂う中に、革張りのソファと、カフェ・テーブルと一体化したゲーム筐体が設置されている。今は電源が落とされているが、俺が小学生くらいのころは、見たこともない古ーいシューティング・ゲームが、一回百円で稼働していた。極めつけは鳥かごの中で暴れ回るインコのピーちゃん。動物園の臭いを漂わせながら、ピーチャンピーチャンチュチュルチュルルリルラ、とうるさく鳴きわめく。
 俺がガキの頃には、既に古めかしい店だったのだ。
 丸刈りにしていたチビのころも、色気づき始めた中学のころも、プールでシラミをうつされた時も、みんなこの床屋の厄介になった。
 中でも、あの時のことは、今でも鮮烈に覚えている。

 確か……高一のときだったと思う。高一の頃の担任に、忌引きの手続きをしてもらった覚えがあるから。
 伯父が死んだ。
 伯父は有能な人だった。会社に信頼され、東京の本社に単身乗り込み、縦横無尽の活躍をしていた。帰省してくるのは、盆正月の二回だけ。そして、帰省したときには、決まって俺や弟を誘い、床屋へ連れて行ってくれた。
 その伯父が死んだ。死因は虫歯だった。馬鹿げていると思うだろうか? だが、虫歯の痛みを我慢して仕事に明け暮れ、とうとう菌がリンパ腺に侵入し、喉が異常に腫れ上がり、気管を圧迫して、窒息状態になり、酸欠状態になった脳が停止して、死に至る……という事例は……本当にあったのだ。
 俺の目の前に。
 あの時俺は、目の前に横たわり、身動き一つしない伯父を見下ろしながら、ただ非現実感に苛まれていた。夢の中にでもいるような気分だった。恐る恐る、伯父の手に触れてみた。驚いて手を引っ込めた。
 冷蔵車に乗って東京からここまでやってきた伯父は、冷たかった。
 呆然とする俺に、床屋へ行くよう言ったのは、母だったか、祖母だったか……
 その日は通夜で、翌日は葬式だ。ぼさぼさの伸び放題の頭で、参列するわけにはいかない。
 俺は五千円札一枚をポケットに突っ込んで、足を引きずりながら、あの床屋へ向かった。

 床屋のおじさんは、何も言わなかった。
 店の中に入った俺に、歓迎の言葉をかけたのは、ピーちゃんだけだった。ひんやりとした空気が俺の頬を撫でた。指先に、さっきの冷たい感覚が蘇って、俺は身震いした。おじさんは、それでも何も言わなかった。元々、ほとんど喋らない人だった。だがこの気配は異様だった。ぴんと張り詰めた糸のように、一片の隙もない空気。
 俺も、何も言えず、奥の席に腰掛けた。
 おじさんは俺の後ろに仁王立ちになった。
「このままの形で、ふたつき分くらい短くしたらいいかな」
「はい」
 お互いに、低い声で、一言だけ言葉を交わして――
 あとはただ、ハサミの小気味よい音だけが、空々しく響いていた。
 俺は呆然とする心の中で、少しずつ、意識を取り戻しつつあった。このおじさんは……と、考えられるようになっていた。このおじさんは、伯父の同級生で、年に二回だけ、必ず伯父はここにやってきて……
 しゃきん。
 ハサミの音が、やけに甲高く耳に届いた。
 俺はふと、鏡に映った床屋のおじさんの目が、赤く腫れ上がっていることに気が付いた。
「中学の頃はな」
 不意におじさんが声を挙げた。
「君んとこの伯父さんと一緒になって、悪さして回ったんだ」
 悪さ。
 その一言の中に圧縮された思い出が、滝のように俺の中に流れ込んだ。この人と伯父の間には、どれほどの記憶が横たわっていて、それがどれほど強固な絆を作っていたのか。全ては俺の想像に過ぎない。だが、俺はその、ただの想像に、圧倒されていた。
 なんていう濃度だったんだろう。あのときおじさんが見せた、思い出の片鱗は。
 しゃきん。
 ハサミがまた、甲高く響く。
 死んだ友を弔うために。
 生きていくために身につけた、仕事師の技で――

 俺は、その懐かしの床屋の前に立ち、色あせたパンチパーマの看板に苦笑した。まだこの看板かけてたのか。
 伯父の葬儀から二年が過ぎて、俺は故郷から旅立った。それ以来六年、俺は一度もこの床屋に来たことがなかった。だが今、都落ちして故郷に戻ってきた俺が髪を切るなら……ここ以外に行くところはないように思えた。
 でも、なにぶん六年ものブランクだ。
「覚えてないだろうなぁ……」
 俺は伸び放題の頭を掻いて、肩をすくめた。無理もない。高校までの頃とは、人相も大分変わってしまった。まあ、誰だか覚えていなかったとしても、新しい常連客として、この店の厄介になろう。俺はもう、そう決めていたのだ。
 そっと、重たいドアを押し開く。ドアベルがカランカランと音を立てる。
 ひんやりとした空気。懐かしいゲーム筐体。ピーチャンピーチャンチュチュルチュルルリルラ。
「ありゃ。大きくなったなあ」
 俺を出迎えた第一声がそれだった。
 俺は呆気にとられて立ち尽くした。待合い席のソファに我が物顔で座り、老眼鏡をかけて新聞を読んでいたおじさんは、無表情に俺を見つめた。その頭は、すっかり白くなってしまっている。よく見ると、店の中も少し綺麗に改装されている。でも。
「ひさしぶり。まあ、入んな」
 あの時と同じだった。
 俺のことを覚えていたなんて。
 俺は導かれるままに、奥の席に腰掛けた。おじさんは俺の後ろに仁王立ちになった。
「このままの形で、ふたつき分くらい短くしたらいいかな?」
「はい、お願いします」
 しゃきん。
 ハサミの音が小気味よく響く。
 そのテンポの良いリズムを聞きながら、俺は大きく深呼吸した。覚えていてくれた。それが無性に嬉しくて、そう、伯父とおじさんとまではいかなくても、俺とこのおじさんの間にも、それなりの……絆があったという気がして……
「……なあ」
 おじさんが、ふと手を止めた。
「弟くんの方だよなあ?」
 がくっ。
 俺は思わず肩を落とした。
「兄です、兄……」
「あ。そうか。失礼」
 滅多に笑わないおじさんが、口元に薄く笑みを浮かべる。
 俺もまた、鏡越しに苦笑を返したのだった。

 その日の夕方、部屋の中であぐらを掻き、腕組みしたまま唸る俺の姿があった。
 努力の甲斐あってか、大阪のおばちゃんの記憶は、少しずつだが、蘇りつつあった。

投稿者 darkcrow : 2006年04月28日 00:15

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