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2006年03月25日

 ■ 空想のタバコ

 見せられた瞬間に鳥肌が立った。何か恐怖のようなもので。
 友人の家に遊びに行ったのだ。大学のサークル仲間で、大阪における、数少ない友人の一人だ。「今日は例会に行ってみようと思います」なんてメーリング・リストに書いておきながら
姿を見せなかった俺に、心配して電話をかけてくれた。今からでも遊びに来ないか? ってね。
 なんで例会とやらに行かなかったのか? 決まってるだろ、ほら、春暁がどうとかね……ガス田の中国名じゃないぞ?
 とにかく俺は、久々に友人に会いに行った。一年近く会ってなかっただろうか。俺が実家に帰るつもりだと知ると、驚いていたよ。
 他愛もない話から、小説の話題になった。ケータイで書いた小説が新人賞を取ったとか、そういう話。
 奴は言った。おれ、その賞で二十何人のうちに残ったんだぜ、と。
 文芸誌を見せられた。受賞作と、2次選考突破作品の作品名が並ぶページ。
 赤のボールペンで囲まれた、タイトルと作者名。
「……まじかよ」
 俺にとってはまるで死の宣告だった。許せない。背筋の寒気が全身に伝播して、筋肉が怒りに硬直した。許せない。お前が俺より先を走っているなんて許せない!
 ごめん。酷いことを言っているとは、分かっている。でも俺は、体の全てを、嫉妬心に支配されてしまっていた。頭が真っ白になって、おめでとうの一言さえ、言うことができなかった。

「夜中に散歩するのが趣味の男がいて――」
 俺が問うと、奴は控えめに、作品のことを聞かせてくれた。俺は真っ直ぐに、まるで睨むような目をして、奴の顔をじっと見つめていた。
「そいつが、色んな人に出会う。そして、この人はおれに似てるな、とか、こいつはおれとは違うな、とか、そういうことを考える」
 悔しいが、面白そうだと思った。
 ちょっと想像してみただけでも、主人公の心情に色んな広がりを持たせられる。夜中の散歩なんていう、その気になればすぐ踏み込めるのに、あまり触れることのない異世界。ファンタジーな気さえしてくる空間で、繰り返される出会いと別れ。それを彩るのはどんな感情だろう? 慕情? 憧憬? 敵愾心、嫉妬、友情、無関心、仲間意識……
 気がつけば、自分の作品の主人公が夜中の散歩をしている所を想像していた。いい加減にしろ! 自分に言い聞かせる。お前は、また人の物を盗み取って満足するつもりか!
「おい、あんま、へこむなよ?」
 奴は俺の肩を叩いてくれた。優しい奴だった。そいつに俺は、辛うじて苦笑いを返した。
 奴はまた、こうも言った。
「実際に夜中にうろついてみたり、したよ。
 一度なんか、梅田まで歩いていった」
「は!?」
 俺は思わず声を裏返した。ここ、石橋だぞ?
「な……何時間かかるんだよ、それ」
「5時間!!」
 にやりと笑いながら、パーにした手のひらを突きつける奴。ぽかん、と俺はアホみたいに口を開いた。
「夜中の12時に出発して、ついたら5時くらいだったよ。メモ帳持って。んで、始発で返ってきた」
「よくやるよ、っはははは!」
 もう、笑うしかなかった。奴も一緒になって大笑いしていた。だが俺は、いつもの……みんなの前で見せているピエロの笑いの裏で、別のことを感じていた。
 絶望を。
 なあ、俺よ。今までにそんな凄いことをやったためしがあるか?
 嫉妬心は、プライドの先にあるもの。そして、劣等感はプライドの裏返し。
 そこから先の俺はもう、心ここにあらずで……
 笑い疲れた頬が、じわじわと痛んで――

 ようやく考えてみる気になったのは、帰りのモノ・レールの中でだった。
 夕日が、後ろ頭にチリチリと熱い。俺は座席に座ったまま、前屈みの姿勢で、じっと床を見つめていた。周りの乗客たちが、何をやっているんだこいつは、と思って見ていたかもしれない。見ていなかったかもしれない。覚えていないのは、その瞬間、周囲が俺一人の世界になったような静けさを感じていたからだ。
 よく考えてみたら……梅田まで歩いてみたとして、だからどうだ?
 それが、小説を書く役に立つのか?
 まず、役には立たない。
 夜中に出歩く趣味の主人公だから、夜中に出歩いてみました。それも、はるばる梅田まで。
 だが、それで何が得られるだろう? 事実は小説とは違う。5時間夜中に歩き回ったからって、都合良く面白い人に出会えるわけでもない。
 まず、役には。
 まず。
 つまり……役に立たないとも言い切れない。
 ひょっとしたら何かあるかもしれない。夜中の街の風景一つ。輝くネオンサイン一つ。そんな物の中に、役に立つ何かが隠れている、かもしれない。あるいは、棒のようになった足……それこそが求める物なのかも。
 可能性は、ゼロではない。
 ふとそういう考えが浮かんできて、俺の心は突然楽になった。さっきまでの嫉妬心や、劣等感、ほとんど憎悪にも似た奴への気持ちが、一辺に薄れていった。少なくとも、俺の考えを阻害しない程度には。
 つまり、それしかないんじゃないのか?
 小説を書くために役に立つと言い切れる物なんて存在しない。
 あるのは、役に立つかもしれない物だけ。
 それも、ごくごく低い確率であたりまえ。そんな無数の「何か」を繰り返して、失敗に失敗を重ねて、その先にようやく一つ、何か掴むことがある、かもしれない。ないかもしれない。
 不条理だ。
 でも、この道はたぶん、そういう道……

 失敗したっていいよ。
 劣等感に潰されて何もしないよりは、いい。

 中央環状線の上に、橋が架かっている。もう悲鳴を挙げている運動不足の足を叱咤しながら、俺は橋を渡った。足の裏を、車が流れていく。どこまでも真っ直ぐ。緩やかに丘を登って、その先に道路が吸い込まれて消えるまで、ただただ真っ直ぐ。中央環状線は延びていく。
 橋の上から、俺は、道路の描く完全なシンメトリィを、見つめた。
 タバコでもあれば、格好つくのに。
 ふと、俺は気がついた。
「タバコ、今度吸ってみようかな?」

投稿者 darkcrow : 2006年03月25日 23:47

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