« 空想のタバコ | メイン | スーパー・マーケット »

2006年03月26日

 ■ 動揺

《しばらく顔出さなくなるんで、さいごの挨拶にきました》
 俺の指が止まった。
 人間、本当に驚くと、こうなるものだろうか。俺はぼうっとモニタを眺めながら、チャット・ウィンドウに浮かぶ白の文字を追いかけた。
 夜中のチャットは、もはや俺の日課となっている。ここだけの仲間も少なくない。毎日三時間も四時間も、飽きもせずに、みんな集まってくるのだ。
 その中の一人……俺にとっては師のようであり、親のようであり、兄の用であり、憎き敵であり、そして何より、絶対に負けたくない相手であるその男が、いつもの淡々とした調子で文字列を吐き出したのだった。
《……なんで?》
 俺の、青い文字が、おずおずと黒い画面に浮かんだ。
《個人的な事情だ。まあ、いずれまた来るよ》
 不思議と何の感慨も無かった。モニタの前で溜息を吐くと、それだけで、さっきの驚きは嘘のように消え去った。俺の指がキーボードの上で踊る。
《そうですか。じゃあ、またいずれ》
 流れるような指の動きには、一片の違和感さえなかった。

 彼は簡単な挨拶を残して姿を消し、俺は妙に落ち着いた気分で、いつも通りのサイト・チェックをして回る。どこを見ても、今日は味気ないニュースばかりだった。面白くもない。
《え!? な、なんでまた?》
 チャット・ウィンドウに深緑の文字が躍ったのは、そんな時だった。このチャットに顔を見せる確率が最も高いのは、さっきの白と、俺の青と、この深緑の三人だろう。いわば主みたいな連中の3人目が、挨拶もなしに言葉を迸らせていた。
《やあ。なんか、そういうことみたいよ》
 俺はさっきまでチェックしていたサイトを見ながら、答えた。
《サイトも閉鎖してる。本業に専念って話だから、仕事が忙しいのか……小説のことかもね》
《うーむ、そうか……さみしくなるのう》
 ふんっ。
 モニタの前で、俺は鼻息を吹き出した。寂しいなんていう感覚も、俺にはない。むしろ、いつもより冷静なくらいだった。
《ま、戻ってくるって言ってるんだから、戻ってくるんでしょ》
《そりゃそうだが》
 俺は、カーペットの上に仰向けになり、静かに目を閉じた。なんだか、頭の奥の方から、沸き上がるように浮かんでくる記憶がある。あれは……何時のことだった? あれは確か……

 もう9年も前の話。
「ごめん、別れて欲しいの」
 川沿いの道で、俺は彼女と向かい合い、呆然と立ち尽くしていた。
 不思議と何の感慨も無かった……寂しいという気持ちも。哀しいという気持ちも。悔しさ、やるせなさ、怒り、絶望や喪失感、何一つ。俺は何一つ感じず、愛しくてたまらない彼女の瞳を見つめ、その瞳が疲れに歪んでいるのを見つめ、それでも、なんの感情もないままに立ちすくんでいた。
「そっか……」
「うん……」
 俺は歪んだ笑みを浮かべた。
「うん、そんならそれで、俺はいいよ」
 あの時、彼女はどんな顔をしていたっけ。正直に言って、覚えていない。
「……そう」
 ただ、彼女が早口にまくし立てたのだけは、事実だった。
「じゃあ……ほんと、ごめんね。さよなら……」
 踵を返して早足に遠ざかっていく彼女の背中を見つめ、俺は頭を掻いた。いつまでも立っていたって、仕方がない。俺も彼女に背を向けて……
 その瞬間。
 爆発のように、抑圧された感情が俺を薙ぎ払った。
 哀しい? 寂しい? 苦しい? 辛い? 取り乱して、頭がグルグルと回って、膝が震える? 俺は立っていられなくなって、ガードレールにしがみつきながら、うずくまった。体に力が入らなかった。震えていた。全身が。
 動揺してる、俺。
 確信すると同時に、俺は猛烈に後悔した。あんなこと言うんじゃなかった。それならそれでいい、なんて。なんであんなこと言ってしまったんだ?
 行って欲しくない!
 なのに!
 今となっては、全て後の祭り……俺は涙も出てこないほどうろたえて、ガードレールの冷たい感触に頼り切っていた。
 それが……初めて俺のことを好きになってくれた人との、別れ。

 そうだ……似てるよ、あの時と。
 うんざりしながら、俺は上体を起こした。
 なーんで、冷たい言い方しちゃうんだろうなあ、俺。
 そう自覚すれば、できることは見つかる。俺は再びキーボードの上に指を踊らせ、青い文字をチャット・ウィンドウに出力した。
《動揺してるわ、俺》
 大きな大きな溜息ついて、ようやく俺は、正直になった。
《おう、さよか》
《なんかさー、それまでいた人が急にいなくなった時、え? え? なに? なんなのだあ? って気分にならない?》
《なるなる》
 深緑の頷く姿が目に浮かんだ。
 認めてしまうと、なぜだか俺は動揺を通り越して、楽しい気分にさえなってくのだった。通り越したんじゃないか。動揺を楽しんでいるのか。俺はにやにや笑いながら、
《うむ。この気持ちを小説に書いてみようかな》
《そうだね、それがいい》
《こうしてみると、アレだな。あいつは俺のために、小説のネタを持ってきてくれたようなもんだな!
 正直、何を書こうかと思ってたんだ》
《前向きだなあ》
 いかにも、いかにも。
 俺はモニタに向かって一人うなずき、
《そうさ。今の俺は、ポジティヴ・ナイス・ガイ。略してP.N.G.だ!》

投稿者 darkcrow : 2006年03月26日 23:52

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:

コメント

コメントしてください




保存しますか?